シェパードおっさんの童貞が欲しいはなし 4話

  今は使われていない倉庫群。

  端末のGPS情報を辿りやって来た扉の奥からはドーベルの悲鳴に似た声。

  間違いない、事件に巻き込まれたコリーとドーベルの二人はここにいる。

  確信した俺の眼前に広がっていたのは、見知らぬ男に組み敷かれている15も歳下のバディの姿だった。

  ────後ろ手に拘束され、抵抗することも許されず嬲られた血塗れのボーダーコリー。

  15年前の風景に重なる。

  どす黒い血の乾いた跡。

  白と黒の境目がおぼろげになる程に汚された斑な毛並みが物語るのはそれまでに加えられた暴行の数々。

  握った両の手からは憤りにより爪が容易く掌の皮膚を突き破って流れ落ちる。鮮血は石の床に幾つもの小さな円を作った。

  「シェパちゃん。容疑者をこんなにしちゃうなんて君にしては大失態だけど。何があったの。」

  「……申し訳ありません。」

  はたと気が付いた時には音のしない人形を殴り潰していた。

  皮の剥げた指の痛みなどどうでもいい。

  相棒が被った損害に対する報復とも違う。

  警察官としての俺が持ってはいけない感情。

  出来ることなら殺してやりたい。ならず者への一方的な憎しみだった。

  「取り調べは私にやらせてください。」

  「医師の見立てでは暫く面会謝絶の絶対安静。脳へのダメージが大きくて高確率で後遺症が残る恐れもあるらしい。」

  「奴だけは絶対に俺が聴取します。」

  「話きいてた?そうでなくても……今のシェパちゃんには任せられないな。」

  日を跨いで降り出した雨が薄っぺらい倉庫の屋根を打ち付ける。

  パトカーのサイレンも署長の小言もその辺の警官たちの会話も全て雑音だ。

  燻っていた、自らの足で潰しかけていた火種が僅かに、だが確かに熱を持ち始めていた。

  夜半の雨程度では消えない火が。

  「いや~、悪いね。ほんとにオゴってくれんの?」

  「少々癪ですが……一本取られたのは俺の方なので。」

  「ま~た敬語が出てるぞ。」

  「うぐ……黙って飲め。大好きな酒だろう。」

  終業と共に振り出した雨が道行くサラリーマン達のスーツを僅かに濡らしていた。

  予報はずれの夕立に傘を持たず屋根と屋根の間を小走りに掛ける大人たちは浮かれ切っており、金曜の夜の賑わいが歓楽街を包んでいる。

  不本意だが、はたから見れば今日に限っては俺もその浮かれた奴らのひとりなのだろう。かといって心の中まで無礼講という訳にはいかない。

  何故なら目の前の尊敬すべき飲んだくれのバディという年中無礼講男を嫌というほど普段から目の当たりにしているからだ。

  『反面教師』という蔑称がこの世で最もしっくりくる。

  「おういシェパ!お前の歓迎会なんだからお前も飲め!先輩命令だ!!」

  「俺の名前はシェパードだ。先輩、なんでそんな……」

  「コリー!!」

  汗のかいたビールジョッキは折り返し地点まで減っており、そろそろおかわりの声があがるだろう。

  そいつを俺の鼻先に突き付けて、グラス越しに俺を睨みつけるのは白と黒のビビッドモノトーンな毛並みを持った、本当に不本意だが俺の先輩でバディの男だった。

  「俺のことはボーダーコリー!コリーって呼べ!センパイなんて名前じゃねーの!!」

  「こっちの名前もまともに呼んだことが無いくせに何を言って」

  「ほら!!はやくはやく!!」

  「……コリー。」

  「にへぇ。」

  何がおかしいんだか、アルコールで緩み切ったマヌケ面をさらに潰して店員にもう一杯をせびるその男はいやに俺に突っかかってくる。

  普段から嫌というほど仕事で関わっているのだから、こんな時くらい俺以外とつるめば良いものを。

  見ろ、警察署だろうと俺達新人の歓迎会だろうと俺に進んで話しかけるような男は居はしない。

  元々酒なんか好きでも何でもない。誰かとバカ騒ぎするのも性に合わない。

  それは学生時代から変わらない。

  「どうして俺にそんな風に接するんで……するんだ。」

  「いぃ?」

  「皆、俺の風体を怖がって近寄りもしない。面白い話だって出来ない。こんな俺と絡んだって楽しい事は何も無いだろう。」

  「そんなことないよ~!」

  事もあろうかコリーのやつは俺の首筋に鼻を埋めて大きく息を吸い込んだ。

  これは知らなかったことなのだが、何の前触れもなく行使されるセクハラというのは、被害者となってみれば存外どうすればいいのか分からずに硬直してしまうものだ。

  後の人生において全く役に立たぬ教訓を味わう俺だったが周りの宴会人達はそんな俺達に気付くことは無い。

  むしろ時代が時代だ、スキンシップと言われて反論出来る事柄では無かった。少なくとも俺とコリーに取ってだけはそれ以上でも以下でもない。スキンシップなんかよりも程度の低いウザ絡みだ。

  「俺、シェパのこと好きだぜ。ニオイも!」

  「……ハッ! な、何をやっている!!」

  「俺のニオイも嗅ぐ? 犬獣人なら全然フツーだぞ、尻でもいいけど。」

  「しっ……!?」

  「アハハ、ジョーダンジョーダン! シェパをからかうの面白すぎ!!」

  顔が熱い。自分でも真っ赤になっているのが分かる。

  酔ったからじゃない。ここまでコケにされるのは人生で初めての出来事だったからだ。

  もしもこの男がひと回りほど年下なら脳天に大きなコブを建設しているところだろう。

  幸いというか生憎というか今は酒の席、相手は今後長らくお世話になる先輩バディ。大丈夫だ、自分を律するのは誰よりも得意だと自負している。

  ボーダーコリーの顔面を鷲掴みに引き離すなど造作も無かった。

  抵抗はしているのだろうが少なくともこの署を見た限りで俺に力で敵う男は見当たらない。

  鍛錬は嘘を吐かない。

  「うぐぐ、相変わらずチカラつよすぎ……」

  「鍛えてますので。」

  「……へえ。でもオトナはこっちも鍛えないとな?」

  むにゅっ。

  俺がコリーの顔面を鷲掴む代わりにコリーの方も俺の弱点を探して右手を泳がせた。

  泳がせた、というにはあまりに直線的に向かった先。

  鍛え上げた両腿の中心に鎮座するスラックスの膨らみ。端的に言えば、その……俺の陰茎および睾丸だ。

  「でっっっ……シェパお前、これ勃ってないよな……マジ?」

  「…………」

  「何食ったらこんな成長を……ぐほおおおお!!?」

  誰も人の頭部が強打される瞬間の音を聞いたことなど無いだろうが、この日この瞬間同じ店にいた者は一様にそれを体感することが出来たのだから皆コリーに感謝してもよいだろう。

  ガラスの灰皿やら金属鈍器やらで頭部を殴打する犯人、俺の拳は流石にそこまでは硬くないにしろ疑似体験をしたと言っていい。

  過ぎたセクハラに人の金での飲み会だ、文句は言わせない。

  大の字で伸びきったコリーは漫画みたいなタンコブを抱えて飲み会が終わるまで眠っていた。

  その間ずっと不機嫌そうにガンを飛ばしたような俺に声を掛ける者も皆無だった。

  余談ではあるがこれを機に俺が先輩に対して敬意を払ったり敬語が出てしまうことは完全に無くなったのだった。

  現在より15年ほど遡れば古い署の電子的システムなんてものはロクに使い物にならない。

  情報媒体も紙が主流の時代だ。

  事務所の書庫を漁る時刻は既に20時を過ぎており、夜勤の者も夕食に出払っていて無音の空間がもの寂しい。

  そんな中俺が確認しているのは分厚いファイルの人事資料、顔写真をアテにページを捲るのは俺の太指である。

  「……あった。年齢は俺の5つ上、就職動機は……ふざけているのか。」

  履歴書を見る限りまともな人間ではない。

  何よりまず字が汚かった。学校で習うような書体には見えない。

  というか……自己PR欄はおろか学歴欄すら空白で、写真も寝ぐせの主張が強い。これは今でも同じだったな。

  タレント無し、家族構成無し。

  およそ世間一般の人物情報ではない。呆れて紙を捲る手が、次のページで止まった。

  「なんだ……これは……?」

  同時刻。休憩室。

  今日の夜勤は俺を除いて3名。俺のバディのコリーと先輩の甲斐とバーナードが何やら卓を囲んでワイワイやっているではないか。

  飯を食っているような雰囲気ではない。

  「っだああああ、また負けた!相変わらずツエーなあ!!」

  「おいコリー、お前イカサマやってんだろ。いい加減教えろよ。」

  「……やめた。」

  「おいおい勝ち逃げか?」

  絵柄のついた紙切れの行く末に連動して少額の金銭が移動する。

  何枚かの人物像がコリーの懐に収納されたのち、そいつは詰まらなそうに立ち上がった。

  「だってツマンネーもん。お前らとはもうカードも賭けもやんねー。」

  「もう行くのかよ。新人バディクンに当てられたかぁ? ははは!」

  「……そうだな、シェパのゲンコツ貰うのももうゴメンだしな。」

  残ったコーヒーをひと息に、自販機横のくずかごへ。

  これから始まるであろう勤務に備えた一本の煙草が静かに煙を吐いた。

  腕時計を確認しながら虚空を眺める目にはこれから始まるひと仕事の予感。

  そして丁度煙草の火が手元まで達したころ呼び出しに訪れる後輩の足音。知っていたかのようなタイミングで返事をするコリーは既に灰皿で鎮火を終えていた。

  「コリー、通報だ。すぐ出られるか……先輩方、ここで何をやっていたんです?」

  「ほいほい、救える市民のために迅速に出動しましょうね。カギは?」

  「……はあ。車は備えてある、出るぞ。」

  賭博に身を投じていた同僚に貸しを作りつつ立ち回る要領の良さ、それだけは目を見張るものがあった。褒めるとすればそれくらいだ。

  署内部の通報はまた改めて行うとして俺はパトカーにこの身を詰め込んだ。

  ハンドルを握るのは一応後輩である俺の仕事だ。何よりいつアルコールを摂取しているかも知れないこの不良刑事には頼まれたって運転席を渡せない。

  「……数年でバディ4人目。素行に問題でもあるんじゃないのか。」

  「人事の資料でも見た?直接聞いてくれりゃ何でも答えるのに。」

  「……」

  「俺と組む奴らがみんな優秀だったんだよ。その証拠に3人とも昇進で本部行きだ。シェパも偉くなりたいなら俺には媚びへつらってくれていいぞ。」

  「それだけは天地がひっくり返っても無い。」

  「ニシシ、知ってる。そういうとこ好きだぜ。」

  何を尋ねたところでこんな風にはぐらかされるのは飽きるくらいに経験している。バディの俺を子供のように扱うのだ。

  惜しげもなく歯を見せて笑う横顔が、俺は嫌いだった。

  「被疑者確保。多少の抵抗はありましたが問題ありません。ひとまずは公務執行妨害にて連行します。」

  『りょうかい。くれぐれも気を付けて帰っておいで。』

  それから半年、刑事としての仕事にも慣れてきた頃、俺たちバディの検挙率は既に署内でも群を抜いていた。

  非意欲的な勤務態度、正直俺8:コリー2くらいの仕事ぶりだと言いたいが不思議とやりづらいとだけは思わなかった。のらりくらりとしているようで意外と抜け目がない、経験値の差だろうか。

  それに署長も署長だ、俺が連絡を入れるたびまだまだ俺を新人か子供でも扱うような口調で少し不服が残っていた。まあ彼にとっては俺などヒヨっ子もいい所なのは分からなくはない。

  「いや〜、市長さまさまだね。前の市長んときは道路一本塞ぐにも馬鹿みたいに時間掛かっちゃったってのに。知ってた?市長と署長、高校の先輩と後輩らしいよ。」

  「そうなのか。」

  「おいおい反応薄すぎ!ベンガル市長になってから街の治安も良くなって、俺たちもすげー働きやすくなった!市民へのタレントの一斉調査でタレント絡みの悪質な犯罪は激減、この流れは全国に広まりそうだな。」

  俺が社会に出るよりもずっと前から市長は虎獣人、ベンガルという人だった。署長からの連絡ひとつで市政への働きかけは基本的に全て通過。人間関係というものに重きを置かなかった俺でさえ少しばかり考えを改めうる程だ。

  タレント、稀に個人に発現する異能の力というのは俺にとってはさして問題にはならない。そもそもタレント自体が個性の延長ほどの些細な内容である上に、俺は他人の能力による干渉を受けない特異な体質、つまりそういうタレント持ちだったからだ。

  「いや〜シェパが初めていきなり犯人にキスしたときはビックリしたわ、発情期かと思ったぜ。」

  「……仕方ないだろ。」

  そして俺の唾液には他人のタレントを打ち消す効力がある。大気に触れた瞬間ただの分泌物と化してしまうため、使用には直接の経口接触しかないのだ。

  今更そんな行為についてどうこう思ったりはしない。と言いたいところなのだが理性と感情とは必ずしも一致せず、恋愛だとかちゃらちゃらしたものの経験に乏しい俺にしてみれば重大な覚悟を持って行為に及んでいる。それを知ってか知らずかコリーは茶化してくる。

  「お前の軽口も俺のタレントで打ち消せればな。」

  「へぇ、そゆこと言う?」

  「試してみる?」

  パトカーが急停止した。

  俺が無理矢理助手席のシートベルトを締めていなければ隣のバディは頭からフロントガラスに突っ込んでいたことだろう。

  後続車の有無も気にせず全力のブレーキだった。

  「それ以上揶揄うならここから走らせるぞ!」

  「うぉっ……なんだよいきなりデカい声出して。お前から言い出した冗談じゃねえのよ。」

  「……」

  再び車が走り出す。少しムキになったと反省し気まずさを覚えた俺はまっすぐ前だけを見て署への道筋を辿った。

  どうして熱くなったのかはわからない。

  ただなんとなく、コリーにだけはそう言う事を言われたくなかった。

  とある連続事件を追っている時だった。俺たちは地元に拠点を置くタイガー製薬へと調査に訪れていた。

  現場に落ちていた鎮静剤が当製薬会社のものか裏を取る為だ。

  一般的に流通しているものとは成分が一致せず、市販のものではない事だけは分かっていた。

  「そ、それはまだ治験段階のものです。結果が出て早ければ来月にも流通を開始する見込みの……」

  「まさか、我が社の社員を疑っているのですかな?」

  事態が飲み込めず縮こまっている製薬部門のコウモリ獣人の主任、そのの横にいるのは獣人種ゆえか標準より恵まれた体格の社長、アムールという虎の男だ。年頃からか富ゆえか贅肉を蓄えたのも相まって余計に部下が小さく見える。

  「疑うかどうかはこれからの判断になりますが、まずは社員への聴き取りを要請します。この薬を入手できた『全員』に。」

  「「「全員!?」」」

  少なからずこの反応は予想していたが隣のコリーまで叫ぶとは思ってもいなかった。

  何を度肝を抜かれた顔をしている、お前の仕事だろうが。

  「念の為伺います、この鎮静剤を入手できたのは部署の人間だけですか?」

  「いやそれは、関わってるのは製薬開発部門の者ですが……区画ごとに障壁がある訳ではないので他の部署であっても入室さえすれば、完成品のサンプルを持ち出すことは幾らでも……」

  「それって開発フロアにいる全員、100人以上の取調べをするってコトか!?日が暮れちゃうって!」

  「社員全員の時間を拘束するとなれば人員稼働や諸々のスケジュール調整が必要になる。諸手を挙げて協力という気にはなれないのですが。」

  猛獣特有ののギロリと強い眼光が俺を刺す。かと言ってそんなものに押される俺ではない。

  しっかりと相手を見据えて堂々と操作に臨むのが俺なりの誠意。そうして事件を解決に導くのも俺の誠意なのだ。

  「犯人確保の為です。どうか。」

  「……わかりました。スケジュールを組ませますのでそれまで応接室でお待ちください。」

  「げっ。」

  「協力、感謝いたします。」

  「ひとつ聞いてもいいですかな。その事件、というのはどういったもので?」

  「……ここのところ市民が行方不明となる事件が続いておりまして、詳しくは話せませんが今回のものも同一犯によるものと我々は考えております。」

  かねてから続いた事件とは失踪だった。残念ながらそれら人物の年齢、性別、職業いずれも共通点のひとつも見当たらない。

  しかしながらここ数件は現場らしき自宅での抵抗の形跡があり、警察は誘拐もしくは殺人として事件を追っていた。

  特に今回の被害者は若くスポーツ歴もある男でかなり暴れたのだろう、室内の荒れようは台風でも通ったんじゃないかというひどい有様だった。

  「社員のアリバイは完全ではないにしろほぼシロ。骨折り損のなんとやらですね、シェパ刑事。」

  「それでもシロだと分かった点は進展と言える。無駄な事は何も無い。」

  「ブレないねぇ、疲れない?」

  「疲れない。」

  額の間に、助手席から伸びた右手の人差し指が触れた。

  タイガー製薬での捜査が空振りに終わった帰り際にアムール社長から受けた嫌味を手土産に俺たちは署へと帰還したのだが、夕日も沈みゆく黄昏のフロントガラスの中でシートベルトをいち早く外したコリーがじっと俺の目を見つめていた。

  この男は、こんなに目が大きかったのか。

  「……な、なんだ。」

  「嘘つけ、今日一日中ここにチカラ入りっぱなしだぞ。ほら。」

  ぐいと曲げられたバックミラーにはいつも通りの俺の顔が反射している。だがそう言われてみれば眉間に寄った皺が取れずに今も線を隔てている気がする。そこを強く指で擦られれば伸びていく皺とほぐれる目頭に涙腺の脱力が潤いを帯びていく。

  滲んだ世界で俺の顔は夕陽に当てられて赤みを帯びていた。

  「シェパお前、最後に休んだのいつ?」

  「2週前に午前休を……」

  「バーカ。今日は付き合え、もう署長には上がるって連絡しといたから。」

  「おっお前な……また勝手に!」

  言われるがまま強引に腕を引かれていく。

  行き先を問い掛けたところで答えるでもなくコリーは無言で歩を進めて、俺はそれについて行くしかない。

  時折この先輩は俺にやたら強攻手段を取るケースがある。俺は何故だかそうされるたびに黙って従ってしまう。

  そうして辿り着いた先は商店街から少し外れた時計店だった。

  「どういうことだ。そろそろ教えてくれ。」

  「シェパはまだまだ社会に出たばっかで分かんないかもしんないけどね、ああいうデブ虎みたいなふんぞり返った大人ってのは身なりや育ちで物事を測る杓子を持ってるワケ。要するに一目でナメられてんのよ、お前さんは。」

  「だからってこんな高価な物を買う余裕は……」

  ブランド物など当然興味は無かった。むしろそういったチャラついた物に群がる人種への偏見の方が強かったと言っていいだろう。俺としては安くとも正確な時刻を知らせさえすれば腕時計としての役目は果たせるのだからこんな店に足を踏み入れたことすら無い。値札はこれまで購入したどんなものと比較しても一桁以上の差があった。

  「じいさん、出来てる?」

  「おう、そっちの大きなワンコくんこっちに来て左腕出して。」

  「ワンコ、くん……?」

  俺を捕まえてワンコくんなどと呼称する店主。大きなサングラスとニット帽で人相は不確かだがその風体だけでもそこはかとない怪しさがダダ漏れだ。声からするにかなり年上だ、ということだけは分かる。

  確かにこの人達から見ればまだまだペーペーの新社会人とも言えなくはないのだろうが、自分で言うのもなんだがその辺の小悪人よりはインパクトのあるガタイと顔をしている筈だ。まして初対面の相手にそんな舐め腐った対応をするのが客商売だとでも言うのか。

  そんな風にどう文句を付けてやろうかと考えているうちに俺の左手首にはメタリックな外装の有名ブランドの腕時計が装着されていた。俺でも分かる、かなり高価なものだ。

  「おい、これは!?」

  「俺からのプレゼント。誕生日おめでとさん。」

  誕生日。履歴書や諸々の手続きの際に記入する生まれた日のことだ。

  高校を上がった頃から祝われる事もなくなったイベント、そんなものがあったなとずいぶん懐かしく感じる。訓練学校でも俺に近づいてくる友人もいなかった。

  それが、出会って半年のバディに初めて貰ったものだった。

  「おい。恋人への贈り物か何か知らんがちゃんとお代は貰うからな。ほれ。」

  「こっ……!?」

  「恋人じゃねーよバーカ。」

  金額の書かれた紙を手渡されるコリー。すると俺に貸しを作ってやったという満足げだった面持ちは急激に青ざめていく。

  無理に背伸びなんかするからだ。俺は最初からこんなものを求めてなどいない。

  今すぐにでも返品してやろうかとも思った。

  「前よか高くなってんじゃねーか!ぼったくり!タイホすっぞ!」

  「時価だよ時価。」

  「……やっぱりこれは。」

  自分の声が震えていることに気付いた。

  疲れ目が効いてきた、手持ちの目薬を挿せば心地よく溢れた雫が目尻を流れる。

  高価な誕生日プレゼントに心を動かされたわけじゃない。涙の理由は分からなかった。

  「いーよ、つかあげたんだからもうシェパのもんだ。」

  「う、うむ……。」

  素面のこの時の俺は嬉しい、なんて口が裂けても言えなかったのだ。

  「あっ、大事なこと忘れてた! もし壊れたら、絶対にこの店で修理しろよ! 全部タダでやってくれるから!」

  「ケッ、覚えてやがったか。」

  「それ込みの値段だからな! いいかシェパ、絶対この爺さん以外には弄らせんなよ! タダだから!!」

  仲が良いのか悪いのか分からないが、店を出るギリギリまで言い合いをしていたのを覚えている。そこまでしてこの店を使う理由なんてあるのだろうか。

  そう尋ねる間もなく間髪入れずに再びコリーが俺の腕を握る。

  時計を眺めていた俺は突然の出来事に少々驚いたが、おそらく外観には表れていないだろう。

  「さ、次は飲み屋に付き合え!」

  「金はあるのか?」

  「バカ言え! 俺が時計奢ったんだから酒代くらい出すのがバディの在り方でしょーが!!」

  「はあ……お前といると本当に力が抜ける。」

  続いてタダ酒に浮かれたコリーに案内されたのはお世辞にも行儀の良いとは言えない飲み屋だった。すぐそばにスラムがあるということもあり、見るからにガラの悪い連中がどんちゃんやっていてとても誕生日を祝うような雰囲気ではない。

  そんな中先に入って手招きするのはカウンター、マスターの正面。さては随分と通い慣れているな。

  出されたのは普段見慣れない極彩色のカクテル。恐る恐る口を付けると甘さと強いアルコールの後にスッキリした香草の香りが抜けていく。

  場の雰囲気に押されたとでも言えば良いのだろうか、多少は気を緩めていたのもあって一息に喉奥へと流し込むと隣とカウンター奥からヒュウ、と口笛が聞こえた。

  「真面目なシェパくんはこういうとこ初めて?」

  「俺だってバーくらい……最初の事件の時に来た。」

  「ははは、そんなこともあったなぁ。マスター、次も同じのね。」

  俺が初めてコリーに出会った時からなんとなく思っていた。この人には俺には無い何かがある、と。

  ちびりと舐めるように嗜むコリーを見ていると向こうも気付いたようで、俺は目線が合うのがなんとなく気恥ずかしくなって出される酒に視線を落とした。

  「こちらの方は、コリーのコレ?それともコッチ?」

  「馬鹿言ってんじゃないよ。こんなの相手にしたら俺の身が何個あったってもたないでしょーが!」

  マスターは左手を握ったまま小指を立てて、右手を握ったまま中指と人差し指の間から親指を覗かせた。

  およそ一見の客に向かってするジェスチャーではない。生憎この頃の俺はそのサインの意味にすら疎く、どうせろくでもない事を言っているのだろうとしか思っていなかった。

  俺抜きで盛り上がる2人がつまらなく、二杯目も一息に流し込めばほんのりアルコールが回ったようで喉がカーッと熱を上げた。

  「コワモテくんさあ、時計ばっか見てどしたの。終電?」

  「いやっ、そうじゃなく……」

  確かに少々失礼だったのかもしれないが今日もらったばかりの輝きに目を奪われていたのは確かだ。

  相棒の機嫌を損ねまいと様子を伺うべく隣に目を移すと何を言うでもなくにへらと口角を上げて笑うボーダーコリーがひとり。心配は、無用のようだ。

  俺としたことがどうやらプレゼントとやらに浮かれているらしい。悔しくて腕時計を外してポケットに押し込む。

  「なんで仕舞っちゃうの。気に入らなかった?」

  「そんなことはない!」

  反射的に口をついた否定の台詞、それが意味するものに気付いて何故だか俺の方が暑くなってきた。熱冷ましに三杯目のカクテルに口を付けると濃度の高いアルコールに頬が浮き、要らぬことを喋ってしまいそうになる。

  酒とはやはり碌なものではない。

  「……嬉しかった。」

  「それ聞けて俺ちゃんも嬉しいよ。ま、これからドンドン昇進してもっと高級なやつを買うまでのつなぎだと思え。そしたら捨てるなり売るなりしなさいね。」

  「そんなことはしない! 大事にする。」

  「シェパくんね、そのセリフは大事な愛の告白にとっときなさい。」

  「っ……茶化すな!」

  俺が怒ればコリーが笑う。進展しない捜査に余裕を失った俺の、とびきり狭い胸のつっかえが消えていくようだ。

  俺がどんなに思い詰めようがコリーもマスターも、他の客も市民も変わらず笑って酒を飲んでいるのだろう。そう思うと1人で思い悩むのが馬鹿らしくなって違うカクテルを注文すればマスターのシェイカーが今日何度目かの小気味良い音を立てた。

  「ゴホン……今日は時計じゃなくお前と飲みに来たんだ。それじゃあ駄目か。」

  「参ったな……こっちがチョーシ狂うぜ。」

  数瞬の沈黙。横並びの2人は飲む他なく、目の前のアルコールを同じ速度で平らげた。

  飲み慣れないリキュールを数杯入れてもまだまだ俺の神経は健常で、どうやら俺はそこそこ強いらしい。一方で眉をしかめながら身に染みるアルコールを堪能するコリーは俺とは違って感情的で、楽天的で、刹那的な快楽主義で。俺とこいつとでは眺める世界の色さえ違うんだと何となく感じる。

  コリーといれば俺も少しはコリーの見る世界が見えるだろうか。それまでこの人と一緒にいられるだろうか。

  来年の誕生日も何か期待して良いのだろうか。俺は何を返したら良いだろうか。

  「そーだ、今日はコイツの誕生日なの。記念にふさわしいカクテル作ってよ。」

  「では、これを。」

  コトリとカウンターに置かれたのはそれまでより大きめのグラスに注がれた黒い酒だった。光の加減では濃い茶色にも見えなくない、その上部には白い泡がフチのギリギリまでモコモコと立ち上がっている。

  「ブラックベルベット。コリーの黒とちょっと汚れた白がそれっぽいだろ。」

  「ちょっと汚れてて悪かったな。つーかシェパの誕生日なのに何で俺の毛色?」

  「君らが仲良さそうに見えたから。コリーがここに来る時はいつも1人じゃんか。それと。」

  お世辞にも綺麗とは言えない黒だったが、少し持ち上げて店内の薄明るい照明に当てれば薄い茶色と濃い茶色が俺の毛並みにも見えなくもない。

  ふと艶めくグラスの表面に映ったのは俺の顔で、グラスの湾曲にしたがって歪んだせいで笑っているように像を反射させる。

  「込められた言葉は 『忘れないで』 」

  隣のコリーは眉ひとつ動かさずちびりと自らのグラスに口を付ける。わざと俺と目線を外すようにして虚空に視線を泳がせる。

  好きでもない酒だがこういう形で飲むには悪くないと思った。これからはたまには俺の方から酒を誘ってやろう。

  「忘れない。今日のこともお前のことも。」

  「……そーですか。」

  胸元で揺れて光る、やたらと大きな2対のドッグタグが俺に相槌を打った。

  翌日、俺はコリーと2人署長室に呼び出されていた。

  俺の腕には昨日手に入れた時計が輝いており、体側でしっかりと光を反射させている。

  かたやコリーときたら昨日のアルコールの残滓に顔面蒼白、呼気は酷い匂いを漂わせていた。背中を叩けばほんの少しだけ姿勢も正すがすぐ前傾に元通りの始末。

  「急なんだけど、シェパちゃんに異動の内辞が来てるんだ。なんと半年たらずで本庁へ大出世!我が署始まって以来のスピード出世だ。はい拍手〜!」

  室内に響くのは署長の手を叩く音のみ。

  無理もない、あまりにも突然、青天の霹靂である。

  元々の熱意や異動の希望もあり、短い期間ながら多くの実績を積み上げたのは事実。訓練時代の教官の推薦もあり、流れとしてはそこまで不自然なものではないのかもしれない。

  「ど、どうして今なんですか!?」

  そんな俺の反応に驚くのは署長と隣で項垂れるコリー。確かに人事異動の時期ではないにしろ欠員やら何やらで緊急の人事は少なくない。2人にしてみれば俺の慌てぶりの方が不自然に感じられたのだ。

  俺とて自分がこれほど動揺するなど思ってもみなかった。

  「いえ、すみません……異動はいつからでしょう。」

  「来月だって。まだ月の初めだけどあと一ヶ月しか一緒に居られないとなるとみんな悲しむねえ。」

  「そう……ですか。」

  コリーは何も言わずいつも通りのらりくらりとしていた。まるでこの人事を知っていたかのように。

  どうしてコリーには声が掛からないのかと問いかけたところで返ってくるのは「俺は出世コースとは縁遠い立場だから」の一点張り。腑に落ちるはずもなく、珍しく心にもやの掛かった俺は終業間際に屋上で事件の資料を眺めていた。

  その時、ガチャリと古びたノブが音を立てて扉が開いた。

  「なーにサボってんだ。シェパらしくない。」

  「いつもここでサボっているのはお前の方だろう。俺が知らないと思ったか。」

  秋の冷たい風が2人を吹きつける。日も短くなりつつある屋上からは街を一望できて、影に覆われていく割合が秒刻みで増加するのがわかった。

  どうやらこの時間になってようやく回復したらしいコリーは俺の隣に腰を落として持ってきたコーヒーに口を付けた。

  「断るなよ、昇進。」

  「……お前はいつもこうやってバディを見送ってきたのか。」

  「シェパは特別、爆速だよ。いいじゃん、出世コースまっしぐら。偉くなったらあの約束、使わせてもらおっかな〜。」

  約束、というのは前に一度だけ賭け事をした「何でも命令を聞く」というものだろう。そもそも俺が負けたのかは甚だ疑問な結果ではあったが伸び切った俺の鼻っ柱を見事に折った先輩に対して『引き分け』という形で手を打った末のものだった。

  こいつの事だ、また飲み代が足りなくなっただとかくだらないことを吹っ掛ける気だろう。

  そんなもの、素直に誘われればいくらでも付き合ってやるというのに。

  「好きだ。」

  あまりに唐突だったと反省しないこともない。

  それでも人生初めての告白だというのに、俺の口は詰まることも澱むこともなく言い放った。脈絡だとか前置きだとか器用なマネも取り繕う経験が無かったのだ。

  先輩、同僚としては敬意の払ようもないというのに、不思議と一人の男として俺には無いものを全て持っている、そんな風に思わせるコリーだけが俺の世界では異質な存在だった。

  俺が生まれて初めて寄せた好意、それが恋だとまっすぐに伝えた。

  「うんうん、俺も好きだよ。とびきり愛してる。」

  「違う!俺は……!」

  「違わない。けどゴメンな。俺、ガキ居るんだわ。」

  「…………」

  「ハア!!?」

  半年組んだバディにここまで驚かされるとは思ってもいなかった。というか人事ファイルにもそんな事は一切の記載は無い。

  初告白の照れも不安も全部風に乗って何処かへ飛んで行ったみたいに乾いていく。

  「つっても一緒に住んでる訳でもないし母親もどっかに消えちった。今は知り合いが育ててるから俺の顔も知らねえだろうけどな。」

  「お前……とことんクズだな。」

  「嫌いになった?」

  今更コリーのだらし無さに失望するだけのものは持ち合わせていない。信用株価などとうの昔に下げ止まっている。

  俺は静かに首を横に振った。そんなもので俺の気持ちは変わらない。

  それでも一切逸らさず俺を見つめるコリーの両目は俺の気持ちには応えられないと確かに訴える。

  フラれた、というやつなのだろう。だが不思議と悲しみは無い。むしろそれまでよりも清々しい気分で自然と「フッ」という笑いが込み上げた。

  俺は立ち上がって、コリーに右手を差し出す。

  「俺は異動を受け入れる。ようやく決意が固まった。連続誘拐事件、今月中に必ずカタを付けるぞ。」

  「俺の方が先輩なんですけどね。まぁ、最後にそれが一番のシェパへの花向けになるかねえ。」

  大人と子供ほどの差のある掌がどちらからともなく重なっては握り返される。バディを任命されて走り出した俺たちがやっと相棒と呼べる間柄になった瞬間でもあった。

  最後。

  その時の俺たちはまだその言葉の意味を知る由もない。

  2週間が過ぎても犯人らしき人物は俺たちの網にはかからなかった。署をあげて張り込み人員を増やしたもののすり抜けるように淡々と増えていく行方不明者に己の力不足を痛感する日々。

  コリーだけは夜間の張り込みをすっぽかしていつも何処かへ姿を眩ますことがままあった。

  「今月5件目……先週張り込んでいた地区からだ。くそ!」

  時間だけが過ぎていく日々、焦りは禁物と分かっていても抑え切れぬ苛立ちが思考の幅を狭めていく。

  あまりにも事件に一貫性が無い。無差別だとしても場当たり的な愉快犯にしてはここまで足取りが付かないのも説明がつかない。

  今回の犠牲者は市役所勤務の女性、二日前から家族にも連絡無しに消息を絶ったという。もちろん、と言うのも悔しいが職場での聞き込みにもめぼしい手掛かりは得られそうにない。

  今日という一日を徒労に終えようとしていると、俺たちの目の前に意外な人物がやってきた。

  「おや、君達は話題のコンビだね。捜査は進んでいるかい。」

  「市長!ご心配をお掛けして申し訳ありません。そうさ状況は市長であっても申し上げることは出来ませんが全力を尽くしております!」

  「まーす。」

  えらく腑抜けた挨拶の相棒だが爪先を踏みつけてやれば反り返る背筋と尻尾。敬礼する俺たちを前にベンガル市長は愉快そうに笑って見せた。

  待合室でコーヒーを飲んでいる最中、突然ではあったが顔を見せてくれた市長を前に俺も尻尾が振れるのを堪えるのが精一杯だったのを覚えている。

  「市民に大人気の市長さんが、お忙しい中どんな御用でしょうか。」

  「そんな言い方をするな。」

  「はいはい。お煙草がお好きなんですね。」

  「すまないね、仕事柄煙に挟まれることも多くて。ううむ、確かに匂うな。私は吸わないんだがね。」

  不躾なコリーの一言にも笑顔で応える。いつもメディアの前で見せる顔と同じもので、いつであっても変わらない。この方は本物だと思わせるものがあった。

  待合室のTVでも今回の報道が流れており、握った拳の皮膚がぎりりと鳴った。

  だがアナウンサーは俺の不甲斐なさなど気にかける事なく淡々と次の話題を切り出す。

  『続いて、〇〇大学で調査された研究の話題です。タレントに関する遺伝との因果関係が……』

  「君達はどう思うかね。特にシェパード君、君はタレント持ちだろう。」

  「興味ありません。父も母もタレントは認められませんでした。仮に俺にタレントが無かったとしても、今の自分とは何ら変わりなかったでしょう。」

  「なるほど、君は強いね。流石は期待のホープ、異動も決めたそうだね。」

  何故か伝わっている情報、おそらく署長からのタレコミだろう。色々と融通を利かせて貰えるのは有り難いがその節々が妙に緩いのが我が署のボスだった。

  「統計ではタレント持ちの親から生まれた子はそれ以外と比較して数%高い確率で才能を授かるらしい。些かサンプル数が心許ないがその数値を鵜呑みにすれば10倍以上の差だ。興味深いとは思わんかね。」

  「市長はタレントに興味がおありですか。」

  「生憎、私はそういった才能に恵まれることが無かったのでそういう事を想像するのが好きなだけさ。かといって市民の能力調査を行ったのは個人的な趣味ではないからね。」

  「承知しております。」

  「シェパ、ここ笑うとこ。」

  タレントについては分からないことの方が多いが俺としても世間の一般人よりは深い知識を持っているつもりだった。

  能力者はみな一様に脳の一部が僅かに発達している傾向があり、その扁桃体と呼ばれる部位が原因だと言われている。目下専門家たちが研究中ではあるが脳という性質上なかなか調査し難い大きな壁があり、革新的な発見はなかなか為されはしない。

  「脳みそに手でも突っ込んでみれば何か分かるんじゃないですか。」

  口に出したのはコリーだった。

  誰もが一度は考えるが決して行動に起こしてはならない、話題にあげることすら滅多なことではない非人道行為だ。

  本来ならばすぐに咎めるべきだったのかもしれない。

  だが俺という男はあまりに無神経な口振りに呆気に取られて反応すら忘れてコリーの顔と市長の顔を交互に見るばかりだった。

  そんな数瞬の沈黙は意外にも笑い声によって破られた。ベンガル市長だ。

  「面白いことを言うねぇ、流石は署長殿の右腕だ!シェパードくん、ここは笑うところだぞ。」

  「は、はあ……」

  「いかに優秀と言えど君はまだまだ若い。異動までの間、先輩からたっぷりユーモアを学びなさい。」

  市長が立ち上がる。見れば不機嫌そうな秘書が時間だと身振りで知らせていた。多忙な身の上だ、おそらく最初から俺たちと談笑する余裕などなかったのだろう。そんな中、来月にはこの街を去る俺とそのバディに声をかけてくださったのだ。

  同時に缶の中のコーヒーが無くなる。珍しく休憩中に一服をしていないコリーは鼻の下を指で擦っていた。

  口寂しいのだろうか、これまた珍しく不機嫌そうだ。

  「ヤニくせー。せっかく俺が禁煙してるっつーのに。」

  「今更どうしたんだ。嫌なら吸えばいい。」

  「シェパが行っちゃうまでは禁煙するって決めたの、俺は。本気だぜ。」

  「そうか。それなら俺が昇進を辞退すればコリーは一生健康だな。」

  「……お前ホント冗談ヘタすぎ。笑えねーんだよ。」

  ペラペラと肌色の多いページをめくる白黒の指。それが止まったのは盗撮を模したプレイの特集ページだった。自室にいる女性の下着姿を様々な角度から、いかにもというふうに撮影している。

  およそ一介の刑事が公言していいような性的嗜好ではない。

  「何をやっている。こんな時間に呼び出して、見せたかったのが変態趣味か。」

  「人の性癖に口出しするモンじゃねーの。」

  街はずれのコンビニで青年向け雑誌を立ち読みする呆れた男。耳まで覆い隠すようなでかいフード付きのパーカーにくたびれたスウェットといかにも育ちの悪そうな格好をしたコリーは、スラムからも近くわりかし治安の悪いこの周辺の空気にすっかりなじんでいるようだった。

  俺達が市長と世間話を交わしてから1週間、操作は空振り続きだった。このまま事件も迷宮入りになるのではないか、そんな嫌な考えが過りつつある中、自宅で資料と睨めっこしていた俺のもとに一本の電話が入った。

  声の主はコリー。また酒代をたかりにでも来たのかと受話器を取る俺をよそに淡々と語る相手。

  その内容は俺を驚かせるのに十分だった。気付けば12時を回ろうとするなか、部屋の明かりを消すのも忘れて俺は革靴に足を通していた。

  『事件の手掛かりを見つけた』

  そんな調子の良い文句でまんまと俺は深夜のコンビニまで呼び出されたのだ。その傍らでこの有様。

  帰るか。そう思った俺に、コリーは何も言わずに次のページをめくり、挟まれていた解像度の良くない写真を指し示した。

  雑誌の雰囲気とはまるで異なる、どこにでもいそうなただの男。生憎その顔に心当たりは無い。

  「前の事件の日に俺が仕掛けてた隠しカメラの写真だ。ちと画像が荒いがこの男、ついさっき外れの空家に入っていきやがった。」

  初耳だ。そんな事、これまで俺には一度も言わなかったではないか。秘密裏に入手していた情報を秘匿していたとでも言うのか。バディである俺にさえ。

  多少の憤りはあった。だがそれもガラにもなく鋭い眼差しのコリーに気圧されたと言うべきか、次の言を待つことにした。

  通常ならば深夜の徘徊と銘打って職務質問でもキメるところではあるのだが、僅かなりにも刑事の顔になったコリーはそんな悠長な事を言い出しそうもない。

  「応援は。」

  「ダメだ、今すぐ俺とシェパだけで乗り込む。」

  「……分かった。」

  「へえ。反対しねえの?」

  「お前が珍しくやる気を出したんだ。二度と見れないだろうからな。」

  何かしらの理由があるのだろう、本当はそう感じていた。

  プライベートの時間帯故に2人とも武器はない。頼れるのはこの身一つだ。いつどこで待ち伏せを受けようとも倍返しの投げ技を繰り出す気概が俺にはあった。

  足を踏み入れたのは何の変哲もない廃屋、全面コンクリートを打ち付けてある無機質な内装が緊張感を際立たせる。

  1階には何も無い。俺は下りの地下室、コリーには2階を任せることにした。多少のリスクはあるが誤って逃す方が俺たちにとっては痛手であった。

  ーーー口では相棒だの信じるだの言ったものの、コリーの言以外にはなんの手掛かりもない。まして何処にも報告せず……不審な点はむしろコリーの方に多かった。

  まさか俺をおちょくって……邪推にかぶりを振る。流石にあの軽薄男でもそこまでのことはするまい。

  相棒を疑うなど、俺の方がどうにかしていると自分を制す。俺の仲間に、そんな者がいてたまるか。

  地下フロアの暗闇の中思い浮かぶのは署の面々。忘れていたわけではないがコリーだけではない、彼らともあと1週間でお別れとなるのだ。

  それでも、コリー以上に強く印象に残る顔は無い。

  「……踏ん切りは付けたというのに。」

  視界が真っ黒に遮られているせいで要らぬことばかり考えてしまう。

  壁沿いに手を伝って歩けば室内の照明スイッチがある。どうやら電気はかろうじて通っているようで、何度か明滅したのちに小さい電球が薄ぼんやり周囲を照らした。

  その時だった。おれの腹部を金属の鈍器が捉えた。

  「ぐお……ッ!?」

  弛緩していた腹筋越し、警戒していたとはいえ無防備の鳩尾。金属バットが僅かな光を反射させてもう一度襲いかかる。

  噴き出る脂汗を奥歯で噛み殺し、見えたのは命を刈り取るべく脳天目掛けて振り下ろされる一撃だった。

  「オラア!!」

  派手な音が鳴った。

  強襲を頭蓋のほんの数センチのところで阻んだ右腕がミシと情けない音を立てる。折れてはいないが痛い打撃。

  そう、単なる一発の打撃である。

  次の瞬間には俺の左手は敵の手首を捉えてぐるりと一回転した。

  「ふん!!」

  「ぎああああっ!?」

  強く背中を打った衝撃でバットがガランと転がった。

  次の瞬間にはぐるりと押さえ付けたうつ伏せの男の手首を捻り上げ、膝で体重を乗せて完全に組み伏せる。対人戦闘の基本のひとつであったが容易く無力化出来たあたり、見るからに素人に違いなかった。

  「バ、バケモンかよ……」

  「動くな。こんな場所で何をしていた。」

  顔を覗き込む。完全に初めて見る男だった。刑事たるもの一度見た者の人相を忘れることはない。

  「お前は……誰だ!?」

  そうだ。残念ながらコリーに見せられた写真の男とも異なる顔だったのだ。

  油断していた訳ではない。ただ少し想定と外れていたために状況の把握が遅れてしまっただけだ。

  逆に写真など見ていなければ、背中に『何かしら』を突き付けられるような窮地には陥っていなかっただろう。

  「動くな、だったか。そりゃお前の方だ。」

  「っ……がああっ!!」

  「動くなっつったろうが。」

  一瞬、意識が飛んだ。

  力が入らない。支えを失った身体が、組み伏せていた男目掛けて落下していった。

  バチバチと音を立てるのはスタンガンの類か。背中の痛みは皮膚の火傷か。だとすればとても市販の威力とは思えない。密輸入か、改造か。

  冷静に分析する間もなく下敷きから逃れた男が俺の頬と土手っ腹に蹴りを加えた。

  「ぐっ……ガハ……ア……!」

  「舐めやがって!おい、こいつまだ意識があるぞ。」

  「タフだなぁ。タレント持ちってのは身体まで頑丈にできてんのか。」

  二対一。だとしても通常ならば遅れをとることはない。たとえこちらが丸腰で向こうが凶器を所持していたとしても。

  様々な後悔がよぎる中、高圧の電気が顔のすぐ横でさえずっていた。

  「間違いねえ、こいつだ。」

  俺にスタンガンを突きつけたのは、確かにコリーの写真に写っていた男だ。皮肉にも向こうも写真を取り出して俺の顔と見比べている。口ぶりからするとどうやら俺の顔が写ってあるらしい。

  どういうことだ、何も分からない。

  確かなのはまだ力の戻り切らないこの身ひとつでは対処できない窮地だということだけだ。

  「お前たちは……何者だ!」

  「ただの一般市民だよ。」

  「っあ……っ……」

  うなじの辺りから焦臭いニオイが漂う。高圧の電流が俺の体毛をわずかに焼いたのだろう。

  ビクンと身体を痙攣させた俺は意識を失う前に俺の名を呼んで部屋に飛び込むバディの姿を視認した。

  「シェパ!!」

  その手にはその辺で拾ったような鉄パイプが握られていた。2回の捜索をしていたコリーが下階の物音に気付いて駆け付けたのだ。

  「……こりゃ俺らしくない失態だわ。反省反省。」

  「仲間がいたのか。」

  「こっちは丸腰と変わんないってのに、スタンガンなんて卑怯だぞ?」

  コリーを2人が取り囲む。対人格闘の心得がある俺とは違って真っ向から戦ったのではまず勝ち目はない。

  スタンガンを鳴らす男と鋭い折りたたみ型のナイフを抜く男を前に逃げ場もない。

  まず、ナイフが空を切った。初撃をかわしたコリーは脇腹あたりで敵の手首を掴んだまま腹に蹴りを入れる。呻きながら二、三歩後退るナイフの男。ガランとナイフが落下する。

  間髪入れずに反対側からはスタンガンが迫った。体勢上、避けようがない。

  「ッソ……こういうのは俺のスタンスじゃねえってのに!」

  鉄パイプを振り上げる。その中心でバチっと音と光を上げたスタンガンは鉄パイプとの衝撃で弾き飛ばされていった。

  反面、コリーの手からも唯一の獲物が放り出された。鉄の表面を伝った電流が右手の自由を奪ってビリビリと震える。

  その隙を見逃さずにすぐさまコリーの上半身は羽交締めとなってしまう。スタンガン男は片手を打たれていながらも躊躇なくコリーへ襲いかかったのだ。

  首に腕が掛かる。締まりこそしないが体格で劣るコリーに容易に抜け出せる枷でもない。どうやらこちらの男は多少の心得があるらしい。

  「マジかよ……っ!」

  「おい、さっさとやるぞ。」

  「っつう……こっちの犬は殺していいんだろうな!」

  落としたナイフを拾う男は鳩尾を押さえながらコリーとの距離を詰める。

  さっきの恨みとも言わんばかりに喉を刀身が撫でれば白い毛に真っ赤な鮮血がじわりと滲んでいく。

  「俺は殺すのか。シェパと違って。」

  「そうだ、お前にゃ用はねえからな。」

  「シェパには何の用があるんだ?」

  「なんでそんな事をてめえに教えなきゃなんねえんだ。ええっ?」

  シャツ越しに腹部へ切先が埋まっていく。

  ボーダーコリーという犬種上、豊富な体毛が服を押し上げてはいるがそれ以上に押し込めば奥には当然皮膚があり、その先には内臓がある。

  ぐっ、と呻く声を抑えるコリー。おそらく先端が皮膚へと達したのだろう。ナイフを持つ男の口元が緩んでいく。

  「…どうせ俺はここで殺されるんだろ。なら最後まで教えてくれ。お前ら、このシェパードに何の用があったんだよ。」

  「俺たちゃただ標的を捕まえるだけ。直接用があるのはクライアントだ、その報酬ついでにムカつく野郎を甚振れんならお釣りが来らぁ。」

  「クライアント?」

  「いい加減にしろ。殺せ。」

  「あー、へいへい。」

  時間の無駄だと首に回された腕が一層キツくなる。ナイフを持ち替えた男は今度こそと握りしめた腕を振りかぶった。

  「どうやらタイムアップだなぁ。」

  「うごっ!!?」

  コリーを締めていた男が奇声を上げたのは、ナイフを携えた男の手首が抑えられたのとほぼ同時だった。

  動けるはずがない。油断していたナイフの男は思考する間もなくコリーによって腕を捻られ、直後ぐるんと半回転して投げ飛ばされた。

  一方で俺の握った両の手がジンジン痛む。痺れた身体では加減ができず、力一杯に後頭部に振り下ろされた両手のハンマーは一瞬にして、スタンガンよりも速やかにコリーを締めていた男の意識を刈り取った。

  「なんでまだ動けんだよ……!?」

  「人間用の玩具じゃあ、怪獣刑事には力不足みたいだな。」

  「人を怪物呼ばわりするな。これでもちゃんと末端は痺れて力が入らん。」

  よろよろと立ち上がるナイフ男。

  もう一戦交える、などという気概もなく踵を返して出口へ向かって走り出した。

  すぐにでも追い掛けたいところだが、流石に俺の脚は言うことを聞かず力なく震えている。

  「俺が追う!シェパはそいつを確保!」

  「待て!」

  「んぎぃっ!?」

  追いかけようとするコリーの腕を掴む。するとそいつは素っ頓狂な叫び声と共にその場へうずくまった。

  無理もない、捲れたパーカーの下、肌着にはじんわりと赤が広がっている。刺された腹部からの出血だ。

  今の俺が引っ張ったことで傷口が開いたとも言えなくはないがそんな状態の奴をひとり見送るわけにもいかない。

  「相手は顔も割れた、その身体で無理をするな!流石に通報するが、いいな?」

  「わーったよ……。」

  間も無くパトカーがサイレンを鳴らして到着した。

  この男を引き渡せば一旦の休息だ。本来ならば床に就いていてもおかしくない時間帯。だが生憎、戦闘の熱のお陰で眠気が留守である。

  「傷、大丈夫か。」

  「応急手当で出血も止まってるって。心配しすぎ、つかシェパのが首筋に直にスタンガン当てられてたろ。ピンピンしてるのがおかしいって。」

  「……通常よりも威力が高かった。出所を調べる必要があるな。」

  明らかに合法で出回っているものではないことだけは確かだった。軽い火傷の痕が鈍く痛む。

  それでも事件には大きな進展だ。時間もない、明日は早朝から取調べとなるだろう。今日はそれに備えて早めに眠るべきだ。

  そう目でも擦っているだろう相棒に声を掛けようとした俺の口は、音を発する前にはたと止まった。

  連行される不審者を見据えたままパトカーが走り去るまで一瞬たりとも目を逸らさず睨みつけていたからだ。

  そしてその男は翌日の朝、留置所内で血を吐いて死んでいた。体内からは遅効性の毒物が検知され、夜から早朝にかけて服用したと思われるとのことだった。

  [newpage]

  「クソッ!何がどうなってる!?」

  散々看守を締め上げた後でも憤りは収まらなかった。

  苦労して手に入れた手掛かりだというのに、また手の平から砂みたいにこぼれ落ちていく。

  今日もまた何も捕まらない。だのに、不思議とコリーは落ち着いている。

  「いっそ俺が囮になればまた奴らは手を出してくるかもしれない……」

  「シェパがどうやったら囮になるんだよ。だぁれも近付いてこないっつーの。」

  「昨日の奴らは俺のタレントを知っていた。俺の写真も持っていたんだから俺も奴らの狙いのうちだった筈だ!」

  ぼんやり虚空を見つめていたその目を見張るコリー。

  珍しく怒号が飛ぶ。

  「シェパお前!! なんでそれを先に言わねーの!?」

  「お前が呼び出したんだから知っていたんじゃないのか!?」

  「だーっ! コミュニケド下手か!! シェパが狙われてんならわざわざ危険な手に加えるわけねーだろ!!」

  「なっ……言葉が足りないのはお前の方だろうが! どうして勝手に動いてばかりなんだお前は!!」

  子供みたいな言い争いだった。いろいろと余裕がなく、互いに犬歯を剥き出しにしてぎゃーぎゃー言い合うのは通行人の目を惹く。それに気付いた俺達は気まずくなってパトカーへと乗り込んだ。

  視線は合わない。運転席の俺とと助手席のコリーはそれぞれドアの方を向きながらシートベルトに手を掛ける。

  「……もう止めようって言ったら、どうする?」

  「俺一人でもギリギリまで捜査は続ける。約束したからな。俺の……相棒と。」

  「……なあ、シェパ。」

  俺は返事を渋った。張った意地が拒んだのだ。

  そのまま無視すれば良いものを、だが振り向かずにはいられなかったのはどうしてだろうか。

  コリーが俺をまっすぐ見つめていた。

  「俺のこと、まだ好き?」

  「かっ……揶揄うのはよせ! こんな時に!!」

  「からかってない。俺とセックスするぞ。」

  あの会話の流れからどうしてこんな状態になっているのかは何度考えても分からない。

  一人暮らしだった俺の部屋にはコリーが居て、俺もコリーも等しく下着一枚を身に付けているのみ。

  風呂屋なんかでコリーの裸を見るのは初めてではない。だというのにこれから起きる事を想像すると良からぬ感情ばかりが積もっていく。

  「殺風景な部屋だなぁ。俺があげた腕時計以外のアイテムとか無いわけ?」

  「な、無い。必要ない。俺にはあの時計があれば良い!」

  「はーん?それって告白のつもり?」

  「うぐっ……!」

  コリーはいつもやけに大きめな二対のドッグタグを首から下げていた。チャリチャリと煩わしいサイズのそれに最初は嫌気がさしていたが、不思議と慣れるもので今では体の一部とさえ思える。

  一方で俺が装備しているのは清潔だが洒落っ気のない下着ひとつだ。俺の身体に合わせて用意したセミダブルのベッドの上で膝を折って背筋を伸ばす俺に、ゆっくりとコリーが手を伸ばし、膝の上で俺の手に重ねる。そんな柔らかい感触にも尻尾は緊張したままピンと伸び切って動かない。

  心臓がうるさくてコリーがさっきから何を言っているのかは半分程度しか分からない。鍛え上げられた精神も肉体も、今は毛ほども役に立ちそうもない。

  「硬くなりすぎ。それとも俺とこういうことするのは嫌だった?」

  「おっ!俺は!!」

  張り上げてしまった声にはたと気付き、肺の少し上くらいで浅い呼吸を行う。直視できずにいたコリーの目は薄明かりを反射させて俺を静かに射抜いている。

  「……もしもお前が俺を好いていて……そういう仲になったらいずれは……ん"ん"っ!だが付き合ってもいない男とこんな……」

  「俺は、シェパが嫌かどうか聞いてんだよ。」

  小さな手がするりと移動していく。膝から太腿、内腿を伝って鼠蹊部を、そして股間の突起に意図せず触れる。

  膝の上で握った拳が内側でギリリと音を立てた。

  「それともこっちに直接聞いた方が良かったか?」

  下着の縁に指が掛かった。ゴムと皮膚の隙間に入れられたたった一本の人差し指さえ俺を殺すには容易い。

  ぐぐぐと下着が下がっていく。

  内部で硬化を果たした陰茎が最終防衛ラインであったのに対し、コリーの侵攻は余りにも効果的かつ速やかだった。

  「やっぱでっか……」

  「っ……じろじろ見るな…!」

  「わりわり。それで、お前の答えは?」

  朧げに上がる湯気は興奮の度合いをありありと晒していた。身体中の血液が一身に集中したのではないかというほどに熱く滾るそれは、己の意志とは関係なくコクリコクリと首を垂れては上げる。

  この世は残酷だ。

  この先続かぬ道と分かっていながら、どうしようもなく俺は俺以外に俺を委ねる他なかった。

  「いっ、嫌なら初めからお前を家に入れていない!……俺ばかり脱がせるのは卑怯だぞ!!」

  気付いた時には俺もコリーの下着を乱暴に取り払っていた。力任せに下着を奪ったお陰でコリーはバランスを崩して背中からベッドへと倒れ込んだ。その中心で、コリーを雄たらしめる象徴もまた強く天を向いていた。

  「へへ、良かった。じゃあここからは合法だぜ、童貞くん。」

  「おっ……お前な……!!」

  度重なる辱めが益々俺を追い込んでいく。

  だのに目の前の相棒はどうしようもなく俺の深くに入り込み、なんの抵抗も許されない。

  されるがまま寝る体勢で枕に頭を載せられた。眼下では男性器がコリーの右手に拘束されて身動きを封じられていた。

  「他人に触られたことは?」

  「なっ……ない……」

  「じゃあ、こゆ事も初めてだろ。」

  ぬるりと暖かい感触。じんわりと下半身に広がっていく温感と同時に聞いたことのないコリーの息づかい。

  コリーが俺のモノを咥えたのは流石の俺でも分かった。

  それまでずっと目を合わせられなかったというのに何故だ、俺の下で頭を振り続ける白黒の顔から目が離せないのは。

  「んん……ふっ……んふうっ……むはあっ。どうよ、男のフェラは?」

  「……わ、分からない。混乱して……んふうっ、ぐおおっ!?」

  「キモチイイで良い、って言えばいいんだよそこは。」

  付け根から先端にかけてを強く舌で擦り上げられる。同時に指で上下に扱かれた俺は、普段怒鳴り散らかしている同僚を相手に呆気なく情け無い声を上げるハメになってしまった。

  勿論自分で処理……自慰行為くらいは経験がある。だがやはり自分の手で行うのと他人の……想い人の手でされるのとでは天と地ほどの差があった。

  この男と身体の関係を求めていた訳ではないと誓って言える。それなのに今はどうしようもなくコリーを求めている。

  俺は生まれて初めて生物としての本能に敗北した気分だった。

  「き、気持ち……良い……これが性行為なのか……?」

  「まだまだ、こんなもんじゃないって。」

  再開される手淫、図体で遥かに勝る俺は今やコリーの手の上だ。

  周りきらない指を不規則に捻って走らせる内に、まるで警察の捜査をするように的確に弱い部分を突き止めて重点的に攻め始める。自分でさえ気付いていなかった弱点は存外に脆く、両の脚はスタンガンを食らい続けるが如く痙攣してベッドを揺らした。

  「んはあっ!やめっ……んっ!!」

  「すっげえ先走り。漏らしてるみてえ。」

  すっかり潤いに塗れた手淫の音は、コリーを前にしてはあまりに刺激が強かった。

  自分のものではない声が出てしまうのが情けなくて片手で口元を押さえても頭蓋で反射して余計強く自分に返ってくる。

  なす術などかけらも残っていない。

  「ほんとでっけーなぁ。これで童貞なんだもんな。」

  「っふ、うううっ……な、何度も言うな……!」

  「悪い悪い、イキたくなったら言えよ童貞くん。」

  「〜〜〜ッ!!?」

  反論を許さぬと言わんばかりにコリーの右手が陰茎を締め上げた。同時に行われる容赦の無い先端攻め。舌先が亀頭部を吸ったと思えば次の瞬間には鈴口から僅かに内部を蹂躙する。

  気付いた時には臨界点はとっくに突破していた。

  「ングウウウッ!!イッ、ぬあああっ!!」

  「ふごぉ……!?」

  破れそうなほど爪の食い込んだシーツがぼたぼたと溢れる体液を受け止める。

  普段から常にぴんと張った背筋が大きく九の字に湾曲して震える。睾丸の中で、これまで味わった事のない快楽物質が爆発した、そんな気分だった。

  強く結んだ上下の瞼が離れる頃には白濁した液体がどろりと下腹部じゅうを覆っていた。濁り酒を注いだヘソ、隆起した腹筋の隙間にも凹部に従ってゆっくりと流れるのは全部、俺の精液だ。

  やってしまった。人前で射精など。余韻から解き放たれて羞恥心に襲われる俺は冷静になるよりも前に咳込むコリーを発見した。

  「ゴホッゴホッ!おまっ……いくらなんでも出し過ぎ!!つかイクならイクって言えよ!!」

  「す、済まない……俺だってこんなに……」

  「はあ。まだ分かんねーの?」

  ずい、と顔を近付けるコリーはまだ不機嫌そうだったが、混乱した頭で言葉ひとつ紡げない俺を見てニカっと笑った。

  「二人でヤるのが良いんだぜ、セックスってのは。」

  「!!?」

  唇に人肌の何かが触れた。

  一瞬の出来事で、判断力を失った脳がもしかしたら幻覚だったのではないかと問いかける。

  そんなは筈はない。コリーが俺とキ、キ、キスするなど、キスは好いた相手と行うものだ。コリーは俺を振った。じゃあ何故こうして俺とコリーは体を重ねているのだ。

  答えの出ない問答は、改めて食われる舌の感触に押し潰された。

  「んんっ!?……っはあ……!?」

  口付け。俺が渋々行ってきた、タレントを無効化する為に唾液を飲ませる経口作業。

  …………ぜんぜん違う。

  コリーの唾液は俺の舌を一瞬にして融解させてしまった。そんなふうに勘違いするほどにぬるく緩やかに一つになっていく感覚。

  何も出来ないまま押し倒され一方的に俺は食われている。良い、お前になら全部食われても。

  「どうよ、モノホンのキスってやつは。」

  「んあ……?」

  「うっわ、すげ〜顔。写真撮っていい?」

  「…………ハッ!!」

  携帯電話のカメラのシャッター音が俺を現実に引き戻した。

  写っているのは自分よりも小柄な男にいいように弄ばれあられもない姿を曝け出したジャーマンシェパードの顔だった。

  急いで押収しようとする俺だったがいつの間にか馬乗りになってマウントを取っていたコリーの下からでは腕が上がらない。一生の不覚だ。

  「けっけっ、消せっ!!」

  「イヤに決まってんだろ。」

  「いいから消せ!物理的に記憶ごと消去されたいか!!」

  「ムチャクチャ物騒だなおい!!」

  コイツだけには見られたくなかったのだ。情けない姿は。

  というかこれを餌に今後どんな強請があるとも知れない。強引にでもぶっ飛ばして強硬策に出るべきか。

  己の尊厳を守るため作戦を立てる俺だったが、一方のコリーはいつもの茶化すような雰囲気を見せることはなかった。

  情事の最中だというのにむしろ酷く冷静で、いつも何を考えているかわからない奴だがこの時はひと際読めなかった。

  「俺は覚えときたいんだよ、シェパのこと。カッコイイのも、そうじゃないのも全部、な。」

  「何を……今更。」

  「今更、か……それ言われちゃあ身も蓋もねーや……。」

  今日何度目かの油断。

  それを的確に突いて、三回目の接吻が執り行われた。

  目を開けば相棒のスレ切った目が見える。睫毛が長く伸びている。黒目の色素は意外と薄く、瞳孔の周囲を放射状に光が走っている。白目は細い血管が何本も浮き出ていて、寝不足かはたまた高揚か判断がつかない。

  俺はこいつの事を何も知らなかったのだ。一日の大半を共に過ごしていたというのにその一片の感情にさえ。

  三度目にして最も落ち着いた密着ののちゆっくりと離れていく口と口に唾液の橋が架かって、それまで二人がひとつだったことを証明している。

  ああ、やはり俺はどうしようもなく好きなのだ。悔しいがコリーに惚れている。

  「シェパ、そろそろ……」

  薄暗い部屋の時計が二十五時を超過していた。

  相変わらず落ち着いた口調で話すコリーに、そして終わろうとする二人の行為に寂しさを感じる。なんて言ったらお前は笑うのだろうか。

  どちらにせよ、俺はまだ寝られそうにない。

  「ああ。」そう答えたつもりなのに声も出ない。

  「そろそろ本番いきますか!」

  「ほんばん……?」

  「ここまでやっといて途中でやめんのか? こんなに元気なのに……俺も、お前も。」

  逸物が痛かった。何故だか触れられてもいないそれは内側からの圧力に苦痛さえ訴えており、逆流した電気信号が脳をハッキングして俺を狂わせた。

  そして同時にコリーのモノも俺の胸の上で存在を強く誇示していた。自分のものとは比較にならないほど控えめな筈なのに、それは喉元に拳銃でも突き付けているような威圧感を放った。

  俺は初めてを捧げた。

  電話の音がけたたましい。

  まだ暗い室内、いつ眠りに着いたのかも朧げだが身を包むのはよく馴染んだシーツとケットで、だが所々湿った触感が少しだけ冷たい。目が覚めた途端に降ってくるのはコリーとの行為だが、手の届く範囲には誰もいない。

  眠い目を擦りつつ受話器を取る。時計を確認すると時刻は早朝五時。始業には到底早い。

  通話の相手は署長だった。

  「……はい。」

  「朝早くに申し訳ない。たった今通報があった。」

  張り付いていた瞼が一気に上下に開いた。頬を叩いて眠気を飛ばす。

  今が何時だとか疲労が蓄積しているだとかそんなものは鍛えられた精神と根性の前では意味をなさない。

  簡単に連絡の内容をメモに残し、家を出る段取りを考える。

  「コリーちゃんにも電話してるんだけど一向に出なくてねえ。心当たりはない?」

  「な"っ!? 何故俺……私が?」

  「ん?」

  「ん"ん"っ……何でもありません。私があの馬鹿の穴を埋めます。」

  あの出来事は俺にとっては極めて刺激の強いものだった筈なのにどうしてか全部が朧げで、乱れた寝具と身体中にこびりついた何某は確かにそれを物語るのにどうしても酷く酔った日の深い夢だったのではないかと思ってしまう。

  既に唆した側の当の本人は部屋には残っていなかった。

  服も靴も見当たらない。帰ったのだろうか。電話にも出ないあたり、今頃眠りの中だとしてもなんら不思議ではない。その時はそう思っていた。

  「……む。」

  水でも飲もうかとテーブルに手をつくと何かが手に触れた。折り畳み式の携帯電話、コリーのものだった。

  案の定署からの着信履歴で外表のランプが点滅している。連絡がつかないのは忘れていったからか。仕方ない、届けてやるか。

  そうやって手に取ったとき、携帯電話の隙間から小さい板のようなものが滑り落ちた。それはコリーが首からいつもぶら下げていた、乏しい手入れの薄汚れたドッグタグの片割れだった。

  外れたか。そうは思ったが都合よく片方だけ取れるようなものでもない。

  不審には思ったが、そんな板切れよりも俺の注意を惹いたのは開かれた携帯電話の待受画像だ。現代からすると画質も悪く画面も小さいのだが、紛れもなく俺の顔があった。それも昨夜、正確には今日未明の接吻により蕩け切った情けない阿保ヅラだった。

  「けっ! 消せと言ったろうが!!」

  [newpage]

  「本当ですか、市長が誘拐されたというのは!?」

  「まだ分からないけれど……その可能性は高いかもしれない。模倣犯も捨てきれないけどね。」

  ギラついた眼差しで署の門を潜ると署長が俺を出迎えた。

  二日前から家にも職場にも顔を出していない。市長の家族より提出された捜索願いは刑事としての勘を鋭く刺激した。

  しかしながらこんな事態だというのにコリーが姿を見せることは無かった。どこで油を売っているのか、腹立たしいが居ない人間は叱れない。

  仕方なく俺は署長と共にベンガル市長の秘書と奥方から事情聴取を終えたのだった。

  「どうか夫を……」

  「全力を尽くします。」

  カビの生えたような決まり文句だが俺たちにそれ以上の発言は出来ない。必ず助けるという無責任な意気込みは自身を奮い立たせるためにしか使えないのだ。

  既に署内の人員の多くは僅かでも手掛かりを捜索するため市長の足取りを辿って出払っていた。

  こんな時、コリーならばどうしただろう。

  「あの馬鹿は……昨日の今日で何処に消えたんだ。」

  「家にもいないとなると、一人で捜査してるのかもねえ。」

  なにも分からなかった。コリーについて知っていることなど、俺には何も無かった。

  どうしてバディである俺を前に姿を消したのか、まさか未明の情事が理由でもあるまい。

  何故かは分からないが、ふと、あの時一度だけ見せた酷く冷め切ったあいつの顔が浮かんだ。

  「シェパちゃん?」

  「はっ……すみません。少々寝不足で注意を欠いていました。」

  「少し休みなさい。食事も摂ってない、やりすぎだよ。」

  時刻は既に15時を回っていた。署長に言われて思い出したかのように腹の虫が声を上げる。

  流石に腹に何かを入れようと自分のデスクに戻って財布を手に取る。

  その時だった。差出人無しの封が、俺の机上に乗っている事に気付いたのは。

  「なんだ、これは。」

  「聴取中に届いてましたよ。ってさっきも言ったんですけどね。」

  「そ、そうですか。余程疲れてるのか……」

  俺と署長以外で唯一残っていた事務係に小さく会釈をしつつ、封を開く。保険の勧誘か何かだろうか。

  そんなものが職場、しかも差出人無しで送られることなどあるはずもないのだがそれさえ気に留める余裕も無いほどに眠気に苛まれていたのだ。

  手元さえ覚束ない中開けられた封筒、指の間をすり抜けた一枚の写真が宙を舞い、はらりと俺と署長の足元に着陸した。

  「なっ……!?」

  ポラロイド型カメラで撮影されたであろう四角い白枠、その中心には椅子に座らせられたまま目隠しと拘束された虎人、白黒写真ではあるが明らかにベンガル市長の姿が収められていたのだった。

  と同時に鳴り響く電話。こちらの内線の番号を知っているのは身内に限られる。そんな中で電話機表示された不通知の三文字がただならぬ悪意を予感させた。

  一瞬受話器を取るのを躊躇うほどに漂う嫌な予感に生唾が喉を下る。署長に目配せをし、意を決して手にした受話器は何の変哲もないのに緊張から僅かに手の震えを覚えた。

  「……もしもし。」

  『市長は預かった。命が惜しければ時間から手を引け。』

  変声機越しだが口調はなんとなく男のそれだ。

  すぐさまスピーカー出力にして、署長と再度のアイコンタクトを交わす。推理などしなくとも、一連の誘拐事件の犯人、もしくはその仲間であることは明白だった。

  「お前達は何者だ! 目的は何だ!!」

  『……目的は果たした。こちらはもう誰も誘拐しない。だから、警察も手を引け。』

  「そんな理屈が通るか! 今すぐお前達を捕まえる、居場所を吐け!」

  『……交渉決裂かな?』

  『ひぃっ、うがあああ……!』

  苦痛に歪んだ悲鳴が聞こえた。腹部でも殴打されたかのような、ベンガル市長の呻き声だった。

  開いたばかりの写真のせいでその光景がありありと浮かぶ。刃物でも突き付けられているならば今すぐにでも命の危険が迫っているだろう。署長が、慌てて俺を制した。

  「分かった、君たちの言う通りにしよう。その代わり市長の安全は保証してくれ。」

  「(署長!!)」

  『……我々を追っている刑事がいるだろう。そいつらにも誓わせろ。』

  恐らく先日の捕物で俺達の面が割れたのだろう。優位に交渉を進めるにはには情報も冷静さもまるで足りない。市長の命が掛かっている以上、犯人の言いなりになるほか無かったのだ。

  少なくとも今のところは。

  『……約束を違え次第人質を殺す。また電話する。』

  一方的に切られる通話、受話器からはツーツーと無機質な電子音が繰り返される。歯噛みする俺は行き場のないやるせなさを電話機に叩きつけるしか無かった。

  手を引け、だと。それでこれまでの被害者が帰ってくるのか?

  警察をコケにしているにも程がある。怒りに任せ椅子に掛けていた上着に手をかける俺を、署長が冷静に制した。

  「シェパちゃんはここから動いちゃダメ。次に犯人から電話が来た時に怪しまれる。」

  「どうしてそんなに落ち着いていられるんですか!ここまでされて黙ってなどいられません!」

  「"シェパちゃんは"ダメだ。」

  一度目と変わらないトーンで淡々と俺に釘を刺し、署長は無線機を取った。柔らかい物言いでそれでいて冷静に。

  『網を張る。僕とシェパちゃんはここから動けないから、みんなは指示通りに散らばってくれ。本丸が動きを見せた、これが最初で最後のチャンスかもしれない。気張っていこう。』

  地図を広げて各自に待機指示を伝える署長は、少なくとも俺の目からはいつも通りに見えた。署内の人員は決して多くはない、それでも最善を尽くす。

  私服で配備された同僚たちをよそに何も出来ず指を咥えているのはやはり悔しいが人命がかかっている以上は署長の通りにする他なかった。

  次の電話がなるまでは。

  「コリーに何をした!!」

  受話器が壊れるほどの怒声は俺のものだった。

  その手に握られたのは続け様に投函されていた一枚の封筒とその中に閉じられていた、写真。

  冷静でなど居られるはずもない。安っぽいパイプ椅子に縛り付けられた身は頭部の目隠しの布と噛まされた沓以外一才の衣服を剥ぎ取られ、暴行の跡が惜しげなく晒されていた。

  まだ乾ききっていない赤の強い血痕に、俺の見開かれた両眼も同じ色に染まっていく。

  電話が鳴ったのはまたもや俺と署長がそれを目の当たりにしてから数十分と経たないタイミングだった。

  開口一番に怒鳴りつけた俺に触らぬよう手早くスピーカー出力に切り替える署長は冷静と言えるだろうが、表情から滲み出るものはおよそ異なる感情だった。

  「話が違うじゃないか。人質が増えている。」

  『それは此方の台詞だ。先に約束事を違えたのはお前たちの方。写真は届いているだろう、この犬が嗅ぎ回っていたから約束通り人質は殺す。』

  『や、やめてくれ!!』

  少し離れた場所からの悲鳴はベンガル市長のものだ。少なからず折檻を浴びたであろうその声はすっかり震え、今日は色に染まっている。

  ギリリと受話器を待つ掌に朝が滲んでいく。

  「コリーに関しては彼の独断だ。我々警察としての意志じゃない。」

  『……なるほど。そちらの署長さんは随分と冷たいな。』

  「署長……?」

  社長の発言が何を意味するかはすぐに分からなかった。分からない振りをしたかった。

  『交渉は成立だ。良かったな、これが最後の犠牲者だ。』

  それを最後に、通話は途切れた。

  締め付けるような胸騒ぎの中、録音された通話を聞き返す。

  変声機で歪められた声色は抑揚もなく、個人を特定するには至らない。

  だがその中に僅かに聞こえる雑音。雨音だ。丁度、署の屋根に最初の一粒が当たったところだった。

  降り頻る雨足の中、犯人から指定されたのは平屋の続く住宅地だった。

  署の人員を総動員して一軒一軒を総当たり。あたり中パトカーのサイレンが鳴り響いており、インターホンなど押すまでもなく住民達は扉や窓を開いて何事かと言わんばかりの顔をしていた。

  既に散っていた仲間とは違い少し遅れて到着した俺と署長は慣濡れるのも厭わずに一軒の空き家へと掛けていく。

  「住民は居ません。長いこと空き家だそうですが、扉や周辺からは最近まで使われていた形跡があります。」

  「僕たちは裏口を。シェパちゃんたちは正面から!」

  「了解!!」

  鍵の掛かった正面扉は正攻法では開かない。

  急いでピッキングツールを持ち出すのは隣の警官だったが、俺はそれを制止して一息、吐いた。

  次の瞬間、古ぼけた扉はロックごと吹き飛んでいた。肩に伝わる鈍痛など重くのしかかる不安に比べればなんでもない。

  室内を土足で踏み抜く脚は警戒などする余裕も無かった。ただただ一心に、祈った。

  「!」

  最初の扉、開いた所に人質は繋がれていた。

  写真で映っていた通りに椅子に繋がれ、追加で沓をされたベンガル市長だった。

  「市長!ご無事ですか!!」

  俺が扉を開けても反応しない。駆け寄って呼吸を確認する。顔色はひどく青ざめてはいるが、命に別条は無さそうだった。

  ぐったりと項垂れたままの市長の沓と目隠しを急いで外すと、双眸がゆっくりと開いていった。

  「シェ……シェパード君か……」

  「ご安心ください!ここは我々が……」

  「君の……相棒が……」

  「!! コリーが、どうしたんです!?」

  「シェパードさん!!」

  酷く慌てたように同僚が俺の名を呼ぶ。

  嫌な想像だけが俺を支配した。

  市長の身柄を部下に委ね、別の部屋へと案内されるがまま着いて行く俺の足取りは目的地に近づくにつれて鉛みたいに重く苦しくなっていく。

  「………………」

  開かれた扉。一室の中央に括り付けられた椅子に、一人の犬獣人。

  ドクンドクンと心音が胸を裂くように叩きつける。

  大丈夫だと言い聞かせて一歩ずつそれに近付けば、否応無しにそれが昨日俺に晒したばかりの裸体のままだと確信する。

  きっと市長と同じだ。目元と口元の布を取り払えば、取り乱し慌てた俺を笑って小馬鹿にするのだろう。

  そして俺はまた、お前を叱りつけるのだ。

  「そうだろう、コリー?」

  だが、俺の震える声を前にしても晒された二つの瞳に光は灯らなかった。

  沓を外しても何も溢さなかった。

  縄を解いてもずるりと椅子から崩れ落ちそうになるだけで、受け止めた身体は何処もかしこも雨に濡れた俺など比較にならないほどに、冷たかった。

  間を置かずにやってきた署長やその他の同僚達は、俺に声を掛けることなく直ぐに退室していった。

  悲嘆と、それ以上に怒り狂う俺にたじろいだのかはたまた気を遣ったのかは知らないが、そんな事はどうでもよかった。

  この日俺のバディであったボーダーコリーは殉職した。

  「異動を蹴るって、本当かい!?」

  翌日、何事もなかったかのように毅然とした態度で俺は署長室をノックしていた。

  「忘れろとは言わないけど、冷静になった方がいい。自分のためにも、きっとコリーちゃんだって同じ事を言うだろう。」

  「そうでしょう。それでも私は、約束したんです。この事件を解決すると。」

  コリーの遺品は脱がされた衣服くらいしか無かった。独り身だったコリーには親族の登録も無く、事件に繋がらないであろうものは全て処分された。

  そしてそれ以来、この街で同様の手口と思われる事件はぱったりと止んだ。良くも悪くも犯人も約束を守った、というところだろうか。

  これを言ったら叱られるかもしれないが、また事件が起これと思うことさえあった。

  コリーの死から15年。署も様変わりした。異動する者、昇進する者、退職する者。時に取り残されたように、俺と署長を除いた周りだけがぐるぐると巡って行く。

  もう誰も例の事件のことを知らない。そんな中、一件の通報があった。

  『あー……お巡りさん、人攫いかもしれんのだが……」

  ゾクリとした。

  結論から言えば連続誘拐事件とは何の関わりも無かったのだが、俺は動かずにいられなかった。

  不思議と、俺が行かなければならない気がしたのだ。

  そして扉を開いたときに"そいつ"はいた。

  白と黒の毛並みを惜しげなく晒して両腕をベッドに縛り付けられた一人のボーダーコリーだった。

  「……帰ったぞ。」

  時間は深夜の二時を回ったところだった。

  自宅の敷居を跨ぐ俺に声を掛ける者はいない。

  部屋は暗く、明かりをつけるとダイニングテーブルにラップを掛けられた料理が並んでいた。

  「あら、おかえりなさい。勝手にシャワー借りたわよ。」

  「ああ、コリーは。」

  ドーベルが指差した先。ひどく疲れたのだろう、ソファに寝転んだまま深い寝息を立てている。

  殴られ、青く腫れ上がったとしても綺麗な寝顔だと思った。"あの"コリーとは似ても似つかない。

  「お酒辞めたってホント? 知らずに買ってきちゃった。」

  「……一本貰えるか。」

  「ええ、まあ。」

  別に好きでもなんでもないのだがあの日から毎日飲んでいた。習慣になったそれを辞めたのはいつからだろうか。

  そうだ、あの日性被害に遭っていたコリーを初めて家に入れて、その日は遅くて……それ以来だ。他人がいるのに俺一人だけで飲むのもなんだか気が引けて、それからは何となく飲む気にならなかったのだ。

  「あの人の事、話してなかったのね。私から軽く話しちゃったわよ。」

  「……ああ、助かる。」

  ドーベルが冷蔵庫から取り出した酎ハイとビールはすっかり冷えていて、俺が安物のグラスに注ぐと大袈裟に泡を立てた。

  ドーベルには下手だと揶揄されるが、白泡が静かに体積を減らすのを眺めるのが、俺は好きだった。

  そうして中々口に付けない俺を見て、構わずドーベルは一口啜ってから俺に尋ねた。

  「ねえ、どうしていつも黒ビールなの?」

  「…………さあ、な。」

  [newpage]

  身体が熱い。

  やけに喉が渇く。久しぶりの寝酒に当てられたか。

  中々寝付けず起きては水を飲みまたソファに戻るを繰り返す俺は、内からくる熱に支配されていた。

  ドーベルには俺のベッドを貸してある。軽い問答を交わしたが仮にも今回の事件の被害者の一人だ、来客でもある彼に強引に寝床を譲り俺はコリーと入れ違いにソファに毛布を掛けた。

  なのだが存外、眠気よりも別のものが勝ってしまう。

  ここ数日休業を言い渡されて体力が余ってしまったのだろうか。

  己の股間を見れば、自ずと答えが出ていた。

  「……くそっ。」

  何度目かの舌打ちだ。

  目を閉じてもモノが下着を押し上げて窮屈そうにしているのが痛い程に分かった。

  毛布を捲り上げて確認すれば、トランクスの隙間から見え隠れするほどに天を衝いて止まない。

  若い頃ならいざ知らず、この歳になってこの有様とは我ながら自分の浅ましさに嫌気が刺す。

  明日は早朝から事情聴取の予定が入っているのだ、寝ぼけ眼で欠伸など決して許されはしない。

  とは言えすぐ横では二つのベッドにそれぞれコリーとドーベルが寝息を立てている。間違っても起こしてしまうわけにはいかなかった。

  立ち上がり振り返れば深い眠りについた二人。穏やかに眠るコリーを見ていると成人しているのが嘘に思えるような、そしてその無邪気な顔付きに良からぬ感情を抱きそうになる。

  下腹部で何かが俺を急かした。

  「はあ……はあ……っ」

  一枚ずつ寝巻きを取り払うと火照った体表がほんの少し冷却された気がした。けれども股間に溜まった熱は窮屈な空間から解放されてなお雄々しくかぶりを振った。

  風呂場はさっき使われたばかりでまだほんのりと湿気が残っている。壁に残っていた長い黒毛が、コリーがここにいたことを物語っていた。

  「何なんだ、この感じは……」

  コリーを思う度に胸が苦しくなる。あいつがシャワーを浴び、体じゅうで石鹸を泡立てる。それを想像するだけで自然と俺の右手は自らの逸物へと伸びて行くのだ。

  触れるとこれまでにない程硬くなっている。

  いかん、15も歳下の男で。分別のない右手はそれ単独で意思を持って陰茎に指を回す。それを咎める者はここにはいなかった。

  「ふっ、はあっ……く……」

  狭い空間だ、俺の必死にこらえる吐息さえ壁は反響させる。外に漏れればすぐそこにコリーとドーベルがいるのだ、知られるわけにはいかない。

  食い縛る口の端からは粘性の高い唾液がぼたぼたと垂れ落ちては床を汚していく。熱情の欠片とも言えるそれを興味本位で陰茎に垂らすとそれまで以上に水気を帯びた摩擦音がシャワー室を支配した。

  「ん……ふぅ、は……はっ、んんっ…………うはあっ……!」

  コリーが居候を始めてからというもの、自宅で処理したことは無かった。痕跡でも見つかった時には孫の代まで言い伝える程なら揶揄われるような気がした。

  そして間違ってもあんな子供、少なくともひと世代下の青年に手を出すような事があってはならないと自制が働いていた。タカが外れれば……その懸念が、少なからずあったのだ。

  「コリー…………っ!?」

  考えているうちに自然と吐いたその名に自分でも驚いてしまった。

  そうだ、いま俺はそのボーダーコリーを思い浮かべながら性欲の発散に耽っているのだ。

  一目見た時から扇情的な外見をしていると思った。あれが食材だったなら、一瞬のうちに平らげてしまうほどに魅力的だと思った。

  「!!」

  左肘を壁に突っ伏して前傾となると、目の前には鏡が俺を写していた。

  今この瞬間、息を荒げて一心不乱に竿を抜き上げる大男。その男がどれ程に浅ましい姿をしているかを浴室の鏡がありありと俺に突きつける。

  思わず手を止めた矢先、後方で僅かに物音がした。

  「……おっさん。またシャワー?」

  トイレに起きたのだろうか。コリーの声だった。

  生憎なことに二人を起こすまいとシャワーは出していなかった。まずい、とノズルに手を掛けるのと風呂場の扉が開かれるのはほぼ同時だった。

  「なーんて、そんなワケねーよな。」

  「おっ、お前! 勝手に……!?」

  裏返りそうになる声を必死に抑えるが弁解は辿々しいものだ。湯の出ていない浴室で全裸、いかに背を向けたところで状況証拠は十二分で、近付くコリーを振り払う術もない。

  「お前な!!」

  「しーっ。ベルが起きちゃうかも。」

  「…………っ」

  器用に後ろ手で扉を閉めるコリーは既にその身を浴室に収め切っており、俺の尾に触れるほどの距離に立っていた。

  俺はと言うと俺よりも頭ひとつもふたつも小柄な若造に容易く背を取られ、その上でなす術のひとつも無いのだ。今まで一度もこのような痴態を晒さず来たと言うのに今日に限ってどうして起きてくるんだ。何度問いかけたところで事態は好転しなかった。

  不意に、背中にコリーの両手が触れた。

  「こ、コリー……?」

  てっきり茶化されると思っていた。普段コリーの前で歳上然とした態度を見せていた俺を、下品な言葉で罵ってくるものだと。

  だが当の本人は何も言わずただ身を寄せるだけだ。

  恐る恐る振り向けば、見上げるコリーと静かに目が合った。その目は多分に水分を浴びていた。

  「俺も寝れなくてさ、身体が熱くって……おっさんも、そうなんだろ。」

  「お、俺は別に……」

  「こっち、向いてよ。」

  いやに弱ったような眼差しと口調で言うものだから流されるようにゆっくりと身体を翻した。

  コリーは部屋着ではあったが所々を大きくはだけさせ、特徴的な流れるような毛並みが露出していた。ゴクリと生唾が流れ落ちる。

  「すげえ……でっか……」

  「い、言うな!」

  両手で抑え隠す股間ではあるが掌からゆうにはみ出す先端を急いで押し込める。顔から火が出るほどに恥ずかしい、それなのに愚息は余計に張り詰めていく。

  滑稽な体勢で羞恥に耐える俺をよそに、コリーは両手を俺の上体へと回していく。

  「んっ……お、おい……っ、っふ……」

  「おっさんのにおいがする……このにおい好き。」

  「な、何を言って……ぬお……フーッ、フー……コ、コリー……ッ!」

  胸元と脇の間を摩るように行き来する手は小さい。それなのに今の俺にとってはどんな強固な剛腕よりも厄介に俺の奥をくすぐった。白黒の手が、俺を蹂躙していく。

  やがてコリーはその身を俺に預けるが如く体重を掛けてくる。支えるには容易い筈が、気付けば俺はすぐ後ろに壁が迫るほど追い詰められておりそのままトンと軽く背をついた。

  もたれ掛かるコリーに逸物が触れないように神経を尖らせる俺をよそに、コリーが俺の胸元で大きく息を吸って笑った。

  「おっさん、おれも……」

  「!!」

  右太腿にコリーの股座が触れていた。押し付けるように腰を振り、誇示するのは。紛れもないコリーの怒張だった。

  情けない事に自分の事で精一杯だった俺は、ここでようやくコリーの余裕の無さに気付いた。切なげに俺を呼ぶ声は助けを求める声か。はたまた……。

  心臓が張り裂ける程にうるさい。コリーの触れたところから体温が上がり、細胞が弾けるように熱を持つ。魔法のようなその両手は、腹筋の凹凸を確かめるようにゆっくりと上がっていき、大胸筋と鎖骨を丹念に撫で上げたのち俺の両頬で止まった。目的地にたどり着いたのだ。

  「……何を……」

  「ぜんぶ言わなきゃ分かんねーのかよ。」

  ぐい、と頬が引き寄せられる。

  爪先立ちのコリーと数センチのところで視線がかち合った。

  「……いいのか、俺で。」

  「ん。」

  触れ合った唇が答えだった。

  震えるままの両手を恐る恐るコリーの背に回し、体温を確かめる。出会った時のように儚く、ともすれば壊してしまうのではないかと思うその身は実際は成人男性として出来上がっており、徐々に両手にも力が篭っていくのがわかった。

  「っふぅ……おっさん、ビンビンじゃん。俺もだけど。」

  「うお……」

  他人の、それも屹立した陰茎を見ることなど殆ど無かった俺にとって、これほど至近距離で目の当たりにしたのは初めてだった。

  それが平均と比べてどうだとかは分からないが、スウェットから徐に飛び出る様を見せつけられて息を呑んだ。これが、コリーの"雄"の部分なのだ。

  「なにジロジロ見てんだよ。スケベ。」

  「ち、違……悪かった……。」

  「責めてないんだけどなあ。さ、俺の服も脱がして。」

  「……自分で脱げるだろう。」

  「はああああ。分かってねーなあ。ホラ、早く。」

  「ぐっ……」

  不本意だが、さも自分が正しいと言わんばかりの態度を取られればここは従うほか無かった。少なくともこういう場においてだけはコリーの方が一枚上手と言わざるを得ない。

  万歳したままのコリーの服の裾から、綺麗な形をしたヘソがチラリと覗かせる。毎朝のように捲れ上がったそれを見て見ぬ振りしていた俺だがやはりというかなんというか、自らの手で剥ぎ取るという行為自体に唯ならぬ意味がある事を身をもって知る事になった。

  「…………」

  「ふはっ、くすぐってえ。」

  本意ではないが衣服との間で太い指がコリーの脇腹をくすぐったようで小さな笑い声が溢れた。豊かな毛皮の内側の皮膚が小さく揺れているのが手に取るようにわかる。俺の手で感じているのだ。そう思うとまた良からぬ邪念が俺の中で燻る。

  「うお……ちょ、おっさん……んっ……服……っ」

  「少し、黙っていろ。」

  魔が差したと言うべきか、丁度コリーが先方やったように、体側に沿ってその曲線を確かめた。体毛に逆らってゆっくりと、部屋着の内側を調べ上げていく。

  途中腹や胸元に寄り道しては今まで意識しないようにしてきたコリーという男の上半身に、これまでの時間を取り戻すように、丹念に丹念に指を這わす。

  捲り上げられた衣服は胸の少し下で留まっているが、既に俺の指先は脇のすぐ下とその周辺をすっかり侵していた。視覚では分からないまま内側を暴くという何とも形容し難い背徳感が背筋を震わせる。

  ふと、それまで一切の抵抗を見せなかったコリーが俺の胸元にマズルを強く押し付けてきた。鼻筋を体毛で埋もれる胸の隙間に擦らせ、上目で訴えるように睨みつける。とても迫力のあるとは言い難い、弱々しい眼差しだった。

  「も……限界だから、はやく……」

  見ればコリーの逸物が押し付けられていた俺の太腿はじっとりと濡れ、しきりにしゃくりを上がるそこは今にも泣き出しそうになっていた。

  ゴクリ。今日何度目か分からない玉の唾液が喉を鳴らした。コリーと俺の腹の間で、俺の逸物がこれまでに無い程に滾った。直後、バスタブの中にコリーの部屋着が無造作に投げ入れられた。

  「なんか……おっさんにそんな目で見られると、ハズくなってきた。ハダカ見られただけなのに。」

  「……そんな目とはなんだ。」

  「まだ分かんねーの? 今のおっさん、すげーマジな顔してる。視姦でイかされるくらい。」

  横目で確かめる自分の顔はいつも通りだ。四六時中緩める事のない訓練された表情筋はこの窮地でさえもそれを固持している。

  これが一般的に"強張っている"と呼称されるものだと言うのは白眼に浮き出る赤い血管に気付いてからだった。表情筋で取り繕えない程に瞳孔は開き、毛は逆立っている。喉が、乾いた。

  「くそ、何なんだ……今日は俺が俺じゃないような……」

  「おっさんはいつもかっこいいよ。」

  「おっ!おい! 何をやっている!!」

  「んあ。何、逆にこの流れで何もしないことある?」

  俺が鏡に気を取られている間にコリーは立ち膝をついていた。

  一瞬視界から消えたと思った白黒は、油断した俺の両太腿に手を掛けて押さえつけ完全に無防備となった俺の股間に長く柔らかい舌を這わせたのだ。

  味見をするように先端を一度、それだけで爆発しそうな下腹部は壁を背にしているせいで引き下がることもできず情けなく小刻みに震えた。

  「そんな汚い所を舐めるな!!」

  口ではそう言うが両の手は虚空を掴んだまま動かない。

  きょとんと見上げるコリーの大きな眼球が、俺に何事も許しはしない。

  綺麗な顔だ、と思った。

  「好きな人のチンポが汚いワケねーだろ。」

  「!!」

  見惚れる間も無く俺の陰茎、その半分ほどがコリーのマズルに埋まった。

  最初は何が起きたか分からなかったが暖かな感触と浴室内に響く水音が生々しく事実を突き付ける。

  混乱する俺の脳は、コリーが頭を前後させる数瞬の後に快感を認識し始めた。それまでの刺激を凝縮したようなそれが、俺を襲った。

  「ううっ、ぐお……ふ、ううっ……な、なんだこれは……はああっ……!?」

  「んっんっ、んむ……ぐ、ん……っ。」

  「ま、待て……!!」

  口元で人差し指を立てたコリーの仕草に慌てて俺も右手で口を抑えた。今のは全て俺の声だ。職業柄、如何なる痛みにも耐えうる筈だった精神は目の前の、つい先日まで子犬だったようなバディによって容易く陥落していた。

  幸いドーベルが目を覚ました様子はない。意識的に固く閉じた咥内ではまだ消化しきれない所謂"嬌声"が残響している。鼻から出入りする空気はバランスを失って酸欠のように視界を霞がからせた。

  「んっ、ふ、んっ……んえっ……っはぁ……でっか。全然咥えきれねー……へへへ。」

  鋼の如く堅固な太腿が自分の体重ひとつ支えきれずガクガクと悲鳴を上げている。無理もない、下腹部を中心に力の抜ける感覚が広がっていくのだ。違法な薬物でも盛られたのかと勘繰るくらいに現実離れした快感とそれによる虚脱の中で、何故か陰茎を巡る血液だけは何よりも精力的だった。

  魔法にでも掛かったのだろうか。だとすればその主は目の前のボーダーコリー以外にない。何しろこれ程に良いようにされても俺は一瞬たりとも淫らな姿を晒すコリーから目を離せないでいるのだから。

  吐き出したばかりのモノを嗜めるようにベロリと舐め上げる。閉じた牙の間から漏れ出るのは他人に聴かせるべきではない声だ。

  「んううっ……ふ、ふうっ……!?」

  てらてらと唾液の光沢を帯びる俺の逸物と同様にコリーの口元も同じもので汚れていた。

  喉の奥、華奢な食道よりも遥かに径の大きいそれを何度も飲み込んで苦しい筈なのになお笑って見せるコリー。何が楽しいのだろう、目尻に涙を浮かべながら顔中を粘液塗れにして。

  「お〜、ビクビクしてら。おっさんもうイキそうでしょ。」

  「なっ、お……お前、どこでこんな……ふぐううっ……!!」

  「ホントはフェラでイかせたかったけど流石にデカすぎて疲れちったから、手でごめんね!」

  「まっ待て……んんっ! おっ、おい……んはあっ!!」

  他人に初めて握られる陰茎は残念なくらい人肌に飢えていた。

  両手でやっと周り切る外周を何度も上下に摩られる。男たるもの自身で慰める事など誰しもある行為だ、それが俺と比べれば赤子のような掌で催されているだけなのだ。その上で敢えて言うと、もたらされる快感の度合いは天と地ほどの差があった。

  もはや1分と保つまい。身体を巡る直感が囁くが、結論から言うと残念ながらその直感は当てにはならないのだった。

  再び先端が温かい粘液に包まれた。

  「へへ……やっぱ勿体ねーや……はむっ、んふ……」

  「ぐ、ぐおおっ!? っが……ぬあっ…………んおおっ……ィ……ッ……!」

  目の前の相棒は何処までも容赦が無かった。傍目には砂糖菓子でもねぶるようにしか見えないその実、内側では舌が亀頭を蹂躙していた。

  ぐちゅぐちゅと体液ごと扱き上げるストロークに合わせて震えていた体幹。その規則性だけが唯一の頼りだったというのにコリーは縋り付くか細い糸にすら手を掛けた。

  切れた糸に支えられていた俺になす術など何も無かった。

  「んおっ、おおっ……ふぐううっ……くそ…………」

  溜め込まれた精子が精巣を出たのが分かった。カクカクと情けなく前後に動く腰のその中心で行き場を無くしたそれが音を立てて尿道を駆け巡った。

  「イっ……グウウウウウッ……!! っは、ふおおっ……おおっ……!!」

  「んぶっ……!?」

  「ぬああああっ! ぐ、ぐうぅ……はあっ……ぐ…………っ」

  爆ぜた、と形容して遜色ない衝撃だった。

  突き出した腰の先端で起こった爆発は意図せずコリーの喉の奥を強く焼く。コリーは反射的に吐き出すが体外に出したところで爆発は止まず、暴れる砲身そのままに一体を塗り替えていく。

  頭が真っ白になる程の強い快感の中で、コリーの黒い毛の割合が僅かに減少していた気がした。

  「な、なんだこれは……がああっ……っはあ……」

  「ゲホッ……うわすっげ、まだ出てら……」

  「んなっ! もうやめ……くううっ……!」

  1度目の射精からどれだけ経っただろうか。永遠にも一瞬にも思える世界、次第に色を取り戻していくその中でコリーは手を止めてはくれなかった。

  乳牛を搾るように根本からぎゅうと力を込めてやればびゅうびゅうと何度も尿道を抜ける精液。最初の爆発に比べれば大人しいとも言えなくはないがそれでも駆け抜ける快感は俺の尊厳を刈り取るのに十二分だった。

  そして散らされる尊厳は漏れなく大きく開かれた歳下の舌の上へと献上されていく。既に唾液とそれ以外でこの上なく穢れたピンクの皮膚が真白になっていった。

  最後の一射で遂に俺の膝は決壊した。ずるずると浴室に背中を擦り付けながら体重を預けた俺。尻にぬるりと感じるのは疑いようもなく自身の精で、支える両の手も虚しく頭の高さは見る見るうちに滑り落ちていく。

  先程までの立場は逆転し、力なく目尻を弛ませる俺を見下ろすコリーの顔は何処までも満足気でなおかつまだ悪戯を思わせる空気が漂っていた。

  「はあ、はあっ……も、もう良いだろう……」

  「ん〜……んあ。」

  「ふむっ!?」

  繰り返すが、相棒は何処までも容赦が無かった。

  最早抵抗の意思を失って許しを乞う俺に、徐に跨ったと思えば勢いのまま俺の咥内を奪った。

  色々とあり過ぎたせいだろうか、俺は黙ってそれを受け入れる。経験など無くとも口付けがどんな意味を待つかは知っていた。コリーの好意から逃げるのを、俺は辞めた。

  「っ……よくこんな不味いものを嬉々として……」

  流れ込むのは酷く生臭い、それでいてどろどろと口中に纏わりついて離れないゲテモノだった。

  今すぐに濯いでしまいたいが組み伏せられたこの身ではシャワーのホースにさえ手が届かない。

  「不味いって、自分のザーメンじゃねーか。」

  「そっ!……それはそうだが……」

  「それに好きな人のがマズいワケねーじゃん。んっ。」

  べろりと俺の口元に残る残滓さえ舐め取るコリー。自分の全く違う生き方をしてきたこいつは全く理解出来ないが、こうして年相応に朗らかに笑いかける姿は何処までも俺の胸を高鳴らせた。

  異臭に包まれたバスルームだったがそれ以上にえも言われぬ空気が漂っていたのは確かだった。

  「よし。本番行ってみよう!」

  「ほん……ばん……?」

  パンと手を叩く。コリーは俺の腹の上に跨ったままその辺に散乱した俺の精を指で掬い、何をするかと思えば自身の肛門に塗り始めた。

  「な、何をやっている!?」

  「何って……流石に俺だっておっさんのは慣さねーと入らないよ。んんっ、ああ……おっさんのザーメンローションすげ……感じるう……」

  「まだやる気か!?いい加減にしろっ……!」

  うわ言のように意味不明な言動をし始めたコリーを押しのけようと体勢を立て直す俺だったが、その企みは握られる下腹部の刺激に呆気なく崩壊した。

  達して間もないそこは急所と言うに過不足ない。先端をゆるりと撫でられた暁には女子のような悲鳴を上げそうになり必死に声帯を締め上げるほか無かった。

  「だってほら、おっさんのチンポはまだまだ足りないって言ってるぜ。」

  「そんなことは……うぐ……」

  ついさっきあれほど盛大に出したのだ。生殖の仕組みに従えばそこは一旦の役目を終えて静まるはずだった。

  だのにコリーの手中にある俺の男性器は変わらず真上を向いて次の発射に備えている。

  どうにもおかしい。生まれてこの方、これ程長い間勃起に苛まれた事など無い。

  「スッポン、牡蠣、ウナギ、ほうれん草、ナッツ……」

  「お前、まさか……」

  「いや〜おっさんには元気になってほしいからさ、色々と。"精"のつく晩御飯、美味かっただろ?」

  食卓を思い返す。やけに食べ慣れない料理ばかりだとは思ったがその食材を聞いた途端に眠れなかった理由も滾ったまま収まらない下半身の正体も合点がいった。一服、いや一食盛られたと言ったところだ。

  はあ、と溜息をつく。全てを諦めたのと同時に覚悟を決めた一息だった。

  「あっ俺は!!……こういうのは初めてだからな! 下手でも文句は言ってくれるなよ……!!」

  「こんなチンポ生やしておいてそりゃねーだろ……んっ……おっ、おおっ……んおおおおおお!!」

  「ふうっ……なんっ、これはっ……!?

  ひと息にはとても入りきらない俺の逸物が、少しずつではあるが確実にコリーに埋まっていく。

  手淫とも口淫とも異なる、より深いところで俺とコリーが結びついていく感覚だった。

  性行為での慣用句、"ひとつになる"なんて物は一種の比喩表現だと思っていたが、完全に尻を俺の腹に据え付けて浅い呼吸をするコリーは、それを見て浅ましくも興奮する俺は、間違いなくそれだったのだ。

  「やべ……これ、動けね…………っふぅ、ちょっと待って、もうちょい慣れるまでこのままで……」

  「……済まない。」

  「はえ?」

  謝罪ではない。その一言はこれから始めるぞという決意の表明だった。

  直後、俺は脳を巡る電気信号のままにずっと我慢していた熱情、その全てをコリーの小さな身体へと打ち付けた。

  「んあああああっ!? ふええっ……んんんんっ!! まっ、ちょ……んひいぃぃっ!?」

  「ふん……これが欲しかったんだろう!!」

  「しゅ、しゅげ……なん、これ……ええっ……童貞ちんぽで、おれえっ!こわれちゃうううっ!!」

  「っていうね。」

  「『ね。』じゃないのよ。アタシは何を見せられてんの。」

  スケッチブックの最後のページにはオレとおっさんが幸せなキスをして終了!が描かれていた。

  うーん、我ながら結構上手く描けていると思う。現実のおっさんはもうちと男前なのは否めないが……

  長々と続けた紙芝居ではあったが、これは単なる妄想ではなくオレの完璧で綿密な作戦なのである。

  「だから料理を教えて!エッチな雰囲気作れるやつ!!」

  「却下。シェパちゃんに変なもの盛らないの。」

  「ベルだって雄みマシマシなおっさん観たいだろ!!」

  「……」

  「別に?」

  「何だよ今の間は。」

  結局折れることの無かったベルは普通に旨い夕食を作ったわけで。

  本当はおっさんが帰って来るまで待ってる予定だったのだが、この日はトランスとかいうライオンに犯されたり嬲られたりしてなかなかにヘトヘトだったオレは晩飯を食うなり寝落ちしてしまったらしい。

  目が覚めた時、部屋は真っ暗で、オレは自分のベッドに寝かされていた。綺麗に布団も掛けられているあたり、おっさんかベルあたりが運んでくれたんだろう。

  うっすらと見える時計が示すのは四時を回ったところ。日も登らないこんな時刻に目が覚めたのも、よくある生理現象だった。

  「うーっ。しょんべんしょんべん。」

  立ち上がると、暗さに慣れつつある目にソファに眠っている人影が映った。

  最初はベルだと思ったんだが、どうやら違うらしい。

  ああ、この人は。自分が一番遅くまで仕事をしてたってのに、他人に寝床を譲って自分は律儀にもこんな場所で寝息を立てているのか。

  カタいなあ。ま、そんな優しいとこも好きなんだけど。

  「おっさん、寝てんのか?」

  「…………」

  魔が差したと言っていい。いや魔はいつも差す気でいるのだが、なにしろ堅いガードに阻まれてた。

  普段オレより遅く寝て早く起きるおっさんの寝顔をこうして眺めるのも初めてかもしれない。

  尿意も忘れてその顔に寝息に夢中になるうちに、オレは鼻息が当たる位置まで目標に接近していた。

  「う…………コ、リー…………」

  「おれ……?」

  微かにオレを呼んだ気がした。

  夢の中ですら眉間に寄った皺にそっと触れると、力の籠ったそこがほのかに緩んだ気がして、おかしくなった。

  ああ、オレらが初めて会った時もすげー顔しかめてたな。嬉しかったんだぜ、オレのこと想ってくれる人もいるんだって。

  無防備だったおっさんの口元に、オレのが軽く触れた。すぐ離れたのは、たぶん照れ臭かったんだと思う。だって相手が眠ってるときにするなんてガチじゃん。

  あっという間のちゅー、これがオレとおっさんの初キスだと思うとちょっとドキドキする。

  あ、ジャコウの時のはノーカンだ。あれはキスじゃなくてタレントの行使、本質的に意味が全然違う。

  きっとこれはオレにとってのファーストキスで、おっさんにとっては何の事実も残ってない。

  ああ馬鹿みてえ!キスなんかでオレ、何をぐだぐだと考えてんだ。オレはさっさとおっさんにメチャクチャに抱かれなきゃなんないってのに、オレの方が変になっちまったみたいだぜ。

  変な時間に起きたせいだ、さっさとトイレ行って二度寝しよ。

  そう思って立ちあがろうとしたとき、おっさんの両眼が震えるように開いた。

  「んん……コリー……?」

  「あっ!えっ、ええと!起こしちまったかな!悪ィ、オレすぐ……」

  「行くな!!」

  突然、おっさんはオレの右腕を掴んでいた。部屋着の上から力いっぱい、毛の引っ張られる痛みにオレの顔がほんの一瞬歪んだ。

  「なっナニゴト!? トイレ行きたいんだけど!」

  「あ、ああ……すまない、何でもない。」

  急に人が変わったみたいに迫真の形相で引き留めるおっさん。なんだ?トイレに流れなかったウンコでも残ってんのか?

  と思えばさっきの迫力が嘘みたいにすぐに解放される腕。ただ寝ぼけていただけらしい。

  珍しい。この人が寝ぼけるなんて。気丈なフリして誰よりも疲れてるじゃねーかよ。ソファからは腕も脚もはみ出して、こんなに体縮めて。

  「おっさんにとっちゃ窮屈すぎるだろここ。ちょいとうなされてたよ。」

  「……ベッドはドーベルに譲ったからな。」

  「ならオレのベッド使ってよ。オレがこっちに寝るからさ。」

  「それは……」

  「それとも一緒に寝よっか?」

  ぽん、とソファとおっさんのわずかな隙間に腰掛ける。

  やっぱ狭いソファだ、そのまま上体をゆっくり倒せばおっさんの上に倒れ込む形になるのだが、案の定おっさんに触れる前に太い二の腕がオレの体重を支えた。

  いけずだ。

  「あのな、大人二人がこんな場所で寝られるわけがあるか。」

  「そりゃこっちのセリフ。オレが横を通っただけで起きたくせに。ちゃんと寝なきゃだめだろ。」

  「…………」

  そう言って立ち上がろうと思っていたオレの身体は、気づいた頃には足は床を離れて宙に浮いていた。

  最初は両肩に回されていたおっさんの腕が、気付けばオレの背中と膝の裏にある。まるで子供でも寝かしつけるみたいに軽々と持ち上げるのだ。ロマンチックに言えばお姫様抱っこってやつ。なになになに?

  こんなん惚れてまうやろ!いやもう惚れてたんだった。

  そのまま無言で運ばれる先はオレのベッドだった。オレが毎日寝起きして、今日だってついさっき、数分前までここで寝息を立てていたのだ。

  それなのに今は、どうしてかベルの奴が手足を放り出して占領しているではないか。どういうこと?なんでベルがオレのふとんで寝てんの?

  「ドーベルは昔から寝相が悪くてな……飲んだ日は特に。リビングを荒らされても敵わんからオレの寝床を押し付けたんだが。」

  「はあ。どーりで。」

  隣のベッドに移動する寝相ってあるの?

  起きててなんか企んでるんじゃないかとも思ったけどこれは本当に眠っている。

  「おーい! ベル、ここオレの……ひっ!?」

  折角の添い寝チャンスを潰されてたまるかと変な態勢のベルを起こそうと手を伸ばした瞬間、オレの顔のすぐ横を踵が通り過ぎた。少しして体毛がその風になびく。目にもとまらぬなんて言い回しがあるが、このベルの蹴り技がまさにそれだった。

  「一度寝たら朝まで起きない奴だ。諦めてくれ。」

  「いやこれは起きないとかそういうレベルじゃねーだろ! これじゃあ結局寝れないじゃん!」

  「……ベッドならもうひとつ有るだろう。」

  そこはすぐ横、ワープ前のベルが眠っていたはずの、おっさんのベッドだった。優しく連行されて、オレの体重にほんの少しだけマットレスが沈んだ。

  また一人の布団に逆戻りだ。オレはおっさんとならソファだって床だってどこだって良いのによ。

  結局これだ、現実のおっさんはオレがいかに迫ったところで隙のひとつも見せやしない。いつも返り討ち。

  そろそろオレの心も折れそうかも。あっでもおっさんのベッドはいい匂いがした。

  ぎっ、とベッドが軋んだ。

  「えっ?」

  セミダブル、わりかしちゃんとしたベッドだ。オレ一人の体重で悲鳴をあげるフレームじゃない。

  まさか、と思った。

  「あの……おっさん?」

  「……同じベッドで良いとお前が言ったんだろ……このまま黙って寝ろ。」

  ちょっと脳が置いてけぼりになった。

  隣にとびっきり男前のジャーマンシェパードがいる。

  これは夢でも妄想でもない。間違いなく現実の出来事だ。だってつねればほっぺも痛い。

  わざと目を固く瞑って真上だけを向いている。もし誘ったつもりなら下手くそだなー。まあ、万にひとつも無いだろうけど。

  そうだ、オレは今おっさんと一つのベッドを共にしているのだ。端の端に陣取ったおっさんはオレと気持ちばかりの距離を取って、それでも腕を伸ばせばすぐ届く距離にいる。

  出来ることなら毎日この距離で顔を眺めながら眠りにつきたい。おっさんの香りに包まれながらおっさんに食われる夢を見たい。

  でも。今日はこれでいいか。そうして眠りにつこうとしたとき頭部の所在なさを覚えた。

  「……そうだ、まくら。」

  おっさんの耳がほんの少しだけ動いた。

  オレの枕は現在ベルが強奪し、危険地帯たるベルの真下にあった。

  仕方ない。せめておっさんの方だけ向いて寝よう。オレは黙って目を瞑った。

  「…………んん?」

  「少し頭を上げろ。」

  ところがどうしたことか、今オレの目の前には一本の太腕が差し出されている。とびきり上質な毛皮の枕が望まれるままやってきたのだ。

  マジ?ほんとに夢じゃない?

  恐る恐るそこに頭をのっけると腕の骨がゴリリと当たる。間違いない、こりゃ添い寝に慣れてない童貞の腕だ。

  慣れた手つきで角度と位置を調整すれば、それでもなお発達した筋肉の弾力がオレの側頭部を押し返す。変な力が入ってるのだ、無意識に。かわいい。

  さらにオレにとっては少し高い。おまけに体温が高くて血管の音も聞こえてくる。

  寝心地が良いかと言われればそうでもない。色んな客たちに腕枕され慣れたオレに採点させれば、快眠ランキングは文句なしのランク外だ。

  だってこんなの寝れるわけない!!

  濡れるわ!!

  ただでさえあのおっさんと添い寝してるのにおっさんの腕はシャンプーの匂いの中じんわり汗かいててほのかに香るし!!

  目ェ瞑っててもむず痒そうにしてるおっさんの顔はめっちゃそそるし!!

  手を伸ばせば……いや普通にしてるだけでオレの両手、おっさんに届くし!!

  ということでオレはごく自然な流れで片手をおっさんの胸の上に置きます。一定(を装った)のリズムで上下していた大胸筋が一瞬止まってペースを乱します。

  肌着の上からでもわかる豊満な胸板はオレの人生の中でダントツで屈強なのに、その下にある心臓はこれまたダントツで初心なのだ。

  もらった。そう思った。

  「おっさん……オレ、おっさんに言わなきゃならない事があるんだ。」

  「もう寝ろ。明日……今日は早いぞ。」

  「聞いてよ。今言わなきゃ後悔するから。」

  「…………」

  ああ、おっさんの初心が感染ったみたいだ。ただ打ち明けるだけなのがこんなに恥ずかしいなんて、知らなかった。

  おっさんは何も言わないしこっちも見ない。だけどジャーマンシェパードの特徴的な大きな耳は一言一句を逃すまいと小刻みに動いている。そんな気がした。

  「怒らないで聞いてほしい。こんなの初めてだから。」

  「…………」

  「誰にも言わないでよ。オレ、実は……」

  一瞬の静寂。

  オレの告白ののち、勢いよく掛け布団が取り払われた。

  冷静さを欠いたおっさんの両眼がオレを突き刺す。

  その迫力にオレの方が目を背けてしまう。真っ赤になったオレの顔は火が出るほど熱かった。

  「コリー……!!」

  「おっさん……だ、だめ……」

  猛獣がごとく発達した牙がギラリと光ってオレを威嚇した。覚悟したはずなのに、オレは動けなかった。

  「漏らしたなら漏らしたと早く言え!!」

  「あんまり大きい声出さないで!ベルが起きちゃうだろ!」

  寝巻きを貫通した水分と香りが寝床を汚していた。

  シーツにはシミが広がっている。寝小便?違う、寝る前小便だ。

  「お前っ!どうして早くトイレを済ませなかった!」

  「行こうと思ってたのにここまで運んだのはおっさんだろ!」

  「すぐ立てば良かったろうが!!」

  「そりゃ!!……そうなんだけど。」

  忘れてしまったのだ。

  一気に色々と貰いすぎて、尿意を忘れるくらい今の状況に夢中だったのだ。

  それが腕枕で、黙って差し出されたおっさんの腕で決壊したのだ。

  オレは悪くない。悪いのは急に男ぶりを見せつけてきたおっさんと耐えられなかった膀胱だ。

  「よりによって俺のベッドで……くそ、マットレスまで濡れてるじゃないか……」

  「えへへ。マーキングってやつ?」

  「馬鹿なこと言ってないで早く身体を洗って着替えてこい。」

  「……一緒にシャワー浴びる?」

  「次に変な事を言えば今日のお前の寝床はアパートの廊下だ。」

  「すいませんでした。」

  ちゃんと怒っているおっさんはちゃんと怖かった。

  さっきまでの良いムードが嘘みたいに空気が悪い。途中までは良かったのだ。今日が今までで一番のチャンスには違いなかった。

  もしあのままくっついて寝られていれば、もしかしたらなりゆきで本当に……あったかもしれない。

  うう。バカバカバカ。オレのポンコツ膀胱。

  今更硬くなったっておせーんだよ。

  湯粒に濡れてしなしなになった耳と体毛が、まさに今のオレみたいだなって思いました。まる。

  ────────────────

  次回予告

  強制休暇の中、被疑者への過度な暴行により厳格な謹慎処分を言い渡されたジャーマンシェパードのおっさん。そしてオレも監視役として謹慎休暇を取ることに。なんだそりゃ。

  丁度いいので新調したマットレスを交換する際、オレは大事そうに部屋に飾ってあった古びたのドッグタグを落としてしまう。

  ええっ、オレのせい!? 怒らないで、おっさん!!

  でもおっさんは急に神妙な顔つきで、ダンスの引き出しから古くさい携帯電話を取り出すのだった。

  次回、シェパードおっさんの童貞が欲しいはなし 5話

  『むかしの[[rb:男 > バディ]]!?』