触手と入れ替わったJKが自分の体をお仕置きしたあと物理的に乗っ取り返す話

  ぼくは、善良な触手だと思っている。

  ごはんを食べて、大人たちの言うことをよく聞いて、できるだけ迷惑もかけずに生きてきた──そう、信じている。

  生まれたのは、第五階層、ぬめり巣域。

  あたたかくて、やわらかくて、どこまでもぬるぬるとした楽園。

  生まれたばかりのぼくは、半透明の小さな身体をくねらせながら、お母さんにぴったりと巻かれて、眠っていた。

  最初の思い出は、えさを捕まえる練習だった。小さな生き物たちを追いかけ、ぐちゅりと吸いつく。うまくいくと、お母さんが褒めてくれる。

  ──えらいね。上手に食べたね。

  それが、とても、とてもうれしかった。

  巣域には、ときどき「にんげん」という異物が流れ込む。

  かたいのと、やわらかいのがいる。

  かたいのは、ぐにゅぐにゅにしてから食べる。外側を溶かし、骨をぬめぬめに包んで、するりと飲み込む。すこししょっぱいけど、あとからじんわり甘みが広がる。

  やわらかいのは、苗床にする。

  苗床──にんげんたちを、赤ちゃんのたねを育てる器にすること。

  包みこんで、ぬるぬるでほぐして、どろどろに溶かしていく。いっぱい、赤ちゃんのたねを流しこんで、巣にくっつける。しばらくすると、あたたかくて甘いにおいがふわりと立ちのぼり、巣域がまたにぎやかになる。

  苗床にされたやわらかいのたちは、最初はぴいぴい震えるけれど、そのうち、ふにゃふにゃになって、いい音を立てるようになる。

  それを聞くと、お母さんたちは、にこにこと笑う。

  ──いい子にできたね。

  だから、ぼくも。もっと上手に、やわらかいのを育てられるようになりたいって、思った。

  巣域には、とてもすごい存在もいる。

  肉腫ちゃん。まるまるして、つやつやして、ところどころから小さな目がぴょこぴょこ出ている。ふわあっと吐き出す息は、すごく甘くて、体の芯がとろけそうになる。

  肉腫ちゃんのにおいを吸ったら、どんなに強いにんげんの男でも、すぐに目をとろんとさせ、泥のなかにひれ伏して、指輪をささげたりする。

  お母さんたちは、そんな男たちを見て、くすくす笑っていた。

  ──ぼくだって、できるなら肉腫ちゃんと結婚したい。けど、まだまだだ。

  自分の巣を持って、いっぱい苗床を育てて、それから……だね。

  そんなとき、変化があった。

  ある日、おとなたちが言っていた。どうやら「地球」という世界と、ぼくらの巣域がつながったらしい。

  その中の「日本」という──どこか遠い異界にある国。彼らは、ぼくらの世界を「裂け目〈ブリーチ〉」と呼んでいるらしい。

  裂け目から流れてくるにんげんたちは、ちょっと小柄で、でも──すっごく、やわらかくて、あまいにおいがするんだって。

  想像するだけで、身体のぬめりが、とめどなくあふれてくる。

  だから、ぼくも、期待している。

  今日も、いいえさ、来ないかな。

  *

  ふたつ。

  ふたつも──やわらかいのが、きた!

  ひとりは、ぴりぴり冷たい気配をまとった、きれいなやわらかいの。

  もうひとりは、ふわふわしていて、それでいてぴんと張りつめた、あたたかいやわらかいの。

  どっちも、すごく、おいしそう。

  どっちも、すごく、いい苗床になりそう。

  ぼくは、わくわくして、触手を震わせた。

  まずは、やさしく。

  そっと、甘いにおいを届けてあげよう。ぼくは、体内にぐぐっと力をこめて、ぷしゅうっと霧を吐き出した。

  しゅわしゅわと広がる、あまく、ぬるぬるした気配。これを吸うと、やわらかいのたちは、だんだんと、いい顔になる。

  ──そう、あの、ふわっと緩んだ顔。とろんと濡れた目元。指先がびくびく震えて、足元がふらつく、あの感じ。

  さあ、吸って。

  そしたら、もっと、やわらかくなれるから──

  ───

  「きゃっ」

  かすかな声がして、きれいなやわらかいのが身を縮めた。

  白い指が、ぴくん、と震える。

  ふわっと甘い匂いが、さらに濃くなった。

  でも──ぴゅん、と鋭い氷のつぶてが飛んできた。

  腕を巻き上げて避けたけど、触手の端が凍りつく。ひゃう、と情けない声が出た。

  ──つよい。

  あまいのに、つよい! やわらかいから、もっと、するりと捕まえられると思ったのに。

  必死に踏ん張るふたりを見て、ぼくは、ぴるるんと震えた。こんなに、小さくて、こんなに、あまいのに。

  ぼくのことを、拒むなんて。

  ──だからぼくは決めた。

  本当は、あまり使いたくなかった。これを撃つと、体力がたくさん削れて、しばらくは動けなくなる。

  でも……

  ここで逃がしたら、ぜったいに、後悔する。

  だいじょうぶ。

  この手は、ちゃんと成功したことがある。

  たとえば、前に──

  かたいのと、やわらかいのを入れ替えたとき。

  ごつごつのかたいのが、やわらかい体に入ったとたん、うまく力を入れられず、ぐにゃぐにゃにふらついて。

  逆に、やわらかいのがかたい体に入ったら、硬さに耐えきれず、すぐに泣きだした。

  そのすきに、ぼくは、するりと包みこんだ。

  すごく、たのしかった。あったかくて、とろとろで、なにより、かたちも気持ちも、ぐちゃぐちゃになっていくのが──

  とっても、きもちよかった。だから、今回も、だいじょうぶ。

  ぼくは、体の奥で、ぷちゅんと小さな弾をひねり出す。ぬめりをたっぷりまとわせた、特別な、二つの弾。

  これに当たったいきものは、精神が、ころんと入れ替わる。

  そうすれば、慣れない体に戸惑って、動きが鈍る。

  そしたら、やさしく、でもきっちりと、包んであげるだけ。

  ねらいを、定める。

  逃がさない。

  絶対、逃がさない。

  *****

  「……なんで、真琴ちゃんがここにいるの」

  瑞希先輩が、ふわりと振り返った。濡れたような裂け目の空気をすべる黒髪が、ゆるやかに弧を描く。

  制服の上から無造作に羽織ったカーディガン。どこか眠たげな、影を落としたまぶた。

  もともと、きれいな人だけど、こうしてちょっとむくれたように細められると、不思議とかわいらしく見える。

  本気で怒っているわけではないときに、先輩は、こういう顔をする。それが、あたしは、ひそかに好きだった。

  「えっと……ついてきちゃいました……」

  あたしは、ぺこりと小さく頭を下げながら、できるだけ明るい声を絞り出す。

  「ごめんなさい……でも、どうしても、先輩が戦ってるところを見たくて……」

  先輩は、ふぅ、と短くため息をついた。

  「……一般人が、裂け目に入ってくるなんて、普通じゃありえないんだけどなあ」

  肩越しに伝わってくる『まったくもう』という空気が痛い。でも、それ以上に、嬉しかった。

  「……仕方ないなあ。──私が守るから、ちゃんとついてきて」

  先輩はちらりとあたしを見て、少しだけ口元をほころばせる。

  (あ……この顔、好き)

  裂け目──

  十年ほど前から、突然この世界に現れるようになった、謎の異常空間。異世界とつながっていて、そこからモンスターが湧き出してくる。

  当時、漫画やアニメではよく見た設定だったけど、まさか本当に現実になるなんて、誰も思っていなかった。

  あたしも一度だけ、巻き込まれたことがある。突発的に発生した裂け目に、なすすべもなく飲み込まれて──

  そのときにたまたま、覚醒者である先輩に助けられた。

  覚醒者。

  特別な力を持つ、ごくわずかな人たち。

  瑞希先輩はその一人で、しかも、学校の中でも噂になるくらい、ずば抜けて強い。たしか、Aランクって呼ばれていた。

  あたしは──何のスキルも持っていない、いわゆる未覚醒者。だから本当は裂け目に入るなんて、しちゃいけないのに。

  でも──どうしても、先輩の、戦ってる姿が見たかった。

  あこがれの人が、かっこよくモンスターを倒していくところ。その背中を、すぐそばで、目に焼きつけたかった。

  それに、先輩がいれば絶対に大丈夫──そんな気がしていた。

  本当は、怖い。でも、それ以上に、目の前にある、先輩の背中についていきたかった。

  先輩が、裂け目に入っていくところを──どうしても、一緒に見たくなってしまった。

  昔、アニメで見たヒーローみたいにかっこよかった。行けない場所に入るときの、胸の高鳴りみたいだった。

  いろんな気持ちがぐちゃぐちゃに混ざって、我慢できなくて──

  あたしは、高鳴る胸を押さえつけるようにして、ぐっと足を踏み出した。

  裂け目の中は、想像していたよりずっと異様だった。空気はひどく重たく、湿り気を含んだ泥のように肌にまとわりつく。耳の奥では、絶え間なく、じくじくと嫌な音が鳴り続けている。

  そのとき、空気がざわりと揺れた。地面の奥から、低く鈍い振動が伝わってくる。

  思わず足を止めたあたしの目の前で、どこかに潜んでいた「それ」が、じわりと姿を現しはじめた。

  「──動く石像、だね」

  瑞希先輩は、じっと前方を見据えたまま、おっとりした声で、静かに断言した。

  目の前に現れたのは、人間大の石の獣だった。獣というには角ばりすぎた、無骨な四足歩行の影。全身が灰色にひび割れていて、目だけが、不気味な赤で光っている。

  「え、え、なにあれ、石、ですか?」

  思わずあたしが声を上げると、先輩は首を傾げた。

  「うん。たぶん、自己修復型だよ。割っただけじゃ止まらないから──」

  言い終わる前に、石獣が地を蹴った。

  灰色の影が、重たい風を押し裂きながら一直線に飛びかかってくる。

  「真琴ちゃん、しゃがんで」

  先輩の声がすぐ耳元に届いて、言われた通りしゃがみこむ。そのすぐ上を、鋭く凍った氷の槍が、びゅん、と飛び抜けた。

  ごぎゃん、と鈍い音がして、石獣の肩が粉砕される。

  ひるんだ隙に、先輩は軽やかに一歩踏み込んだ。

  「ちゃんと見ててね──こういうのは、中心から崩すの」

  ぴしっ、と指を鳴らす。

  次の瞬間、地面から透明な氷柱がせり上がり、石獣の下半身を串刺しにした。

  石のひび割れが、ばりばりと広がる。赤い目が、ぱちりと砕け、石獣の巨体は、その場でがしゃりと崩れ落ちた。

  「わ、すご……」

  あたしは、思わず拍手しかけて、あわてて手を引っ込めた。先輩は、少しだけ肩をすくめる。

  じとっとした視線、というよりも、やれやれ……という感じの小さなため息がこぼれる。あたしは、そっとぺこりと頭を下げた。

  「う、ご、ごめんなさい……」

  先輩は、そんなあたしをちらりと見て、ふっと、口元だけで笑った。

  「ほんと、のんきなんだから……気を抜かないでね。次は、もっと動きの速いのが出るかもしれないから」

  「は、はいっ!」

  あたしは、ずるずると泥に足を取られながら、必死であとを追った。

  *

  次の層に踏み込んだ瞬間だった。ぐっと、肌を焼くような熱気が押し寄せた。

  「うわっ、暑っ……!」

  思わず、声が出る。目の前には、地平線の彼方まで続く、乾いた大地。

  ひび割れた地面。赤黒く濁った空。揺らめく陽炎が、世界そのものを歪ませていた。

  「砂漠……みたいな?」

  あたしは、ぐるぐると頭上を仰ぎながらつぶやいた。

  瑞希先輩は、少しだけカーディガンのすそを摘まんで、おっとりした声で答えた。

  「たぶん、そんな感じ。気温は……五十度くらい、かな」

  さらりとおそろしいことを言う。あたしは、制服の襟をぱたぱたと仰ぎながら、へたりそうになった。

  そのときだった。ふわり、と──急に、涼しい空気が流れ込んできた。

  焼けるようだった肌が、すっと冷やされる。火照った頭に、冷たい指先がそっと触れたみたいに、体から熱が抜けていく。

  驚いて顔を上げると、瑞希先輩の周囲だけ、うっすらと白い靄のようなものが揺らめいていた。しかも、それはあたしにも、そっとかかっている。

  (……スキル、使ってくれてる……)

  思わず、息を呑んだ。

  すごい。目の前で当たり前みたいにそんなことができるなんて──やっぱり、先輩は別格だ。

  ……ふと沸いた興味が抑えきれず、あたしは、ぐっと勇気を振り絞った。

  「……ねえ先輩、あの、ちょっとだけでいいので、スキル、見せてもらえたりしませんか?」

  先輩は、ちらりとこちらを見た。

  「……今?」

  「今! ほんのちょっとだけでいいので!」

  先輩は、しばらく考え込んだあと、小さく息を吐きながら、手首を軽くひねった。

  すると、指先から、涼やかな氷の粒がふわりと浮かび上がる。次の瞬間、地面に向かって氷の花がぱっと咲き乱れた。

  バチバチと空気を裂く冷気。視界いっぱいに広がる青白い結晶。

  そして、半透明のスキルウィンドウが、瑞希先輩のすぐ隣に展開された。

  《絶槍連撃〈アサルトスピア〉》

  《重力圧縮〈グラビティ・ブレイク〉》

  《閃脚〈フラッシュ・ステップ〉》

  《精神耐性強化〈マインド・シールド〉》

  《氷華散布〈コールド・ペタル〉》

  《氷気纏い〈フロスト・ヴェール〉》

  ──雪村 瑞希/Aランク・氷属性──

  「すっご……!!」

  あたしは、思わず声を上げていた。スキルウィンドウを見ただけで、胸がどきどきする。

  氷の槍が、空気を突き破る。足元の大地が、重力に押しつぶされるみたいに沈む。そして瑞希先輩自身が、ふわりと視界から消えるほどの速度で跳ねる。

  (……まるで、別世界の人みたい)

  ぽかんと口を開けたまま見上げていると、先輩は、ひゅん、と地上に戻ってきた。何事もなかったかのように、制服のすそをはたきながら、そっぽを向く。

  (……あんなふうに、なれたら)

  先輩が覚醒したのは、たしか中学生のときだったって聞いた。

  家族とショッピングしているときに突然モンスターが出て、そこで襲われて──

  気がついたら、周囲ごとまるっと凍らせてたらしい。

  そんなふうに、誰かを守ろうとしたときに力が目覚めるなんて、まるで物語の中みたいだ。

  (……あたしも、いつか──)

  先輩みたいじゃなくてもいい。

  ほんの少しでも、あたしにも、なにかが宿ってくれたら。

  無力なままで終わりたくない。

  そう思うのは、きっと、わがままじゃないはずだ。

  *

  そのあとはいくつかの層を越えて、進んだ。

  焼けつく砂漠。ざらりとした音を立てる、歪んだ街。湿った空気がまとわりつく、暗い森。どの層でも、瑞希先輩は、ひとつも乱れることなく進んでいった。

  飛びかかってくるモンスターも、仕掛けられた罠も──先輩は、すべて涼しい顔で捌ききった。

  そして──

  目の前に、見たこともない膜が現れた。まるで、空間そのものがぐにゃりと歪んで、そこだけ、別の世界へと続いているかのような、透明な壁。

  瑞希先輩は、その前でぴたりと足を止めた。肩越しに、ちらりとこちらを振り返る。

  「うん。たぶん、ここが──」

  一瞬、言葉を切って、やわらかく、でもじとりとした視線を向けながら、静かに告げた。

  「──ボス、かな」

  あたしは、ごくりと喉を鳴らした。

  向こう側から、ぶくぶくと泡が弾けるような音が、かすかに聞こえてくる。

  ぬめった空気が、膜越しにじっとりと肌をなぞった。

  何か、大きな──

  得体の知れないものが、こちらを待っている。

  そんな気がした。

  *  *  *

  ぐちゅ、ぐちゅ、といやな音を立てながら、ぬめった地面から這い出してきたもの──

  それは、ただのモンスターと呼ぶには、あまりに生理的嫌悪を誘う存在だった。

  遠くに、本体らしきものが見える。赤黒く脈動する肉塊。大きさは、あたしたちよりもかなり大きい──二メートルほど。

  そこから、無数の触腕が伸びていた。

  一本一本は、ピンク色に透けたような肌をしていて、細いものはあたしの腕より細く、太いものは腰くらいありそうだった。

  それらが、規則性もなく、ぬらぬらと蠢いている。

  しなり、よじれ、絡みつき、震えながら、ひとつ動くたびに、粘りついた液体が、ぴちゃぴちゃと音を立てて滴り落ちた。

  それらの触腕が、すべて本体から生えているのか──

  それとも、ただそう見えるだけで、それぞれが独立した生き物なのか──

  判断は、つかなかった。

  (う……気持ち悪っ……!)

  口には出さなかったけれど、喉の奥から自然と吐き気がこみあげた。それだけじゃない。空気に、ねっとりとまとわりつく匂いがあった。

  腐臭ではない。どちらかといえば、生きた粘膜を何倍にも濃縮したような──

  風邪で寝込んだ朝、喉の奥にまとわりつくあの不快感を、一万倍に凝縮したような、そんな匂い。

  むせ返りそうなほど濃密なのに、その奥に、ほんのかすかに、甘さが混じっている。嫌でも、嗅いでしまうたびに、体の奥がむずむずと熱くなる。

  (なん、だこれ……)

  そのときだった。

  本体が、ぶぉ、と重たい息を吐き出した。透明な霧。

  ただの水蒸気なんかじゃない。甘ったるい匂いが、肺の奥までねっとりと絡みついてくる。

  ひゅっと、短く息を飲んだ瞬間、肌の内側からじわじわと火照りが広がった。

  制服の下で汗ばんだ肌がぬるりとまとわりつく。なのに、不快どころか、心臓の奥がぞわぞわと疼きだして、たまらない。

  隣で、瑞希先輩が、小さく息をつく気配がした。

  「──むー……この手のやつ、か……」

  おっとりとした声が、どこか濁って聞こえる。

  あたしも、すぐにわかった。これは──ただの毒なんかじゃない。

  頭が、ぼんやりする。身体が、熱にとろけそうになる。心まで、じわじわと蕩けて、動けなくなる。

  ──媚毒だ。

  「──すぐ、決める」

  瑞希先輩が、じとりと細めた瞳をさらにすっと狭め、ぬるりと手を前に差し出した。びしりと、氷の気配が周囲に満ちる。

  けれど──触手たちも、こちらを警戒しはじめた。ぞわぞわと、無数の腕が蠢きながら、じりじりと、間合いを詰めてくる。

  あたしは、ごくりと喉を鳴らし、必死で足に力を込めた。

  ──だけど。

  瑞希先輩が言うようにすぐに決まる、と思ったのに。触手たちは、思った以上に、いやらしく、しぶとかった。

  一本撃ち落とせば、別の一本が、ぬめった軌道で擦り抜けてくる。まとめて凍らせても、滑る液体が足元を奪い、瑞希先輩の動きを鈍らせる。

  ぎゅるん、と湿った音を立てて、触手が絡み合い、網を編み上げた。

  一本、二本じゃない。視界の隙間ごと絡め取るような網になって、瑞希先輩の足元を、腰を、腕を──しつこく、粘っこく、縛りにかかる。

  「……っ」

  初めて、先輩の動きが鈍った。涼しげな顔を保っていたその表情に、かすかに焦りがにじむ。

  あの瑞希先輩が──押されている。

  理由は、すぐにわかった。さっきから、あたしも、何度も、体に触手をかすめられている。鋭い痛みはない。傷ひとつない。でも──

  触れられるたびに、肌がびりびりと痺れ、火照りがじわじわと広がり、制服の下の肌が、ぬるぬると粘りついて、呼吸も、感覚も、すべてが蕩けるようになっていく。

  瑞希先輩も、同じだ。

  たぶん、これが──

  この触手たちの、本当の狙い。

  「……これ、もしかして……」

  思わず、かすれた声でつぶやいた。

  先輩は、ちらりとこちらを見た。ほんの一瞬だけ、汗に濡れた瞳が揺れる。

  「……そういう、やつ、だね」

  おっとりした声で、だけど、どこかかすかに震える声で、先輩は言った。

  外傷で獲物を仕留めるんじゃない。じわじわと、体を、心を、溶かして、自分から力を手放すように仕向ける。

  ──そういう、いやらしいやり方で。

  あたしは、ぞくりと背筋を震わせた。

  次の瞬間。

  うねる触手の一本が、瑞希先輩の太ももをなぞり、そのまま、スカートの奥、敏感なところを、ためらいなく叩きつけた。

  「──あ……っ」

  瑞希先輩の喉から、かすかな、濡れた声が漏れる。すぐに口を噤もうとしたけれど、肩がわずかに震えた。顔をそむける仕草も、ぎこちない。頬には、火照りと汗が滲んでいた。

  それでも、先輩は必死で平静を取り繕おうとする。

  「……ちょっとだけ、まずい、かも……」

  おっとりとした口調のまま、けれど、どうしても隠しきれない熱が滲んでいた。

  あたしに、できることなんてなかった。下手に動いても、足を引っ張るだけだ。ただ、見ているしかない──それが、悔しくて仕方なかった。

  それでも触手は、容赦なく迫ってくる。瑞希先輩は、ぬめった空気を切り裂くように氷の刃を放った。けれど、振り払った拍子に、また別の触手が腕をかすめる。

  「っ……あ、ん……」

  わずかに艶を含んだ吐息。

  すぐに、先輩はぎゅっと口を引き結び、くやしそうに、眉をひそめた。

  あたしは、目が離せなかった。

  普段は涼しげで隙のない先輩が、今、こんなふうに、必死で耐えている。

  それなのに、隠しきれずに漏れてしまう──

  濡れた吐息。震えるまぶた。汗に濡れた肌。すべてが、信じられないくらい、艶めかしく、綺麗だった。

  ふと、気づく。

  視線の先。

  触手の本体が、ぐるぐると渦巻いている。

  ぬるり、ぬるりと腕を絡ませながら、中央に、黒い瘤のようなものがじわじわと肥大していく。

  ──何か、溜めている。

  瑞希先輩も、それに気づいたらしい。

  「……時間、稼いでる。あれ、危ない」

  焦りを滲ませながら、氷の槍を放つ。

  鋭い氷刃が、黒い瘤を貫き──

  ぐちゃりと、嫌な音を立てて潰れた。

  あたしは思わず拳を握りしめたけれど、次の瞬間、全身の空気がぞわりと震えた。

  潰れたのは、本体じゃなかった。ぞわぞわと蠢く触手たちが、合図のように一斉に襲いかかってくる。

  「だ、大丈夫……っ、だい──」

  瑞希先輩がかすれた声で言いかける。

  けれどその言葉は、次の瞬間、絡みつく触手によって押し潰された。

  「っ……ん、ぐ……あ、あっ、あぁあっ……!」

  喉の奥から、押し殺したはずの声が漏れ、ひときわ艶を帯びた吐息が、瑞希先輩の口から零れ落ちる。

  あたしは、必死に足元を踏ん張った。

  でも──飛沫のように飛び散ったぬめりが、頬をかすめ、その一滴だけで、腰の奥がぞわりと痺れるような、いやらしい火照りが走った。

  「う、うううっ……あ、あぁ……っ……!」

  先輩も、腰をくねらせるように必死で体勢を取り戻そうとしながら、それでも、どうしても耐えきれず、甘く濡れた声を漏らしている。

  「っ、く、ううっ……あ、や……やだぁ……!」

  熱に浮かされたような吐息のなかで、かすかな否定すら、蕩けるように崩れていく。

  瑞希先輩は、ぎゅっと唇を噛み、くやしそうに、汗に濡れた前髪を振り払った。

  そして、それでも氷槍を放ち続ける。

  触手たちは、ぐちゃぐちゃに絡みつきながらも、次々と切り裂かれ、倒されている。

  ──互角だ。押されてなどいない……はずだ。

  それでも、じわじわと、少しずつ、こちらの意識が蕩けさせられていく。

  黒い瘤が、ぶくぶくと膨れ上がる。

  脈動するたび、ぬるりとした粘液が空気に弾けて、いやらしい熱気が満ちていく。

  「──ッ、は……、ぁ……っ」

  隣で、瑞希先輩の呼吸が漏れた。

  浅く、途切れがちで、どこか甘く滲んだ吐息。

  あの静かだった瑞希先輩が、まるで熱に浮かされたみたいに、喉の奥を震わせながら、呼吸している。

  ふと目を向ければ、制服のシャツは汗と液体に濡れ、肌に張り付いていた。

  白い太腿には、滑るように粘液が伝っている。

  頬は、微熱に染まったように赤い。

  それでも、剣を握る手は、震えていなかった。ただ、吐き出される息だけが、堪えきれない熱にあてられた獣みたいに、荒れていた。

  「っ……ふ、ぁ、……大丈夫……」

  かろうじて紡がれた言葉も、かすれていた。

  それでも、目だけは、濁らず前を向いている。

  ──その姿に、胸の奥がきゅうっと締め付けられた。

  あたしも、息苦しい。

  汗が背中を伝う。

  足元がふわふわして、頭がぼんやりする。

  でも、瑞希先輩は、そんなあたしの何倍もの毒気を浴びながら、それでも、必死に耐えていた。

  そして──

  ぬるり、といやらしい音を立てながら、黒い瘤が、ひときわ大きく脈打った。次の瞬間、ぱん、と破裂するような鈍い音が響く。

  弾け飛んだのは、ねっとりと光る粘弾。二つ飛び出したそれは、肉で編んだような紐で互いにつながったまま、ぶるんと揺れながら、一直線にこちらへ向かって飛び出してきた。

  一発は瑞希先輩へ。

  もう一発は──あたしへ。

  「──ッ!」

  瑞希先輩が、咄嗟に剣を振るう。鋭い弧を描いた刃が、迫る粘弾を叩き落とした。

  ぐちゅ、という鈍い衝撃音。はね返った粘弾は、本体の肉へ逆にめり込み、黒い肌をぶよぶよと震わせた。

  でも──それだけだった。

  もう一発。あたしに向かってくるそれに、誰も、何も、届かなかった。

  「──あ──」

  声が、かすれた。逃げる時間も、避ける余裕もなかった。

  目の前が、じわりと歪む。ぐん、と空気が押し寄せ、粘りつく液体の気配が、肌に触れる寸前まで近づく。

  (だめだ──)

  どうしようもない絶望が、喉の奥をせり上げる。

  あたしの手は、動かなかった。足も、もう、地に縫い付けられたみたいに動かなかった。

  ただ、見ていた。ぶるんと揺れる粘弾が、肉紐を引きずりながら、真っ白な光をまとうように、目の前に迫ってくるのを。

  ──そして。ぬちゅりと、肌に触れた瞬間。

  世界が、ぐしゃりと音を立てて、ぐにゃりと、白く、溶け落ちた。

  *  *  *

  最初に感じたのは、重かった、というより、わけのわからない、ぐしゃぐしゃした圧迫感だった。地面に押しつぶされるみたいな重さに、条件反射で起き上がろうとした──

  その瞬間、全身が、ずるん、と蠢いた。

  え……?

  次に襲ってきたのは、体の表と裏が、ぜんぶひっくり返ったような感覚だった。

  皮膚の内側に、空気が触れているような──

  逆に、内臓の外側が、地面にこすれているような──

  そんな、言葉ではどうにも説明できない気持ち悪さ。

  これは、やばい。

  内臓が飛び出した? ということは死んだ? いや、これから死ぬところ?

  でも、脳はもう勝手に結論を出していた。

  ──あ、死んだ。

  でも、おかしい。

  痛みが、ない。息苦しくも、ない。じゃあ、これは、まだ……生きてる?

  そう思った途端、もっと異様な感覚が、波のように押し寄せた。

  体が、広い。

  動かそうとした手が、存在しない。

  代わりに、何十本もあるみたいな、細長くて、やわらかくて、けどどこか異様に筋肉質な……そんな、得体の知れない何かが、あっちこっちで、ずるずると蠢いていた。

  (えっ、えっ、えっ、なにこれ……!?)

  ぐるぐる回る頭で、必死に理解しようとするけど、無理だった。違和感が、次から次へと、雪崩みたいに押し寄せる。

  皮膚がない。でも、表面全体がぬるぬるしている。

  いや、皮膚っていうか、もう、内臓みたいな感触そのまま地面に擦りつけてる感じで、ぬちゅ、ぐちゅって音が、勝手に体のどこからともなく鳴ってて、気持ち悪い。

  気持ち悪い。

  気持ち悪い。

  でも、どうにもできない。

  呼吸をしようとした。

  口が、ない。

  鼻もない。

  でも、どこかべとべとした膜みたいなところが、勝手に空気を吸って、吐き出している。

  ぐちゃり、ぐちゃり、ぐちゃり、

  どこもかしこも肉が蠢くたびに、べたつく粘液が絡み合って、体の奥から、いやらしい水音がこぼれていく。

  ──そんな中。

  ふと、見えてしまった。倒れている、誰か、二人。

  二人とも──よく知った制服を着ている。

  一人は、よく『見慣れて』いる。

  華奢で、でもしなやかな筋肉を備えた体。

  瑞希先輩。あたしが、憧れて、追いかけてきた、あの先輩。

  そしてもう一人は……『実際に見る』というのは、初めてだった。

  地面に投げ出された、小柄な体。くしゃりと乱れた制服。

  泥に汚れた膝。細く伸びた指先。かすかに震える睫毛。

  どれも、見慣れたものではある。

  ……鏡越しに。写真越しに。

  こうして、外側から、真正面から、まるで他人のように眺めるなんて、そんなこと、今まで一度だってなかった。

  あれは──あたしだ。

  あたしの体だ。

  ぞくり、と、身体を走り抜ける冷たいもの。その冷たさすら、ぬるぬるした粘液越しにしか感じられない、絶望的な違和感。

  ぞわぞわと背中を撫でるような感覚が、脳まで登ってきて、ガクガクと震えるような生理的嫌悪を打ち鳴らして、 その瞬間──

  あたしは、

  完全に理解した。

  (──あたし、が、……触手に……なってる……?)

  震える思考で、必死に現実を否定しようとした。

  でも、どこをどう見ても、ぬるぬると蠢く異形の体が、あたしだった。

  (なにこれ……! なんでこんなことに……っ)

  叫ぼうとしても、喉がない。

  指を握ろうとしても、指そのものが存在しない。

  (どうしよう、どうしよう、これ、どうすればいいの……!)

  脳内でパニックがぐるぐる渦を巻く。

  誰か、助けて。

  でも、誰が? どうやって? 触手になったあたしを、どうやって、戻すの?

  ふと、さっきの光景が蘇る。触手の中心で、膨れ上がった黒い瘤。そこから放たれた、あの、不気味な粘弾。

  (──あれ、か。あれのせい、なのか……?)

  手がかりは、それしかなかった。冗談じゃない。こんな、意味わかんないこと。

  ──でも、それが、今の現実だった。

  瑞希先輩は、倒れたまま、ぴくりとも動かなかった。

  床に伸びた細い腕。濡れた制服。白く細い太腿に、粘液がつたっているのが、やけに鮮明だった。

  (……生きてる、よね?)

  おそるおそる意識を向ける。

  顔色は、悪くない。かすかに、胸が上下していた。──死んでは、いない。

  そのことに、ほんの少しだけ、救われた気がした。

  (よかった……けど……)

  問題は、そこじゃなかった。

  倒れている先輩に駆け寄りたくても、あたしの体は、ぬめる何本もの異形の腕でできていて、ただ近づこうとするだけで、ぐちゃぐちゃといやらしい水音が響く。

  (……これ、どうやって起こすのよ……?)

  手がない。

  指がない。

  顔も、声も、ない。それなのに、全身が無駄に敏感で、地面に擦れるたびにぞわぞわと変な感覚が這い上がってくる。

  (やだ、やだ、やだ、こんなの、どうやって動けっていうのよ……!)

  力を入れるたびに、ぬちゅり、と肉がずれて、踏ん張ろうとするたびに、ぐちゅ、と粘液が弾ける。

  どこが手で、どこが足で、どこが胴体なのかすらわからない。全部が、柔らかく、いやらしく、気持ち悪く、

  でも──

  (……でも、なんか、変な感覚が……)

  気づいてしまった。このぬめる体が、蠢くたび、わけのわからない、ゾワゾワとした熱が、体中を駆け巡る。

  (……っ、こんな、ぬちょぬちょして、気持ち悪いのに……っ)

  嫌だ。認めたくなかった。

  でも、確かに、あたしの体は、いやらしく蠢くたび、どこか気持ちよさそうな、そんな、下品な震え方をしていた。

  (この触手モンスター……さっきからの動き方、見てたけど……多分……性別的には、男、なんだろうな……)

  最悪だった。

  このぬるぬるとした、粘液まみれの肉体が、勝手に、興奮に近い何かを覚えている。あたしの意思なんて、どこにもないのに。

  ぐちゃぐちゃの感情を抱えたまま、ふと、視線を落とす。

  乱れた制服。

  粘液に濡れた太腿。

  汗に濡れて、わずかに透けたシャツの奥。

  瑞希先輩。

  (……エロい……)

  そんな、圧倒的に場違いな感情が、頭の端っこから、ぬるりと染み出してきた。

  (違う違う違う!! なに考えてんのあたし!!)

  慌てて意識を引き戻した、その瞬間だった。先輩の指が、ぴくりと震えた。

  ぱちりとまぶたが開いて──目が合った。

  希輩の瞳に、微かな困惑が浮かび、そしてすぐに、鋭い光に変わった。

  「……モンスター……」

  低く、おっとりとした声。でもそこには、確かな殺意が滲んでいた。ぐっと、先輩が剣を引き抜く。

  「逃げないで、ください……」

  「──すぐ、楽にしてあげますから」

  優しい。普段と変わらない、どこかおっとりした、落ち着いた声。

  でも──

  (……やばい。敬語だ……!)

  ゾクリとした。

  戦いの場面は見たことがないけれど──

  瑞希先輩が、敬語を使うのは、いつだって『本気』のときだった。

  冷静に見えて、内心では怒りが振り切れてるとき。情けも、迷いも、一切ないとき。

  (マジで……殺す気だ……!!)

  剣が、きらりと光る。

  あたしは、動かない体に必死で指示を飛ばす。

  跳ねろ、ずれろ、何でもいい、逃げろ──!

  ──ぷしゅっ。

  奇妙な音が、体のどこかから噴き出した。先輩の動きが、ふいに止まる。

  白い霧が、あたりにふわりと立ち込めた。

  (……なに、これ……?)

  見覚えがあった。触手モンスターが使っていた──催淫ガス。

  でも、さっきまでの拡散とは違う。今度は、あまりにも至近距離。

  先輩は逃げる暇もなく、もろにそれを浴びせられた。

  先輩の頬が、ほんのり赤く染まる。剣を握る指先が、かすかに震えた。

  「……っ、く……ぅ……」

  押し殺したうめき。

  その直後。わずかに、本当にわずかに、先輩の腰がぴくりと震えた。まるで、耐えきれない熱を、必死でこらえるみたいに。

  それから、太ももをぎゅっと内側へ押しつける。制服のスカートが、かすかに揺れた。

  脚を閉じる動き。それは無意識の、自己防衛のしぐさ。

  でも──

  逆に、その仕草が、ぞっとするほど色っぽかった。

  (や、やばいやばいやばい!!)

  慌てて距離を取ろうとするが、ぬるぬるした体はうまく動かない。

  もがいた拍子に、触腕のいくつかが、地面を這うように伸びてしまった。

  そのうちの一本が、先輩の足元付近にずるりと滑り出る。

  先輩が、足元をふらつかせながらも、剣を構え直す。

  怒りが、さっきよりも濃く、滲んでいた。そして、また踏み込んでくる。

  あたしは、必死に、必死に、逃げ回った──

  ──ぬるり、と、いやらしい感触が走った。

  ヒダだらけの細い触腕が、先輩の太ももの間を、這うように撫で上げる。

  「っ……あ、あぁぁ……っ」

  (ち、違う、わざとじゃない、今のは違うから!)

  必死に、心の中で叫ぶ。

  けれど──

  先輩は、ふらりと顔を上げた。その目には、甘さでも、とろけた熱でもない。

  ──明確な、嫌悪。

  「……汚い」

  おっとりした声のまま、でも、はっきりと突き刺さる冷たさを帯びていた。

  その直後、先輩はぐっと体を踏み込み、剣を高く振りかぶった。ぬめった空気を裂くように、冷たい殺気が、こちらに向かって叩きつけられる。

  (ごめん!! ほんとにごめん!!! でもあたしもわけわかんないんだってばあああ!!!)

  必死の謝罪を心の中で絶叫しながら、あたしは、ぐちゅぐちゅと這って、次の攻撃から逃れようとした。

  ──だけど、慣れない、いやらしい体では、どれだけ必死に足掻いても、鋭く精密な動きについていけなかった。

  先輩の剣は、触手の房を無造作に切り払うのではない。本能的に、もっとも柔らかく、脆い箇所──

  この体に残った、数少ない「急所」へ、狙いすましたように向かってきていた。

  (あ──)

  (……これ、食らったら──)

  ぬるりと震える粘膜が、直感的に、激しく警告を鳴らしていた。

  (──本当に、死ぬ。)

  ぼたぼたと、粘液が床に滴る音だけが、いやに鮮明に響く。

  あたしは、どうにもならないと知りながら、それでも必死に、触腕を這わせ続けた。

  でも、無駄だった。

  剣の軌道が、速すぎる。

  ──あ。

  思ったより、冷静だった。

  迫る銀色の刃先を、あたしはただ、ぼうっと見つめていた。

  (……ここで、終わるんだ)

  不思議と、怖さはなかった。

  浮かんできたのは、くだらない日常だった。

  何もできなかった自分。瑞希先輩の後ろを、ただ見上げて追いかけることしかできなかった日々。

  それでも、一緒にいられるだけで、うれしかった。

  いつか、追いつきたかった。

  いつか、隣に立ちたかった。

  ──それなのに。

  今、あたしは、

  こんな、

  化け物になって、

  憧れの先輩に、殺されようとしている。

  (……ごめん、なさい……)

  心の中で、小さく謝った。

  ──そのとき。

  脳の奥で、かすかな電子音のような音が鳴った。

  《スキル覚醒しました》

  《生存本能により、能力解放を実行します》

  ──なにそれ。

  思う間もなかった。全身のぬめる皮膚が、一斉に震えた。ひと息に、熱が駆け抜ける。

  次の瞬間──

  世界が、弾けた。粘液をまとった体の奥から、暴力的なまでの圧力が噴き出す。

  触手が、空気を押し割る。衝撃と共に、瑞希先輩の体がふわりと宙を舞った。

  「──っ、きゃ──っ!」

  軽やかな叫び声。制服のスカートがひるがえり、先輩は柔らかく壁に叩きつけられ、崩れ落ちた。

  あたしは、動かなかった。いや、動けなかった。

  ぬめる体を震わせながら、ただ、呆然とその場にいた。

  (……生きてる……?)

  ぼんやりと、そんなことを思う。そして、もう一度──

  脳裏に、あの小さな電子音が鳴り響いた。

  《スキルリスト更新完了》

  《現在の状態に最適化されたスキルが付与されました》

  次の瞬間、視界に、まばゆい文字列が次々と浮かび上がった。

  ひとつ、ふたつ──数えきれないほどのスキル名が、光の粒になって、視界いっぱいに広がる。

  胸が、じんわりと熱くなった。

  (……ああ……)

  瑞希先輩が言っていた。

  「覚醒したときはね、体の中に、新しい力が流れ込んでくる感じがするの」

  「それが、自分の存在が変わった証なんだよ」

  あの言葉が、鮮やかによみがえった。

  (これが──覚醒……)

  胸が、ぶるぶると震えた。

  死ぬ寸前だったあたしに、本当に、新しい力が与えられたのだ。

  (先輩……見てて……)

  あたしは変わった。

  もう、無力なだけの存在じゃない。

  浮かび上がったスキルリストを、あたしは、胸を高鳴らせながら見つめた。

  (……これが……わたしの──)

  (──新しい、力──!)

  わずかに震える意識の中、あたしはひとつ、ひとつ、スキルの名前を確かめはじめた。

  《感覚遮断ガス〈サイレント・ミスト〉》

  《感度3000倍粘液〈Universe〉》

  《脈打つ肉壁〈パルス・コア〉》

  《昏い箱<クリスタル・ボックス>》

  《無限抱擁〈インフィニットハグ〉》

  《睾丸100倍〈メガ・ナッツ・ブースト〉》

  《滲出愛液〈スウェット・エクスタシー〉》

  《強制性別改変〈ブルーム・インヴァート〉》

  《全身苗床化〈フルブロッサムボディ〉》

  《自動搾取〈オート・ミルキング〉》

  《群体甘噛み〈マルチプルバイツ〉》

  《胎内擬態強化〈ワンブ・シミュレーション〉》

  《乳首過敏覚醒〈ネクタートリガー〉》

  《人格排泄誘因<インナー・ダイアリア〉>》

  《排尿時快楽付与Lv5[戦術スキル]》

  《排便時快楽付与Lv4[戦術スキル]》

  《条件指定排泄管理[戦術スキル]》

  《強制排卵周期〈フォースト・オヴュレーション〉》

  《粘液硬化拘束〈スティッキー・ペトリファクション〉》

  《快感石化〈アグリー・ペトリファイ〉》

  《意識持続石化〈コギト・エルゴ・スム〉》

  《繁殖本能付与〈ブリーディング・インプリント〉》

  《苗床適性最大化〈ウーム・サージ〉》

  《悦楽共鳴〈フラクタル・フラクタル〉》

  《形態変化A》《形態変化B》《形態変化C》《形態変化D》

  《官能汚染〈センシュアル・コンタミネーション〉》

  《常時射精回路〈パーマネント・エクスプロージョン〉》

  《射精制限1》《射精制限2》《射精制限3》

  《蠢動精巣〈スクイーミー・ナッツ〉》

  《生体機殻寄生操縦〈アバター・コンクエスト〉》

  ──佐伯 真琴/Sランク・触手──

  (──……)

  (………………)

  (ほぎゃあああああああああああああああああああああああああああ!?!?!?!?!?!?!?)

  脳内が、爆発した。

  意味がわからなかった。

  理解できたくなかった。

  こんなの、こんなの、

  (フザケンナよおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!)

  粘液まみれの体を震わせながら、あたしは、心の中で絶叫していた。

  (誰だよおおお!!! 誰だよこんなふざけたスキル考えたの!!!)

  (《睾丸100倍〈メガ・ナッツ・ブースト〉》……ナッツってなによナッツって!!)

  (それになんで射精制限が3段階あるのよ!? 《射精制限3》って……なんか格が違うの!?)

  叫んでも叫んでも、どうにもならなかった。

  だって、これは──紛れもなく、今のあたしの、『力』だった。

  (……どうすればいいのよ……)

  パニックだった。頭の中がぐちゃぐちゃで、何が起きたのか、ほとんど理解できていなかった。

  でも──

  動かなきゃ、殺される。

  瑞希先輩は体勢を立て直し、もう、しっかりと立っていた。制服の袖が少しだけ乱れていて、表情は……明らかに怒っていた。

  剣を構えて、こちらを睨みつけてくる。次の一撃をためらうつもりなんて、微塵もなさそうだった。

  (……やるしか、ない……)

  あたしは、手当たり次第に──いや、せめて、マシそうなやつを選んで──

  (これ、さっきの触手モンスターが……たぶん最初に使ってたやつ……だよね?)

  (あれだけで、先輩……あんな反応してた気が……)

  (……でも他はもっとヤバそう……!!)

  (でも、でも、さすがに! ちょっとだけ、加減して……!)

  《感度3000倍粘液〈Universe〉》──発動。

  あたしは、先輩の──肩に、ぬるりと粘液を這わせた。ほんの、ほんの、かすかに、触れただけ。

  ──その瞬間。

  「──っ、ぅあ、っ……? ぁ、ぁあっ……♡!?」

  瑞希先輩が、びくん、と跳ねた。

  顔を真っ赤に染め、かすれた喘ぎを漏らしながら、肩をぎゅっと抱きしめるように縮こまる。

  (え!? えっ!? 肩よ!? ただの肩よ!?)

  慌てた。さらに、追い打ちのように──あたしの吐いた息が、ふわっと、瑞希先輩の肘にかかる。

  「ふ、ふぁ……っ、な、なに……っ♡ 、ん、くぅ……っ、ふぁぁあ……!」

  瑞希先輩の体が、ふわりと浮きかけるように震えた。

  (……え、うそ。うそでしょ──)

  (……先輩、肩でイった……!?)

  思考が、ぐにゃぐにゃになった。

  (だめだこれ!!!)

  止まらなかった。

  ぴく、ぴく、と。瑞希先輩の細い体が、痙攣するみたいに震える。

  (だ、だめだ、助けなきゃ……!)

  あたしは慌てて、触腕を伸ばし──

  《無限抱擁〈インフィニットハグ〉》──自動発動。

  「ひ、ぁっ……!?」

  ずるずると、ぬめる触腕が瑞希先輩の肌にまとわりつく。

  太ももに、背中に、指先に、髪に。ありとあらゆる場所に、ぬるぬると絡みつく。

  (ちょ、ちょっと、なにこれぇえええええ!!!)

  逃れようとするたび、ぬちゅ、ぬちゅ、といやらしい音が響いた。

  瑞希先輩の顔は真っ赤に染まり──でもそれは、恥ずかしさなんかじゃなかった。

  「やっ……やめ、やめ……っ! やだ、やだっ……やめろぉ……っ!!」

  その瞳は、はっきりと恐怖で揺れていた。

  普段なら、何があっても表情を崩さないあの先輩が──今は、ぐちゃぐちゃだった。

  見開かれた目。涙とよだれが混じり、口元が震えている。

  「……っ、ちが……あ……っ、こんな……、こんな、で……っ!!」

  呪詛のように吐き出す憎悪にすら、もう芯がなかった。

  抵抗の意思より、怯えと混乱がにじんでいた。脚を閉じようとして、でも体が勝手に跳ねて──

  「や……っ、やぁ……っ♡ ひっ……ぅ、ううぅっ……♡ こ、こわ……い……っ、やだぁ……♡」

  恐怖に潤んだ目のまま、先輩の体が、甘く跳ねた。

  舌足らずで、ぐずぐずに崩れた声が、唇から零れる。

  「ん、ぅ、っ、ぁああっ……♡」

  震える指先、反り返る脚、震えるように閉じた膝。

  そのまま、力を失ったように、触腕の中へ沈み込んでいく。

  快楽に沈んだのか。それとも、恐怖に震え、屈辱に崩れ落ちたのか。

  もう、本人にもわからなかったのかもしれない。

  (……なんなのよ……)

  あたしは、呆然としながら、ぐずぐずになった先輩をそっと抱きしめた。

  そのとき──どこか近くで、声が聞こえた。

  「……ふぁ~……あれ? ぼく、なんか変なことになってない……?」

  それは──『あたし』の声だった。

  気がつくと、目の前に、見慣れた制服姿の女の子がうずくまっていた。

  そして──震える声が、唇から漏れた。

  「えっ、ぼく、にんげんになってるっ!?」

  「やだぁ~~~っ、こんな体、やだぁ~~っ!!」

  情けない叫びを上げながら、自分の細い腕をばたばたと振り回す。

  「こんな体じゃ、肉腫ちゃんと結婚できないよぉ~~~~……!」

  しくしくと泣きまねまで始める。

  ふと、一瞬だけ、胸の奥に妙な感情が浮かんだ。

  (……そっか)

  (……この子にとっては、これが、本当の自分の体だったんだ)

  たとえ、どんなに気持ち悪くても、どんなに異形でも──大切な、自分自身だったんだ。

  「ううっ、ぼくの触手ちゃんたち……ぼくのぬめぬめちゃんたち……」

  そして、ふと口を尖らせた。

  「ていうかぁ、入れ替え弾がぼくに跳ね返ってくるとか、聞いてないんだけどぉ~……」

  ぷんすかと怒ったようなポーズ。

  (……おまえ……)

  あたしは、じわりと、底冷えする怒りを覚えた。

  (──おまえのせいか!!!)

  ぴたり、と。自分──だったもの──の動きが止まった。

  あたしの体から、にじり寄るような殺気が漏れているのに、気づいたらしい。

  「……え? え、え、なに、なんでそんな怖い顔してるの……?」

  一歩、二歩、後ずさる。

  「ぼ、ぼくは悪いにんげんじゃないよ! ぼ、ぼくは、善良なにんげんだよ……っ!」

  ぺこぺこと必死に頭を下げながら、ずるずると後ずさるその姿。

  ──無駄だ。

  あたしは、ぬるりと触腕を伸ばした。

  ぐるり、と。細い手首を、するりと絡め取る。

  「ひっ──!」

  悲鳴をあげる間もなく、もう一条、さらにもう一条の触腕が、ぬめりながら巻き付いた。

  二の腕、太もも、腰、次々と、ねっとり、肌に吸い付くように絡みつく。

  「や、やだっ、やめ──っ♡」

  ぐちゅっ。

  腰を掴まれた瞬間、思わず甘い声が漏れた。

  「っ、ち、ちが──そんなつもりじゃ──♡」

  首を振る。でも、無駄だった。

  あたしは、このどうしようもなくかわいい、泣きそうな顔の「自分」を──容赦なく、ねっとり、責め始めた。

  細い太ももをなぞる。

  「ふ、ぁっ♡ や、だ……!」

  腰骨を辿るように触腕を這わせる。

  「ん、ぅ、っ……あぁぁ♡」

  背中から、肩へ、ぬるぬると愛撫しながら、ねっとり、じわじわ、感覚を責め立てる。

  (──全部、おまえのせいだ)

  あたしは、怒りと興奮にまかせて、触腕をさらに絡めた。

  (許さないからな……♡)

  *  *  *

  ぐちゅっ。ぐちゅっ。

  いやらしい音を立てながら、あたしは、一本の触腕をゆっくりと伸ばした。

  その表面には、びっしりと、びっしりと──数え切れないほどの細かいヒダが、まるで花びらのように重なり合っていた。

  ……まあ、逃げられても困るし。変なスキルでも使われたら、厄介だしね。

  だから──ちょっとだけ、お仕置き。

  そう思って、あたしは触腕の中でもとびきりヒダの多いやつを選び、ぬるりと這わせた。

  (……まあ、一応。自分の体だし。後遺症が残るほどには、しないけど)

  あくまで、『それなり』に。それなりに……やるつもりだったのに──

  「びっ♡ あ゙っ♡ お゙ぼお゙ぉ゙ぉ゙……♡♡」

  びくびく震えて崩れていく姿が、思った以上に──かわいくて、気持ちよさそうで、なぜか……なんか、すごく、楽しくなってしまった。

  (あれ……? もしかして、これ、けっこう──)

  ぞくり、と、脳髄が痺れた。

  あたしは、そのまま、もう一度ヒダを押しつけた。同じ場所に、同じ方向に、ゆっくりと──

  くすりと笑いながら、そのヒダ触腕をゆっくりと押し当てる。

  「ふ、ふあっ……!? やっ……やめっ、やだぁぁっ……!」

  声が震えた。

  びくん、と身体が跳ねる。

  でも、やめない。

  あたしは、無数のヒダをぴたりと固定して、

  同じ方向にだけ、何度も、何度も──

  「お゙っ♡ お゙ぉ゙お゙お゙お゙っ♡♡や゙っ、あ゙っ、あ゙あ゙ぁ゙っ……!!」

  上下には動かさない。

  往復もしない。

  一方向にだけ、ぬるぬると、ずっと、ずっと擦る。

  ヒダが、めくれて、押し潰れて、こすれ合って。

  その度に、粘液がびちゃびちゃと飛び散る。

  「お゙、ぉ゙……っ♡ や゙、や゙だ゙っ……♡ や゙め゙……あ゙っ、や゙め゙ぇ゙え゙ぇ゛え゙……!!」

  足をばたつかせながら、ぬめった体が、ねじれるように震え続ける。

  でも、あたしは表情ひとつ変えずに、同じ場所を、同じ方向に、ただひたすら──

  「も゙、や゙、や゙ぁ゙っ♡ く、くるっ、くるっ、も゙っ、も゙ゔゔぅ゙っ♡♡♡」

  びくびくと痙攣するたび、ヒダが擦れて、反応が跳ね返ってくる。

  (そろそろ、イきたくなってきた?)

  (でも、ダメ。そこ、イかせない用だし)

  にやりと笑って、さらに数ミリだけ力を加える。

  反応は、一段と大きく跳ね上がった。

  「びっぐ゙♡ ひぐぅ゙っ♡♡♡お゙ほお゙ぉ゙ぉ゙っ♡♡とま……とま……っ♡♡!!」

  だらしなく粘液を垂れ流しながら、

  その「中身」は、ずるずると快感に沈んでいった。

  (──そろそろ、いいかな)

  ずるいくらい素直な反応と、

  わけのわからない喘ぎ声に、

  なんだか、もう、十分って気がしてきた。

  (……うん、イかせてあげよ)

  そのまま、押し当てていたヒダを、

  ぐ、と、ほんの少しだけ、角度を変えた。

  ──ぶちゅっ♡

  音が、弾けた。

  そしてその瞬間──

  「お゙゙あ゙゙あ゙あ゙゙゙゙あ゙゙あ゙゙゙゙ッ♡♡♡♡」

  全身が、跳ねた。

  背筋がぐんと反り返って、指先までぴんと伸びる。

  脚が勝手に開き、腰が跳ねる。濁ったよだれが、粘液と一緒に口元から溢れ出た。

  「お"ぁ゙っ!!お゙ぁ"ッ!?ぴゅっぴゅっとまらなッお"ッお゙ぉ゙"♡♡♡♡お゙"゙ぁ"ッ♡きかないッお"゙ほッ♡ おお"ぁ"ッ!?!?!?おぉ゙"ぁ"ッ♡♡♡♡♡♡♡♡♡!!」

  もう、言葉じゃない。

  ただの音。

  ただの快感の、ノイズ。

  痙攣が止まらない。

  ずるずる、びくびく、ぴくぴく。

  何度も、何度も、小刻みに跳ねて──

  「お゙ぉ゙ぉ゙……っ♡♡……ぁ゙……ん゙……♡」

  その声も、だんだん、か細くなっていって──

  「……っ…………」

  ──最後には、音も、動きも、止まった。

  粘液まみれの体が、ぐったりと力を失い、触腕の中に沈み込む。

  (……よし)

  一応、ちゃんと痙攣の具合も確認する。

  反応なし。呼吸はある。瞳孔は開いてない。

  ──後遺症、多分なし。

  (まあ、そこはちゃんと気をつけたしね)

  あたしは、息ひとつついて、ぐったりと蕩けた「自分の身体」をそっと抱きかかえた。

  (逃げないように、ってだけだったんだけどなあ……)

  ……でも。

  落ち着いたところで、ようやく気がつく。

  (──ていうか、さ)

  瑞希先輩も、自分も、失神してる。

  命の危機は──とりあえず、もうない。

  自分の身体も、ちゃんとここにある。逃げ出す心配も、たぶんもう、ない。

  (……じゃあ、終わった?)

  と思ったけど──

  (いやいやいや、なにひとつ解決してなくない……!?)

  あたしの意識は、まだこの体にある。

  この、ぬるぬるで、びちょびちょで、どこからどう見てもモンスターな、触手の体に。

  (結局、あたし……触手なんだよね……!?)

  思い出した瞬間、全身から、ありったけのやるせなさが噴き出した。

  (いや無理無理無理!! 触手として生きていくとか絶対無理だから!!!)

  にゅるん、と自分の腕(?)を持ち上げてみる。

  赤黒い粘液まみれの触手。人間だった頃の面影なんて、どこにもない。

  (……え、これでこれから学校行くの……?)

  (これで……普通に暮らすの……? え、え、無理無理無理無理無理!!!)

  ぐるぐるとパニックになりかけたところで、ふと、思い至った。

  (……あれ?)

  (そういえば……この体って、こいつのスキルでこうなったんだよね?)

  (……じゃあ、逆に──)

  すがるような気持ちで、体の内側に意識を向ける。触手モンスターのスキル一覧が、ぬめっと浮かび上がった。

  ズラリと並ぶスキル群。

  《快感石化〈アグリー・ペトリファイ〉》

  《性別逆転感染〈リバース・ジェンダー・ウイルス〉》

  《全身苗床化〈フル・ブロッサム・ボディ〉》

  ・・・

  (お、おお……うん、なんか、うん、どれもやばそうな響きだね!?)

  必死に目を滑らせる。

  ……けれど、どのスキルを見ても、「元に戻る」ことに直接つながりそうなものはなかった。どれも、粘液だの、感度だの、排泄だの、もう……ふざけた変態スキルばっかりで──

  (……これじゃ、どうにもなんない……!)

  そう思った、そのとき──

  視線の先に、ひとつだけ、妙に『違う雰囲気』のスキル名が目に留まった。

  《生体機殻寄生操縦〈アバター・コンクエスト〉》

  一拍、遅れてスキルの説明が展開される。

  [説明 : 核<コア>に縮退し、対象の体内へ侵入。生体に寄生し、神経接続を介して内部から操縦する。形態変化Dの使用を推奨]

  (…………)

  [スキル進化前:入れ替え弾<戦術スキル>]

  [説明 : 被弾した対象2名の精神を強制入れ替え、感覚混乱を引き起こし戦局を優位に導く戦術スキル]

  (………………)

  (進化しちゃったのおおおおおおおおおおおおおおおおお!?!?!?!?!?)

  あたしは、粘液まみれの触手ボディをぐちょぐちょと震わせながら、心の底から絶叫していた。

  ……でも、やるしか、ない。

  逃げないように『躾けた』この体に、今度はあたしが入って、全部取り返すんだ。

  《形態変化D》──起動。

  ぬめる体が縮んでいく。ねじれ、引き攣れ、ぐにゅりと蠢いて、核へと──。

  《生体機殻寄生操縦〈アバター・コンクエスト〉》──発動。

  

  侵入、開始。

  *****

  ──目が、覚めた。

  けれど、体は、動かなかった。

  ぬるぬると湿った空気に包まれたまま、私──雪村 瑞希は、仰向けに、床に倒れていた。

  (……生きてる……?)

  かすかに、そんな考えが浮かんだ。呼吸はある。心臓も、動いている。

  (──よかった……!)

  胸の奥から、じわじわと安堵が滲み出す。生きている──それだけで、救われた気がした。

  けれど。

  すぐに別の感情が、重くのしかかってきた。

  記憶の断片が、じわじわと蘇ってくる。

  ぬるつく床の感触。

  乱れた呼吸。

  火照りきった体。

  記憶が──嫌でも、甦る。

  ぬるぬると、粘つく触手に絡め取られ、泣きながら、あんな──

  (……やだ……思い出したくない……!)

  ぎゅっと目を閉じる。

  けれど、脳裏には、自分がいかされる寸前の、情けない声や、崩れた顔ばかりが浮かんでしまう。

  (……最低……)

  (……私、触手なんかに……)

  呻くように、心の中で呟く。

  苗床にされていないことだけが、せめてもの救いだった。

  けれど──

  (……今、何がどうなってるの?)

  ここに留まるのは、危険だ。本能が、警鐘を鳴らしていた。

  (とにかく、逃げなきゃ……!)

  必死に力を込めようとする。でも、体は、あまりにも重かった。

  必死で瞬きして、視界を、無理やり持ち上げる。

  そのとき──

  違和感が、走った。

  視界の隅で、何かが、動いた。

  ぬるり。

  ぬちゅり。

  湿った音を立てながら、赤黒い、脈動する──肉塊。

  心臓にも似た、どくん、どくんと蠢くそれは、ただの粘液の塊ではなかった。

  明らかに、そこに、意志があった。

  (……っ──)

  見た瞬間、全身を、ぞわりと悪寒が走った。

  さっきまでの、屈辱が──自分の体を蹂躙された、あの記憶が──ぶわっと、脳裏にフラッシュバックする。

  思わず、奥歯が、がちがちと鳴った。

  「──ま……っ」

  声が、出た。

  出てしまった。

  (声が……震えてる……!?)

  (落ち着いて、雪村瑞希……! こんなもので──)

  いつもなら、もっと冷静に、鋭く状況を分析できるはずなのに。

  体がこわばって、頭が回らない。

  「──く、くる、な……っ……!!」

  口が、勝手に動いていた。

  意識していないのに、喉がひくひくと引きつって、情けない、弱々しい声が漏れていく。

  「やっ……やめて……こっちに……来ないで……っ」

  涙が、こぼれた。

  止めようとしても、止まらなかった。

  胸が、ひゅっ、とつまる。

  呼吸が、うまくできない。

  その肉塊は、ぬるぬると這いながら、こちらに迫ってくる。

  でも──ほんの数歩手前で、ふいに方向を変えた。

  (……え……?)

  そのまま、肉塊は──床に倒れた制服の少女に向かって、じり……じり……と、這い寄っていった。

  肉塊は、ずるり、ずるりと── 這い進んでいた。

  狙う先は、私ではなかった。

  佐伯 真琴。

  後輩の、ぐったりと倒れた彼女の、壊れかけた身体だった。

  ──ずるり。肉塊が、真琴の体に、這い寄った。

  ぬちゅ、ぐちゅり、いやらしい音を立てながら、赤黒い塊が、彼女の脚に、腕に、髪に、じわじわと絡みついていく。

  「……や、やだ、ぼく……っ」

  かすれた声で、真琴が、わずかに首を振った。

  涙で濡れた頬が、ぐしゃぐしゃに歪んでいる。目は潤みきって、焦点が合っていない。

  粘液に濡れたまつ毛の下で、彼女の唇が、小さく震えていた。

  でも──

  肉塊は、容赦しなかった。

  どろり、と這い上がったそれが、彼女の顎を、ぐい、と無理やりこじ開ける。

  涙と唾液が混じった、ぐずぐずの声が漏れる。情けなくしゃくりあげながら、かすれた悲鳴を上げる。

  (……やめて……やめてあげて……!)

  ──やめてあげて、だって?

  私が、助けるべきなのに。ここで黙って見てるだけなんて、こんなのおかしい。

  私は、Aランクハンターなんだから。

  誰かを守るために、ここにいるはずなのに──

  なのに。

  動けなかった。

  喉が、脚が、指先が、凍ったみたいに冷たい。

  近づくだけで、自分が壊れてしまいそうで──

  ……そして、壊れた。

  気づいたときには、もう、感情という感情が、ぜんぶ、どこかへ消えていた。

  残っていたのは、ただ、恐怖だけ。

  あたたかさも、怒りも、悔しさも、全部、感じ方を忘れてしまったみたいに、うすく、遠くなっていた。

  ぐちゅ、ぬちゅ──

  肉が、真琴の口腔に、押し込まれていった。

  「や……ふ、ふぁ……ぅっ……」

  唇の端から、ねばついた粘液が、ぬるりと溢れ出す。白濁した泡が混じったよだれが、あふれた。

  彼女の喉が、ひくっ、と跳ねた。吐き出そうとしているのか、声にならない喘ぎが、ぶくぶくと泡に変わる。

  ぬちゅ、ぬちゅ、ぬる──舌の上で、触手がいやらしく、ゆっくりと蠢く音。

  私は、呼吸すら忘れていた。

  汗が、背中を伝う。心臓が、痛いほど跳ねた。

  「ぅ、ふ……ぁ……ぅぅっ……」

  真琴の口から、だらだらと垂れ落ちる粘液。

  涙と、よだれと、濃厚なぬめりが混じり合って、顎を伝い、床に、ぴちゃ、ぴちゃと落ちていく。

  そのすべてが──

  私の神経を、ひたすらに蝕んでいった。

  真琴の喉が、ぐぷ、ぐぷ、と苦しそうに震えた。

  頬が、苦痛に歪み、目元には、また新しい涙がにじんだ。

  ──そして。

  バキッ、バキバキバキバキッ。

  骨の、肉の、

  体の奥から軋む音が、

  生々しく、

  耳を犯した。

  腕が、ぐにゃりと曲がる。脚が、ありえない方向へ捻じれる。背中が、ぼきりと折れ曲がり、 肩が、ぐらぐらと回転した。

  (……やめて……やめて、やめてやめてやめてっ──!!)

  私は、動かない手で、頭を抱えた。

  ぐしゃぐしゃに濡れた顔を、力なく押さえた。

  汗で、粘液で、涙で、息で、顔のどこがどこだかわからないほど、ぐちゃぐちゃだった。

  でも──

  視界の隅から、真琴の壊れていく体が、

  骨が、肉が、

  音を立ててねじ曲がっていくその姿が、

  何度も、何度も、焼き付いて離れなかった。

  喉が、ひゅっ、ひゅう、と痙攣する。唇が、震えすぎて閉じられない。

  目からは涙が、鼻からは息が、口からはよだれがこぼれ出ていた。

  太ももが、ぬるりと温かくなった。

  じわり、と染み出す感覚に、何が起きたのか──わかってしまった。

  (……漏らした……? わたし、いま……)

  絶望が、意味を失った。

  もう、羞恥すら湧いてこなかった。

  ただ、心が軋んだ。

  骨の軋みと、どこかで重なって、頭の奥が痛かった。

  「ひ、うう、っ……や、やだ……あっ、あぅっ、あああああああああっ!!」

  今まで自分の口から出たことがない、か細くて、情けなくて、どこまでも壊れた、絶叫だった。

  涙とよだれで濡れきった顔を覆い、

  嗚咽に喉をつまらせながら、

  私は──

  そのまま、意識を、手放した。

  *****

  * * *

  目の前で、モンスターが光の粒になって弾け飛んだ。

  瑞希先輩がぴたりと足を止め、振り返る。

  「……うん、やっぱり、強いよね、真琴ちゃん」

  ふんわり笑ってそう言ったけど、その声にちょっとだけ悔しさが滲んでた。

  先輩を含めた5人パーティ。訓練ではなく、実戦。実際に裂け目内で発生した、小規模なモンスターラッシュの鎮圧任務だった。

  ──スカウトされてから、もう三ヶ月。

  あの地獄みたいな裂け目から生還した「新人覚醒者がいる」って話が、いつの間にか覚醒者協会の耳に入ってて、気がついたら制服のままスカウト面談を受けさせられていた。

  そして今はこうして、瑞希先輩や、他の歴戦のハンターたちと肩を並べて戦場に立っている。

  ……いや、正確には、「肩を並べて」じゃないかもしれないけど。

  (──たぶん、わたし、今この中でいちばん強い)

  敵がこっちに振りかぶった瞬間、反射的にスキルを展開して──

  次の瞬間には、相手は泡を吹いて倒れてる。

  いや、ほんと、なにが起きてるのか、自分でも説明できないことのほうが多い。

  「……ねえ、それ、なにしたの? なんで爆発したの? ていうか触ってすらなくない?」

  パーティを組んでいた別の女の子が、眉をひそめてあたしを見る。

  ……うん、言えるわけがないね。

  ──感度3000倍、排尿快楽付与、人格排泄誘因、快感石化。名前を口にした瞬間、ただの変態になってしまうスキルたち。

  使ったスキル? えっと……うん、「何かしら」だよ。察してくれ。

  それでも、周囲はあたしを「強い」と見てくれる。

  Sランク相当の新人。期待の超大型ルーキー。

  ──スキルさえ見なければね。

  瑞希先輩は、そんな中でも変わらず接してくれる。前よりちょっとだけ表情が柔らかくなった気すらする。

  でも、たまに──ほんとにたまに、モンスターの中に「ぬめっ」とした形のやつがいると、微妙に反応が止まることがある。

  記憶はないって言ってたけど……体のほうは、うっすら覚えてるのかもしれない。

  そのときだった。

  「あっ」

  先輩が、足元のぬかるみに足を取られかけて、軽く体勢を崩した。

  咄嗟に触腕──じゃなかった、腕を伸ばして支える。

  「──ありがと。真琴ちゃん、やっぱり頼りになるね」

  そう言って、笑いかけてくれるその表情が、どうしようもなく眩しかった。

  まるで、何もかもなかったみたいに。あの裂け目で、あんなふうに涙とよだれを垂れ流して──

  「汚い」と言って、剣を向けてきたあの先輩と、同じ人だなんて、いまでも信じられないくらいに。

  (……うん。今は、ちゃんと『人間』できてる)

  そう思ったときだった。ふと、鼻をかすめたぬめる匂いに、あのときのことを思い出した。

  ──三ヶ月前。

  《アバター・コンクエスト》で無理やり自分の体を乗っ取り返したあたしは、先輩を抱きかかえるようにして、裂け目からの脱出ルートを探していた。

  目のハイライトは抜け落ちて、涙とよだれをたらしながら呻く先輩の身体は、ぐったりと重かった。

  だけど、それ以上に重かったのは──

  その先で、平然と使いこなせてしまったあたしの新しい力だった。

  たとえば、道中に現れた蟲型の集団モンスター。

  どう見ても硬質で無神経そうな殻をまとっていたけど、特定の条件下で《悦楽共鳴》を発動させてやると、群れ全体が一斉に震えながら──泡を吹いて絶命した。

  一匹だけ生き残っていた個体に対しては、スキルを使うまでもなく、自動発動で何かが走ったらしい。

  断末魔の直後、かすかに排泄音のようなものが聞こえた気がしたけど、たぶん気のせい。いや、そう思いたい。

  ──うん、詳細は語らないけど。

  いくつかのスキルを『応用』した結果、敵は物理的に爆散せずとも、精神的に崩壊して、静かに崩れ落ちるってことが、あるんだよね。

  すっごく便利だよ。……倫理を考えなければ。

  あのときのあたしは、何もかもが手探りで。けれど手にした力は、すでに──とっくに完成していた。

  瑞希先輩は、目も開かず、ぬめった服のまま、あたしの肩に体を預けていた。

  「ごめんね」と何度も呟いたけど、届いていたかどうかは、わからない。

  でも、それでよかった。わたしが連れて帰る、って、あのとき心に決めたから。

  ──そして、現実に戻った。

  それだけで終わればよかったんだけど、当然のようにスカウトされて、「新人」だの「大型ルーキー」だのって騒がれた。

  スキル名を見せなければ、どうとでもなる。幸い、今のところは。

  (……たぶん、『触れずに敵を倒す』って印象で落ち着いてるはず)

  そう思いながら、ふっと地面に目を落とすと、溶けたモンスターの残骸が、まだうっすらと温かかった。

  さっき爆散したやつのなれの果て。

  ──ねえ、これ、触ってもないんだよ?

  スキルの発動も、指先ひとつ向けるだけ。敵の感覚が閾値を超えて──はい、終了。

  (……どれが発動したかは、わたしにもよくわかってないけど)

  そのくらい、自然に体が動くようになってしまった。

  身体というか、「皮」というか。

  人間だった頃と比べると、全然違う。内側から操ってるような、肉でできたスーツでも着ているような、そんな感覚。

  でもまあ、慣れた。うまくやってる。

  ……そういえば。

  あのとき、乗っ取り返したあたしの身体の中には、まだ、「触手くん」がいた。

  物理的には完全に制御下にあるし、あたしの意識が主導権を握っているけれど──あの子はまだ、「生きている」。あたしの身体の中で、という意味で。

  最初に気づいたのは、チョコパフェを食べてたときだった。口に入れた瞬間、「んまっ♡」って声が、頭……というか、『本体』の中に響いた。

  ……いや、あたしそんな声出してないし。ていうか言い方が妙にアホっぽかったし。

  あれが、最初だった。

  それ以来、ときどきあたしのふりをしたがるので、こっちが疲れてるときなんかに、ほんの少しだけ、制御権を貸してあげている。

  もちろん、変なことしようとしたら──『お仕置き』だけど。今ではわりと従順で、チョコ系スイーツがご褒美。

  ……うん、基本的に悪いやつじゃなさそう。すっごいアホだけど。

  *

  「真琴ちゃん、こっち、あと三体だよー」

  先輩の声が、背後から飛んできた。

  おっとりした声。あたしを名前で呼ぶ声。

  ──それだけで、背中が少しだけあったかくなった。

  「了解ー。そっち、援護いきまーす」

  なるべく、自然に返す。

  人間のふりは、もうすっかり板についてきた。

  けど、たまに──ほんの一瞬だけ。

  自分がまとっているこの皮が、ぺろりと剥がれてしまうような感覚が、首筋を走るときがある。

  それが、怖い。少しだけ。

  ……いや、今はいい。

  瑞希先輩が、こっちを見て笑ってくれているうちは──

  たとえそれが、あたしの正体を知らないからだとしても。

  それでも、この世界では、まだ『人間』でいられる。

  ──少なくとも。

  今のところはね。