ライクのゆびわ - 3

  △3-1.

  ロマニーは息を呑んだ。

  今までの恐怖が完全に消えたわけではない。

  だが、それ以上に、この異形の姿になった姉を助けたいという気持ちが強くなっていた。

  ――でも、どうすればいいの?

  今の彼女にできることは何か。

  そう考えたとき、まず頭に浮かんだのは「水」だった。

  (だって、あんな風に……自分の粘液をすすってたんだから)

  その記憶を思い出すと、胸がぎゅっと締めつけられる。

  それは空腹の問題というよりも、もっと根本的な「生きるための必死さ」だった。

  ロマニーはすぐに倉庫の隅に置かれていた大き目の水桶を引っ張ってきた。

  「……これ、飲める?」

  ライクライク――お姉ちゃんは、一瞬動きを止めた。

  そして、ずるり、と音を立ててわずかに体を引き寄せる。

  (やっぱり……水がほしいんだ!)

  ロマニーは桶を倒さないように気をつけながら、ライクライクの前へと押し出した。すると――

  ぬめった肉の塊が、ゆっくりと傾き、水面へと吸い寄せられるように近づいていく。

  そして。

  ぐちゅる、ぐぼっ、ちゅるるるるるっ……!!

  (うわわっ……!?)

  バシャバシャと水面が激しく波打つ。

  ライクライクの体の中心、まるで裂け目のような"口"が大きく開き、凄まじい勢いで水を吸い込んでいく。

  ちゅるるるっ、ちゅるるるるるるるるっ……!!

  (え……なにこれ……!?)

  本来ならば、嫌悪感が勝っていたかもしれない。

  だが、ロマニーはその光景に、恐怖とはまた別の感情を覚えていた。

  それは――興奮。

  (お姉ちゃん、こんな風に水を……)

  理解不能なものを目にしたときの、ぞくりとした感覚。不気味なのに、視線を逸らせない。

  気持ち悪い。でも、面白い。

  恐ろしい。でも、興奮する。

  ライクライクの体が、わずかに震える。水を飲み終えたらしい。

  この光景を見られたのは、自分だけだ。

  そして、この異形の姉を理解できるのも、きっと自分だけ。

  ちゅるるるるるっ……!!

  ようやく最後の一滴まで吸い尽くしたライクライクは、ゆっくりと口を閉じる。

  その体が、小さく震えた。

  (……満足した?)

  ロマニーは、問いかけるように見つめた。

  すると、ライクライクはわずかに身を縮める。

  まるで、頷いたかのように。

  (よかった……)

  安堵の息を吐いた、その瞬間。

  ぐぅぅぅぅぅ……。

  静かな倉庫の中に、不吉な音が響いた。

  ロマニーは、一瞬ぎょっとする。

  「い、今の……?」

  ライクライクは動かない。だが、わずかに体を震わせている。

  (まさか……お腹、すいた?)

  考えてみれば、当然だった。

  水は補給できたけど、今度は食べ物が必要になる。

  でも、何を食べられるの?

  人間のときと同じものが食べられるのか。

  それとも、何か特別なものが必要なのか。

  (とにかく、食べられそうなものを持ってこよう!)

  とりあえず、倉庫にあるもので試してみるしかない。

  ロマニーは倉庫の奥へと走り、家畜用の餌が入った袋を引っ張り出した。

  中身は干し草と、穀物の混ざったペレット。

  (人間だったら絶対食べたくないやつ……)

  でも、今は異形の生き物になってしまっている。

  もしかしたら、食べられるかもしれない。

  「……これ、食べられる?」

  おそるおそる、干し草の束を目の前に差し出す。

  ライクライクは、ゆっくりと身を寄せてきた。

  ずる……。

  そして、まるでためらうように、一瞬動きを止める。

  だが。

  ずるっ。

  干し草が、ライクライクの中へと吸い込まれていった。

  (食べた……?)

  ロマニーは、固唾をのんで様子を見守る。

  ライクライクの体が、しばらくもぞもぞと蠢いていたが――

  ぐぅぅぅぅぅ。

  今度は、先ほどよりも小さな音が響く。

  (少しはマシになったのかな……?)

  ライクライクの動きは、どこか微妙だった。

  満足しているのか、それとも仕方なく食べているのか。

  少なくとも、食べられないわけではないらしい。

  (でも、やっぱり美味しくはないんだろうな……)

  ライクライクの動きはどこか鈍く、満足しているようには見えない。

  仕方なく食べている。いや、"食べざるを得ない"といったほうが正しいのかもしれない。

  ロマニーは、無意識に唇を噛んだ。

  お姉ちゃんは、美味しいものが大好きだった。

  食材にこだわって、調理法に工夫を凝らして、誰よりも"食べること"を楽しんでいた。

  それなのに。

  今、目の前で、ただ生きるためだけに、無味乾燥な家畜の餌を"処理"している。

  (……こんなの、お姉ちゃんらしくない……)

  そう思った瞬間、ロマニーは目を伏せた。

  今の自分の考え方が、どこか残酷な気がして。

  ロマニーは、胸の奥で謝りながら、ふと考える。

  (でも、お姉ちゃんが何を食べられるのか、ちゃんと調べないといけないよね)

  それを考えた瞬間、ロマニーの頭の中で、ある考えがよぎる。

  (あれ? そもそも、お姉ちゃんはどうしてこんな姿になったの?)

  今さらだけど、その疑問がふいに押し寄せてきた。

  魔物になった原因。

  何か呪いを受けたのか? それとも、偶然何かに巻き込まれたのか?

  ロマニーは、姉の体をじっと見つめた。

  「……お姉ちゃん。どうして、こんな姿になっちゃったの?」

  ライクライクは、その問いかけに身を震わせる。

  そして。

  ぐにゃり。体を揺らしながら、何かを伝えようとするように動き始めた。

  「……え?」

  ロマニーは、ライクライクの動きを目で追う。

  だが、それが何を意味するのか、全く分からない。

  「待って、待って!」

  必死に動くライクライク。

  けれど、その動きが何を意味しているのか、ロマニーには理解できない。

  (……どうすれば、お姉ちゃんの言いたいことが分かるんだろう?)

  考え込むように、ロマニーは倉庫の床を見渡した。

  蹄鉄、縄、干し草、木箱。

  どれもこの倉庫にあるはずのものばかり。

  だが、その中に――

  「……これ、お姉ちゃんが触った?」

  金色に光る、小さな箱。

  装飾が施されたそれは、明らかに倉庫にあるべきものではなかった。

  ライクライクは、わずかに震えた。

  (肯定……?)

  「何に触ったのか分かれば、戻し方も分かるかもしれない!」

  ロマニーは勢いよく箱を手に取る。

  けれど、それだけでは何も分からない。

  「でも、これだけじゃよく分からないな……」

  思考を巡らせる。

  「お姉ちゃん、何かの方法で説明できない?」

  ライクライクは、体を揺らした。けれど、それ以上のことはできない。

  (そっか……言葉が分からないのが一番困るな……)

  ロマニーは唇を噛んだ。魔物になってしまった姉は、言葉を話せない。

  意思はあるのに、伝える手段がない。

  このままじゃ、何も分からない。何か方法は……

  (言葉が分からないなら……文字を使えば?)

  ロマニーの思考が、そこで閃いた。

  「――文字を使えばいいんじゃない?」

  ライクライクがわずかに揺れる。

  「でも、倉庫の床に書いても、粘液でぐちゃぐちゃになっちゃうな……」

  書いてもすぐに滲んでしまうだろう。

  それに、そもそもこの床は物が散乱していて、文字を書くには向いていない。

  「じゃあ……もっと広い場所に、ちゃんと並べれば……」

  ロマニーは、ふと顔を上げた。

  牧場。そこなら広い。

  地面に何かを並べて、大きな"文字盤"を作ることができる。

  「……そうだ、そうすれば!」

  ライクライクの目はない。

  けれど、そのぬめった体が、微かに震えているように見えた。

  まるで、「期待している」かのように。

  ロマニーは、決意を固めた。

  「大きな文字盤を作ろう! お姉ちゃんが体で文字を選べるように!」

  △3-2.

  ロマニーは、牧場の地面に大きく並べられた「文字盤」を見下ろした。

  「これなら……伝えられるはず!」

  地面に木の板や石を並べ、それぞれにこの国の文字を記した。

  普段、読み書きを習うときに使う基本の印を一通り揃えたつもりだ。

  「お姉ちゃん、ここに乗って、言葉を作って!」

  ライクライクは、一瞬戸惑ったように見えた。

  もちろん、目はない。それでも、揺らぐ体から、彼女がこの仕組みをどう理解するべきか考えているのが分かる。

  ロマニーは期待を込めて、一歩下がった。

  「ほら、大丈夫! 私が読むから!」

  ライクライクは、ゆっくりと動き始めた。

  ずる……ずる……。異形の肉塊が、慎重に地面の上を滑る。

  (……すごいな……)

  ロマニーは、視線を逸らせないまま、その動きを追った。

  ぬめった粘膜が草の上を引きずるたび、細かい粘液の跡が残る。

  本来なら、気持ち悪がるべきなのかもしれない。でも。

  (お姉ちゃんがこんな風に……動いてるんだ)

  どこか奇妙な感覚だった。

  嫌悪とも違う。むしろ、その生態の異質さに、目を奪われている自分がいる。

  ライクライクが、一つの印の上で止まった。ロマニーは、それをじっと見る。

  「……『ユ』?」

  ライクライクは、再び動き出す。

  次に止まったのは――

  「『ビ』……?」

  (ユ……ビ……?)

  ロマニーは、心の中で組み立てる。

  (指……? 指がどうかしたの?)

  そう思いながら、ライクライクの次の動きを待つ。そして――

  「『ワ』?」

  「指……輪?」

  ロマニーは、思わず息を呑んだ。指輪。

  「お姉ちゃん、指輪が……どうしたの?」

  ライクライクは、わずかに震えた。そして、再び印の上を滑る。

  「『シ』……『タ』……『ラ』……?」

  「指輪……したら?」

  ロマニーは混乱しながらも、続く言葉を待つ。ライクライクは、ゆっくりと文字を選び続ける。

  「『カ』……『ワ』……『ッ』……『タ』……?」

  「変わった……?」

  ロマニーは、ようやくその意味に思い至った。

  「指輪をしたら……変わった?」

  ライクライクは、大きく震えた。肯定の動き。ロマニーの心臓が、どくん、と鳴る。

  「え……じゃあ、その指輪を外せば……元に戻れる?」

  ライクライクは、すぐには動かなかった。ロマニーは息を呑んで待つ。

  やがて――

  ライクライクは、ゆっくりと身を揺らしながら、また印の上を滑る。そして、止まった先の文字は。

  「『デ』……『キ』……『ナ』……『イ』……?」

  「できない……?」

  ロマニーは、絶句した。

  「指輪を外せないの……?」

  ライクライクは、静かに揺れる。それは、否定ではなく、確かな"肯定"だった。

  (どういうこと……? 指輪をすれば変わる。でも、外せない?)

  頭が追いつかない。ロマニーは混乱しながら、それでも次の手がかりを求める。

  「お姉ちゃん……指輪、今どこにあるの?」

  ライクライクは、再び動いた。

  「『ク』……『チ』……?」

  「口……?」

  ロマニーは、ライクライクの体を見た。

  そして、そこでようやく気づく。

  (あ……)

  ライクライクの体の中心。あの、巨大な裂け目。

  それは、口。

  (……まさか……)

  ロマニーの背筋が、ぞくりとした。

  「お姉ちゃん……指輪、口の中にあるの……?」

  ライクライクは、わずかに震えた。それが肯定の合図だと分かった瞬間。

  ロマニーの顔が、ひきつった。

  「……じゃあ、その指輪を外せば、お姉ちゃんは元に戻れるんだよね?」

  ライクライクは、静かに揺れた。肯定。

  「でも、外せない?」

  今度も、ゆっくりと揺れる。ロマニーは、自分の掌を見下ろした。

  (つまり……この中にあるんだよね)

  ライクライクの体の中心、裂け目のような口。その中に、指輪。

  (手を突っ込めば……取れるのかな?)

  ロマニーは、ぐっと唇を噛んだ。気持ちの悪い感触を想像する。

  粘液。

  ぬめった肉。

  ぐちゅりとした、異様な感触。

  ……でも、怖がっていたら何も解決しない。

  (お姉ちゃんを助けるためなら……!)

  ロマニーは、震える手を伸ばした。

  指先が、ライクライクの口の端に触れる。ひやりとした、湿った感触。

  「……うっ……」

  想像以上にぬめっている。

  (……大丈夫、大丈夫。これくらい……っ!)

  決意を固めて、ゆっくりと手を滑り込ませた。ぬるり。

  腕が、ライクライクの体内に沈み込んでいく。

  ぬちゃ、ぐちゅ、じゅる……。

  ロマニーの顔が歪む。

  (……うわぁ、きもちわる……っ)

  粘液に包まれた腕が、生暖かい肉壁に絡みつかれる。ずるり、と蠢く感触。

  「……ひっ……」

  (やっぱり、やばいかも……)

  だが、それでも耐えた。ぐい、と腕を奥へ進める。しかし——

  (ない……!?)

  手の届く範囲を探る。ぐにゃ、ずる、ぬちゅ。どこもかしこも、ぬめった粘膜。

  指輪らしきものは、何もない。ロマニーは顔をしかめ、手を抜き取った。

  腕は、どろりとした粘液でびっしりだった。

  「うぇ……」

  軽く身震いする。

  (お姉ちゃんには悪いけど……すごく気持ち悪い……)

  「……お姉ちゃん、本当にこの中にあるの?」

  ライクライクは、わずかに震えた。ロマニーは、息を整えながら、印の上へと促す。

  「……もう一度、どこにあるのか、ちゃんと教えて?」

  ライクライクはゆっくりと動き——

  「『ノ』……『ド』?」

  「喉の奥……?」

  ロマニーの顔が強張る。さっきの場所より、さらに奥。

  「……ほんとに?」

  ライクライクは震えた。

  間違いない。ロマニーは、しばらく押し黙った。手を突っ込むだけでも相当だった。

  それ以上、頭まで入れないといけないの?

  ――怖い。

  本当に大丈夫なのか? 手を入れた時点であの気持ち悪さだった。

  その奥ともなれば、どんな感触が待ち受けているのか分からない。

  想像するだけで背筋がぞわりとした。

  (でも……お姉ちゃんを助けられるなら……!)

  ロマニーは、唇を噛み、肩を震わせながら考える。

  それでも決断には、もう少し時間が必要だった。

  深呼吸。

  震えを押さえつけ、ゆっくりとライクライクの口の前に立つ。

  ぬるり、と口の端が開く。ロマニーは、慎重に片腕からゆっくりと入れようとした。

  しかし、湿った肉壁の奥に手を伸ばした瞬間——

  ずるっ。

  ぬちゅ、ぐちゅ。

  じわじわと、腕を飲み込むように粘膜が絡みつく。

  「……うっ……」

  嫌な感触に顔を歪める。

  ――でも、ここまでは耐えられる。

  だが、さらに奥へと手を進めようとした、その時。

  「んぐっ……!?」

  突如として、ライクライクの口が大きく痙攣し、ロマニーの腕を一気に締め付けた。

  「えっ、ちょっ、待っ……!?」

  引き戻そうとするが、ぬめった肉壁が吸い付き、逆にじわじわと引き込まれていく。

  ずずるっ、ぬちゅ、ぐちゅ。腕が完全に沈む。

  (やばっ……!)

  肩が飲み込まれる。ロマニーは必死に体を反らすが、全身がねっとりと絡みつく粘膜に引き寄せられ、どうにもならない。

  「嘘、嘘、嘘っ!?」

  胸が押しつぶされるように吸い込まれ、腰までが呑み込まれる。

  冷たい粘膜に包まれる感触。

  (ま、待って……これ、本当に……食べられる……!?)

  「お姉ちゃん!! ちょっ、やめてっ!!」

  足が浮き、地面から完全に持ち上がる。もはや全身が粘液の中。

  暗闇の中で、ぬめった肉壁が絡みつき、締め付けてくる。視界がぐにゃりと歪む。

  (やばい……このままじゃ……!)

  呼吸が、できない。外の空気が遠のいていく。

  ぬるぬるとした内壁が全身を押し潰し、まるで深海の底に沈められたかのような圧迫感が襲う。

  「んぐっ……!!」

  もがくが、まるで吸盤のような粘膜が肌に密着し、引き剥がせない。

  ぎゅるるる……ぐちゅ……。

  (お姉ちゃん……本当に……!?)

  肉壁が脈打つように締め付ける。

  ぐにゅ……ずる……じゅるっ……。

  締めつけが強まる。

  腕、肩、胸、腹、腰、そして足先まで、ぬめった感触が絡みつき、まるで異形の胎内に取り込まれるかのように……。

  ロマニーは本能的に悟った。

  (このままじゃ……食べられる……!!)

  焦りが、全身を駆け巡る。暴れる。

  しかし、粘液がそれを許さない。暗闇の中で、じわじわと肉壁が蠢く。

  身体が少しずつ、奥へ、奥へと引きずり込まれていく。意識が遠のく。

  「んっ……ぐっ……!!」

  (お姉ちゃん……っ!!)

  その瞬間——

  ライクライクの体が、大きく震えた。

  ぶしゅっ!! ずるぅぅぅぅぅぅぅっっ!!!

  体が一気に押し出される。

  視界が一気に開け、粘液まみれの体が地面に叩きつけられる。

  「っぷはぁぁぁっ!!?」

  ロマニーは、粘液まみれになりながら、地面に転がり出た。

  「っは……! っは……!」

  肩で息をしながら、ライクライクを睨みつける。

  「……お姉ちゃん……っ!!」

  姉は、身を縮めていた。ロマニーは、全身の力が抜けるのを感じた。

  「……ダメだ、これ……」

  震える体を起こし、ぐしゃぐしゃの髪を払う。

  「……しばらく、考えなきゃ……」

  ロマニーは、ライクライクの前で座り込んだ。

  まずは……対策を考えよう。

  (お姉ちゃんを……飼育する……?)

  そんな言葉が、脳裏をよぎった。

  △3-4.

  ロマニーは、全身からべったりと垂れ落ちる粘液を拭いながら、夕焼けの空を見上げた。

  (……こんな時間になっちゃった)

  指輪を探し出そうとした結果、姉に丸呑みされてしまい、なんとか吐き出されたのがつい先ほど。

  時間が経つのはあっという間だった。問題は、このまま夜になったら、ライクライク――お姉ちゃんをどうするか。

  「……うーん……」

  ロマニーは、ぬめった体を縮めるライクライクを見下ろした。

  (このまま牧場に置いておくわけにはいかないよね……)

  理由はいくつかあった。

  まず、夜の間に何かあったらどうするのか。この姿のお姉ちゃんは、戦えるのだろうか?

  それに、このまま放置して、もし誰かが夜中にここへ来たら……。

  (……いや、それはないか)

  この家には、ロマニーと姉しかいない。

  とはいえ、万が一、外から誰かが訪れる可能性はある。

  (そうじゃなくても……何かあったら、わたし、絶対気になって眠れない)

  実際、今も頭の中で「もしこのまま放っておいて、朝起きたらいなくなっていたら?」という最悪の想像が渦巻いていた。

  そんなの、心臓に悪すぎる。ロマニーは、溜息をついた。

  「……やっぱり、倉庫に戻ってもらうしかないか」

  倉庫なら、しっかりした扉がある。逃げ出す心配はないし、もし暴れたとしても、壊れるのはせいぜい木箱や古い道具くらい。

  それに、家と牧場のちょうど中間地点にあるので、何かあればすぐに様子を見に行ける。

  「……ごめんね、お姉ちゃん……でも、ここしかないよ……」

  ロマニーがそう呟くと、ライクライクはわずかに震えた。

  悲しそうにしているように見えた。

  「……明日、また考えるから。今は……ここで、我慢してね」

  そう言って、ロマニーはライクライクを倉庫へと誘導した。

  ずる、ずるり……。ぬめる体を引きずりながら、ライクライクは大人しくついてくる。

  その姿を見ながら、ロマニーはふと考えた。

  (……なんだか、本当に『飼ってる』みたい)

  そう思った瞬間、背筋にぞわりとした感覚が走った。お姉ちゃんを、"魔物"として扱ってしまっている。

  (違う、違う……そんなつもりじゃ……)

  そう思っても、一度浮かんだ違和感は消えない。ロマニーは、静かに倉庫の扉を閉じた。

  その夜、彼女は自室で考え続けた。

  どうすれば、お姉ちゃんを元に戻せるのか。

  「指輪を取り出す方法……何か、他に……」

  体を逆さまにしたら、指輪が落ちてくる?

  ……ライクライクの表裏をひっくり返すことができたら?

  ぞくり、とした。

  それは、ロマニー自身が考えるには、あまりにも"残酷"な方法だった。

  お姉ちゃんを、ひっくり返す。そうなれば、指輪どころか、臓物ごとすべてが外に出てしまうのではないか?

  (ど、どうやったら……?)

  ライクライクの皮膚をつまんで、内側から指を差し込む?

  裂け目のような部分を探して、そこから裏返す? まるで、袋の中身をぶちまけるように。

  ロマニーは、思わず身震いした。

  (そんなこと、できるわけない……)

  だが、もしこれが本当に可能だったとしてーー

  ひっくり返される側は、どんな感覚を味わうのだろう?

  皮膚が裏返り、内臓が外気に晒される。体の構造が無理やり逆転し、感覚が急激に反転する。

  自分の中身が"外"に出てしまう瞬間。それは、痛みなのか、苦しみなのか、それとも……

  (……もし、ライクライクになったのがわたしだったら?)

  その考えが、さらに彼女の思考を暗くしていく。

  自分がこの醜悪な肉塊になったとしたら? 誰にも見つけてもらえず、助けてもらえなかったら?

  (例えば、海辺だったら? ……波打ち際で、ただの異形の肉塊として……?)

  誰も気づかず、誰にも助けられず。ただ、ゆっくりと砂に埋もれていく。

  波が打ち寄せるたびに、体がゆっくりと転がる。誰の目にも止まらない、ただの奇妙な塊として。

  (……わたしは……人間だったのに)

  声を上げようとしても、声帯すらない。

  言葉を伝える手段は、何もない。じわじわと意識が薄れていく。塩水が染み込み、体が少しずつ崩れていく。

  (誰か……誰か、気づいて……)

  けれど、ただの肉塊に、手を差し伸べる人はいない。

  考えれば考えるほど、戦慄が走る。

  「……やだ……やだよ……」

  ロマニーは、布団をかぶって目を閉じた。

  けれど、想像の恐怖は消えず、その夜はほとんど眠れなかった。

  △3-5.

  翌日。姉の"世話"を終えたロマニーは、村の図書館に来ていた。

  (……うぅ。なんか、すごく後ろめたい気分……)

  目的は、ライクライクの生態について調べること。

  でも、どう考えても「うちの姉がライクライクになっちゃったんですけど、どうしたらいいですか?」とは聞けない。

  できるだけ自然に、さりげなく、怪しまれずに情報を集めなければ。

  (ええと……聞き方……どうしよう……)

  ロマニーは、カウンターの奥で本を整理している司書をチラリと見た。

  白髪混じりの初老の男性。穏やかな顔つきだが、何かを観察するような目つきをしている。

  (……うっ。なんか、すごく見抜かれそう)

  けれど、いつまでも立ち尽くしているわけにもいかない。

  意を決して、カウンターへ向かった。

  「ご、ごめんなさい、あの……」

  司書が顔を上げる。

  「ん? どうしましたか、ロマニーちゃん」

  「えっと……あの……」

  (ああもう、こういうの苦手……!)

  どうにか自然に聞ける言葉を探す。

  なるべく、怪しまれないように。

  「その、最近……ライクライクが出るって聞いて……その、生態とか、知りたくて……」

  司書は少し目を細めた。

  「ああ、対処法ですか」

  「は、はい……」

  (怪しまれてない? 大丈夫?)

  司書は顎に手を当てて、少し考え込むような仕草をした。

  「ふむ……ライクライクについての記述があるのは、魔物図鑑の類ですかね。詳しく知りたいなら、

  『魔生物大全』あたりがいいでしょう。ちょっと古いですが、記述はしっかりしていますよ」

  「そ、それをお願いします!」

  司書は少しだけ笑い、「ちょっと待っててくださいね」と言って、書架の奥へと消えていった。

  (……よかった、普通に聞けた……かな?)

  ロマニーは胸を撫でおろす。

  けれど、ふと気づく。

  (……あれ? わたし、"対処法" なんて言ったっけ……?)

  そんなこと、一言も言ってない。

  でも、司書はまるで最初から "それを聞かれるのが当然" みたいな反応だった。

  (……まあ、魔物なんだから、そういうもんか……)

  少しだけ、ぞくりとしたものを感じながら、司書の戻りを待つ。

  戻ってきた司書によって、カウンターに分厚い本が置かれた。

  『魔生物大全』。

  表紙は黒ずみ、何度も読まれたのか端が擦り切れている。ロマニーはそれを両手で抱え、閲覧席へ向かった。

  (ライクライク、ライクライク……)

  ページをめくり、索引を頼りに目的の項目を探す。

  そして――見つけた。

  『ライクライク(魔物)』

  挿絵つきの解説が並ぶ。

  ライクライクの基本的な特徴、習性、主食、弱点――。

  (……)

  ロマニーは無意識に喉を鳴らした。

  記述には、ライクライクが "どういうものを好んで食べるか"、"どのように動き、どのように消化するか" が細かく書かれている。

  そして、それを支えるのが――解剖図 だった。

  (……すご……)

  ロマニーは、そのページをじっと見つめた。

  ライクライクの構造。消化器官。体内の仕組み。

  まるで研究者が細かく観察したかのような詳細な図。人間とは、あまりにも違いすぎる生き物の内部。

  (……お姉ちゃんの……中も……)

  ぞくっ、とした。

  (いや、お姉ちゃんは違う。こんなのじゃない。でも――)

  本の記述を追う。

  「……"ライクライクは、一定の条件下で捕食活動を鈍らせる"……」

  (条件下?)

  「"たとえば、アルコールを大量に摂取した場合、全身の動きが鈍ることが確認されている。"」

  (アルコール……?)

  「"ただし、これは完全に動きを止めるものではなく、飲み込む動作が遅れ、不規則に蠢くようになる。"」

  ロマニーは眉をひそめた。

  (じゃあ、アルコールを飲ませたら……「食べ物」を飲み込めなくなる?)

  それは、もしかして――指輪を取り出す方法のヒントになるかもしれない。

  (でも……アルコールなんて、どうやって……?)

  そう考えながら、さらに記述を追う。

  「"ライクライクの利用例について"……?」

  そこには、過去に行われた実験の記録が書かれていた。

  ・ライクライクを下水槽に放ち、排泄物の詰まりを解消させる試み

  ・ライクライクを農耕作業に利用する実験

  ・ライクライクの肉の食用化試験

  (……人間の役に立たせようとしてたんだ……)

  でも、それは全て "魔物" としての扱いだった。

  ロマニーは、本を閉じた。

  けれど、息が少しだけ荒くなっているのに気づく。

  お姉ちゃんを……こういうふうに扱うわけじゃない。絶対に

  でも――

  (……なんで、今、妙な感じがしたんだろ……)

  指先が、じんわりと熱を持つ。

  心臓が、ほんの少しだけ速くなった気がする。

  (別に……怖かったわけじゃない。なのに……)

  どこか奥の方が、ざわざわとする。

  落ち着かないような、それでいて、言葉にできない感覚。

  ページを閉じる手が、ほんの一瞬だけ、惜しくなる。

  (……お姉ちゃんを助けなきゃいけないのに)

  でも、もう一度開いたら、何かを越えてしまう気がした。

  △3-7.

  その日はそれ以上図鑑を読む気にはなれず、ロマニーは町をぶらついた。

  夕暮れ前の通りは、のどかで、穏やかだった。干された洗濯物が揺れて、パン屋の前を通ると焼きたての香りが鼻をくすぐった。

  子どもたちが何人かで笑いながらかけ回り、誰かの犬がそれを追いかけていた。

  (……なんてことない、日常)

  特別なことなんて何もない。ただの毎日。

  けれど、それこそが人間らしい生活だった。温かくて、にぎやかで、くだらなくて。

  (……お姉ちゃんが、いた場所)

  そこには、もういない。

  ロマニーは、ほんの少しだけ元気をもらって、家へと帰った。

  「……お姉ちゃん、元気?」

  その夜のこと。暗がりの中、ぬめった塊が小さく揺れる。

  ロマニーは、持ってきた水と、台所から持ち出したパンと煮豆を置いた。

  「今日はね、人間のごはんだよ。少しだけだけど……食べてみて?」

  ライクライクは、しばらくじっとしていたが、やがてずるりと身を寄せ、音を立てながら食べ始めた。

  (……ちゃんと食べてくれてる)

  ロマニーは、少しだけ嬉しくなった。まるで、自分の気持ちが届いたような気がして。

  そのまま、倉庫の隅に腰を下ろし、ロマニーは目を閉じた。

  (明日は、もっとちゃんと……)

  その考えが、妙に心地よくて。「もっと」なにをしてあげればいいか、考える時間さえ、悪くないと思った。

  でも、それと一緒に、喉の奥が少しひりついた。まるで、言ってはいけないことを考えているような、そんな罪悪感に似た感情。

  倉庫を出るとき、ロマニーは扉をそっと閉めた。鍵はかけなかった。ただ、ゆっくりと、音を立てずに。

  扉の向こうには、柔らかく息をするように、ぬめった塊が横たわっていた。

  ロマニーは、自室に戻った。布団に入り、天井を見上げる。暗がりの中で、なぜかほんの少しだけ、呼吸が浅くなる。

  体の奥に、どこかざらついたものが引っかかったまま、眠りはなかなか訪れなかった。

  けれど、それでも目を閉じた。明日が来るのを、少しだけ期待しながら。

  翌朝。

  ロマニーが倉庫を開けると、ライクライクは明らかにそわそわとした動きを見せていた。

  「……お、おはよう」

  近づくと、ぬめった体がずる、と音を立てて前に出てくる。

  「え、なに? どうしたの?」

  昨夜より、動きが大きい。何かを訴えている。

  その様子に少し戸惑いながらも、ロマニーの心は、どこかざわついていた。

  異形の塊が、ロマニーの足元へじりじりと寄ってくる。その動きには、焦りとも飢えともつかない、強い「要求」のような何かがこもっていた。

  (ま、まさか……)

  ロマニーは、昨夜置いた皿を見た。空っぽ。

  吐き戻した様子もない。

  「……足りなかったの?」

  そう尋ねると、ライクライクは、びくん、と小さく揺れた。

  (……そっか。あれじゃ全然足りなかったんだ)

  ロマニーは軽く頭を抱えた。

  「ごめん……ちゃんと考えてあげなきゃいけなかったのに」

  ライクライクは、その言葉に反応するように、体を少し縮めた。

  まるで、言いすぎた子どもが、怒られるのを待つように。

  (……わたし、完全にお姉ちゃんを……『飼ってる』)

  胸がざわついた。

  でも、もう目を逸らせない。

  「ちゃんと、調べる。……飼育のことも、食べるもののことも」

  ロマニーは、そう告げて倉庫をあとにした。

  昼前の太陽が、高く昇っている。村の人々が行き交う中、彼女は図書館へと向かった。

  すぐに『魔生物大全』を開き、ライクライクの項目を探す。昨夜読んだ箇所も含め、改めて最初から丁寧に目を通す。

  (……食べるもの、どこかに書いてないかな……)

  ライクライクの体内構造、消化器官の説明、過去の事例。

  どのページも詳しいが、"何を与えればいいか" については、はっきりした記述が見当たらない。

  (……やっぱり、飼うものじゃないってこと……?)

  当たり前だ。魔物なのだから。

  けれど、今のロマニーにとっては、そう割り切るわけにもいかなかった。

  (せめて、必要なものくらい……)

  そう思いながら、彼女は別のページを開く。

  記述の隅に、「捕獲後の管理」や「標本処理」といった小見出しが並ぶ。

  そのうちの一つが、ふと目に留まった。

  「保存法……?」

  ロマニーは眉をひそめながら、その項目をめくった。

  魔物の遺骸を腐敗させずに保つ方法、解体後の管理、そして——

  「"ライクライクは水分を多く含む生物であり、乾燥には極端に弱い。"」

  その一文が目に飛び込んできた。

  (乾燥……?)

  (……動きが止まる?)

  ロマニーは、無意識に喉を鳴らした。探していたのは、食べ物や飼育方法のはずだった。

  けれど、「動きを止める」という言葉に、思考が引き寄せられてしまった。

  ――あの時の感触が、よみがえる。

  粘液に絡みつかれて、体を呑まれて、ぐちゅぐちゅとした音と一緒に、息ができなくなったあの瞬間。

  (……また、あんなことが起きたら?)

  もし次にあれをされたら、今度こそ戻ってこられないかもしれない。

  (……でも、動きを止められたら……)

  そうすれば、落ち着いて指輪のことだって探せるかもしれない。

  ほんのわずか、希望のようなものが灯る。

  ロマニーは、その先を読んだ。期待を込めて先を読んだ。

  「"塩を浴びせられたライクライクは、次第に萎縮し、ぺしゃんこになっていく。"」

  (……ぺしゃんこ……?)

  言葉の響きに対して、胸の奥がざわりとする。

  少し気になるだけ。――そう思ってページをめくった。

  「"塩漬けになったライクライクは、標本として長期間保存が可能である。"」

  (……標本……?)

  ロマニーの喉が、ごくりと鳴る。

  (……助ける、んじゃなくて……?)

  不穏な予感を覚えながら、続きを読む。

  「"また、完全に乾燥しすぎた場合、体の組成が崩れ、回復不能となる。"」

  (……回復不能……!?)

  一気に寒気が走った。それは、つまり――

  お姉ちゃんが元に戻れなくなる、ということだ。

  ロマニーの指が震える。けれど、もう目を逸らすことができなかった。

  さらに下に、恐ろしい一文があった。

  「"塩漬けになったライクライクの標本は、適切な環境で保管すれば数十年は状態を維持できる。"」

  (数十年……!?)

  お姉ちゃんが……

  標本に……?

  ロマニーは慌ててページを閉じようとした。けれど、目の端に、何かが映った。

  ――挿絵。

  彼女は、息を呑んだ。

  そこには、ぺしゃんこになったライクライクが描かれていた。

  形も厚みも不揃いな布団を、丁寧に折りたたんだような姿。けれど、その端には――

  「口」があった。

  ――お姉ちゃんの「口」だった部分が。

  ロマニーは思わず本を閉じた。指先がひどく冷たい。

  (……これは、ない。絶対に、だめ)

  乾燥。標本。数十年。

  どこにも「助ける方法」なんて書かれていなかった。

  呼吸が浅くなる。けれど、目を閉じていても、挿絵の"あの姿"が脳裏に焼きついて離れなかった。

  (……別の方法……もっと、穏やかで、安全な……)

  ロマニーは、別の本を手に取った。『魔性種の習性と研究』という少し新しめの本だ。

  索引を頼りに、ライクライクの項目を探す。

  「捕食傾向」「消化周期」「種族別の分類」……どれも、読めば読むほど現実感をなくしていくような言葉ばかり。

  (食べ物のこと、飼育のこと、なにか……)

  ページをめくる。けれど、どこを見ても「生かしておく」前提の記述はない。

  (……やっぱり、魔物って、そういう存在なんだ……)

  ふと、ページの隅にあった「拘束・鎮静化」という小見出しに目が留まる。

  (鎮静……?)

  まるで縋るようにその項目を開く。

  「"一部の種類のライクライクは、強いアルコールを摂取させることで活動が鈍くなる。"」

  「"特に液状の火酒を経口または体表から吸収させることで、一定時間反応が抑制される。"」

  ロマニーの手が、わずかに止まる。

  (……これ、昨日の本にもあった……)

  けれど、今読んでいるのはまったく別の本だった。

  つまり、これは――偶然じゃない。複数の資料が「火酒で反応が鈍る」と証言している。

  (じゃあ……やっぱり、火酒なら……)

  ページの最後には、注釈としてこうあった。

  ――"※なお、火酒による鎮静は一時的なものであり、魔性の活性が強い個体には効果が薄い可能性がある。"

  それでも、他に選択肢がないのだと、ロマニーにはわかっていた。

  (あれしか、ない……)

  ゆっくりと本を閉じる。

  次の瞬間、彼女の中に、「できる」という確信と、「やってしまえる」という迷いが、同時に立ち上がった。

  (お姉ちゃんに……火酒を……)

  喉の奥が、乾く。

  自分でも、何を考えているのか分からなくなりそうだった。

  でも、考えるよりも先に、体が動く。

  ロマニーは立ち上がり、火酒の手がかりを求めて、もう一冊――もっと具体的なものを求めて――本棚を探しはじめた。

  (お姉ちゃんを助けるため。……それだけ)

  ――それだけのはずなのに、心の奥では、名付けようのない何かが、ひたひたと熱を帯びていた。

  その時だった。

  「おや、また魔物図鑑を読んでいるのかい?」

  ロマニーは肩を跳ねさせた。振り向くと、司書の男性が興味深そうにこちらを見ている。

  (……っ!?)

  何もやましいことはしていない。ただ、魔物の本を読んでいただけだ。

  それなのに、全身からさっと血の気が引いていく。

  「え、ええっと……魔物の勉強、です……!」

  声が、少し裏返った。司書はにこやかに微笑んだ。

  「熱心だねえ。でも、昨日も見ていたけれど……」

  「そ、そう! ライクライクって、金属が好きなんですよね! それに……あの、あれです、えっと……食べるのも、ちょっと、遅いって……!」

  意味のない言葉が、口から滑り出る。自分でも、何を言っているのか分からなかった。

  ただ、何かを隠そうとしていることだけは、はっきりと分かっていた。

  司書は「そうだね」と頷き、特に追及することもなく、去っていった。

  ロマニーは、心の中で大きく息をついた。本棚の陰に、そっと身を引く。

  (……ばかみたい)

  なぜだろう。自分の心の中を、見透かされたわけでもないのに。

  ただ声をかけられただけなのに、どうしてこんなに、恥ずかしいんだろう。

  (……火酒、か)

  ごまかしたばかりの頭の奥に、先ほどの記述がじわじわと戻ってくる。

  昨日のワインは、ほとんど効果がなかった。けれど、火酒なら――。

  (でも、どこで……?)

  再び現実の問題に立ち返る。

  火酒なんて、子どもが手に入れられるものじゃない。

  酒場でお願いして分けてもらうわけにもいかないし、買うにも許されていない。

  ロマニーは、眉を寄せながら考え込んだ。

  (うちにあったような……あれ……)

  ふと、脳裏に一つの映像がよぎる。

  物置の棚の奥。古い布に包まれた、重たい酒瓶。

  (……お祭りの供え酒!)

  思い出した。

  村の年祭のために、各家から持ち寄る「御神酒」。

  今年のぶんは、牧場の倉庫の奥に保管されているはずだった。

  あれは確か、火酒の一種。祠に供えるためだけの、特別な蒸留酒。

  (……ある。あれなら、ある)

  ほんの一瞬だけ躊躇が胸をかすめる。

  それは“盗む”という言葉に近かった。

  でも。

  (……助けるためなら)

  誰のためでもない。

  お姉ちゃんを、助けるため。

  心臓がどくん、と鳴る。

  さっきまでの恥ずかしさと、今の決意が、ごちゃまぜになって頭の中を熱くする。

  ロマニーは、そっと本を棚に戻し、静かに図書館をあとにした。