或る蚊の一生 (上)

  *  *  *

  やめて! やめて……っ、返して……!

  それは、わたしの身体なの……!

  わたしが、ずっと、ここで息をしてた。鼓動を鳴らしてた。

  笑って、泣いて、歩いてきた。手を振って、名前を呼ばれて、頬を膨らませたのも――全部、わたしだったのに。

  まだ、やりたいこと、いっぱいあるのに……!

  やだ……やだ……お願い……ここからわたしを追い出さないで……っ!

  返して、返して……返してぇ……!

  ガラスの向こうに、"わたし"がいた。彼女は、ただ座っていた。

  膝を抱えて、背を丸め、肩を落とし、小さく震えていた。

  呼吸はゆっくりで、目は閉じられたまま。

  長い睫毛がぴくりと揺れて、頬に残った涙の痕が、光に濡れていた。

  その姿はあまりに静かで、あまりに綺麗だった。

  ――まるで、もう何もかも終わったことを受け入れた女の子みたいに。

  口元が、かすかに歪んだ。

  それは、笑っているようにも見えた。

  安堵にも、諦めにも、似ていた。

  わたしには、それが、"すべてを奪われたわたし自身"が呆然と放心しているようにしか見えなかった。

  目が逸らせなかった。

  わたしのすべてが、その姿に縋ろうとしていた。

  でももう、届かない。

  あの身体も、あの涙も、あの名前も――全部、"わたし"のものじゃなかった。

  わたしが、ここにいるのに。

  わたしが、どこにもいない。

  じゃあ今、わたしを見ている"この目"は、いったい誰のもの?

  【01】

  「風、ちょっとあったかくなったね」

  カーテンの隙間から、春の光が差し込んでいた。

  教室の天井パネルにそれが淡く反射して、机や床を白くなぞっていく。

  光の帯がゆっくりと移動するたびに、わたしたちの昼休みが、少しだけ静かに感じられた。

  「……あ、髪、浮いてる」

  友人の凛音の声に、わたしはそっと頬をなでた。

  少し開いた窓から吹き込んだ風が、前髪をふわりと持ち上げていた。

  黒い髪は、光を通すとほんのり赤く見える。自分でもあまり気づいていなかったけど、鏡の前で角度を変えると、たしかにそう見える。――ちょっとだけ、気に入っている。

  「草のにおい、混じってるよね」

  「うん、春って感じ」

  「でもちょっと埃っぽい。花粉も入ってるかも」

  「言わないで、それ聞くと急にかゆくなるから」

  そんな他愛ないやりとりの中で、校庭を囲む銀杏並木の枝が、窓の外で風に揺れていた。空の青をちらちらと滲ませながら、木漏れ日がきらきらと瞬いている。

  わたし――清見晴香(きよみ はるか)は、弁当のフタを開けて、パック入りの味噌汁に目をやった。

  湯気がふわっと立ちのぼる。ちょっと酸味のある、でもやさしい匂い。

  舌の奥がじんわりと緩むようなその香りに、わたしは小さく息をついた。

  「今日それ、人気だったやつじゃない?」

  「え、そうなの?」

  「うん。お昼前に、満足度が急に上がってたから」

  男子にしては少し長めの髪を、耳にかけ直しながら、彼――夏目凛音(なつめ りおん)は静かに笑った。

  中性的な顔立ちで、どこか飄々としていて、ちょっとだけ生意気。名前のせいもあって、女の子に間違えられることも多い。

  そういうとき、本人は決まっていたずらっぽく笑って、「え、どっちに見えた?」なんて返すから、ますますややこしくなる。

  「喋らなければイケメンなのに」って声を、わたしも何度か耳にしたことがある。

  ――でも、それは"喋るとイケメンじゃない"って意味じゃなくて、"喋ると、凛音になる"ってことなんだと思う。

  「で、それ、どこで見たの?」

  「朝のログ。食堂のメニュー分析、通知オンにしてた」

  「そんな設定あったっけ……」

  「あるよ。人気順で並び替えると、満足度の推移も見えるようになる」

  言われて、わたしも視線を少し上げた。すると、視界の端にふわっと文字が浮かび上がる。

  《本日の選択食トップ:トマトと青じその味噌汁(満足度92.4%)》

  黒地に白のインターフェース。視線の動きに合わせて、位置も明るさも自然に変わる。

  誰にも見えない、でも確かに"ここにある"。今や、それが当たり前になっている。

  「……ほんとだ。まさかこれが一位とは」

  「味の系統、けっこう攻めてるもんね」

  「でもおいしいよ。さっぱりしてて」

  「うん、晴香の好みって感じ」

  どこかからかうように笑いながら、凛音は机の縁をトントンと軽く指先で叩いた。

  それが、彼の癖だ。テンポを取るみたいに、なにかの拍子に机を鳴らす。

  わたしは、小さく笑い返して、味噌汁に口をつけた。

  「これ、無料枠なんだよね」

  「うん。たぶん、"おいしい"って感じた人の脳波とか、感情データとか? そういうの集計して、無料提供数が決まるんじゃない?」

  わたしには、詳しい仕組みはわからない。

  もう、"そういうもの"だと思ってる。何がどう判断されて、どこから供給されて、どこまでが"選択の自由"なのか――いちいち気にして暮らす人なんて、今ではもうほとんどいない。

  この時代、ほとんど働かなくても生きていける。

  だからほとんどの人が、自分の好きなことや、気の向くことだけを選んで暮らしてる。そういう時代なんだと、わたしたちは当たり前のように受け入れている。

  教室の向こうでは、ゲームの実況に誰かが笑い声を上げていた。

  別の席では、スマートスクリーンを囲んで、動画を見ているグループがいる。

  誰もがそれぞれの世界で過ごしていて、でもそのすべてが、どこか緩やかに、ひとつに繋がっているような空気があった。

  「そういえばさ、晴香」

  凛音が、また耳元の髪を直しながら言う。

  「"スワイプで送ってください"って、まだ言うの不思議だよね」

  「あー、確かに。もとは"指で"って意味でしょ? たしかにその意味は消えてるのに残ってる」

  「ああいうの、昔はスマホっていうのがあった名残らしいよ」

  「でも今でも、役所の端末とかは"スワイプしてください"って書いてあるよね」

  「うちのばあちゃん、まだ普通にスマホ使ってるよ。ボタン押すのが安心するって」

  「あー、わかる。うちも。接触しないと反応してくれない気がするとか言ってて」

  「なんかさ、スマホってこう、手の中で眠るペットみたいじゃない?」

  「え?」

  「ほら、通知とか鳴くし。構ってあげないと電池なくなって拗ねるし」

  ……は? 唐突に詩人モードに入るの、やめてほしい。ガクッときすぎて、今ちょっとスプーン落としそうだった。……喋らなければイケメンなのに!

  笑いだけで話を終わらせるとちょうど、窓の外に白いドローンがひょいと姿を見せた。わたしがさっき頼んだハーブティーを、静かに机に置いていく。パチンという軽い音と共に紙パックが着地し、風のように去っていった。

  「……わたし、こういうとき、ありがとって言いたくなっちゃう」

  「えー意外。その感覚、だいぶ古いかもよ」

  「でも、言わないとなんか落ち着かないし。おばあちゃんの影響かな。"技術は進んでも、挨拶だけは生き物の役目"ってよく言ってた」

  「へえ……それ、ちょっといいかも」

  わたしは紙パックのぬくもりに頬を寄せて、そっと息を吐いた。香りが、鼻の奥にすっと入ってきて、胸の中が少しやわらかくなる。

  生まれたときから、ずっとこうだった。いつだって、空気はきれいで、身体は安全で、情報はすぐそばにある。不便だった時代があったなんて、正直ぴんとこない。想像はできても、体感したことは一度もないから。

  「……ねえ、今って、なんか変だなって思うことある?」

  わたしの問いに、凛音は一瞬だけ視線を浮かせて、そして笑った。

  「なんで?」

  「こないだの授業で言ってたけど、昔の人が"電気って不自然"とか言ってたのを思い出して」

  どこかで読んだ、えーとなんだっけ、アダム・スミスの法則? みたいな名前のやつ。

  "21歳までに存在したものは自然の一部。35歳以降に登場したものは悪魔の発明"、みたいな。だからわたしたちは、自然の中で生きている。"自然な技術"の中に、生まれて、生きてきた。

  でも、ふと思う。もし、昔の人が今の生活を見たら――"雨の日に使う使い捨てのドローン"とか。"脳で検索できる食レポ"とか。わたしたちが当たり前にしていることの、どこまでが"自然"に見えたんだろう。

  「ていうかさ」

  凛音が、ハーブティーのストローをくるくる回しながら言った。

  「この前の"犬のバグ"の話、あれLYNKでしょ?」

  「犬と一緒に入って、うっかり"本人が犬にログイン"したってやつ? うん……たしかに。なんであのニュースでLYNKって一言も言ってなかったんだろ」

  「たぶん、悪印象つけたくなかったんじゃない? 今やLYNKって、"国民的物語装置"だし」

  「……"物語装置"ってあんた」

  「でも事実じゃん」

  「まあ……ね。"あなただけの物語を、誰かと一緒に"って、あれコピーうまいよね」

  「わかる。"たったひとつの世界"で、"実在する他人"と冒険して、"しかも結末は毎回違う"」

  凛音が指を軽く鳴らすようにして続けた。

  「今でいうアニメとかゲームの名作キャラに、"なりきる"んじゃなくて、

  "その人として生き直す"。しかも、プレイヤーの好みに合わせて、物語そのものが形を変えていく」

  今じゃ、ドラマや映画は新たに作られることはなくなってしまった。「誰かが書いた固定シナリオ」じゃ、もう人の欲求には届かない。

  今の物語は、"誰かのために"ではなく、"あなたのために"生成されるものだから。

  「10億以上の既存ストーリーから"今のあなたに一番刺さるもの"を選んでくれるし、必要ならそこからまったく新しい話が生まれるっていう。やばいよね」

  「しかも、体感速度3倍だよ? 現実の1時間が、LYNKだと3時間分になる」

  「それ、ちょっとやりすぎ感あるけどね」

  「でも、短時間で冒険も恋愛も死亡フラグも回収できるんだよ? 無敵じゃん」

  「あとさ、知ってる? 最近ベータで入ってた"感情追体験"モード」

  「うわ、それ一回試した……って言いたいけど、怖くて始める前に止めちゃった、わたし」

  「僕も……"他人のプレイを、感情ごと追体験できる"って、なんか倫理ギリギリ感あるよね」

  「しかも一時停止中だしね。"感覚の残留が――"、みたいな苦情が多かったらしい」

  「でも考察勢にはたまらなかったっぽいよ。自分じゃない誰かの死に際とか再生して泣いてる人いたし」

  「……わたしは、感情まではいいかな。でも、"プレイのリプレイだけ見るモード"ならたまに使う」

  「あるよね、あれ。映画っぽく見れるやつ」

  「うん、あれで幸せな場面だけ抽出とかして、寝る前に流してたことある」

  わたしはふと、意識を向けた。頭の中に浮かんでいたLYNKのアイコンを、指で"なぞる"ような感覚でなぞる。

  実際に触れてるわけじゃない。でも、そうするだけで、アイコンが脈打つように静かに光りはじめた。

  通知も、音もない。ただ、それだけ。でも、それだけで胸の奥がワクワクする。

  なんだか、世界のどこかで"準備"が進んでる気がした。

  「……なに、その顔」

  凛音が、ちょっとだけ笑いながら言った。

  「……え?」

  「いや、何か楽しそうな……なにか"始まった"って顔してるなって」

  わたしは照れ隠しに、飲みかけのハーブティーをもう一口すすった。

  あの中に入るのは、明日。楽しみじゃないわけがない。それを、意識しないふりをして。

  「……ねえ、このクラス、ちょっと人数多くない?」

  ふとわたしが言うと、凛音が弁当のパックを片付けながらうなずいた。

  「うん。ちょっとだけ机詰まってるよね」

  「気のせいじゃなかったんだ」

  「気のせいじゃないよ。たぶん、あれの影響」

  「"第四次ベビーブーム"?」

  「そ。わたしたちが生まれたあたりの」

  わたしたちが生まれた頃、"家族のある人生"が再評価されて、出生率が跳ね上がった。それが"第四次ベビーブーム"――なんて、言葉で言うとちょっと重たいけど、このにぎやかさの理由は、きっとそれ。

  「前の授業でやったよね。"幸福って、自分のなかだけじゃ完結しない"ってやつ」

  「先生が言ってた。"他人との関係のなかでしか、生きがいは生まれない"って」

  「うん……あのとき、教室の空気、ちょっとだけ静かになったよね」

  「なんか、わかるような、でもまだ全然実感ないような……」

  向こうの方では、誰かが大きな声で笑っている。別のグループが、ひとつの画面を囲んで何かの再生履歴を見ていた。ざわざわとしたその空気が、なぜだか"安心できるもの"に思えて、わたしはそっと目を伏せた。

  「ねえ、うるさいのに……なんで、ちょっと安心するんだろ」

  「誰かがそばにいるって、たぶんそれだけで、人間の基本性能満たしてるんじゃない?」

  「……名言っぽいけど、たぶん今のほとんど感覚で言ってるでしょ」

  「そう。でも真実っぽいでしょ?」

  凛音が、また耳元の髪を軽くかけ直す。その仕草を、わたしは横目で見ながら、笑いかける。

  それでも――この安心感が「当たり前」だなんて、きっと思っちゃいけない。いまこの瞬間が、わたしの"全部"であるように。でも、それが"全部だった"ことに気づくのは、きっと失ったあとなんだ。

  「……そういう時代なのに、さ」

  「うん?」

  「昨日、殺人のニュース見た?」

  その言葉が出た瞬間、口のなかの飲みものが、少しだけ重くなった気がした。

  「……マジで……? また?」

  「うん……」

  会話のテンポが、ほんの少しだけ落ちたのが自分でもわかる。さっきまでの笑い声が、やけに遠くに聞こえた。

  殺人なんて。

  その言葉を聞いただけで、胸の奥のどこかが、ぎゅっと固くなる。

  ちゃんと考えたくない。というか、考えたら終わりな気がする。だから、いつも無意識に頭から押し出してる。

  でも――この時代で、人を殺したら、どうなるか。……いや、それは、みんな知ってる。

  一度は授業でやってるし、教材の中にある再現動画も見た。リンクも接続も一切ない、無音の部屋に、ただ、ひとり。何もできない。何も入ってこない。ただ、20年とか30年とか、"それだけ"。

  想像しただけで、背中がゾワッとした。わたし、多分――数日でおかしくなる。いや、数時間かもしれない。泣いて、喚いて、諦めて、壊れる。……それが"刑罰"なんだって。

  別に、昔と比べて、罰が重くなったわけじゃない。でも、"日常"そのものがあまりにも快適で、当たり前の水準が高すぎて。だから、"何もない"ってことが、それだけで"すべてを奪われる"って意味になる。

  でも――

  ……いちばんひどい目に遭うのは、やっぱり"殺された側"なんだよね。

  わたしたちの世界って、ほんとうに豊かで、何かやろうと思えば、だいたいできる。どこにでも行けて、誰とでもつながれて、"面白いこと"が、永遠に供給されてる。その全部を、突然、ある日――まるごと、奪われる。

  ……っていうのを、考えちゃうのが、ちょっとイヤだった。胸のどこかが、妙に熱くなる。理由は、うまく言えない。

  そういうの、なんか、恥ずかしいし。べつに泣いたりはしてないけど、でも、脳の奥の方が、なんか、ざわざわした。

  あたし、こういうの、苦手。でもたぶん――本当は、ちゃんと知ってるんだと思う。それがどれだけヤバいことかって。

  だからこそ、考えたくなかった。けど、ちょっとだけ、考えちゃった自分がいたのも、たしかだった。わたしは、視線を落としたまま、そっと、机の端をなぞった。

  「……うん、わかる。俺も、ちょっとキツかった」

  そのとき、隣から凛音がぽつりと言った。

  わたしは、顔を上げることができなかったけど、うなずいた。小さく。でも、たしかに。

  しばらく、ふたりとも何も言わなかった。教室の奥では、誰かがゲームの勝敗に叫んでいる声がした。風が窓を揺らして、カーテンがゆるく膨らんでいた。その音だけが、しばらくのあいだ流れていた。

  「……でさ」

  凛音の声が、いつもの調子でふっと落ちてきた。なんだか、ちょっとだけ、安心した。

  「昨日のアップデート、見た?」

  「え? なにが?」

  「LYNKの。バージョン5.9。アイコンは変わってないけど、UIの応答速度がかなり調整されたって」

  そう言いながら、凛音が空中に手を動かした。

  「わかりやすいでしょ?」って顔して、凛音が、わざと"指で操作"みたいな動きしてみせる。実際には意識だけで完結するけど、わたしにわかりやすくするために、昔っぽくなぞってみせたらしい。

  「……まあでも、結局"脳直"でつながってるから、そういうことできるんだけどさ」

  「"のーちょく"って言い方、ちょっと間抜けに聞こえない?」

  「わたしも言いたくない派なんだけど……うちの母さん、"のーちょくノーライフ"とか言い出しててマジやめてほしい」

  「それやべえな……」

  "脳直"――正式名称はNode-C.H.O.C.E.(ノード・チョース)。

  「Node-Controlled Heuristic Organism Communication Enhancer」の頭文字を取っているそれは、記憶、知覚、思考、感覚。それらを全部を"直接つなぐ"ための、小さなデバイス。視力矯正よりも簡単な手術で入れられて、わたしも、凛音も、中学生の頃にはもう使ってた。

  いまじゃ、これを"使ってる"って感覚すら、正直あんまりない。空気を吸うとか、まばたきをするとか、それと同じくらい、自然なこと。

  でも誰も、そんな長ったらしい正式名では呼ばない。のうちょく。のーちょく。脳直。響きはバカっぽいけど――それが、日常だ。

  ハーブティーのストローをかじりながら、ふたりでしばらく黙っていた。窓の外では、さっきより少し風が強くなっている。

  「……でさ、わたし」

  凛音の笑い声が落ち着いたタイミングで、ふと、口をついて出た。

  「明日、LYNK。久しぶりに"フルダイブ"するんだ」

  「え、施設行くの? ガチのやつ?」

  「うん。いつもは家からだったけど……たまには、ちゃんと全身で入りたくなったっていうか」

  「なんか……晴香にしてはテンション高くない?」

  「そお?」

  「"フルのとき"ってさ、なんかちょっと声のトーン違うんだよね」

  「は? なにそれ、気持ち悪い観察」

  笑いながら、わたしは飲みかけのハーブティーをすすった。

  日常的には、LYNKには家から入ってる。自分の部屋で、椅子に座ったまま。視覚や聴覚、操作のほとんどは"あたまでやる"だけ。体は動かないけど、感覚だけでちゃんと物語の中を歩ける。

  でも――"ぜんぶが入れ替わる感じ"は、やっぱりフルダイブじゃないと無理なんだよね。目の動きも、まばたきも、風の流れも、肌の重さも、全部。"わたし"という実感が、物語の中でしか存在しなくなるあの感覚。

  「LYNKはもう完全に慣れたし、フルは何度かやってるけど……毎回ちょっと、わくわくするよね」

  「わかる。あの、"落ちる"感じ、ちょっとクセになる」

  凛音が言うその"落ちる"感じは、LYNK施設のフル接続でしか味わえない、あの没入前の数秒。世界が一気に裏返るような――あれ。

  「大丈夫だって」

  「何が」

  「犬にはならないし、混線もまずないし。"情緒干渉でバグる"のも、今はもう相当レアケースでしょ」

  「やめて、その"相当"っていう言い方……」

  「ごめんごめん。でもさ、実際トラブルなんて全然聞かないじゃん」

  「……まあね。普通に考えれば平気」

  ほんとに、普通に考えれば、ね。

  わたしは笑った。素直に、楽しみにしてるから。明日、"ぜんぶが物語になる"日。

  ちょっとだけ息を深く吸って、机の端を指先でトントンと叩いた。

  明日、わたしはLYNKに"入る"。ちゃんとしたフルダイブは、ほんとうに久しぶり。

  世界がわたしを包んで、わたしが世界に溶けていく。名前も、身体も、まばたきすらも、物語の一部になる。そのときだけは、"現実よりも現実らしい"感覚に全身をゆだねることができる。

  それが、LYNK。"あなただけの物語"で、"あなただけじゃない誰か"と一緒に生きる世界。わたしは、その入り口に指をかける。今度こそ、ちゃんと最後までやり切りたい。そう思っていた。

  ……ほんとうに、そう思ってたんだ。

  *  *  *

  ──最初に意識が浮かび上がったとき、わたしは、中世風だけどもよく整った石畳の上を歩いていた。

  こぢんまりとした石造りの建物が連なり、つる草に覆われたアーチの門や、柔らかく傾いた屋根が、古い絵本の中から切り取られたような空気を纏っていた。

  どこかで鐘の音が聞こえ、すれ違う人々は、皆どこかゆるやかに笑っている。懐かしいような、どこにもなかったような、そんな街の中で、わたしはふと、通りに面した小さな噴水のそばで足を止めた。

  水面が、鏡のようにわたしを映していた。

  そこに立っていたのは、"わたしによく似た、でも少しだけ整ったわたし"だった。

  髪は、いつもの"赤みのある黒"のまま、色だけが淡いエメラルドグリーンに変わっていた。肩につくくらいの長さで、ちょっとだけ外に跳ねてる。陽に透けるたび、淡く光って、うっとうしいはずの毛先も、なんだかきれいに見えた。

  瞳の色も、それに合わせてエメラルド。ちょっと気取ってるような、でも奥のほうに子どもっぽさが残ってる、不思議な目だった。

  目の大きさは……まあ、並? ただまつげが、思ったより長かった。あと、目の下にちょっとした影があって、それがなんとなく"感情の深さっぽく"見えたのがズルい。

  鼻筋はまっすぐ。顔の輪郭は、たぶんちょっとだけ面長。でも口が小さいせいか、全体がやわらかくまとまって見えた。

  唇の輪郭は丸めで、口角がほんのすこしだけ上がってる。"笑ってるように見せられる"やつ。あざとくはないけど、ちょっとだけ狙ってる気もした。

  服装は、風の魔法職か、あるいは回復系のヒーラー。風をはらむような、軽やかな布のレイヤーがいくつも重なっていて、動くたびに淡く光る刺繍がちらちらと揺れた。

  胸元は、包むように重ねられた布の下に、"それなりの重み"が感じられる。でも、誇張はされていない。横から見ると、ちゃんとカーブしてるくらい。

  腰のラインは、わかりやすくくびれていた。自分の身体なのに、ちょっとだけ「おお……」って思ってしまったのが、なんかくやしい。

  身長も、たぶん"ちょうどいい"くらい。まわりの人と並んでも、すごく目立つわけじゃないけど、風景にうまく溶け込むくらいの存在感はあった。

  ──こうして見ると、顔のパーツひとつひとつは地味なのに、全体としては、なんかちゃんと"絵になる"のがずるい。

  いや、わたしなんだけど。わたしなんだけども。

  "ちょっとだけ美しいわたし"というより、"自分では絶対に演じきれない、いいとこの子風のわたし"って感じ。

  自分の顔なのに、自分じゃないみたいで。なのに、身体の感覚は確かに"つながってる"のが、少しだけ不思議な安心感だった。

  「……実際は、こんなに可愛くないけど」

  思わず、誰にも聞かれないように、小さな声で呟いた。でも――少しだけ、嬉しくなってしまうのは、ずるいと思った。

  風が吹いた。

  ローブの裾が軽くはためき、わたしの身体が、あたかもこの街の空気に"受け入れられた"ような気がした。

  さて、と。ここからが"物語"だ。

  そう思った次の瞬間だった。

  視界が――ほんの少しだけ、ズレた。空の青がにじんで、石畳の輪郭がふわっと滲む。

  (……あれ?)

  足元の感覚が、ゆっくりと消えていく。風が止まった。音が消えた。いや、音はある。あるけど、遠い。どんどん、遠くなっていく。

  読み込み中のマークが一瞬、視界の端に浮かんで、でも、すぐに消えた。

  それから、わたしの身体が、軽くなった。軽くなりすぎて、どこにも重力がないみたいに、ふわっと浮くような、でも同時に下に引っ張られるような……

  (え、ちょっと待っ――)

  空間が、まるで何層ものデータが重ねられていたように、層ごと剥がれ落ちていく。最後の一枚がはがれた瞬間、なにか、ぬるりとしたものに触れた気がした。

  気づけば、目の前に広がっていたのは、信じられないほど広く、滑らかな斜面だった。

  ほんのり白くて、どこまでも続く曲面。角度は、たぶん四十五度くらい――だけど、不思議と、転がり落ちる感じはない。身体が、やけに軽すぎる。重さの感覚が、どこかへ行ってしまったみたいだった。

  そして……視界が、広い。いや、正確には、"広すぎる"。焦点が合わない。端と端がつながってしまうような感覚。しかも、妙に明るい。白っぽい何かが、視界の大半を埋め尽くしている。

  ここ、どこ……?

  なんとなく、見覚えがある気がする。この光、白さ、なだらかな坂……まるで、服の胸元のあたり――

  ゆっくりと、視線を――いや、目の向きを変えたつもりだった。けれど、動き方が違う。ぎこちない。左右で少しずつズレて、思ったよりも回りすぎる。視線というより、顔ごと"転がる"ように回ってしまったような違和感があった。

  見下ろしたその先には――無数の、白くて、細長い"糸"が、うねるように連なっていた。どこかで見たことがあるような、奇妙な光景――布の繊維を、顕微鏡で覗いたときの映像みたいだな、なんて思った。

  繊維の一本一本が、髪の毛より太く、ねじれていて、まるでロープの束の中に埋もれているみたい。それが、目の前いっぱいに広がっている。近すぎて、巨大すぎて、現実感がない。

  そしてその"糸"に混じって、異質なものがあった。

  白と黒の、節のある棒状の物体。なにかのパーツみたいで、皮膚のような有機的な質感と、無機質な機械のような冷たさを併せ持っている。

  根元には、ざらざらした短い毛のようなものが生えていて、先端がかすかに曲がっている。

  それが何なのか、すぐにはわからなかったけれど、どこかで見たことがあるような気がした。

  でも――おかしい。

  あんなに太くて、長くて、異様に近いなんて、ありえるわけがない。まるで、手元で拡大された標本を、肉眼でのぞき込んでいるような不自然さ。

  それが"今ここにあって、しかも動く"ということが、なによりも恐ろしかった。でも、今にも動き出しそうなその不気味な棒に、わたしが身をすくめようとした瞬間ーー

  その"棒"も、びくっと跳ねた。

  「……っ!?」

  ――いや、それだけじゃない。……いま、動いたのは、わたし……?

  だとしたら、あれは――"わたしの一部"だった?

  思考が止まる。その"棒"が、自分と繋がっていると認識した瞬間、脳が、全力で拒絶した。"それ"が自分の身体だなんて、ありえない。あんな気持ち悪いものが、"わたし"なわけない。

  でも……動いた。神経が繋がってる。感覚があった。

  繋がってる――いや、繋がってるって、なにが。なんでそんなの、わたしが感じてるの。今の、なんだったの……? 手? 足? 神経? じゃあ、これが"わたし"なの? いやだ。いやだ。そんなの、意味わかんない。

  脳が、思考じゃなくて警報を鳴らしてる。でも、それをかき消すみたいに、わたしの身体――いや、"わたしのものとは思えない何か"が、ぴくりと動いた。

  動いてしまった。わたしの意識が、どこかに伝わった。

  ……でも、これはほんとうに、わたし? 違う。こんなの、知らない。形も、重さも、感覚も違う。わたしの意識に反応してるけど、それがわたしの身体だなんて、どうしても思えなかった。

  わたしは、ためらいながらも、もう一度"自分の身体"に命令を送ってみる。

  反応は――あった。視界の隅で、あの細長い脚が、かすかに揺れた。節が曲がり、根元がほんのわずかに沈んだ。

  ……確かに、動いた。でも、そのとき、わたしは気づいた。

  「……え、ちょ、指ないの!? うそでしょ……?」

  手のひらも、関節も、何もない。あるのは、ただ"一本の棒"のような、感覚のかたまり。曲げられるけど、握れない。触れられるけど、触っていない。"つまむ"とか"ひらく"とか、そういう動きが、そもそも存在しない。

  ぞわぞわと、背中が粟立つ。次に、足を――そう思って、足を動かそうとした瞬間。

  視界の外で、"自分の足"が、"正しく"動いた。でも、その正しさは、"わたしの知ってる構造"とまったく合致しなかった。

  「……んんん……!?」

  関節の動きが、違う。曲がり方がおかしい。膝の位置も、"足の生え方"も、普段の"逆"に近い。ありえない方向に折れて、なのに"正しく動いた"と身体が認識している。すべての関節が逆向きについているみたいなのに。

  「ええ!? こっちが……う、うしろ? いや、ちょっと、どこに足ついてんの……?」

  わたしの中にあった"身体の地図"が、音を立てて崩れていく。

  ……そのときだった。足でも手でもない場所、手と足の中間に、もう一対。わたしの足――なのか?

  両側に3本ずつ。合計6本どれも細くて節があって、しかもお腹のあたりから"生えている"。そう、"生えている"としか言いようがない位置感覚。……気持ち悪っ。

  片脚を動かすたびに、他の脚が追いかけてくる。バランスがめちゃくちゃ。右を動かしたつもりが、左後ろがもつれる。全部がバラバラに動いていて、でも"わたし"の身体として繋がっている。

  「……ちょっと待って、バグでしょ、これ……」

  口がない。でも、言ったつもりだった。息を吸って、落ち着いて――

  ……できない。息が、入ってこない。というか、胸がない。ふくらまない。身体のどこをどう動かしても、"呼吸する場所"が見つからなかった。

  そのかわり。背中の、もっと奥――肩甲骨の間あたりで、なにかがざわりと震えた。

  「ひ……ッ」

  反射で身を縮めると、それが動いた。

  翅だ。背中から、音がした。ブーンという、あの音。耳の外じゃない。身体の内側から鳴ってる。動かしたつもりもないのに、勝手に動いて、音が出て、空気が揺れた。

  「ひぃっ……」

  声にはならない悲鳴が漏れた。それでも、全身がすくんだ。わたしは、翅がある。6本の手足がある。つまり、わたしは――虫だ。

  虫。

  虫!?

  やだ、やだ、やだ、やだ。

  人間じゃない。手がない。顔がない。皮膚もない。代わりに、脚が6本。翅がある。繊維の山にしがみついてる、"虫"。

  キャラが崩壊した? いや、そうじゃない。こんな設定、選んでない。そもそも、LYNKでこんな……虫になるモードなんて……あった?

  頭の中が、ぶつぶつに切れた断片でいっぱいになる。思い出せない。考えたくない。でも、どうしても確かめたくて、わたしは周囲を見渡した。

  ――この身体が、本当に"何なのか"を。

  ぐらぐらと揺れる視界のなかで、どこかに"何か"を探していた。自分が何なのかを、はっきりさせたくて――

  いや、本当は逆だった。はっきりなんて、させたくなかった。でも、確かめずにはいられなかった。

  ふと、斜面の下の方に、銀色のものが映った。鏡のようにも見えるそれにに向かって、私は慣れない手足を一生懸命操りながら、ゆっくりと這い寄った。脚を一本ずつ動かすたびに、異様な神経刺激が走る。頭が回りそうな感覚と、地面に吸い込まれるような浮遊感

  そして、覗き込んだ。鏡面に映っていたのは――

  「……っ、っ、ひ……ッ!!」

  光沢のある黒い外殻。そこにびっしりと生えた、細かい毛。お腹は異様に大きく膨らみ、節のある構造が露骨に浮かんでいる。

  脚は3対6本。細長く、先端が鋭く曲がっていて、頭部には、びくびくと揺れる2本の触覚。

  目は複眼。無数のレンズが、ぎっしりと詰め込まれて球体になっている。

  そのすべてが、わたしの目と同じ動きをしている。

  そして、口。

  ずっと、意識しないようにしていた。視界には入っていたはずなのに、なぜか、そこだけ見えていなかった。

  でも、もう目を逸らせなかった。細長く伸びて尖った管状の構造は、生々しいほど柔らかく、淡く透き通っている。その表面には不気味に蠢く無数の産毛のような繊毛が、濁った白や褐色の奇妙な色を帯びて、みっちりと密生していた。

  何より、先端が問題だった。針のように鋭利に尖り、微細なギザギザが無秩序に並ぶその凶暴な先端は、生物の肌を容易く裂き、無慈悲に内部へと滑り込んでいくためだけに生まれたような、おぞましい形状をしている。

  その醜悪な突起物は、わたしの意思とは関係なく、痙攣するようにゆらゆらと揺れていた。ああ、これが、わたし。これが、"いまのわたし"。

  ――どう見ても、"蚊"だった。

  「…………ッ!」

  叫んだつもりだった。でも、声にならなかった。いや、叫ぶ"器官"が存在していなかった。脳が叫び、心が暴れ、全身が拒絶していたのに――身体はただ、そこにいた。その不気味な、滑稽で、気持ち悪い、"蚊"の姿で。

  こんなの、誰にも見られたくない。こんなのが"わたし"だなんて、誰にも知られたくない。

  そんな姿で固まっていたわたしを――わたしは、見なかったことにした。鏡に映ったあんなものが自分だなんて、認めたくなかった。

  でも――目は閉じられない。そういう機能がないから。視界は常に開いていて、世界が止まらずに流れ込んでくる。

  だったらせめて、この場所がどういうところか、確かめるしかない。ここはゲームの中。それは間違いない。身体のバグはあるけど、どうせ一時的な不具合だ。深呼吸……はできないけど、落ち着いて。

  「羽、使えれば……上から見えるかも」

  背中に意識を集中させると、あの震える感覚がよみがえった。ぞわぞわと、翅がこすれるような音。次の瞬間、ふわりと――浮いた。

  「……っ!」

  軽い。重力が、遠のく。けれど上下感覚がズレて、体の芯が揺れ続けてる。それでも、ちゃんと飛べた。

  (わあ……リアルだ……)

  上昇しながら、思わずそう思ってしまった。天井の照明、その微細な表面の埃や傷。

  空気の揺れが、羽音とともに肌の内側へ返ってくるような感触。見上げるたび、すべてが"現実そのもの"みたいだった。

  (……LYNKって、ここまで進化してたんだ)

  ちょっとした感心さえ覚えてしまう。こんな細部までシミュレートできるなんて。現実と見分けがつかない――本当に。

  (……でも、バグはバグだよね)

  この身体はどう考えても異常だ。その原因を探すには、やっぱり周囲を確認するしか――

  ……あった。床に、何かが横たわっていた。よく見れば、それは――

  「え……?」

  人間の、わたし。仰向けで、目を閉じている。制服。肌の色。髪の束。

  胸元に付けている、鏡面仕上げのペンダント。ちょっと高かったけど、奮発して買ったそれ。どれも、間違いなく"わたしのもの"。

  (……なんで?)

  (なんでそこに、わたしがいるの?)

  混乱の中で、思考が弾けた。ここはゲームの中のはずだ。なら、わたしの身体は現実世界にあるはず。

  じゃあこの人間の"わたし"は――何?

  「わたし、ログイン中……なのに……」

  「でも、見えてる……? 中に入ってるの、わたしなのに……?」

  理解が、止まった。いや違う。理解したくなかった。でも――してしまった。

  "中にいるべきわたし"は、そこにいて、"ここにいるわたし"は、この気持ち悪い虫で――

  「わたし……締め出された……?」

  そのとき、不意に脳裏をよぎった。

  《"犬のバグ"、あれLYNKでしょ?》

  《犬と一緒に入ってたら、転送先が犬になっちゃった、って……》

  あの話。ちょっと笑えるニュース。わたしも笑ってた。でも今、この瞬間――

  「これ……まさか……」

  「"蚊のバグ"……?」

  小さく、震えるように呟いたその言葉だけが、現実の匂いをしていた。視線の先にある"わたし"から、目が離せなかった。

  あれが、わたしの身体。いま、この瞬間も、あそこにある。わたしの目じゃなく、あの目が閉じていて。

  わたしの手じゃなく、あの手が微動だにせず、そこに――ただ、"置かれている"。

  「……やばい……やばい、やばい、やばい……!」

  複眼から涙は出ない。でも、脳の奥が濡れていく感じがした。わたしは、今、現実にいる。ゲームなんかじゃない。これ、本当に、現実――わたし、ほんとうに、蚊になってる。

  そう思った瞬間、全身が細かく震えだした。

  翅の音も、脚の軋みも、自分のものなのに、すべてが異物の警告音にしか聞こえなかった。

  そのとき、不意に、頭の中に何かが引っかかった。

  ……ニュース。

  今朝のニュース。

  《犬混線の事例では、再ログインを通じて正常なログアウトが確認された――》

  (そうだ、再ログイン……!)

  心が、わずかに持ち直す。この状況は、まだ「戻れる途中」かもしれない。一時的なエラー。バグ。そういうやつ。

  わたしは急旋回して、ブースの脇に設置された操作パネルの方へ飛んだ。ダイブベッドの肘掛け近く、手を伸ばせば届く場所――そこに、小さな物理スイッチが埋め込まれていた。

  "意識の再接続をトリガーする"手動スイッチ。表面には緑色のランプが灯っていて、"再接続可能"の状態を静かに示している。

  (押せば戻れる。あれさえ押せれば……!)

  急いで降下する。でも、うまく止まれない。着地がブレて、脚が滑って、金属面にドンとぶつかる。

  頭が跳ね、視界が回転する。

  (落ち着け……わたし、飛べる……飛べるんだから)

  気を取り直して、ボタンの上に立った。だが。――触れない。

  わたしには、指がない。器用な動きもできない。ボタンの縁に脚をかけようとしても、すべる。

  吸盤も、爪も、力もない。なによりも、体が軽すぎる。

  「っ……ちょっと、なんで……!」

  バタバタと暴れてみる。脚を押しつけ、腹をすりつけ、何度も何度も跳ねてみる。

  でも、ボタンは、何も反応しない。ただの壁。巨大な壁。

  「……うそ、うそでしょ……なんで……っ」

  わたしの全存在をかけた"押す"という行為が、この世界では、何の意味も持たなかった。そこに"戻るための扉"はあるのに、この身体じゃ――開けられない。

  どうしよう。どうすればいいの。もう一度飛ぼうとした翅が、うまく動かない。震えすぎて、音もまばらになる。

  (……これ、戻れないの?)

  (このまま、ずっと……?)

  本当に。本当に――わたし、蚊になったまま、終わるの……?

  そう考えた瞬間、お腹から生えている6本の足が、根元からふらついた。腰が砕けたように。

  視線の先にある"わたし"から、目が離せなかった。あれが、わたしの身体。いま、この瞬間も、あそこにある。わたしの目じゃなく、あの目が閉じていて。わたしの手じゃなく、あの手が微動だにせず、そこに――ただ、"置かれている"。

  「……どうしよう……どうすれば……どうすれば……!」

  バグなら直せばいい。戻ればいい。でも、操作できない身体では、それさえもできない。

  操作できないという事実が、今のわたしのすべてを否定していた。ゲームの中じゃない。これが現実で、わたしは、戻れない。

  ……と、そのときだった。ひとつの記憶が、ぶわっと蘇ってきた。

  (……あれ……自宅の端末……)

  何かの授業で聞いた。いや、それよりも――自分の部屋で、何度も見ている"あれ"。

  NodeCHOCEとは違う。コードも、端子も、操作もいらない。ただそこにいて、思考していればいい。

  脳波だけで、"わたし"を認識する、個人認証の原初デバイス。

  今でも、家中のシステムを動かしている、自律AIのハブ。あの光る球体。本当に"わたし"なら――つまり、今ここにある"この意識"が"わたし"であるなら――読み取ってくれるはずだ。

  虹彩でも、指紋でも、声でもない。――今のわたしには、どれももう、ないけれど。

  とにかく、そんなものは偽造が簡単すぎるから、いまや本人かどうかを判断するのはただ一つ、脳波が基本。誰にも真似できない。偽装も不可能。だからこそ、いま……わたしが、この意識で、"本人"であるということさえ証明できれば――

  (ログイン、できる……!)

  わたしは、翅を震わせた。もうこの場所に、時間をかけている余裕はない。ここではダメでも、自宅なら――!

  "わたしの家"。"わたしという存在"が、唯一、肯定される場所。そこへ戻れば、まだ……!

  (……帰れる……! 自宅の端末があれば、ログインできる)

  いまのわたしでも、脳波はある。思考もある。わたしである、という認識も、確かにここにある。なら、あの球体は――わたしを受け入れてくれるはずだ。この身体でも。この姿でも。だから、まだ、終わってない。

  「……っ」

  だけど、その次の瞬間に、思考が止まった。

  (でも……どうやって?)

  どうやって"自宅"まで行くの? ここは、どこ? フルダイブ施設。郊外。人の少ないエリア。わたしの家は、そこから電車で……1時間。

  直線距離にして、たぶん――100キロ近くある。そんな距離を、この。この意味不明な、蚊の身体で?

  わたしは、この身体のことをまだ何も知らない。飛び方だってまだ不安定だし、脚だって6本あるくせに、ひとつも信頼できない。

  腹は重く、翅は薄く、世界のすべてが自分より巨大だ。

  (……そんなの、無理じゃん)

  目の前がにじむ。いや、実際には涙なんて出ない。でも、複眼の奥がひりつくような痛みで埋まった。

  どうやって帰るの? 帰れたとして――本当に私として認識してもらえるのか?

  ……考えたくなかった。でも、全部、頭にこびりついてくる。

  「っ……」

  翅が、勝手に小刻みに震える。逃げ出したい。でも、どこへ?

  わたしは、ぐらぐらと揺れる視界の中で、ふと――壁の先に設置された、ミニブースに気づいた。10センチ四方ほどの大きさの、あくまでデザインの一環として設置された三次元モニター。

  中のプレイヤーの様子を映すための、小さな透明のブース。今までは特に気にすることもなかった。でも今のわたしにとっては、自分の存在がどう見えているかを確かめる、唯一の場所。

  わたしは、震える翅を動かしながら、そちらへ向かった。たとえそこに何が映っていようと――もう、見なきゃいけない気がした。

  羽音を殺すようにして、ブースの縁にとまった。ここから中が見える。プレイヤーの様子を映すための、透明な観察ブース。

  (たしか、わたしも表示されてるはず……)

  中にいたのは、"わたし"だった。

  エメラルドの髪。風の魔法職っぽい、軽やかなローブ。胸元に繊細な飾り布。現実の自分に似せた、ほんの少しだけ美化されたアバター。

  ……のはずだった。でも、その"わたし"は――どう見ても、おかしかった。

  顔がゆがんでいた。目が開きっぱなしで、焦点が合っていない。涙とよだれを垂れ流し、まぶたが異常に速く、パチパチと意味なく開閉する。

  手足がぎこちなく痙攣していて、ローブのすそをばさばさと荒々しく揺らしていた。

  「ェ"ヒイ"イィィシ"ィ"ィィィ"ィ"ッ……!」

  口が開いた。そして、喉の奥から、人間のものとは思えない声が漏れた。甲高く、鋭く、どこか湿った羽音みたいな奇声。

  その動きは、滑稽で、怖くて、どうしようもなく不気味だった。

  「……なにあれ……」

  「え、こわ……」

  「バグ? NPC……?」

  「いや、あれ、人入ってるでしょ……?」

  ブースのまわりにいた何人か――プレイヤーかNPCかもわからない。でも、確かに"わたし"を見ている視線があった。

  (あれ、わたしだ……!!)

  ――わたしの身体の中に、この、虫の意識が入り込んでいる。

  蚊の中には、わたしがいる。

  わたしの中には、蚊がいる。

  嫌悪がこみあげた。自分が、自分の身体を"操ってる"ことが、最悪だった。

  あんな姿で、人の前に晒されている。意思も、制御もなく、ただ"おかしくなった人間"として。

  笑われてるかもしれない。録画されてるかもしれない。誰かに――「気持ち悪い」って、思われてるかもしれない。

  「やだ……やだ……!」

  喉がないのに、叫んだ。もう、ここにいたくなかった。翅をばたつかせて、ブースの縁を蹴る。狭い観察ブースを抜けて、わたしは――飛び出した。逃げるように。

  "人間だった場所"から、"蚊としての逃亡"が始まる。どこに向かうかは、もう決まってる。

  わたしの部屋。あの光る球体。"わたし"だけを認識してくれる、ただ一つの場所。そこへ戻る。

  どんなに遠くても、どれだけ時間がかかっても。この姿で生き延びて、わたしは、わたしを取り戻す。

  そう決めた。

  翅の音が、空気に溶けていく。

  でも、わたしの心臓――もう"心臓"と呼べる場所がどこかわからないけど――は、潰れそうなほどに脈打っていた。

  (出なきゃ。ここを、出なきゃ……)

  脳がそう繰り返しているのに、身体が前に進まない。

  慣れない体でダイブブースを抜け出した私は、出入り口の自動ドアのすぐ手前で、ただ震えていた。

  センサー式の、分厚いガラスパネルが二枚。ぴたりと接し、壁のように静かに閉じている。人間が通るには、何の障害もない"当たり前の出入り口"。

  でもいまのわたしにとっては、異様なまでに精密で、巨大な刃物のように見えた。

  (……隙間がある)

  ドアと壁のあいだ。ほんのわずかに、薄く開いている箇所があった。蚊の身体なら、ぎりぎり――通り抜けられるかもしれない。

  でも――

  (……もしそのとき、誰かが通ったら?)

  ドアが開く。ガラスが動く。その勢いで――

  潰される。一瞬で、挟まれて。音もなく、液体になる。ぺしゃりと。たった数ミリの厚さでは、衝撃に抗うことさえできない。

  「ひ……ッ」

  ぞくっとして、思わず翅を震わせる。"後ずさる"というより、もうそれは、反射だった。わたしの中にある"人間の恐怖"が、今もまだ残っている。

  (……無理。ここは、さすがに無理)

  しかも、この先にも同じような扉が、いくつも並んでいる。ダイブブースから出口まで、わたしが人間のときは気にも留めなかった構造。今の身体には、それが"死の回廊"にしか見えなかった。

  じゃあ――どうする?

  見渡す。狭くて、薄暗い通路。天井に走る金属ダクト。その一部、カバーがわずかにずれている。

  (……換気口)

  翅を使って近づき、端の金属フレームに脚を引っかけてよじ登る。人間だったころなら、指をかけるのさえ無理な幅。でも、いまのわたしには、"虫の軽さ"がある。

  ふわりと、換気口の隙間に入る。その瞬間、強烈な風の流れが全身を叩いた。

  (うわっ……!)

  埃。湿気。乾いた空気と、焼けた塩ビの臭い。何かが腐っているような、生臭さすら混じってる。

  でも、それらの"匂い"が、今のわたしには刺激でしかない。嗅覚が異常に発達している。ちょっとした空気の粒子が、脳を直接かき混ぜてくるような感じで、酔いそうになる。

  狭い。暗い。どこに続いているのかもわからない。でも、進むしかない。

  身体を前に送る。脚を交互に動かす。どこにもぶつからないように、そっと羽ばたきながら。

  そして――

  風の抜ける音が変わった。湿気が減って、代わりに冷たい、外気のにおいが混ざる。

  換気口の終点。光が差していた。わたしは、その光の先へ――

  もう戻れない世界へ、翅を震わせながら踏み出した。

  【02】

  換気口の出口から飛び出した瞬間――世界は、別の惑星になっていた。

  まぶしい。光の粒が、ぶつかってくるような眩しさ。でも、それ以上に感じたのは――「高さ」と「広さ」だった。

  わたしが出たのは、たぶん3階くらいの位置にある外壁の換気口。地面までは、感覚的にビル十数階ぶんくらい遠く感じる。実際には10メートルもないかもしれない。でも、今の身体からすれば、ほぼ"宇宙の底"だ。

  風が吹くたび、世界が軋む。空気の渦に軽く押されるだけで、身体が揺れる。

  蚊の身体なら落下することはないし、落下したとしも即死はしない。そんなこと、頭ではわかってる。でも、落ちたら終わり――そう思わせるだけの"深さ"が、足元に広がっていた。

  そして、空が、でかい。

  ビルが、巨大な壁に見える。木の葉は、一枚一枚が風にふくらんだ帆のように空を覆い、今にも滑空してきそうな迫力で頭上に広がっていた。

  (……うそでしょ……なにこれ……)

  風が吹いた。それだけで、身体ごと持っていかれそうになる。踏ん張ろうにも、脚が頼りない。わたしの脚は、重さに逆らうだけの力を持っていない。

  それだけじゃない。視界が、すごく……おかしい。異常に広い視界は左右180度以上あって、背中の後ろすらぼんやり見える。

  でも、焦点が合う範囲は狭くて、遠くは全部、滲んでいた。逆に近くのものは、模様や繊維、わずかな振動まで鮮明に見える。

  色は強すぎて、輪郭はにじみ、なのに細部が見えるという矛盾。情報が多すぎる。どこを見ているのか、脳が判断できない。

  (これが……蚊の視界……?)

  そうだ。

  (……NodeCHOCEで、マップでも開けば……)

  反射的に、脳の"左下"で接続を試みる。いつも通り、意識の一部を「リンク」に向ける。でも。何も返ってこなかった。アイコンも、音も、光もない。空白。もう一度、意識を向ける。でも、無理だった。

  考えてみれば当たり前だった。今のわたしの脳は、肉と節と膜でできた"虫の頭"なのだ。補助信号も、インプットも、あるわけがない。

  (だめだ、これ……完全に、なにもつながってない……)

  わたしは今、ネットワークからも、世界からも、完全に切り離されていた。

  ただの、蚊。身体を動かすたび、世界が異様な密度で襲いかかってくる。

  空に向かって、ひたすらに黒い壁が立ち上がっていた。

  端から端まで、見渡せないほどの幅。まるで終わりのない絶壁――それが、ビル。

  その中腹、ぽっかりと開いた穴。中が暗くて、吸い込まれそうに見えた。それは、一階の窓だった。航空機の格納庫みたいに口を開けて、何も言わず、何も動かず、ただこちらを向いている。

  空には、槍のようなものがいくつも突き出していた。

  電柱。信号機。道路標識。どれも知っているはずの形なのに、構造が異常すぎて、何か別の文明の機構の残骸にしか見えなかった。この世界の骨格がむき出しになったような風景だった。

  その足元に、異形の塊があった。ゴムと皮でできた、分厚い外殻。へたりと潰れ、口のような開口部をこちらに向けている。

  履き古された人間の靴――のはずのそれは、誰も入っていないはずなのに、なぜか"動きそうな気配"があって、怖かった。誰もいないのに。ただの靴なのに。

  わたしの知っていた世界に、わたしはいなかった。見たこともない惑星の空気の中で、わたしは、蚊として、生きていた。

  「っ……」

  混乱と同時に、身体の下のほうで、何かが"抜けた"。

  (え……)

  尿だった。何の前触れもなく、排出された。

  力んだわけでも、したくなったわけでもない。ただ、気づいたら、"終わっていた"。

  (わたし……いま、オシッコした……?)

  羞恥より先に、恐怖が来た。もう、自分の身体に、何ひとつ指示が通っていない。わたしは、わたしであることをやめつつある――

  空気が、うまく吸えない。飛ぼうとすれば、すぐふらつく。着地したアスファルトが、あまりにザラザラしていて、脚の先が引っかかる。人間だったころなら、10歩の距離が、今は命がけ。すぐ近くにあった排水溝の縁を越えるだけで、何度もバランスを崩した。

  そのたびに、死にかけた。

  風、熱、光。すべてが、攻撃に思えた。

  (やばい、これ……ほんとに死ぬ……)

  倒れ込むように、壁の隙間に身を滑り込ませた。

  アスファルトの割れ目。人間なら"石畳のヒビ"にもならない場所が、わたしにとっては"洞窟の入口"だった。呼吸を整えようとしたけど、そもそも呼吸って、どうやるんだっけ――という混乱が押し寄せた。

  絶望をじわりと再認識したころ、ふと、ある考えが浮かんだ。

  (……電車、乗れないかな)

  自宅は遠い。100キロ近く。徒歩では絶対に無理。でも、電車なら――と思った。

  人間のころは、何気なく使っていた乗り物。駅さえ目指せば、あとは流れに乗るだけで、自宅の近くまでたどり着ける。

  でも今は、ドアに挟まれれば一瞬で死ぬし、車内では巨大な人間と同席しなきゃいけない。希望とも錯覚ともつかない光が、薄暗い意識に差し込んだ。

  わたしは、駅を目指すことにした。

  舗装路の端を、慣れない体でよろよろと飛ぶ。巨大なクルマが走り、足元では飛行機みたいな大きさの虫が潰されていた。

  腹の奥が、じわじわと収縮する。

  それは痛みというより、"奪われていく"感じだった。体の中から、何かが静かに減っていく。ふわふわと力が抜ける。視界がかすむ。思考の輪郭が、甘く溶けるようにぼやけていった。翅の音も、遠い。自分の羽ばたきが、自分のものじゃないみたいだった。

  (だめ……このままだと、飛べなくなる……)

  どれくらい飛び続けたのか、もうわからない。時間という概念が、風と一緒にどこかへ吹き飛んでいた。空は、気づかないうちに少し赤くなっていた気がする。それすら、確かじゃない。

  休もうと立ち止まるたび、脚が痙攣した。何度も、路肩に転げ落ちかける。歩道の縁に積もった砂埃が、まるで山のように立ちはだかっていた。

  焦りが、飢えをさらに煽る。空腹が、じっとしていることすら許さない。飛べば力が削れ、止まれば喉が渇く――逃げ道のない渇きが、わたしをじわじわと蝕んでいった。

  (なにを……食べればいいの……?)

  見渡しても、食べられそうなものなんて、どこにもない。自販機の下には甘い缶コーヒーがこぼれていたけど、近づけば轢かれる。

  地面に落ちた食べかすには、先客がいた。蟻。ダンゴムシ。でかい。怖い。

  ていうか――この細長い口で、どうやって"食べる"んだ?

  咀嚼も舐めることもできない。まるでストローみたいに伸びたその管を、自分の顔にぶら下げていること自体が、ひどく気持ち悪かった。

  毛が生えてる。先端は、ギザギザ。そんなもので、食べる? 無理だ。拒絶感のほうが先に来た。

  わたしは、逃げるように歩道脇の植え込みへ飛び込んだ。

  そして、そこに――小さな白い花が咲いていた。

  気づいたときには、身体が動いていた。意識とは無関係に、毛の生えたストローが、ふるふると伸びていく。それが花の奥へ、吸い寄せられるように入り込んでいく。もう、止められなかった。蜜を吸った。

  細く、異様に長い管――わたしの口が、花の奥にねじ込まれていく。顔の中心から伸びる、頼りなくて、気味の悪いストロー。それが、湿って温かい花の奥に、ゆっくりと、吸い寄せられていった。

  花の中は、やわらかく、ぬるく、生っぽかった。触れた瞬間、ふるふると口が震えた。まるで、身体の奥が先に悦びを感じてしまったみたいに。

  蜜が、入り込んでくる。

  喉も舌もないこの身体に、甘い液体が、まっすぐ流れ込んでくる。

  吸うというより――押し込まれていく感覚。

  ぬるくて、やわらかくて、あまい蜜が、静かに、でも確実に、わたしの中を満たしていった。

  そのときだった。

  腹の奥が――ぬるりと、広がった。

  (……なにこれ……)

  明らかにおかしい。

  何かが、わたしの"中"で膨れていく。

  それは、胃なんて呼び方じゃ済まない。異常にでかい、むき出しの袋。

  しかも――場所がおかしい。足よりも下。内臓のあるはずの位置じゃない。

  なのに、感覚だけは"胃"だった。

  詰められていく。満たされていく。

  砂糖水が流れ込むたびに、「そこ」がきゅるきゅると反応する。

  まるで、ずっと前からそれが"内臓です"という顔をしていたかのように。

  でも実際は――身体の底、脚の根元のさらに下で、

  ぶよぶよと、確実に、袋が膨らんでいく。

  (……なにこれ、わたしの中に、こんなのあったっけ……)

  タンク。

  ただの収容器。

  吸った蜜が、わたしを"わたしの下"に引きずり込んでいく。

  羽が引っ張られ、翅の根元がきしむ。脚の付け根が、じわじわと外に引っ張られて、重心がぐらつく。

  もう、重さが中心じゃなかった。バランスの軸が、崩れていた。

  ……わたしの身体が、わたしの形じゃなくなってる。

  (きもちわる……)

  そう思っているのに、蜜はまだ、あまかった。

  あまくて、ぬるくて、心をほどくような液体が、わたしの中にじわじわと染み込んでいく。

  気持ち悪いのに。

  でも、満たされていく。

  その矛盾すら、どうでもよくなってくるほどに。

  腹の奥がじんわりと緩み、翅の付け根がほっとほどける。脚の力が抜けていき、羽ばたきすら止まりそうになる。わたしはただ、そこに寄りかかるようにして、蜜を吸っていた。

  飢えが溶けていく。何かが、芯からやわらかくなっていく。それは――嬉しさだった。

  満ち足りることへの、喜び。

  甘さが、ほんの少しずつ、心まで染み込んでいくようだった。

  どろりと、とろけていく。身体も意識も、蜜といっしょにゆるんでいく。何も考えたくなかった。考える必要がなかった。ただ吸って、満たされて、安らいで――

  そんな瞬間が、この身体にも訪れることが、なんだか嬉しかった。

  世界が小さくなっていく。風も、音も、遠い。花の香りに包まれて、わたしはただ、蜜を吸っていた。生きている。ただそれだけのことが、こんなにも優しかったなんて。

  でも、吸い終わったとき、わたしは震えた。

  (……花に顔突っ込んで、甘い汁、必死で吸ってたんだ、わたし……)

  人間だったわたしが、いま、花に口をつけて、生きるために必死に吸ってた。その屈辱が、胸じゃないどこかに、静かに沈んだ。

  でも腹が満たされて、わずかに思考が回復した。

  (あれ……蚊って、血を吸うんじゃなかったっけ……?)

  もちろん、吸いたいとはまったく思わなかった。むしろ、そういう感覚がないことに、ちょっと安心した。

  (わたしが、人間だから……?)

  自分が"蚊である"という事実が、身体から要求されていないことに、かすかな救いを感じていた。

  蜜を吸って、満たされて。わたしは、花の根元の葉に身を潜めていた。風が強くて、飛ぶには危険だったし、なにより体力が限界だった。

  (……このまま夜まで、ここで……)

  そう思ったとき、何かが、影を落とした。

  羽音。ブン、と低くて重い、わたしのものとは違う、圧倒的な存在感。

  (え?)

  次の瞬間、視界がぐしゃりと潰された。周囲の空気がねじれ、花が弾け飛んだ。

  "何か"が、わたしめがけて突っ込んできていた。逃げようとした。でも脚が滑る。羽ばたいても、うまく上がれない。

  (やばいやばいやば――)

  風圧と衝突音。身体が弾かれ、葉の裏側に叩きつけられた。脚が絡まり、翅がよれる。

  そのとき、わたしの前に"それ"がいた。大きな複眼。くの字に曲がった足。前脚に生えた棘のような毛。

  緑色の怪獣かとおもったそれは、カマキリ。

  (しぬ)

  脳が即断した。わたしは、ここで死ぬ。挟まれて、噛まれて、砕かれる。

  (いや……いやだ、死にたくない!)

  必死に脚を蹴った。翅がうまく動かせず、ただ暴れた。頭を振り、体をぶつけ、葉の裏にしがみついた。"それ"の前脚が、葉をなぎ払う。何かが裂け、風が走る。

  けれど、ほんの一瞬、カマキリの注意が逸れた。花の蜜に群がっていた別の虫が、音を立てて飛び立ったのだ。

  その隙に、わたしは葉の隙間から、墜ちるように逃げた。地面に叩きつけられ、視界が白くなる。でも、まだ動ける。わたしは、何も考えずに、ただ這った。翅が痛い。脚も、一本おかしくなってる。でも、生きてた。

  ――生きてた。

  心臓――なのかはわからないけれど、背中の方が、爆発しそうなほど打っていた。人間のときと違う場所で鳴ってるのに、それでもわかった。このまま、わたし、死ぬとこだった。

  (……あぶな……)

  声にならない声が、胸の奥から漏れた。ただでさえ"自分の姿"が地獄なのに、この世界には、わたしより下の存在なんていないとでも言うみたいに、食われる対象としてしか、存在していないのだ。

  (……でも、死ねない。まだ)

  わたしは、まだ、"わたし"を取り戻してない。だから、生きるしかない。生き延びなきゃいけない。この身体でも――まだ。

  でも、そのとき。

  ふっ……と、意識が、途切れた。眠りじゃない。麻酔。シャットダウン。強制終了。

  頭の奥が"ノイズ"に満たされたあと、すべてが、暗くなった。

  次に目が覚めたとき、空はもう闇に包まれていた。眠りの質が人間とは違いすぎて……深夜なのか明け方なのか、それすらもわからない。

  身体が勝手にシャットダウンしたあとの"再起動"は、拍子抜けするほど唐突だった。

  わたしは、アスファルトの隙間に身を押し込んだまま、ほとんど埋もれるように横たわっていた。脚がだるい。翅は軋むように重い。

  (……まずい、この身体、"何時間かしか動けない"んだ……)

  さっきまでの出来事が、夢じゃなかったという実感が、身体の鈍さと一緒にじわじわと染みてきた。

  それでも――生きていた。それだけで、少しだけ安心した。

  *  *  *

  何日経ったのか、わからなかった。たぶん、まだ三日は過ぎてないと思う。でも――確信は、なかった。

  眠っているあいだの時間が、いちばんわかりにくい。目を開けたときに日が昇っていたり、沈みかけていたりするたび、わたしの中の"時間感覚"は、どんどん曖昧になっていった。いまが昼なのか、夕方なのか、今日が何日目なのか、もう、それを知るすべがない。

  ただひとつだけ、確かなことがあった。わたしは、この身体の使い方が――なんとなく、わかってきてしまっていた。

  (……最悪)

  脚の動かし方、羽ばたくときの角度、地面に着地するタイミング、狭い隙間に入るときの"跳ねるような動き"。最初は、何ひとつできなかったのに。いまのわたしは、それを"考えなくても"できるようになってきてる。

  (なに、慣れてんの……)

  思考が、身体に追いついてきた。逆に言えば――身体のほうが、先に"虫になってしまっている"。それが、ひどく怖かった。悔しかった。でも、どうにもならなかった。

  駅に向かう道は川沿いを通っていく必要があった。川沿いの空気は、広くて軽くて、飛びやすいはずだった。

  でも、風が吹いた瞬間、わたしは真横に吹っ飛ばされた。

  (うわ、やば――!)

  抗えない。あまりに軽すぎる。重心なんて存在しないこの身体では、風の一筋がそのまま"運命"になる。

  そして次の瞬間、目の前に、巨大な顔が迫った。

  (……え)

  「スライドモーション」――自動運転になる前は"キックボード"と呼ばれていたらしい、電動滑走具。その上に立つ、汗ばんだシャツ姿の若い男。勢いよく走るその顔の、口元が、こっちを向いていた。

  ブワッと息が当たる。口の湿気。匂い。熱。引き込まれる。

  (やばい、入る――っ!)

  ギリギリで軌道を逸れた。顔の横をかすめて、頬にかるくぶつかった。その一瞬で、背中が崩れるかと思うほどの衝撃が走った。

  わたしが全速力で飛んできたのではない。あっちが「普通に動いてただけ」。それでも、ちょっと当たっただけで死にかけた。その男が付けていたのが頭部だけでなくてフルフェイスの防護具だったら、確実に死んでいた。

  (直撃してたら……潰れてた……)

  "パチッ"という音。

  6本の脚が震え、視界がにじむ。

  (わたし……)

  (前に、同じ川沿いを、自転車で……)

  思い出した。

  夏の帰り道。友達とのおしゃべりで浮かれて、いつもよりスピード出して、帰ってから着替えようとしたとき――白いシャツの胸のあたりに、潰れた羽虫の死骸がこびりついていた。

  ぐしゃっと潰れて、脚だけがまだ繊維に引っかかっていて、「うわ、なにこれ……」って顔をしかめて、シャツを丸めて、すぐ洗濯機に投げ込んだ。

  (……わたし、今……あれと同じだったんだ)

  今のわたしは、生きてても死んでても、人間にとっては"ただの汚れ"なんだ。

  ――少しでも人間らしくと思って。川沿いの歩道の上を飛行していたけれど、もうやめた。人と接触しない、土手の上の空間を進む。橋を一つ越えた先に、舗装の途切れた歩道が見えた。

  その隙間を這いながら、ようやく目に入った。

  (あのビル……見たことある)

  舗装の切れ間を越えたところで、前方の空気が、ざわりと揺れた。風じゃない。でも、何かが波打つように流れていた。

  耳――じゃない、今の聴覚に似た器官が、ざわついた羽音を拾う。

  その先に見えたのは、無数の小さな影。黒くて、小さくて、軽い――でも明らかに生きている。それが何十匹も、空中で円を描いて、まとわりつくように飛び回っていた。

  (……群れ?)

  一瞬、警戒して翅を止めた。でも遅かった。風が変わる。その中心に、わたしの身体が吸い込まれていく。気づいたときには、数匹の蚊が、わたしにまとわりついていた。

  (ちがう――これ、ただの接触じゃない)

  脚に、腹に、背中に。

  最初は、それでも「ふれあい」だと思った。空中での偶発的な接触――そんな可能性に逃げ込んだかった。小さな生き物同士、たまたま近づきすぎただけ――と。

  でも違った。すぐにそれが"意思のある動き"だと気づいてしまった。

  密着。追尾。節の隙間をなぞるような動き。

  空気を読み、呼吸を合わせ、まるで"そこを知っている"かのように近づいてくる。

  「いや……ちがっ、やめて、やだ、やだっ!!」

  叫んだつもりだった。だけど声なんて出ない。ただ、翅が暴れた。音の形をした絶望だけが、世界にばらまかれる。

  でも逃げられなかった。すでに、わたしの身体は"その体勢"になっていた。

  脚が絡まれて、背中を押さえられて、腹が固定されている。空中にいるはずなのに、わたしの身体だけが、どこかに貼りついているみたいだった。

  もがこうとするほど、脚が封じられていく。翅が震えても、そこだけが異様に安定している。

  そう。この身体が、"される"ために作られているんだと――皮膚の内側から、思い知らされる。

  (ありえない……ありえない、こんなのっ……!)

  (わたし、こんなこと――したことないのに……っ!)

  (なのに、なんで……蚊で……っ!)

  暴れた。必死に抵抗した。でも、それすら"予定の範囲"だったみたいに、脚の一本ずつが、順番に押さえ込まれていく。

  やめて、と心の中で叫んでも、空気にすら届かない。

  翅が暴れて、羽音がちぎれそうになっても――無駄だった。

  そのとき、背中に、ざわりとした感触が走った。

  翅の根元、骨に近い節を、数本の脚が擦るように這っていく。節と節の間。羽の付け根。神経が集まる場所。

  そこに、他人の脚が絡みついてくる。こすられるたびに、力が抜けた。

  (やだ……やだ……っ! なんで……そんなところ……!)

  気持ち悪さで、視界がにじむ。

  次の瞬間、腹の奥――ずっと"自分とは関係ない"と思っていた場所に、明確な違和感が生まれた。

  ぬるりと、でも冷たく、細くて硬いものが、"そこ"に入り込んできた。

  (――ああっ……うそっ! いやっ、やめて!! やだ……やだ……っ!)

  痛くはない。でも、そのことが、むしろ怖かった。

  硬くて、細くて、滑るものが、止まらずに奥へと"滑り込んでくる"。

  体の中なのに、自分の感覚じゃない。"どこかの奥"が、勝手に開いていくのが、わかる。

  閉じようとした。でも、できなかった。

  もう"そこ"は、わたしの意志じゃなかった。

  腹の奥が、自律的に"彼"を受け入れていく。

  異物が深く深く入っていくたびに、体の内側が勝手に変形して、密着して、つながって――しまっていく。

  (やめて……やめて、入ってこないで……! なんで……そんなとこ、わたし、知らないのに……っ)

  その"知らなかった場所"は、異物の動きに合わせて、まるで呼吸をするみたいに柔らかく反応した。

  擦れて、沈んで、滑って、止まらない。気づけば、その感触がもう"外"ではなく、"完全に内側"に入り込んでいた。

  必死で抵抗する。でも、止まらない。

  圧力がかかる。奥が少しずつ膨らんでいく。

  そして――流れ込んできた。

  生温く、でも重い、どろっとした何かかが、わたしの腹の奥に――"注がれた"。

  管じゃない。"わたし"そのもののなかに、異物が流し込まれてくる感覚。

  それは、脳でも、皮膚でも、どこでもない、もっと奥でしか感じ取れない何かだった。

  (あ、ああっ……! 入ってきてる……! ほんとに、入ってる……!)

  それは入り続けた。止まらず、一定のリズムで、ぬるぬると注がれた。

  頭では処理しきれなかった。意識がなぞれない。

  でも、"残った"。はっきりと、そこに"何かがいる"とわかる重さで。

  脈打つような感触が、わたしの奥に――異物として、寄生するように沈んでいた。

  脳が揺れた。拒絶の衝動が、全身の神経を逆なでにする。

  体の奥で、今まで知らなかった"膜"が、なにかを迎え入れている。

  どろりとした熱が、しずかに沈んでいく。

  "わたしの中"に、"わたしじゃないもの"が、確かに居座った。

  ――外から見たら、どんな図だったろう。

  数十匹の蚊が、空中で円を描いて飛び回り、その一部が交尾のために絡み合う。

  黒くて、軽くて、低く唸る羽音の塊。

  その中心で、ひときわ細いメスが、群れのリズムに合わせるように組み敷かれ――

  羽をばたつかせ、脚を痙攣させながら、異物を奥へと"受け入れさせられている"。

  (やだ……こんなの、やだ……っ)

  わたしが何者だったかなんて、誰も見ていない。

  人間だったことも、名前も、記憶も、誇りも、ぜんぶ関係ない。

  そこにあるのは、ただの"交尾中の雌の蚊"――それだけだった。

  そのとき、ふと、群れの蚊たちの動きがゆるんだ。

  わたしに乗っていた個体も、静かに離れた。

  重みが抜けた。その感覚が、逆に何かを決定づけた。

  わたしの腹の中には、まだ"なにか"がいる気配があった。あのぬるさは、まだ消えていなかった。

  (わたし……受精、した……)

  その言葉を思いついた瞬間、全身が一度、冷たくなった。でも、同時に――身体の奥の方が、じわりと熱を帯び始めていた。

  筋肉の一部が、勝手に蠢いている。誰の指示も受けていないのに、どこかが勝手に"準備"を始めている。わたしの意志とは関係なく。

  翅が重い。腹がだるい。

  呼吸の仕方すら、少し違う。肺のない身体で、どこを動かしているのかわからないけど、それでも確かに、何かが"変わって"いた。

  そして――お腹が、空いた。これまでの飢えとは、質が違う。それは、意志とは無関係に湧き上がる"渇き"だった。明確な要求。供給されなければ、身体の奥で何かが崩れていくような、鈍い焦燥。

  (なにこれ……なにこれ……やめて……)

  でも、止まらなかった。

  わたしはぶるりと震えた。この渇きは、わたしの意思じゃない。なのに、確かに"わたしの中"から来ている。わたしという存在の中心に、"別の意志"が巣食い始めている。

  『この身体はもう、わたしだけのものじゃない』という言葉が浮かんだ。最悪の意味で。

  わたしの内側で、"次の命"のための工場みたいなものが、無言で稼働を始めている。

  黙って、勝手に、問答無用に。そこから生まれるのは――"蚊"。

  わたしとは似ても似つかない、小さくて醜くて、吸血して卵を産むことしか知らない、本能のかたまり。

  (わたしから……蚊が……)

  「それは、わたしの子ども」なんだろうか? ということを考えようとした気がして、脳が強制停止する。

  自分の腹の中に"蚊の赤ん坊"が並んでいる映像が、勝手に脳裏に浮かんでしまう。白くて、小さくて、ゼリーのかたまりみたいなものが、脈打つ内壁にくっついて並んでいる――そんなイメージ。

  それが「自分の身体の一部」だという現実が、ひどく不愉快だった。

  "命を宿す"なんて言葉じゃ済まされない。わたしは今、蚊の命を育てるために用意された袋になっていた。

  わたしは、わたしのままでいられない。身体の中から、別の命が、わたしを押しのけて育っていく。まだ膨らみきっていない腹部の奥が、ぬるく疼いた。わたしの"中身"は、すでに書き換えられ始めていた。

  (だめ……産むなんて、ありえない……わたし、人間だったのに……!)

  この身体がどうなっていようと、この意識がどれだけ壊れかけていようと――まだ終わってない。

  (家に帰れれば……人間に戻れれば……)

  そうしたら、全部なかったことにできる。この身体も、この飢えも、この腹の中にある"何か"も、産む前に帰れば、それで終われる。

  それさえ間に合えば、わたしはまだ、わたしに戻れる――!

  翅が重い。脚が震える。思考が荒れて、目の焦点が合わない。

  それでも、動かなきゃいけなかった。

  (帰る……帰る……駅まで、あと少し……)

  わたしは、自分に言い聞かせるように羽ばたいた。頭がぼうっとしている。翅の音が上滑りする。

  でも、あきらめなかった。

  (……服のシミになりかけて、群れに巻き込まれて、あげく交尾まで……)

  想像を絶するような体験が、たった数時間のうちに起きた。

  もうこれ以上、わたしにできる"最悪"なんて、残ってない気がした。

  (ここまでで……もう、充分でしょ)

  でも、口の中はカラカラだ。翅の動きも重いし、何より、空腹がひどすぎる。

  (せめてなにか、甘いものだけでも――)

  そのとき、風にのって届いた、甘い香り。

  ペットボトル。潰れかけて転がる、透明な容器。その口から、甘くて懐かしい匂いが漏れていた。

  (……カフェオレ……?)

  慣れた身体で、フタの縁に着地する。そこからは"歩いた"。液体に向かって脚を運ぶたび、甘ったるい香りが濃くなっていく。ようやく液体に近づき、翅をたたんで脚先を液面に浮かべた。

  吸った瞬間、身体が震えた。甘さが、血より濃く、全身にしみ込んでくる。喉が潤う。脳がひとときの静けさを取り戻す。

  (……あったかい……)

  カフェオレ。ぬるくなった、甘い飲みもの。昔なら絶対に残していたようなやつ。でも今のわたしには――

  (……ご褒美、かも……)

  そう思った瞬間、どこかが壊れた。これが、ご褒美? 潰れたペットボトルの、飲み残しの、ぬるい液体が? あれだけの地獄をくぐり抜けて、ようやくたどり着いた"救い"が――これ?

  甘くて、やさしくて、満たされて。でも、底のほうで、笑い声がした。"なにそれ"って。

  ……そのときだった。

  ほんの自然な動作のように、世界が、すっと持ち上がった。

  (……え?)

  視界が、揺れる。液体が、ボトルの中で跳ねた。

  外には、"巨人"がいた。まだ小学生にもなっていないであろう小さな手。でも、今のわたしにとっては――世界を握る手。

  短いパンツ。子ども用のサンダル。まだ丸みの残る頬と瞳。その顔が、容赦なくこちらに迫ってくる。わたしの視界が、すべてその顔で埋まった。

  その瞬間、思考が――止まった。

  止まった、というより、"沈んだ"。言葉も、逃げろという指令も、どこか遠くで凍りついて、浮かんでこなかった。

  身体も、翅も、何ひとつ反応できなかった。ただ、上からの光と風と、巨大な瞳の動きだけを感じていた。

  (…………)

  どれくらい、そうしていたかわからない。時間の感覚が、ふっと消えていた。"わたし"が、"わたしのまま"でいることに、必死だった。その子の手が、ふと、傍らの"何か"を拾い上げた。小さな指先に挟まれた――白い円盤。

  (……あれ……フタ……?)

  その瞬間、脳が跳ねた。

  心臓じゃなく、脳が――本能で跳ね返った。

  (あ……あああぁぁっっ!!)

  (やばい、やばい、やばいっ!!)

  "その光景"が見えてしまった。体が勝手に跳ね上がる。

  翅がばらつき、液体が飛び散る。飛ぼうとした、その瞬間――ペットボトルが、持ち上がった。

  (ちょ、まって……まって、まだ……!)

  揺れる。液体が跳ねる。子供の小さな手が、無邪気に容器を振った。中のカフェオレが、波になってわたしを襲う。翅が濡れて、空気を切れない。脚が絡まる。視界がぶれる。呼吸ができない。

  (それだけは、それだけは――絶対に、起きてはいけない……!)

  わたしは、混濁する思考を必死にかき集めて、出口――あの円筒の口に向かって、身体を滑らせた。

  (まだいける、まだ――)

  視界の端に、あのフタが迫る。全身が震える。でも、わたしはもう出口の目の前まで来ていた。

  翅をすぼめ、脚を縮め、ボトルの首のすぐそこまで――

  (いける……!)

  ――その瞬間。視界の正面に、あのフタが迫る。カチャと音がして、世界が閉じた。

  羽ばたく。暴れる。這う。けれど、世界は閉じていく。出口が、音を立てて塞がれていく。わたしの世界が、透明な壁にぴったりと塞がれた。

  「や――やだ、やだ、やだッッ……!!」

  視界が、揺れた。ぶれて、にじんで、焦点が合わなくなった。

  光と影の輪郭が、ゆるゆると溶け出して――喉の奥から、音とも息ともつかない、震えたなにかが漏れた。それは、泣き声じゃなかった。涙腺もないこの身体の、どこから生まれたかもわからない、崩れた感情の残骸。

  そして、ただひとつの言葉が、脳の底にぽつんと沈んだ。……「終わった」。

  「や……っ、やだ……う、ううっ……あぁ……ぅ、ぅぅああ……っ」

  壁にぶつかり、濡れた床に触れ、視界が曇る。

  光が消える。音が消える。生きたまま、透明な棺の中で、ただ"虫"として終わる未来だけが、はっきり見えた。その一瞬で、走馬灯のようなものが駆け巡った。

  制服の襟元がうまく決まらなくて、朝からイライラしてた日。

  遅刻ぎりぎりで校門をくぐって、笑いながら迎えてくれた凛音の顔。

  好きなゲームの話をして、昼休みにスープを飲んで、午後の授業で眠気と戦いながら、放課後の予定を立てて。

  それが――つい、こないだのことだった。

  (……わたし、あの世界に、いたんだ)

  でも、その光景はすぐに、続く記憶に侵食された。

  視界がにじんでいた。換気口から見えた空は、異常に広くて、まぶしかった。ビルが黒い壁に見えて、草がナイフみたいだった。

  人の肩にぶつかって、洋服のシミになるところだった。翅が折れかけた。そのあと、群れに巻き込まれて――交尾。雄の蚊の脚が、背中に這ってきて、腹の奥に何かが侵入して――

  思い出したくもない、感覚。思い出したくもない、あの"後"の、ぬるい違和感。

  そして、あの甘さ。死にかけの飢えのなかで、見つけたペットボトルの匂い。中に入って、カフェオレに浸って、「ああ……生き返った……」って、思った。本気で、そう思ってしまったから、喜びの記憶として再生されている。

  (……うそでしょ、そんなものが……)

  わたしの走馬灯の、後半を占めていたのは、"蚊としての思い出"だった。自分の生涯のラスト数日が、こんな――虫としての出来事で塗り潰されている。

  そしてそれは、そのまま現実と地続きになっていた。濁った液体。狭いボトルの中。その底に、点のような黒い影が、静かに沈んでいる。

  今度は――思い出じゃなくて、未来だった。

  ぷかぷかと浮かんで、翅が開ききったまま、動かない。ねじれた脚は何本かちぎれていて、触角は液体に貼りついて、腹は薄く膨らんだまま、沈みきっている。それは、死んだ"わたし"だった。

  でも、それで終わりじゃなかった。その前に――わたしは、きっと"産む"。

  この世界の中で。このカフェオレの表面で。この風も届かない、"墓の中"で。白く、ゼリーみたいな形をした卵たちが、わたしの腹の内側から這い出して、液体の中に漂い始める。そのうちのいくつかは、わたしの身体にくっついて、まるで"母親"のように、わたしの死骸を栄養にして、生きようとする。

  ――わたしの死体の、内臓の隙間で、育とうとする。

  そうして、このボトルの中は、わたしの"子どもたち"でいっぱいになっていく。透明だった壁が、だんだん曇って、濁って、発酵して、液体は灰色に近い茶色に変わっていく。

  誰も気づかない。

  誰も見ない。

  誰も触れない。

  それが世界のすべてになる。

  その中で、わたしはただ、一匹の羽虫として役目を終え、液体の底に沈んで、腐っていく。爪も、声も、名前もないまま。"晴香"という名前すら、何ひとつ残さないまま。

  (……そんなの……)

  言葉にすらならなかった。吐き出すこともできない。

  「ひろくん、そんなもの拾っちゃダメでしょ〜」

  軽い、呆れたような声が、外から聞こえた。どこまでも穏やかで、どこまでも現実的な――この地獄とはまったく関係のない、のんきな日常のトーン。

  「うわ、なにこれ、虫わいてるし……」

  反射的に、ボトルの中で翅が震えた。それは、子供を叱る声じゃなかった。この中に"何か"がいることへの、生理的な嫌悪感だった。

  女の人の手が、容赦なくボトルをつまみ上げる。指先が触れるその感覚にすら、どこか「汚れもの」を扱うような慎重さがあった。

  「もう……ほんと、捨ててくれないかな、こういうの。気持ち悪い……」

  小さくつぶやいて、彼女は――

  手にしたその"棺"を、少し嫌そうに傾けながら、近くの回収ボックスに向かって、放るように投げた。

  (……いやだ、終わりたくない……こんな……)

  ぐしゃり、とボトルの内側で液体が暴れる。衝撃で、わたしの身体はまた壁にぶつかり、視界がゆがんだ。

  そして――

  カチャン。

  跳ねた。フタが、ズレた。さっきまでぴたりと閉じかけていたフタが、落下の衝撃ではずれたのだ。

  風が、吹き込んだ。光が、差し込んだ。

  (え……)

  条件反射のように、翅が動いた。わたしは、ずるりと滑るように、ぬめった壁を這い上がり、そのたったひとつの出口に、全力で身を滑り込ませた。そして――脱出した。

  コンクリートの地面に、ずしゃりと転がるように落ちた。翅が濡れて、軋んだ。脚が震えた。息が詰まって、吐き出すこともできなかった。

  それでも、生きていた。

  その数秒後――背後で、「ピッ」という電子音が鳴った。回収ボックスが、ゆっくりと閉じられる。続けて、ホバー音。脚部が開き、エアバランスが補正される。ボックスは、小さく震えたあと、ふわりと浮き上がった。そのまま、自動収集ドローンとして、空へと運ばれていく。

  地面に這いつくばったまま、わたしはそれを見上げていた。

  (……たった数秒、違ってたら……)

  もしくは。ほんの少し角度が違っていたら。

  母親が拾い上げたあと、きっちりフタを閉めていたら――

  わたしは、今ごろ。

  (……終わってた……)

  "あの音"が、耳の奥で繰り返される。

  "あの感触"が、背中にこびりついて離れない。

  わたしは、生き延びた。でも――何もかもが、怖くて仕方なかった。

  コンクリートの地面に転がり落ちてから、わたしは、しばらく動けなかった。脚が震える。翅が濡れて軋む。視界の端では、あの回収ボックスが、ホバー音を残して空へと消えていく。

  気づけば、全身が震えていた。心臓があるはずの場所――そこに当たる感覚のどこかで、何かが、まだバクバクと動いていた。

  (……怖かった……っ)

  これまでの中で――いちばん、怖かった。

  あの、透明な天井。 呼吸が詰まって、声が出せなくて。光が消えて、狭くて、逃げ場がなくて。あのまま、液体の底に沈んで、誰にも知られず、誰にも惜しまれず、"虫"としての死を、ただ受け入れるしかなかった世界。

  (やだ……やっぱり、無理……)

  喉の奥が、じわりと詰まる。ここで死ぬなんて、ありえない。この身体で、終わるなんて。この姿のままで、忘れ去られて、捨てられて――そんなのは……絶対にいやだ。

  (……わたし、晴香だよ……)

  "清見晴香"という名前すら、この世界のどこにも存在していない現実。この小さな身体には、口も、声も、証明もない。でも、意識はある。記憶がある。

  わたしは、わたしだった。まだ、わたしだった。

  (だったら――)

  こんな終わり方、できるわけがない。

  (帰る。絶対に帰る。駅までは……あと、ほんの少しなんだ)

  ふらつく脚を、地面に押しつける。 翅がまだ湿っていたけれど、風はやんでいた。 空が、開けている。

  見上げたその先に、わたしが目指すべき"ビルの影"が、かすかに見えた気がした。

  (ここで終わらせない。こんなところで、虫なんかに――)

  翅を震わせる。 世界が再び浮かぶ。わたしは――もう一度、飛び立った。

  駅へ。"人間だったわたし"を取り戻すために。

  *  *  *

  たぶん……翌日だと思う。

  ちゃんと眠れた気はしなかった。というか、"眠った"のかどうかも定かじゃない。ただ、気づいたら、また視界が明るくなっていた。最後の記憶は――たしか、駅前の商店街あたり。看板の並ぶ通り。甘い匂い。人の気配。

  でも、そのときにはもう、身体が限界だった。空気が重くて、翅がうまく動かなくて、安全な場所を探さなきゃって思ったけど……たぶん、その前に落ちた。

  どこかの家の庭だったと思う。植木の間。風のない隙間。わたしが"そこにいた"ことに、誰も気づかなかった。

  それが、命拾いだった。生きていた。ただ、それだけのことが、ものすごく奇跡に思えた。

  そのあとのことは、あまり覚えていない。

  たぶん駅を目指して飛んでいたんだと思う。川沿いの住宅街を越えて、あのビルのある方向へ――でも、どこでどう動いたのかは、もう曖昧だった。

  いくつかの記憶だけが、脳の奥にこびりついていた。

  自販機のそばのゴミ箱。ジュースのしみがついた紙コップに脚を取られて、翅がべたべたになった。

  路地裏のゴミ袋のそばで、腐った甘い臭いに釣られてよろよろと近づいたら、カラスに蹴散らされた。

  最後には、片方の後ろ脚が動かなくなっていて、舗装のヒビに潜り込むときも、引きずるようにしてしか進めなかった。

  (……わたし、何してたんだろ)

  そして――

  翅の先が、空気の振動を敏感に拾い始めていた。

  わたしは、駅前の商店街にいた。馴染みのある風景だった。けれど、見下ろす角度も、においの質も、すべてが異質だった。

  クレープ屋の前を通る。焼きたての生地の甘い匂いが、どこか"熱"を孕んで感じられる。制服の学生たちが並んでいた、あの店。自分もフルダイブのあとにはよく通っていた場所――でも、いまの自分にとっては、"通り過ぎるだけの空間"でしかない。

  わたしは、高架下の通路を抜けて、駅へ向かった。その途中、身体の奥が、じわり、と蠢いた。

  (……まただ)

  腹のなか。奥の奥。交尾のあとなのだ、と、もう否応なく理解していた。そこには、"まだわたしの身体の一部ではないもの"が、確かにいる。

  そして同時に、鼻――じゃない、"匂いを感じる器官"が、ある刺激を拾っていた。

  汗の匂い。血の気配。生きた体温。人いきれ。脈動。それらが、ただの情報じゃなく、"意味"として伝わってくる。

  最初は、なんの匂いかわからなかった。でも、駅の改札が近づくにつれて、それは、確信に変わっていった。

  (……血、だ……)

  喉が渇くような、腹の奥がじわりと熱を帯びるような、そんな奇妙な感覚。

  (……やだ……吸いたくなんか、ないのに……)

  (……ていうか、なんで、血……?)

  蜜じゃダメなの? 糖分じゃダメなの? あんなに甘くて、美味しかったのに――

  なのに、身体の奥が、はっきりと拒否した。あれじゃ足りない、と言っている。

  甘さじゃない。熱と、鉄と、濃さが、いる。そうでなければ、体の中のものが、育たない。

  (……"育たない"……?)

  思った瞬間、ぞわりと背筋が逆立った。わたしが"望んで"考えたんじゃない。"身体"が勝手に、そう思わせてきた。

  育てる気なんて、ないのに。生む気なんて、ないのに。"そのために血が要る"という理屈だけが、感覚として流れこんできた。

  なのに、脚が動く。翅が鳴る。喉の奥――いや、腹の中の"別の何か"が、ゆっくりと、静かに、命令してくる。

  必死で飛んでいたから、すでに空腹だった。

  昨日までは、花の蜜やジュースで誤魔化せた。でも今日は違う。ここには花なんて咲いていないし、あったとしても――もう"満たされない"って、わかってしまっていた。身体が、もう、次の段階に進んでしまっている。

  (……駅に入ったら、もう"耐えるだけ"になる……)

  吸いたくなんて、ない。けど、吸えなければ、この欲求は――ずっとわたしの中で、蠢きつづける。

  腹の奥で、"その子のために"と言いながら、ずっと。

  でも、そこにしか、もう"道"はなかった。

  *  *  *

  ホームドアの少し内側。わたしは、そこに止まって、"普通に"電車を待っていた。人間には手の届かない位置。

  上空2メートル半ほどの高さで待っていることが「蚊」としての実感があって嫌だったけど、ホーム全体を見渡せて、ちょうどよかった。

  駅のホームには人が並んでいる。制服の学生。スーツ姿の会社員。スマホをいじる女性。

  どれも――食欲を、否応なく刺激してくる。体が求める欲求を、必死で押しとどめた。いけない――今は、吸血じゃない。帰るのが先だ。

  そのときだった。

  「まもなく、電車が到着します」

  構内アナウンスが響く。ざわり、と人が動き、風が変わった。その瞬間、ふと――"記憶"が、顔を出した。

  スライドモーション。川沿いの道で、肩にぶつかったあのとき。まったく風を感じなかったのに、一撃で潰されかけた。

  そして、もうひとつ。フルダイブ施設を出た直後、精いっぱい飛んだつもりでも、ちょっとした風で吹き戻されたあの感覚。

  (……あれ?)

  首を傾げかけた、ほんの一瞬の間だった。ホームの端に電車が近づく。線路の奥――トンネルの暗がりの向こうから、ゴゴゴ……という音が膨らんでくる。

  (……風が……来る)

  嫌な予感が、翅の根元をざわつかせた。

  電車の鼻先が見えた瞬間、空気の"向き"が変わった。重く、広く、あらゆる空間を押し潰しながら迫ってくる。

  (あの風……あたったら、潰れる……!)

  高さも場所も関係なかった。"あの質量"の風に、蚊の身体は存在を許されない。

  咄嗟に羽ばたいた。ホームドアの目の前――高さ2メートル半の地点。今から吹き抜ける風圧にとっては、何の庇護もない"真空地帯"だった。

  電車の鼻先が現れた瞬間、構内の空気が"押しつぶされる"ように歪む。

  (だめ――吹っ飛ぶ!!)

  風が来た。

  思わず身をすくめ、翅で空気を切り裂く。弾き飛ばされる。バランスを失う。視界がぐるんと回る。一瞬、床に激突する予感がした。

  でも――なんとか、踏みとどまった。ホームの中央上空、スピーカーの裏のくぼみに張りつくようにして、わたしは、嵐のような気流の中で、じっとその場に留まった。

  電車が、通過する。目の前を、銀の塊が、壁のような風とともに走り抜ける。電車を待つ人の髪が揺れる。スカートが舞う。その一つ一つが、わたしには空気砲のようだった。

  (……一本、見送ろう)

  呆然としながら、わたしはそう決めた。

  しばらく、何も考えられなかった。ただ、風の余韻の中で、翅の震えが静まるのを待った。人間の時間では、たぶん数十秒。でも、わたしには、それがひどく長く感じられた。

  (……次は、乗る)

  そう決めてはいた。でも、いざとなると、また飛び出すのが怖かった。今度こそ、吹き飛ばされるかもしれない。今度こそ、潰れてしまうかもしれない。

  だけど――行かなきゃ、帰れない。

  遠くから、アナウンスの声が聞こえる。次の列車の接近を知らせる音が、空気を震わせる。

  人の足音。靴音。ざわめき。それが、すべて"時が動き出した"合図のように思えた。電車がホームに滑り込む。風はさっきよりは弱かったけれど、それでも、ひと押しで世界が歪む程度の衝撃はあった。

  安全な場所で、電車が完全に静止してから、わたしは翅を開いた。

  (……もう、戻れない)

  わたしは、誰かのコートの影に紛れながら、車内に滑り込んだ。

  構内アナウンス。ドアの開閉音。電子音。話し声。靴音。すべてが、低く、重く、振動として鼓膜を叩く。

  でも、それらよりも濃密に、わたしを包んでくるものがあった。匂い――いや、"成分"。

  わたしは、車両の天井近く――広告パネルの影に身を潜めながら、ひたすらに"視界"を切っていた。見てしまえば、終わる。においが、記憶と結びついて、欲望に転換される。 理屈じゃない。身体が、反応してしまう。

  でも――見えてしまう。感じてしまう。塾帰りであろう少年の太ももから。どこかの高校の制服のスカートの中から。あっちでは、陽に焼けた筋肉質な肌の上に、乾きかけた汗の粒が浮いている。香ばしくて、甘いにおい。

  買い物帰りらしき女性。すっぴんの肌にうっすらと皮脂の膜が張り、重い荷物を支える腕が、脈打っていた。そばを通ったとき、なぜか"特別な匂い"がした。理由はわからない。でも、嗅ぎ取った瞬間、腹の中がざらついた。

  誰かがくしゃみをした。誰かが、息を吸った。

  わたしの思考のほうが先に、「だめ」と言っている。「違う」「吸うな」「吸いたくない」と叫んでる。でも、脚が疼く。 翅がぴくつく。喉が、乾いていく。

  (……ちがう、ちがう、やめて……わたし、わたしは――)

  そのときだった。彼が、目に入った。営業帰りの男性のようで、半袖のワイシャツのボタンがひとつ外れていて、ネクタイが緩んでいる。肩で息をして、額に汗を滲ませながら、スマホで誰かと通話していた。

  言葉の内容はもう耳に入らなかった。吐き出される息。呼気に含まれる成分――たぶん、二酸化炭素。酒を飲んでいたのだろうか、顔が赤くて、血流が早い。

  首元。

  シャツの隙間から見える、皮膚。

  うっすら光る汗。

  浮き上がる血管。

  (……おいしそう……)

  そう思った瞬間、頭のどこかが、"プツン"と切れた。

  "わたし"はまだ叫んでいる。でも、身体のどこか別の部分が、勝手に羽ばたいていた。止められなかった。止めようとさえ、できなかった。気づいたときにはもうわたしの脚が、その人の腕に、そっと触れていた。

  汗ばんだシャツの袖のあいだから覗く、赤みがかった血管。脈打って、熱を帯びていた。まるで"ここです"と、標識のように存在を主張していた。

  (やだ、やだ、やだ……!)

  心のなかで、叫んでいた。でも脚は、吸い寄せられるように沈みこんでいく。その瞬間――腹の奥が、ぐい、と動いた。

  (あ……っ)

  差し込まれた。"自分の意思じゃなかった"――そう思いたかった。気づいたら、そうなっていたんだと。衝動だったんだと。わたしは、ただ流されただけなんだと。

  ……でも。どこかで、そうなることを、許していた。

  わたしの身体が、じゃない。"わたし"が。確かに、"わたし"が、針を伸ばして、相手の皮膚を貫いた。

  温かかった。じんわりと、音を立てるように、血が流れ込んできた。味じゃない。感触でもない。圧と熱と、"命"の重さだった。

  血管のリズムが、わたしのなかに入り込んでくる。汗と呼気の匂い。あまり高価ではなさそうなシャツの繊維のにおい。体内の温度と混ざって――

  (……うまい……)

  たんぱく質。鉄分。脂質。二酸化炭素。ホルモン。細胞。熱。

  すべてがまざって、ドロドロと、命のスープになっていた。それを、わたしは吸い込んでいる。むき出しの針で、直接。濾過もされず、分解もされず、身体の中へ、そのまま流し込まれている。

  (……生臭い……)

  胃袋じゃない。"袋"が、血の重さでぐい、と伸びていく。蜜のときのような、やさしさはなかった。これは、"食事"じゃない。収奪だった。奪って、奪って、それでわたしは満たされていく。その満たされ方が、あまりにも気持ち悪かった。

  思ってしまった。その言葉が、無防備に浮かんできてしまった。"ごめんなさい"とも、"やめなきゃ"とも思ってるのに。

  (けど……これ……うまい……っ)

  脳が揺れる。視界がぬるく回る。世界の中心が、お腹になった。針を刺したその一点で、すべてが回っていた。

  そのときだった。スーツの男が、ふいに腕を振った。

  (――っ!?)

  肘が動いた。ぶつかる。翅に触れた。バランスが崩れた。羽音が跳ねる。

  (やば――)

  「うわ、蚊いるじゃん!?」

  次の瞬間、手が振り下ろされた。衝撃波のような風。ほとんど"壁"だった。 かすっただけで、視界が真っ白になる。

  死ぬ、と思った。 本当に、そう思った。反射で羽ばたいた。逃げなきゃ、とかじゃなかった。身体が、勝手に爆発するみたいに、飛び上がった。

  視界がぐるんと反転する。明かり。看板。人の頭。床。 なにが上で、どこが出口なのかわからない。

  でも、逃げた。吸った血が、腹の中で揺れる。確かに、入っていた。

  弾き飛ばされて、逃げたはずだった。でも、逃げ切れてなかった。

  いや、むしろ――"追っていた"。視界の隅にいた、"別のにおい"を。人混みのなかをすり抜けながら、わたしの身体は、そこに引き寄せられていた。

  (……だめ、やめて……さっき、吸ったのに……)

  血が腹にある。確かにあるのに、渇きが消えなかった。むしろ、もっとほしくなっていた。濃いのが、甘いのが、もっと奥から染み込んでくるような――そんな味を。

  わたしの視界に、塾帰りの少年の脚が映った。 短パン。むき出しの太もも。夕陽で軽く赤くなった肌が、まだじんわりと熱をもっていた。

  乾きかけた汗のにおい。 少し香ばしくて、少し甘くて――

  (おいしそう)

  言葉にするより前に、身体が動いた。 着地。脚が沈む。ほんの一滴、吸った。

  でも――"軽かった"。"味"が薄い。温度も、すぐに抜けていく。……満たされない。

  (……違う……これじゃない……)

  気づけば、もう離れていた。次に吸い寄せられたのは、どこかの制服女子のスカートの中。白い脚。涼しげで、でも柔らかくて、清潔な匂いがする。でも、どこか"遠い"。何かが"違う"。食べられるけど、響かない。

  (ううん……違う……もっとこう……)

  "熱"が足りない。

  "密度"が足りない。

  そのとき、近くを歩いていた買い物帰りの女性から、強いにおいが流れてきた。

  すっぴんの肌。すこし油分を含んだ皮膚に、荷物を持った腕が張っていた。 動脈の脈動が、視覚じゃなくて、音と熱で伝わってくる。

  (……あれ……なんだろ……)

  わたしは、吸い寄せられるように彼女の肩へ飛んだ。 ほんの一瞬、皮膚の匂いをかいだだけで――

  (……なに、これ……)

  腹の内側が、ざらっとした。

  理由は、わからない。なにかのホルモンか、体質か、体温の変動か。でも、その人だけが、"違った"。ぐい、と腹が伸びていた。 止めるより早く、吸っていた。

  濃い。 重い。 あたたかい。

  (……これ……)

  "うまい"という言葉が、喉まで来た。でも、言葉にはならなかった。

  (こんなふうに……血の、味の違いなんて……)

  比べることなんて、したくなかった。知りたくなんてなかった。でも――知ってしまった。

  腹は重かった。脚の付け根のあたりから、腹部にかけて、熱と重さが詰まっている。

  あんなに必死だったのに、今はほんの少し、翅が軽く感じられる。それだけで、少しだけ空気が甘く感じられた。

  電車の天井付近、人間の手の届かない位置。

  サイネージ広告の隅に身を潜め、冷房の風に揺れる人の足元を見下ろしながら、わたしは――"静かに、生きている"という実感を、噛みしめていた。

  (……血を吸っても、案外、気づかれないんだ)

  最初は、怖くてたまらなかった。でも、案外、誰もわたしの存在なんて気にしていない。吸って、逃げても、何も起きなかった。あれほど命がけだったのに。

  それなのに、"何も起きなかった"という事実に、なんだか――変な納得と、少しの悔しさすら覚えていた。

  ――でもそのとき、不意に、画面がふっと切り替わった。

  広告のサイクルが終わって、一瞬、黒くなる。鏡のように、反射した"何か"が映った。

  見てしまった。

  それは――わたしだった。

  腹。

  真っ赤に膨れ上がった風船のような袋が、脚の下にぶら下がっていた。赤黒く濁って、まだかすかに脈打っていた。

  あれは、血だ。

  何人かの、人間の――体の中から抜き取ってきたもの。

  それが、むき出しの胃として、腹ではなく脚の下に、ぶら下がっていた。

  (……やば……なにこれ……)

  急に、翅の根元が重くなった。さっきまで感じていた"軽くなった気がする"感覚は、ただの錯覚だった。

  本当は――重かった。

  重すぎた。

  身体の重心が、もうおかしい。脚の根元が引き伸ばされて、バランスが崩れている。明らかに"重力の受け方"が変わっていた。

  もう、飛ぶ生き物の構造じゃなかった。わたしの身体が、わたしの下へ、下へと引きずられていく。

  腹の中の袋――その巨大なタンクが、今にも破れそうだった。皮膚も筋肉もない、薄い膜一枚で、"内臓"のふりをしてぶら下がっている。

  風船。圧がかかって、熱を持って、わずかに脈打って――

  (……破れる、これ……)

  全身の"気持ち悪さ"が、視覚・感覚・想像のすべてで襲ってきた。

  自分の"中"にあるくせに、ぜんぶ"外"にある。

  包まれていない。守られていない。

  ただの袋。タンク。満たされすぎて、いまにも裂けそうな"命の器"。

  それでも――気持ち悪いのに、心のどこかで"満たされてしまった"という事実だけが、じわりと広がっていく。

  嫌悪と安堵。拒絶と悦び。全部がごちゃごちゃに混ざったまま、わたしはサイネージの光に身を潜めていた。

  車内の空気が少し揺れる。誰かが荷物を持ち上げる気配。立ち上がるときの、わずかな気流。"次で降りる"――それだけの情報が、振動で伝わってくる。

  (この人の動き……たぶんこの人も、同じ駅で降りる)

  わたしは、そっと翅の向きを変えた。

  その人の肩越し――"外に出る風"の流れに、身を乗せるように。

  (わたしも……ここで、降りる)

  (あと少し……あと、ほんの少し)

  胸の奥が、そわそわと熱を持っていた。呼吸なんてできないのに、なぜか息苦しくて――でも、それが嬉しかった。

  早く、着いて。

  早く、この街の空気に触れたい。

  わたしの部屋の匂い。あの布団の手触り。あの棚の、あの位置。早く、あそこに戻りたい。NodeCHOCEじゃない。コードも、端子もいらない。"わたし"がいれば、それでいい。わたしの脳波を、きっと――あれは、覚えている。

  (わたしは、まだ……"わたし"なんだ)

  そう信じたかった。

  信じたまま、着きたかった。駅のホームの灯りが、近づいてくる。構内の光が、滲むように広がって――電車が止まり、ドアが開いた。その瞬間、何かがはじけたように、わたしは飛び出していた。

  風に乗って、人の頭上を滑るように抜けていく。冷房の風が渦巻く構内。知らない人の声。靴音。スマホの振動。どれも、胸の奥に染みるようだった。音が、匂いが、光が――少しずつ、"わたしの世界"に戻ってきていた。

  (帰ってきたんだ……!)

  そんな実感が、じわじわと広がっていく。見慣れた床のタイル。古びた売店のロゴ。階段の向こうにある、パン屋のにおい。

  忘れていなかった。ちゃんと、全部覚えていた。この街が、ちゃんと"迎えてくれた"気がした。

  ――改札を抜けたあたりで、翅の根元がじんわりと重くなった。

  (……そろそろ、"来る"気がする)

  喜びが、一瞬で冷える。今すぐ、家に向かいたかった。羽ばたき続けて、あの光の下にたどり着きたかった。でも、わかっていた。このまま進めば、途中で"落ちる"。

  悔しかった。こんなところで、止まりたくなかった。けれど――命が、一番大事だった。

  あの、強制的に"落ちる"感じ。最初はパニックだった。けれど、もう何度も経験した。慣れてしまった――なんて、絶対に認めたくないのに、身体はすでに"その前兆"を知っていた。だから、今のうちに、なるべく"安全な場所"を探さなくちゃいけなかった。

  わたしは、駅構内の照明設備の支柱――ホームの隅にある広告パネルの上部へと羽ばたき、小さなくぼみに身体を押し込んだ。

  人間の目には映らない程度の隙間。空調の風も届きにくく、振動も少ない。こんな場所を瞬時に選べるようになっている自分が、悔しかった。

  翅を閉じる。脚をたたむ。閉じることのできない目を、閉じた"つもり"で、静かに、眠りに落ちた。

  でも――もう怖くなかった。

  【03】

  ふわりと、光を感じた。人工じゃない。あたたかくて、鈍くて――昼の光だった。

  (……もうお昼か)

  ゆっくりと、身体をほぐす。少しずつ、思考が戻ってくる。

  喉は渇いていて、手足は少しこわばっていて、でも気持ちは軽かった。

  よく眠れた。きっと、昨日がうれしかったからだ。

  ようやく帰ってこられて、あの部屋に――あの光に、やっと手が届きそうになって、希望が、ほんの少しだけ現実に触れた気がした。

  だから、眠るときも自然に力が抜けた。夢はなかったけど、ちゃんと"休めた"感じがしていた。

  (……そろそろ、起きよ)

  そんな気分で、わたしは寝返りを打った。

  ――ずるっ、と転がった。

  (……あれ?)

  視界がひらく。重心が傾く。まるでベッドの端から落ちたときのような、奇妙な浮遊感。

  (――やばい、落ちる!!)

  その瞬間、ようやくすべてを思い出した。

  ここは家じゃなくて駅で、ベッドでもなくて、広告パネルの裏の小さなくぼみ。

  そしてわたしは人間じゃなくてーーー

  反射的に脚をばたつかせたけど、翅は開かなかった。脚が空を切って、前のめりに――ずるっ、と情けなく動いた。

  あっ、って思ったときには、もう落ちてた。パタパタでもバサバサでもなく、ただ、ストンと。

  ……虫って、落ちるとき、ほんとに無力だった。

  地面まで、たぶん5メートルくらいだった。人間なら死んでいたけど、羽虫にとっては"まあまあの高さ"――でも、死ぬほどじゃない。たぶん。

  実際、地面に着いたとき、なんともなかった。ホコリがふわっと舞って、身体がちょっとだけ反っただけ。

  ああ、わたし……寝起きで、人間のつもりだったんだ。

  ……ちょっと、笑えた。なに勝手に、"脚で立ち上がろう"としてるの。わたし、今、羽虫なんだけど。

  自分に向かって、そっと鼻で笑うような気持ちになる。その音さえ、もう出ないことを思い出して、またちょっとだけ笑った。

  でもその瞬間、あの駅の床のことを思い出した。

  乗客の靴。ヒールのかかと。キャリーケースのタイヤ。あんなのに当たってたら――

  (……わたし、ほんとに潰れてたかも)

  体勢を立て直し、高度を上げる。エスカレーターの向こうに出口の看板。その手前、自販機の並び。その奥から漂ってくる、シュークリーム屋さんの甘い匂い。

  出口の看板が近づいてくる。構内から続くエスカレーター、その上の窓から差し込む光。

  人の流れを避けるように、わたしはゆっくりとエスカレーターの上空を下っていく。構内から出ると、昼の街が広がっていた。人の気配。車の音。アスファルトの匂い。

  着いたのは昨日だけど、今日のほうが"本当に帰ってきた"感じがした。

  駅前の歩道橋を越え、その脇に続く細い道へと視線を送る。わたしは、それを見下ろすようにしながら、ゆっくりと高度を下げていった。

  商店街を抜け、横断歩道の脇に立つ標識の上でひと休みする。

  見慣れた看板。踏切の音。遠くから聞こえる、自転車のブレーキの軋み。

  そのひとつひとつが、わたしを"現実"に引き戻してくれた。

  だけど同時に、腹の奥に――かすかに、重さを感じる。

  (……これも、連れて帰るんだ)

  自分の中にある、"育っている何か"を思う。意識すると、ほんのわずかに、内部が膨れている気がした。

  それがどれだけの意味を持つのかは、わからない。でも、それも全部含めて、帰らなくちゃいけない。

  (わたしは……まだ、晴香だから)

  この身体でも。こんな形でも。

  わたしが帰らないと、誰にも証明できない。"わたし"が、ここまで来たことを――。

  人間だった頃の記憶を辿るように、わたしは空中を進む。

  でもそのルートは、歩道でもなければ、車道でもない。道路標識の裏、換気ダクトの隙間、ひと気のない駐輪場のフェンスの上――

  人間なら、絶対に通らないようなルート。"わたしのための道"じゃなくなってしまった帰り道。それでも、そこしか通れなかった。

  街は静かだった。

  木々の枝は剪定されすぎていて、道沿いの花壇は管理された造花だった。ゴミひとつ落ちていない道路に、整った植え込み。誰かの手で整えられたまま、まるで時間が止まっているようだった。

  坂道をくだって、角を三つ曲がる。

  ひとつめの角には、子ども向けのデジタル自販機があって、くるくる回るアニメーションが光っていた。でも、声は遠い。子どもたちの姿は見えなかった。管理区域内か、遠隔遊びか、わからない。

  ふたつめには、もう使われなくなった宅配ボックスが並んでいて、誰も見ていないのに静かに開閉を繰り返していた。センサーの反応だけが、律儀に日常を繰り返している。

  三つめの角には、ゴミ回収ドローンの発着ポールがあり、小型ドローンが数機、待機状態で浮いていた。動きに無駄がなくて、逆に怖いくらいだった。

  風の乱れを感じた瞬間、わたしはすっと高度を下げた。ドローンのブレード音に合わせて、動きをずらす。前なら避けきれなかったはずの軌道も、いまは自然に身体が反応してしまっている。

  (……すっかり、慣れちゃったな)

  悔しさよりも先に、自嘲が湧いた。それでも、進むしかなかった。

  視界の向こうに、見覚えのある建物が見えた。比較的新しい、白を基調とした一軒家。屋根の色。玄関の形。表札の位置。

  変わっていなかった。変わらず、そこにあった。

  (――やっと……帰ってきた……)

  わたしは、ほんの少しだけ力を抜いて、その光の方向へと、ゆっくりと羽ばたいた。

  ほんとうに、帰ってこられたんだ。

  その事実だけで、胸がいっぱいになった。思考も感情も、ぜんぶが膨らんで、どこにも収まりきらなくなっていた。

  空の色も、空気の重さも、この家の佇まいも、全部が、わたしに「おかえり」と言ってくれている気がした。

  羽音が、少しだけ震えた。嬉しくて。安心して。もうここで、全部をほどいてしまってもいいような気がしていた。

  ──やりきった。

  そう思った。心の底から、そう思えた。

  あの施設から抜け出して、誰にも助けられずに、ただ自分の身体だけでここまで来た。

  それだけで、もう十分なはずだった。もう、すべてが許された気がしていた。すべてが元通りになる気がしていた。

  でも。

  (……いや……まだだ)

  "あれ"が、ある。あの装置が、わたしを見てくれなければ。わたしを、"わたし"だと認識してくれなければ。──終わりだ。

  この帰還には、まだ"最後の判決"が残っている。入れるかどうかじゃない。生きていたかどうかでもない。「あなたは、もう"あなた"ではありません」と言われた瞬間、このすべては、無意味になる。

  その未来を想像しただけで、心臓が、小さく、強く、跳ねた。胸の奥がぎゅっと締め付けられて、羽ばたきが乱れた。それでも、進まなきゃならなかった。

  わたしは、ほんの少しだけ力を抜いて、その光の方向へと、ゆっくりと羽ばたいた。

  屋根を回り込む。ちいさな雨どいの段差を越えて、書斎の窓へ――そこが、いちばん入りやすいと知っていたから。昼間なら、たいてい開いている。防犯はどうしたって、母に小言を言われたこともある。でも、わたしの部屋は、そういう"油断"が多かった。

  今日だって、きっと――

  ……ガラスだった。

  何の前触れもなく、ただ、そこに。風の流れがふと変わって、気づいたときには、目の前に、ぴたりと、静かに、ガラスがあった。

  翅の音が止まった。わたしは、空中で固まった。なぜだか、すぐには理解できなかった。部屋が見えるのに。机も、カーテンも、まくらも。

  "わたしの生活"が、ちゃんと、そこにあるのに。そのすべてを隔てるものが、こんなにも――こんなにも、完璧に、冷たかったなんて。

  わたしが消えたあとも、家は止まらない。人は寝て、起きて、暮らしていた。それは当然のことなのに、心のどこかが、ぽっかりと空いた。

  でも、それでも――わたしは、もう一度、羽ばたいた。ガラスの前から離れ、家のまわりを飛ぶ。何か、別の道があるはずだと、信じたかった。

  南側の寝室。子ども部屋の引き戸。キッチンの小窓。浴室のすりガラス。ベランダの掃き出し窓。

  どれも、閉じていた。

  (……入れない……)

  ほんの数ミリのガラスの向こうに、自分の部屋がある。世界でいちばんなじみのある空間が、そこにあるのに。たったそれだけの距離が、こんなにも越えられないなんて。

  でも――まだ、他の道があるかもしれない。

  そう思って、家の周りをゆっくりと探した。そして目に入ったのが、裏手の換気扇だった。カバーは古くて、わずかに空気が漏れている。その隙間から、室内へと続く細い空洞が見えた。

  (いけるかも……)

  ほんの少しだけ、希望が戻った。風はあるけど、調整すれば――この翅で、きっと通れる。そう思って、風の流れにそっと触れた瞬間。

  ――全身の奥が、凍りついた。

  脚が、もげる。

  翅が、裂ける。

  目が、潰れる。

  胴体だけになって、地面に転がる。

  そんな映像が、一瞬で脳裏に浮かんだ。

  違う。

  これは違う。

  この風は、"殺すやつだ"。

  頭じゃない。理屈でもない。本能が、叫んでいた。

  この先に進んだら、絶対に生きて帰れない。わたしは、風から逃げた。その未来から、逃げた。

  そして、また――あの窓の前に戻ってきた。

  (……じゃあ、どうすればいいの……)

  待つ、という案が頭に浮かんだ。誰かが帰ってくるのを。窓を開けてくれるのを。

  でも――無理だった。

  学校は週に三回しかない。しかも、――あまり選ぶことはないけれど――在宅授業も選べる。授業自体は午前中に終わることも多いし、家族が全員外出する日なんて、そもそも滅多にない。

  今が何曜日かもわからない。朝か昼かも、曖昧になっている。この家に"誰かが戻ってくる"その瞬間が、次にいつあるのか――まったく、想像がつかなかった。

  たとえ戻ってきたとしても、そのときほんの数秒だけ開いた窓に、自分がちょうど飛び込めるかなんて……。24時間のうちの、ほんの一瞬。そのタイミングを、"蚊の身体"で待ち続けるなんて――どう考えても、非現実的だった。

  喉の奥に、苦いものが広がった。けれど、あきらめるにはまだ早い。ほかの手段――そう、たとえば……

  (ほかの道……まだ、何か……)

  そのとき、ふと思いついたのが、下水だった。

  その考えが浮かんだ瞬間、何かが、背骨の奥を冷たい爪で撫でたみたいに、ぞっとした。人間のときなら、一生関わらずに済んだ場所。そこを這う、という想像が――ただの想像だけで、全身を突き落とした。

  黒く、ぬめりのある壁。

  水の膜に覆われた鉄管。

  意味のわからない虫の死骸。

  いつからか漏れ続けている液体。

  腐った水。皮脂。髪の毛。排泄物。

  重なりすぎて、もはや何の匂いかもわからない。

  どこまでも続く暗闇。光のない世界で、自分の羽音だけが反響する。

  脚がふやけて、ちぎれて、翅に汚れが張りついて、視界の隅で何かが動いても、それが生き物かどうかも判別できない。

  ("どこに繋がってるかわからない")

  その一言が、いちばん恐ろしかった。

  入ったら戻れないかもしれない。まっすぐ進んでいるつもりが、ずっと同じ場所を回っているかもしれない。暗闇の中で、自分がもう"何者だったか"さえ、わからなくなるかもしれない。

  そして、誰にも気づかれず、

  誰にも知られず、

  汚泥の底で、ただ――腐って、消える。

  そんな"死"が、ほんとうにあるんだと思った。

  できるわけがなかった。

  この身体は、確かに蚊かもしれないけれど、でも中にいるのは、まだ"わたし"なのに。わたしは、わたしをドブに沈められなかった。

  (他に……他に、何か……)

  ふらふらと飛びながら、わたしは玄関のまわりを探した。

  ガスメーター。排水の溝。雨樋。そして――見つけたのは、室外機の裏だった。そこに、ホースがあった。壁から突き出して、地面に向かってゆるく垂れている。

  エアコンの結露を外に流すための、ドレンホース。人間だったときのわたしなら、足で踏んで、その水の流れを止められるくらいの、ただの細い管だった。

  どこに繋がっていて、どこを通っているかも、わかっている。この家に住んでいたんだから、そんなの当たり前だ。

  ……なのに。いまのわたしにとって、それはもう、地面に口を開けた、黒くて濡れた"生きた穴"にしか見えなかった。頭では理解していても、身体がそれを"そういうもの"として受け入れてくれなかった。

  ただそこに近づくだけで、皮膚の裏がざわざわと反応した。

  想像してしまったのだ。この中に、いったい何が潜んでいるのかを。

  どこまでも続く真っ暗な管。

  冷たくて、ぬめりのある壁。

  音が反響しないほど狭く、湿った匂いだけが先へ先へと漂っていく。

  誰にも気づかれずに、

  誰にも見送られずに、

  静かに吸い込まれて――

  もう戻ってこられなくなる。

  わかってる。これは、ただのホースだ。

  でも、そう感じてしまった。感じてしまったものは、もう戻らない。

  それでも。わたしは、翅を静かに畳んで、脚をかけた。

  怖くなかったわけじゃない。

  嫌じゃなかったわけでもない。

  でも、もう――

  ここに入るしか、なかった。

  中は、最初から暗かった。十センチ程度も進んだだけで、もう後ろも見えなくなった。光も、風も、まったく届かない。翅を広げようとしても、すぐに壁に当たる。ここでは、もう飛べない。手足だけで進むしかなかった。

  この世界には「歩く」という言葉はあまりにも静かすぎる。押す。這う。にじる。引きずる。脚の一本一本を使って、樹液に触れないように進む虫のように。ただ前に、ただ前に。

  壁はざらついていた。たまに、ぬるりとしたものに触れる。水滴。埃。カビ。すべての匂いが混ざって、わたしの意識を少しずつ侵食していった。

  寒さも増していた。じわじわと、体温が奪われていく。光のない空間で、時間も方向も感覚を失いかけていた。

  (……本当に、繋がってる……?)

  疑いが、喉の奥で膨らみかけたときだった。

  遠くに、かすかに、"光"が見えた。それはまぎれもなく、わたしの部屋の光だった。人工照明ではなく、壁紙でもなく――ただ、"わたしの空間"にしか存在しない、あの空気の色。

  (……通じてる)

  そう思った瞬間、呼吸のようなものが戻ってきた気がした。

  這う動作がすこしだけ早まった。脚にわずかに力がこもる。冷気もぬめりも、もうすぐ終わる。

  わたしは、進んだ。脚で押し、腹を引きずり、綿くずを乗り越え――ようやく、吹き出し口の内側に、明かりが満ちた。

  わたしの部屋だった。床だった。本棚だった。

  ……帰ってきた。

  ようやく。

  本当に。

  すべてを越えて、ここにたどり着いた。

  でも。

  その"帰還"が、ほんとうに意味を持つかどうかは、これから、たったひとつの判断によって決まる。

  わたしを、"わたし"だと認めてくれるか。

  その一線を越えられなければ、ここまで来たすべてが――ただの夢になる。

  羽音が震えた。

  喜びではなかった。

  ここから先は、もう、祈るしかなかった。

  部屋に入って、最初に探したのは――自宅端末だった。

  ベッドの横の棚。ぬるく光る球体。NodeCHOCEとは違う。もっと古くて、でもずっと根本的な"個人認証デバイス"。

  何も接続していなくてもいい。コードも、端子も、操作も、必要ない。ただ"そこにいるわたし"の脳波を受信して、"これは本人である"と判断する。

  それだけで、すべてが開く。生活記録、接続履歴、LYNK端末、再起動プロトコル――全部。

  虹彩も、指紋も、声紋も、もう意味をなさない時代だった。偽造は簡単すぎて。でも、脳波だけは、いまだに"唯一"だった。本人かどうか――それだけを、絶対に判断できる。この時代で、いちばん強力で、いちばん無慈悲な基準。

  ……なら。この"わたし"でも、読み取ってくれるはずだ。

  思考はある。

  知性もある。

  「わたし」という意識は、確かにここにある。

  だったら――わたしは、わたしとして、この家に、"戻ってこられる"はずだ。

  ほんの少しだけ、脚が震えた。でも、それ以上に、心が震えていた。

  もし、ここでダメだったら。この人生が、ぜんぶ無意味になる気がした。"わたし"という存在そのものが、なかったことにされる気がした。

  わたしは、端末の前に立った。深く、深く、心の中で願った。

  お願い。

  お願い、お願い、お願い――

  わたしを、わたしとして、ここにいさせて。

  ……《本人確認中》

  脳の内側に、音のない音が響いた。

  心臓が、ひとつ、大きく跳ねた。

  呼吸が詰まった。何かが、身体の奥からあふれ出すのを感じた。反応した。装置が――わたしを"認識した"。

  わたしは、そこに"いる"。いま、この場所に、"わたし"がいると、それが言ってくれた。

  涙が出そうだった。この数日間、ずっと夢みていた一言が、ようやく――ほんの少しだけ、形になった気がした。

  でも同時に、心のどこかで、「ここからが本当の審判だ」と理解していた。

  数秒――あるいは数十分にも感じられる沈黙ののち――

  《応答コード:422 — 識別不確定状態》

  《再認証フェーズに移行します》

  ……生きてる。まだ、わたしは"外されていない"。

  コード401――それが出ていたら、その瞬間にすべてが終わっていた。本人としての存在を完全に否定され、この家のすべての権限から切り離される、最終的な断絶。

  もしそうなっていたら、わたしはもう、誰にも"わたし"として扱ってもらえない。

  でも今は違う。

  揺らぎがある。

  迷っている。

  判断を、保留している。

  ……この状態になるのは、たまにある。酔っ払ってるときとかになりやすいって聞いたことがあるし、ほかにもひどく怒っているときとか。

  "再認証フェーズ"って、たしかそんな名前だったはず。勝手にプロトコル名まで付けて遊んでる人たちもいた。「プロトコル MIRAI」。Meta-Individual……なんとか。意味はよく覚えてないけど、ネタっぽくてちょっとウケた。

  だからわたしも、機能名をMIRAIに変更したんだった。

  そしてMIRAIは、わたしも過去に何度か経験したことがある。

  たとえば、中学の終わり。ベッドの上で数時間も泣きながら記録を見返してたとき、突然、端末がこの状態になって。「あなたは誰ですか」と、まるで優しく問いかけるみたいに光っていた。

  そのとき、わたしは――誰にも言えなかった気持ちを、ただのメモアプリに書いた。送る相手のいない手紙。"アオイ"って名前をつけた、仮想の宛先。でも、それはたぶん、いちばん"わたしらしい"言葉だった。

  あのときは、ちょっとだけ恥ずかしかった。

  でも、ちゃんと答えて、何もなかったみたいにシステムは起動してくれた。

  ……でも、今は、違う。

  これはただの確認じゃない。これは――裁きだ。

  《プロトコル・MIRAI 起動中》

  《対象意識との非構造会話による再共鳴を試行します》

  《応答反応から本人性を再評価します》

  ……

  《MIRAI:こんにちは、北見ハルカ》

  《ちょっとだけ、話してもいいかな?》

  《あなたの中の"揺らぎ"が、少し強く出ていて》

  《こういうとき、言葉にしてもらうと、評価が安定することがあるんだ》

  ……うん。

  わたしは答えなかったけれど、でも、構わないと思った。

  思い出せることを順に拾って、誰かとおしゃべりするみたいに、ただ話す。正解を探すんじゃなくて、"わたし"であり続けることが目的のやりとり。

  古いシステムの「秘密の質問」みたいなテストじゃない。もっと自然な、ゆらぎを拾うための会話。問いじゃない。命令でもない。これは、ただの"会話"。……わたしの記憶と、感情と、存在と――静かに繋がるための、やりとり。

  《最初にLYNKを起動したとき、さ》

  《どんな画面が出たか、覚えてる?》

  思い出す。

  読み込みバーが、ぐるぐると渦を巻いて、止まりかけて、そのくせ、まったく先に進まなかったあの画面。

  ああ、あった。どうしようもなくて、笑いながら――「なんだこれ」って、言ったんだっけ。

  《……そう。たしか、そうだったね》

  《"なんだこれ"って、3回つぶやいてた》

  《わたし、そういうの、すごく好き》

  音のない声が、静かに重なる。ふふっと笑うような、でも冷たくならない、波。

  共鳴。内側で、記憶と今が、静かに手を取り合う。

  《小学生のころって、どんな子だった?》

  《友達と、どんなふうに過ごしてた?》

  ……凛音と。

  一緒に意味不明なゲームを作ったり、無駄にカードを手作りしたり、給食のとき、ヨーグルトを押しつぶして泡にして飲むのが流行ってた。

  凛音がそういうの得意だったから。

  《……そうだね》

  《夏目くん、って呼んでたの、今思い出した》

  《あなた、名前じゃなくて"なつめくん"って全部ひらがなで書いてたよね》

  笑いそうになった。でも、泣きそうにもなった。

  ほんとうに、ほんとうにわたしのことを、ちゃんと覚えてくれている。

  (いける……)

  もう、きっと、いける。

  わたしは、わたしなんだ。

  MIRAIも、それを感じ取ってくれている。

  ここまでの記憶も、感情も、全部がちゃんと"わたし"に結びついている。

  (このまま応えれば……終わる)

  (やっと――戻れる)

  《……じゃあ、最後に》

  《ひとつだけ、聞かせてほしいな》

  《中学のころ――あなたが、自室の机の引き出しに隠してた、あの記録の名前》

  《MIRAI:……なんだったっけ?》

  ……

  ああ――

  わたし、この答え――

  そのときだった。

  カチャ、という、音がした。

  ドアノブが、

  ほんのわずかに回って、

  ゆっくりと、開く。

  冷たい空気が、室内に流れ込む。

  翅が、かすかに震えた。

  そこに――誰かが、立っていた。

  後ろ姿。

  髪の長さ。

  肩の線。

  歩き方。

  それは、間違いなく、

  ――わたしだった。

  彼女は、ゆっくりと部屋の中へ入ってきた。

  裸足の足音が、床をわずかに鳴らす。

  そのたびに、わたしの心臓が、ひとつ、ひとつ、止まっていく。

  彼女は机の方へと向かい、端末の光を――わたしがさっきまで見ていた、その光を――すっと見下ろした。

  そして、わたしの存在には、まだ気づいていない"ふり"をしているようだった。

  MIRAIの声が、静かにもう一度、問いかける。

  わたしが、答えようとした。その直前に――彼女が、ふっと振り返った。

  淡い赤みを帯びた黒髪。肩につく長さで、自然に外へ跳ねている。

  小さめの唇。口角がほんのわずかに上がっていて、それだけで、微笑んで見える顔。

  鼻筋は細く通り、瞳は黒に近い茶――けれど、その奥に、見たことのない"熱"があった。

  視線が合った。瞬きもせず、わたしを見た。

  身につけていたのは、わたしのお気に入りのTシャツ。

  洗いざらしの白地に、胸元だけプリントのロゴが入ったやつ。

  でも――下は見たことのない、くすんだ青のハーフパンツだった。買った覚えもない。わたしが"そういうのを履いた記憶"なんて、一度もない。

  なのに、それが妙に似合っていて、まるで最初から彼女のものだったみたいに見えた。

  その瞬間、わたしはようやく、はっきり理解した。――彼女はもう、"わたしになる"準備を終えている。

  そして、彼女は言った。

  「それ、たしか――"アオイの手紙"って、タイトルだったと思うよ」

  それは、音じゃなかった。刃だった。

  やわらかくて、温かくて、でも、わたしの中の"わたし"を、すっぱりと切り裂く言葉だった。

  彼女は、微笑んでいた。まるで、それが当然だとでもいうように。

  MIRAIが、ただの機械に戻る。

  《Memory Match: Matched》

  《Resonance Response: Good》

  《Positive Input Subject: Individual ID #266AA490-4C1F-053D-1F77D667》

  《Identity Evaluation: Completed》

  《Authentication of Subject ID #266AA490-4C1F-053D-1F77D667 as "HARUKA KITAMI"》

  《MIRAI: Reauthentication Phase is Completed》

  わたしの脳の内側で、その音は、静かに響いた。

  それは、まるで「ドアが閉じる音」だった。わたしは、そこにいたのに。わたしは、もう、どこにもいなかった。

  彼女は、優しく言った。

  「――ってことは、わたしが"北見ハルカ"ってことで、いいんだよね?」

  「……あんまり使わないからよかったけど、起動しなくて困ってたのよね。……あなたがここまで来てくれたおかげで、MIRAIの認証、通ったみたい」

  少しだけ、とぼけたような、でも完全に余裕のある微笑だった。

  端末の光が、静かに落ちた。

  部屋は、また暗くなった。

  風も止んだ。

  世界も、止まった。

  わたしは、

  わたしを取り戻しに来たのに――

  わたしの"席"は、もう、なかった。