烏賊になって自分に食べられる話

  ▼1.

  「誕生日に、一人で居酒屋に行くのって、どうなんだろう」

  カウンター席に腰を下ろしながら、そんなことを考える。

  スマホを開けば、SNSでは相変わらず友人たちがくだらない話題で盛り上がっていた。

  「お誕生日おめでとう!」

  いくつかのDMが届いている。

  でも、わたしは返信しない。

  「……まあ、いっか」

  一人で飲むのが好きなわけじゃない。

  でも、今日は、なんとなく。

  ーー20歳になった。

  もっとこう、「大人になったな」みたいな特別な気分になるかと思ったけど、案外そんなことはない。

  ただの金曜の夜と、大して変わらない。

  「すみません、ハイボールをください。それと……刺身の盛り合わせ、まだありますか?」

  「ああ、あるよ」

  「じゃあ、それもお願いします」

  あえて特別なものは頼まなかった。

  誕生日だからって、無理にお祝いっぽくするのも違う気がしたし、なんとなく、"普段通り"でいたかった。

  この店は、仲間たちとライブ終わりの打ち上げでよく来ていた。

  でも、一人で来るのは初めて。

  20歳になったら、ここで一人酒をする。

  それがなんとなく、「大人になった証」みたいな気がして、勝手に決めていた。

  ……こういうの、我ながらちょっと青臭いなって思う。

  きっと来年になったら、「なんでそんなことにこだわってたんだろ」って笑うんだろうな。

  カウンター越しに店員がグラスを置く。

  「誕生日? いいねえ。楽しく飲んでってよ!」

  「ふふっ、ありがとうございます」

  わたしは軽くはにかんで、グラスを受け取る。

  店員が誕生日を知っているのは、ここに何度も来ているから。

  ただ、今日までは、酒を飲んだことはなかった。

  グラスに映る自分の顔を、ふと見つめる。今日のわたしは、少しだけ"いつも"とは違う。

  普段のわたしは、"強い女"だった。

  髪を派手に染め、ピアスを揺らしながら、ライブハウスの照明の中で跳ね回る。

  それが、「わたし」だった。

  でも、今日は違う。

  髪は黒に戻し、メイクも薄く、服装もシンプルにまとめた。

  だけど、それは"地味にした"というわけじゃない。

  わたしは、自分の服のセンスにはそれなりに自信がある。

  特別オシャレを追求しているわけじゃないけれど、「どういうものが自分に似合うか」はちゃんと知っている。

  たとえば、このシンプルなワンピース。

  華やかさはないけれど、ほんの少し肌に馴染む色を選んだ。

  派手なアクセサリーはつけない。その代わり、髪の質感や、襟元のさりげないデザインを生かす。

  体のラインを拾いすぎず、でも全体が綺麗に見えるシルエット。服は、着る人の体型や雰囲気によって、似合うものが変わる。

  どんなにおしゃれな服でも、"自分に合わなければ"台無しになる。

  その点、わたしはーー 恵まれている方だと思う。

  「顔立ちが整ってるよね」と言われたことは何度かある。

  特に目元。長めのまつげが伏せると、頬に影が落ちるのがわかる。

  こういうシンプルな服を着ると、それがよく映える。

  派手にしなくても、自然と目を引くようなバランスになってくれる。

  自分ではそこまで意識したことはなかったけど、そう言われるのが嫌いなわけではない。

  たとえば、今みたいに少し大人っぽい服を着ていると、自然と姿勢が良くなる。

  そういうときに、鏡を見て「悪くないな」って思うことはある。

  ……まあ、それを誰かに言うことはないけど。

  「……ふー……」

  グラスを持ち上げ、氷の溶けかけたハイボールの冷たさを喉に流し込む。

  このまま、ずっと、こんな日々が続くのかな。

  看護学校に通いながら、勉強して、卒業して、病院に就職して、

  いつか結婚して、家族ができて、老いて、死ぬ。

  それが、わたしの未来。

  たぶん、それは普通に幸せな人生なのかもしれない。

  でも、なんというかーー

  「すごく、つまらない気がする」

  グラスの中で、かすかに氷と炭酸が音を立てる。

  (……でも、それって贅沢な悩みなのかな)

  わたしは、特別苦労しているわけじゃない。

  成績だって悪くないし、将来もまあ、ちゃんと見えてる。

  好きなこともあるし、それなりに夢中になれるものだってあった。

  なのに、なんでだろ。なんか、ずっと息苦しい気がする。

  (……大人って、もっと自由なものだと思ってたのに)

  わたしは、グラスを指でなぞる。

  なんとなく、大人っぽい仕草をしてみたくて、グラスを軽く回してみる。

  映画とかドラマで見る、あの "余裕のある大人" みたいなやつ。

  でも、思ったより氷が勢いよく傾いて、琥珀色の液体が波打った。

  ひやりとした飛沫が指先に触れる。反射的に手を引くも、大したことはない。

  (……かっこつけたつもりが、ただのドジじゃん)

  そう思ったら、なんかちょっと恥ずかしくなった。

  そっと指を拭きながら、気づかれないように小さく息を吐く。

  わざわざ周りを気にする必要なんてないのに、無意識に店の様子をちらっと窺ってしまう。

  (なにやってんだろ、わたし……)

  そっと指を拭きながら、小さく息を吐く。

  このまま、"普通" に生きていく。ずっと "わたし" のままでいる。

  そのはずなのにーー

  どうして、"ここじゃないどこか" に行きたくなるんだろう。

  そんな場所、どこにもないのに。

  視線を水槽に向ける。ゆらゆらと泳ぐ烏賊が、静かに揺れている。

  ほんの一瞬、視線がぶつかったような気がしたけれど、すぐにイカは身を翻し、ふわりと泳ぎ去る。

  (……なんか、変な気分)

  スマホの画面を見つめる。

  「……連絡、しようかな」

  一瞬、迷った。

  (いや、でも今は……)

  "20歳になったら一人酒"。

  それをやるために、わたしはここにいる。

  わざわざ「寂しくなったから呼ぶ」とか、そんなのカッコ悪い。

  (……そうだよ、今は"この時間"をやるべきでしょ)

  スマホを伏せようとする。

  ーーでも。

  (……なんか、話したいんだよなあ)

  指先が止まる。理由は、わからない。ただ、今、"彼女"と話したい気がした。

  頭の奥で、彼女の声がよみがえる。

  わたしとは対照的に、少し低く、落ち着いた声。

  涼やかで、どこか芯のある話し方。ほんの少しだけ、言葉を間に挟む癖。

  会話のテンポを少しだけ調整しながら、でも不思議とそれが心地いい。

  (……あの髪、長くなったかな)

  何気ない仕草を思い出す。

  さらりと流れる黒髪。光を受けると、ほんの少しだけ青みがかった色が揺れる。

  少し伏せた視線の先で、グラスの水滴をゆっくり指で拭う。

  (……なんか、会いたいな)

  ふと、そんなことを思ってしまう。

  ほんの少しだけ、胸が苦しくなる。

  理由は、わからない。そんなの、考えたこともなかった。

  (別に、誘うわけじゃないし)

  (ただ、ちょっと話すだけだし)

  『今なにしてる?』

  一度入力して、また消す。

  いや、そっけなさすぎる?

  『お酒飲んでる!』

  ……いや、なんかダサいな。

  (なにこれ、送るだけなのにめっちゃ迷うんだけど……!)

  結局、シンプルに送ることにした。

  『暇?』

  それだけ送って、スマホを伏せた。

  「……よし」

  ▼2.

  指が画面をなぞる。

  何かを考えていたはずなのに、考えすぎて逆に何も浮かばない。

  (……なんか、気を紛らわせたいな)

  適当にSNSを開く。たいして意味もないスクロールを続ける。

  友人の誰かが、今日もくだらない投稿をしている。

  そんな中、一つの投稿がふと目に止まった。

  ーー「願いを叶えます。」

  ーー「今、この瞬間、あなたと同じ願いを持った誰かがいればーー」

  (……は?)

  広告か、スパムか?

  普段ならスルーするのに、なぜか指が止まる。

  願い。

  もし、今ここで、わたしが何か願ったとして、それが誰かと重なったら?

  たとえば、"彼女"も同じことを思っていたらーー。

  「このまま、ずっと一緒にいられたらいいのに」

  ……そう願ったら、どうなる?

  たとえば、次に会ったとき、なにもかも変わっていたら?

  「友達」ではなく、もっと違う関係として、彼女の手を取ることが、当たり前になっていたら?

  彼女の瞳が、わたしだけを映していたら?

  お互いの距離を言葉にすることなく、"そういうもの" として、当たり前のように隣にいられたらーー。

  (……っ!)

  ばかみたいな考えが、脳裏をかすめた。

  思い浮かべた瞬間、ひやりとした焦りが胸を刺す。

  (……いやいや、なに考えてんの、わたし)

  冗談だった。

  ほんの思いつきだった。

  ーーはずなのに、思ったより心が浮ついてる。

  指が、かすかに震えている気がした。

  わけがわからなくなって、慌ててスマホの画面を閉じる。

  手のひらがじんわりと熱い。

  熱いのは、酒のせい? それとも。

  (……なんか、落ち着かない)

  グラスを指でなぞる。

  冷たい。

  でも、わたしの頬は、じんわりと熱を持っている。

  (こういうのって、考えすぎると余計ダメなやつ)

  頭を振るようにして、照れ隠しにぽつりと呟く。

  「……もうイカにでもなって、ぷかぷか浮いてたい」

  カラン。

  グラスの中の氷が、ゆっくりと溶けるような音を立てる。

  スマホを伏せたまま、ふと顔を上げる。

  水槽の方を見ると、イカがゆっくりと揺れていた。

  (……イカって、何考えてるんだろ)

  何も考えてないかもしれない。

  わたしみたいに、あれこれ考えすぎて、勝手にドツボにハマったりしないかもしれない。

  水槽の中で、ゆらゆらと漂うイカ。

  食べられることも、自分の行き先も知らず、ただそこにいるだけ。

  (……ちょっと、羨ましいかも)

  ふと、バカみたいな考えが浮かぶ。

  (あのイカも、「人間になりたい」とか、思ったりするのかな)

  ーーそう思った瞬間、じんわりと笑いがこみ上げてくる。

  「なにそれ、ありえないし」

  思わず、口元を緩める。

  ちょっと酔ってるのかもしれない。でも、なんだかおかしくて、楽しくて。

  わたしは、グラスを持ち直す。氷がグラスの内側を撫でるように滑り、わずかに音を立てた。

  (……酔いすぎたかな)

  ふう、と小さく息を吐いて、スマホを手に取る。

  さっきの、あの変な投稿でも見返して、もう一度笑い飛ばそうーー

  そう思ったのに。

  ーー投稿が、消えている。

  (……え?)

  スクロールして探す。

  さっきまで確かに、タイムラインに流れていたはずなのに。

  ない。

  代わりに、新着の通知が一つだけ、増えている。

  「願いは、叶いました。」

  (なに、これ……)

  何気なくタップしようとした指が、わずかに止まる。

  画面の光が妙に眩しい。

  ーーそのとき、ふと水槽の方を見た。

  さっきと同じ、何も変わらないはずの光景。

  なのに。

  イカが、こちらを向いていた。

  ーー偶然だろう。

  そう思うのに、なぜか、背中の奥がざわりとする。

  さっき考えた、くだらない思いつき。

  『あのイカも、人間になりたいと思ったりするのかな』。

  (……いや、そんなわけない)

  わたしは苦笑して、視線を逸らそうとする。

  ーーその瞬間。

  視界の端がぐにゃりと歪む。

  グラスの中の氷が、やけに大きな音を立てた。

  カラン。

  ーー時間がひとつ、ずれた気がした。

  何かが引っかかるような、わずかに浮くような感覚。

  けれど、わたしが違和感を確かめるよりも早くーー

  「……え?」

  一瞬、ふわりと浮遊するような感覚があった。

  まるで、座っていた椅子の重みが消え、どこかに投げ出されたようなーー

  ぐにゃり、と世界が歪む。

  (ハイボール、少し早く飲みすぎた……?)

  頭がくらりとする。けれど、アルコールで気持ち悪くなったわけじゃない。

  もっと、こう、全身が 「ずらされる」 ようなーー境界が消える感覚。

  カウンターの木目が滲み、壁の色がゆっくりと流れ出す。

  目を開いているのに、まぶたの裏から何かが広がってくるような、

  淡い青の波紋が、視界いっぱいに揺れていく。

  どこからか、光の粒が降り注ぐ。重力のなくなった世界で、それは細かく揺らぎながら、

  わたしの手のひらに触れて、ゆっくりと溶けるように消えていく。

  ……いや、違う。"触れる" という感覚が、すでにおかしい。

  手を動かそうとするーーでも、手の存在がわからない。

  足を動かそうとするーーでも、足というものの輪郭がつかめない。

  (……あれ?)

  鼓動の音が遠のく。

  まるで、"わたし"という存在そのものが、世界の中に溶けていくみたいだった。

  「……ん」

  微かに視線を動かす。ぼんやりとした光の向こうに、誰かがいた。

  カウンターの席。そこに、どこかで見た気がする誰かが座っていた。

  (……あれ? なんで?)

  "誰か"が、グラスを持ち上げる。

  氷がカラン、と音を立てる。

  "誰か"が、笑っている。

  ーーけれど、まるで、遠い水面の向こう側の出来事みたいだった。

  ゆらゆらと揺れて、輪郭が定まらない。

  近づこうとするのに、距離が縮まらない。

  (これ……なんだっけ)

  記憶の中の誰か?それとも、ただの白昼夢?

  "誰か"はハイボールをもう一口飲み、グラスを置き、刺身の皿を見つめる。

  箸が動く。白い身が持ち上げられる。

  けれど、それすらも、なぜか、ただの光の残像みたいで。

  (……なんか、すごく、眠い)

  意識がふわりと沈む。

  "誰か"が、ゆっくりと、口を開くのが見えた気がした。

  けれど、その瞬間ーー

  すべてが、淡く霞んで、わたしの思考は、沈黙した。

  ▼3.

  意識が浮上する。

  だが、それはいつもの目覚めとは違っていた。

  まるで、身体のどこかが外側へと滲み出るような、不安定な感覚。

  強すぎる光が、視界に差し込んでくる。じりじりと、水を通して肌を焼くような、刺すような光。

  (……なに、この光……)

  あまりのまぶしさに、反射的に目を閉じようとする。

  ーー動かない。

  瞬きができない。いや、それどころか、まぶたそのものの存在を感じない。

  その上、呼吸をしている感覚もない。

  (……もしかして、病院!?)

  意識が混濁する中で、その考えがよぎった。

  急に倒れたのかもしれない。アルコールが体に合わなかったのか、それとも何か悪いものでも食べたのか。

  救急車に運ばれて、病院の手術台の上にいる? それなら、この眩しさにも説明がつく。

  麻酔が効いているのなら、身体が思うように動かないこともーー

  (……いや、違う)

  違和感がじわりと広がる。

  耳に届くはずの機械音がない。点滴の感触もないし、人工呼吸器も付いていない。

  何より、シーツやベッドの硬さ、布の温もり、そういったものが何一つない。

  病院ではない。では、ここはーー?

  視界を動かそうとするが、焦点が合わない。

  視界が、ぼやけている? いや、違う。

  「視点を動かす」という行為が、自分の意思でコントロールできていないような、奇妙な感覚。

  (……なに、これ……?)

  頭を動かしているはずなのに、固定されているような感覚。

  けれど、実際には動いている。ふわふわと浮いているような、宙に放り出された感覚がある。

  (……無重力……?)

  喉を通る空気がない。なのに、息苦しさは微塵も感じない。

  (え……?)

  混乱する思考が、一瞬止まる。

  肺が、動いていない? なのに、息をしなくても平気?

  いや、それ以前にーー

  (わたしの身体、どうなってるの……?)

  心臓が、ひやりと縮こまる。

  いや、そもそも、心臓が動いている感覚がない。

  (いや、そんなはずない……心臓がなかったら……)

  震える思考のまま、指を動かそうとする。

  ーー動いた。

  (よかった……ちゃんと……)

  だが、その直後、全身を氷のような戦慄が駆け巡った。

  動いた。確かに、指は動いた。

  けれど、違和感がある。

  一本じゃない。

  指が……いくつもある。

  (え……?)

  一瞬、思考が真っ白になる。

  混乱の中で、もう一度、指を動かしてみる。確かに、動く感覚がある。

  けれど、今までとは違う。まるで、腕の先が、裂けて増えたような感覚。

  違う、違う、そんなことがあるはずがない。

  だが、確かに、そこに「ある」のだ。

  (なにこれ……!?)

  血の気が、一気に引く。

  今度は、足を動かそうとする。

  浮遊感。

  まるで、自分の身体が、細かい繊維の束になって、ばらばらにほどけるような感覚。

  足を動かすたびに、そこにあるはずの一本が、無数に枝分かれして、重力のない世界に拡がっていく。

  (なにこれ、なにこれ……!)

  足じゃない。指じゃない。

  なのにわたしの感覚は確かにそこにある。確かに、神経が通っている。わたしが、動かしている。

  意識が、冷たく締め付けられる。

  ぞわり、と背筋を粟立たせる感覚ーーいや、背筋?

  背筋という概念すら、もうわたしにはないのではないか?

  違う、違う、違う。

  こんなの、わたしじゃないーー!

  暴れる。

  この状況を破壊しなければならない。

  この体から抜け出さなければならない。

  ぐるりと身を翻す。

  波打ったのは、水。

  ーー「水」。

  その瞬間、わたしの身体を包む感触が、一気に現実になる。

  (……水!?)

  水圧。冷たさ。肌を撫でる、柔らかくも逃れられない膜のような感触。

  まず思ったことは、「溺れる!」だった。恐怖が、全身を駆け巡る。

  直感が叫ぶ。

  逃げなきゃ。息を吸わなきゃ。

  「水面」を求めて、反射的に暴れる。バシャバシャと周囲をかき乱す。

  けれどーー

  呼吸ができない。肺が開かない。なのに何も感じない。

  空気を求めるのに、求める必要がない。

  (……!??)

  パニックの中、何かが目に映る。

  ガラス。水槽の壁。

  (……水槽……?)

  わたしが暴れたことで、水槽の内側が揺れる。

  波が反射し、視界が歪む。

  そこに映ったのはーーイカ。

  一匹の、イカ。

  (……え?)

  一瞬、思考が止まる。

  冗談のような考えが脳裏をよぎる。

  (……この水槽、居酒屋の……? じゃあ、このイカは……?)

  (……誰……?)

  視線をゆっくりと動かす。

  イカも、それに合わせて、同じように動く。

  わたしが触腕を少し動かす。

  ガラスの中のイカも、まるで真似をするように、わたしと同じ動きをする。

  ……いや。真似じゃない。

  まるで遅れて動いたかのように見えたが、違う。

  これはーーわたしだ。

  血の気が引く。理解不能。意味がわからない。

  (……なんで!?)

  ありえない。

  こんなこと、あるはずがない。

  わたしは……ただ、酒を飲んでいただけ。

  座っていた。カウンターに。

  誕生日の、一杯目のハイボールを飲んで……それだけで……

  (じゃあ、なんで!? なんでこんなことになってるの!?)

  脳が、答えを求める。

  何か、説明のつく理由。原因。きっかけ。

  何か……何か、心当たりーー

  ……ない。

  ない。

  あるわけがない。

  わたしがイカになんて、なる理由がーー

  (……いや、でも)

  ふと、記憶の奥に、たった一つの違和感が引っかかった。

  ーー『もうイカにでもなって、ぷかぷか浮いてたいわ』

  冗談だった。

  本当に、ただの冗談。いや、冗談ですらない、何の意味も持たないただの独り言。

  言葉にしただけの、何気ない独り言。

  それが……?

  (そんな、馬鹿な……!)

  ありえない。

  そんな非科学的な話、あるわけがない。

  けれど、他に何が? 他に何を説明できる?

  (いやいや、そんなわけない! そんなわけあるか!!)

  頭を振る。否定する。

  わたしが……そんなことで……?

  そんなことで、こんなことが起こるなんて……

  あるはずがないのにーーこんな現実が、目の前に広がっている。

  パニックが、最悪の形で膨れ上がる。

  けれど、それ以上に圧倒的な「違和感」があった。

  この感覚は、ただの混乱ではない。何かが、決定的に「ズレている」。

  何かが、おかしい。いや、さっきからすべてがおかしい。

  だけどーー

  何かが、まだ見えていない。

  ▼4.

  そのとき、視界の奥に、動くものがあった。

  そこは水槽の「外側」の世界。ガラスを真ん中とするとちょうどわたしと同じ位置にいる、一匹のイカ。

  そのさらに奥。

  ーー見慣れた居酒屋のカウンター席。

  そこにいるのは……"わたし"。

  (……嘘でしょ)

  呆然と、わたしはそいつを見た。

  そいつは、わたしの顔をしていた。

  わたしの服を着ていた。

  わたしの髪を揺らしながらーー

  ーー楽しそうに、注文した覚えのない日本酒を飲んでいた。

  (やばい、やばい、やばいーー)

  混乱と恐怖が、思考を根こそぎ溶かしていく。

  水の中で、何も言えない。声が出せない。

  わたしは、わたしが奪われるところを、ただ見ているしかなかった。

  そして、そいつが、ふと顔を上げる。

  水槽に映る自分の後ろ側で、そいつと目が合った。

  そいつが、わたしの顔で、ゆっくりと微笑んだ。

  視線が動かせない。

  わたしの席の前。そこに、わたしが注文していた刺身の皿。

  ……イカの刺身。

  そいつの指が、箸が、イカの身をつまむ。

  口元へと運ぶ。

  ーー噛む。

  わたしの中で、何かが壊れた。

  もがく。怒り、恐怖、焦燥。

  感情がぐちゃぐちゃに絡み合い、何も考えられなくなる。

  ただ、どうしようもないほど、頭が真っ白になった。

  暴れる。

  もがく。

  逃げようとする。

  でも、全てがおかしい。

  力の入れ方がわからない。

  水を蹴ろうとしても、蹴るべき足がない。

  手を振り払おうとしても、振り払う手がない。

  かわりに、触腕が動く。

  ぬるりとした感触が、皮膚の内側まで絡みつくように伝わる。

  何かを掴もうとするが、思うように動かせない。

  (わたしの身体っ……!! どうなって……!!)

  視界を動かそうとする。

  なのに、焦点が合わない。

  広すぎる。見える範囲が広がりすぎて、どこに意識を向ければいいのか分からない。

  右も左も、まるで自分の目の端にあるのではなく、別の視点として見えてしまう。

  おかしい。

  おかしい。

  おかしいのにーー

  そのとき、頭の奥がぐるりと反転するような感覚がした。

  (あれ……?)

  思考が、急にゆるむ。

  さっきまでの恐怖が、どこか遠のくように、意識の輪郭がぼやけていく。

  まるで、深い眠りに引きずり込まれる瞬間みたいにーー

  違う。違う。違う。

  こんなはずはないのに。

  なのに、頭の奥で何かが溶けるようにほどけていく。

  拒絶しようとするのに、身体が、それを許さない。

  (やばい……やばい……やばい……!!)

  視界の端が、じわりと滲んでいく。

  全身から力が抜け、浮遊感に包まれる。

  その瞬間、全てが"正しい"ものになった。

  視界の違和感がなくなる。体の輪郭がはっきりと認識できる。

  色がなくなって、光と影だけの世界が、自然なものとして馴染んでいく。

  触腕の一本一本の感覚がはっきりと伝わってくる。神経の繋がりと、動かし方がはっきりとわかる。

  人間とは全く構造の異なる内臓が、正常な位置で、正常に脈打っている。

  全ての感覚器官が正常に稼働し、何一つ異常を訴えていない。わたしの意志ではなく、わたしの身体が、それを正しいものとして受け入れようとしている。

  理解する。

  理解してしまう。

  パニックが、最悪の形で膨れ上がる。

  このままだと、本当に"戻れない"。わたしが"イカである"ということが、"本当のこと"になってしまう。

  頭の奥で何かが軋むような感覚がする。

  焦点を取り戻そうと、視界をぐるりと泳がせる。

  そして、"そいつ"を見つけた。

  ーーわたしと、目が合った。

  いや、違う。

  そいつは、こちらを見てなどいなかった。

  そいつは、両手で顔を覆っていた。

  最初は、泣いているのかと思った。

  震える肩、かすかに揺れる指先。

  でも、違う。

  指の隙間から、こぼれ落ちるのは、満たされた息遣いだった。

  ーー震えていたのは、唇。

  ゆっくりと、持ち上がっていく。

  震える吐息とともに、頬が緩み、表情がほどけていく。

  影を帯びた睫毛の奥で、微かに潤んだ瞳が揺れる。

  唇が、かすかに震えている。

  潤んだ瞳が、熱を孕んでもっと揺れる。

  そして、ゆっくりと、さらに唇が持ち上がる。

  震える吐息とともに、頬が緩み、表情がほどけていく。

  それは、静かで、情熱的で、どこまでも満たされた笑み。

  ーーなのに、見てはいけないものを見たような気がした。

  "わたし" が、わたしを見ながらーーこの世の何よりも幸福そうに、笑っていた。

  ▼5.

  水槽の中で、まだ水が跳ねる音がする。

  ーーいや、違う。

  跳ねたのは、水じゃない。わたしだ。

  わたしは、暴れた。死に物狂いで、もがいた。

  だって、まだーー

  (戻らなきゃ……)

  (戻らなきゃいけない……!)

  (どうして、なんで、わたしがここにいるの……!)

  わたしは、人間だった。わたしは、こんなはずじゃなかった。

  だから、こんなところで終わるわけにはいかない。

  こんなところでーー

  「ーーーすみません」

  その声が、わたしの脳を、真っ白にした。

  「その烏賊、いただけますか?」

  (……は?)

  は?

  は???

  何を言った?????

  思考が、一瞬、飛んだ。

  耳の奥に、何か鋭いものが突き刺さったような感覚。

  誰が、注文した??

  何を、注文した????

  言葉が、頭の中で何度も何度も反響する。

  "いただけますか" ーーって。

  "わたし" が?

  ……わたしを?

  カッと、頭の奥が煮え立つ。一瞬で、熱が駆け上がる。

  ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。

  何が、「いただけますか」だ。

  何が、「すみません」だ。

  叫びたい。怒鳴りたい。でも、声が出ない。

  水の中で、息を吸えないわけじゃない。

  それでも、喉が詰まるように、叫びが出てこない。

  怒りが爆ぜるように膨れ上がる。

  体が震える。水槽の中の水が揺れる。

  でも、それと同じくらいの速さでーー

  10本になってしまった足元から、じわじわと、冷たいものが這い上がる。

  何かが、わたしの中で軋む。何かが、"終わる" 音がする。

  水槽の中の水が、ざわりと揺れる。視界が、傾ぐ。

  怒りが、急激に冷えていく。

  それに代わって、心臓の奥に広がるのはーー

  (いや……"だから" か)

  そう気づいた瞬間、体の奥に違和感が広がる。

  指先が冷たい。手足の先から、じわじわと感覚が消えていく。

  (あ……)

  怒りが、溶ける。

  それが、恐怖に変わる。

  (……"終わる"?)

  違う。

  もう、終わってるんだ。

  だから、お前は、頼んだのか。

  わたしが、わたしを選んだのはーー

  わたしだったと、知っていたからだ。

  ぐちゃぐちゃになった思考の中で、それだけが、鋭く突き刺さる。

  ざわり、と水が揺れる。わたしの体が、浮いた。

  水から、引きずり出される。わたしの皮膚を包んでいた冷たさが、消えていく。

  (違う、待って、戻らなきゃーー)

  体が、空気に晒される。皮膚の表面が、ひりひりとする。

  さっきまであった水の感触が、もう、ない。

  わたしの体が、宙に浮く。

  人の手が、わたしを掴んでいる。逃げようとする。

  でも、力が違いすぎる。

  人間に、敵うわけがない。

  わかっている。わかっているのにーー

  (……お願い……)

  (お願いだから……!!)

  (やめろ……やめて……!!)

  (いやだ……嫌だ……っ!)

  料理人が、じっとわたしを見下ろす。

  考えたくない。わたしは、どうなるの?

  やめられたところでどうにもならないのに、それでもーー声の出ない体で、わたしは懇願するしかなかった。

  料理人の指が、わたしを掴み直す。

  それが合図のように、わたしの体は激しく暴れた。触腕が跳ね、吸盤が水気を弾く。

  必死に、抵抗する。

  でも、逃げられない。わたしを掴むこの手には、迷いがない。

  「……お、いいねえ、元気がいい」

  (……!?)

  料理人が、満足そうに呟く。

  その声は "褒め言葉" だった。新鮮だと。元気がいいと。

  ーーわたしは "食材" になってしまったんだ。

  暴れたことすら、人間にとっては "価値" になってしまう。

  わたしにとっては "死にたくない" という抵抗だったのに。ただ生きようとしただけなのに。

  その手が、無造作にわたしをまな板へと置く。

  硬い。冷たい。ひやりとした感触が、皮膚の隅々まで染み渡る。

  (……お願い……)

  料理人が、じっとわたしを見下ろす。

  まるで、鮮度を確認するように。命ではなく、ただの "材料" として。

  違う、わたしは、人間でーー!

  ーーザクッ。

  視界が揺れた。

  一瞬で、わたしの体が "ふたつ" に分かれる。

  切られたのに、痛くない。

  痛くないのに、わかる。

  (わたしが……“二つ”になっちゃったーーーー)

  もう "ひとつ" ではなくなった。

  料理人が、手早く何かを取り出す。

  背骨ーーに相当しそうな、わたしの"中心"を貫いていた透明な何か。

  それを、指で挟み込み、ずるりと抜き取る。

  あまりにも、あっさりと。あまりにも、何気なく。

  まな板の上で、わたしの "断面" が、ひらひらと揺れる。

  もう、繋がっていない。

  でも、まだ意識がある。

  料理人の指が、わたしの "半身" を持ち上げる。

  刃が入る。今度は "細かく" 切られる。

  ひとつ、またひとつ。

  わたしの "かけら" が増えていく。

  料理人は、無駄なく手を動かしていた。

  わたしの皮をそっと剥ぎ、滑るように刃を入れる。

  効率よく、形を揃えながら、リズムよく。

  (やめて、やめて、やめて!!)

  叫びたかった。でも、声は出ない。

  料理人は、最後の仕上げに、大葉の上に "わたし" を盛り付けた。

  わたしの皮膚の感覚が、消えていく。

  いや、違う。もう、皮膚の"どこ"が"わたし"だったのかすら、わからない。

  皿が用意されて、わたしは、そこに盛り付けられていく。

  刺身の身が、整然と並べられる。

  添えられた大葉の緑が、わたしを引き立てるように。

  わたしは、まだ "ここ" にいるのに。

  なのに、もう "ここ" にはいない。

  料理人の手が、最後に、わたしの "頭" を持ち上げる。

  そこに "目" があるから。

  わたしは、自分の "断面" を見ていた。

  目の前に広がる "わたし" 。

  皿の上に、きれいに並べられた "わたし" 。

  (これが……わたし……?)

  料理人の指が、わたしの頭を慎重に扱う。

  綺麗に、慎重に、細かい部分を整える。

  「……よし」

  まるで、美しく仕上げる最後の仕事のように。

  そうして、わたしの"頭"も、皿の中央に置かれた。

  ーーわたしの顔が、"料理" になった。

  揺れる視界の中、"わたし" がわたしを見ているのがわかる。

  どこか愛おしげに、恍惚とした顔で。

  笑っている……?

  いや、違うーー

  まだ……見えない……

  皿の上で見るぼやけた視界の中、輪郭が揺れる。

  わたしを見ている "わたし" 。

  表情は、まだわからない。

  「……ぁ」

  ゆっくりと、視界が澄んでいく。

  そして、

  わたしが……わたしを見下ろしていた。

  ーーどこまでも、優雅に。

  ーーどこまでも、満ち足りた、陶酔の表情で。

  唇が、わずかに湿る。

  目元の影が、色濃くなる。幸福を噛みしめるように、瞳が細まる。

  次に、箸が伸びる。

  もう"わたし"ではなくなった、わたしの "身" へと。

  (……いや……いやだ……)

  食べられる。

  食べられる。

  食べられる。

  それが、わたしの "最後" ーー

  ーーそのとき。

  そのすぐ隣で、別の手が動くのが見えた。

  (……え……?)

  ▼6.

  さらりとした黒髪。光を受けて、ほんのわずかに青みがかる。

  ゆるやかに指が動き、グラスを持ち上げる。氷がカランと鳴る音が、小さく響く。

  まさか、いるとは思わなかった。

  いや、いるはずがない。

  「……うわっ、まだちょっと動いてない? え、やば、やば……!」

  箸の先の "わたし" を見下ろし、わたしの最も大切な友人が眉を寄せる。

  「こういうのって、さばいた後でもしばらく動くんでしょ? ……うわ、ほらほら、まだピクってしてる、ねえこれ大丈夫??」

  「ていうか、さっきまで水槽にいたやつだよね? ……うわあっ! 目が合った気がするんだけど……」

  一瞬、皿の上から視線を逸らし、グラスを手に取る。

  けれど、気になったのか、すぐまた"わたし"に目を戻す。

  そして、箸を伸ばす。

  "わたし" の身に、そっと触れる。

  「……んー……やっぱ、きついかも」

  友人は、箸を止め、すぐにそれを引っ込めた。

  そのまま小さく息をつき、グラスを傾ける。

  「生もの、やっぱ苦手。匂いもダメだし、食感とかも無理。……最初から分かってたんだけどさ、ちょっとチャレンジしてみようかと思ったんだけど」

  ほんの少し笑うような調子で肩をすくめる。

  けれど、その指先は、確かに "わたし" を遠ざけるように、カウンターの端へと逃げていた。

  「こういうのって、見た目が無理なんだよね……生きてるやつを食べるの、なんか怖くない?」

  「怖い?」

  「うん、だってさ、ほら、最後の最後まで抵抗するじゃん。こう……ちょっとでも生きようとしてる感じ。え、もういいって……!」

  まるで冗談みたいに言う。

  けれど、その軽い言葉が、"わたし"の奥に突き刺さる。

  わたしの箸が、一瞬止まる。わたしが、微かに笑う。

  「……そうかもね」

  友人は、わたしを見つめる。

  そして、ふっと、安堵するように息をつく。

  「……やっぱり、人間でよかった〜」

  グラスを持ち上げ、氷を揺らしながら続ける。

  「私、こっち側で本当によかったなって、こういうとき思うんだよね」

  「こっち側?」

  「うん。食べる側でいられるってこと」

  冗談みたいな軽さで、さらりと口にする。

  それはまるで、なんの疑問も持たない当たり前の事実のように。

  「もしさ、逆だったら最悪じゃない?」

  「逆?」

  「うん。食べられる側だったら、めっちゃ怖くない? 逃げられないし、抵抗したって無駄だし……」

  「でもさ、それが普通の世界って、こいつらにとっては当たり前なんだよね」

  "こいつら"ーーそう言って、友人は皿を見る。

  その視線には、憐れみでも、悪意でもなく、ただ、距離があった。

  「……そういうの、考えるとさ」

  軽く氷を鳴らしながら、友人はグラスを傾ける。

  そして、笑う。

  「……ほんと、人間でよかった」

  わたしが、箸を握り直す。微かに笑う。

  まるで、その言葉が 「当然のこと」 であるかのように。

  「……ほんとにね」

  わたしの箸が、ふたたび動く。

  そこにあるのはーー"わたし" の身。

  ゆっくりと、持ち上げられる。

  わたしの唇が、かすかに開く。

  「…………っ」

  そんな器官はもう無いのに、息が詰まる。

  “わたし“は、食べられる。

  ーーわたしに。

  わたしの舌の上に乗せられる。

  わたしの温度を知る。

  わたしの歯が、沈む。

  じわり、と。

  わたしの味が、広がる。

  わたしの目が、細められる。

  口元の端が、熱を帯びて緩んでいく。

  「……ぁ……」

  唇が、かすかに湿る。

  まぶたが、伏せられる。

  舌が、わたしの"かけら" を押しつぶす。

  ーー わたしが、“わたし“の味を知ってしまった。

  その瞬間、わたしの顔が、蕩ける。

  震える吐息が漏れる。

  指が、箸を持つ手が、微かに痙攣する。

  もっと欲しそうに、わずかに前のめりになる。

  (……わたしの……味で……)

  (……感じてる……?)

  わたしが、ふと、箸を止める。

  目が合う。

  まるでーー

  「ごめんね」と。

  そう言うように。ほんの少しだけ。

  でも、それはすぐに消えた。

  まるで、最初からなかったみたいに。

  そしてーーまた、食べる。

  (……また……)

  (また……食べられた……)

  “わたし“は、ただ、見ているしかない。

  目の前のわたしが、"わたし" を口に運ぶたびにーー

  わたしの知らない "幸福" に染まっていく顔を。

  「……ん、ふふ……んん……美味しい……」

  うっとりと、蕩けるような口元。

  瞼をゆるく閉じ、細く息を漏らす。

  ひと噛みごとに、わずかに揺れる肩。

  それはまるでーー

  愛しいものを口に含んで、貪ることそのものが"悦び"であるかのように。

  「……ん……ふぅ……」

  喉を滑り落ちる瞬間、わたしの瞼が、甘く震える。

  (……そんな顔……しないで……)

  視界が霞む。

  ゆらゆらと揺れるわたしの姿。

  わたしは、ただ美味しそうにそれを食べ続ける。

  ただ、それだけの光景を、延々と見せつけられる。

  まるで、それが "わたし" にできる、最後の役割かのようにーー

  ぼんやりとした意識の奥で、"食べられる" という行為が、ほんの一瞬だけーー

  悪くないものに思えてしまった。

  (…………)

  (……違う……)

  一瞬でも、そんなふうに思ったことに、ぞっとする。

  わたしがわたしであることを、わたしに壊されていく。

  それでも、次の瞬間、わたしの箸が、わたしの頭を持ち上げた。

  ああ。

  ついに、わたしもーー

  「………………」

  ーーわたしが、じっと、それを見つめる。

  まるで、何かを確かめるように。

  まるで、最後の "選別" をするみたいに。

  ……わたしは、しばらく動かない。

  (……食べられる……)

  このまま、わたしにーー

  「……やっと」

  声にならない声が漏れる。

  やっとーー

  わたしも、わたしの一部にーー

  「……ここは、食べられないね」

  (…………)

  指が緩む。

  わたしの"顔"が、皿の隅に戻される。

  (…………え……?)

  ああーー

  わたしは、食べられることすら、できなかったんだ。

  皿の隅、盛り付けの"余白"に、転がされたまま。

  わたしは、それを一瞥すらしない。

  もう、興味がないみたいに。

  もう、何の意味もないみたいに。

  だって、わたしは、もう満たされたから。

  もう、"わたし" に用はないから。

  (…………)

  わたしは、余りものになった。

  皿の端に寄せられたわたしの顔。

  誰にも食べられず、ただゴミになるだけの、わたし 。

  ーーそして、意識が、完全に、暗転した。

  7.

  店員は、慣れた手つきで食器を重ねる。皿の上には、大葉の切れ端や醤油を吸った紙ナプキン、食材の不可食部が散らばっていた。

  手をなるべく汚さないように、指先で器用に食べ残しをひとところに寄せる。

  すでに客は満足し、料理は役目を終えた。皿は片付き、カウンターの上には、何事もなかったかのような静けさが戻る。

  店の入り口が開き、二人の客が並んで外へ出る。夜風が、軽く髪を揺らす。

  ふとした拍子に、指先が触れた。どちらも引くことなく、そのままゆるやかに重なる。

  わずかに微笑むような仕草が交わされる。誰もそれを見ていない。だが、それは確かに、そこにあった。

  やがて扉は閉まり、彼女たちの姿は夜の街へと溶けていく。

  スマホの画面には、小さな通知が浮かんでいた。