残業を倒して二十二時。急げば次の電車に間に合うが、私からはもう走るだけの体力が失われていた。
金曜の夜。どうせ明日は休みなのだ。歓楽街はまだまだ活気がある時間だし、せっかくなら飲んで帰ってもいいではないか。
眠らない街を歩く。安居酒屋はだめだろう。混みすぎているはずだ。私は視線を走らせながら街の奥まで進んでいく。仕事終わりの疲労と解放感で、私は普段なら行かない通りまで足を延ばしてしまう。
路地裏にその店はあった。
「コンカフェ……」
健全版キャバクラみたいなものか。キャバクラには興味はないし、営業のメッセージをもらうのも面倒だ。連絡先の交換がNGのこういう店の方が私には楽しめるのかもしれない。
歩くのも面倒だし、もうここでいいだろう。
居酒屋より割高だが、若者がいるならそれでいい。バーに行けば接客はどうしても片寄ってしまうし、キャバクラはきちんと接客してくれるが、面倒くさい。
それになかなか、刺激が効いたコンセプトじゃないか。
死体を埋めるために呼び出された、なんて。
殺したい者なら何人もいる。
もちろん殺しなどしないが。
場末らしく(これもコンセプトの一つかもしれない)古びたドアを開けると、上部に取り付けられたベルが掠れた音を立てた。
客はいない。小ぶりな店内には、たてがみの長い、狼種の青年だけが立っている。酸化して黒味の増してきた血がこびりついた純白のシャツに、黒いスラックス。ギャルソンスタイルの店員が振り返る。毛並みにはさすがに何の細工もしていないのか、柔らかそうな体毛が流れにそって生えている。ずいぶん美しい毛並みだ。よほど手間をかけているのだろう。
たてがみが非常に長い。重く、密な毛並みが前に垂れているせいで顔の上半分が隠れている。目が見えないので、表情が読み取れない。飄々とした声色で青年はこちらに駆け寄ってくる。背丈は私と変わらないが、すらりとした体格だ。
「や、いきなり呼びつけてすまないね」
ああ、そういう設定か。
呼びつけた、血痕、つまり、この店員が何者かを殺害し、私が死体を埋めるために呼び出された――という筋書きだろう。
「構わない。いつものことだから」
青年は、おや、という感じで尻尾を揺らした。ノってくれる客、と判断したのかもしれない。
コンセプトというなら、私もノろうじゃないか。
「いま『処理』だけしているんだ。だからしばらくあの席で待っていてくれないかな。何か飲みたかったら言ってくれれば」
「分かった」
『処理』って何だ、と思ったが、聞けなかった。丁寧にクリーニングのかけられた牙のちらちらと覗く唇から、血なまぐさい単語が出てこられると、何かに心を触れられそうな感じがあった。今血を出しているから、とか、焼いているところ、とか言われたら、芝居とはいえちょっと恐い。飄々としたこの若者は、何だか本当にそういうことをしでかしそうな雰囲気がある。
メニューをもらって、ぱらぱらとめくってみる。証拠隠滅オムライス、大盛肉のカレー、モツ焼き……。
おい。コンセプトはどうした。埋めるものを食わせる気じゃないか。
青年がおしぼりとお冷を置きながら、小さく言う。
「モツもすぐ出せるよ。新鮮だし」
「君が捌くの?」
「もちろん。けっこううまいんだぜ。君が頼まないなら一緒に『処理』しちゃうけど……」
だから『処理』って何!
慄きながらモツ焼きとハイボールを頼む。
「ハイボールでいいの?」
「……ボトルは入れないぞ」
とんとんと端末に注文を登録しながら、青年は聞く。営業かと少し身構えるが、彼は口吻のふもと、唇の端を引きつらせるようにして笑い、「そうじゃなくて」と続けた。
「これから運んでもらうわけだし。アルコール入れていいのかなって」
「ああ――車、だったな。運ぶの」
「いつも通り乗り捨ててくれればいいけど……どうする? ノンアルもあるよ」
「いや、構わない。ハイボールとモツ焼き」
「分かった。ま、もっとすごいことお願いするわけだし、愚問だったかな」
青年が端末を閉じかけるが、私は「あ、注文追加で」と止める。
「何かおつまみでも追加するかい?」
「君も飲む?」
「え、いいの? 嬉しいな」
と青年はにっこりと笑った。
この笑みが怖いのだ。白狼の美しい肢体に、つかみどころのない飄々とした声。本当にそういった経験があってもおかしくない感じがある。
店員はハイボールを追加した。バカ高い酒を入れられたらどうしよう、と一瞬思ったが、それなりに優良店なのかもしれない。
注文を取った店員が引っ込むと、途端に静寂が押し込める。BGMもなく、厨房に防音をつけているのかモツ焼きを温める音も聞こえない。耳が痛くなるほどの純粋な静寂。今しがた誰かが殺されたばかりの、重たい静けさ。その再現なのだろうが、普通に怖い。緊張させられる何かがこの空間にある。
やがて店員が二杯のハイボールとモツ焼きを持ってくる。粒の混じった赤いタレがかけられている。匂いからすると辛味噌のようだ。
「お待たせ」
「ありがとう」
「君が『処理』を手伝ってくれたから少し楽になったよ」
やはり『処理』の一環なのか……。
「まあ食べるくらいはね。君も殺すのは大変だろうし」
「へえ、労わってくれるんだ。酒で?」
「仕事終わりの一杯が一番うまいだろ」
「確かにねえ」
私たちはグラスを合わせて乾杯する。この仕事をするだけあって、店員は酒に強いようだ。一気に半分ほども空けてしまう。
「お客さんは殺したい人いる?」
「え?」
「社会人でしょ。殺したい人くらい、いるんじゃない」
「いないわけじゃない」
青年が座ってモツ焼きをくわえている私を覗き込む。まるで覆いかぶさるみたいに。上背もあるし、体格もいい狼人で、かなりの圧迫感がある。
さらりと流れたたてがみの隙間から、いやにぎらぎらとした瞳が覗いた。
「殺してあげようか」
「き――君にメリットがないだろ」
「お酒をおごってくれたしね。お礼だよ」
炎症のように爛々とした瞳と視線がぶつかる。逆光で影の濃い瞳だ。赤みがかった黒色。彼が浴びた返り血と同じ色をした瞳孔、その鋭利さ。赤い三日月のようだ。不吉な月。しかし美しかった。
数秒見つめ合うと、青年は顔を傾けてたてがみで顔を隠した。そして下半分がにっこりとほころぶ。
「お客さん、ガッツあるなあ。けっこうみんなビビるんだけど」
「いや……ビビったよ。けっこう怖いじゃないか」
私はハイボールを空けると、退店することにする。ツーショットやらもあるが、そろそろ帰らなくてはならなかった。
「今日は来てくれてありがとう。次はちゃんとおもてなしするからさ」
「気にしなくていい。忙しいんだろう」
お代を渡そうとすると、ぎゅっと手を掴まれる。意外にしっかりとした肉球の感触、骨ばった指、冷たい指先。瞬間、腕を引かれる。体勢を崩され、よろめくように店員に身体を引っ張られる。
耳元で、低く獰猛な声がささやく。店員として奉仕する側ではなく、私を呼びつけて屍を埋めさせる主としての声。肉食獣の響きが私の心臓を揺さぶる。たてがみのベールが乱れて、またあの瞳が私を射抜いた。
「誰にも言うなよ? 俺との秘密な」
「わ……わかった」
「ん。お客さん、また来てね」
ぱっと飄々とした声手を離される。自由になる。
からら、とベルを鳴らして、私は退店する。
店員は慇懃に、深く一礼した。