「ユフィーナ・エストレイド様、確認いたします」
地下広間に降りてすぐ、黒衣の係員に呼び止められた。
仮面をつけた顔は感情の一切を見せず、声も中性的で――まるで人形のようだった。
「異性への入れ替わり:〇。
性的な絡み:×。
性器そのものを使用した性交渉:×。
自分とのマッチング:〇。
交換用素体の使用:〇。
自身の身体の拘束:〇。
チャレンジ枠:× ――確認、よろしいですね?」
「……はい」
小さな返事に、係員はわずかに首を傾けてから、静かに通路を指し示した。
胸の奥が、わずかに疼く。
(ちゃんと×にした。間違えてない)
――わたしは、ユフィーナ・エストレイド。
子爵家の娘として育てられ、姿勢、言葉、仕草まで"上品さ"を求められてきた。
鏡に映る自分の姿は、いつだって"理想の貴族令嬢"だったと思う。
柔らかな金髪。色素の薄い睫毛の奥にある、淡い青の瞳。
肌の色も、骨格のバランスも――人から「美しい」と言われることに、もう慣れてしまったくらいには。
(でも、それが"中身"の価値を保証するわけじゃない)
わたしはわたしのまま、ここに立っている。
それでも、胸の奥がざわつくのは――きっと、自分の外見が、"他人の期待"を乗せてしまうから。
深く、静かな地下広間。
魔石灯のやわらかな光に照らされた空間には、すでに数十人の招待者が集まっていた。
誰もが仮面をつけていて、けれど、誰も隠れてはいなかった。
むしろ、誰もが――これから始まる"なにか"を、当たり前のように待っているようだった。
(……本当に、始まるんだ)
わたしは、胸の奥でそっと呼吸を整える。
エストレイド子爵家の娘、ユフィーナ。
旧い家。社交界では"形だけの貴族"なんて言われることもあるけれど、
それでも、こうした会に選ばれる程度の家格は残っている――少しだけ誇らしくて、でも、怖かった。
この会が、どういう場所かは、噂で知っていた。
"異種族の皮膚感覚を体験する" "異性の体で暮らしてみる"――
たしかに、貴族の教養としても意味のあることだ。
でも、参加者の全員がそういう目的とは限らない。
噂では、五感のずれを利用した快楽目的や、意識だけを入れ替えて"乱交めいた体験"に耽る参加者もいると聞いた。
仮面の下の笑みや視線――そのなかに、何を期待しているか、読み取るのは難しい。
(……わたしは、ちがう)
知覚の交差。それ自体に意味があると思ったから。
貴族として。教養の一環として。
そう、わたしは、"学び"のためにここに来た。
……少なくとも、建前としては。
会場はざわめいている。けれど、妙に静かだった。
息遣いすら揃っていて、まるで全員が、儀式の開幕を待っているかのように。
そのときだった。鐘が鳴ったわけでもない。けれど――空気が、確かに変わった。
わたしの隣にいた誰かが、小さく息を呑むのが見えた。
その瞬間、壇上に設けられた魔導投影の幕が光を帯び、二人の司会者が歩み出る。
壇上には、司会者が二人。
一人は有翼人の女――背中の羽はたたまれていて、眼鏡の奥の視線はどこか冷たく、それでいて演劇役者のような滑らかな表情をしていた。
もう一人はスーツ姿のオーク。大柄で筋肉質、けれど身なりは端正で、柔らかく口角を上げている。
(なんていうか……並んで立ってるだけで、すごい絵面……)
場違い感に、喉が少し乾いた。
「皆さま、本日はようこそ。異種知覚交流会、第七十三回、まもなく開会いたします」
有翼人――ミルヴィアと名乗った彼女がそう言ったとき、
わたしの心臓は、小さく跳ねた。
「本会では、事前に提出されたチェックリストに基づき、各種体験がマッチングされます。
異性の感覚、異種族の皮膚知覚、さらには社会的立場そのものの交差体験まで――」
会場がざわめき、わたしの喉が乾いた。
わたしが出したチェックリストは――
【異性との入れ替わり:〇】
【性的な絡み:×】
【性交渉:×】
【自分とのマッチングを許可:〇】
【交換用素体の使用:〇】
【自身の身体の拘束:〇】
【チャレンジ枠:×】
この会のチェックリストの"肯定"には、「◎」と「〇」、ふたつの選択肢がある。
「◎」は、積極的な肯定。
自分からその体験を望むという意味で、多くの参加者が「異性との入れ替わり」には◎をつけるらしい。
わたしは、そこまでの覚悟はなかった。でも、〇をつけた。
【もしも人数の調整が必要になったら、私が対象になる可能性はある】――それを了承するという、受け身の肯定。
迷ったけれど。でも、避けてばかりでも、何も始まらない。それが、わたしの出した答えだった。
交換用素体についても、同じように悩んだ。
この会では、エキストラのように用意された"素体"と呼ばれる存在と入れ替わる体験もある。
素体とはいっても、生身の生物。基本的には奴隷身分の者たち。
でも、無理やりではなく、事前にオーディションのような選抜があるらしい。
美しさ、感度、管理のしやすさ。条件をクリアした者だけが"提供側"となり、その代わりに報酬が支払われる。
……それでも、正直に言えば、あまりいい気持ちはしなかった。
けれど、「貴賤なく体験を分かち合う」という、この会の理念に共感したのも事実だった。
【誰かに自分の身体を預ける】ことになる以上、安全性の確保も求められる。
だからこそ、「自身の身体の拘束」はひとつの選択肢として存在する。
これは、"誰が中に入るか分からない"状況において、自身の尊厳を守るための最低限の防御策だった。
そして――チャレンジ枠。
ここだけは、絶対に、×をつけた。
……冗談じゃない。◎なんて論外、〇だってありえない。
この枠だけは、本当に"何が来るか分からない"。
ハズれたら終わり――そう言われているほどの枠。
(×にした。ちゃんと、はっきりと、拒否した)
だから、大丈夫なはずだった。
そう唱えるように、自分に言い聞かせる。
チャレンジ枠の特異性は、刺激の強さだけじゃない。
あまりに強烈すぎるその体験は、時に"人を壊す"ことがあるという。
だから、選ばれた者には、事前に"記憶保存"の処理が施される。
チャレンジ前の記憶が高純度の魔力晶へと封じられ、別個に保存される。
使用されるのは、王都でも数えるほどしか存在しない超高級素材。
そして体験が終わったあと――
選ばれた者は、自らに問われる。
「体験前の自分を残すか、それとも――いまの自分を選ぶか」
たとえ"破滅の果てにある快楽"を味わったとしても。
あるいは、"戻れないほどの恐怖"に浸ったとしても。
その記憶を、持って帰るかどうかは、本人の意思に委ねられる。
……ただし、それが"正しく選べる理性"を残していられれば、の話だけど。
ふと、壇上のオークの声が、耳に戻ってきた。
どうやら、彼はずっと演説を続けていたらしい。
有翼人の司会者――ミルヴィアが一歩引いて黙っているあいだ、
会の理念やら、過去の交流例やら、事細かに語っていたようだった。
けれど今――その声に、ほんの少しだけ笑みが混じった。
ゆるく弧を描く口元。
会場に散った"待ってました"という空気を、まるで吸い取るように。
「――さて。お待ちかねの方もいらっしゃるでしょう。今回も、チャレンジ枠をご用意しております」
(あっ……出た)
わたしは無意識に身をすくめる。
この会の異常性を象徴する、"特別体験枠"。その名を聞くだけで、ざわつきが強まる。
「今回のチャレンジ体験種は――ヌメリアンでございます」
淡い魔導投影が、うねりをもって光を描いた。
(ぬ、ヌメ……?)
耳慣れない名に、眉がひそむ。
【ヌメリアン:湿潤環境に棲息する大型の軟体系魔物】
- 外見はナメクジに類似
- 体表は高感度の粘膜に覆われており、性感知覚が極端に鋭敏
- 繁殖期には交尾行動が活発化し、接触フェロモンの分泌が顕著になる
わたしの背中が、ぞくりと震えた。
文字を表示していた魔導投影が、ぬるぬると粘液質の光を帯びながら、
中央の空間に"それ"を描き出した――と思ったのは、最初の一瞬。
実際には、"それ"はもうそこにいた。
壇上の結界が、無音のまま静かに解かれる。
ヌメリアン。二体。
灰とも黄ともつかない、湿った肉塊。柔らかく、濡れていて、滑り――それでいて、確かに"生きて"いる。
頭部からは複数の肉感的な触角が伸び、体表の粘膜が照明に反射して、微かに煌めいていた。
微かに、蠢いている。ゆっくり、ねっとり、何かを探すように。
その姿に、会場がざわめいた。
「……では、ご紹介いたしましょう」
オークの司会者が、舞台の中央に歩み出て、声を響かせる。
「今回のチャレンジ枠、ヌメリアンでございます」
「こちら、すでに繁殖期に入っており、接触フェロモンが強く反応しております」
言葉の端に、わずかに愉悦の色が滲む。
「抽選に当たった方には、こちらのどちらかに入っていただきます」
会場が、もう一度どっと笑いに包まれる。
仮面の奥で、誰かが息を呑む音が聞こえた。
わたしの隣の席で、別の誰かが、軽く肩を震わせて笑っている。
(……え?)
肌が冷える。
まるで、自分の全身が、粘膜に覆われたかのような錯覚。
でも――それは、錯覚じゃなかった。
(……あれに、なる?)
参加者が。
わたしが。
抽選で選ばれたら――
("あれ"に、なる……!?)
口のなかが急激に乾いていく。
「"ヌメリアンの交尾を見ると運気が上がる"なんて俗説もあるんですよ」
オークの軽口が、追い打ちのように聞こえた。
会場が、またざわめく。
わたしの背中を、冷たい汗がつう、と伝った。
身体じゅうを、あのぬめった肉で包まれて。
粘膜の中に感覚を押し込まれて。脚も、手も、顔も失って――
そんな自分を、想像するだけで、ふくらはぎの裏がぞわぞわと泡立ったように痺れてきた。
(×にした。わたしは×を選んだ。絶対に)
自分に言い聞かせるように、何度も心の中で唱えた。
「チャレンジ対象者の方には、後ほど個別にご案内いたします。体験中は安全のため、"身体の拘束"が自動的に適用されます」
有翼人の司会者は、そこで口元だけで笑って――
「ちなみに、前回のチャレンジ枠……皆さま、覚えていらっしゃるでしょうか?」
会場がざわめく。
オークの司会者がにこやかに応じる。
「"レッサー・サキュバス vs インムモルグ"――伝説級の組み合わせでしたねぇ」
その言葉に、あちこちでくすくすとした笑いが起こる。
(……レッサー・サキュバス……)
淫魔。中位以上になれば、人間の雄など簡単に快楽で屈服させられる存在。
レッサーといえど、"負ける"はずがない――そう思っていた。
「今回はどちらが先に果てるかというサイドギャンブルも兼ねての実施でしたが……ご存じの通り、敗れたのは淫魔のほう」
わたしの呼吸が、ふと止まる。
「インムモルグ――成虫状態が芋虫という変わった魔物です。見た目は最悪ですが、雄は凄まじく性欲が強い。
全身をびっしり覆う繊毛が触れた相手を絶え間なく愛撫し、刺激の波が絶え間なく重なる……」
「そのときの体験者、アーネストくんは、サキュバスの身体でこう言ったんですよ」 有翼人の司会者が、微かに瞳を細める。
「"もうやめて……これ以上されたら、壊れちゃう"ってね」
軽く笑う声が、観客席に溶けていく。
なのに、わたしの背中には、冷たい汗がつうっと伝っていた。
(冗談でしょ……淫魔のほうが、負けたって……?)
人間じゃない。淫魔だ。それが"果てて、負けを認めた"という体験。
しかもそれを、会場の誰もが笑い話として語っている。
(……なにそれ、そんな……そんなの、普通におかしいよ)
けれど、誰も異議を唱えない。
この場では、それが"栄誉ある敗北"として語られるのだ。
たとえそれが、人格や尊厳ごと、快楽に飲まれて砕けた体験だったとしても。
少し、吐き気がした。
それでも、視線は壇上から離せなかった。
(ここは……本当に、変な場所だ……)
* * *
前回の"伝説"が語られる中、ふいに、背後から気配が近づいてきた。
誰かの視線が、ぴたりとわたしの首筋に吸いつくように絡みつく。
振り返ると、黒衣の係員が一礼していた。
顔には仮面。無機質で、男か女かもわからない。
「ユフィーナ・エストレイド様。拘束希望者のご案内です。こちらへ」
「あ、はい……」
緊張からくる反射的な返事だった。
わたしは、ほとんど無意識のまま立ち上がり、その人形めいた係員について歩き出す。
数歩後ろを歩きながら、ちらりと壇上を振り返った。
オークの司会者が、"前回のインモムルグの動き"を身振りで再現している――肩をくねらせながら、にやにやと。
(……あれのどこが、"紳士"なんだろう)
首筋が冷えた。
でももう、歩みを止めることはできなかった。
案内された先にあったのは、広間の奥に隠されるように設けられた"体験室"だった。
内部は、信じられないほど静かだった。
壁も床も、柔らかな緋色の布で覆われ、中央にぽつんと"それ"が設置されている。
拘束ベッド。
両腕、両脚、腰、首、胸――それぞれに魔導具による留め具が付いていた。
(……ここに、寝るんだ……)
そういえば、以前聞いたことがある。
わざと自分の身体に"オモチャ"を取り付けた状態で拘束されて、
「わたしになった誰か」がそれを味わうのを楽しみにしていた、という公爵令嬢の話。
本人は、「他人の身体に快楽を仕込むなんて、少しだけ悪趣味でしょう?」と笑っていたらしい。
(……そんな、信じられない……でも……)
少しだけ、その"倒錯の構図"が頭に焼きついてしまった。
思っていた以上に、無防備な気がした。
衣服は着たままでも構わないとのことだったが、それでも"誰かがこれから自分になる"という感覚は、ただならぬ羞恥心を呼び起こした。
係員が淡々と告げる。
「指定された拘束が完了後、自動的にマッチングが行われます。
意識の転送中、呼吸や循環は制御されておりますので、ご安心ください」
(いや、そういう問題じゃない……!)
緊張で手が震えているのを悟られないように、そっと胸元を押さえる。
着ているドレス越しでも、心臓の鼓動が暴れていた。
仰向けになり、ベルトが身体に巻きついていく。
ひとつひとつ、順を追って――脚、腕、肩、腹部、胸元。
(だ、大丈夫……ちゃんと〇にしたし……)
(異性の身体、異種族の体験……ふつうに選ばれる範囲のはず……たとえば――)
わたしは、心の中で"なるかもしれない自分"を想像してみた。
(有翼人? リザードマン? それとも、なんでもない男の人……?
でも、下品じゃなければ……触れてみたいって思うこと、ないわけじゃ……)
頬が、ふっと熱くなる。
(ああもう、なに考えてるのわたし!)
そのときだった。
「――それでは、お待たせいたしました。チャレンジ枠、今期の対象者発表です」
(……!?)
頭の中の妄想が、ガシャーン、と音を立てて壊れた。
スピーカー越しに、有翼人の女の声が響く。
「体験種:ヌメリアン。対象者は――」
「―― 一人目、17番。アレッサ様」
有翼人の司会の声とともに、ディスプレイに番号と名が表示される。
【17 アレッサ】
背景は淡い金色。縁取りには、チャレンジ枠特有の装飾が加えられていた。
表示された瞬間、場内がざわつく。
「アレッサって……あの、聖環の三女……?」
「いやまさか……でも、リングあるし……天使系ならたぶん……」
ディスプレイに映る少女の姿は、青みがかった長髪に、淡い衣をまとった華奢な体つき。
頭上には、柔らかな光の輪。天使系種族――祝福持ち。
表情は、明らかに驚愕と動揺に支配されていた。
隣にいた友人が、思わず「うわぁ……当たっちゃったよ……」と顔をしかめ、
もう一人の友人は、何も言えずに唇を噛んでいた。
アレッサが係員に促され、赤面しながら立ち上がると、観客席がどっと湧いた。
「おーい、祝福もちチャレンジ! 当たったぞー!」
「やば、あの子マジだったんだ……」
本人の顔は、みるみるうちに真っ赤に染まっていった。
係員に名を呼ばれ、立ち上がるその動きはぎこちなく、混乱と羞恥、そしてほんの少しの興奮がないまぜになった、妙な表情を浮かべていた。
(……ああ、やっぱり)
わたしは胸を撫で下ろした。
自分じゃなかった。
それだけで、身体の力が一気に抜けていく。
「――そして二人目。34番。ユフィーナ様」
まるで時が止まったような静寂。
ディスプレイに浮かび上がるのは――
【34 ユフィーナ】
わたしの、名前。金髪に整った顔立ち。
画面の中央には、仮面を外した、まぎれもない"わたし"が映っていた。
息が止まる。
(え……え? 今、なんて……?)
「あれ、あの子……エストレイドの……」
「うそ、チャレンジ? 本気……?」
観客の反応が、わたしの背中を焼いた。
すぐそばで、誰かが小さく笑ったのが聞こえた気がした。
でも、もう誰も何も言わなかった。
わたしの名前が、画面に表示されている。
係員は無言のまま、壇上に向かって小さくうなずく。
(ちがう、ちがうちがうっ、こんなはずじゃ――!)
脚が震える。
わたしはその場から動けなくなっていた。
(違う……チャレンジ枠は絶対に"×"にした……そんなはず、ない……っ)
理性が叫び、心が否定する。
でも、現実は淡々と告げられていく。
≪対象者:34番、ユフィーナ様≫
≪チャレンジ枠"ヌメリアン"体験、入れ替え処理を開始します≫
「や、やめ……っ!」
声は出なかった。
拘束された身体は、びくとも動かない。
視界がぼやけ、光が流れ込み、
呼吸が止まる直前――最後に聞こえたのは、有翼人の優雅な声だった。
「どうぞ、良き冒険を――」
* * *
呼吸が止まる直前――
視界がぼやけ、光が流れ込み、自分という枠組みが、ゆるゆると外れていく。
音が遠のく。
皮膚の感覚が、膜一枚ずつはがれていくように消えていく。
骨が溶けて、肉がほどけて、身体という"器"が、崩れ落ちていくようだった。
残されたのは、意識だけ。名前も、声も、顔も持たない、"なにか"。
その"なにか"が、
――どろり、と落ちる。
あたたかく、湿った、気持ちの悪いものの中へ。
……そこから、再び感覚が戻ってきた。
まず最初に気づいたのは、呼吸だった。
いや、"吸う"ではない。"空気を流し込まれている"ような……どこか自動的な、奇妙な感覚。
息を吸った記憶もないのに、体内にぬるっとした冷気が入ってきて、それがどこかへ抜けていく。
(……なに、これ……肺、じゃない……?)
次に、皮膚。
全身が濡れていた。それも、ただ濡れているのではない。
ぬるぬる、ぬめぬめ。粘液が、皮膚と同化しているような、奇妙な感触。
(わたし、濡れてる……? 全身……?)
指を動かそうとして――愕然とした。
指が、ない。手の形も、ない。
代わりに、肉のようなものが地面に接して、ずる、と滑った。
内臓が押し潰されるような圧迫感が走り、お腹の奥が、いやらしくうねった。
(うそ……っ、なにこれ……っ)
身体が、違う。
そんな当たり前の事実に、
ようやく心が、ぞわぞわと悲鳴を上げ始める。
けれど――すでに遅かった。
その"肉体"は、わたしを受け入れていた。
わたしが拒絶する前に、ぬめりの奥の知覚が、わたしを歓迎してしまっていた。
(だめ……こんな身体で、交尾なんて……っ)
全身がぬめりに包まれて、少し動くだけで中がくちゅりと鳴る。
この異形の体が、"交尾するための形"をしているという事実だけでも、吐きそうなほど嫌だった。
(でも、時間が来れば……ちゃんと、戻れる……はず……)
震える意識の中で、かろうじて言葉をつなぐ。
(耐えるの。わたしは……名家の令嬢。こんなところで……)
(耐え抜いて、笑って戻って、皆に言ってやるの。"チャレンジ枠なんて、たいしたことなかった"って……
わたしが、"伝説"になるんだ……っ)
……そのときだった。
ズル……ッ
背後から、音がした。
ぬるり、ぬちゅり――と。
肉が粘液に包まれて地を這う、ぬめついた音。
視界に入ったのは、もうひとつのヌメリアン。
相方。アレッサ――の、なれの果て。
その姿を見た瞬間、全身が凍った。見る影もなかった。
あの澄んだ瞳も、気品ある輪も、いまやどこにもない。
ただただ、ねばついた肉の塊が、身をよじりながら悶えていた。
苦しんでいる、というより――感じている。
巻き付くように身をくねらせ、時折びくんと痙攣するたびに、肉の奥から粘液がとろりと滲み出ていた。
内側が、ひくついている。触れられてもいないのに、奥が反応していた。
(うそ……そんな、わたし……わたしは、絶対に……っ)
でも、アレッサの動きは止まらなかった。
相方――アレッサのなれの果て――が、粘膜を震わせながらわたしに滲み出す。
視線が交わることもない。
言葉もない。
けれど、感じていた。
粘液の向こうにある、意図。
彼女の"身体"が発する、交尾への欲求。
(これが……雌雄同体って……っ)
頭のどこかで、有翼人の司会の声が反響する。
『ヌメリアンは交尾の際、双方が挿入し、射精し、受精します。
まさに"交わり合いながら、同時に与え、与えられる存在"なのです』
……"与える器官"と"受け入れる器官"が、どちらもわたしの身体の奥にある。
その両方が―― いま、ゆっくりと発情を始めていた。
息が浅くなる。
恐怖なのか、期待なのか、自分でもわからない。
けれど身体は――さっきよりずっと、敏感に震えていた。
そのときだった。
空気が――変わった。
粘液の奥から、濃密な匂いが立ち上ってくる。
甘く、湿っていて、どこか腐った果実のような、嗅いだ瞬間に喉の奥を痺れさせるような刺激。
舌の奥にまで染み込んでくる、"匂い"。
(なにこれ……くさ……っ、いや……でも……?)
違う。これは"匂い"じゃない。情報だ。
粘液に乗って空間に漂う、微細な成分――
それを、皮膚と粘膜そのものが"舐め取り"、
直接、脳へ伝えてくる。
鼻も舌もない。けれど、はっきりと味がわかる。
むしろ、"匂い"と"味"の区別がなかった。
全身がひとつの感覚器になったような――
動物じゃない。
生物としての、異質な知覚。
喉の奥に、とろりとした何かが流れ込んできたような錯覚。
粘液のような重さと温度を伴って、口の中――いや、体内全体に広がっていく。
そして、それが――おいしかった。最初の一瞬だけは。甘くて、濃くて、舌が痺れるような快楽。
やみつきになりそうな、とろける甘さ。
……でもすぐに、吐き気すら覚えるほどの"えぐみ"が、舌全体にのしかかってきた。
(……っ、なにこれ、きもち、わる……のに……♡)
喉が熱くて、
息をするたびに、痺れるような快感が全身を引きずっていく。
フェロモン。
自分の身体から、そして目の前の"彼女"の肉体から、
粘液に混じって、濃密な匂いと味が噴き出していた。
わたしたちは、お互いを"吸い合って"いた。
鼻も舌もないこの身体で、粘膜そのものが、快感を摂取する器官になっている。
(たえれば……たえきれば、戻れる……っ)
まだ、そう思っていた。
発情しているのはわかっていた。
快楽が入り込んできているのもわかっていた。
でも、"耐えている"つもりだった。
……そのとき。
アレッサの粘膜が、わたしの身体に触れた。
ぴしっ、と雷が走る。
「――っ、あっ……♡♡」
肉が擦れたわけでもない。挿入でも、刺激でもない。
ただ、粘膜が、触れただけ。
けれどその瞬間、わたしの"中"が弾けた。
内側が勝手にひくついて、反射のように全身の粘膜が収縮する。
「あ……あぁ……♡ や、やだ……うそ、やだのに……っ♡」
抵抗しようとした。
後ずさろうとした。
でも、ぬるぬるの身体は滑りすぎて、
力の入れ方も、逃げ方もわからない。
わたしがもたついている間に―― アレッサが、覆いかぶさってきた。
柔らかくて、熱くて、でも異様に重たい粘膜が、わたしの背を、胴を、腹を、押し潰すように包み込む。
巻き付かれる。
組み伏せられる。
動けない。
粘液が混じり合い、
自分の"中"に、誰かの"粘膜"が入り込んでくる。
それだけで、身体が震える。内側が、わたしの意思とは関係なく、熱く、じゅわりと濡れていく。
「だめ……っ、やだ……! わたし、たえ……っ♡」
もう、"耐えている"とは言えなかった。
快楽が、わたしの中で勝っていく。
押し倒されて、感じてしまっている。
それが、わたしの"今の身体"には――自然な反応だった。
肉が、こすれていた。
巻き付く。
すり寄る。
粘膜が粘膜をなぞるたび、擦れる感触が、耳ではなく――全身に響いた。
いや、音じゃない。
感覚だ。
すり……すり……
にゅる、ぬちゅ――
肉と肉が貼り付き、
滑りながら、押し付けあっている。
そのたび、わたしの内側が――応えていた。
「ん、くっ……んん……っ」
鳴らしたくない声が、にじみ出る。
雌器官がひくついて、粘液がじゅくじゅくと湧いてくるのが分かる。
でも、それだけじゃない。
奥の奥、もっと異質な部分――わたしの中にある"もう一つ"の器官が、むず痒く疼き出していた。
(やだ……なんで、わたし、"そっち"まで……♡)
感じるべきじゃない場所が、熱くなっていた。
押し付けられているのに、感じてしまっている。
擦り合わされているだけなのに、わたしの身体は、"交尾"を欲していた。
「だめ……ちが……やっ、あ……ぁ……♡」
粘膜がこすれ、押し合い、どこが雌で、どこが雄か――
もう、わからなくなっていく。
わたしの肉体が、"どちらも"になっていく。
意識の奥、奥の方で、なにかが疼いている。
それが――
だんだん、"出したい"という衝動に変わっていった。
わたしの中の雄器官が、潜んでいたものを、少しずつ、立ち上がらせる。
熱い。
膨らんでいく。
まだ出ていない。
でも、出したくて仕方がなかった。
(や……っ、やめて、そんなの……知らないのに……♡)
わたしの中で、
新たな感覚が――確かに、目を覚ましていた。
肉が擦れ合うたびに、熱が、どんどんせり上がってきた。
腹の奥が、重い。
ぎゅっ、と締めつけられるような、
でもその裏で、何かが――膨らんでいた。
わたしの中にある、雄としての器官。
自分の意思で動かしたことなんて、一度もない。でも、今はもう――
「だ、め……あ、熱っ……なに、これ……っ♡」
脈打つように、疼く。
こすれるたび、内部から圧がかかる。
(や……やだ、止まらない……っ)
じわじわと、溜まっていく感覚。
自分の中で、"なにか"が育っていく。
出したい。
出したい。
わたしの理性が叫ぶより早く、
身体の奥で――命令が出ていた。
「あっ、あぁっ……や、だ、のに……♡♡♡」
出る――
出る――っ
ひくっ、ひくっと器官が震えて、
次の瞬間、
"それ"は、爆発するように放たれた。
「ぁ……っ、ぅ、ん、んぁ、んあっ……で、る……っ、ぅ、ああ"あ"あ"あ"ぁっっ♡♡♡」
粘液とは違う、もっと濃くて、粘ついていて、
自分の中から、自分ではないものが――
吐き出されていく。
「し、ぃ……っ♡ んぁ……っ、あ、し、出て……♡♡♡」
腹の奥が、がくがくと痙攣する。
器官が収縮して、
また、射精する。
どぷっ、どぷっ、どぷぅっ――
とめどなく、流れ出ていく。
気持ちよくて、苦しくて、でも、止められない。
「やっ♡ 出ちゃ、う♡ わたし……止ま……♡♡♡♡」
脳が焼かれる。
身体が、快楽で塗り潰されていく。
もう、"わたし"がわたしじゃない。
わたしは今――
射精している。
雄として。
モンスターとして。
快楽の中心にいるのは、
わたしの意志じゃない。
わたしの身体だった。
「と、ける……♡ わたし、とけ……あぁぁぁ……♡♡♡♡♡」
どぷっ、どぷっ、びゅるっ――
まだ、射精は続いていた。
でも、その中で――
また、巻き付かれていた。
柔らかくて、ぬめっていて、熱い粘膜が、
わたしの身体に、優しく、でも逃がさないように絡み付く。
「あ……ぁ……♡ う、そ……また……っ」
射精の余韻で、身体ががくがくと震えていた。
なのに――
アレッサは、そこからさらに、ねっとりと粘膜を滑らせてくる。
優しくなぞるように。
愛撫するように。でも、容赦はなかった。
わたしの雌器官に、触れてきた。
(あっ……あぁ……やだ、それ……!)
粘膜が、ぴたりと吸い付いてくる。
雌器官の周囲、ひくついた粘膜同士が擦れ合い、
濡れて、絡んで、奥へ奥へと――溶け合うように、重なっていく。
「や……あっ、や……やだっ、そこ……だめぇ……♡」
でも、もう止まらなかった。
雌器官が、勝手に、締め付けていた。
押し付けられているのに――
受け入れていた。
わたしの"内側"が、誰かを欲しがって、震えていた。
「あ、あっ……っ、ひくっ♡ とま……って……♡♡」
ぬちゅ、ぬちゅっ、ぬる……
肉と肉が擦れ合うたび、快感が"面"で広がる。
ひとつの点じゃない。
全身が、粘膜として感じていた。
でもその中心――
雌器官の奥が、限界まで膨れ上がっていた。
「とけ、ちゃ……♡ わたし、とけっ、あ♡ あああああぁぁぁぁ♡♡♡」
ぎゅうぅぅっ……!!
雌器官の奥、奥のいちばん深い場所で――
「し、しっ……しに、しにっ、しんじゃっ……ッ!!」
身体の芯が裏返るように痙攣して――
もう、だめ。
もう、もどれない。
わたしは。
わたしの身体は――
「しっ♡ しっ♡しぃっ♡♡♡♡♡」
一番深いところで、
ひとつに溶けて――
「とけ、ちゃ♡ わたし、とけっ、あ♡ ああああぁぁぁぁ♡♡♡」
最後の絶頂が――
快楽の奔流が、全身を突き抜けていく。
このナメクジの肉体は、今、たしかに、"生き物"として、交尾を終えようとしていた。
* * *
絶頂のあと。
全身の筋肉が弛緩して、意識は遠のいて。
でも――動いていた。
わたしの身体が。
相方のぬめりが。
交尾が、まだ続いていた。
「あ……ああ……まだ、まだ、してる……っ」
粘膜と粘膜が擦れて、どこかの奥が、またじわりと熱を持ちはじめて。
「ん、ふ、ふふっ……♡ すごい……まだ、しちゃってる……っ」
笑い声が漏れた。
でも、どこか泣きそうだった。
わからない。
もう、なにも。
脳がとろとろで、感覚しかない。
「しぬ……しにそう……でも……やめたく、ない……♡」
相方もまだ、巻き付いている。
わたしの内側に、やわらかく、ぬめぬめと、愛しげに。
これが、"あいじょう"なんだと。
今なら、少し、わかってしまう気がした。
交尾すること。
肉と肉を溶かすこと。
それが、愛するってこと。
そんな、気がして――
「――はーい、こちらクラブシステムです。交感セッション、終了まであと五十秒となります♪」
(……あ?)
わたしの頭に、冷たい針が刺さる。
(……うそ、終わり……? こんな……今、なのに……っ)
やめたくない。
やめちゃ、だめだ。
「まって……まだ……してるの……♡だから……♡」
ぬちゅ、ぐちゅ、と交わる音が、まだそこにあるのに。
「終わらせないで……ねぇ、ねぇ……♡」
頭の奥で、ようやく"戻る"という単語が浮かびかけたとき、
(……でも、でも、戻れるんだ……)
その感情に、急に膝が抜けそうになった。
(はは……わたし、今……なに言って……)
嫌だと思った。
でも、よかったとも思った。
涙が、流れそうになった。
「わたし、ばかみたい……♡」
周囲の空気が、少し変わった気がした。
粘膜の中にいながらでも、わかる。
熱が引いていく。音が遠ざかる。まるで、夢の終わりのような静寂。
そして。
わたしの足元に――淡い光が、ふっと灯った。
魔法陣。
転送式の構文式。
魂をもとの身体へと戻す、体験終了の標。
あの粘膜だらけの身体から。
あの"ナメクジ"から。
わたしはわたしに戻る。
そう思った――のに。
光は、ただ広がっただけだった。何も起きなかった。
身体に熱が満ちることも、転移の感覚もない。
魔法陣は、確かにわたしの足元に展開されているのに。
わたしは――何も変わっていなかった。
(……え? なにこれ……なんで……)
そのとき、周囲でいくつかの光が立ち上がった。
他の素体たちの足元にも、魔法陣が次々と起動していく。
ぱ、と視線の端でひとつ、またひとつ、光が弾けた。
その光の先――観客席のどこかで、誰かが微かに声をあげる。
そして、拍手。
「お帰りなさいませ」
誰かが、笑って言った。誰かが、"戻った"のだ。
観客席には変化が起きている。転送された魂が、本来の身体へと戻ってきている。
でも、わたしの身体は――何も起きていない。
魔法陣は足元で揺らめいている。けれど、わたしの"魂"は、どこにも運ばれない。
動悸が跳ねる。
思考がにわかにざわめく。
(まさか……わたし、"戻ってない"……?)
息が、うまく吸えない。
肉のどこかが震えている。
わたしの身体は、ナメクジのままだった。
足元の地面に戻った粘膜が、べちゃりと音を立てる。
わたしの身体は、まだ、ヌメリアンのままだった。
(え、ちょ、ちょっと……っ、やだ、やだ、やだ……っ)
システムボイスが流れた。
「チャレンジ枠、体験記録正常終了。対象個体、リストより削除済み。撤収モードに移行します」
("正常終了"?なにそれ、なにそれ、ちがっ……)
わたしの体は、粘液に包まれたまま震えていた。
触覚も、粘膜も、あのまま。
精液のにおいが残ってる。
熱もある。
(戻ってない、戻ってない、戻って――!!)
(誰か! ねぇ、だれかっ! わたし、まだ、戻ってな――!!)
でも、もう誰も見ていなかった。
司会の声がどこか遠くで聞こえる。
「はーい、それでは今回も無事にセッション終了となりました~。このあとは通常営業に戻りますので、観覧者の皆さまはホール前へお進みください♪」
(戻ってない、戻って……戻れてないのに……っ!)
声にならない声で、わたしは叫んでいた。
粘膜の身体がくねり、もがき、地面をずるずると引きずるように暴れる。
肢のない身体で、できる限りの抵抗を。
でも、その動きは、あまりに異様だったのだろう。
「あれ、チャレンジ枠のやつ……妙に暴れてないか?」
「処理班、少し様子を見て。精神残留かもしれない」
精神残留。
つまり、まだ中身が戻ってない可能性。
(そう、それ……わたし、まだ……っ!)
粘液を散らしながら、わたしは運営側の視線に向かって、精一杯の意志を込めて身体を動かす。
のしかかるように――「訴える」。
(お願い……気づいて……!)
モニター越しの気配がざわめいた。
「……これ、戻ってないんじゃないか?」
(――やっと……!)
確かに。
わたしの希望の声に、誰かが応じた。
その瞬間だった。
「あら、どうかなさったの?」
どこか、優雅な――でも他人のように聞こえる声が、ホールの中央で響いた。
振り返る。
そこには、わたしの身体。
ユフィーナ・エストレイドの姿が、ゆっくりと立ち上がって、微笑んでいた。
「ちょっと濃密だったけれど……ええ、大丈夫。とっても良い体験でしたわ」
わたしが、喋っていた。
(ちがう、ちがう、あれは――!)
手を伸ばすこともできない。
足もない。
ただ、地面を這って、震えて、
粘膜の塊のままで、
「おかえりなさいませ、ユフィーナ様」
拍手が起こる。
笑い声が聞こえる。
司会者も笑顔で言った。
「いやー、チャレンジ枠でここまで"無事"に帰ってくるとは、お見事でしたね!」
わたしの中で、何かがぷつりと音を立てて切れた。
(違う……ちがうの……っ)
でも、声は出ない。
肉が震えるだけ。
その様子を見た運営スタッフがひとり、つぶやいた。
「あー……処理班、このヌメリアン個体、ちょっと動き過ぎ。感応残りです。石化処理、早めに回しちゃって」
絶望に、温度はなかった。
声にならない泡のような音を吐きながら、
粘膜の身体で、わたしはのたうった。
偽ユフィーナ――あの、わたしの姿をした何者かが、
静かに、優雅に、こちらへと歩いてくる。
あの笑顔。
あの顔。
でも――もう、わたしではない。
金髪が揺れて、スカートの裾が舞い、軽やかな足音が、わたしの地獄に近づいてくる。
彼女は、すぐ目の前で立ち止まった。しゃがみ込むこともなく、見下ろすだけ。
そして、ゆっくりと、声を出した。
「申し訳ありませんけれど……ヌメリアンの言葉は、わたくし、理解できませんの」
心臓が、冷たく凍った気がした。
「あら……そんなに震えて。ふふ、まるで、"自分の意志"があるみたい」
嘲るような笑み。
でも、それは作り笑いではなかった。
本当に、心から楽しんでいる笑顔だった。
「……あとは、処理班にお任せいたしますわ」
彼女は優雅に一礼した。
わたしの姿で。
わたしの声で。
けれど、そのすべてが、わたしを見捨てていた。
「どうか、粘液の中でお幸せに……さようなら、ヌメリアン」
その言葉を最後に、わたしの身体は振り返ることなく、ホールを後にした。
わたしの中身を置き去りにして。
拍手が遠ざかる。
光が弱まる。
足音が消えて、わたしは――残された。
べちゃり。
地面に貼り付いた粘膜が、わずかに震える。
目も口もない。
喉も舌もない。
それでも、わたしは。
震えていた。
恐怖で。
パニックで。
怒りで。
自分が"存在してしまっている"という事実が、吐きそうだった。
……そのとき。
ずるり、と背後で粘液が擦れる音がした。
息を飲む。
肉体が、反応してしまう。
さっきまでの"相方"。
中身が可愛らしい人間だった、あのヌメリアン。
けれど今は――
中身も、外も、ただの"ヌメリアン"。
理性も、羞恥もない。
わたしを見つけたその肉塊は、嬉しそうに――
愛を、確かめるように
身をくねらせ、すり寄ってきた。
ぬるり、と。
愛撫でも、拒絶でもない。
ただ"当たり前の交尾"として、その身体が、わたしに巻き付いてくる。
(……やだ……こないで……)
でも、止められなかった。
冷たい粘膜が、わたしのぬめりと絡み合い、
また、始まる。
(っ、や……っ、ちがっ、わたし、そんな……っ!)
快感が、戻ってくる。
あんなに傷ついて、壊されて、終わったはずなのに。
肉が、覚えている。
こすれる。
巻き付く。
中に入り込まれる。
(やだ……っ、でも……きもち、いい……っ♡)
身体が締め付けてしまう。
自分の意志とは無関係に。
(やめて……たすけて……でも……♡やめられない……っ♡)
熱が戻ってくる。
快楽と恐怖が入り混じって、
意識が裂けそうだった。
そのとき――
「あ、処理スイッチ、こっちか。じゃ、押すよー?」
「まじで、交尾しながら石化って初めて見たわ……記録回す?」
「いやー、逆に芸術よこれ。"生殖の美"って感じ?」
「はーい、石化処理、実行しまーす」
カチッ と。
小さな電子音が響いた。
* * *
今となっては、名をユフィーナ・エストレイドという。
けれど中身は、ただの素体上がりの男さ。
かつては小貴族の家に生まれたが、20代で家が潰れた。
社会的信用なんて何の役にも立たない。
気づけば、俺はこの"社交場"の底辺で、身体を売るだけの素体になっていた。
……幸運だったのは、顔立ちだけは良かったこと。
最初はただの肉人形として扱われていたが、黙って観察を続けているうちに、
この転送システムの"脆さ"が目に付くようになった。
高度な魔術構成、複雑すぎるプロトコル。誰も中身を理解していない。
ただ「元の身体に戻ったように見える」ってだけで、誰も疑わない。
だったら――入れ替えたまま"成りすます"ことだって、できるはずだ。
そう確信して、ずっと準備をしてきた。
プロトコルの解析、転送コードの割り込み、魔導システムへのインジェクション……
そんなとき、偶然にも情報が入ったんだよ。
エストレイド家の令嬢が、"チャレンジ枠には×をつけた状態"で体験会に参加すると。
エストレイド家。
あの家には、潰れたうちの家系がどれだけ侮辱され、踏みにじられたか、よく覚えている。
もっとも、あのお嬢ちゃん本人に恨みはない。
ただ、ちょうどよく現れた。それだけのことだ。
計画のためには、まず俺がヌメリアンと入れ替わる必要があった。
コードにミスがあれば魂が霧散する。チャレンジ枠の選定に失敗すればただのナメクジとして焼かれる。
しかも、あの発情状態の身体で、何日も――誰にも触れられず、
ひとり、ずっと、粘液に沈んでいなきゃならなかった。
正直、怖かった。狂いそうになったことも、一度や二度じゃない。
だから、あの瞬間――
転送に成功し、あの金髪の女の中に俺の魂が入ったとき。思わずイったよ。
柔らかなドレスの中で、こっそり、軽く――
震えが止まらなかった。
……今、俺は完全に"彼女"だ。
記憶素体のシステムも、想定通りだった。
チャレンジ枠で使われる高純度魔力晶に封じられる"記憶のバックアップ"――
あれを、俺の中に引き込んだ。
ユフィーナの記憶は、すべてある。
育ち、交友関係、思考の癖、恋の好みまで、何から何まで。
あと数日もすれば、もともと俺が"彼女"だったような錯覚が定着するだろう。
肉体だけじゃない。
意識も、記憶も、人生も――完璧に奪った。
あとは、このまま"生きる"だけだ。
名家の令嬢として。繊細に笑い、優雅に手を振り、"わたし"としての人生を築いていく。
なによりも滑稽なのは――
元の彼女が、まだそこにいるってことだ。
ホールの端。石化されたヌメリアン。
だけど、もう誰も気にしない。
あれは、ただの廃棄素体。
わたしは、その粘膜の塊に、そっと視線を向けた。
その中に、魂が残っているとしても――
そんなもの、知る由もない。
ふふ、と喉の奥でだけ笑って、わたしはくるりと踵を返した。
「……これ、意識……残ってるのかな」
誰にも届かない独り言を残して、
わたし――ユフィーナ・エストレイドは、
ホールを優雅に去っていった。