▲0.
わたしが「その願望」を持つようになったのは、ロマニーがきっかけだった。
あの日――
妹は、デクナッツのお面をかぶり、そして「本物のデクナッツ」になった。
「わっ、すごい……!」
最初は驚きだった。
小さな手、茶色い木の肌、黄色い目。
まるで森の精霊のような姿になった妹を、わたしは「魔法のようだ」と思った。
「ロマニー、それ、どうやったの?」
「……よくわかんない」
ロマニーは戸惑いながらも、いくつか試し、なんとかお面を外すことで人間に戻ることができた。
――その時、わたしは「ある感情」を抱いた。
「わたしも、変わってみたい」
ロマニーのように、わたしも別の姿になってみたい。
デクナッツじゃなくてもいい。
ゾーラのように水を自在に泳げる種族でもいいし、
ゲルドのような力強い種族でもいい。
「ねぇ、そのお面、貸してくれない?」
わたしは、ロマニーに頼んだ。
でも、妹は微妙な顔をしながら、あいまいに返事を濁した。
「うーん……でも、あんまり、よくない気がする……」
「えっ、どうして?」
「なんかわかんないけど……"良くないもの"な気がする……」
それっきり、妹は貸してくれなかった。
それでも、わたしの「変身への興味」は消えなかった。
むしろ、ますます「別の姿になってみたい」という思いが強くなった。
だから、わたしは「変身に関わるアイテムを集めるようになった」。
お面、装飾品、魔法具。
それらのどれかが、わたしを新しい世界へと導いてくれるかもしれない。
そして――
この指輪にたどり着いたのだった。
▲1.
指輪を手に入れてから、ずっとこの瞬間を待ち望んでいた。
「変わる」――そのための、特別な時間。
わたしは、慎重に指輪を箱から取り出し、掌に乗せる。
小さくて、どこにでもありそうな銀の指輪。
でも、ただの指輪じゃない。
これは、"変身の力"を秘めたもの。
「……ふふっ」
抑えきれない期待がこみ上げる。
ついに、ついにわたしも「変わる」ことができるんだ。
わたしは、そっと指輪をポケットにしまい、部屋を出た。
今日は、倉庫番の日。
ちょうどいい。
誰にも邪魔されない場所。
誰にも見られない時間。
鍵を持って、倉庫へと向かう。
家のすぐ裏手にある、小さな倉庫。
農具や古い道具が置かれた、誰も普段は使わない場所。
(ここなら、大丈夫)
倉庫の扉を開き、中へ入る。
埃っぽい空気。ひんやりとした木の床。
奥に進み、わたしは鍵を取り出した。
扉を閉め、内側から鍵をかける。
(……これで、もう誰にも邪魔されない)
息を整え、ポケットから指輪を取り出す。
――ついに、この時が来た。
胸の奥が高鳴る。
どんな姿になるのだろう?
どんな世界が待っているのだろう?
わたしは、ゆっくりと、指輪をはめた。
変化の始まりを信じて。
▲2.
指輪をはめた瞬間――特に何かを感じたわけではなかった。
冷たい金属の感触が、指になじむ。
ぴたりと肌に吸い付くようで、妙にしっくりくる。
(……これで、変われるんだ)
その実感が湧いた瞬間、全身を甘く痺れるような感覚が駆け巡る。
静かに、でも確実に、心臓が脈打つたびに熱が滲むような――。
(これから、どうなるの?)
息が浅くなる。
期待が胸の奥で膨らみ、心地よい昂ぶりが背筋を駆け抜ける。
じわりとした心地よさが、皮膚の内側から滲むように広がっていく。
(ゾーラみたいに、水を駆ける身体になるのかな……)
なめらかな肌。水の抵抗を受けず、どこまでも泳げる身体。
(それとも、獣のような四足のしなやかな身体……?)
柔らかな毛並み。力強い脚。疾風のように大地を駆ける、獣の体躯。
しなやかに、獲物を狩るための鋭い感覚――。
(考えるだけで、ゾクゾクする……!)
この体が、どんな姿に生まれ変わるのか。
指輪がわたしを包み込むような錯覚に、じわりと喉が熱くなる。
このまま――なにかに"溶けていく"ような感覚すら、心地よく感じる。
ゆっくりと目を閉じ、変化の瞬間を待つ。
そして――そっと、目を開けた。
(……!)
天井が見える。
同時に、体が妙に重い。いや、重いのではなく――"広がっている"?
(……変わった……! 本当に、わたし……!)
昂ぶりが胸を駆け抜ける。ついに、わたしも"別の存在"になったのだ。
――でも。
(……あれ? 立っていたはずなのに、なんで天井が見えるの?)
おかしい。今も“立っている"感覚はある。足の裏が地面にあるはずなのに、どうして"上"が見えているのだろう?
さらに、体のどこかに余計な部分があるような違和感。腕や足とは違う、馴染みのない何かが、そこにある気がする。
(どんな姿になったんだろう?)
意識を集中させる。まるで、体の隅々に神経を巡らせるように、じっくりと自分の感覚を探る。
胸の奥で高鳴る期待を抑えながら、わたしはゆっくりと深呼吸をした。
そして――違和感が広がりはじめた。
▲3.
(……あれ?)
息を吸おうとする。
――でも、何かが違う。
(……え?)
喉の奥が広がるような感覚。
けれど、それは空気を通すためのものではない。
(なに、これ……?)
違和感がじわじわと広がっていく。
けれど、まだ恐怖ではない。
むしろ、新しい体に馴染んでいく感覚かもしれない。
(変身直後だから、少し違和感があるだけ……?)
そう自分に言い聞かせながら、わたしはゆっくりと体を動かそうとした。
――その瞬間、何かが “拡がった“。
(……なに?)
体の内側で、境界線が曖昧になる感覚。
でも、それはまるで新しい体が馴染んでいくようで、違和感と同時に安心感もあった。
(落ち着いて、まずは確認……)
床に接している部分が妙に広い。
わたしの体、こんなにも大きいものになったの?
手足を動かそうとするが……動くのは、別の何か"。
ぬるり。
(……え?)
這うような感覚。
意図せず、なにかがうねり、床を滑る。
(おかしい……? でも、これが新しい体の動かし方なのかも……?)
違和感が強まるが、それでもまだ異常とは言い切れない。
新しい体に慣れていないだけかもしれない。
視界の端に、何かが映る。
けれど――それは、"端"ではなかった。
(……おかしい、視界が……?)
わたしは天井ーーつまり“上“を見ていたはずだ。
それなのに、天井が"前"にあるような気がする。
(えっ……なに、これ……?)
焦点を合わせようとする。
でも――合わない。
視線を向けようとするが、視線を向けるという概念がない。
(待って……目が……!?)
まばたきしようとして――できないことに気づく。
いや、それどころか、そもそも目がどこにあるのかすら分からない。
(どこを見てるの……? わたしの"目"は……?)
視界が、前後左右に妙に広がっている。
「一点を凝視する」という行為が機能しない。
そして――
今まで気づいていなかったが、視界の端で、異様なものが映る。
そこにあったのは、ぬらりとした粘膜のような何か。
表面には、無数の柔らかく蠢く襞(ひだ)があり、ゆっくりと開閉を繰り返している。
まるで、何かを待ち構えるかのように。
(う……気持ち悪っ……!)
ぬめった粘膜が収縮するたびに、じわりと何かが染み出し、床へと落ちる。
それは、まるで自分の体が「呼吸」しているような動きだった。
目を逸らしたいのに、できない。
視界が妙に歪む。まるで、自分の意識が乗っている場所そのものが変形しているかのように。
それを認識しようとするたびに、視界の端で不規則に波打つ。
まるで、こちらの視線を感じているかのように。
それが「わたしの体の一部」であると理解した瞬間、内臓がひっくり返るような嫌悪感が込み上げた。
焦りが、じわじわと広がっていく。
(でも……まだわからない……)
わたしは……自分の姿を、まだ見ていない。
視界を下げようとする。自分の体――のはずの場所を確認するために。
だが、その瞬間、視界が異様な動きをした。
まるで視界そのものが引き伸ばされるように、像がぐにゃりと歪む。
(えっ……!?)
首を動かしたはずなのに、それは"伸びた"。
まるで、顔ごと前方へと押し出されたかのような感覚。
(な、なにこれ……!?)
意識と体の動きが一致しない。
首を下げたつもりが、実際には口の奥が引き伸ばされ、視界が異様な角度で揺らぐ。
まるで、自分の“顔“がどこにあるのか分からないかのような感覚。
いや、それどころか、わずかに見えたのは……何か、妙に柔らかく、脈打つようなもの。
視界の端に、それが映る。
淡い黄色がかった、ぬらぬらと光る表面。滑らかで、しかし不自然に波打ち、ゆっくりと収縮する。
(……え?)
まるで、皮膚の裏側を見せつけられているかのようだった。
嫌な感触が全身を駆け上がる。
視界の揺れに合わせるように、それはじわりと蠢いた。
ぬめった表面がゆっくりと開閉し、吸い付くような感覚が、“わたし"に伝わる。
その瞬間、背筋が粟立った。
自分の意思とは無関係に、視界の端でそれがわずかに震える。
まるで、何かを求めるように。
ぞわり、とした感触が広がる。
喉の奥がわずかにひくつく。
――いや、違う。
「喉」ではない。
動いているのは、もっと別の……
「口」だ。
(う……っ!?)
期待の中に混乱と嫌悪が入り混じってくる。
それが「わたしの体の一部」であると理解した瞬間、喉の奥がわずかに震えた。
(なに、これ……?)
視界がわずかに揺れるたび、何かが開いて、収縮する感触が伝わる。
口の奥が引き伸ばされ、外の空気がぬるりと流れ込んでくる。
まるで、自分が「飲み込もうとしている」ような――
望んでいたのに、予想と違う。
わたしは、何に変わったの?
確かめなければならない。確認しなければならない。
鏡を……見ないと……!!
▲4.
倉庫の奥、歪んだ金属の破片が、わずかに光を反射する。
その歪んだ鏡面に映るものを確かめなければならない。
わたしは――
身体を動かそうとした。
けれど、その瞬間、全てがおかしいと気づく。
足を踏み出そうとする。――足らしき感覚はある。でも、足はない。
手を突いて体を支えようとする。――同じだ。
では、どうやって動けばいいのか?
意識を向けた瞬間、"何か"が蠢いた。
どろり、と床に張り付いていた体の一部が"剥がれる"。
(……っ!?)
感触が違う。
重力を受けて筋肉を動かすのではなく、"底部を縮ませる"ことで前へ進む。
ぬちゃり、と湿った音が響く。
(なにこれ……なにこれ……!)
這っているわけではない。足の代わりに "何“を動かしているのかすら分からない。
ただ、"ねばついた肉"を縮めることで前へ進む。
床に張り付いた部分が持ち上がり、自分の意思とは関係なく重力に負けて潰れる。
ぺしゃり、と鈍い音がした。
それでも、見なければならない。
鏡に映る"わたし"を。
鏡の前で、わたしは止まる。
息を整え、上を向いてばっかりの視線を鏡の方に向ける。
そこに映っていたものーー
それは、手も足も持たない、ただひたすらに異様な生物だった。
全体は黄土色のぶよぶよとした肉の塊で、ところどころにまだら模様のような赤茶けた斑点が浮かんでいる。
どこを見ても、わたしが"わたし"だったときに存在していた部分がない。
人間ーーいや、わたしが望んでいたような種族もそうだけどーー私の知る「生き物」らしさが、どこにも、無い。
それでも確かに“生きている”と感じさせる気味の悪さがある。
光沢のない粘膜が、不規則に波打ち、わずかに脈動している。
そしてーー鏡の真正面に移る、ぽっかりと開いた暗い裂け目。
それはまるで、口。
いや、違う。
「口」だけの生き物。
……知っている。これはーー
「ライクライク……」
声を出そうとした。けれど、何も出ない。
代わりに――鏡の中のそれが、わずかに蠢いた。
(……!?)
わたしの声ではない。
いや、そもそも"声"ですらない。
口の周囲の肉が、ごくわずかに波打ち、湿った音を立てる。
じゅる、ぬちゃ。
まるで何かを吸い込もうとするかのような、生々しい動き。
喉がない。
口も、人間のそれではない。
わたしは、もはや言葉を発することすら許されない存在なのだと、容赦なく突きつけられる。
喋るという行為自体が、もうわたしの機能ではなくなっている。
今のわたしの"口"は、ただ、ものを取り込み、消化するための器官。
それを自覚した瞬間、背筋――いや、もうどこが"背筋"なのかすら分からないが、全身にぞわりとした感覚が走った。
(……もう、喋ることすらできない……)
人間らしさだけでなく、言葉も失ったという事実がじわじわと広がる。
口と顔と胴体が融合したような感覚をを確かめるように、わずかに身体を揺らしてみる。
その時、鏡の中のわたしの表皮に、かすかに青みがかった模様があることに気が付いた。
(……え?)
一瞬、見間違いかと思った。
けれど、その模様は、確かに見覚えがあった。
わたしの服。
昨日まで、わたしが着ていた服の色。
(わたしの……? いや、でも……)
ライクライクがわたしの服を着ているような光景に、慌てて目をそらす。
けれど、不思議な安心感のようなものを感じていた。
わたしの体には、確かに"わたしだった痕跡"が残っている。
――少し、落ち着きを取り戻してきた。
この姿に強烈な嫌悪感はある。だが、それと同時に、ある考えが浮かぶ。
(どこが……どうなっているの?)
手がない。
足がない。
けれど、這うことはできる。
動こうとすると、ぬるりとした感覚が伝わる。
吸着する粘膜の感覚。
まるで、わたしの体そのものが地面と溶け合っているかのような感覚。
(この……動き……わたしの意志で、動いている……?)
試しに意識を集中させる。
じわり。何かが、ゆっくりと収縮し、滑る。
わたしの意思に従って。
(……おかしい、でも、動ける……)
そして。
わたしは、"自分の中"に、新しい感覚があることに気づいた。
(……これ、なに……?)
存在しないはずの器官。
でも、確かにそこに"何か"がある。
それは、人間だったころには決して感じなかった感覚。
皮膚ではなく、粘膜。
骨ではなく、ねばついた何か。
そして、視界が異常に広がっていることに気づく。
(わたしの目……どこにあるの……?)
焦点が合わない。いや、そもそも、"焦点を合わせる"という感覚がない。
目がどこにあるのかもわからないし、あるのかもわからない。
ただ、鏡を覗き込んだ時のことを思い出すと、その視覚のための器官は口の付近にはあるようだ。
(ーーーー)
少し、面白いと感じてしまった。
最初はパニックになっていたが、わたしは落ち着きを取り戻していく。
むしろ、慣れない体に戸惑いながらも、どこか好奇心が刺激される。
――この体は、どこまで"わたし"なの?
▲5.
鏡の前で、わたしはゆっくりと息を吐くような動きをした。
恐怖は、もうほとんどない。
目の前の異形は、確かに"わたし"だ。受け入れたわけではない。でも、否定しようとしても無駄だと、どこかで理解している。
それにーーこれは、あくまで"一時的な体験"に過ぎない。
指輪を外せば、すぐに元通りになる。
(だったら……)
わたしは、もう一度鏡の中の姿を見つめる。
わたしは、ライクライク。
ぶよぶよとした肉の塊。光沢のない粘膜。波打つ表皮。中央にぽっかりと開いた裂け目ーー口。
口しかない、奇妙な生き物。
そう、思っていた。
でもーー本当にそうだろうか?
(……どこが、どうなってるの?)
今のわたしの体には、手も足もない。
でも、動くことはできる。
試しに、意識を向けてみる。
じわり。
わたしの体が、ゆっくりと波打つ。
床に張り付いていた粘膜が、ゆるく剥がれ、別の場所へ吸着する。まるでナメクジのような動き。でも、這っているわけじゃない。
縮む。
そうすることで、前へと進む。
(……これが、足の代わり?)
人間だった頃の足とは、あまりにも違う。
でも、機能としては、似ているのかもしれない。
ゆっくりと動きを止め、今度は"手"を動かそうとしてみる。
……違和感。
手らしきものがない。
でもーー
(……なんか、ある……?)
感覚はある。身体のあちこちに、不規則に点在するような違和感。
試しに、意識を集中させる。
するとーー
ぬるりと、"何か"が、わずかに持ち上がった。
(……!?)
鏡の中の"わたし"の表皮が、かすかに隆起する。
手とは言えない。
指があるわけでも、関節があるわけでもない。
でもーー"掴む"という動作が、できなくはなさそうな錯覚に陥る。
"動かす"ことは、できる。
(これが、腕の代わり……?)
位置は決まっていない。
まるで、意思に応じてどこにでも"手"が出現するような、そんな感覚。
腕がいくつもあるようで、ひとつもないような感覚。
(……変なの)
わたしは、苦笑した。
こんな体になっているのに、こうやって落ち着いて“自分“のことを観察しているのが、妙に可笑しかった。
(まあ、どうせすぐ戻れるし……)
だったら、もう少し確かめてみよう。
今度は、"内側"に意識を向ける。
(……わたしの、内臓……)
ある。
でも、"どこにあるのか"が分からない。
人間のときのように、はっきりとした"腹部"の感覚がない。
わたしの体は、柔らかい塊のようなもの。
じゃあ、内臓は?
(……どこに……あるの……?)
意識を向けると、"何か"がわずかに蠢いた。
内部。
それがどこなのか、もはや分からないけれど、確かに、"ある"。
そしてーーその感覚は、あまりにも異質だった。
臓器が収縮し、拡張し、動きを持っている。
人間のときのように、"固定された位置に存在する"ものではない。
(……まるで、生き物みたい……)
わたしの"内側"で、"わたしの知らない何か"が動いている。
それを感じ取った瞬間、ぞくりとした感覚が背筋を走った。
(……これが、わたし……?)
異質。
異様。
でも、確かに"わたし"。
面白い。
ーー怖い。
ーーでも、もっと確かめたい。
気持ち悪い。
でも、もっと知りたい。
(……もう少し、観察してみよう)
わたしは、ゆっくりと身体を動かした。
▲6.
鏡の中のそれは、ねっとりとした粘膜に覆われ、ぬめりとした表面を不規則に脈動させている。
波打つ肉の層は、皮膚とは呼べない。骨のない、どこまでも柔らかく、しかし異様に強靭そうな肉体。
その表面が、ゆっくりとうねる。
"わたし"が、意識していないにも関わらず。
(……動いてる……?)
まるで"意思を持った皮膚"。
あるいは、わたしとは無関係に蠢く、別の生き物のようにさえ感じる。
粘膜が、ごく僅かに収縮するたび、透明な体液が滲み出し、ゆっくりと流れ落ちる。
ぬるり、ぬるり。
呼吸のような動きに合わせて、全身がわずかに震え、ぬめりがわたしの意志と関係なく広がっていく。
(……これ、本当に、わたしなの……?)
ぞわりと、どこかを撫でるような感覚が走る。
背筋じゃない。"背筋"なんてものはもうない。"わたし"という形が、どこにもないのだから。
"わたしは、それだ"。
この事実が、じわりと肉体の“内側“から滲み出してくる。
比喩的な意味での“胸“に相当する場所なのかな、なんて考えが浮かぶ。
"中心"としか言いようのない場所から、熱がにじみ出し、体の奥へ沈んでいく。
嫌悪か、興奮か、理解できない。
でも、確かに"感じて"しまっている。
(……怖かった、はずなのに……)
最初は、ただ気持ち悪いだけだった。
"こんなの、絶対に受け入れられるわけがない"と思った。
でもーー
(……なんで?)
今のわたしは、もうそんなに怯えていない。
確かに、最初は恐慌に陥った。
わたしは、もう人間の形ですらない。
それなのにーー
(……落ち着いてる……?)
指輪を外せば戻れる。
これは"ひとときの体験"に過ぎない。
だからこそーー
(……もっと、いろいろ……)
その思いが頭をよぎった瞬間、"なにか"が弾けるような感覚があった。
ぞくり。
脳の奥から、冷たいものが滑り落ちる。
それは、"知ってはいけないもの“をーー
"目を背けるべきもの"をーー
ーー覗いてしまう感覚。魅入られてしまう感覚。
わたしは、"それ"を味わっている。
もう一度、鏡の中を覗き込む。
皮膚と呼ぶにはあまりに異質な表面。
斑点の部分をじっと見つめると、それらはただの模様ではなく、わずかに盛り上がり、
ところどころに細かな孔のようなものが開いているのがわかった。
そこから、半透明な濁った体液が滲んでいる。
(これ……汗……? いや、違う……)
じくじくと染み出し、光を受けて鈍く輝く。
その感覚が、確かにわたし自身のものとして伝わってくる。
(わたしの……"表面"……?)
さらに目を凝らす。
表面には無数の襞が段状に折り重なり、ところどころがひく、ひく、とわずかに収縮している。
実物じゃなくて本の挿絵だったとしても、すぐにページを変えてしまいたくなるような、不気味な構造。
なのにーー。
(目を逸らせない……)
ひく、ひく、と収縮する粘膜。
その動きが、わたしが見ているせいで起こっているように錯覚する。
まるで"わたし自身"が"わたしを見ている"ことに反応しているようにーー。
(……違う……でも……)
そう思った瞬間、体の奥で熱がぶわりと広がった。
きっかけなんてない。ただ、ここまで積み重ねた"何か"が、ついに臨界点を超えただけ。
さっきまでとは違う、どこかもわからない"中心"が、粘ついた熱を発し始めている。
(なに、これ……?)
わたしは、"異変"を感じる。
自分が"生きている"ことを、これ以上ないほど実感させられる"熱"を。
不快感だけではない、得体の知れない熱が、わたしの底部に広がっていくのを感じる。
("底部"ーー)
人間だったなら絶対に使わない「からだの場所の表現」に、ちょっとぞっとする。
そこに、何かが "ある"。
わたしの意思では動かせない、けれど、確かにわたしの"内部"から続いている何か。
(……っ)
(……なに、これ……?)
じわりと、その場所が熱を持つ。
意識していないのに、底部がじくじくと脈打つ。
まるで収縮するように、内側から押し出されるように、わたしの内部が動いている。
(わたし……なにか……)
考えたくないのに、考えてしまう。
それが、どんな役割を持つ器官なのか。
"どんな時に"、"この感覚"が起こるのか。
嫌悪と羞恥と、異質な快感。
混ざり合いながら、“その部分“がじわりと収縮する。
ぬる、と粘ついた体液が滲み、"皮膚の裏側"に広がっていく。
▲7.
(いやいやいや……なにしてるの、わたし……!?)
羞恥の中に、唐突に、嫌悪と戸惑いが入り混じる。
(こんなものを、まじまじと観察して……)
いや、それだけじゃない。
こんなにも"夢中になって"いたことがーー耐えられないほど怖い。
自然な形で"目"をそらすと、ゆがんだ視界には天井が飛び込んできた。
(……そうだ、わたし……明日の倉庫番の準備をしに来たんだった)
突然、現実が戻ってくる。
明日は倉庫番で、そのための準備も兼ねて倉庫に来ているんだった。
このまま、こんなところで何をやってるんだ?
(戻らないと……部屋に戻って……)
そこまで考えてーーふと、違和感がよぎる。
(……そういえば、今日、まだご飯を食べてない)
わたしは、ずっとこの身体のことばかり考えていた。
食事のことなんて、頭になかった。
いや、そもそもーー
(……"食べる"って、どうやるんだっけ……?)
あまりにも当たり前だったはずの行為が、一瞬、遠ざかる。
"口"はある。"口しかない"のに。
食べるという行為が、どんな感覚だったのか、思い出せない。
(……いや、そんなことより……お風呂……)
ぬるり。
わたしは、自分の体の表面を意識した。
ぬめる粘膜。
じくじくと滲み出す体液。
(……お風呂に……入る……?)
"今のわたし"を湯に浸けたら、どうなるのか。
そんなことを考えた瞬間、ぞくりとした感覚が背筋ーーいや、もう背筋なんてものはない、全身を這い上がっていく。
(ダメだ、戻らないと)
わたしはようやく指輪を外すということを思い出し、動こうとした。
そう思ったとき、胸の奥ーー"胸"なんてもうないはずの場所に、奇妙な重みが沈む。
(……いや、待って)
今さら、じわじわと自覚が迫ってくる。
ーーわたしがやっていること、普通にヤバくない?
変身に憧れて、色々なアイテムを集めてた。
指輪を手に入れたとき、ちょっとした期待をしていたのも、まぁ事実。
でもーー
(いやいやいや、さすがにこれは……)
冷静になった途端、自分の行動の"痛さ"が突き刺さる。
(……わたし、なにやってんの……!?)
言葉にするのも、考えるのも恥ずかしい。
でも、心の中でなら、まあ……いいだろう。
「変身に興味があったから、お面や魔法のアイテムを集めてたんだ」
「それで、指輪を使ったら……ライクライクになっちゃった☆」
……いやいやいやいや!!!
(無理無理無理無理!! 死ぬほど恥ずかしい!!!)
誰かにバレたら終わりだ。
人間の姿に戻っても、もう普通に生きていける気がしない。
その人の顔を見られる自信がない。
(いや、そもそもこんなの、わざわざ言わなきゃいいだけだけど……でも……)
言わなくても、"経験した"という事実は消えない。
わたしは、確かに"なってしまった"。
こんな、ぬめぬめで、ぶよぶよで、口しかない、得体の知れない何かに。
(うあああああ……!!)
もう、忘れたい。
これが"いい経験だった"とか、そんな風に考える余裕はない。
でもーー
(……いや、どうせ戻れるし……)
この指輪を外せば、元通り。
その確信だけが、わたしを支えている。
(よし、何事もなかったことにしよう)
そう、すべては"なかったこと"に。
明日から、またいつも通りの生活をするだけ。
わたしは、指輪を“外す“ために、動いた。
▲8.
……そうするつもりだった。
"指輪を外せば、元通り"。
“これは、一時的な体験"。
そう信じて疑わなかった。
だから、わたしは迷いなく、“手を伸ばそうとした“。
ーーしてしまった。気づいてしまった。思い出してしまった。
(……ない)
どうして、意識の外に行ってしまっていたんだろう。
この体には……口しかないじゃないか。
ーーーードクン。
瞬間、全身が心臓そのものになったかのような強烈な動悸が、体の中心を震源として駆け巡った。
身体が一瞬で沸騰するような熱を帯びる。
わたしが、わたしではなくなる。
その考えが頭に浮かびそうになってーーすぐ、打ち消した。
(ちがう。これ、違う。こんなの……!)
さっきまで "観察" していた。
"今だけのこと" だと。"最悪だけどおもしろい経験" だと。
だけど、違った。
もう "わたしの体" は わたしじゃない。
「っ、ま、って……」
口に出そうとする。
でも、声にならない。
ただ、巨大な口がぐにゃりと蠢くだけ。
歯は無いのに、歯茎に相当しそうな部分から、熱を持った粘り気がじわりと吹き出す。
(なにこれ……!!)
言葉が出てこない。
どんな単語を当てはめても、表現しきれない。したくない。
"わたし" が "わたし" であることが、崩されていく。
それを、ただ、知覚させられてしまう。
観察者ではなく、ーー "******" になってしまったのだと。
“指輪を外せば、すぐに元通りになる“。
ーー打ち消すように、その言葉を、もう一度思い出す。
(そうだ、外せばいいんだ……!)
わたしは必死に"指"を探す。
感覚を集中させる。
どこかに指があるはず……!
探せ。探せ。探せ……。
(……あった!!)
冷たい感触が、確かに指輪だと告げている。
安堵しかけたーー
(……待って、これ、口の中……!?)
ぞわり。
背筋に悪寒が駆け上がる。
わたしの指はーー"口腔内"にある。
(いや、でも……まだ、外せる……!)
そう思って、試しに舌で押し出そうとする。
ーーできない。
(……っ!?)
わたしの口腔内には、確かに"何か"がある。
でも、それは"舌"じゃない。
ぬるりと粘膜を撫でる、異様にしなやかな器官。
わたしの知らない何かが、いくつもある。
(……っ!?)
その時、気づいた。
今動かしている"これ"が、わたしの指だったものだと。
ぞわり。
指だったもの。
でも、もう指ではない。
指のような感覚はある。
でも、それは指の形をしていないし、指と舌の混ざったような感覚。
指の記憶だけが残った、異様な何か。
無数にある、口腔内の触腕。
10本の指だったはずのものが、今は何本あるのかわからない。
それなのに、それが当たり前のように感じる。
(……なんで……?)
しかも、よりにもよってーー
最も奥の、長い触腕が、それを絡め取っている。
(……!!)
わたしは、必死にそれを動かそうとする。
でも、うまくいかない。
指だったという認識があるのに、指のようには動かせない。
いや、そもそも指の動かし方が、もうわからない。
ぐちゃぐちゃになって、バラバラになって、無数に増えたそれら。
それが、わたしの一部として、普通に存在している。
(……はやく、外さないと……!)
でも、どんなに頑張っても、"その一本"が動かない。
それどころかーー
強く絡みついている。
それが自然な状態であるかのように、
"それを保持する"ことが、この体の機能であるかのように。
(……そんな、そんなの……!)
外せない。
全身が脈打ち、熱を帯びる。
体の奥から、何かがゆっくりと、圧迫するように膨れ上がる。
試す。
必死に試す。
冷静なはずなのに、体だけが勝手に熱を持っていく。
ドクン、ドクン、ドクン。
(外せるはず……外せるはずなのに……!)
どんなに動かそうとしても、指輪は口の中に絡みついたまま。
まるで、"離す"という選択肢が、そもそも存在しないかのように。
(……そんな、そんなはず……)
頭は冴えている。
異常なほどに、鋭敏に働いている。
だからこそ、"わかってしまう"。
何度も思考を反芻する。
論理的に考える。
可能性を洗い出す。
……でも、どれだけ考えても、解決策が出てこない。
(これ、どうやっても……)
……いや、そんなはずない。
まだ何か方法がある。
探さなきゃ、見つけなきゃ。
(指……指……!! 違う、これ、指じゃない……っ!!)
外せない? そんなわけない。
試す。 もう一度、動かす。
でも、指輪はーー
(なんで!? なんで、なんで、なんで、外れないの……!!)
こんなもの、わたしのものじゃない!!
わたしの体じゃない!!
こんなの、ありえない!!!
(やだ、やだ、やだ、やだ、やだ!!)
これがわたし?
わたしは、こんな……こんな……!!!
(っぁ……!!)
脳が灼ける。
思考が、ちぎれる。
何も考えられない。
けれど、理解だけは"させられる"。
外せない。
外せない。
外せない。
外せない。
(や、やだ……!! やだ、やだやだやだ、やだ、やだ!!)
もういや、こんなの、こんなの……!
その瞬間ーー
全身が、跳ねた。
▲9.
何かが"爆ぜる"ような衝撃。
内側から押し広げられるような、得体の知れない圧迫感。
止められない。
"わたし"の意志とは無関係に、身体そのものが揺れ、震え、蠢く。
脳が一瞬、真っ白になる。
何かが駆け巡るような感覚が中心から一気に広がり、肉体の全てを支配する。
(な……に、これ……っ)
わたしの全身が異常な脈動を始める。
恐怖と、焦燥と、拒絶と。
わたしの体が"存続が必要だ"と誤ったシグナルを発したことによる、異質な生理反応。
(な……なんで……!?)
同時に、わたしの“底部"が、じくじくと疼くような感覚を覚え始める。
奥の方で、何かが勝手に蠢いている。
ズク、ズク、とゆっくりと脈打ち、じわりと熱を持つ。
ーー知っている。ついさっき、私は身をもって体験したから。
ーー底部の奥の方に何があるのかを。
だからこそ、意味がわからない。
(どうして……!?)
脈動は収まらない。
むしろ、加速するように、その部分が脈打つのを感じる。
止めたいのに、全身の熱が高まる。
そこが、奥が、じくじくと収縮し始める。
この体は「こういうものだ」と言わんばかりに、本能的な知覚を勝手に運んでくる。
(やだ、これ……!!)
それでも、止まらない。
むしろ、じわじわと、ぬるりとした粘液が湧き出し、“そこ“全体を包んでいく。
次の瞬間ーー
全身が、「開いた」としか言いようがない感覚。
(っ……う……!!)
ブワッ、と。
ありえないほどの粘液が噴き出した。
思わず、わたしの身体が揺れる。
(ぁう……!?)
温かい。
ぬるぬるとした感触が、わたしの皮膚――いや、表面全体を覆っていく。
いや、違う。
「覆っている」のではない。
「湧き出している」のだ。
(こんな……こんなに……!?)
最初は滲み出す程度だった。
だが、すぐにそれは勢いを増し、もはや噴き出すようにあふれ出す。
(っ……ぁ……!!)
垂れるどころの話ではない。
粘液は雨のように床へと落ちていく。
ポタ……ポタ……ではない。
どろり、どろりと、止めどなく流れ続ける。
しかもーー
わたしは嫌悪を感じているはずなのに。
なのに、"そこ" が、"奥" が、じくじくとさらに収縮を始めることが、何よりもおぞましい。
なにこれ、なにこれ、なにこれ。
こんなの、知らない。こんなの、知らないのに……。
“そこ“が、脈打つたびに、"何か"が押し出されるような感覚がある。
ぬる、ぬる、と粘ついた体液が溢れ、"わたしの奥"を、"わたしの外"と繋げていく。
(っ、……や……っ!!)
さらに。
ぶわっ、と。
熱湯にも思えるような温度の粘液が、底部から溢れ出す。
同時に、奥から。
“肉“ ーー内臓が、外に飛び出した感覚。
(…………!!)
人間だった時ならあり得ないことに、“その場所“ から。
なにかが、確実に、体外へと、"はみ出て"いる。
ともなって、“奥"の収縮が加速する。
ズル、と。
"それ"が、ゆっくりと伸びる。
(や、やだ……!!)
違う、こんなもの、"わたし"じゃない!!
でも、わたしの意思とは無関係に、"それ"はじわじわとせり出し、体の外へ出ようと蠢く。
(何が……出て……)
突如、"それ"の動きが活発になる。
(っ!!??)
少しだけはみ出していたそれが、全体を押し出すようにして にょき、にょき、と。
わたしの意思とは関係なく、粘膜の擦れる感覚とともに体外へと露出していく。
まずい。これは絶対にまずいものだ。
絶対にーーーー
(待っ……やめ……っ!!)
床に押しつけるようにして、必死に止めようとする。
そのたびに、ゾワゾワとした悪寒が走る。
でもーーそれだけじゃない。
ぞく。
わたしと床の間で押しつぶされるような形になっているそれは、ドクドクと脈打ちながら、膨張を始めた。
今の「立っている」体勢が "不自然なもの" とすら思えるほどまで膨張する。
バランスが取れない。
あり得ない場所から「生えてきた」それが膨れ上がりすぎて、わたしの身体が耐えられなくなってきた。
(っ、あ……! も、もう、無理……!!)
重心が、崩れる。
(手、手を……!!)
ない。
(支えなきゃ……!!)
支えられない。
ベチャっとした情けない音を立てて、わたしの体が、床へと倒れ込む。
その瞬間、飛び出していた器官が大きく跳ね、なおも膨れ続ける。
まるでーー"それをするときの本来の姿勢"に戻ったと言わんばかりに。
認めたくない。だが、もう、立つことはできなかった。
床に倒れたまま、飛び出したそれはなおも膨れ上がり続ける。
ぬるり、ぬるりと、肥大し、存在感を増していく。
底部が大きく開き、"それ"は完全に露出し、なおも脈打ちながら膨張していく。
(やだ……やだ……!!)
次の瞬間ーー
"それ"が、跳ねた。
「……っ、!!?」
それに繋がっている器官が、奥が、強く脈打つ。
(やだ、やだ、やだ!!)
だが拒絶するよりも早く、何かが"開いた"。
「――――ッッッッ!!!」
瞬間、"奥"が、弾けるような感覚で収縮する。
体が、奥が、勝手に、"出す"準備を始める。
(や、やめ……っ!!)
だけど、止まらない。
わたしの意識がどうであれ、この体は"生物としての機能"を遂行する。
(だめ……!! これは、ダメ……!!)
けれど、"わたしの本能"は、
「この感覚を知っている。」
――知っている?
違う、違う、そんなはずない。わたしは、こんな体になったのは初めてで――
だが体は知っている。"肉体"は、当然のこととしてこれを受け入れている。
まるで、「ずっとこうだった」みたいに。
わたしの "奥" が、満ちていく。
詰め込まれる。膨れ上がる。"何か" が、容赦なく装填されていくのが分かる。
ぐぐ……と、内側から押し広げられる圧迫感。
飛び出た器官の内側が、表面が、限界まで伸ばされていく。
分からない。でも、分かる。
ーーーー絶対に、これは、“体験“ してはいけないものだ、と。
(やだ……やだやだやだ!!)
奥で何かが "待機" している。
わたしの意思とは関係なく、 送り込まれたものが、今まさに発射のタイミングを迎えようとしている。
(っ、あ……っ、……!!!)
"出る"。
"わたしの中"で、何かが、押し出される。
止まらない。止められない。
(だ、め……っ、出る、出る、なんでっ……!! 止まれ……止まって……!!)
視角を司る器官が、バチリと火花を噴く。
そして――
(っっっ!!? あ、ぁぁあっ、!? )
どろりとした液体が、弾けるように一点からあふれた。
柔らかい容器ーーねばっこい調味料の入ったそれを、思い切り踏み潰してしまったときのように。
(あぁっ、ぁぐっぅ!? いやっ、なに、なにこれ!? やだやだやだやだ!!!)
筒のような体がのけぞる。
止められない。止め方がわからない。
"それ"が溢れ出すたびに、奥が収縮する。
繰り返す。
繰り返す。
繰り返す。
止まらない。
"わたしの"底部"が、また、脈動する。
ーー出る。
また出る。
(やっ、ぁ、や、めっ、ぁ"、"、あ"、"ああ"ああ"っっ!!!)
理性が、声にならない声と一緒に床へと崩れ落ちていく。
止まらない。この体が"続けよう"としている。
"わたしの肉体"で勝手に作ったそれを、わたしの意思とは関係なく、大量に、吐き出す。
それが何なのか。何を出しているのか。
わからない。わかりたくない。
(っ、!? っ、……は……っ、あ……!!)
奥が、"また" 収縮する。
そして繰り返す。
何かが"押し出される"たびに、わたしの感覚がじわじわと薄れていく。
(いやっ、もう、いやっ……!!)
泣き叫びたいのに、どちらの機能も持っていない。
どんなに抗っても、止められない。
意識だけが人間のまま取り残され、
身体は完全にライクライクとしての機能を果たし始めていた。
ーー繰り返す。
自分がどこにいるのか、わからなくなる。
遠ざかる。
わたしという輪郭が、にじむ。
(……ああああぁぁぁぁ……!!)
全身が光になったように、すべての感覚器官が極彩色に明滅する。
目を閉じることすらできないのに、視界が真っ白に染まっていく。
繰り返す。
"わたし"が薄まっていく。
ーーーーこの生き物に性別なんていうものがあるのかな?
最悪な疑問が頭をよぎった。
そのまま、わたしの意識は光に落ちていった。
▲10.
意識が戻った時、"それ" は少しだけはみだした状態で体内に収納されていた。
目覚めた瞬間、わたしの感覚は人間のままだったから、最悪なことが起きているのかと思った。
ーー現実は、もっと最悪だったけど。
わたしはーー
もう"人間の体"を持っていない。
ぞわりとした異様な感覚が、底部に広がる。
(……っ……)
音が聞こえてくるほどに膨らんでいたそれが急激に縮んだせいか、
収納されたそれ全体がしわしわに縮み、内側にへばりつくような感覚がある。
まるで、膨張しすぎて裂けかけた風船が、しぼんだ後にくしゃくしゃに縮むような……。
(なにこれ……気持ち悪い……)
それが、わたしの内側で発生している。
ぐじゅり、とわずかに底部を動かすたび、粘膜同士が張りつく感覚がある。
一度は極限まで膨らみ、収縮しきった器官が、"元の状態"に戻ろうとしている……
いや、本当に "元に戻った" といえるのか?
(……戻って、ない……)
縮んだとはいえ、それはまだそこにある。
半端に格納されたまま、ペラペラになったまま、わたしの内部にへばりついている。
(……っ、なにこれ……!!)
ズク……ズク……と、内部が鈍く脈打つ。
それが"わたしのもの"であるはずなのに、"わたしのものじゃない"みたいな異物感がある。
なのに、わたしの体は、それを"当然のもの"として、元の位置へ戻していくーー。
しわしわになったそれが、じわじわと"吸い込まれて"いく感覚。
嫌だ。こんなもの、こんな体、わたしじゃない。
でも、それが縮んでいくたび、張りついていた粘膜がずるずると擦れる感覚が、"わたしの体験"として知覚される。
じゅる……じゅる……
それがゆっくりと奥へ戻っていく。
だが、膨らみすぎたせいで粘膜が伸びきっていたのか、すんなりとは収まらない。
わたしの内部で、何かがじわじわと"たるんで"いる。
(あ……もう、無理……!!)
収縮しきったそこが、かすかに痙攣する。
ぐじゅ、ぐじゅ、と内側で擦れる感覚が、じっとりと広がっていく。
一度極限まで膨張したそれは、"元通り"ではなく、縮んだだけで。
膨らむ前とは、もう違うものになってしまった気がする。
いや、ーー"元通り"って何??
ーー思考が、空回りする。
(行かなきゃ……)
どこへ?
わからない。
とにかく、動かなきゃ。
でも、それはどこへ向かうため?
わたしは倉庫の隅の方へと"流れる"ように移動する。
進むたびに、そのときの体の"形"に応じてなんとも言えない感覚がわたしを刺激する。
(……気持ち悪い……)
でも、そんなことを考えている場合じゃない。
行くべき場所を考えなきゃ。
(人間に戻らなきゃ)
そう、わたしは人間だ。
だから、戻らないといけない。
でも――
(どうやって?)
指輪は外せない。
自力では不可能。
なら、誰かに頼むしかない。
でも……
(誰に?)
妹?
ロマニー?
この姿を見せられる?
(……無理だ……!!)
誰かに頼る?
いや、それ以前に、わたしの姿を見て"人間だ"と理解してくれることなんてあるのか?
見つかるより、駆除される未来の方が簡単に想像できた。
そうやって、次々と考えを巡らせては、どれも意味がないと突きつけられる。
何もできない。
何も変わらない。
(……どうすれば……)
ふと、"逃げなきゃ"と思った。
(……逃げる?)
どこに?
わたしは、魔物だ。
このまま人間の世界にいるわけにはいかない。
なら、逃げるしかない。
どこかに、身を潜める場所を探して――
……魔物として?
でも、それしかない。
"生きる"ためには、"魔物として生きる"しかない。
戻れないのなら、それ以外の道が、もうどこにもない。
(……そんな……)
思考が止まりそうになる。
わたしの未来に、人間としての姿はない。
ただ、"魔物の生"があるだけ。
それでも、生きるべきなのか?
わたしは――
ぐう、と、音が鳴った。
(……え?)
違う。
音じゃない。
"わたし"の内部が、何かを訴えている。
(……お腹が……すいた……?)
そんなはずない。
わたしはこんな体なのに。
でも、確かに"飢え"の感覚があった。
(喉が渇いて……?)
違う。
水が飲みたいのではない。
けれど、このままでは"何かが足りない"のだと、体が訴えてくる。
皮膚の内側から、じわじわと"減っていく"感覚。
わたしは、このままでは干からびる。
何かを摂らなければ、"わたし"が失われる。
(食べなきゃ……!!)
だが。
倉庫の中を見渡す。
積み重なった干し草。
厩舎で使うための縄。
金属でできたバケツ。
工具。木箱。陶器の壺。
――食べられるものなんて、どこにもない。
(こんなの……食べられるわけ……)
でも、本当に?
ライクライクは、何を食べる?
どうやって、生きている?
そんなこと、わからない。
でも、"食べなきゃ"という感覚は確かにあった。
だから――
(食べられるもの、どこ……?)
地面に転がった蹄鉄が目に入る。
古びた、金属の塊。
(……これが、食べ物……?)
違う。
そんなはずない。
でも、わたしの体がそれを"求めた"気がした。
粘つく"口"が、するりとそれを咥え込む。
(……っ)
ぞくり、と背筋が震えた。
全身に電流のような感覚が走る。
違う。
食べる、じゃない。
でも、何かが"沁み込む"ような感覚。
(やめなきゃ……こんなの……!)
吐き出す。
べちゃり、と、粘液に塗れた金属が床に落ちる。
(こんなの……違う……!!)
でも、どうすれば?
何が食べ物なの?
何を摂取すればいいの?
答えはない。
ただ、"わたしの体は飢えている"という事実だけが残る。
そして、もうひとつの事実。
(食べなきゃ……わたしは死ぬ……!)
この姿で。
このままでは、干からびる。
ライクライクとしての死。
異形のまま死ぬということ。
(……どうなるの……?)
想像してしまう。
"わたしの肉"が、徐々に水分を失い、縮んでいく。
やがて、乾いた皮のようになって、
ぺしゃんと、ただの"抜け殻"のように転がる。
(そんなの……そんなの……!!)
ある日、誰かが倉庫を開けたとする。
そこに転がっている魔物の死体を、舌打ちでもしながら蹴り飛ばすだろう。
わたしだったものは、もう、どこにも残らない。
誰も、これが人間だったとは思わない。
処理すべきゴミ。
(やめて……!! そんな死に方……!!)
けれど。
それが、わたしの最期なのかもしれない。
ーーこのまま、ライクライクとして死ぬ。
(……いやだ……)
でも、わたしは人間には戻れない。
助けも求められない。
逃げても、生きても、"魔物としての生涯"が待っているだけ。
そして、このまま何もできなければ、"魔物としての死"が待っているだけ。
(……こんなの……こんなの……!!)
わたしは、わたしの体を見下ろした。
ぐちゃぐちゃで、ぶよぶよで、得体の知れない肉。
粘液をまとい、ぬるぬると光る、異質な塊。
(本当に……"これ"が……)
"わたしの人生の、終着点"なの?
倉庫の静寂の中で、わたしはただ、動けずにいた。
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