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何も考えず、思いのままに。無意識のうちに。
昼休みに入って、ほとんどの生徒は教室から居なくなる。それに倣うかのように廊下に出た俺も、喧騒の中を孤独に歩いていけばやがて人の声も遠くなっていった。
人の気配のない、四階の一番端。そうそう来ない場所にわざわざ足を運んだ俺は、とうとう“それ”を実行するらしい。本当に、他人事のようだ。
鎖を乗り越えて、一段、一段と音を立てて階段を進んでいく。別に竦むことなく、淡々と昇る。無駄なことは何も考えない。この意識は、この行動に及ぶうえで絶対に忘れてはいけない。
五月二十五日。窓から望める、絵に描いたような快晴に、気が狂いそうだ。いっそのこと、大雨の方が良かった。
その日は運良く、屋上への扉の鍵が開いていた。この学校は、屋上の柵が低く基本立入は禁止されている。今日、俺には好都合だった。
自分が人と関わるのを避けるために、所謂、陰キャを演じるようにした。貯めた金で、ヘッドフォンも買った。結構デザインが良くて、気分が上がっていたのは事実だが、目的は人を避けるため、それが全てだ。
「好きな曲ってあったりするの?」
そう話しかけてきた人も偶にはいた。そういう人には、できるだけ明るく答えた。
別に虐められているわけじゃない。でも、この世界の全てが好きになれなくて。孤独を愛す一匹狼となっていた。実際、灰色の毛を纏う狼の俺にはピッタリな言葉だ。
ノブを回し、軋む音を立てながらドアを開けた。初めて見る屋上に、特に何も感じない。どうせもう来ることはないだろうし。景色……一言で言えば、真っ青。限りない青空。雲一つない。この日に、一人の人生が終わるんだ。周りの建物とか、改めて見てみても何も感じない。俺の今までの生き方が、全て現れてるんだと思う。
少しでも歩けば、確かに柵が低いところが見つかる。十三時十一分。七百五十六文字目にして早くも“それ”を実行しようとした。屋上に入って、まだ二分も経たない内に。
「[[rb:裁機 > たつき]]くん」
急に声をかけられた拍子に、後ろに倒れ込んだ。驚きが酷く強かった。いっそのこと、前に倒れてそのまま落ちたらよかったのに。仕方なく声の方向へと振り返る。反対側、座り込む一人の狼がいた。
「だ、大丈夫です?」
「あぁ、気にすんな……見られてたんだ」
「結構スムーズに飛び降りようとしてたから、さすがに驚きましたよ」
……知ってる。この声と、特徴的な敬語と、纏っている水色に近い爽やかな毛。学級委員でよく前に出ている狼だ。名前が思い出せないのは、俺が周りに興味がないからだろう。
「止めたり、しないのか?」
「僕なんかに、まだ生きてみようよ、なんて言う権利はありません。へへ、なんなら同士が現れて、嬉しいんですよ?」
「同士?」
「僕も、全部終わらせようって」
同業者がいたのには俺も驚いた。しかも、こんな真面目な学級委員くんが?虐められてるとかいう柄ではないし、信じられなかった。
「屋上の鍵」
「もちろん、盗んできました。常習犯です。よく来るんですよね」
ぎこちないような会話。でも、あっちはよく俺の意思を汲み取ってくれる。なんだか、彼のことが不思議で堪らなかった。彼との交流こそ無かったが、こんな時だからこそか本心で話し合えるのは楽しく感じた。
え、常習犯なのか……そんな何回もここに来てるのだろう、俺なんか初めてきたのにな。
「いつ、終わらせんの?」
「決めてません。毎日、諦めちゃうんです。どうせ明日もチャンスはあるわけだしって。ほんと、そういうとこですよね、今直ぐにでもやめたいのに」
「……そっか」
人の感覚を理解するのは難しい。飛び降りたら一瞬、という自分の感覚は彼には無いだろう。まぁ、わからなくもない。これで人に迷惑をかけたら、とか考える人もいるらしい。無責任だ、なんて訴えられても、何とも答えられない。
「もしよかったら、これ。あげる」
差し出したのは、例のヘッドフォン。どうせ終わるんだから、使ってもらえる人に譲ったほうが良い。――彼も消えてしまうのだろうけど。
彼は結構困惑している。俺は押し付けるようにそれを渡した。
「あ、ありがとうございます、こんな高いもの」
「気にすんな。俺がしたかっただけ」
ちょっとだけ、彼がほほ笑んだように見えた。漢字で書くと「微笑む」だから、この言葉は大したリアクションではないと示しているのだが。
少しの沈黙が走った後で、彼はこう言った。
「裁樹くんの、そんなにすぐに動けるのが羨ましいくらいですよ」
「そんなことないよ、全部自分の本能」
「でも、僕、裁樹くんの血に塗れた姿を見たら、また諦めちゃうと思います。というか、もう全部やめると思います」
「それって、やっぱ俺を止めたいの?」
「いや、そんなことは……僕の私情を巻き込むわけには行きませんし。まぁ、悲しいのは事実ですけどね、肯定も否定もできないって、さっき言った通りですよ」
そこで、一つ新たな感情が芽生えた。俺は、自分が消えることで、なんらかの感情を背負うことになる人がいる、という事実を知ってしまった。
今日知り合ったばかり、でも話しやすい人。
俺と同じ、何らかの事情を抱えて全てを終わらせようとした人。
優柔不断、という言葉が似合う、きっと人に流れやすい人。
人生最期の日。初めて人の気持ちが理解できた気がする。大袈裟なんかじゃなかった。なにやってるんだろ、早く消えたいだけだったのに……。
「なぁ、お前さ……」
――――――――――――――――――
先週から毎日のように来ている屋上。学級委員の務めを終えた僕は今日も、呆然と馴染みの景色を眺めるだけ。
楽しくも苦しくもない、そんな時間はただ虚しく過ぎるだけであった。それを、変わり映えしない日々と呼んだ。
僕は何をやったって、自分を変えることはできないのだ。
僕の目的は、自分の全てを終わらせること。僕が選んだのは、飛び降りに適した屋上。厳重に閉ざされた扉も、僕が盗んだ鍵でついに開けてしまった。
五月二十五日。その日付までを鮮明に覚えている。僕の誕生日だ。ま、誰にもお祝いなんてされなかったので、その理由はここにはいない。
その日の屋上、僕の前に一匹の狼が現れた。とは言っても僕とは違って、灰色の毛が特徴的。クラスメイトなので見たことがあったが、話したことはない、そういう微妙な距離感。
屋上で人と会うのは初めてで、高揚したのも確かだが、やはり焦燥が酷かった。
屋上の鍵を盗んだことを怒られるかもしれない、あの「計画」がバレて、止められるかもしれない。
え……?
[[rb:朱鷺田 > ときた]]裁樹くん。僕の想像の域を超えていた。彼は、迷うことなく、真っ先に屋上の端に向かった。そこは柵が低くて……今にも身を乗り出してしまいそうで……。
「裁樹くん」
思わず声を発したのは、約四分前の話。
◇
十三時十五分。チャイムは、屋上にも鳴り響く。二人揃って僅かに動じた。
「いいよ、無視して。このあと大掃除だろ?」
「……はい。僕ももう少しここに居たいです」
居たい、と言ってしまった限り、やっぱり僕は手放すのが怖いんだろう。そう気持ちが下がるばかりだった。
「なぁ、お前さ……」
彼が言い出した、何を言われるのか全く予想はできないが、なんだか彼の言葉は暖かい。
「俺をここで突き落とすか、俺とあと一年だけ生きるか」
「……え?」
“生きてみようよ”、そう言われるのがすごく怖かった。僕は孤独に消える予定だった。もう、何も考えたくなかった。でも、ここで彼と会ってしまって……。
混乱した脳内を、少しずつ整理しながら返答を重ねる。
「突き落とすなんてできないです。そしたら、僕が加害者になってしまいます……」
「気にすんな。ここに防犯カメラなんてないだろ?幾らでも繕える」
「やっぱ、僕にはできないです。それより、どうしてあんな問いを?」
「お前、いい奴だなって思って。だから、勿体無いと思った。俺と同じで、すげぇ苦しい日々を抜けてきた果てだとは思うし、俺が口出しできるもんじゃないけど」
「そんな、僕……」
――裁樹くんに迷惑をかけるわけにはいかないんです。学級委員としても。
そんな言葉は胸に仕舞った。隙なく、彼は続けた。
「なんだか俺さ、お前に必要とされてる気がして……。使い捨ての命なら、そう言うやつに捧げてもいのかなって。あーあ、いつの間に俺もあっち側になっちゃったのかよ」
生きてみたい、なんてそんなに素直にはなれない。もう戻りたくない。何もかも捨てたい。だから“これ”を選んだのに……
そして、僕は彼の肯定も否定もできないと言った。それなのに、この二択は“選べ”と訴えてくる。
「僕、学級委員が辛いんです」
いつの間に、僕は消えようとした理由を語り始めていた。一つ一つ、言葉が落ちていく感触がむず痒かった。
「うちの担任、必要以上に物を押し付けてきて。ちゃんと仕事を熟しても、また次の雑用を押し付けてきて。他の仕事でも忙しいの、わかってるくせに……。別に僕は雑用委員会じゃないのに……」
目に水が溜まる感覚。そっか、僕は誰かに聞いて欲しかったんだ。こんなくだらない動機を、嘲って、蔑んで、もっと馬鹿にすればいい。仕方なく生きてればいい。怖い、怖いよ、裁樹くん。
「そっか、本当にお疲れ様……」
「嫌です、裁樹くんの命を背負うのも、このまま生きていくのも、どうしたらいいんですか……」
裁樹くんが僕の前から消えたら、僕は立ち竦んでしまう。それもあるが、人の命に干渉するなんて、僕にはできない。
「もし生きるとしたら、俺、精一杯お前を支えるから。俺からこの二択のどちらかを強要したりはしない。俺と同じ、選ぶのは小湊くんだからさ」
――初めて名前を呼ばれた。なんでだろう、それが嬉しかった。小湊 和輝。僕の名前だ。
最期の選択。既に十三時半を回る、静かな屋上。
僕は――
――――――――――――――――――
「和輝、朗報だ」
「え、どうしたんですか?」
「あのクソ教師、不倫がバレて解雇だってよ」
「それってつまり、僕、やっと解放されるってことですか?」
「そういうこと。和輝、あの日からよく頑張ったな」
「はい、[[rb:裁 > たつ]]がそばにいてくれたお陰です。もう十月ですもんね。あの日がなかったら、僕、絶対こうやって笑えてなかったです」
「俺も同じ。あの屋上の青い空を思い出すな。なあ、そのヘッドフォンまだ使ってくれてるんだ、嬉しい」
「あ、はい。すごく気に入ってるんです。裁から貰った時は驚きましたけど」
「ほんと、懐かしい。なぁ、今日も一緒に帰ってくれないか?」
「もちろんです。もう一人じゃないですから、僕たち」
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