ライクのゆびわ - 4

  △4-1.

  ロマニーは、物置の奥を探っていた。

  埃の匂い。かびた木箱。積み上がった麻袋。その一角に、重たそうな樽がぽつんと置かれていた。手のひらよりひとまわり大きい、古い杉材の酒樽。樽の表面には「御供」の焼き印。

  (……これだ!)

  思わず息をのむ。中には、年祭のとき供えるはずの火酒。特別に蒸留され、封を切られぬまま長らく眠っていたもの。

  封を開けると、強そうなアルコールの匂いが鼻に付く。茶色の液体を少しだけ掬いとった。

  「……っ」

  舐めた瞬間、舌が焼けた。それほどの刺激。だが、痛くはない。熱い。熱いのに、どこか、心地いい。喉の奥から胸にかけて、ぽうっと湯気が立つような気がした。視界がわずかにゆらぎ、ふらつきかけた足をそっと踏みしめる。

  (……たった一滴で……)

  これなら、きっと酔える。ワインじゃ駄目だった。けれど、これは違う。体の芯がじわじわと緩んでいく。何かがほどけて、優しくなっていく。

  (……問題は、どうやって……)

  そう思ってから、自分が何を考えようとしていたのか、一瞬わからなくなる。目の前にあるのは、一滴で体が熱くなるほどの火酒。それを、ライクライクになった姉に、飲ませる。

  飲ませていいものだろうか。少しだけ、そんな不安もよぎった。

  でも、お姉ちゃんは、お酒が好きだった。お祭りの夜、顔を赤くして、笑ってた。無理して強がって、ちょっとだけふらふらして……可愛かった。綺麗だった。

  (なら、きっと大丈夫)

  これは、戻すための手段だ。助けるための、一歩。ロマニーはもう一度、樽の中身を見つめた。

  (……いける)

  頬がほんのり熱いのは、火酒のせいか、それとも。

  △4-2.

  小屋の中は、静かだった。

  石の床に、わずかな藁。隅に置かれた桶と、布。そして、その中心に、ライクライクがいた。

  「……お姉ちゃん」

  粘膜が、ぴくりと震える。たぶん、見えているし、聞こえている。ロマニーは、小声で話しはじめた。

  「本にね、載ってたの。……酔わせたら、意識が緩んで、飲み込む力がなくなるかもって」

  反応はない。けれど、完全な沈黙でもない。少しだけ──嬉しそうにすら、見えた。

  「……ワインじゃだめだった。でも、うちに火酒があって……。あれなら、きっと効くと思う」

  しばらく、ぐつ、ぐつと、よくわからない音が続いた。それが返事なのか、ただの蠕動なのか、わからない。でも、否定されていない。それだけで十分だった。

  だがそのとき、ライクライクの口の端が、わずかに開いた。ぬるり、と粘液が揺れる。

  ちゃぽ……ちゃぽ……。

  音がした。いや、姉が意図をもって音を鳴らした。口の中で何かを転がすように、粘液を体の中で弾くように。

  「……え?」

  見たことのない動きだった。おぞましくすらある。けれど、何かがわかった。

  (……お姉ちゃん、すぐにやりたいんだ)

  すぐにでも。やってほしい。その意志だけは、確かに感じ取れた。それもそうだ、この姿でもう一夜を越すなんて──。ロマニーはそっと問いかけるように言った。

  「いまから、すぐに……やろう?」

  その瞬間、ライクライクの全体がぐぐっと膨らみ、そして、うなずいた。口の先──頭部に相当しそうな部位で、はっきりと「縦に」動いた。強く、何度も。

  「……うん」

  ロマニーは、小さく笑ってから、すぐ真顔に戻った。

  「……ここじゃ、無理。外に行こ。見られたら……でも、仕方ない」

  小屋の中は狭すぎる。逃げ場もない。そう言って、ロマニーは扉に手をかけた。

  ライクライクがゆっくりと動く。何かを理解しているような、していないような──汚汁を撒き散らし、床を濡らす肉塊。けれど、確かに姉だったもの。

  ロマニーは、扉を開けた。牧場の夜は冷えていた。月は出ていない。代わりに、ロマニーは倉庫から松明を三本、持ち出していた。

  火は、ぱちぱちと音を立てながら、夜の空気に赤く揺れていた。その下で、ライクライクの粘膜は、湿った銀のように、照り返す。

  「じゃあ……ちょっとお酒、取ってくるね」

  そう言って、ロマニーは倉庫へと駆け出した。灯りを背に、薄暗い小道を抜ける。扉を開け、酒樽の前に立つ。

  肩で息をする。さっき確認したときよりも、ずっと大きく見える。車輪の付いた台座があるから、これに乗せて運べば──そう思っていた。

  でも、持ち上がらない。押しても滑らない。台座の縁にすら届かない。

  (……うそっ!)

  指先が震えた。焦りが喉に上がる。早く戻らなきゃ。時間がない。あの体で夜を越させるわけにはいかないのに。

  ほんの一瞬、「お姉ちゃんに手伝ってもらえば」と思った。その瞬間、頭の中がぐにゃりと歪んだ。

  (ちがう。ダメ、わたしがやる……)

  だが、問題は思ったよりも簡単に解決した。空の樽を見つけたのだ。これなら軽い。台座に乗る。

  ロマニーは柄杓を手に取り、片方の樽からもう片方へと、黙々と酒を移し始める。

  柄杓はそこそこの容量があり、これが二つあれば人間の一日分の水分として十分な量に思える。だから、すぐに移動は終わるかと思った。

  (……減らない)

  だが。一回、二回、五回、十回、二十回。まるで量が減っているようには見えない。

  呼吸が浅くなる。腕が熱い。胸の奥にじわじわと圧がかかる。顔の火照りが止まらない。たぶん、期待。たぶん、焦り。でもそれだけじゃない。腕が重くて、視界が霞む。

  三十回、五十回。頭の中がぐつぐつと煮えるような音を立てて、ただ作業に没頭する。

  (まだ……ある)

  百回近く繰り返して、ようやく半分ほどまできた。腕が痛い。指が痺れる。それでも、これで十分。そう決めた。

  布をかぶせて縛り、こぼれないように口を固める。手に体温がこもりすぎて、息をかけたくなる。

  台座を押す。ぐらりと、樽が揺れる。倉庫の外へ、夜へと向かう。車輪がごと、ごと、と音を立てて転がっていく。火の前で待つ姉と同じくらいの大きさの樽が、その上に乗っていた。

  △4-3.

  ロマニーは、重たい台座を押して牧場へ戻ってきた。

  松明の火が、三角に配置されて、ゆらゆらと夜の闇を裂いている。

  松明の中心には、腰の高さほどの木箱をひとつ据えた。納屋から引きずってきたそれは、ちょうどロマニーが上に立てば、姉を見下ろせる高さだった。

  その隣に、酒を満たした樽。移し替えを終えたそれは、台座に乗せられたまま、木箱と並ぶように鎮座していた。

  柄杓を使って、ちょうどよく酒が汲み取れる高さ。狙ったわけではないのに、まるで計算された配置のようで。

  すべてが、何かの──そう、儀式のように見えた。

  三点に灯された火。

  中央には祭壇と酒。

  そして──供物。

  闇の中でも、姉の体はぬらりと光っていた。粘液の膜が、ゆらり、と蠢く。なにかを待つように、そっと首を傾けていた。

  「……お姉ちゃん」

  声に応えるように、ライクライクがぬめりながら体を持ち上げた。人間のような反応ではなかった。ただ、そこに『関心』があることはわかった。

  木箱の上に立つ。足元で、ライクライクが粘液の音を立てながら、ずる、と身体を移動させた。巨大な口が、ぐちゅりと開く。まるで、餌の気配を感じ取った虫のように──ぬるりと、口摂食器官がこちらを向いた。

  それを見下ろしている自分に気づく。高い位置から、何かを与えるという構図に、ロマニーの胸がざわついた。

  (……へんな感じ……)

  怖いわけではない。ただ、胸の奥が、ぞわっと熱くなった。不思議な感情。なんなのか、わからない。けれど、逃げられない。

  ロマニーは、樽の布をはずし、柄杓で酒をすくった。一杯。なみなみと満たして、足元の姉に──注ぐ。

  ぴちゃ。

  火酒が流れ込む。

  粘膜の内側が、じゅる、と音を立ててうねった。

  全体がひときわ震え、ぶく、と小さな泡が立った。

  (飲んでる……)

  それが喜びの反応なのかどうか、判断できない。でも、拒んでいない。それだけは確かだった。

  もう一杯。

  柄杓を樽に差し入れ、すくい上げる。

  酒の重みで手首が揺れる。

  それを、また注ぐ。

  ぐちゃり、と口が動く。

  粘膜がゆっくりと開閉し、なにかを味わうように蠢く。

  そのすべてを、ロマニーは上から見下ろしていた。光のなかで、粘液が鈍く反射する。まるで──神に供物を捧げているようだった。

  (変な気持ち……でも、やめられない……)

  恐怖でもなく、義務でもなく、でもただの好奇心でもない。内側のどこかが、妙に、満たされていく。ライクライクの体が、ごくり、と音を立てた気がした。

  ロマニーは、柄杓をもう一度、酒樽へと差し込んだ。こぽ、という音とともに、熱を帯びた液体が揺れる。手の中の重みが、かすかに手首に響いた。

  木箱の上から見下ろす位置に、ライクライクがいた。ぬめる口腔が、先ほどと同じようにゆっくりと開いていく。その動きは奇妙なほど従順で、そして異様だった。

  「……いくね」

  ロマニーはそっと、さらに酒を注ぐ。酒が、ぬるりと口の中へ流れ込む。ぐちゅ、ぐちゅる──内部の粘膜が、ゆるやかに収縮し、それを受け入れていく。

  (……よかった。飲んでる)

  昨日とはまるで違う。今は拒絶もなければ、暴走の兆しもない。ただ淡々と、まるで義務を果たすように、ライクライクは酒を受け取っていた。

  もう一杯。

  もう一杯。

  注ぐたびに、ぐちゅ、ぬる……と、ゆっくりとした音が響く。そのたびに、粘液の表面がわずかに波打ち、喉奥へと酒が吸い込まれていく。

  (……うまくいってる)

  (このまま、最後まで──)

  だが、六杯目を注いだとき。ライクライクは、わずかに動きを止めた。

  (……?)

  酒は流れている。けれど、内部が動いていない。粘液の波が途切れていた。流れ込んだ酒は、どろりとそのまま、喉奥で滞留している。

  「……お姉ちゃん?」

  反応はない。ロマニーはもう一度、酒を掬い、口元へ。

  ──だが、今度は違った。酒を流し込んだとたん、ライクライクの体がぐにゃりと揺れた。吐き出すような仕草ではない。ただ、飲まなくなった。喉が動かず、代わりに、粘液だけが口の端から零れていく。

  ぽた、ぽた。

  粘液と混じった酒が、地面に落ちていく。

  「……大丈夫……?」

  その問いに、返事はない。

  だが、ライクライクの身体が──わずかに、震えた。

  (……震えてる?)

  風かとも思った。でも、違った。震源は、確かに彼女だった。

  ぐちゅ……

  再び蠕動が走る。けれど、それは今までのような動きではなかった。なにかを吐き出すような、あるいは、内部でなにか別の動きが始まっているような──そんな感触だった。

  (……お姉ちゃん?)

  ロマニーの背筋に、かすかな冷たいものが走った。だが、手は止まらない。酒を掬い、口に注ぐ。

  そのときライクライクの体が、ずる……と少し前にせり出した。その動きには、さっきまでの従順さがなかった。ロマニーの手元で、柄杓の酒が、かすかに揺れた。

  「ねえ、お姉ちゃん……?」

  祈るような声。だが、返事はなかった。代わりに、ライクライクの口腔が、ゆっくりと開いた──先ほどよりも、深く、大きく。まるで、いまこの瞬間から「捕食の器官」に切り替わったかのように。

  そして──

  ▲4-4.

  (……きた……!)

  胃がないはずなのに、「染み込む」という感覚がある。全身がじんわりと熱くなっていく。熱が、ぬるい粘膜の奥をゆっくりと浸していく。ただ流し込まれただけ──そのはずなのに、まるで血流が戻ったように思えた。

  (これなら……いけるかもしれない)

  確かに、効いてる。

  内側から力が抜けていく。「わたし」じゃなくなっていくような弛緩感。とろけて、あやふやになって、胴体みたいな感覚もあったのが、ただの"口"になっていく感覚。

  (でも……)

  わたしは、思い出す。

  ──そう、この姿になったのは、わたしの意思だった。

  昔から、変身してみたいという思いがあった。一度きりでいい、別の生き物になってみたい──そんな、甘い夢みたいな気持ち。だから、あの指輪を手に入れたとき、迷わずはめた。

  まさか、ライクライクなんてものになるとは思わなかったから……最初は驚いた。でも、それ以上に、楽しかった。なにもかもが新しくて、不思議で、ぐにゃぐにゃで、気持ち悪くて……でも、面白かった。身体を溶かすようにして、這い回って、何かを吸収するたび、奇妙な快感があった。

  でも、それは一時的だから許された。すぐに戻れると思っていたから。人間に戻れるという前提があったから、「異形になる」という体験を、遊びのように楽しめた。けれど、今は違う。このまま戻れなかったら、どうするの?

  排泄も、食事も、眠りも──全部、「たった一度の体験」としてなら受け入れられた。けれど、永遠にこの身体で、それを繰り返す? 小屋の中で、ひとり、誰にも理解されずに──粘液を垂らして、朽ちていく?

  絶対にいやだ。

  絶対に……こんなもの、「わたし」じゃない。

  見上げた先に、ロマニーがいた。台の上から、わたしのほうをじっと見ている。その手に、酒がある。──次の一口が、わたしを救ってくれるかもしれない。

  わたしは、祈るように口をすぼめた。ただ唇を寄せるのではない。身体の奥から、全身のかたちをひねるようにして、上向きに、必死に、飲む姿勢をつくる。みじめだった。けれど、それでも──飲みたかった。

  酒を飲むたびに、力が抜けていく。体の"内側"が、ふわっと弛緩する。「わたし」じゃなくなるみたいに。

  (このまま……ゆるくなっていけば……)

  そう、「効いている」ように思えた。――最初のうちは。

  (ああ……戻れる……!)

  そう思った。――いや、違う。

  (……戻るために、何をすればいいんだっけ?)

  思考がふわふわする。でも、ロジックはちゃんとつながっていた。

  (……効いてる……)

  ライクライクの体は、徐々に熱を帯びていた。いや、そう感じるだけかもしれない。全身がとろけるように弛緩していく。ロマニーの手が、次の酒を運ぶ。

  (もっと……もっと、ちょうだい)

  ぐびっ。

  (……、ちゃんと、飲めてる)

  いつの間にか、"飲み方"がわかっていた。口を開けば、自然と流れ込んでくる。そうして、さらに数口。全身がふわりと緩んでいく。思考がぼんやりする。

  わたしは「指輪をしたから」こうなった。じゃあ、「指輪を外せば」戻れるはず。でも、指輪は「外せない」。

  (……じゃあ、どうすればいい?)

  考える。ゆっくり、ゆっくり、考える。この体になってから、意識して手を動かすことができない。だから、自分では外せない。――なら、誰かに外してもらうしかない。

  (ロマニー……ロマニーなら……)

  口の中にある指輪。それを取るには、ロマニーが手を突っ込むしかない。

  (大丈夫……ロマニーなら……きっと……)

  思考が、とろけていく。

  (だから、わたしは……今……)

  (……もっと、おとなしくなって……)

  (……ロマニーの邪魔をしないように……)

  そう思った瞬間、体の芯がじわりと溶ける感覚があった。

  ぬるい泥の中に沈んでいくみたいに、ゆっくり、ゆっくり、わたしの形がぼやけていく。

  「……戻れる」

  そう思った。思ったはずだった。……どうして? 「戻れる」って、なに? なんで、わたしはそんなことを考えた?ああ、そうだ。お酒を飲んで、ロマニーが指輪を外してくれる。だから――

  「だから、言わなきゃ」

  ……なにを?

  「だから、言わなきゃ。」

  なにを? なにを言うの? わたし、なにを話してた? ……あれ? いま、話してた? わたし、何か言った?

  言葉を発した記憶がある。でも、その内容を思い出せない。 なにを言った? なにを話した? ……そもそも、「話す」って、どうやるんだっけ?

  喉がない。

  舌がない。

  唇がない。

  でも、口はある。

  じゃあ、わたしはどうやって話す?

  ……ロマニー?

  あれ? ロマニー、さっきまでそこにいた? ……たぶん、いた気がする。

  いや、いた? いたけど、いたのは今?

  昨日? それとも、もっと前?

  ロマニーがいた「今」って、どの今?

  今の「今」?

  さっきの「今」?

  今、わたし、何してる?

  ……ああ、酒を──

  「あれ?」

  飲んだ?

  飲んでない?

  まだ飲んでる?

  わたし、いま、酒を飲んでる?

  いや、飲んでない?

  ……でも、飲んでる気がする。

  喉を通る感覚がある。

  けど、口を動かした記憶がない。

  なのに、喉を通る感覚はある。

  「効いてる」

  「だから、戻れる」

  そう思ったことを、思い出した。

  思い出したけど、「いつ」思った?

  いま?

  さっき?

  もっと前?

  ……そもそも、それって「いま」の記憶?

  なんか、おかしい。

  でも、おかしいって、なんだ?

  ……おかしいのが、どこなのかわからない。

  考えようとする。

  けど、思考が滑っていく。

  なにかを考えようとするたび、脳が粘液みたいに溶けて、全部流れ落ちる。

  「考えなきゃ」

  ……なにを?

  「考えなきゃ。」

  なにを?

  なにを?

  なにを?

  なにを考えてた?

  なにを考えようとした?

  ……なにか、大事なこと。

  なに?

  ……なに?

  ……なんだった?

  「ああ、そうだった」

  思い出した。

  ロマニーを迎えに行かなきゃ。

  ……ロマニー?

  そう、ロマニー。

  ロマニーを迎えに行かないと。

  だって、あんな場所に一人でいたら危ない。

  かわいそうだ。

  ……どこに?

  ああ、ロマニーは、あの井戸の底にいる。

  だから、助けに行かないと。ああ、そうだった。わたしは、長い長い縄をたぐり寄せる。

  ごつごつした手触り。ずるずると引き寄せて——

  水が、ざあ、と流れる音がした。

  ああ、そうだった。ロマニーが、井戸の中で泣いてる。

  でも、大丈夫。もうすぐ、助けてあげるから。

  ……そうだったよね?

  ▲4-5..

  手を洗う音が、心地いい。

  さらさらと、水が流れる。

  (そうだ、手を洗わなきゃいけないんだった)

  わたしの指先を撫でる水の感触。泡が流れ落ちて、透き通った指があらわれる。わたしの手は、綺麗。

  ──はずだった。

  ロマニーが、手を洗っていた。わたしは、それを眺めている。

  (……あれ?)

  なぜだか、よくわからない。さっきまで、わたしが洗っていたはずなのに。ロマニーは、泣きながら手を洗っている。すすぎきれない泡が、ずっと水にまみれている。流れるのに、終わらない。

  (なんで泣いてるの?)

  声をかけようとして、そっと手を握った。ロマニーの指先が、ぬるぬるしていた。

  (……え?)

  温かく、柔らかく、まとわりつく感触。水に濡れているんじゃない。違う、これは。ロマニーの声が、震えながらこぼれた。

  「お姉ちゃ ん、 もっと飲 まなきゃ。」

  視線を上げる。目の前に、器が差し出されている。

  ──大きい。いや、小さい。……どれくらい?

  手に取る。指がかかると、すごく軽い。――なにも入っていない。

  ロマニーが、笑った。

  「これ をのめば、も っと元 にもどれるよ 。 」

  そうだ、わたしは元に戻らなきゃ。器を傾ける。空(そら) が喉を流れ落ちる。わたしは、空に落ちる。

  落ちる。

  落ちる。

  地面はない。

  空もない。

  風がない。

  感覚がない。

  ただ、落ちている。

  太陽が、沈む。

  太陽が、昇る。

  落ちる。

  落ちる。

  沈む。

  昇る。

  (……どれくらい?)

  沈む。

  昇る。

  何回目?

  何回目?

  なにを?

  なにを?

  気づくと、扉の前に立っていた。なんの扉だろう。なぜここにいるのかも思い出せない。でも、それが特に気にならなかった。わたしは静かに手を伸ばし、扉を押す。

  ──そこは、見覚えのない部屋だった。

  古びた木の床。薄暗い光。窓はなく、ひんやりとした空気が漂っている。わたしは部屋の中央に立っていた。

  指を見た。そこには――指輪があった。ああ、そうか。戻れたんだ。少し、ほっとする。やっぱりお酒が効いたみたいだ。安心して、ふと顔を上げる。視線の先に、鏡があった。鏡の中のわたしは、ライクライクだった。

  ──あれ? なんで?

  じっと見つめる。間違いなく、鏡の中のわたしはライクライクの姿をしていた。でも、変だ。わたしは指輪をしている。じゃあ、わたしは人間だ。そうだよね? だって、わたしはちゃんと指があるし、肌も柔らかいし――

  「わたし」が、後ろからやってきた。振り向くと、そこにはライクライクがいた。わたしが、わたしを見ていた。あれ、じゃあわたしは? わたしは人間? それとも──

  鏡の中のライクライクが、微かに笑った気がした。わたしは、違和感を抱えながらも、なんとなく安心した。そう、安心。

  だって、わたしがやってきたから。

  彼女はとてもクリミアらしかった。美しい長い髪。整った顔立ち。いつもの優しい笑顔。ああ、よかった。クリミアがいる。

  これで、もう大丈夫。

  『「『 お 姉ち ゃん ? 」』」

  クリミアが微笑みながら言う。わたしは指を見た。指輪をしていた。彼女も、指輪をしていた。そうだ、あなたも指輪を──

  わたしはもう一度、後ろを振り返る。そこには、浜辺が広がっていた。海の音がしない、奇妙な浜辺だった。そして、そこには大きなライクライクが二体と、小さなライクライクが五体、並んでいた。気持ち悪い生き物だ。

  「でも、わたしは人間だよね?」

  そう思って、もう一度指を見た。指輪をしていなかった。その瞬間──顔の見えないクリミアが、指輪を外して、わたしを撫でた。

  どこを?

  どこを撫でられたのか、わからない。ただ、ぬるぬるとした何かが、わたしの全身を包み込むように這った。──ああ、わたしはライクライクだ。

  浜辺が崩壊していく。大きいものが小さい。小さいものが大きい。クリミアが、付箋のようにペラペラと剥がれていく。

  何枚も、何枚も、何枚も。

  無限に剥がれていく。

  最後に残ったものは──巨大な指輪。

  いや、指輪じゃない。

  バケツだ。

  バケツは空っぽだった。

  わたしはそれを手に取り、飲んだ。

  ゴクリ。

  バケツの中の「空」を飲み込む。それは、苦くも甘くもなかった。ただ、そこにあったから、飲んだ。飲んでいるうちに、バケツはすごく大きくなって、小さくなって、また大きくなった。どこまでも広がる、透明な空。わたしは、そこに落ちていく。

  落ちる。

  落ちる。

  地面はない。空もない。

  落ちる。

  落ちる。

  落ち続ける。

  ずっと。

  ずっと。

  ずっと。

  ……はずだった。

  (……ん?)

  ゆらりと、視界が揺れる。光が、溶けるように形をなしていく。いや、形が「戻って」いく。バケツが見えた。夢の中で、わたしはバケツを飲んでいた。

  でも――違う。

  (……これは、現実の……?)

  手元に、バケツ──いや、柄杓だ。柄杓がある。手で持っていたはずの柄杓が、「顔」の前にある。冷たい金属の感触が、じわりと口元に馴染んでいく。

  さっきまで、なかったはずのものが、いつの間にか「戻ってきた」。

  (ああ、そうだ。わたしは……)

  わたしは、今、お酒を──

  (っ……!?)

  全身が、ぐにゃりと沈んだ。液体に溶けるように。形が、保てない。ねっとりとした粘膜が地面に張りついて、全身の輪郭がだらりと崩れていく。

  (ぐぅ゛……や、や゛……っあ、あああ……なに……っ!?)

  恐怖か、酩酊か。

  本能的に、吐こうとした。でも吐けない。この体は液体を吐き出せる構造になっていない。

  歪む。

  溶ける。

  熱い。

  冷たい。

  気持ち悪い。

  酒がまだ、口の中にある。違う、もう入ってきてる。まだ、飲み込んでもいないのに、もう身体が、内臓が、それを吸収しようとしている。

  苦しい。もう限界だ。口を閉じたくても、閉じられない。舌も、喉も、何ひとつ、わたしの思うようには──

  (っぐ、うぁ……!)

  次の瞬間、ずるんと喉が勝手に開いて、ぬるりとした液体が喉奥へ滑り込んできた。勝手に、勝手に、体が飲み込んでいく。脳が焼ける。酒が、血を通って全身に広がっていく。

  (やめて……やめて、もう、むり……!)

  ぜんぶ、熱い。

  苦しいのに、どこか気持ちいい。

  内臓が痙攣してる。背骨が軋んでる。

  脳が、痺れてる。

  でも、止まらない。

  もう一滴だって、酒を口に入れたくないのに。

  「……大丈夫……?」

  (だいじょうぶじゃ、ない……!)

  目の前で、小さな手が、酒を──また、掬っている。

  柄杓が、持ち上げられていく。

  まっすぐ、わたしの口の方へ。

  (いやっ、ちがう、ちがう、ちがう、もう──っ)

  どぷっ

  (──ぁぐっ!)

  口に入った。

  口に、また酒が流れ込んだ。

  さっきと同じ。

  熱い、ぬるい、粘る、苦い、気持ち悪い、止まらない。

  (また、だ……また……っ)

  喉が押し広げられる。奥へ、奥へと、勝手に吸い込まれていく。止めようとしても、もう筋肉のどこに力を入れていいかわからない。

  (……っ、うぶ……!)

  内側で、何かがきゅうと縮んだ。胃──のようななにかが、ぎゅるりと動いて、酒を吐き戻そうとする。反射的に、体が「戻そう」としている。喉のような部位に逆流の圧がかかる。ぶわっとせりあがる、熱い液体。

  (──出る、出る……っ!)

  でも──出ない。喉が、詰まっている。「吐くための道」が、どこにもない。粘膜が、ぬるぬると内側で閉じて、出入口を塞いでしまっている。

  (──あ、あぐ……っ、ぐ、ぅ……!)

  げぷっ、という声にもならない空気が漏れる。苦しい。頭が痺れる。胸の内圧が上がりすぎて、脳と思われる部分がきいんと軋んだ。

  (ああぁぁっ……! いやだ……助けて……っ!)

  気持ち悪い。苦しい。怖い。出したいのに、出せない。どんどんどんどん、酒が中に溜まっていく。

  そこにまた、ぬるりと酒が流れ込んで──

  (……なんで……なんで、わたし……)

  感覚が、にじむ。

  輪郭が、揺れる。

  「わたし」が、何かに沈んでいく。

  言葉が……うまく出ない。

  名前も、思い出せない。

  頭の中が、ふわふわしてる。

  ぶよぶよしてる。

  (……や、だ……)

  指もない。手もない。

  あるのは、口だけ。

  口だけ。口だけ。

  (……わたし……)

  ぐちゅ、ぐちゅ、と、どこかで音がしていた。

  わたしが出してるのか、誰かがしてるのか、わからない。

  (……きえ……ちゃ……う)

  そのとき。

  ほんとうに、心の奥から、声が出た。

  (……こわい)

  泣きそうだった。

  というか、もう泣いていた。

  涙腺なんてないのに。

  (いやだ……)

  いやだ。

  いやだいやだいやだいやだ──

  いや

  ──

  そこから先は、もうなにがなんだかわからなかった。言葉とか、形とか、意味とか、そんなものがぜんぶ、蛍光色の水たまりに溶けて流れていった。

  音が聞こえた。音は、光だった。ぱちぱち、じゅわじゅわ、星が弾けて、弾けた音が花のかたちになった。

  わたしは、それを食べた。虹色の泡がぷくぷくと、空に向かって飛んでいく。そのひとつが割れたとき、わたしは、バケツの中にいた。

  ──バケツ?

  そうか。

  わたしは、飲んでいたんだ。

  あたたかい液体が、じゅるじゅると体の中に染み込んでいく。

  のどがないのに、飲んでいる。

  胃がないのに、満たされていく。

  いいきもち。

  光の音が聞こえる。

  ぱちぱち、しゅわしゅわ。

  むせかえるような色彩が、ぐにゃぐにゃとまわる。

  景色はたえまなく、なめらかに形を変える。

  いつから?

  ずっと?

  さっき?

  ──また、なにかが口の中に入ってきた。

  ぬるりと、するりと、わたしの中へ。熱くて、重たくて、粘っていて──でも、なんだっていい。あじなんか、もう、わかんない。なにがはいってきても、ぜんぶ、わたしのなかに、なじむ。

  「……あれ……?」

  なにか、上にある。

  高いところ。ひかりがある。

  ぬるぬるした視界の向こうで、何かが、かすかに動いた。

  (おいしそう……)

  そう思った。

  それがなにか、わからなかったけど。

  きっと、やわらかくて、あたたかくて。

  たべたら、きっとしあわせになれる。

  (あそこ、いきたい……)

  じゃまなものがある。

  かたい、しかくい、いたい、つめたい。

  そのうえに、のってる。

  おいしそうなもの。

  (あれ、ほしい……)

  舌がないのに、よだれが出そうだった。

  ぬるぬるの体が、じゅるじゅると音を立てる。

  だいじょうぶ。

  わたしのなかは、やさしくて、きもちいいよ。

  だから、あれをたべたら、もっときっと、よくなる。

  視界が、まわる。

  空と地面が、逆さになって、

  わたしの身体も、ぐちゅりとひっくり返った。

  景色が、あまいあまい、ぬるぬるのゼリーみたいになっていく。

  もう、なにも考えなくていい。

  もう、なにも──

  △4-6.

  粘液の音が跳ねた。

  次の瞬間──木箱が、蹴り上げられたようにぐらりと揺れたかと思うと、重くぶつかる衝撃が襲ってきた。

  「──きゃあっ!」

  ロマニーの身体が宙に浮き、泥のような地面の上へと放り出された。背中から地面に叩きつけらた。幸いにも怪我はなさそうだったけれど、衝撃は身体中に響いた。

  尻もちをついたかたちで、思わず握っていた柄杓を放しかけ──それでも、とっさに、ぎゅっと握り直す。その目の前に、姉がいた。

  いや、姉だったなにかが。ぐにゃぐにゃに溶けた肉のかたまりが、まるで発作でも起こしたかのように、頭から突っ込んでくる。まっすぐ、真正面に──理性も視線も逸らすことなく。

  (えっ……うそ……なに!?)

  思考が、視界と分離していた。お酒は、効いてきていたはずだった。動きも鈍くなって、反応も遅れていた。あのときの"口"は、あんなにも従順だったのに。

  なのに、いま──

  (なに、これ……お姉ちゃん……?)

  そんな疑問が浮かぶ間にも、ぶよぶよとした粘膜の肉が、這ってきていた。

  ぬちゃっ、ぬちゃっ、ぬちゃっ……

  地面を擦る、濡れた、柔らかくて重たい音。まるで人間のものじゃない、もっと、虫とか、ぬるっとした何かが這うような──そんな音。

  泥を叩く粘液。匂い。湿気。うねる質量。コシュッ、とも、コヒュッ、ともつかない吐息が近づいてくるたび、肌の上の産毛が逆立った。

  (違う……なんか、違う……!)

  這ってくる姿を見て、思った。さっきとは、まるで違う。動きが速い。明確な意思を持っている。迷いがない。まるで、自分を食べにきているみたいに──。

  「っ……お姉ちゃ──」

  名前を呼ぼうとして、言い切る前に、口が開いた。

  巨大な口腔が、ぐちゅりと開いた。ぐにゃりと横に裂けた粘膜の内側が、粘っこく、いやらしく蠢いている。

  (飲まれる──っ!?)

  背中が跳ねた。反射で脚を突っ張ったけれど、滑った。ぬめった地面に靴裏が取られて、尻餅をついたまま、手と足で地面を蹴って後ずさる。

  ──にちゃりっ、みちっ。

  粘膜がずるりと軋んだ。

  さっきまで自分がいた場所に向けて、ライクライクの"口"が、胴体の幅を超えるほどに大きく開きながら、身体ごと、ずるずると伸びてきていた。

  (っ……!)

  ようやく、理解した。いまのそれは、偶然でも暴発でもない。あの"口"は──わたしを喰おうとしていた。

  (今、ほんとうに──わたしを……!)

  理解した瞬間、脚がすくんだ。

  「お姉ちゃんっ……なんで──!」

  問いは、悲鳴に近かった。

  ライクライクは答えなかった。ただ、粘膜の塊が音を立てて、ずる、ずると這ってくる。

  「やっ……いやっ、来ないで……! やだっ、やだぁっ!」

  立ち上がれないまま、咄嗟に、手近な石を拾って投げた。びちゃっ、という音。命中はした。けれど、ライクライクはまったく反応しない。そのまま、ぐねぐねと近づいてくる。

  (速っ──!?)

  思ったより、動きが速い。足の裏がぞくぞくする。視界の正面で、ライクライクが一度、大きく蠢いた。ねっとりと這う粘膜の音──ぞぶっ、と、肉がひしゃげるような音も混じっていた。吐き気にも似た嫌悪が、喉の奥を突き上げる。

  とっさに、転がった。草の上を、泥の上を、ただ必死に身体を投げ出すように。

  ──直後。ぬぢゅ、っという音とともに、何かが背後をなぞった。さっきまで自分がいた地面が、粘膜に塗り潰されている。

  (あぶな……っ!)

  喉が詰まる。息ができない。心臓がずっと、どくどくどくどく、と、どこか別の場所で鳴っているようだった。自分のものじゃないみたいに。胸が震えている。胃が、冷たい。

  (……ほんとに、飲まれるとこだった……!)

  腕が震えていた。その震えの向こうに、にじむように──肉の塊があった。ぬるり、ぬるりと、粘膜の身体が近づいてくる。何の言葉もなく、ただ、本能だけで。

  わかってる。あの中には、お姉ちゃんがいる。そう、たしかに思える。さっきまでは、ずっとそう信じてた。でも──

  (……でも、怖い……!)

  身体が、勝手に震える。膝が笑うように力を失って、息だけが浅く速くなっていく。震える脚に力を込める。立ち上がろうとして、何度か足が滑る。泥でぬれた手で地面を突き、ようやく腰を浮かせた。

  立った──でも、それだけだった。膝が、がくがくと笑っていた。呼吸も乱れている。酸素が、頭に届いていない感じ。

  (逃げなきゃ……!)

  這うようにして、数歩。足がもつれそうになりながらも、後ろへ、後ろへ。だけど──それでも、ライクライクは追ってきた。ぬちゃり、ぬちゃり。ただそれだけの音を連れて、地面を撫でるように、ずりずりと。

  (なんで……なんで……!)

  ぐらつく足を引きずりながら、なんとか立ち上がった。もつれそうになる足を、意地で動かす。逃げなきゃ。逃げなきゃ。ぐちゃぐちゃの何かが、泥をひっかいて追いすがってくるのが、背中でわかる。

  でも──思ったより、遅い。

  あのときの"突進"は、わたしが地面にいたから速く見えただけだった。今こうして立ってみると、わかる。這ってくるそれは、確かに怖い。でも、人間の脚には、絶対に追いつけない。

  もちろん、それでも十分おそろしい。ぬるぬると這い寄ってくる、酒まみれの粘膜の塊。でも、それでも──走れば、振り切れる。

  だから、走った。

  粘ついた音が遠のいていく。ぬるぬると這う肉の気配が、背中から遠ざかる。やっと、逃げられた。走れば、追いつかれない。たしかにそれは、正しい判断だった。だけど。

  (……「逃げなきゃ」……?)

  言葉が、頭の中で浮かんで、すぐに、引っかかった。

  (わたし、なんで逃げてるんだっけ……?)

  答えは簡単なはずだった。襲われたから。喰われそうになったから。でも──それだけじゃなかった。どこか、感覚がずれている。怖い。けど、ちがう。ちがうような気がする。

  (わたし……いま、なにから逃げてるの?)

  脳が答えを探しているあいだに、別の思考が滑り込んでくる。

  (……図書館で、読んだ……)

  あのときの本。ライクライクの項目。ある種の酒類に異常な嗜好反応を示し、一定量を摂取すると動きが鈍る、と。

  (でも、逆に……逆に、って──)

  『中途半端な量では、逆に凶暴性が増すこともある』

  (……!)

  胸の奥で、冷たいものが爆ぜた。

  (わたしは──)

  わたしは、たった一滴で、くらくらした。匂いだけで、頭がぐらぐらしたのに。

  (お姉ちゃんは、あれを……何杯も……)

  脳裏に浮かぶ。口をすぼめて、わたしの柄杓をねだる姿。喉を鳴らして酒を飲み、酔って、ふにゃふにゃになって、震えて──

  (そりゃ……そりゃ、正気じゃいられないよね……)

  気づけば、走る足が止まっていた。呼吸だけが荒く続いていて、胸のなかで何かがぐらついている。

  (このままじゃ、だめだ……!)

  走って逃げた先に、なにがあるというのか。ただ逃げていた。脚が勝手に動いた。あれが怖い。追われている。怖い、から、逃げている。でも、ほんとうに──わたしは、いま。何から逃げている?

  目の前で起こってることは単純だ。肉の塊が、わたしを喰おうとしてくる。あれは、魔物。だから、逃げる。それで、いいはずだった。でも。でも、その"魔物"が──

  (……お姉ちゃん?)

  身体は逃げてるのに、頭のなかだけが、動けなかった。襲ってくるそれが「お姉ちゃん」であることを、思考が、認めるのを拒んでいた。姉がわたしを襲うはずがない。

  でも、襲ってきた。口を開けて、喰おうとしてきた。だからかはわからないけど、心のどこかが、ずっとまだ、"それは姉じゃない"と思い込もうとしている。

  (違う……違うよ、あんなの、お姉ちゃんじゃない……)

  でも。口をすぼめて酒を飲んでいたあの姿。喉を鳴らして、わたしにねだっていた仕草。それはたしかに、姉だった。

  (姉、だった?)

  言葉の意味がわからない。"だった"──って、何。いまは違うってこと? いまは、もう……?

  頭が、心が、ぐちゃぐちゃだった。わたしの中に"姉"がいて、"魔物"がいて、でも同じひとつの形で、でも重ならなくて。ずれてて。めちゃくちゃで。

  (……わたし、なにから逃げてるの……?)

  答えが出ない。出ないのに、足だけが逃げている。走ってる。汗が、息が、涙が──わからない。全部が、出ていく。わたしのなかにある全部が、今にも、崩れてしまいそうで。

  (わかんない……!)

  どこに逃げればいい?

  どこならお姉ちゃんが守られる?

  どこまで行けば、なにかが元通りになるの?

  どうすれば、どうすれば……!

  「いやだっ……!」

  声が漏れた。もう止まらなかった。

  「いやだ、やだやだやだ、やだっ……!」

  地面が揺れていた。世界が回ってた。息が吸えなかった。喉の奥から、声じゃないものが溢れてきた。涙も、鼻水も、よだれも、もう何が何だかわからない。でも、叫ぶしかなかった。

  「かえしてよ……お姉ちゃん、かえして……っ!」

  泣いてるのか怒ってるのか、助けを求めてるのか絶望してるのか、自分でも、ぜんぜん、わからなかった。でも、泣いていた。身体の中から、こわれそうな音を立てて、泣いていた。そして──

  「ぅ゛あああああああああああああああああっ!!」

  喉が裂けた。腹の奥から、何もかもを吐き出すみたいに、声にならない叫びが噴き出していた。嗚咽でも、言葉でもない。ただ、魂の奥で爆ぜたものが、直接、声になった。どうしようもなくて、止めようがなくて、身体が勝手に絶叫していた。

  「うあああああっ、あああああああああああっ!! ううううううあああああああああっ!!」

  涙も、鼻水も、よだれも、全部がぐちゃぐちゃで、顔もぐちゃぐちゃで、息ができなかった。でも、叫んだ。声が出なくなるまで、何度も何度も叫んだ。叫び終わったときには、なにも残ってなかった。声も、息も、涙も。

  ──そして、その空白に、どこからともなく、ひとつの『妄想』が這い上がってきた。

  それは、予感のようで、呪いのようで、なぜか"自分の考え"のふりをして、脳の奥に入り込んでくる。何の根拠もなかった。でも、確信だけはあった。

  (……今のこれが、失敗したら……)

  たとえ酔いが覚めても。

  たとえ、わたしの顔を思い出したとしても。

  ──もう、"お姉ちゃん"には戻れないんじゃないか。

  お姉ちゃんが。

  お姉ちゃんの成分でできた、中身はお姉ちゃんのあの肉塊が。

  お姉ちゃんだったことがある、お姉ちゃんの成分から「お姉ちゃん」を取り除いた、ただの肉塊になって。

  (そうしたら……指輪を外しても、もう、人間には戻らないかもしれない)

  (──指輪ごと、消えてしまうかもしれない……っ!)

  思考が、自分を追い詰めてくる。ありえない。考えすぎ。そんなはず、ない。でも、それを否定できる材料も、どこにもなかった。だから、怖かった。ただの妄想のはずなのに、どうしても、抗えない"真実"みたいに思えてしまった。

  そこまで考えたとき、脳の奥に、ひとつの"手段"が浮かび上がってきた。光でもなく、救いでもない。ただ、目の前に横たわる唯一のやり方。

  ──酔わせる。

  もっと。もっと深く。ふにゃっととろけて、なにもわからなくなるまで。あの"お姉ちゃん"が、まだ底のほうに残ってるうちに。

  (……お酒だ……!)

  恐怖の底で、脳がそう言った。何かを振り払うように、そこに縋るしかなかった。でも──

  (……わたしが、飲ませる……?)

  息が止まった。

  できるのか。そんなことが。

  怖い。怖い。だって──

  さっきまで、あれは、たしかにお姉ちゃんだった。

  姿は化け物でも、口をすぼめて、お酒を飲もうとしていた。わたしの言葉に反応して、自分から動いてくれていた。わたしはそれを信じて、あれを「お姉ちゃん」として扱えた。

  でも──

  いまはもう、違う。酔いが回って、意識はどこかへ行ってしまった。ただの筋肉の塊が、這って、襲ってくる。

  さっきまでの相手とは、比べものにならない。あのときは、まだこっちの呼びかけが届いてた。今は、それすらない。同じようにお酒を飲ませようとしたって──難しさは、何倍も、いや何十倍も違う。

  でも、それでもやらなきゃいけない。いま手を止めたら、もう"お姉ちゃん"が、どこかへ消えてしまう気がしたから。

  (……飲ませなきゃ……)

  (わたしが、やらなきゃ……!)

  酒樽のそばに戻り、柄杓を手に取る。まだたっぷり残っているその液体は──粘液と混ざり合って、どろりと濁っていた。それでも、手を突っ込む。震える指先で、そっと掬う。

  (……いける……?)

  目の前で、ライクライクがうごめいていた。ぬちゃり、ぬちゃり。あきらかに、こっちを見ている。さっきより遅いけど──確実に、狙ってる。わたしの動きに合わせて、微妙に向きを変えながら、すり寄ってくる。

  ゆっくり距離を詰めて、柄杓を差し出した。けど──

  (……だめ、全然、とどかない……!)

  腕を伸ばしても、距離が足りない。それに、近くで見ると、思った以上に大きい。口が、動いてる。ぐちゅぐちゅと音を立てて、勝手に、ぬるぬると。さっきみたいに、素直に口をすぼめたりなんてしない。ただの本能。ただの、捕食の形。

  (こわ……っ!)

  脚がすくむ。思ってたより、ずっと怖い。

  何倍どころじゃない。ぜんぜん違う。

  口が、蠢いてるだけで、もう……近づけない。

  (……っ! そうだ──)

  一瞬で思い出した。

  (さっきは、木箱の上だった!)

  泥を蹴って駆け戻る。重たい酒をこぼさないようにしながら、必死で木箱によじ登る。足を滑らせそうになりながら、ぐっと体を持ち上げた。

  高い。近い。これなら──!

  わたしが木箱の上で酒を構えた瞬間──ライクライクは、ぬるりと方向を変えた。まるで、餌の匂いを辿るように。狙いを定めて、地面を擦るようにゆっくりと近づいてくる。

  心臓が破れそうだった。手も、脚も、震えていた。でも、待った。今度こそ、飲ませる。酔わせて、止める。

  ──タイミングを見て、柄杓を傾けた。

  だが、それは口に届かなかった。酒は、蠢く粘膜の表面を濡らしただけだった。口は、閉じていた。

  (……えっ、外した……!)

  そのまま、ライクライクが突っ込んできた。ぐちゅりと身を折り曲げて、まるでぶつかるように木箱に激突する。突き上げる衝撃。跳ねるように、わたしの足元が崩れた。

  とっさに跳び降りる。地面に転がるように着地し、すぐに後退して距離を取った。ライクライクの動きは止まらない。どろどろと粘液を引きずりながら、私のいる方向へ、視覚か嗅覚かはわからないが、何かの感覚器官を頼りに進んでくる。

  (……おそ……)

  距離を取ると、驚くほど動きが鈍く見えた。まるで巨大なナメクジ。ひと掻きずつ這うような、なにか。わたしは、また木箱に戻った。酒を汲み直し、同じように構える。今度は、すぐそこまでライクライクが来ていた。

  (……はや……っ!?)

  待っていると、逆に怖い。じわじわと、まっすぐに、濡れた地面を這ってくる。さっきと同じはずの動きが、ずっと速く見える。

  (来る……!)

  タイミングを見計らって──もう一度、酒を注ぐ。

  びちゃ。また、体表にかかっただけだった。ぐちゅぐちゅと泡立つ粘膜の表面に、ただ吸い込まれていく。

  (……なんで……!)

  焦る。わからない。さっきはうまくいったのに。さっきは──

  (……あれは、「飲もうとしてた」から……!?)

  そう。今のこれは──ただの捕食の動き。"お姉ちゃん"がいたときの、理性や意思は、もうない。これはただ、においのする方向に口を開いて、餌を探してるだけ。

  (……なら……!)

  わたしを──"わたし"を飲み込もうとした、その瞬間だけがチャンスだ。そのときだけは、口は、大きく開いていた。ぐちゅりと、すべてを飲み込むように。

  (……その瞬間に──叩き込む!)

  柄杓を強く、握りしめる。木箱に目をやった──でも、だめだ。さっき、あそこに乗ったときは、ライクライクは口を開かなかった。ただの的。ただの餌。体当たりで壊される寸前だった。

  (あれじゃ、また失敗する……!)

  口を開かせるには、もっと明確に、わたしを"見つけさせなきゃ"ならない。そのためには──こっちが、危険な距離に踏み込むしかない。

  (地面で、待つしかない……!)

  喉が鳴った。足が震えた。

  でも、それでも。

  怖くても。怖くて、仕方なくても──

  お姉ちゃんを、助けたい。

  もういちど、柄杓を握り直す。

  わたしは、木箱から降りた。

  泥に足を取られながら、そっと、地面に立った。

  そして──ライクライクの進行方向に、自分を置いた。

  捕食される獲物として。

  飲ませるための、餌として。