祖国に売られた元軍師の狼おじいちゃんに会いに行く話

  一

  エルナ砂漠には、一面に熱砂が広がっている。『[[rb: 智圏> ちけん]]』と呼ばれる温度緩和の聖術領域に入って、俺たちを焼く太陽の熱は和らいだが、それでも日の光を受け続けている砂粒は、陽炎をあちこちに立てるほどだった。

  砂漠用の日光を防ぐために全身を覆う[[rb: 遮覆衣> しゃふくい]]の中は、狼種の毛並みもあってかなりきつい。まるで茹でられているようだ。頭部を覆うベールの下で、ひそかに舌を出して、はあはあと呼吸をしても、うまく熱が逃げていかない。

  「アミル殿、熱くはありませんか。『智圏』に入ったとはいえ、砂漠をご存知でない方からするとやはり厳しいでしょう」

  隣を歩く護衛の蜥蜴種の男が言う。彼も日光を遮るために全身を覆う[[rb: 遮覆衣> しゃふくい]]を着ている。頭も含めてほとんどすべての部位が布に覆われている。目に当たる部分だけがうっすらと透けていて、人のよさそうな瞳が覗いている。声は少しだけこもっている。低いが、優しげな響きだ。本当に俺の体調を案じているのだろう。

  言葉は共通だが、発音は少し異なっていた。子音がやや強い感じがあるが、語気が荒いというよりも意志が強そうな印象がある。その分感情が乗りやすく、顔を隠していても表情が想像できた。俺たちの民族が操る言葉は、母音と子音が流れるような感じを与えるに違いない。きっとどんな顔をしているか読み取りにくいだろう・俺は歩みを止めて、頭を下げる。

  「お気遣いありがとうございます。ですがこれくらいは」

  「とはいえやはりお辛いでしょう。手を少しお借りしても?」

  「? ええ……」

  蜥蜴は隙間から覗いた瞳をにっこりとさせて、差し出した俺の手を取る。そこも布に覆われているが、気にせずに男は、とん、と優しく指先で突いた。途端、涼やかな風が吹いたような心地になる。

  「水辺の風がともにありますように」

  蜥蜴が祈った。

  「何かありましたら、お声がけを。聖術は身体に合わない方もおられます」

  そして俺たちは歩き始める。一つずつ砂丘を越え、ゆっくりと進む。俺には道なんか見えないが、聖術の恩恵を受けた蜥蜴の瞳には、どこに進むべきかの道筋は分かっているのだろう。

  [[rb: 聖言 > せいごん]]と祈りによる聖術が、彼らの住む国では盛んだった。俺たちアナテヤの民が扱うことのできない、言葉と祈りが起こす砂漠の奇跡だ。

  砂漠と聖術の国エルナ。地下資源が豊富――特に聖術のような技術の源になる霊石が多く産出されることもあって、エルナはここ一帯の中でも特に進んだ技術力を持っていた。この国に俺たちは侵攻し、あえなく返り討ちにされたのは、つい数年前だった。乱心のような宣戦布告、そして予定調和のごとき敗退。

  俺たちの祖国、アナテヤがまだ領土も文化も十全に残しているのは、ひとえにエルナの「まあどんな国でもそういうときあるよね、政権交代してくれれば一応政治も文化もノータッチにしてあげるけど、どうする?」という生ぬるい雰囲気でゆるっと和平が進んだためだった。アナテヤはむしろエルナから農業技術支援や学生派遣も促進され、むしろ国としての体勢は敗戦後の方が整ってさえいた。アナテヤの政治状況さえ、エルナの助言があったからこそ改善されたのだ。

  ――というのが、表向きの話である。

  「ああ、見えてきましたよ」

  砂丘をいくつか越えて、ある頂点に立った蜥蜴が言った。彼の視線の先に目を向けると、白と金に飾られた、端整な街があった。真四角の塀に囲まれ、中心には大きな湖がある。そしてその向こうには、丸い天井の巨大な宮殿。

  オアシスを囲んで作られた街並みだ。

  「あれがエルナの首都[[rb: 水鏡宮 > すいきょうきゅう]]です。美しいでしょう?」

  俺は息を呑んだ。曲線と球によって構築された、砂と炎と聖術の建築は、木を組み合わせる俺たちアナテヤの建築とは根本から異なっていた。まるでおとぎ話に聞く王宮のようだ。実際に、エルナの首都であり、まごうことなき王宮なのだけれど。

  遮覆衣の下で、俺は懐に忍ばせた手紙に触れた。大丈夫、間違いなくこの手紙はここにある。そう思って俺は安心する。

  このエルナ訪問の目的は、表向きには新米外交官の俺の挨拶となっている。戦中は軍師補佐、戦後は外交官という出世をした俺には、実際、エルナに赴いて感謝を述べなくてはならないだろう。しかし、それとは別に現王からの密命があった。アナテヤの軍師、撤退戦の立役者、敬愛する元上司であるナジブに、俺はこの手紙を渡さなくてはならなかった。

  ナジブはアナテヤにはもういない。

  敗戦後に提示された和平条約は敗戦国とは思えないほど対等なものだったが、一つの条件があった。ナジブの身柄を全てエルナに明け渡すこと。二国間の平和は、エルナという戦勝国にナジブが売られたことによるものだった。これが裏向きの話である。

  エルナほど進んでいて、人道的な戦後処理をする国がナジブにひどいことをするだろうか? そう思うものの、「ナジブさえ手に入ればアナテヤには興味がない」という処理にさえ思える。人は本当に欲しいもの以外には驚くほど冷たくなれる。そして、それと同じように、驚くほど優しくもなれるのだ。

  それを確かめたい。

  つまるところ、密命を受けた理由は――もちろん密命は断ることなんかできないが――俺はただ単に、ナジブにもう一度会いたいだけなのだ。

  ◇

  果たして、表の目的は速攻で片が付いた。

  遮覆衣を脱いで、アナテヤの儀礼服に着替えると、水鏡宮の最奥、玉座の間に連れられる。赤と金で飾られた広間だ。壁や敷物の装飾が、どれほどの値段なのか想像もつかないほど。

  要人が集まるなか、俺は少し緊張しながら挨拶をした。獅子の国王サダムは十数段ほどの階段の先に設置された玉座に腰を下ろしていて、俺を見ていた。頭を下げていても、頭頂部にちりちりとした圧力があった。年は六十半ばと聞いているが、老いや衰えは気配にはなかった。よく使い込まれ、磨かれた業物のような気配があった。

  事前に調べた通りの流れで儀礼は進んでいく。明らかに恥をかくこともなく感謝を述べて儀礼は終わりそうだった。だからつい好奇心に負けてしまう。王を見たかったのなら、この後にあるだろう宴でいいのだが、視線が痛いほどこちらに刺さるので、どうしても引き寄せられてしまったのだ。

  俺は下げていた頭を上げて立ち上がるとき、動作にまぎれて視線を上げた。

  ゆったりした儀礼服を着ているが、身体がよほど大柄なのか、筋肉の輪郭がところどころに現れている。白髪交じりのたてがみはきれいに撫でつけられており、顔には牙を見せないようにという風習で口布をかけていて、瞳しか見えない。彼は、まっすぐに俺の視線を睨み返した。

  「っ」

  慌てて目を下ろそうとすると、にいっと瞳が細まった気がした。目尻にはよく笑う者特有の小じわがあった。ばくん、と心臓が跳ねた。王の威光に当てられたのだろう。

  生意気だと思われたのかもしれない。

  平静を取り戻し、儀礼へ戻る。

  これで俺の表の仕事はほとんど終わりである。明日はエルナの外交官に公的な挨拶をするだけだ。拍子抜けするほどあっけなかった、と言いたいところだが、俺の出番が終わってからも長く心臓がどきどきとしていた。王の眼光が俺の心のにひっかかって、ちりちりと熱を持っていた。

  それはきっと、恋にも似ていた。

  ここがアナテヤでなくてよかった。そう思った。

  アナテヤでは、男が男に恋をするのはご法度だったから。

  [newpage]

  二

  [[rb: 青影森 > あおかげもり]]を背にして、エルナの砂漠は広がっている。聖術士の隊列は一糸乱れずに、もはや端正にさえ俺には見えた。聖術の紋を刻んだ鎧は頑健で、旗は勇ましくはためいていた。そして白と赤と金の意匠に、聖別された金属が誇り高く日光の下できらめていた。

  対するアナテヤの隊列はどこか歪んでいて、後ろから見る俺にとっても頼りなかった。防具は革で、それも使い古されている。槍も剣も、聖別や祈りのない裸の金属だった。兵士たちは聖術の防護もなく、暑さに喘いでいる。

  高台で軍隊のにらみ合いを見ていた俺の隣には、軍師筆頭のナジブがいた。彼は小柄な身体をゆったりした文官服で覆っている。銀灰色の毛並みに、落ち着いた色の文官服がよく似合っていた。砂漠と森の境目の暑さというのに、暑そうな様子一つ見せていなかった。ナジブが俺に耳を寄せるようにちょいちょいとやる。俺は小柄なナジブの口吻の先に耳を近づけるように腰を折った。俺はかなり大柄な方で、ナジブはかなり小柄だった。小声でやり取りをするとき、いつも俺は腰を落として彼の唇に耳を近づけた。

  身体を近づけると、彼の汗や古くいかめしい匂いがして、どきりとする。内心の高揚を悟られぬように、俺は平静を保ち、ナジブのしわがれた声を聞いた。

  「ふうむ、どうかな。アミル、お前はどう思う。所見を聞かせてくれるかね」

  「私の……ですか」

  「この戦、お主が軍師筆頭ならどうする?」

  「それは……」

  口ごもった。

  第一印象で言えば、敗退。第二印象で言えば、撤退戦だった。勝利の道筋は見えなかった。見たまま、大国と小国の無謀な戦争である。兵たちも、これまでの快進撃もあって、必死に心を鼓舞しているが、それでも絶望的な表情は隠せなかった。既にもう俺たちはこのときに負けていたといえる。

  「こっそり言ってごらん。どうせわしらしかいないんじゃから。なあに、反乱罪でひっとらえたりなんぞせんよ」

  ナジブが悪戯っぽく笑って言う。六十を目前にしてなお頭の切れる老爺は、決して微笑を絶やすことがなかった。柔らかな微笑で、本来ならエルナの砂漠まで侵攻できるはずもなかった兵たちをここまで連れてくるほど、攻撃的で狡猾な策を広げてきたのだった。

  しかし、これは……。

  俺は苦々しく思いながら、囁きで返す。

  「恐れながら……撤退になるかと」

  「何故?」

  「砂漠は最も聖術が強まります。私たちの戦いは恐らく、『いかに首都を鎮圧するか』ではなく『いかに犠牲者を少なく撤退するか』に移ると思います」

  ナジブが頷く。髭が揺れる。

  続けて、の合図。

  「森を抜けると、丘があります。そこに弓兵部隊を置きましょう。あとはできるだけ距離を広げながら撤退するしかないでしょう」

  「そうじゃな。わしも同じ考えじゃよ」

  「ですがナジブ様、私は……せっかくここまで来たのです。攻め手があるなら……」

  「それは違う」

  「えっ……」

  「軍師の仕事は戦争に勝つことじゃ。でもわしら軍師における勝利は、少なくとも戦いの勝利だけに留まらん。兵法の基礎を学塾でやったじゃろ。お前の言ったとおり、ここでの勝利は『いかに犠牲者を少なく撤退するか』になる。たいていの場合、戦争というのは、争いが終わってからの仕事が大事なのじゃから」

  「………」

  「乱心の攻め手はここまでじゃな。アミル、弓兵の指揮を頼む。私が最適な退却をするから、お前は一番意地悪な弓の陣を組みなさい。そして森から先、退却戦の指示もあなたがやりなさい。お前は教え子の中で陰湿な策が一番向いている。正しい場であれば、君はわし以上の軍師になったろうにね」

  それは最大級の賛辞の一つだった。優しい軍師という印象のあるナジブは、しかし滅多なことでは褒めないからだ。

  俺は王都に産まれてから軍師になるまで、自分より頭のいい男に出会ったことがなかった。俺よりも物を知っていて、俺よりも頭の回転の速い男は、ナジブだけだった。だから、彼に褒められたときはすごく嬉しかった。このときだって嬉しかった。恥も外聞もなくぱたぱたぱたと、年上の教師に憧れる学生のように俺の尻尾は揺れた。その気持ちはアナテヤにおける罪だったから、それを憧れのままにすることに俺は苦心していた。

  だから気付かなかった。

  撤退戦は、戦争が終わってからも――それこそ、ナジブが売られるまで続いていたということに。

  犠牲とはすなわち物資と兵の命。であれば、軍師である我々の命さえ、犠牲の一つとして俺は勘定するべきだったのだ。それに気付くころには、ナジブはエルナに売られていた。

  ◇

  宴は日が沈んで、肌寒くなるころに行われた。弦と打楽器の落ち着いた音楽が奏でられる大広間で、数列ほど並んだ長い卓に俺たちは着いている。中心の卓の長辺にはエルナの要人たち、短辺には獅子王と俺が向かい合う。簡略式の儀礼服を着ている。サダムは先ほどの俺の非礼をどう思っているのか、悪戯っぽく微笑して耳をぴこんと傾けた。人が好さそうに見えた。

  卓には、オアシスの豊富な水で栽培された葡萄やザクロの加工品や、今日さばかれたばかりの新鮮な魚が艶々と輝いて、そして塩漬けした肉を香辛料で刺激的に味付けして焼いたもの、それと穀物と煮込んだものなどが、綺麗に磨かれた陶器に乗って順番にやってくる。アナテヤの宮廷料理とは味付けも料理法も違う。ここまで香辛料を使う料理はそうなかった。

  旅の疲れもあって、塩分の濃い食事が舌に馴染んだ。下品にかきこみたくなるのを耐えなくてはならないくらいだった。外交の場ということもあったし、エルナの風習で牙を見せてはならないのだ。口布をめくり、長い箸や匙で一口分を放り込んですぐに布を締める。不便ではあるが、慣れればそうでもない。

  交わされる会話をできるだけにこやかにいなす。表の役割は終わったとはいえ、滞在期間中はずっと外交なのだ。言語がほとんど同じで助かった。やや発音は異なるだろうが、それは愛嬌の内に収まるはずだ。舐められるのはもう仕方がない。

  席に着いたままの食事が終わると、葡萄の果汁を絞って冷やしたものが振る舞われる。薬草を漬け込んでいたのか、葡萄の甘い果実香だけでなく、爽やかで複雑な酸味が香っていた。陶器の杯に満たされた果汁を飲み干すと、宴が終わりになるかと思われたが、サダムが空の杯を掲げた。

  「どれ、本日は客人もおられることだし、最後に無礼講といこう。アナテヤの新しい外交官就任を祝って」

  きいん、と鐘のように杯が鳴る。途端、音楽は会話を邪魔しない程度の音量と雰囲気だったのが、華やかに律動し始める。明るい和音に軽快な旋律が乗り、活発な打音が響く。

  広間の一辺の幕が上がり、舞台が現れた。次いで踊り子たちがやってくる。金や宝石できらびやかに飾った美しい女たちだ。肩や腹部がさらけ出された華やかな衣装。口布も非常に薄く、光の加減によって布を通して唇が透けて見えた。

  ああ、そういう感じか。確かにそういう外交もあるだろう。

  そう思って、女性たちの妖艶な踊りをぼんやりと眺めた。女性の踊りは、王が狙ったような楽しみこそ俺にはないが、純粋に素晴らしかった。男性にはない柔軟性や、細くしなやかな身体が幾何学的に波打つのは、ため息が出るほど美しかった。

  しかし、俺の視線の動きや、わずかな振る舞いで国王は俺の関心を見抜いたのだろう。彼は目元をにやりとさせて、

  「ふむ、新外交官殿はむしろこちらがお好みかな。――ああ、もちろん興味のない者は各々自由に出てもらって構わんぞ! これは無礼講であるゆえな!」

  再び、杯を弾いた。

  すると、女性たちはにこやかな表情で舞いながら広間をはけていき、入れ替わりに男の踊り子が現れた。薄く透ける口布に、身体を飾る装飾品、局部を申し訳程度に覆う股布。こちらも筋肉や脂肪の整った男たちばかりだ。

  「っ……!」

  言葉を失う俺を置いて、男たちは鳴り響く音楽に合わせて舞い始める。

  本当に退出してもいいのだろう、要人たちは何でもない事のように、ではこれで、という風に一礼しながら広間を退出していく。サダムは彼らに鷹揚に手を振って見送る。残っているのは俺とサダムの二人だけだ。男に興味のある者はほとんどいないらしい。

  「エルナは男色も女色も公的に認めとるからな。アミル殿はこちらがよかろう?」

  彼はグラスを持ったまま立ち上がり、俺の席から一つ空けた隣に腰を下ろした。相当な大柄で、座ってる状態だと、俺の頭が彼の肩に届くかどうかくらいだった。雰囲気も、儀礼中の厳格な王の様子は鳴りを潜め、どちらかというと気安い老武官のような感じだ。

  心配そうな雰囲気を読み取ったのだろう、サダムが俺の肩を抱いた。普通なら距離が近く馴れ馴れしいと思うはずなのに、彼はするりと俺の懐に入り込んで、なぜか昔から知己の間柄だった不快にさせない。彼は口布越しに囁く。

  「誰が残り、誰が出ていったかを記録されることはない。聖術が我らを隠しているからな。だからお前の母国に、お前のことが知られる心配はない。もちろん男にも興味がないなら出てもらっても構わんぞ」

  「あ……、いえ。お心遣いいただき、感謝申し上げます」

  「そら、舞台を見ろ。アナテヤでも見られん男たちだぞう」

  舞台には数人の男たちが並んでいた。豹、蜥蜴、猫、狼……誰もが整った容姿をしている。しかし、その中で銀灰色の狼だけがいやに雰囲気が違う。

  男盛りの美男子が揃う中で、ひときわ老いている上に、体中に[[rb:刻印染 > こくいんぞめ]] がなされ、装身具も多い。銀と白の色彩の中で、目元に差した紅が鮮やかだ。

  刻まれた染色は聖術の紋の形で、うなじから背中一面、両腕、下腹部に脚と彼の身体を彩っている。控えめな、ほとんどないかのような膨らみを覆う股布の紐からは金糸が伸びて、太ももの脚輪を飾っている。身体に穴を開けて身体を飾る[[rb: 穿刺装飾 > せんしそうしょく]]が耳や鼻先、胸、[[rb: 臍 > へそ]]に至るまできらびやかに彩っている。胸の穿刺装飾からは何重にも[[rb: 細鎖 > ほそぐさり]]が伸び、背中を回ってもう片方に繋がっている。それはまるで肋骨のように見えて、身体を揺らす度に艶めかしく光った。そのどれもが聖術の気配を纏っていた。

  腰や腹を小刻みに震わせて舞う度に、[[rb: 奢羅奢羅 > しゃらしゃら]]と細鎖が相打った。彼の胸や尻は絶え間なく波のように揺らめいている。艶めかしく、狼の肢体が円を描く。円は揺れて波紋のように広がっていく。

  身体は十分に引き締まっているし、筋肉質な身体で肉感的な男だ。だが若者の中では体力が追い付かないのか、他の踊り子と比べて振り付けには精彩を欠いている。専門的な踊り子の素養が恐らくないのだ。そういう意味では、男はむしろよくやっている方だった。

  当然だ。

  彼は舞踊など修めていなかった。彼が修めていたのは軍略と戦術。

  忘れることのないあの毛並み。

  「ナ……」

  言葉を飲み込む。

  ナジブだ。

  俺は平静を保つ。しかし遅い。

  「あの狼がお気に入りか? どれ、呼んでやろう」

  サダムはくいくいと指を立てて、ナジブを呼ぶ。彼は揺れながらこちらに歩いてくる。瞳は伏せられ、口布も角度で透けず、表情は読めない。だがこちらのことは気付いていないようだ。

  それなりに距離があるのに、踊り子たちは誰が呼ばれたか分かるようで、ナジブ以外は舞をよどみなく続けている。サダムは近くの皿の葡萄を一粒ちぎって差し出すと、

  「彼に奉仕をしてやれ」

  と命じた。ナジブは優美な仕草で頷きくと、口布をめくらずに、下からくぐらせて葡萄を咥えた。くるりと回りながら俺にしなだれかかってくる。垂れ目気味の瞳はなよやかな光を湛えていて、口布の向こうで柔らかな微笑を湛えている。異国の香辛料に、彼自身の老雄のフェロモンが振りまかれる。

  官僚用の口布は唇を透かすことはない。ナジブからは、同じ毛並みの若い狼に見えるだけで、俺とは見て分からないはずだ。そう思ったが、

  「う……っわ……」

  声が漏れてしまう。久々にナジブの香りを嗅いだのだ。狼獣人は特に香りへの執着が強い。それは情緒面でもそうだし、香りによって記憶や感覚まで生理的につながっているのだ。だから、軍師になったときや、初陣の戦術会議や、最後の撤退戦の記憶が脳内で爆発するみたいに膨れ上がった。サダムがいなければ、俺は大泣きしてナジブに縋りついていた。ナジブも俺の瞳を覗き込んだ。そこには驚きの色が滲み、すぐに羞恥で塗り潰される。悟られた。しかしナジブは口布の上から、俺の唇を塞ぐように、鼻先と鼻先をくっつけた。

  ナジブは二人の口布をそっとめくりあげた。唇に咥えた葡萄が押し付けられて、華やかな香りがした。男を膝にのせて口づけをかわしている。アナテヤでは考えられない、脱法的接触距離。果実が唇を割り開くから、反射的に俺は牙で潰さないように口を開く。すると、果実と一緒につるりとナジブの舌が入り込んでくる。

  「ん……ちゅっ……」

  ああ濃厚な香りがする。香辛料の刺激と、葡萄の香り、そして古めかしいナジブの匂いが、唾液と一緒に流れ込んでくる。アナテヤではすれ違いざまや、軍議のときにしか嗅げなかった香り。ためらいながらナジブの背に腕を回すと、彼は細鎖を鳴らしながら俺に身体を預けてくる。

  これは違法だ。もう言い逃れができない。エルナの王が俺たちを眺めながら、いつの間に新しく注いだのか、杯を傾けている。接吻を見られているのが恥ずかしいが、やめようとは思わなかった。

  柔らかな実がころりと舌に転がり、ナジブの舌がその上から圧力をかける。

  二つの舌に挟まれて、葡萄は哀れに潰されて果汁を散らした。酸味と甘みが広がり、香りが鼻に抜けていく。味わう間もなくナジブの舌は更に、潰れた果肉ごと俺の舌を絡め取った。果肉でも舌でもない硬い感触がある。舌にも[[rb: 穿刺装飾 > せんしそうしょく]]があるのだ。

  「むっ……じゅるる……」

  「ん、ふ……じゅぷ……」

  汁がこぼれないように啜ると、恐ろしく淫らな音が漏れた。あまりのことで俺の毛並みが一斉に騒めくと、ナジブは笑みを深めた。そしてそのまま扱くように果肉を吸い上げる。こくん、と彼は俺の舌の上で潰れた葡萄を飲み込んだ。

  「んくっ……。ふふ、おいしゅうございました」

  艶めかしい声音だった。年相応にしわがれているが、だからこそ、使い込んだ金属が持つような、滑らかで淫らな艶がその響きにはあった。

  ナジブは流れるように俺の膝から降りると、床に跪いて、俺の股間に口吻を寄せた。儀礼服の下は、いつの間にか硬く張り詰めている。

  いけない。

  「ま……待って下、んっ……」

  止めようとするが、ナジブの細い指が、口布の上から俺の唇を縫い留めた。俺が言葉を飲んだのを見て、彼は指を離して微笑んだ。それは軍師のときに浮かべていた微笑とは何もかもが違っていた。細められた瞳には、理知の氷ではなく、欲情の炎がたぎっていた。

  「どうぞ、そのままで」

  留め具が外されて、前が露わになる。下着がずらされて、硬くなった俺の陰部が跳ね現れた。

  「ほう、なかなかじゃないか」

  「ご立派でいらっしゃいますね……」

  二人が感嘆の息を漏らす。俺の雄塔は普通よりもかなり大きいのだ。中指の先から手首を越えるまでの長さに、指を回してもくっつかないほどの太さ。

  ナジブが唇を舐める。欲情が色を濃くしていく。俺の腿を割り開くように手を添えて、

  「まずはご挨拶を……ちゅっ」

  「っく……!」

  浅い口付けが先端に与えられる。優しい刺激だ。しかし、ナジブに与えられたこと、状況の異常さが俺の身体の感度を跳ね上げていた。

  「感じていらっしゃいますか。可愛らしゅうございます……」

  言い終わるやいなや、ナジブの口吻が俺の男根を一気に根元まで咥え込んだ。緩い圧をかけて、舌と口蓋に密着されたまま、奥まで迎えられる。

  じゅぷぷぷぷぷっ……!

  「んはああああっ……!」

  「どうだアミル殿、男にしゃぶられるのは悪くないだろう? 俺らが教え込んだのよ」

  「そ、そんなこと……あぁっ!」

  「んっ、んちゅっ、ぴちゃっ、ぴちゃっ……」

  俺の意識とは裏腹に、性器はナジブの温かな舌と口蓋に挟み込まれ、硬く勃起して快楽を貪っている。ピストン運動はほとんどなく、長い舌が唾液をまぶすようにぺろぺろと裏筋を擦る。

  視線を下に向けると、とろんとした瞳でナジブは一心に俺の男根にむしゃぶりついている。

  憧れで大好きで尊敬するナジブが、俺のまたぐらで性器をしゃぶっている。彼の技巧もあり、その視覚的興奮も相まって、興奮はすぐに閾値を越えてしまう。

  「あ、出る、出る、出ます……!」

  「おう、イけイけ。こいつの[[rb: 口 > クチ]]マンコは絶品だからな」

  下卑た口調でサダムが言う。否定しようと思っても、言葉を返せない。よしんば否定したとしても説得力などないだろう。このままではナジブの口内にぶちまけてしまうのだから。なけなしの理性が腰を引こうとするが、椅子に座ったままでは意味はない。我慢の域を破って痺れが甘く吐き出される。

  びゅっ!!

  びゅるるるるっ……!!

  「ん、んくっ、んくっ……」

  舌肉の上で俺のペニスが跳ねる。内腿を甘い痺れが走る。脈動の度に尿道口から吐き出される精液を、声を漏らしながらナジブが舌で受け止めた。彼の背中の向こうで、ぴんと張った尻尾が、高揚を示している。胸から垂れた細鎖が密やかに鳴る。

  射精が治まると、ナジブはちゅっと尿道の中に残った精液を吸う。

  「あひっ……」

  びりっとした鋭い感覚で、腰が震える。ぱたんと尻尾が椅子を打った。

  白い糸を引きながら、ナジブは唇を離した。肉色の舌で、口の端の精液を舐め取るナジブは、驚くほど淫靡だった。下半身、下衣には小さな染みが滲んでいた。

  [newpage]

  三

  宴が終わり、国王はナジブに「客人の世話をよろしく頼む」と言い含めて、踊り子たちと一緒に奥の部屋に消えた。性的なことも彼らの仕事なのだろう。言外に、この後もナジブに性的な奉仕を俺にするよう命じていた。

  残された俺は、ナジブに手を引かれ、王宮の浴場に連れられていた。石材で組み上げられた見事な浴場だ。明り取りの窓はないが、蒸気に満ちた中を、霊石がぼんやりと照らしていた。浴槽には、日光と聖術によって温められた湯がいつもなみなみと溜まっている。

  俺たちは口布を外し、湯浴み用の下衣だけを身に着けている。ナジブは外せる装飾は外し、下衣の他には[[rb: 穿刺装飾 > せんしそうしょく]]だけ残している。

  「男前になったな」

  とナジブは俺の顔をまじまじと見て、懐かしそうに目を細めた。数年前の俺は、きっとまだ青年らしかったのだろう。対して、ナジブの素顔は、疲れながら淫靡な陰翳をふんだんに含んでいて、俺は何も言えなくなった。

  全身に入った染色には、確かに聖術の気配があった。彼が身に着けている装飾もすべて聖術が編み込まれていた。術式は俺には解読できないが、それでもいいものではないということはこれまでの振る舞いでよく分かった。恐らく、精神の隷属化や、性欲の増進のような術式だろう。

  これは……あまりに。

  あまりにひどい。

  敗戦国とはいえ、引き換えに国はかなり便宜を図ってもらったとはいえ、それでも[[rb: 天稟 > てんぴん]]の軍師にこんな扱いを。俺は何か言おうとした。でも喉がひくひくと震えて上手く喋ることができない。あらゆる言葉も、義憤も、ただの誤魔化しにすぎない。

  誰もいない浴室で、俺は跪く。震える手で、彼の手を取った。

  「おいたわしい……」

  「お前が気にすることじゃない」

  ナジブは気まずそうに、俺の頭を撫でた。

  「さあ、湯を浴びて汚れを落としたら浴槽にお入り。長旅で疲れたじゃろう」

  かつての敵地、今は戦勝国の王宮。そこで再会した俺たちは、アナテヤの軍師とその補佐だったころよりもなぜか親密な距離になることができた。ナジブは桶で湯をすくい、俺にかけて丁寧に体毛を流した。[[rb: 遮覆衣> しゃふくい]]で全身を覆っていたとはいえ、やはり砂埃のような細かなごみは毛皮に絡みつくのだ。

  次に俺が、桶でナジブの身体を洗おうとしたが、湯をかけるだけでいい、と毛皮の揉み洗いは拒まれてしまう。

  「す、すみません、ナジブ様」

  「あ、……違う、すまない。嫌だったから拒んだわけではないんじゃよ」

  立ったまま、彼は膨らんだ胸を隠すように自分の身体を抱き、目を伏せた。憂鬱な睫毛の角度が、淡い影を落とした。化粧のように見えた目元の紅は落ちる様子がない。これも刻印染だ。湯気の中で、彼の赤が鮮やかに映えている。

  「その……、わしの身体は、他人に触られるには敏感すぎる。きっとみっともないことになる。だから、いい」

  自嘲気味に笑う。

  「……湯船に入ろう。身体が冷えてしまうから」

  俺たちは浴槽に身を沈める。少しぬるいくらいの湯は、身体に染み込むようで、筋肉の中の疲労を溶かし出すような気持ちになる。思わず息をつくと、ナジブは喉の奥でくつくつ笑った。

  「お前も、湯船につかるとため息をつく年になったのだな」

  「三十も近いですよ。この間、二十八になりました」

  「もう中年が見えているな」

  ナジブは微笑みながら俺を見上げた。そしてはっとしたような顔をする。少し手を伸ばせば、身体を傾ければ、触れてしまいそうだった。

  「アナテヤにいた頃は、こんなに近くなることはなかった」

  「取り締まられてしまいますね」

  「今のわしはきっと死刑じゃろうなあ」

  「ナジブ様」

  「すまないな、驚かせただろう。こんな身体で、あんなはしたないことを……」

  「…………」

  俺は息を吸った。アナテヤでの法を、ナジブはきっと気にしている。そして実際、今のナジブがアナテヤに帰ったところでまともな暮らしはもうできなかった。それはナジブ自身よく分かっているはずだった。

  だから言った。

  「[[rb: 青影森 > あおかげもり]]の撤退戦を覚えていらっしゃいますか」

  「? あ、ああ……」

  「あのとき、ナジブ様は私のことを褒めてくださいました」

  「……そうだな」

  「私は、褒めて下さったときのことを忘れていません。兵法を[[rb: 学塾 > がくじゅく]]の中で最も早く修めたとき。対抗試合で最高成績を取ったとき。初陣での指揮のとき。そして青影森での撤退戦」

  「褒められる度にお前は尻尾を嬉しそうに振りたくっておったのう」

  「はい。……私は、ナジブ様を深く尊敬しております。尊敬という言葉に収められないほど」

  「……そうか」

  ナジブは何か言おうとする沈黙を落とした。

  数秒して、

  「お前が当時どう思っていたか、わしには分からなかった。でも今なら分かる。きつかったじゃろう」

  そう言って、ナジブは手を伸ばして俺の頭を撫でた。

  それだけで。

  それだけで、俺は、すべてがとろけそうな気持になる。報われたような気持ちになる。ナジブは何一つ報われてなんかいないのに。

  「ナジブ様……私は、今でも」

  しかし彼は首を振った。手を外して先ほどの距離に戻り、浴槽に身体を預ける。

  「愛する相手くらい選びなさい」

  「しかし」

  「今のわしはただの[[rb: 老男妾 > ろうだんしょう]]じゃよ」

  俺は何も言えなくなる。

  男妾。

  サダムの手の平で踊る踊り子。

  ナジブの自身への深い嫌悪が、諦念と共に暗く滲んでいた。

  「英雄色を好むというが、あの男は特別だ。性豪の賢王。私が身体を渡せば、アナテヤは悪いようにはしない。そういう話じゃった。だからお前が何も気に病む必要はないんじゃよ」

  「そう。そしてそいつは祖国に売られて、頭も身体も俺のものになったってわけさ」

  突然に声がかかった。

  闖入者。

  浴室に現れたのは、獅子王サダムだった。身に着けているのは俺と同じく湯浴み用の下衣だけで、逞しい筋骨隆々の身体が惜しげもなくさらされている。湯気で毛皮がぺったりとするせいで、全身の筋肉や骨の輪郭が浮き出ていた。耳の上や後頭部のたてがみは、かさばるのか紐でまとめている。下腹にはべったりと精液がこびりついていた。

  ナジブとほとんど同い年とは思えないほどに、サダムの身体には生命力や威厳がみなぎっていた。

  俺の感情はともかく今は外交中だということに思い至り、慌てて湯船から上がり、礼をしようとする。だが彼は面倒くさそうに手で制した。

  「ああ、構わん。悪いが勤務時間外なんでね。まあ気にせず、ゆっくり浸かっててくれや。なかなかいい風呂だろ? 設計から水路の聖術加工まで俺の指揮なんだぜ」

  彼は床に転がっている桶を手に取り、丁寧に毛に絡みついた体液を流していく。体毛に絡んだ精液が、湯に混ざって流れていく。

  あらかた落ちたくらいで、サダムは湯船に入ってくる。

  「っあぁ……。生き返るねえ。やっぱ一日の終わりは風呂だな」

  彼が湯に身を沈めていくのに合わせ、ナジブはひどく自然な顔で、サダムの膝に身体を乗せた。

  「おっ、愛弟子の前でもいちゃつきてえってか? 可愛いねえ。うりうり」

  「ち、違っ……! これは……!」

  数瞬遅れて、顔を赤らめたナジブが身体を離そうとするが、丸太のような腕に抱きかかえられて逃れられない。身長も身体の厚みも、子供と大人のようだった。恐らく、一緒に風呂に入る際はそういう姿勢を取るように、数年のうちに教え込まれたのだろう。本人の意思を離れて肉体が動くまでになっているのだ。

  サダムは腕の中の彼に白混じりの豊かなたてがみを擦りつける。それはまるで両想いの恋人たちが行う睦み合いのように見えた。

  「んっ……」

  「ほれ、[[rb: 口 > クチ]]開けな、元軍師殿。愛弟子に見せつけてやろうぜ」

  「あ、やっ……!」

  おとがいに指をかけて、サダムは強引にナジブに上を向かせる。獅子の巨大な唇ががばりと開き、伸ばされる舌を迎え入れるように、ナジブが唇を開いた。空中で絡められる舌肉がいやらしい音を立てる。

  ぴちゃっ……ぴちゃっ……。

  くちゅ……くちゅ……。

  「ん……、んちゅっ……んむ……」

  一瞬だけ拒んだが、しかしすぐに拒否は溶け去る。目を閉じて、舌を絡めるのに意識を集中するナジブ。彼の唇からはどちらのものとも分からない唾液がこぼれて湯船に落ちる。蒸気に混じって二人の香りがこちらまで届いてくる。それは恐ろしいほど甘く、雄臭く、俺の興奮を煽る。敬愛する軍師と聖術国家の王、どちらも俺よりずっと上位の雄なのだ。ナジブの名を呼ぼうとするが、うまく喉が動かない。目を離すこともできない。

  「ナ……ナジブ様」

  声を漏らすと、ナジブははっとした顔をする。彼の唇はすっかりサダムを受け入れているが、それでも腕だけ突っ張るようにして、拒もうとした。それは健気でいじらしく、いっそ涙ぐましささえあった。

  「あっ……、や、獅子王様、いまは……アミルが……」

  「キス気持ちいいだろ? ほら、舌を絡め合わせたり、歯をなぞられたり……。二人で混ぜた唾液も飲んじまいな」

  「んぐっ……んんっ」

  だが獅子王はナジブの拒否を気にも留めない。彼の舌肉を伝って唾液がナジブの口に流れ落ちていく。強制的に上を向かされている彼の喉仏が上下するのが俺にも見えた。

  「んぅっ! ん、んくっ……、こくっ……」

  「へへ、飲んじまった。王の唾液だぞ。うまいか?」

  「んっ……、お、おいしいです……」

  「そうかそうか。たんと飲ませてやるからなあ」

  低い猫撫で声で、唾液を一方的に与えるだけの、餌付けのようなキスが続けられる。繰り返しナジブの喉仏が上下する。それでも彼の興奮がどんどん高まっていくのが分かった。

  やがてナジブがサダムの腕にしがみつく。押しのけようというのではなく、激流の中で丸太に捕まるような動作だった。

  「ふぅ……っ! んっ! んんっ……んん――――ッ!」

  ぎゅっとサダムの腕を握りしめて、ナジブは湯船の中で身体を震わせた。眉を寄せて、髭が膨らんでいる。それは明らかに絶頂だった。でも湯に精液の塊は見られない。

  「あ……、わ、わし……」

  「キスでメスイキしちまったなあ。え? しかも愛弟子の前でか。恥ずかしい爺さんだな」

  「う、うぅ……」

  言いながら、サダムは老男妾を抱え上げる。彼はすでに硬く勃起しており、湯浴み着を押しのけて、肉の塔がそそり立っていた。それは俺が見たこともないほどの巨大さを誇っている。握りこぶしほどの太さに、俺の肘ほどまである長さ。王という立場に恥じない穂先に、ナジブの雄孔があてがわれた。

  「じゃ、次は俺の面倒を見てもらおうかね」

  もしかしたら湯船自体に性的な機能の術をかけているのかもしれない。そう思うほどすんなりとナジブの肛門は巨大な塔を飲み込んでいく。菊門は驚くほど柔軟に広がり、肉槍が収められていく度にナジブは嬌声を上げた。

  「あぁっ……あんっ……! ひああっ……!」

  「おぉ……柔らけえなあ」

  それは苦しそうにも聞こえるが、甘いよがり声のようにも聞こえる。声は情欲に湿って、獅子王に媚びていた。俺の胸が締め付けられるような気持ちになる。

  「どうだ外交官――いや、アミル元軍師補佐よ。こいつの頭も身体も、全部俺のもんになっちまってるんだぜ」

  「ど、どうしてそんなこと……」

  「好きだからさ」

  サダムはナジブを犯しながら、ぎゅうっと抱きしめる。屈辱に赤く染まった顔は、しかし愛おしそうに頬をとろかしていた。

  「見事だったぜえ、あの撤退戦。敵国の首都を目の前にして退却。最大の戦果と最小の被害の敗退。なかなかできる判断じゃない。それに森中に張り巡らされた罠に、渓谷の弓兵。されたくねえこと一通りされちまった。あの極限状態で過不足なくできる限りの嫌なことを、だぜ? 俺ぁもう参っちまったね。ぐらっと来ちまった。ああここに俺と張り合える奴がいたんだ、こんなところにいたんだ――ってな。でも残念ながら、アナテヤは乱心王の侵攻だったって言うじゃねえか。権力も国もどうでもいいけどよ、こんな最高の軍師がいなくなるなんざ、世界の損失だと思わねえか? そりゃあ――欲しくてたまらなくなるよな」

  べろり、とナジブの頬を舐る。

  「あひっ……!」

  「一番グッと来たのはよ――こいつは撤退戦を、アナテヤ復興まで見てたことだな。と言っても見てたことそのものじゃないぜ。国という本当に大事なものを一つ。それ以外は完璧に捨てたんだ。素敵な軍師だ。だがな、何てったって、俺は王だからな。欲しいものは全部ぶん捕りてえのよ。こいつが捨てた命も魂も尊厳も、もちろんこいつ自身もな」

  言いながら、獅子王はまるでおもちゃのようにナジブを扱う。両手で抱え、乱暴に上下させる。その度に彼の前立腺が貫かれているのが分かった。

  「あ……! はぁんっ……! あんっ! やっ!」

  「そら、愛弟子の前で無様にイっちまえ! 肉奴隷の淫乱軍師様よぉ!」

  「ああぁっ! やぁ、あっ! あっ! アミル、み、見ないで、見ないでっ、くれっぇ……! あ、あ、イく、イく、王様ぁ、イきます……っ!」

  ナジブが身体を縮める。獅子の腕の中でがくがくと震える。メスイキしたのだ。ぎゅっとつぶった瞼からは滴が流れている。

  しかしサダムはメスイキしているからといってピストンをやめる男ではなかった。絶頂したばかりで敏感な内部を執拗に擦られ、ナジブは自身を拘束する腕にしがみついている。

  ばちゅん! ばちゅん! ばちゅん! ばちゅん! ばちゅん! ばちゅん! ばちゅん! ばちゅん! ばちゅん! ばちゅん! ばちゅん! ばちゅん! ばちゅん!

  「やあぁっ! ああっ! あんっ! んあっ! あいっ!」

  「敗者マンコたまんねえ……! おら、悦がってねえでケツ締めろっ!」

  「はひっ! あひっ! はいぃっ!」

  「ぐ……出すぞっ、受け取れええぇぇっ……!」

  「はああぁぁぁんっ!! ありがとうございますっ! 中出しありがとうございますぅっ!」

  ばちゅん、と深く打ち付けて、サダムが身体を震わせた。結合部から白い粘液が漏れて、浴槽の中で霧のように広がる。射精したのだ。胎内で脈動するペニスの輪郭が透けて見えるようだった。

  射精後の虚脱がほとんどない[[rb: 質 >たち]]なのか、彼は一度だけ大きく息をついただけで、ナジブから肉棒を抜いた。

  「んあぁっ……!」

  喘ぎ声を漏らしてへたり込むナジブを残し、王は浴槽から上がる。ナジブの身体を支えようと俺は彼の肩を掴む。だが感度が増しているのか、彼は身体をびくんと震わせて振り払った。それを見てサダムはちょっと笑った。

  荒い息のまま浴槽の縁にもたれかかるナジブの耳を軽く撫でて、立ったまま手近な桶でまだ半勃起のままの男根に湯をかけた。尿道口に引っかかっていたねっとりした精子を洗い落とすと、俺を見下ろす。

  「そういう論理から行くと……俺はお前も気に入ってるんだ。弓兵の指揮、あれはいやらしかった。あれはアミル殿の指揮だろう? なあ、アナテヤは暮らしにくくないか? エルナに来てもいいんだぜ」

  「えっ……」

  サダムの声は思いのほか真面目だった。俺はそれに心を持っていかれそうになる。叩く手の平の強さや広さ、腕の太さの気配、それに彼の纏う支配者としての気迫が、俺を従わせようとしていた。雄としての格が違いすぎる。産まれながらにして国を従え、人を支配することが当然だという王の偉容。

  それに、何よりナジブはもうアナテヤにいないのだ。

  「な、なんで……私を……」

  「お前も好きだからさ。宝を略奪するのは王の仕事だが――原石を磨くのも王の嗜みってわけ」

  直後、サダムは豪放磊落に笑って俺の肩を叩いた。

  「がはは! そう不安そうな顔をするな、外交官になったばかりじゃあ国を投げ出せないわな。……ま、ちょっと考えてみな。悪いようにはしねえからよ」

  [newpage]

  四

  客用の部屋に通される。[[rb: 水鏡宮 > すいきょうきゅう]]は頑健な塀に囲まれ、中庭を向く内側には植物が植えられ、華やかな幾何学模様の装飾が壁一面に施されている。その様は、まるでサダムのようだ。厳格な老練の王の顔をしておきながら、内面に一歩踏み込めば、様々な表情を見せてくる。そのくせ、王としての顔を外すことはしないのだ。

  窓からは夜の砂漠特有の、冷えた風が流れ込んでくる。聖術で乾かした毛並みを微風が撫でていくのが心地いい。『[[rb: 智圏> ちけん]]』の温度制御が効いているのか、冷たすぎることはない。夜の砂漠は冷えると聞いていたが、涼やかである。軽く伸びをすると、疲労した身体がこきこきと鳴った。

  俺は口布を付け、睡眠用にゆったりした儀礼服を着ているが、ナジブは変わらず踊り子の装いで、きらびやかな装飾の他には口布と股間の小さな下衣しか身に着けていない。窓から入ってくる青い月光に濡れて、ナジブはひどくはかなげに見えた。老練の軍師というよりも、寄る辺ない娼婦のように見えた。

  「ナジブ様、お疲れでしょう。こちらに」

  感傷を引き離すように、俺は片隅のテーブルと椅子のセットから、椅子を引き出す。ナジブは一瞬だけ迷ったが首を振って椅子を断った。

  だから二人で窓辺に並んで、風に当たる。火照りの残る身体を風が通り過ぎていく。

  「寒くありませんか」

  聞くと、こくんと頷く。

  「ああ。この[[rb:穿刺装飾 > せんしそうしょく]]は聖術が編み込まれておるから」

  「寒さも暑さも緩和できるんですか。『智圏』の個人版ってことかな……。でもすごいですね。アナテヤでは寒いときは着込むしかないのに」

  ナジブは自嘲気味に鼻を鳴らした。

  「温情じゃろうな」

  「温情?」

  「わしはこの上に服を着ることを禁じられておるから。……ほら、わしが服を着ていると面倒が多いじゃろう?」

  「あ……」

  ステージから降りたときの振る舞いや、口淫の手慣れた感じ。そして先ほどの浴室の、広がりきった肛門。ナジブは、恐らく獅子王に幾度となく犯されているのだろう。淫乱奴隷、という猥雑な単語を俺は思い返す。

  「……悪人というわけではないんじゃろうけどなあ」

  ナジブは冴えた夜空を見ながら言う。

  「法も商いの整備も、あの男の手腕はすさまじい。事実この国はアナテヤの遥か上を行く。今後も、紛うことなき賢王として語られるじゃろう。しかし……わしはもう、サダムに心身ともに屈服していて、まともな目では見られないんじゃ」

  「……それは、……」

  「アナテヤはどうだ?」

  夜空から目を離さずに彼は国のことを聞いた。

  あからさまに話題を切り替えられた。でもそれは俺にとっても都合がよかった。

  「復興は進んでおるか?」

  「え、――ええ、問題なく。そう、私はそれをお伝えするために参ったのです」

  俺は慌てて、部屋の隅に整えてある[[rb: 遮覆衣> しゃふくい]]の裏から、隠し持った手紙を取り出す。怪訝な顔で受け取ったナジブだったが、現王のサインを見ると、表情を緩めた。

  「ふふ、皇太子……現王殿下もご立派な字を書かれるようになりましたな……」

  爪の先で、ナジブは風を丁寧に破る。そして内容を読んだ。俺は内容を読んだわけではないが、アナテヤの復興の進み具合の報告が書かれていた。

  一語ずつ噛みしめて味わうように、ゆっくりとナジブは文書を読み進める。俺は何も言わない。文書がめくられるときに擦れる音と、風が窓枠に当たって逆巻く音だけが響く。ナジブの頬は、久々の孫に会ったときの祖父のように、柔らかくなっている。

  皇太子――現王の学塾の面倒もナジブは見ていた。だから実際、祖父のような気持ちなのかもしれない。ナジブには結婚相手も子供もいなかったし、親類もいなかったから。皇太子が学塾を卒業したときも、ナジブは我がごとのように喜んだ。軍師としての、皇太子教育係としての幸せな記憶の残滓が、その頬に残っていた。

  「よかったのう」

  ナジブはそう言って、丁寧に文書を破った。元の文言が分からなくなるほど細かく。そして器型にした両手に乗せて、夜風に差し出した。砂の混じった風に、文章がさらさらと消えていく。手の平の紙が全て風に乗るまで、ナジブは手の平の器を掲げていた。

  そして、風にゆらゆらと翻弄されながら紙片が流れていくのを、俺たちは静かに待った。最後の一辺が風に飲まれたとき、ナジブはため息をつくように言った。

  「でも、誰もわしを助けてはくれないのじゃろう」

  「あ、……その、……ナジブ様……」

  俺には返す言葉がない。助けることはできない。だってこの軍師を売ったアナテヤはきっと繁栄する。男に犯されたナジブはもうアナテヤには帰れない。祖国も水鏡宮も等しく生き地獄だ。

  反応を見越していたのか、さしたることでもないかのようにナジブは微笑んだ。

  「すまない。意地悪を言ったな」

  そして彼は俺の手を取った。多くの書物をめくるために肉球のすり切れた、長い時の痕が刻まれた小さな手の平が、俺の手を引く。それは彼の耳に導かれる。柔らかな毛並みにさりさりと指を撫でられ、[[rb: 穿刺装飾 > せんしそうしょく]]に触れさせる。

  「んっ……」

  くすぐったいのを我慢するような、ささやかな喘ぎ。

  続いて言う。

  「耳は聴覚」

  彼は俺の手を滑らせて、様々な[[rb: 穿刺装飾 > せんしそうしょく]]に触れさせる。その真意が俺には分からないが、恐ろしく真摯な響きをしていて、止めることはできない。

  「瞼は視覚。鼻は嗅覚。額は思考」

  瞼に開けられた黄金の環、鼻孔をまたいで垂れ下がる飾り、額に輝く宝石。

  それぞれの点をなぞると、彼は唇から、ちろりと舌を出して俺の指を咥えた。そこには黄金の装飾が輝いている。

  「ちゅっ……そして舌は味覚と言葉」

  「あの……何を……」

  「わしの身体感覚は全てあの王に流れている。五感も、思考も、言葉さえ、わしの全てがあの王様のものなんだ」

  「……!」

  ぞっとした。

  反抗も逃亡も、思考の段階で把握されているのだ。こいつは俺のもの、という獅子王の言葉は、比喩でもなんでもない。本当にナジブは所有物になり果てていた。秘密も個人もあったものではなかった。サダムに所有される男人形。

  ナジブは俺の手をそっと自分の胸に触れさせる。敏感な箇所なのだろう、ひく、と身体が震えた。怯えた小動物を思わせる気弱な震え。そして俺の手の中で、彼の乳首を貫いた穿刺装飾が、ばちん、と衝撃を放った。

  「っん……!」

  喘ぎ。

  俺は驚いて手を離す。痛いほどではない。しかし心構えなく受けるには強い衝撃。

  「い、今のって……」

  「乳首には不定期に刺激が来る」

  淡々と続けながら、彼は俺にほとんど裸のような身体を広げて見せた。両腕両脚、そして下腹部には鮮やかな[[rb:刻印染 > こくいんぞめ]]が施されている。聖術で永久的に体毛の色を変える技術だ。

  「そして体中の刻印はな、隷属のほかに、わしを発情させてもいるんだ。目が覚めてから眠るまでずっと――いや、眠っているときまで、この身体は刻印で強引に発情させられている。怖くても痛くても恥ずかしくても悲しくても、わしの身体はそれを欲に変える」

  切ない声だった。それは悲しみによるものだけだと取るには、艶がありすぎた。この告白にさえ、ナジブはきっと欲情している。アナテヤに戻れない悲しみも、弟子の俺に告白をする屈辱も、サダムに犯される屈辱さえ――彼は淫情をたぎらせる薪として貪欲に乱れていく。

  再度、彼は俺の手を取った。その手は頼りなく、そして震えている。とても拒むことはできない。ナジブは俺の手を、自身の股間に導いた。

  薄布越しにナジブの男根に触れると、とくん、と恥ずかしそうに脈動した。そこは硬く勃起している。だが、あまりにも、体格に不釣り合いに小さい。消え入りそうな声でナジブは言う。

  「いつも後ろばかりだったからか、あるいは何か聖術があったのか……わしのはこんなに小さくなってしまった。もうどこにも帰れんだろうな」

  ナジブの両手が俺の手を握る。縋りつくように、彼は俺の手の平を額に当てた。

  「なあアミル、わしのことが少しでも哀れに思うなら――」

  言いながら、ナジブは俺の手を引いて寝台に倒れ込んだ。寝台で、ナジブを押し倒したような恰好になる。

  「――この愚かな爺を慰めてくれないか。その慰めだけ抱いて、わしは明日から肉人形になれるから」

  「し、しかし……」

  そんなことおっしゃらないでください、そう言いそうになった。だがそれは欺瞞だ。ナジブに向かってそんなことはとても言えなかった。俺は帰れば外交官としてそれなりに裕福な人生が約束されている。男と恋はできなくても、それでもナジブよりはずっと人間らしい生活ができるだろう。そんな俺が、ナジブに何かを言うことは許されない。

  赤らんだ顔が、自嘲に歪む。細い腕が鎖に彩られた胴を抱いた。瞳が濁っている。

  「それとも、こんな汚い身体の爺は嫌かね」

  俺は彼の自嘲を、口布越しに唇を塞いで押しとどめた。

  ◇

  娼妓ということもあってナジブの毛皮はある程度手入れされているのか、状態は悪くない。加齢のため指どおりはよく、砂や埃が絡まっているような不潔さはない。そっと彼の頬に手を置くだけで、ナジブの身体は切なげに震えた。

  寝台で覆いかぶさり、鼻の頭にキスをする。ついばむように、軽い音を立てる。口布がもどかしい。俺はためらいながら互いの口布を外し、素顔を露わにする。そして唇を合わせた。

  「んっ……」

  舌はまだ入れない。鼻の頭からマズルを絡めるように滑らせて、ゆっくりと耳の[[rb:穿刺装飾 > せんしそうしょく]]を[[rb: 舐 > ねぶ]]った。つるりとした感触で、金属の味がする。

  耳の次は額。そして瞼と口づけを続ける。凌辱の檻の中では与えられないだろう、甘い愛撫を心がける。まるで両想いの恋人たちが交わすような愛撫を。アナテヤには男性同士の色本は流通しないから、男女の交わり方を想像しながら、俺はナジブに優しく唇を滑らせる。二人の銀灰色の口吻の毛皮が擦れて気持ちいい。粘膜とは違う種類の快さがある。

  ナジブの手を、寝具に縫い留めるように握る。互い違いに交差した指で、俺の手がきゅっと握られる。

  「アミル……」

  細い声だ。でも燃えている。踊り狂う娼妓の熱がそこに隠れている。俺はその炎を舐め取るように唇を合わせた。

  「っちゅ……ん、ぁ……」

  とろけ切った声が漏れる。まるで想い人と交わる生娘のようだった。けれど舌の動きは驚くほど手慣れている。俺の舌肉を迎え入れるように吸い、情熱的に絡めてくる。ねだられるまま、オレは唾液を伝わせて渡す。

  ぐ、ぐ、と俺の身体を確かめるように手が握られる。それがたまらない気持ちにさせる。

  唇を離して、俺は彼の口の端からこぼれる唾液を舐め取る。もうどちらのものか分からないが、どちらでも大した違いはない。そのまま下に向かい、首に鼻先を埋める。目を閉じて彼の体臭を吸い込むと、びくんとナジブが震えた。

  「あっ……!」

  湯の残り香と、香辛料の気配が染み付いている。そして記憶よりも濃くなった古木の香り。熟成された男の匂いだった。そして注意深く嗅ぐと、男とは異質な香りもする。それはアナテヤでよく嗅いだ――俺は俺の性向を矯正しようとした時期がある――雌の放つフェロモンに似ている。目を開けてみると、ナジブは目をそらしていた。

  「ナジブ様……?」

  「犯されるうちに……発情が雌のものに近づいてきたんじゃよ」

  「……いい匂いだと思います」

  事実だった。なよやかな芳しさが、古木のずっしりした香りと合わさって、深みのある香気になっているのだ。ナジブのフェロモンを吸い込み、首を軽く食む。皮膚に牙の先端が触れるほどの甘噛みだ。それでもナジブはとろんとした瞳で息をついた。

  こすこすと腹に硬いものが当たる。ナジブの勃起だ。

  「す、すまない……! 腰が、つい……!」

  気にしていません、と伝えるために。俺は彼に一瞬だけのキスをする。そして手を握り直し、俺は下にずれていく。そして腿を、胸で押さえるような体勢で股布と対面する。滑らかな生地を、ささやかな大きさのものが突き上げている。止め紐に牙をひっかけてずらすと、ぴん、と小さな勃起が露わになった。

  「っ!」

  思わずまじまじと見てしまう。大きさは俺の親指ほどだろう。まるで精通前の子供の性器だ。先端に皮が余り、つぼみのようになっている。それでも血流の鼓動に合わせてぴくぴくと切なそうにしていた。

  よほど恥ずかしいのか、ナジブが身をよじる。しかし老爺と青年では筋肉量が違う。逃れることはできない。

  「触らなくていいっ……! そんなとこ……!」

  「可愛いですよ」

  「っ……!」

  言葉を飲み込んだ隙に、男根を舐め上げた。ささやかな玉袋ごと、下から上に舌を擦りつける。余った皮の先からこぼれてくる先走りを舐め取ると、わずかなぬめりがあって、体液らしい塩味がした。

  「あひっ……!」

  反応を見ながら男根を咥える。勃起はしているが、硬さもかなり緩い。ほとんど半勃ちだ。男性機能がほとんど奪われているのだろう。匂いも男性らしい香りは薄く、発情のフェロモンが漂っている。

  狼の長い舌でくるみ込み、柔らかく摩擦させると男根が跳ねた。俺は飴をしゃぶるように唾液をまぶしながら男根をしゃぶる。

  ぬっちゅ、ぬっちゅ、ぬっちゅ……。

  舌先をそっと包茎の中にくぐらせて、先走りでぬめる亀頭に舌を這わせる。ナジブが今にも泣きそうなように眉を寄せる。

  「は、離してくれぇっ……っ! 出る、出てしまう……!」

  欲情と倫理の狭間でナジブが身をよじった。男に愛撫をしたことがない俺でも達してしまうほどナジブの身体はもう開かれてしまっているのだ。彼の抵抗は、おそらくその意志さえ興奮の薪になっていた。舌の中で彼の雄はひときわ大きく跳ねて、とぷとぷと液体を漏らした。

  「あぁっ……はぁあっ……!」

  俺の舌の中で、ナジブの雄が何度も跳ねて液体を吐き出す。射精は長くなく、数秒ほどで吐精が終わり、彼は深く息をついて脱力した。精液の粘ついた感触を想像していたが、思っていたよりもさらさらとしている。舌に転がして味わってみると、先走りよりもやや濃いくらいだ。

  つぷ、と口を離すと、身体を起こしたナジブが器型にした両手を差し出してきた。

  「き、気持ち悪いだろう、吐いていいから……」

  頬を緩ませる。味も質感も、精飲には抵抗がある。でも、俺の精液を飲んでくれたナジブのものを吐く道理はなかった。舌に散った精液を集めて、ナジブの小柄な身体を抱きしめて一息に飲み干す。嚥下の瞬間に歪む表情を見られたくはなかった。

  しかし、たぶんそれもお見通しだったのだろう。抱き締められているナジブは腕の中から手を伸ばして、俺の頬を撫でた。

  「無理をしおって。吐いたところでわしは気にせんよ」

  「ですが……」

  「じゃが、嬉しかった。礼を言おう」

  抱いたまま寝台に転がる。背中から抱くような形になる。ナジブの欲情は少し落ち着いたようだ。俺はまだ射精してしないし、ナジブの香りに当てられて興奮している。だが自身の欲望を強いるようなことはしたくなかった。ナジブが気持ちいいだけの情事をして、あとは抱擁と語らいだけをしようと思ったのだ。この先の長い時間を耐えるための温もりを少しでも与えたかった。

  寝台は植物を編んだ骨組みに綿と織物の寝具が敷かれていて、驚くほど心地いい。埋もれるようにして、ナジブを抱き直す。同じ狼獣人だし、毛並みも同じ色だが、大柄な方の俺とかなり小柄なナジブではそれなりに体格差がある。しかしこれだけナジブは小さかっただろうか。

  あのころよりは俺も筋肉が付いたし、ナジブだってそれなりに老化が進んでいるだろう。でもこれは骨格から妙に薄くなっている。そんな老い方があるだろうか。あれだけ頼もしかった知将の身体が、今はこんなにも細くはかなげで、いとおしい気持ちと一緒にちりちりとした気持ちになる。思わず強く抱き寄せると、ナジブが苦しげに息を漏らした。

  「あっ……」

  「すみません、強かったですか」

  「そうじゃない」

  腕の中でナジブは身体を反転させて抱擁を抜けた。ナジブは俺を押し倒して下腹部にまたがる。見下ろすナジブの瞳は、先ほどよりも強く淫情に乱れていた。悲しくてみっともなくて切なくて恥ずかしくて、それら全部の表情を性欲が塗り潰していた。

  「お前。身体を鍛えているじゃろ。……ふふ、わしなんかすぐ押しのけられるじゃろうなあ。嫌だったら、殴ってくれても構わんからな」

  するりとナジブの手の平が、俺の胸に触れる。ちょっとしたふれあいではなく、明らかに性欲を持った触れ方だった。そしてちゅっと音を立てて俺の胸を吸った。

  「ど、どうして……」

  「言ったろう? わしはずっと欲情していると。一度イッたくらいで許されたことなんかない。精液に塗れて、凌辱の中で気絶するようにしなくては眠れない。そういう身体になったんじゃ」

  彼はにっこりと笑いながら、俺の儀礼服を緩めて、肉棒を露出させる。そこはずっといきり立っている。

  「語らいでは遠い。抱擁では寒すぎる。わしを温めてくれるのは雌の悦びだけじゃよ」

  ずちゅん、とナジブが腰を下ろした。潤滑油もないのに彼の肛門は湿り気を帯びていて、にゅるりと俺を飲み込んでしまう。慣らしもなく、彼の肉孔は全てのみ込んで、尻肉が俺の下腹部に当たった。その途端、彼は体中を痙攣させる。

  「あ、――っ! はあああぁぁっ! 来たああぁっ! イく、イく、イくっ……!」

  待ち望んでいたとばかりに甘い嬌声が響いた。熱い肉がきゅうきゅうと俺の肉棒を締め付けてくる。ナジブの胎内はふわふわとして、柔らかな快楽が肉槍を包み込むのだ。それは手よりも口よりも素晴らしい感触。

  年頃を迎える前の女の子がするような、内股の座り方でナジブは身体を震わせる。甘勃ちした前からはぷっくりと粘液の玉がこぼれそうになっている。

  「ん、ん、ん、気持ちいい……!」

  ゆっくりと尻を上げる。反射的に俺は手を出すと、彼は手を掴んだ。それを支点にして、尻を俺に打ち付ける。その度に[[rb: 細鎖 > ほそぐさり]]が相打り、小さな男根は健気に揺れて先走りを散らした。

  ぱっちゅん、ぱっちゅん、ぱっちゅん、ぱっちゅん……!

  絶頂を一度越えてきついだろうに、ナジブは気にせずに腰を振りたくっている。亀頭が肉壁を擦り、かき分けていく。ナジブへの尊敬と愛情がおかしな形ではたらいて、俺もイきそうになってしまう。

  「……ナジブ様っ、もう……!」

  「ああ、ああ、出していいからなあ、[[rb: 胎内 > ナカ]]でイってくれえ……っ!」

  びゅううううっ!!

  びゅるるるるるっ!!

  「あ、熱い……っ! ああぁっ、わしも、また……あひぃぃっ……!」

  肉筒の中で、俺の男根が脈動する。甘い痺れが尿道を駆け上り、間髪入れずに吐き出される。精液を求めて肉壁がいやらしく絡みつく。

  間を開けずに絶頂した肉の、にゅるにゅるとしたぬめりを帯びた熱が、亀頭や棒の胴にぴったりと吸い付く。凄まじい快感。二人で尻尾を絡ませながら、自分の上で射精を受け止める老爺がたまらなく愛おしくなる。そして悲しくなる。だが情事は止まらない。ナジブは俺の唇を奪う。

  「ちゅっ……ちゅる、ちゅぷ……。ふふ、わしの胎内は[[rb: 悦 > よ]]かったか?」

  「え、ええ……」

  「それは重畳。しかし――まだわしを慰めてくれるじゃろう?」

  ナジブの舌が俺の唇を割り開く。敏感な牙をゆっくりとなぞり、舌を絡め合わせる。相手が手慣れているから、牙がぶつかるようなことはない。柔らかく温かく、互いの匂いが混ざり合うのが分かる。

  ねっとりした接吻で、俺の肉槍が力を取り戻すと、ナジブはにやりと笑った。神話に聞いた淫らな男色神のような微笑みだった。

  ナジブの細い腰が揺れて、ぬっちゃぬっちゃと音を立てる。柔らかな粘膜に亀頭や裏筋が押し付けられ、飲み込まれる。

  「あぐ……!」

  「ふふ……気持ちよかろう? 娼館でな、こうやって中を泳がせてやると、生半可な男はすぐ漏らすんじゃよ……」

  「ま、待って、待って下さい……!」

  ぬっちゃ、ぬっちゃ、ぬっちゃ……。

  ずるずる、ぐちゅぐちゅぐちゅ……。

  柔らかな泥のような感触。肉の沼の中を泳がされて、切迫感が太ももの付け根にわだかまっている。さっき射精したばかりなのにまた睾丸がうずいていた。

  このままだと遠からず射精してしまう。自分の射精を遅らせたい一心でナジブの前に触れた。萎えている男根は、それでも先走りを漏らしていた。非常に小さな、親指ほどの雄は愛らしいとさえ思えた。

  「あ、そこは……!」

  ナジブの直腸がうねる。小さくなっているが性器の感度も上がっているようだ。

  包皮を剥き、亀頭を露出させると、幼児のような桃色の粘膜が現れる。だが幼いのは色だけだ。尿道口から裏筋にかけて、環状の[[rb:穿刺装飾 > せんしそうしょく]]が施されている。

  しごいて刺激するつもりだったが、無理にやれば痛めてしまいそうだ。それが興奮させるものだとしても、痛みを与えたくはない。

  だから彼の亀頭に指を這わせた。先走りの雫を指の腹で潰し、円を描くようにぬるぬると撫でる。

  「あっ、あひっ……! おちんちん気持ちいい……っ!」

  おそらく前を触ってもらうことはないのだろう。がくんがくんと大げさなほど身体を揺らしてナジブは悦ぶ。だがすぐにはっとして、身体を反らした。

  「んぅっ……、アミル、駄目じゃ……! 離してくれ、漏れる……!」

  構わない、と思った。 途端に、ナジブの男根から液体が弾けた。同時に、強く直腸が締まり、搾り取るような膣圧がかかる。

  開脚した彼の股から、温かく透明な液体が吹き出す。八割がた、俺の顔や胴にかかる。

  潮吹きだ。

  「あああああぁぁぁぁっ! ひああぁぁっ!」

  「く、あ……! ナジブ様、俺も……! すみません……!」

  どぷ、どぷ、どぷ、と彼の沼の中で俺は射精した。

  射精の間もナジブの腰は円状に揺さぶられ、腸圧をかけられ、搾られてしまう。

  「あ……来た、来た……っ! 熱い、熱いぃ……!」

  俺は二度目の射精、ナジブは潮吹きとメスイキ。それぞれの絶頂を、俺たちは硬く抱き合って耐える。大きな川に落ちて、手を離せば一人でどこか知らないところに流されてしまうような気がした。

  やがて絶頂の波を越えて、俺たちは抱擁を解く。

  でもまだナジブの瞳は淫情で暗く濁っている。

  「ふふふ、この中でお前のおちんちんが震えておるぞ。可愛らしいのう……」

  黄金と大理石の腕輪の光る手で、ナジブは本当に愛しそうに下腹を撫でた。きっとそこには俺の二回分の精液が淀んでいるはずだった。

  ナジブは俺に身体を預けて来る。ぺろぺろ、ぴちゃぴちゃと俺の顔や胸の体液を舐め取って、淫猥に囁いた。

  「さあアミル――、ただ一瞬でいい。ほんの刹那だけ、この[[rb:売爺 > ばいた]]の悔恨を忘れさせてくれ」

  そしてまた、ぱっちゅんぱっちゅんといやらしく腰がうねった。

  [newpage]

  五

  何とか、俺に限界が来る前にナジブが限界を迎えた。十回ほどの射精と数え切れないほどのメスイキ。訳の分からなくなるほどの性交の果てに、ナジブは失神した。

  彼の身体を拭き、寝台の濡れていないところに寝かせる。

  控えめな明かりが灯された薄闇の中で眠るナジブは、そのときだけは先ほどまでとは違って安らかに見えた。軍師だったころのナジブの面影がそこにあった。

  「すみません……」

  眠る彼の傍らに跪いて、紅色の刻印が差した目尻からこぼれていた涙を拭った。結局交わってしまった。こんなことをしてしまって、何か意味があったのだろうか。そう思わずにはいられなかった。

  いかに優しく、彼を痛ませないようにしたところで、やったことはサダムと変わらないのではないか――

  「よう。逢瀬は終わったかい」

  感覚を監視しているのだから、分かっているはずだ。だがそれを態度に出すわけにはいかない。

  「サダム様……! 見苦しいところを、失礼いたしました」

  「そういうのいいって。勤務時間外と言っただろう」

  姿勢を正して頭を下げると、鬱陶しそうに苦笑してサダムが手で制する。そして寝台の枠に腰を下ろした。

  「くく、こんなにびしょびしょにしたか。どうだ、とんでもないお漏らし爺だっただろう?」

  「それは……」

  「ま、そういう風にしたのは俺なんだがね」

  「…………」

  獅子王は喉の奥で笑うと、濡れた寝具をとん、と爪の先で突いた。

  「日は高く昇り、風はささやかに吹くだろう」

  その祈りが吟じられると、ふっと温かな風が吹いて、寝具が一瞬で乾いた。天候の緩和まで行うのだから、濡れた布を乾かすくらい一瞬なのだろう。

  眠るナジブにかかった布団を直してやり、獅子王は言う。

  「こいつの精神はとうに壊れているが――ずいぶん気丈に振る舞ったようだな。涙ぐましい男だ」

  いかめしい響きをしていた。でもその向こうに柔らかなものがあった。

  彼は立ち上がると、俺をまっすぐに見下ろす。

  「どうだ、エルナに来ればナジブをお前にあてがってやることもできるぞ」

  「は……い?」

  「くく、言っただろう。俺はお前も好きなんだ。アナテヤで子供を作られちゃあもったいないからな」

  「そんな人生は、私にはもう……」

  「ナジブへの償いか?」

  「…………」

  「分からんなあ。何で目の前のナジブを放って、アナテヤの復興が償いになると思うのかね」

  「それは、……」

  俺は口ごもった。図星だったからだ。

  ナジブは苛烈な軍師だ。本当に取るべき勝利を決して違えない。だからエルナの敗戦も、考えられる限り最善の戦果をとった。選ばれた唯一はアナテヤの復興なのだ。だから俺はそれに力を尽くしたい。

  でも、どうして目の前で眠るナジブを置いていけるのだろう――

  沈黙した俺の前に、サダムは手の甲を差し出した。そこには稲穂色の毛皮にまぎれて、よく似た黄金色の[[rb:刻印染 > こくいんぞめ]]があった。

  「俺のものになれ、若き軍師」

  「…………」

  「お前がしたい償いは何だ? 壊れた師を放って国にうつつを抜かすことか? まつりごとを回し、国をよくすることがお前のしたいことなのか? それとも――師のそばで暮らし、壊れた心を共に背負いたいのか? もしも後者なら、この刻印に口付けをして俺のものになれ。こいつの隷属紋をお前にも分けてやろう」

  「ナジブ、様と――」

  それはなんて甘い提案。

  どれだけ願ったことだろう。ナジブにずっと恋をしていた。輝ける知略、広大な見識、俺よりもはるかに上位の、憧れの師。彼と一緒に暮らせるとは。

  たとえ歪んでいても、それはまごうことなき、いつか願った生活だった。

  俺はナジブに恋をしている。致命的なほど深く。

  だから、俺は彼の申し出に[[rb: 否 > いな]]を突き付けることができない。

  「どっちですか」

  だから聞いた。

  「なに?」

  「俺とナジブ、どっちが目的だったんですか――俺がいたからナジブ様はこうなったのですか。ナジブを壊して、それを餌に俺をおびき寄せたんですか」

  聞いたのは、論理的に考えていたことではなかった。ただの直感だ。でもそれを言葉にすると、妙な真実味を帯びているような気がした。

  和平後の交渉にナジブを要求すれば、アナテヤは差し出すだろう。そしてナジブを餌にして、撤退戦を演じたもう一人の軍師である俺をおびき寄せた。

  この策は賭けだ。しかし掛け金のない賭け。

  俺が来ない可能性もあるが、ナジブは手に入る。その後、おまけのように、俺がやって来るのを待てばいい。それだけで二人の軍師を手中に収めることができる。

  「…………」

  サダムは笑みを深めた。

  それでもう分かってしまった。

  ――正しい場であれば、君はわし以上の軍師になったろうにね。

  ナジブはそう俺を評した。

  何てことはない。

  同じことを、サダムは侵攻と撤退戦の手際だけで、俺の能力をそう判断したのだ。

  「お前は……最低だ」

  涙がこぼれた。熱が俺の頬を流れ落ちていく。

  「俺はただ、ナジブ様と一緒にいられればよかったのに」

  サダムの分厚く、広い手を取る。俺は跪いて、その手の甲に口付けをした。

  ◇

  翌日、外交官としての仕事を終える。帰途につく前の夜、サダムはナジブとの挨拶の時間をこっそり与えてくれたのか、部屋で荷造りをしていると、ナジブがやってくる。俺を認めると、こちらに近づいてきて、感じてしまうのも構わずに深く抱擁した。

  「ありがとう。これでわしはこれから人形として生きていける」

  小さく囁くが、こちらも返す。

  「また、来ます。そして、一緒に暮らしましょう」

  「空約束だ。そんな望みはいらんよ」

  微笑するナジブに、俺は首を振った。そして、右手の甲にうっすらと浮かんでいる刻印染を見せた。ナジブは目を見開く。

  「お前、これ……!」

  「すみません、ナジブ様。俺は、あなたを選びました」

  「なんてことを」

  ナジブが抱擁を振り払った。銀灰色の毛並みを逆立てて、淫情を押さえ込んで、怒りの燃える瞳が俺を睨む。

  「自分が何をしたのか分かっているのか!」

  彼の手が振り上げられる。これまで、皇太子への指導だけでなく俺に対しても、ナジブは声を荒げるさえしたことがない。だから俺は虚を衝かれて目をつぶってしまう。

  が、予期した衝撃はやってこない。

  恐る恐る目を開けると、ナジブはだらりと腕を垂らしていた。耳はぺたんと力なく平らになって、涙を流さないようにまばたきが何度も繰り返された。

  「お――お前は国を捨てるのか」

  張り裂けそうな声をしていた。

  「アナテヤは確かに私たちには合わない。でも悪いことばかりじゃなかったはずじゃ。老王は乱心こそしたが、かつては厳格で正しい男でおられた。皇太子も聡く、心優しい。きっとこれから善政を敷かれるだろう。間違えることはないだろう。でもお前は彼らを捨てるのか。お前は、たかが私への愛で国を捨てるのか」

  「ナジブ様」

  「私は一夜でよかった。ほんのひとときあれば、それだけでよかった。きっとあの思い出だけでこれからも心を温めることができた。なのに……わ、わしはお前にも見損なわれたのか? わしを支えなければならないと思ったのか?」

  涙が彼の瞳に溜まっていた。こぼれるのをこらえようとして、唇がめくれて牙があらわになっている。俺はたまらなくなって、彼の肩に触れた。今回は振り払われることはなかった。

  「俺は――あなたと一緒にいたいんです」

  「ば、馬鹿者。お前、軍師じゃろう、私の弟子じゃったろう。自身の心を切り落とし、大局を見るものだと教えたはずじゃろう。それを、それを、お前……、わたしなんかのために……」

  ナジブの両手が儀礼服を掴んだ。ぽたぽたと彼の涙が伝って、布や床に小さな染みを作った。額が押し付けられ、熱い涙が布を通り、毛皮に染みてくる。

  脚の力が抜けて床にへたり込んだナジブを、俺は抱きしめる。弱々しく彼の腕が俺に回される。

  「すまない」

  と彼はか細い声で言った。そして黙った。

  しかし俺は謝られる資格などなかった。撤退戦の最後の詰めを、ナジブの軍師としての最後の仕事を、俺がめちゃくちゃにしてしまったのだ。サダムさえ壊せなかった軍師としての最後の尊厳を、俺が壊したも同然だった。

  俺はナジブを抱きしめたまま、頬の涙に唇を寄せた。ナジブは涙を流していたが、抵抗しなかった。

  手の甲の刻印は、サダムへの忠誠を誓うものだ。アナテヤの復興がひと段落付けば、俺はエルナに渡ることになる。そしてナジブの身柄を引き受け、高位文官として転身することになる。

  でもそんなことはどうでもいい。ナジブと一緒に暮らすことができる、それでもう何もかもいい。そう思った瞬間に言葉がこぼれだした。

  「ごめんなさい。――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、…………」

  謝った。何度も何度も謝った。謝罪はとめどがなかった。ナジブがアナテヤを去ってからずっと、彼に謝りたかったのだと、そのとき気付いた。