TS転生した僕、理想の姿で冒険ライフ! ……と思ったら分岐ルートが全部ヤバい件

  「知ってっか? 『土下座車』っていうんだけどよ、これ」

  

  喉元に冷たい革が触れた瞬間、思考が真っ白になる。

  

  錘の付いた小型の台車と──それに繋がるであろう、短い鎖の付いた首輪。

  身体がびくりと跳ねるが、細い腕は男たちに軽々と押さえ込まれてしまう。地面に押しつけられた膝と手のひら。埃と草の匂いが、[[rb:変わった体 > ・・・・・]]の感覚にまざって、どうしようもなく自分が「ちがう存在」になった気がした。

  

  「暴れんなって、おら、もうちょい顎上げろ」

  

  無遠慮に髪を掴まれ、顎を持ち上げられる。反射的に反抗の言葉が喉まで来るのに、出てきたのは、情けなく裏返った、息の抜けるような高い音だけだった。

  

  「──ひゅっ、……く、……っ」

  

  革の輪が、ぐい、と喉元に押し当てられる。

  冷たい金具が首の後ろでパチンと噛み合い、ベルトが容赦なく締め上げられる。抵抗もできないまま、首輪はぴたりと肌に張りついた。鎖が喉元でぶら下がり、まだ台車には繋がれていないのに、その重みが喉から胸、胸から腹へと、体の奥へ奥へと染み込んでいくようだった。

  そこにあるはずの「自分の重心」がずれていく──そんな奇妙な感覚が、なぜか頭から離れない。

  

  「おい、そっちの小娘はちゃんと見張っとけよ。こっちのも逃げねえように縛っとくから」

  

  「わかった。……で、そいつはどうすんの? 顔はいいし、値はつくでしょ。しばらく"しつけ"てから売りに出す?」

  

  「反抗的なやつほど、従順にするのも楽しいからな。怪我だけはさせんなよ」

  

  男たちの声が、妙に遠くに聞こえる。

  

  (いやいやいや、違うだろ。異世界転生したのはいいけど、なんで即・奴隷コース……? もうちょいこう、冒険とか、可愛い服とか、ご褒美イベントとか……普通あるはずだろ?)

  

  自分の人生設計(異世界Ver.)が秒で崩れ去ったことに、ヒイラギ・マツリはもはや笑うしかなかった。なにもしていないのに囲まれて、首輪までつけられて──

  これがチュートリアルだっていうなら、難易度設定を間違えてるとしか思えない。

  

  いや、ほんと、なんでこうなったんだ……?

  

  

  *  *  *

  

  

  よくある、異世界転生というやつなんだろう。

  見知らぬ大自然の中で目を覚ましたあと、[[rb:柊 > ひいらぎ]] [[rb:茉理 > まつり]]はそんなことを思っていた。

  

  (……それにしても……)

  

  目の前には澄んだ川が流れていた。ゆるやかな水面が、見知らぬ少女の姿を映している。

  

  ぱっちりとした大きな瞳、長く伸びた睫毛、丸みを帯びた繊細な顎のライン。腰まで伸びた純白の長髪がさらりと頬を撫で、その滑らかな感触にぞくりと震える。

  恐る恐る頬に触れると、ふに、と指先が柔らかく沈み込んだ。その手すら、見たこともないほど華奢で白い。

  

  (……可愛いすぎるでしょ……。これ誰……? 僕? 僕……だよな?)

  

  視界に入る全て。水面に映る顔も、頬を撫でる髪の毛も、指の一本すらも、どこにも"男の自分"の名残なんてなかった。けれど、心の中ではまだ、「僕」という言葉が離れなかった。確認するかのように、声を出してみる。

  

  「あ、あー、てすと、てすと……?」

  

  口に出した声は、鈴を転がすような少女の声だった。あまりに綺麗すぎて、思わず口元を押さえる。

  

  「う、うそでしょ……いや声も可愛すぎない? いやいやいやいや、何これ……ほんと誰……?」

  

  喉を鳴らすと、細くて、軽くて、よく響く感覚が胸に返ってきた。まるで別人──いや、別物。

  声だけじゃない。何もかもが変わっている。それが、今さらになって、身体の奥から伝わってきた。

  

  (……ある。……あるぞこれ……)

  

  胸元。自分の呼吸に合わせて、はっきりと膨らんだそいつが微かに持ち上がって──下がって──また、持ち上がって。

  わざわざ確認する間でもなく、わかる。骨格が、重心が、声帯が、何もかも違う。ふとももが近い。足が小さい。肩が細くて、手が華奢で──そして、決定的な違い。

  

  (……あ)

  

  意識を向けた瞬間、皮膚の内側がぞわりと逆立った。そこに、あるはずの重みがない。

  「気づいた」というより、最初から知っていた感覚だ。無い。空っぽ。太腿の付け根から腰骨の内側にかけて、冷たい風が通るような不在感が広がっている。そちらに意識が向いた瞬間、思考が──一段、深いところまで沈み込む。

  

  「無い」。

  

  そこにあるべきものが。自分の男としての証が、完璧に、存在していない。見たわけじゃない。触ってもいない。だが──わかってしまう。

  何しろ、今この身体にまとわりついている下着の形が、決定的すぎる。肌に沿ってぴったりと密着している感触。男の身体では、構造上あり得ない装着感。そしてその違和感が、なぜか──強烈に、生々しかった。

  

  (ま、まじで……女の子になってる……!?)

  

  足元が崩れるような感覚がした。胸がざわつく。内臓が、ふわっと浮いたように感じる。どくん、と音を立てて脈打つ血流が、妙に早い。驚きと、感動と、混乱と、理解と、少しの不安と好奇心、そして──少し遅れてやってくる、得体の知れない恥ずかしさ。

  

  (けど、なんで、こんなことになってるんだっけ??)

  

  ふと、思考が過去を探り始める。直前の記憶は──曖昧だ。事故に遭ったわけでも、死んだ記憶があるわけでもない。

  

  (そうだ、あの広告……!)

  

  唐突に思い出した。スマホの広告。

  

  《【限定】理想の姿で異世界転生をして上司を怖がらせましょう!》

  

  たしか、スマホで何か調べものをしてたときに出てきた広告だった。

  内容なんて、今思えばどうでもよかったはずだ。よくあるゲームの宣伝。だけど、なぜか目を引かれた。

  

  そのとき──たぶん、少し疲れていたんだと思う。

  やりたくないことを断れない性格だった。「嫌だ」と言う代わりに、「わかりました」と言ってきた。やりたいことだって、なかったわけじゃない。でも、そういうことほど、うまく言えなかった。卑屈ってほどじゃないけど、自信はなかった。

  

  気づけば、若くしてそこそこいいポジションにいた。課長の隣で議事録をまとめて、後輩のミスをカバーして、上司の機嫌をうかがって──でも、給料は同期と大して変わらないし、休日出勤も増えてた。

  そんな時期だった。何かがきっかけだったわけじゃない。ただ、ほんの一瞬、指が滑っただけだった。タップして、暗転して──記憶を掘ってみると、そういえば女神様っぽいのと会話した記憶もある。

  

  (それにしても──『理想の姿』、ねぇ……?)

  

  水面に映る顔を、もう一度、見つめてしまった。たしかに、理想だ。自分がずっと「こうなれたら」と思っていた姿、そのまま。その瞬間、喉の奥が詰まり、耳の奥が熱を帯びる。視界がじんわり滲んだ。

  

  ぶわっと顔に汗が浮かぶ。頬は火照っていて、こみ上げた感情に口元がひくつく。笑ってるのか、泣きそうなのか、自分でもわからない。

  でも、確かに浮かんでいた。情けないような、嬉しいような──そんな泣き笑いの表情が、水面に映っていた。

  

  (……理想の姿が、女の子って……!)

  

  自分で思ったその言葉に、ぐらぐらと足元が揺れるような感覚。心の奥を突かれたようで、たまらなく恥ずかしかった。どう言い訳しても、心当たりがありすぎた。

  

  ──ヒイラギ・マツリ。

  生まれてこの方、性別を間違えられること数知れず。

  自分の名前は、どこか女の子っぽい。それを意識しはじめたのは、たしか──小学生の頃だった。名前に引っ張られるように、"そういうもしも"を想像するようになっていて──

  

  そして、今。まさにその"理想"が、完璧に形になって目の前にある。ここまで理想通りだと、なんというか──見られている気すらした。誰かに、自分の頭の中を、そのまま覗かれてしまったみたいな。

  

  (…………はずかし……なにこれ……っ)

  

  誰かに心の奥まで覗かれてしまったような気まずさと、うっすら湧いてくる肯定感に揺れながら、マツリはもう一度、静かに深呼吸した。

  

  息を吸い込むたび、肌に触れる空気は驚くほど澄んでいて、ほんのり草の匂いが混じっている。耳をすませば、川のせせらぎと、遠くの鳥の声。それだけなのに、不思議なくらい胸が高鳴った。

  そろりと顔を上げる。そこには、どこまでも広がる草原。振り返れば、こんもりとした森が風にざわめき、見下ろす斜面の先には、石畳の道と屋根が折り重なった、絵に描いたような"異世界の街"が小さく見えていた。

  

  太陽は高く、雲ひとつない空。水面に映った自分の顔も、空の青さも、全部が現実なのに、夢みたいに眩しくて。胸の奥から、込み上げてくるものがあった。

  

  (……これ、本当に、僕の人生か……?)

  

  たしかに今の姿は、めちゃくちゃ恥ずかしい。でも、ここまで理想通りなら――正直、悪くない。いや、むしろ最高かもしれない。最高すぎて、笑いそうになる。まさか、あのスマホの広告をクリックしただけで、こんなことになってしまうなんて思わなかったけれど。

  

  (……あっちの世界では……)

  

  ──月曜の朝イチで提出って言われてた資料、けっこう頑張ってたんだけどなあ。……ま、もうどうでもいいか。少なくとも、ここでは課長も、納期も、月曜も、存在しないんだから。

  

  なら今は、こっちを楽しむしかない。

  

  そう思った瞬間、ふいに胸の奥がぞわりとした。何か、すごく大事なことを忘れてる気がして……あっ、と小さく息を呑む。頭の片隅に、転生直後の記憶がフラッシュバックする。白い空間、女神っぽいのが現れて――

  

  「たしか……"魔力:無限"と、"精神:完全保護"、だっけ。なんかやたらキラキラした演出で、女神がドヤ顔で"最強特典です!"とか言ってたよな……!」

  

  自分の声が、さっきまでよりもずっと軽く響く。思い出すほどに、現実味がなさすぎて、逆にテンションが上がってきた。

  

  「これ、もしかして――あれ? 最初から"勝ち確"じゃない? いや、理想の美少女で異世界デビュー、しかも魔力無限で、メンタル無敵って……人生イージーモード過ぎん?」

  

  草原の空気がやけにうまく感じる。さっきまでの羞恥も、不安も、全部どこかに吹き飛んでいきそうだった。

  

  そう、最初は。

  

  

  *

  

  

  「……で、なにすんの」

  

  草原の真ん中。マツリはぽつりと呟いた。

  理想の美少女ボディ。無限魔力と精神保護。ファンタジー風の草原に、空はどこまでも青い。そのうえ──眼下には、街。

  石畳の道、瓦の屋根、小さな市場らしき広場と、ゆるく立ちのぼる煙。まるでRPGのスタート地点。最初の拠点。そう──"最初の目的地"に、ふさわしいような。

  

  「……だよね。街、あるよね。そりゃそうだよね、うん」

  

  マツリは自分に言い聞かせるようにうなずいた。

  あまりにも完璧な風景。期待通りすぎて、逆にちょっと不安になる。

  

  「スキル欄とか、ステータス画面とかは……出ないんだよなー。チュートリアルとかもないし……」

  

  手をかざしてみても、何も出てこない。

  よくある"異世界転生テンプレ"から微妙にズレているあたり、若干不安。

  

  (……ていうか、言葉、通じるんだよね……?)

  

  ふと、妙に現実的な疑問がよぎる。

  あの街に行ったとして、言葉が違ったら? 見た目がどう見ても現地の人間と違ったら? そもそも、いわゆる「魔族」とか獣人とかの国だったら?

  ──ていうか、城壁とか無いの? 襲われないの? 治安いい系?

  

  「う、うん……まあ、よくできた世界観、ってことで……」

  

  笑ってごまかす。状況だけ考えれば、かなりの異常事態のはずだ。異世界、魔法、女の子の身体──どれをとっても非日常の塊なのに、不安がない。

  

  「……精神保護とやらの効果なのかな……? でもこれ、本当に落ち着いてるの? "落ち着いてるつもりになってる"だけだったら……ちょっと怖いな」

  

  でもすぐに、思考が脱線する。

  

  「……まあいいや。おなか、すいたし」

  

  マツリはお腹を押さえて、小さくつぶやいた。当然だ。最後に何かを食べた記憶すら、もはや曖昧。転生する前の記憶がふわふわしているからなおさらだが、とにかく今、完全に空腹だった。

  

  (……まずい、飢える。イージーモードのはずなのに……!)

  

  いよいよ街に向かわざるを得なくなってきた。

  

  だけど──

  

  「うわ、靴、歩きづら……」

  

  足元を見下ろし、マツリは眉をひそめた。

  履いているのは、しっかりと作られた茶色の革のブーツ。くるぶし上までがっちり覆われていて、かかととつま先には補強材。一見おしゃれだが、ゴツい分だけ重く、歩くたびに足がとられる。どうにも馴染まない。

  

  「草原スタートなら、スニーカー系にしてほしかったなあ……!」

  

  嘆きながら、バランスを取るようにローブの前裾を軽くつまむ。

  その手触りは思いのほかしっとりしていて、素材はおそらく上質な絹混。濃い藍色に金の糸で模様が縫い取られていて、袖や裾には淡い装飾のフリル。上着というよりは「見栄えの良い旅装束」といった印象だった。

  

  ローブの下には白いシャツワンピースのようなインナーが覗いている。胸元にはリボンが飾られ、腰のあたりでベルト留め。スカート丈は膝上──のはずなのだが、小柄なマツリが着ると、ローブの裾にほとんど隠れてしまっていた。

  

  (……なんかこう、旅人系ヒロインって感じ?)

  

  装飾性の高い留め具や、小ぶりな革ポーチの類いも含め、全体的に上品さがにじみ出ている。

  

  ふと思い出す、水面に映ったあの顔。

  ──ぱっちりとした瞳。繊細なラインの顎。白くて、細くて、柔らかそうな肌。水面に映ったあの少女の顔は、明らかに「可愛い」なんてもんじゃなかった。白い髪。つややかな瞳。あどけなくも整った輪郭。

  

  ──でも。

  

  (この姿、人に見られるんだよな……)

  

  露出は少ない。デザインも上品。だけど、だからこそ逆に気まずい。理想そのもののような外見だからこそ、他人に見られると──まるで自分の内面を、まるごと覗かれるような気がする。

  

  ……でも、見られるしかない。人に会うしかない。

  この世界で生きていくには、あの街に行くしかない。

  

  (よし……第一村人、探すか……!)

  

  草の上を歩くたび、丈の短いスカートがふわふわと揺れる。めくれるようなことはないけれど、脚に風が当たるたび、慣れない感覚にどうしても気になってしまう。

  ローブの裾を両手で引き寄せるようにして、下半身を隠す。腰までの上着がスカートの輪郭を隠してくれるとはいえ、なんとなく、視線を感じる気がしてしまう。

  

  (たぶん大丈夫。たぶん、変な人とかいない。たぶん、モンスターも出ない)

  

  獣道のように見えたそれは、低木の下をくぐるように続いていて──ほんの十数歩も進まないうちに、視界がぱっと開けた。

  そこには、確かに道があった。舗装こそされていないが、車輪の跡のような溝が両脇に刻まれ、中央は固く踏み固められている。定期的に人が行き来しているのだとわかる、明らかな文明の痕跡。マツリの足が、ふと止まる。

  

  (……あれ、これ、すごい……!)

  

  思わず頬がほころぶ。あまりに自然で、でも確かな「世界の手ざわり」。──ちゃんとした道がある。それだけのことが、こんなにも心強く思えた。

  これを辿っていけば、あの街にたどり着けるかもしれない。そう考えると、不安よりも期待の方が勝っていた。

  腹は減っているし、靴も重い。でも──胸の奥では、何かがじんわりと温かく燃えているような感覚があった。

  

  「魔力……だよね、そういえば」

  

  思い出すのは、あの「特典」のひとつ。

  女神めいた存在が得意げに言っていた、《魔力:無限》という言葉。

  

  (……いやでも、これ──本当に、あるぞ)

  

  目を閉じてみる。すると、確かに"在る"のがわかる。

  背骨の内側、脊髄の奥深くに、ぐるぐると渦を巻いているような、圧倒的な存在感。喉の奥、胸の中心、手のひら、指先、つま先。どこを切っても、そこに"流れている"のがわかる。尽きる気配がない。湧いてくる。みなぎる。

  

  まるで、体内にひとつの星が埋まっているような──そんな錯覚すら覚える。

  

  (なんか、これ、すごい……すごいよね……)

  

  思わず口元がゆるむ。頬がにやけるのを止められない。

  

  「ふふふ……どこからでもかかってくるがよいわ……!」

  

  なんて、少し低めの声でわざとらしく独りごちた──その瞬間だった。

  

  「誰か、いるのかーっ!?」

  

  「ひゃわあああっっ!?!?」

  

  反射で肩が跳ねた。完全に裏返った声が喉から飛び出る。

  足がもつれて、ちょっとこけかけた。

  

  (な、なに!? だ、誰っ!? ていうか、僕も何その声!?)

  

  ローブを押さえつつ慌てて振り向くと、森の向こう──草をかき分けて、人影がひとつ──いや、ふたつ、みっつ。軽装の人間っぽい影が、草をかき分けて近づいてくる。

  

  (人間……!?)

  

  初めて見た、自分以外の"人間"。肌の色も、背格好も、服の感じも、日本とはちょっと違う。でも、それでも──人間だった。というか、言葉が通じてる。

  とっさに胸の奥がじんわり熱くなる。涙が出そうになる。もう一生誰とも会話できないんじゃないかって、さっきまで本気で思いかけてたのに。

  

  (よ、よかった……!)

  

  同時に。脳のどこかで、冷静な部分も反応する。

  

  (……でも、知らない世界の、知らない人間……だよね)

  

  見た目は人間でも、この世界での価値観はまだわからない。危険な奴だったら? でも──

  

  (ま、最悪、魔力があるし。無限魔力に精神保護! 敵対してくるなら、"バシュン"でおしまいっ!)

  

  まあ、まだ一度も魔法を使ったことはないけど。けれど心のどこかで、魔法万能みたいに思い込んでるところがあった。なんせ無限だし、きっとなんとかなるだろうって。

  

  目の前に現れたのは、金髪の、やけに爽やかな青年だった。信じられないくらいの清潔感。笑顔、満点。礼儀、正しそう。服装、整ってる。

  

  「おや、よかった。まさか、こんなところに一人とは」

  

  そう言って、金髪の青年はとても優しい声で笑った。

  

  「ずいぶんと小さいね。迷子かな?」

  

  その男は、相変わらずにこにこと柔らかく笑っている。まるで聖人君子みたいな物腰。後ろの二人も、控えるように立っていた。フード姿の男と、長髪の男。その裏に、もう一人。

  

  「大丈夫、怖がらなくていい。ほら、飲み物、いるかい?」

  「あ……ありがとう……」

  

  差し出された水筒を、おそるおそる受け取る。冷たい水が喉を潤した瞬間、ひととき、張り詰めていた感覚がほどけた気がした。

  ──この人たちは、本当に"まとも"なのかもしれない。そう、思いかけてしまった。

  けれどすぐに、自分でその考えを打ち消す。まだ信じてはいけない。まだ、地雷が埋まっていないとは限らない。けれど──少なくとも一歩、踏み出しても爆発しなかった。

  

  (だいじょうぶ、だと……いいな)

  

  「それで、名前は? どこから来たの?」

  「えっと……マツリ、です。ヒイラギ・マツリ。一人で……というか、目が覚めたらここにいて、なんというか、記憶が……」

  

  言いながら『あ、やばい? 転生ってバレたらどうなる?』という考えが浮かぶが、青年はそれすら包み込むような笑顔で、こくこくと頷いてくれている。

  

  「ふむふむ、なるほどなるほど。ちなみに……身分証は?」

  「みぶん……しょう……?」

  

  聞き返した瞬間、空気が、すこし変わった気がした。青年の笑顔は変わらない。でも、まわりの二人が──じり、と半歩ずつ距離を詰めてくる。

  

  「家族は? 誰かと落ち合う予定とか?」

  「……ない、です。たぶん」

  「なるほどねえ……」

  

  その声が、ほんのわずかに低くなった。青年はふと、視線を後ろにやった。仲間が、こくりと頷く。

  空気が、ぬるくなった。さっきまで柔らかかった陽射しが、どこか重たい。足元に、見えない穴があいたような感覚。

  

  ──あれ? もしかして、特大の地雷を踏みぬいたんじゃないか?

  

  そう思ったときには、もう遅かった。フードの男が、無言で手を動かす。マツリの手首を、そっと、けれど明確な力で握る。

  とっさに手を振り払おうとする。だが、まったく抜けない。握力も体格も、完全に違う。この小柄な身体でがどれだけ非力かということを、今さらながら痛感する。

  

  「──おっと、動くなよ? 逃げてもムダだ」

  

  にやにやと笑いながら、フードの男が囁く。喉が詰まる。声が出ない。身体が、言うことを聞いてくれない。

  

  (──まずい、まずいまずい!)

  

  魔力だ。魔法を。とにかく、なんとか──!

  

  「あれ……?」

  

  小さな声が、ぽろりと漏れた。自分の声だった。思わず口に出してしまっていた。

  

  (そ、そういえば……魔法って、どうやって、出すんだっけ……?)

  

  意識を集中する? 詠唱? イメージ? ──どれも、よくわからない。

  たしかに、あるのだ。身体の奥深く──お腹の底、胸の中心、背骨の内側。じんじんと熱いものが溜まっているのは、感じる。まるで火のついた発電炉でも抱えているみたいだ。

  でも、それはあくまでエネルギーそのものでしかない。ガソリンを渡されただけ。送電線もスイッチもない発電所。つまり──出し方がわからない。

  

  「……なんだ、お前」

  

  男が怪訝そうに眉をひそめ、一瞬だけ動きを止めた。だけどすぐ、肩をすくめて鼻で笑う。

  

  「チッ、なんだよ。肩透かしかよ。ちょっとビビっちまったじゃねえか」

  

  腰から、太い麻縄を取り出す。その端を握ったまま、ぐい、と腕を伸ばしてくる。

  

  (に、逃げ──)

  

  その瞬間。

  

  ぱんっ!

  

  頬を打たれた。乾いた音が響く。殴られた、ということを理解するのに、一拍遅れた。視界が揺れ、髪が宙に舞った。白い前髪がふわりと、涙のにじむ視界をよぎる。

  

  「……あえっ?」

  

  呆けた声が出る。もう一発。

  

  「ひぐっ──!」

  

  反対側。細い首がしなる。耳の奥で鈍い音が反響する。胸が揺れた。涙が滲む。なにが、どうして。

  

  ──ごすっ。

  

  腹に、硬い何かがめり込む感触。拳だ。完全な、殴打。小さな身体がふわりと浮いて──背中から地面に叩きつけられた。肺の中の空気がすべて抜ける。胸が揺れる。

  

  「おっと、逃げんなっつってんだろ? ほら、アレ持ってこい」

  

  笑顔のまま、彼は言った。ゆるやかに、何の感情も込めずに。

  マツリは──理解った。本当に、この世界は"異世界"なんだと。

  

  

  *

  

  

  それは、まるで拷問具のように見えた。

  

  「知ってっか? "土下座車"っていうんだけどよ、これ」

  

  フードの男の手には、短い鎖の付いた革製の首輪。ごろり、とその足元──地面には、小さな台車のような金属製の器具が置かれていた。車輪と錘が一体になっていて、鎖を繋げるであろう金具が前方に突き出している。

  

  喉元に冷たい革が触れた瞬間、思考が真っ白になる。身体がびくりと跳ねるが、細い腕は軽々と押さえ込まれてしまう。

  地面に押しつけられた膝と手のひら。鎖が喉元でぶら下がり、まだ台車には繋がれていないのに、その重みが喉から胸、胸から腹へと、体の奥へ奥へと染み込んでいく。

  

  「暴れんなって、おら、首輪付けるからもうちょい顎上げろ」

  

  四つ這いの姿勢のまま無遠慮に髪を掴まれ、顎を持ち上げられる。反射的に反抗の言葉が喉まで来るのに、出てきたのは、情けなく裏返った、息の抜けるような高い音だけだった。

  

  「──ひゅっ、……く、……っ」

  

  金具が首の後ろでパチンと噛み合い、革のベルトが容赦なく締め上げられる。思わず肩をすくめても、男の手が後ろ髪ごと押さえ込んで逃がしてくれない。

  だが、情けない声を漏らしながらも──その実、頭のどこかは、奇妙なほど澄んでいた。

  

  (……あれ、思ったより……落ち着いてる……)

  

  感覚だけが鋭くなっていく。首筋を締めつける革の冷たさ、押しつけられた草の湿り気、耳元をかすめる男の吐息──どれも、鮮明すぎるほどにはっきりと感じ取れてしまう。

  

  (このまま……されるのを待つ、だけ……?)

  

  一瞬、そんなことが頭をよぎった。"無抵抗のまま、調教されていく"。ただ気持ちいいことだけをされて、何も考えず、鳴くだけの存在に──

  

  「やだっ、さわんないでっ!! やだぁ──っ!!」

  

  自分のものではない、声がした。甲高く、怒鳴るような少女の声。すぐ近く。目の前じゃない。でも、はっきり聞こえる距離。怯えと怒り、そして自分が今から何をされるか分かってしまったという恐怖が混ざっていた。

  

  (──まさか、あの子……)

  

  「おい! 声出させんなって言ってんだろ!」

  

  マツリを押さえているフードの男が怒鳴る。金髪の青年が、にやつきながら答えた。

  

  「い、いや……やっぱ声出させねえと燃えねえし……へへ」

  

  ──ぺりっ、と乾いた音。口を塞いでいた布が剥がされる気配。

  

  「ひっ……やめてっ、やめてってばぁっ!」

  

  再び、幼い悲鳴が響いた。必死さが伝わってくるのに、なお子どもらしい泣き声混じりの抵抗。胸の奥がざらつく。

  

  (……そうだ。ダメだ。こんなの、絶対にダメだ!)

  

  喉が鳴った。冷たい汗が背中を流れる。心が、底から崩れていくような感覚。ふと、記憶が引きずり出された。前の人生。あのサークル棟。あの騒動。──後輩の女の子を襲った、バカどもがいた。

  示談がどうとか、退学処分がどうとか、散々揉めたあげく。ひとりだけ、刑事裁判にかけられた。でも、結果は執行猶予。反省の色が認められたとか。

  その後どうなったかって?

  

  ──酒の席で、武勇伝になってた。

  

  「馬鹿、デカい声出させりゃ魔物が寄ってくるだろが。……いや、待てよ」

  

  フードの男が、視線をこちらに落とす。

  

  「こいつ……どうやって一人で、こんな場所まで来た?」

  

  胃の奥がひっくり返るような怒り。無力だった自分が、何もできなかったあのときの怒り。悔しさと、情けなさと、どうしようもなさ。でも──今は。

  

  (今は、ちがう)

  

  背骨の裏が焼ける。熱い。魔力が、全身を満たしていく。スイッチが、入った。怒りとともに、何かが急激に研ぎ澄まされていく。背骨の裏から胸元、喉、指先──それぞれがどこにどう繋がっているのか、"見える"ような感覚。

  息を吸い込む。声にならないほど高い声帯の震えが、逆に意識を鮮明にする。女の子の身体であることを思い知らされるのに──同時に、それが力の回路を鮮やかに開いていく。

  

  初めて自転車に乗れたときみたいに。初めてスノーボードで、地面と体のバランスが合ったときみたいに。ああ──そうか。これで、いいんだ。

  

  (いける──!)

  

  地面を踏む。細い膝に力を込めて、片足を突き立てるように起き上がる。

  台車にはまだ繋がれていない。動ける。男たちは油断していた。見た目にすればただの少女。それも、泣いて、怯えて、抵抗すらできなかったはずの。

  

  ──その"はず"が、崩れる。

  

  「っ……お、おい……!?」

  

  四つ這いの姿勢のまま、マツリは右手だけを男に向かって突き出す。

  小さくて白い掌が土をかき、細い手首がびくんと伸びる。胸がローブの内側でひとつ跳ね、喉の高い震えが自分の耳に返ってきた。

  

  ──びち。

  

  指先で火花のようなものが弾け、空気がささやかに逆巻く。びち、と弱弱しい音が響き、白い前髪がふわりと視界を横切った。

  

  「……へっ、なーんだ、チカチカしてやがんの。子猫の威嚇か?」

  

  安堵に似た笑い。誤魔化すような嘲り。だが、マツリには見えていた。いま、ほんの瞬間だけ、こいつは本気で怖がった。そして──

  

  (……変えられる。これ、変換できる)

  

  ──これは『入力に対する出力』だ。魔力という入力に対して、「外的な力」として出力がなされる。関数のような、何らかの「変換」を経由して。

  

  直感で、マツリは理解した。この「変換」こそが、魔法だ。魔力という、かたちのないエネルギーを、実体を伴った何かに変える行為。熱に、冷気に、雷に、重力に。あるいは、それらのどれとも違う、新しい『力』に。

  理屈はわからない。操作方法も、詠唱なんてものがあるのかも知らない。でも、それでも確信がある。たとえば、こうだ──

  

  《 消費魔力量 × "変換効率" = 攻撃力 》

  

  ならば、変換効率がゼロに近くても。出せるだけ出せば、どうにでもなる。なにせ、こっちの残量は──無限だ。

  

  マツリは、再び地面に膝をつき、そのまま、腕を、背筋ごと振り上げた。男たちは、動きを止めた。だが、それはほんの一瞬。

  

  「へっ、またかよ。ビビらせやがって。さっきよりちょっと風が吹くくらいだろ、どーせ──」

  

  その言葉の途中だった。

  

  空気が、沈んだ。

  

  圧だった。

  重みだった。

  熱も音も、まったく伴わない、"何か"がそこに生じた。

  

  次の瞬間。世界が、潰れた。大気が、瞬間的に凹む。土がたわむ。草が──地面ごと押しつぶされた。音が、ない。なのに、衝撃だけが、確かにそこにあった。

  

  「──え、」

  

  男の声が、途切れる。重力。圧縮。質量。目に見えない壁のような衝撃が、横なぐりに薙ぎ払うようにして走った。空気を圧し、地形を変え、男たちの身体ごと、吹き飛ばす。

  

  「ぐ──あああああっっ!!」

  「ひ──あっ──がっ、ぐえっ──!」

  

  理不尽だった。抗えなかった。防ぐ術がないまま、すべての関節が逆方向に折れるような勢いで、身体がもぎ取られ、宙を舞う。手足が、同時に砕けるような感覚。空中でぐるりと回転しながら、全身で風圧を受ける。──そして。

  

  落ちた。あまりの速度に、叫び声すら残せなかった者もいる。

  風が吹きすさぶ。草原が抉られていた。円形の痕跡。風圧ではない、地形そのものの変質。外側に向かって、土が沈んでいる。まるで、そこに一瞬だけ、質量の中心が生まれたように。

  

  そして──その中心に、ひとりの少女がいた。

  

  白い髪がゆっくりと降りる。風も止み、草も静まり返る。ただ彼女だけが、呼吸していた。細い肩を震わせながら、息を吐く。

  風が止んだ。音もない。土と草の匂いだけが、ほのかに鼻をくすぐってくる。男たちは皆、吹き飛ばされた先で、動かないままだった。

  

  

  *  *  *

  

  

  「……お姉ちゃんっ!!」

  

  声がした。

  ぱたぱたと、草を踏む軽い足音。小さな靴音。小走り。あわてた息遣い。マツリが、そろりと顔を上げた。

  

  ──少女だった。十歳くらいか、それより下か。ブロンドの髪を三つ編みにし、きちんとしたブラウスとスカートを着ている。小綺麗な身なり。顔はまだあどけないが、その目は涙で濡れていた。

  

  「だ、大丈夫? 怪我してない? あの、お姉ちゃん……!」

  

  ──お姉ちゃん。その言葉が喉に引っかかった。さっきまで金具が触れていた場所が、幻みたいにむず痒い。返事をすれば、高い声が出る。それが怖くて、でも少し、嬉しい。

  (……あ、そっか。いま、僕……女なんだ)

  

  その事実を、いまさらのように思い出した。身体中が痛い。でも、頭は不思議と冴えている。魔力の高ぶりがようやく落ち着き、代わりに、ひどく疲れたような感覚がじわじわとやってくる。

  

  「……うん、大丈夫。ありがとう」

  

  そう言うと、少女はほっとしたように小さく微笑んだ。

  

  「よかった……ほんとに、助かったの。こわくて……でも、お姉ちゃんが……!」

  

  少女が、ぽろぽろと涙をこぼしながら、マツリの手をぎゅっと握る。その細くてあたたかい手の感触に、ようやく"世界が戻ってきた"ような気がした。

  

  (……とりあえず、こいつらを縛っといたほうがいいかな)

  

  振り返れば、男たちは誰一人起き上がっていない。かすかにうめく声はするが、反撃はなさそうだ。マツリは自分の手首に巻かれていた縄をほどき、ぐるりと見渡し──立ち上がろうとして、

  

  「……いっっ……!?」

  

  全身が体育祭の翌日みたいな悲鳴を上げた。背中の奥がぎゅうっと攣り、膝に力が入らない。太腿が細かく震え、指先には薄い痺れ。

  

  (ああ、魔力は無限でも筋肉は有限ってこと……!)

  

  息を整え、ローブの裾を踏まないようにゆっくり起き上がる。小さく一歩、少女の前へ出る──そのときだ。

  

  「動くな! 武装解除、速やかに!」

  

  ──風を割る足音。複数。速い。間隔が揃っている。

  

  (……増援!?)

  

  反射で身構える。とはいえ、痛む膝がそれ以上の無茶を許してくれず、半歩だけ。

  だが駆け寄った一団は、刃をこちらへは向けなかった。マツリの横をすり抜け、倒れている男たちに駆け寄ると、そのまま縄や手枷のようなものを取り出して、慣れた手つきで拘束していく。

  

  「よし、この四人は確保。現地残留、対応中!」

  

  「対象の女の子と、もうひとり! 無事か確認! 警戒態勢は維持!」

  

  あっという間だった。動きに無駄がなく、言葉もはっきりしている。──明らかに、素人ではない。そのなかのひとりが、マツリの方へと歩いてきた。

  

  青っぽい髪。やや無造作にまとめた頭。軽装だが、動きやすい装備と革の胸当て。若い。十代後半──いや、二十歳そこそこか。優しげな目元。だが、動きは鋭い。

  

  「まさか、まるごと片づけてくれてたなんてな……。君がやったのか?」

  

  そう言って、彼は右手を軽く掲げ、挨拶のように小さく振った。その瞬間、ようやく。すべてが終わった、という実感が、マツリの胸に降りてきた。

  

  「俺はカナメ。エラスタ・カナメ。……えっと、君は?」

  「……ヒイラギ・マツリ、です」

  

  言ったあとで、ふと──固まる。

  

  「マツリ……ヒイラギ? うーん……ヒイラギ・マツリ……? いや、でも……?」

  

  ぼそぼそと口の中で繰り返す。だんだん、自分でも何を言っているのかよくわからなくなってきた。カナメは、首をかしげながら聞き返してくる。

  

  「えっと……ヒーラギ・マツリさん? で合ってる?」

  「……はい。たぶん。たぶん、です……」

  

  妙な間と、ちょっと赤くなった頬と、情けない返事。それでも、すべてが終わったのだという安堵が、じんわりと胸に広がっていた。

  

  そのまま、なし崩しのように馬車に乗せられた。どうやら、さっきの男たちは最近このあたりを騒がせていた窃盗団らしい。最初はしょぼい盗みだけだったが、最近は誘拐や人身売買にも手を染めていたとか。やばすぎる。

  

  しかも、あの女の子。実はクロネッカー商会──この地方ではけっこう有名な商家らしく──その、商会長の娘なんだそうだ。すごく大事な存在、らしい。

  

  (ていうか、情報量、多っ!!)

  

  わけがわからない。知らない単語がいくつも出てきたし、固有名詞やら文化的背景やら、全部が「異世界語」のノリで、半分くらい理解できてない。

  でも、馬車の中は、意外と快適だった。革の匂い。木の軋む音。時折窓から入ってくる風。

  

  (……馬が、走ってる……。ほんものの、馬が……っ)

  

  どうでもいいところで、やたらと感動していた。そうしてしばらく揺られていると、視界の向こうに、街が見えてきた。

  城壁はないけれど、そこそこの規模の建物が集まり、人の気配が溢れている。都市とまではいかないけれど、旅の拠点としては十分すぎるほどの、活気ある街。

  ──この世界での、最初の「人の社会」。その入口が、ようやく目の前に現れた。

  

  ギルドと呼ばれた建物は、思っていたよりも、ずっとちゃんとしていた。

  石と木材を組み合わせた外観。広い正面玄関。扉を開けると、ざわざわとした人の声、装備の金属音、革靴が床を打つ音──まさに冒険者が集まる場所という雰囲気。

  それっぽい格好の人たちが、ちらりとこっちを見る。マツリはちょっと緊張しながら、カナメたちの後ろについていった。

  

  (……いよいよ、異世界っぽくなってきたなぁ)

  

  高揚と不安が入り混じるなか、事務カウンターの前に到着。カナメと、連れてきた人たちがなにやら会話し、報告やら書類やらを済ませていく。マツリは横に立って、なんとなくきょろきょろしていた。すると──

  

  「……あのさ、マツリ。賞金受付、行かないの?」

  

  カナメが、不思議そうな顔で尋ねてきた。

  

  「えっ? ……何の?」

  「え、だから──さっきの窃盗団の連中。最近、誘拐とかまでやらかしてて、結構な額の手配がかかってたんだよ。君が一人であそこまでやったなら、賞金、まるごと受け取りになるはずだし……」

  「…………」

  

  言葉に詰まる。

  ──知らない。本当に、なにも知らない。あいつらが窃盗団だったことも、手配犯だったことも、ましてや賞金の話なんて、いま初めて聞いた。

  

  「……え、もしかして。ごめん、勝手にこっちの人だと思ってたんだけど──君、外国の人?」

  「…………まあ、はい……みたいな……」

  

  視線を伏せる。心臓が、嫌な意味で跳ねた。

  

  (やばい……これって、密入国では!?)

  

  前科一犯、みたいな雰囲気を勝手に感じて、思わず身構える。

  

  「あ、いや大丈夫。こっちの法律だと、Bランク相当以上の公益クエストを達成した人には、市民権が与えられるって条項があるんだよ。で、あの窃盗団、Bランク+指定されてたから──クリアってことになる。書類処理ちょっとあるけど、こっちで進めておこうか? 賞金も出るし、住居手配もできるはず」

  「……………………」

  

  ぽかん、と口を開けた。よくわからないうちに、なんか──すごい展開になってる。

  家! ? お金! ? 市民権!!?

  

  (やっぱり……やっぱりこれ……大当たりのパターンの転生だぁぁぁぁあああ!!!!)

  

  叫びたくなる衝動を、なんとか表情の裏に押し込める。

  けれど──頬は、ふわりと緩んでしまっていた。

  目の前にいるカナメが、くすりと笑う。

  

  「……助かったよ。あの娘も。街も。……ありがとう、ヒーラギ・マツリ」

  

  誰かに、ありがとうって言われたのなんて、いつぶりだろう。マツリは、ちいさく──ほんの、ちいさくうなずいた。

  

  

  

  

  【02】

  

  それから、数か月が経った。

  

  今では、すっかり"こっちの生活"にも慣れてきた。

  街を歩けば、目に入るのは人間ばかりじゃない。耳の長いエルフに、角を持った獣人、背の高い巨人種。どういうわけか男女ともに美形率が高く、日常的に眼福だらけで、飽きることがない。……もっとも、美人ににこっと笑われるたびに固まってしまうのは、相変わらず前世から抜けない癖だったが。

  

  この街でよく顔を合わせるエラスタ・カナメも、そんな美形率の高さを象徴するひとりだ。最初に助けてもらった窃盗団の件のあと、税金の支払いで立ち往生していたときに再会して、以来、何かと助けてもらうことが増えた。今では、気楽に話せる数少ない相手である。

  

  「……よっと」

  

  人差し指をくいっと曲げると、卓上のカップがくるりと浮いて、湯気を立てたまま手元へ寄ってくる。

  

  「ふふ、こっちのほうが、好きかもなあ」

  

  当初は魔法といえば戦闘用のものばかりをイメージしていたが、こういった生活魔法や日常魔法といった分類のほうが、よほど使われている回数は多いのだという。

  

  とはいえ、どういうわけか戦闘に巻き込まれることも少なくなかった。たとえば街道で魔物に襲われたとき。あるいは、鉱山に大量発生したとき。でも──いざ魔法を撃てば、結果は決まっていた。

  

  数に数を重ねる。ただそれだけだ。

  指先から放たれる光弾が、途切れることなく魔物の群れを削り取っていく。ひとつ、ふたつ、みっつ──気づけば、前方を覆っていた影はあっという間に崩れ落ちていた。その様子を見ていたカナメは、目を丸くして言ったものだ。

  

  「……すげえな。見たこともない魔法の撃ち方だ」

  

  カナメの驚いた声を思い出すと、今でも胸が少し誇らしくなる。

  あの窃盗団のとの遭遇とき、怒りに任せて撃ちまくったあの感覚──頭の中でぼんやり浮かんだ《消費魔力量×変換効率=出力》というイメージ。あとで調べてみれば、どうやらそれは魔法理論としてそこそこ正解に近かったらしい。

  

  もちろん、実際はそんなに単純ではない。単位時間あたりの魔力放出量や、回復速度の個人差、術式側の工夫や調整──要素はいくらでもある。だからこそ、多くの魔術師や戦闘職は変換効率のいい術式や、燃費の良い上級魔法を習得しようと四苦八苦しているのだ。

  

  (……いやあ、あのときの僕、マジでかっこよかったな……!)

  

  けれど、あとで調べてわかったことがある。カナメが"見たことない"と言ったその魔法──実際には、分類上はごく初歩的なものだった。

  

  この世界の魔法は、長い歴史の中である程度体系化されている。

  たとえば習得難易度によった段階分けはもちろん、属性ごとの系統や、術式の構造による呼び名もある。攻撃に特化したもの、補助に向いたもの、生活に根ざしたもの──膨大な数の魔法が、研究者や教育機関によって整理されてきた。

  分類そのものはまだ流動的で、地方や学派によって呼び方が違うこともあるが、それでも"共通言語"があるのはありがたい。

  

  そのなかで初級魔法というのは、習得が比較的簡単な代わりに、あらゆる効率が悪い魔法の総称だ。変換効率が低く、魔力の"燃費"が悪い。そのくせ、一度に消費できる魔力量にも上限があり、結果として出力も弱い。普通の魔法使いなら、すぐに頭打ちになる性能だ。

  

  だが──マツリの場合は、そもそも魔力量が無限である。どれだけ燃費が悪かろうが、そもそも燃料が尽きない。ならばどうするか? 答えは簡単。連打するだけだ。

  ひとつひとつの威力が低かろうと、数で押し切る。雨あられのように、延々と撃ち続ける。それだけで、"たいていは"どうにかなるのだから、楽なものだ。

  

  

  *

  

  

  「──ほんっと、アンタさあ。そういう考え方してると、いつか死ぬよ?」

  

  がやがやと人混みのざわめく通り。マツリは思わず、目の前の赤髪の女を見上げた。

  背が高く、赤髪をひとつにまとめた横顔。腰の無骨な剣とすらりとした体躯。荒っぽい口調のわりに顔立ちは整っていて、人混みのなかでも強く目を引く。

  

  「えっ、ちょ、いきなり何!? 心読まれた!?」

  「顔に出てんのよ、"初級魔法連打すりゃ勝ち確~"って」

  「……出てた!? やだ、こわっ……」

  

  これが、アカネとのいつものやり取りだった。

  カナメの紹介で知り合って以来、彼女はたまにこうして同行してくれる。ぱっと見は豪胆な剣士だが──実際は剣を振るうよりも、魔物や植物の生態や、素材の性質なんかの話になると延々と解説を始める、筋金入りの研究オタクだった。

  

  魔術体系にも詳しく、マツリの魔法についても初見で性質を見抜いていた。カナメをはじめ大多数の冒険者は「見たこともない大魔法」だと目を丸くしていたのに、アカネだけは最初の一瞬で言い当てた。「それ、初級魔法の連打でしょ」、と。

  

  「そもそも初級魔法なんて、訓練用のおもちゃだよ。普通はあれじゃ装甲すらへこまないんだから」

  「いやいや、でも僕は撃てば撃つほど強いし? 無限連打系女子だし?」

  「……なにその肩書き。自分で言ってて恥ずかしくない?」

  「ちょっと恥ずかしい……でも言ってみたかった……」

  

  半分冗談、半分本気。最近はこの世界にも慣れ、強さを実感する場面も増えた。だからつい口が軽くなる。

  けれど──本当にやりたいことをやりたいと言えず、やりたくないことを押し付けられても断れない。そんな卑屈と言ってもいい性格は、前世からまったく変わっていなかった。

  

  今は「白髪ロングの美少女」という姿で、半ば演じるように冗談を言ったり胸を張ったりしている。けれどその芯の部分は残ったまま。

  「……このままだと、調子に乗ったままこじらせて、普通にヤバい系の女子になっちゃうぞ僕!?」という妙な焦りもあった。

  

  「はあ……だからって、それに頼ってたら本当に危ないんだって。即死級の初見殺しみたいのだってあるんだから」

  

  「……まあ、それは、たしかに」

  

  思い出す。つい先日も、そんな場面があった。

  A級冒険者を二人も含むパーティーが、とあるモンスターの討伐で壊滅しかけた。精神操作系──そう聞いたとき、マツリも内心ぎくりとした。まだ精神保護スキルの全容を知らなかったからだ。

  

  臨時に救助隊が編成され、マツリも半ば数合わせのような形で同行した。だが現場に着いてみれば、その救助隊すらろくに動けず、絶望的な空気が漂っていた。

  

  モンスターは、えげつない技を次々と繰り出していた。目を合わせれば混乱に陥り、隣に立つ仲間が敵に見える。耳に囁くような幻覚で、延々と悪夢をリフレインさせる。極めつけには、触角をひらひら揺らして「急に全身が熱い」とか「理性が飛びそう」とか言わせてくる──なぜ最後だけ妙に方向性がいやらしいのか。

  

  けれど、それでA級二人がふらふらになり、救助隊も総崩れだったのだから、笑い事ではない。その場はもう、全滅が目前に迫っていた。

  

  ……ただひとり、マツリ以外は。彼女には何も効かなかった。混乱も幻覚も、発情じみた異常状態すら、すべてが風に流れる埃のようにすり抜けていった。

  それでも事実として、A級冒険者が二人もいて、救助隊まで加わってなお壊滅しかけたのだ。ああいう「知らないと一撃で詰むタイプ」が恐れられるのも、当然の話だった。

  

  (……まあ、それでも僕は、結局どうにかなっちゃったんだけど)

  

  思い返すと、ぞっとするより先に妙な得意顔になってしまう自分がいる。──だからこそ、ついアカネに突っ込まれるのだろう。

  

  今日は二人で、隣町の「冒険者交流会」に来ている。通りはすでに人でごった返し、あちこちで売り声や歓声が飛び交っていた。魔導具の展示、各地の珍しい素材、得体の知れない薬草の屋台まで。まさに"冒険者のお祭り"といった空気だ。

  近々アカネとカナメがダンジョンに挑む予定があり、その下調べを兼ねて薬草や素材の知識を仕入れる算段だった。だからマツリは"おまけ"として同行しているにすぎない。

  

  「おー、焼き鳥か。炭火の匂いがたまんねえな……でもまだ昼には遠いし、今寄ったらマツリが絶対食いだめするだろ。先に見るもん見てからだ」

  

  ──でも、本当は。

  

  (僕も行ってみたいんだよな……)

  

  胸の奥でぽつりと浮かぶ。無限の魔力があるのだから役に立てるはず──そんな自信はある。けれど、口にするのはなぜか怖くて、喉の奥で固まってしまう。お祭りみたいに賑やかな通りの声にまぎれて、結局その一言は消えていった。

  

  「ん? なんか言ったか?」

  

  すぐ隣でアカネが振り返る。

  

  「え、いやいや! なんでもない!」

  

  慌てて手を振ると、アカネは訝しげに眉をひそめ、それきりあっさりと前を向いた。

  

  (……やっぱり、言えない)

  

  長い髪の毛先を指先でいじりながら、苦笑いしか出てこなかった。

  

  「おー、やっぱこっち系の露店が出てたな。見てろよ、ぜったい面白いのがあるから」

  

  アカネがそう言って、さっそく人混みをかき分けていく。その背中を追いながら、マツリは小さく苦笑する。

  

  「……いやもう、この人についてくと、絶対どこかで解説モードが始まるんだよな」

  

  アカネは露店の棚を物色しながら、ふいに瓶のひとつを手に取った。

  中には乾燥させた草の茎や根がぎっしり詰まっている。体力回復や解毒に使われる、ごくありふれた薬草の類だ。

  

  「これな。治癒魔法と相性がいいんだよ。傷口に塗ってから治癒をかけると、魔力の通りがよくなって回復が早まる。だから治癒師は今でも必ず持ち歩いてる。……王都の一線級なんかだと、これを応用して切断した手足すら繋げるって噂だぜ。直される側が正気でいられるかは別だけどな」

  

  そう言ってアカネは瓶を戻し、今度は隣の小さな石を手に取った。表面は白く濁っているが、ほんのりと光を宿している。

  

  「こっちは光石。少量の魔力を流すだけで光る。発光魔法でも代用できるけど、魔力の節約になるからダンジョン潜りには必須。使い捨てだけどな」

  

  立て続けに解説が始まる。マツリはうなずきながら聞いていたが、やっぱりこの人の本業は剣士ではなく研究者なのだろうと、苦笑せずにはいられなかった。

  

  ところが──アカネの視線がふいに横の棚へと滑った瞬間、表情が変わった。

  目の奥にきらりとした光が宿り、口元がにやりと歪む。

  そこに並んでいる瓶や小瓶は、さっきまでの無害な薬草や石とは雰囲気がまるで違う。色も形も妙に艶めかしく、見ただけで「普通じゃない」と直感させる品々だった。

  

  「お、出てる出てる。スンドメ草精製品。いわゆる『我慢汁』ね」

  

  名前の時点でどうかと思う響きだが、アカネは楽しそうに解説を始める。

  

  「本来は神経系の治療用なんだけどさ、男が飲むと面白い副作用があってさ。要するに……出そうで出ない。長く維持されちゃうわけ。……まあ副作用って言うより、むしろあえて使う派もいるらしいけどな」

  

  「ひぃっ……!」

  

  マツリは思わず身をすくめた。元の身体が覚えているのか──条件反射みたいに理解してしまう。妙にリアルに想像できてしまって、背中がぞわっとした。

  

  「ん? なんでアンタが怯えてんの?」

  「い、いや……なんでもない……!」

  

  慌てて目を逸らした先で──奥の棚に、さらに妙な小瓶や器具が並んでいるのが目に入った。形も用途も見当がつかないが、どこか"そっち系"の匂いがする。マツリがちらっと視線を泳がせた瞬間、アカネがにやりと口元を歪めた。

  

  「……あー、気になるわけね。へえ、興味あんのか~?」

  「ち、ちがっ……!」

  「まあいいけど。ざっと説明してやろっか。これは魔力を快楽に変換するやつ、あっちの青いやつは魔力回路をぐちゃぐちゃにしてランダムで"おもらし"みたいに暴発させるやつ。で、あれは短時間だけスキルを無効に……」

  

  「へ、へえ……!」

  

  アカネの説明は続く。マツリはひきつった笑みでうなずくしかなかった。ピンと来ているわけじゃない。ただ、頭のどこかに「えっ、そんなものまであるの?」というざわめきだけが残る。

  

  ──そういえば。

  

  せっかく女の子になったのに、"そういうこと"はほとんどしていなかった。

  

  (いや、何回かはそりゃしてるけどさ……! でも……)

  

  鏡に映る自分は、たしかに圧倒的にかわいい。思わず見とれるほどだ。けれど、どういうわけか──自分自身が興奮の対象になることはなかった。

  男の頃なら、アカネみたいなタイプを前にすれば、絶対あれこれ想像していたはずだ。だけど今は、どうにも空回りする。試しに夜、ひとりでやってみたこともあった。けれど結果は「んんん……?」。

  

  痛さや気持ち悪さのほうが勝ってしまって、なぜか「もったいない」という感覚まで湧いてきた。興味がなくなったわけじゃない。むしろ逆だ。なのにどうにも方向性が合わない。ツボが見つからない。

  「じゃあ逆に、男に対してそういう感情になるのか?」と考えたこともあった。けれど──

  

  「おーい、こっち!」

  

  そのとき、人混みの向こうから手を振る影があった。青髪が陽光を反射し、整った顔立ちに爽やかな笑み。エラスタ・カナメ。

  この世界にはイケメンや美女がやたら多いが、そのなかでも頭ひとつ抜けている印象がある。けれど。

  

  (……全然、ときめかないんだよなあ)

  

  そう心の中でぼやきながらも、マツリは手を振り返した。

  

  「やっぱりここにいたか。──で、収穫は?」

  「おう。薬草と光石は押さえた。あとは……」

  

  言いかけたところで、アカネの足が止まった。怪しげな小瓶の並ぶ一角を抜けると、今度はレアものコーナーといった趣の露店が軒を連ねていた。宝飾品のかけらや見慣れない鉱石、珍しい乾物の瓶詰め。人だかりの奥からは「おっ」「珍しいな」と歓声が上がる。

  

  アカネがふと棚のひとつに目を止め、瓶を手に取った。

  

  「……あれ、これ。珍しいな。"カエル茸"じゃないか」

  

  瓶の中には乾いたキノコが詰まっている。マツリはぽかんとした表情を浮かべた。

  

  「カエル……? 茸?」

  

  アカネが横からのぞき込み、肩をすくめる。

  

  「そうそう。特定の術式と一緒に胞子を吸うと、数時間カエルになる。冒険者の間じゃ笑い話の定番だな」

  「えっ、なにそれ!? ……戻れるんだよね!?」

  「時間経過か解呪で治る。だから笑い話で済むんだよ」

  

  アカネは瓶を棚に戻し、少し声を落とした。

  

  「──でも、さっきも言ったけど、ダンジョンにはマジで即死級のトラップやモンスターだっているんだからな」

  

  彼女は隣の黒ずんだ鉱石を軽く叩く。

  

  「石化系なんかがそうだ。一人で踏んだらその場で終了。仲間がいなきゃ助からない」

  

  カナメも真顔でうなずいた。

  

  「種族変化系の罠も報告がある。踏んだ瞬間、人じゃなくなる。実物は見てないけど、調査記録には残ってる」

  

  「そ、そんなのまで……!」

  

  アカネは肩をすくめ、マツリを横目に見た。

  

  「……ほんと、気を付けろよ。アンタ、力はあるけど常識がすっぽ抜けてるからさ。運良く今まで勝ててただけで、罠に当たったら即アウトってことだってあるんだ」

  

  真正面から突きつけられて、マツリは一瞬言葉に詰まった。けれど同時に、胸の奥にじわりと自負も湧いてくる。

  

  (……まあ、でも。実際これまで全部なんとかなってきたし……!)

  

  無限の魔力があれば、どんな相手でも押し切れる。あの窃盗団も、鉱山の魔物の群れも、救助隊のときも──結局は自分ひとりで片付けてしまったじゃないか。

  危ない、と言われればたしかにそうかもしれない。けれど、心のどこかでは「自分なら例外になれる」と信じて疑わなかった。

  

  そんなマツリに、カナメがやわらかい声をかけた。

  「それと……マツリ。君は無自覚に強いから、変に妬まれたり恨まれたりすることもある。本人に悪気がなくても、そういうのって積もるんだ。だから……気をつけて」

  

  マツリはきょとんとした顔で瞬きを返す。

  すかさずアカネが口笛を吹いた。

  「おーおー、カナメくん、またそういうとこ出てるな。"俺が守る"ってやつ?」

  

  「ち、ちがっ──!」

  カナメが咳払いし、わずかに頬を赤くして視線を逸らす。アカネはそれを見逃さず、にやにやと肩を揺らす。

  

  「へぇ……なるほどねぇ~」

  

  「……?」

  マツリは首をかしげた。何がおかしいのか、まったく理解できていなかった。

  そうして三人でひと通り買い出しを終えると、ちょうど昼下がりの空気に人混みもいっそう熱気を帯びていた。祭りのような通りには、まだ見て回れるものが山ほどある。

  

  「よし、とりあえず必要なもんは揃ったな」

  

  カナメが腰の袋を叩いた。

  

  「じゃあ、あとは自由行動か?」

  

  アカネがちらりとマツリを見て、にやりと笑う。

  

  「マツリは常識抜けてるんだから、"モンスターフォーラム"でも行って勉強しておいたら? 罠や魔物の展示とか講義、今ちょうどやってるはずだぜ」

  

  「えぇー……勉強ぉ?」

  

  マツリは思わず顔をしかめる。

  通りの向こうからは、屋台の呼び込みや見世物の歓声も聞こえてきた。見に行けば絶対に楽しいに違いない。……あるいは、さっきの怪しげなコーナーをもう一度覗いてみるのも──

  

  心の中で、三つの選択肢が並ぶ。

  

  -真面目に"モンスターフォーラム"へ  ►3ページへ

  約 6,500字

  TSF/女体化

  

  -こっそり"例のコーナー"を再訪  ►4ページへ

  約 8,000字

  R-18/TSF/女体化/オナニー/快楽堕ち(甘)

  

  -勉強は面倒臭い。なにか面白そうなところはないかな?  ►5ページへ

  約 30,000字

  R-18/transfur/虫化/蜂化/蛹化/羽化/交尾/産卵/人生終了/尊厳破壊/快楽堕ち(虫)

  *

  

  

  

  

  *

  

  【03】

  

  ──じゃあ、ちょっと見てこようかな。

  

  そう言って、マツリはひとり、街の外れにある施設へと足を向けた。

  

  《モンスターフォーラム》。

  

  冒険者向けの情報提供施設で、資料展示や講義、映像記録の閲覧などが行えるらしい。場所は石造りの立派な建物で、入り口には大きなアーチと、羽根を広げた獣人の彫像が飾られている。

  

  門をくぐると、案内係の女性が声をかけてきた。

  

  「初めてのご来場ですか? 本日は来場記念に、こちらの"支援食"をどうぞ」

  

  そう言って手渡されたのは、小さな紙箱だった。開けてみると、中には薄いビスケットのようなものが数枚、丁寧に並んでいる。

  

  「……お、おやつ?」

  

  ちがう。ぜったいちがう。見た目はおやつだが、これはそうじゃないと本能が告げている。試しにひと口かじってみる。

  

  「…………うわ、粉……!」

  

  見た目の期待を大きく裏切ってくる乾いた食感と、極限まで控えめな甘さ。というか、甘さはおそらく存在しない。むしろ麦の風味と油脂のコクだけで構成されており、なんとなく"前世"で食べた非常食を思い出す。

  

  (なんか、小学校のときに食べた災害訓練のパン、思い出すな……)

  

  それでも一応、腹には溜まる。水が欲しい。展示室に向かいながら、マツリはなんとなく自分の頬が緩んでいることに気づいた。

  

  (……ほんと、こっち来てから、毎日楽しいんだよなあ)

  

  

  *

  

  

  館内は、想像以上に"ちゃんと"していた。

  剥製や模型、魔力投影による映像記録、研究者の論文パネル──いかにも「教育施設」といった雰囲気で、正直、もうちょっとボロい場所だと思っていた分だけ、ちょっと感心してしまう。

  

  展示の最初に出てきたのは、ヒュドラ。

  ──多頭の蛇。ゲームでも定番の"ボスっぽい"やつだ。けれど、ここの解説は違っていた。

  

  《分類:多頭型・再生型・陸棲モンスター》

  成体での体長は平均2.5メートル前後。

  最大で6つの頭部を持つ個体が報告されているが、通常は2~3程度で、数に応じた知能差・能力差は特に確認されていない。

  主に薄暗い湿地や森林の奥地を好み、雑食性だが肉を優先して捕食する傾向がある。

  肉質は弾力があり、下処理を施せば食用としても流通可能。燻製・干物などに加工される。

  

  「……あ、食べられるんだこれ……」

  

  マツリはパネルと模型を交互に見ながら、思わず苦笑する。ゲームでは強敵だった記憶しかないのに、まさか干物コーナーに並ぶ日が来るとは。

  

  続いて展示されていたのは、スライム。どこにでもいそうな、ぷるっとした球体。模型はやや半透明で、中央に種のような核が埋まっている。

  

  《分類:軟体・魔力吸収型・不定形》

  腐敗物や魔力の残留体を摂取して成長。

  斬撃に対して高耐性を持ち、物理的対処が困難。

  また、見た目は似通っているが、種族ごとの性質は大きく異なる。

  一見して識別が困難なため、「遭遇しても関わらない」が基本方針。

  

  「……うーん、たしかに"戦わないほうがいい"って、知らないと危ないかも」

  

  あの見た目で、物理効かない・見分けがつかない・対処法持ってなかったら終わり──って、たしかに最悪だ。ゲームだと最弱ポジションなのに、この世界じゃほぼトラップだ。ズレの大きさに、背中がじんわり汗ばむ。

  というか、終盤の敵なんて概念は存在しないんだよな、とマツリは独り言ちた。相性と知識次第でどうにかなるやつもいれば、初見殺しで一瞬で終わるようなモンスターもいる。

  

  (……って、アカネも言ってたなあ)

  

  ちゃんと知識を付けておかないと、いつか死ぬぞ──と、何度か脅されたことを思い出す。実際「脅かしすぎでしょ」と思ったけれど、今こうして展示を見ていると、あながち大げさでもなかったのかもしれない。

  

  

  *

  

  

  館内を進んでいくと、展示の雰囲気がふわりと柔らいだ。

  木目調のスペース。長机。黄金色の液体で満たされた容器が整然と並べられ、テーブルクロスには蜂の巣を模したような六角形の模様がプリントされている。

  

  「試食、どうぞ~」

  

  若い受付の女性が、にこやかに手渡してくれたのは、使い捨てと思われる小さなカップ。

  

  「は、はあ……ありがとうございます……?」

  

  中には、どろりと金色に輝く液体。ほんのわずかに香ばしい香りが漂う。スプーンを入れて、ひとすくい。口に含んだ瞬間──マツリの目がぱちっと見開かれた。

  

  (……はちみつ……!?)

  

  最初は似てると思っただけだ。けれど、舌に広がる甘さは、まさしく蜂蜜だった。濃密で、どこか花のような香り。粘り気と、なめらかな喉越し。

  

  「……なにこれ、ふつうに……すっごいおいしい……」

  

  さっきの「粉ビスケット」と同じ空間で提供されているとは思えない。甘さだけじゃない。舌に残らない清涼感、鼻に抜ける香り──どこか懐かしくて、幸福な気持ちになる。

  

  (やっぱ……甘いものって、正義……)

  

  ふわふわとした気分でもう一口。そのまま、足元に置かれた展示パネルに視線を落とす。そのすぐ隣に、「蜂型モンスター」の展示があった。

  目を引くのは、人間の子供ぐらいの大きさの蜂の模型。漆黒の外殻、薄い羽、丸みのある腹部。見た目はやや可愛らしくデフォルメされていて、あくまで「展示用」らしい。

  

  《種族名:ハイ・アピス》

  分類:昆虫型・集団感応型モンスター

  知性水準:中/共生適性:高

  

  高い社会性を持つ飛行型モンスター。個体間で感応通信による情報共有が可能で、群体全体での統制行動を取る。

  ただし、通常の状態では人間を含む他種族に対して敵意を示さず、観察対象として静かに距離を保つ傾向がある。

  食性は花蜜および果実由来の糖質を主とし、採取される蜂蜜は非常に栄養価が高く味も良好。一部地域では薬蜜としても取引されている。

  

  (うんうん、美味しいもんな、あれ)

  

  マツリは空になったカップを軽く振ってから、続きのパネルに視線を滑らせた。

  

  ──ハイアピスの群体は、たった一体の女王を中心とし、他すべての個体は雄である。

  女王は、膨大な魔力を蓄積・分配する役割を担っており、魔力の供給が完全に尽きるまで生存し続けることが知られている。

  女王が死亡した場合、群体は一定時間内に最も成熟した雄個体の一体を新たな女王へと変態させることで継続される。

  この変態は自然な生理反応であり、体内構造・生殖能力・魔力流路の大部分が改変される。

  

  (……って、これ、完全に逆ハーレムでは……?)

  

  どこか他人事のように読んでいたはずなのに、唐突に、構造としての生々しさを理解してしまい、マツリは小さく吹き出しかけた。

  

  (……まあ、でも、元の世界の蜂もそんな感じだった気がするしなあ……)

  

  女王がひとり、雄がわらわら。女王は基本無敵で、死ぬときにだけ役目が引き継がれる。ファンタジー要素は多いが、生態としてのリアリティもなくはない。

  

  ──なお、女王が魔力を保持したまま死亡した場合、群体の感応ネットワークに異常が発生し、通常とは異なる変態プロセスが発動することが確認されている。

  

  (……ん?)

  

  マツリは、少し眉をひそめた。

  

  (魔力が残ったまま、って……?)

  

  視線を下げると、そこにはさらに数行の記述が続いていた。

  

  ──この現象は「スキル」として分類されており、現時点では再現手段・回避方法ともに確立していない。

  そのため、特に危険種指定はなされていないものの、調査団はこれをユニークスキルと仮定している。

  

  「ユニークスキル……?」

  

  その言葉の響きに、マツリは小さく反応した。

  たしか、一般的な魔法とは異なり、術式の再現や模倣が困難なもの。本人の体質や種族、生育条件などに深く依存し、誰にでも使えるわけではない固有能力。

  マツリが持っているスキル、「魔力無限」や「精神保護」も、たぶんそれに当たる。

  

  (つまり、この「女王不在時の変態スキル」って……)

  

  【ユニークスキル:《女王不在反応》】

  女王が"魔力を保持した状態で死亡"した際、働きバチの性質が変異。

  その後、周囲の生物から最も魔力蓄積量の多い個体を選出し、新たな女王として作り変える処理が強制的に実行される。

  対象の性別・種族・構造を問わず、生殖機能/魔力構造/ホルモン分泌系などが段階的に上書きされ、完全な女王個体として再構築される。

  変換完了後は、働きバチとの感応ネットワークが自動的に再接続され、群体が安定化する。

  

  (……………………)

  

  ゆるキャラ風のマスコットが、また飄々とした顔で吹き出しを掲げている。

  

  『うっかり女王を倒しちゃった? はい、アナタが次の女王♪』

  

  「…………おい」

  

  思わず突っ込みそうになるのを堪えつつ、マツリはぐっと目を細めた。

  

  (たしかに、これは……知ってなきゃやばいやつだ……)

  

  けれど、なぜか怖さはなかった。むしろ、展示として整理されていることに、妙な安心感すらあった。

  

  (ちゃんと情報さえあれば、回避できる)

  

  アカネも言っていた。常識を知っていれば、踏まない罠はたくさんある。俄然、やる気が出た。今はまだまだだけど──この世界は興味が尽きない。これから学んでいけば、きっと、「だいたいは」避けられる。

  ……もちろん、すべてが簡単にいくわけじゃないだろう。まだまだ知らないことも多いし、覚えることも山ほどあるはずだ。

  

  でも、それも含めて──なんだか少し楽しみだった。

  

  

  *  *  *

  

  

  展示コーナーをひととおり巡り終えると、館内はもう昼下がりの空気に変わっていた。明るい石畳の廊下。外光をたっぷり取り込んだ高い天窓から、青白い陽射しが差し込む。

  

  「……ふぅ」

  

  ふわりと長い髪を指で払って、無意識のうちに、マツリはスカートのすそを直す。脚を組みかえるときの、柔らかくしなやかな膝。小さく揺れるブーツの踵──そのどれもが、自分のものとは思えないほど繊細で、愛おしい。

  座ると自然に膝がそろう。つま先をちょこんと揃えて、足を組みなおすだけで、なぜか、すごく「女の子」をしている気分になる。

  

  (あ~……なんだろ、やっぱり……最高だ……)

  

  この身体になってから、毎日が新鮮だ。鏡の前で服を選ぶ。歩き方を工夫する。通りを歩けば、影すらも可愛いことが、ただただ嬉しい。

  他人に見られても恥ずかしくないどころか、「似合ってるかな」「もっと可愛く見える角度ってどれだろ」なんて、気づけば研究している。

  

  (でも……前の世界でも、こんな風に楽しかったこと、あったかな)

  

  思い出せるのは、仕事と義務感と、味気ない日常。何もかも「自分のため」に動ける今が、どうしようもなく楽しい。けれど──

  

  (……せっかくこの身体で、せっかくこの世界に来たんだから。なんか、役に立つこと、したいなあ……)

  

  頭に浮かぶのは、「魔力無限」「精神保護」というチートスキル。これだけは、絶対に自分だけのものだ。この世界で、ここまでの特権を与えられている人間は、そうそういない。

  

  (……魔法の勉強も、真面目にやってみよっかな)

  

  ふと、そんな気持ちになる。

  

  (あとは、ウォシュレットと醤油の普及……これは絶対やる……!)

  

  なぜか使命感だけは強い。

  

  

  *

  

  

  大きな両開きの扉を押して外へ出ると、空気が一気に変わった。昼下がりの光が石畳に反射してまぶしい。広場には飲食物を扱う露店がぎっしりと並び、香ばしい匂いや果実の甘い香りが風に乗って漂ってくる。

  

  (うわ……お祭りみたいだ)

  

  焼き串を片手に歩く冒険者、果汁の滴る木の実を頬張る子供、行列の先から響く売り子の声。視界の端を通り抜ける鮮やかな布や果実の山に、マツリはつい足を止めそうになる。

  スカートの裾が風に揺れて、慌てて押さえながら視線を巡らせた先──露店の合間、少し開けた場所にアカネとカナメの姿を見つけた。二人は顔を寄せ合い、何やら真剣な様子で話し込んでいる。

  

  「……で、やっぱ光石は余分に持ってったほうがいいな」

  

  「だな。あそこは通路が入り組んでるらしいし、魔力で照らすのは燃費悪い」

  

  聞き慣れない単語が飛び交って、胸がちくりとする。近づくと同時に、アカネが気づいてにやっと笑った。

  

  「──お、出てきたな」

  

  アカネが振り返って、にやっと笑う。

  

  「どうだった、展示。勉強になったか?」

  

  「うん、めっちゃ。……スライムって、雑魚だと思ってたけど、ぜんぜん違うんだね」

  

  「おまえ、そんなことも知らなかったのかよ……。ダンジョンで一番避けたい相手って言ったらスライムだぞ」

  

  「いや、あんなの"ぷにぷに"で終わりだと思うじゃん……。服にまとわりつくとか、ほんとやめてほしい」

  

  「だろ。知識ゼロで突っ込んでたら、命より尊厳が先になくなるタイプだな」

  

  「うぅ……気をつけます……」

  

  屋台の湯気が背中に流れてきて、マツリは小さく肩をすくめた。でも、すぐに顔を上げて、さっき二人が話していた言葉を思い出す。

  

  「……ねえ、さっきダンジョンの話してたでしょ」

  

  二人が同時にこちらを見る。マツリは指先で髪を耳にかけ、ほんの少し勇気を振り絞った。

  

  「僕も……行ってみたいかも」

  

  一瞬、空気が止まった。アカネが目を丸くし、カナメは驚いたように瞬きをする。すぐにアカネがにやっと笑った。

  

  「へえ、意外。アンタって、安全第一で家ごもりタイプかと思ってたのに」

  

  「う……耳が痛い」

  

  「でもまあ、悪くないな。ついに一歩踏み出す気になったか」

  

  軽口を交わす二人を見て、カナメがうなずく。

  

  「実はもう、行き先は決まってる。東の廃坑跡の奥で見つかった新しいダンジョンだ」

  

  「廃坑の奥……」

  

  マツリは目を瞬かせる。

  

  「でも、そんなとこ行って大丈夫なの?」

  

  「報告を聞く限りじゃ、今のところはそこまでえげつなくはないらしいな」

  

  アカネが肩をすくめる。

  

  「だからこそ、もう何組も突入してる。けど──」

  

  彼女の口元に、不敵な笑みが浮かんだ。

  

  「未探索のダンジョンってのは、何があるかわからない。未知のモンスター、珍しい素材、あるいは神器級のアーティファクトだって眠ってるかもしれないんだ。……だから面白い」

  

  その言葉に、マツリの胸がどくんと高鳴る。怖さよりも、期待のほうが大きい。見たこともないものに出会える。まだ知らない世界を、自分も覗ける。

  

  (……行きたい。いや、行けるんだ、僕も)

  

  屋台の喧騒も、漂う香ばしい匂いも、すべてが鮮やかに映った。心臓の鼓動とともに、胸の奥から湧きあがるのは──ただの好奇心じゃなく、確かな高揚感だった。

  

  (……そういえば、転生ってもっと……なんか、特別な『意味』が提示されるもんだと思ってたな)

  

  勇者になれとか、魔王を倒せとか。あの街に行けとか、あれを倒せとか、そういうやつ。

  でも結局、そんなのは出てこなかった。ただ腹が減って、靴が歩きづらくて、可愛い服を着て、知らない人と会って。

  

  (……でも、よく考えたら、前の世界だって同じだったんだよな)

  

  意味なんて勝手に降ってこない。目的なんて、誰も用意してくれない。もしあるとしたら──自分から探しに行くしかないんだ。胸の奥で、すとんと何かが落ちる音がした。

  

  (……そっか。だからこそ楽しいんだ)

  

  スカートを押さえながら石畳を歩き出す。ただ、ここに生きてることが、どうしようもなく鮮やかで、嬉しかった。

  

  空を見上げると、陽はまだ高い。

  世界は広く、まだ自分の知らないことだらけだ。

  その広さが、今はただ、心地よくてたまらない。

  

  

  【END...?】

  

  ************************************************************************************************************

  

  

  【03】

  

  可愛い身体を「そういうこと」に使うのはもったいない。

  そう思っていた。思い込んでいた。

  

  でも今は違う。

  

  もったいないのは──試さずに終わることだ。

  そう気づいてしまった瞬間、マツリはもう、人混みの中で足を止めていた。

  

  並んでいるのは薬草や魔導具と同じ体裁の露店。けれど、並べられている瓶や器具はどれも妙に艶めかしく、形も名前も「そういう方向」を連想させるものばかり。まるで、通りの真ん中に堂々とエロ本コーナーが開いているようだった。

  

  ──いやいやいやいや、何これ。

  

  瓶、小箱、妙な形の器具。説明書きは一切ない。花のつぼみのような棒、輪っか付きの金属の飾り、革紐の束。効果がわからないからこそ、いやでも想像が膨らんでしまう。

  

  (……いや、どこにどう使うんだよ、これ……!)

  

  心臓がどくどくと速くなる。逃げなきゃと思うのに、視線が勝手に吸い寄せられる。そのとき、ふわりと人影が横をすり抜けた。

  小麦色の肌、腰まで届く黒髪、耳の先がぴょこんと揺れる兎獣人の女性。胸も腰も、服の布地が耐えているのが奇跡としか思えないほどの激しいプロポーション。

  おっとりとした顔立ちなのに、歩くたびに体つきが主張して、視線を奪って離さない。

  

  (……な、なんだあれ、完璧じゃないか……!)

  

  マツリは一瞬、男だったころの感覚を取り戻してしまった。思わず「おおっ」と声が出そうになり、慌てて飲み込む。

  兎耳の美女は迷いなく店主の前に立ち、指を三本立てる。店主が無言で瓶を取り出す。見覚えのある形──さっきアカネが説明していた、出そうで出ないやつ。それを三つ。袋に詰めて、彼女は涼しい顔で立ち去っていった。

  

  (……三つ!? ……あれは彼氏、死んだな……!)

  

  頭の中でツッコミを入れつつ、心臓がさらに暴れだす。

  気づけば周囲にも目をやっていた。兎獣人だけじゃない。鮮やかなドレスの踊り子風の女、旅装束に身を包んだ褐色の女戦士、すらりとした長耳のエルフ──みんな普通にここで買い物をしている。大人たちが当たり前に、この「そっち側」の世界を行き来している。

  

  (……なんでだよ、この世界……性に奔放すぎない……!? いやたしかにアカネとかもそういう気質はある気がするけど……)

  

  汗ばむ掌をこすり合わせながら、マツリは棚に視線を戻した。棒。輪っか。紐。液体の入った瓶。どれも説明はなく、ただ形だけが雄弁すぎる。勇気を出して聞こうかと唇を開きかけたが──無理だ。絶対無理だ。こんな人混みの中で「これってどうやって使うんですか?」なんて言えるか。

  

  そのとき、すぐ隣で別の冒険者が店主に声をかけた。

  

  「これ、ほんとに……流すだけで反応すんのか?」

  

  「ああ。持ち主が意識すれば勝手に動くさ。ただし気分次第で暴走する」

  

  (……気分次第って何!? 余計わかんないんだけど!?)

  

  耳に入った断片的な会話が、かえって妄想を膨らませる。喉がひりつき、頭がぼうっとする。精神保護は効かない。自分から興奮している分には、止められないのだ。

  頭がぼうっとして、ふと視線を落とした先に──それはあった。

  

  (……ん? あれ、まさか……)

  

  どう見ても電動マッサージ機。

  肩こりや疲労回復に使う、ごく普通の器具。電源コードのようなものは一切ついていない。けれど、形状があまりにも酷似していて、疑う余地がなかった。おそらく、この世界では魔力か何かで動くのだろう。

  

  (……や、やば……これだけは、僕でもどう使うか想像できる……!)

  

  頭の中に、勝手に映像が浮かんでしまう。

  

  白い太もも。

  小さく震える腰。

  スカートをめくって、必死に堪えている自分。

  

  (……ああもう、想像しちゃだめだって……!)

  

  視線を逸らした先には、今度は「もっと露骨なやつ」が。

  先端に細い触手が生えた器具。生きているようにピクリと揺れて、材質も妙に柔らかそうで──

  

  (……これ使う人って、ほんとにいるの!? い、いるのか、この世界……!)

  

  ──けれど、すぐ隣で女冒険者がそれを手に取り、無言で会計していく。

  

  今度は棒状の器具が目に入る。単純すぎる形だからこそ、余計に直感でわかってしまう。ただ、「入れるだけ」──そう語ってくるような、あまりに単純な形状。

  頭の中で「やめろ」と「気になる」が喧嘩して、どちらも引かない。心臓がどくどく鳴り、手のひらが汗ばむ。なのに──結局マツリは普通のマッサージ機型と、棒のほうに手を伸ばしていた。

  

  (……お……奥のほうが気持ちいいとか聞いたことあるし……念のため……! ……うん、念のためだから……!)

  

  何が念のためだ、と自分に突っ込みながらも。

  

  勢いのまま、小瓶のコーナーにも視線を走らせる。淡いピンク、透明に近い青、濃い金色。説明はなく、用途も不明。

  ──でも、さっきから耳に入っていた断片的な会話や、ぼんやりとした効用の響き。それをつなぎ合わせれば、なんとなく想像はついてしまった。

  

  (……つまり、ぜんぶ"そういう効果"なんだ……)

  

  店主は無言で包みを重ねるだけ。

  その淡々とした仕草が逆に恥ずかしく、マツリの心臓はまた跳ね上がった。

  

  

  *  *  *

  

  

  自宅に戻っても、胸の鼓動は収まらなかった。買い物袋を机の上に置いた瞬間、ずしりとした重みが改めて現実を突きつけてくる。

  

  (……や、やってしまった……っっ!)

  

  羞恥で顔が熱くなり、マツリは布団へ身を投げた。

  

  ふわりと押し返す柔らかな感触。胸が布団に押しつぶされて、思わず息が詰まる。

  頬にさらりとかかる髪。そして──軽い体重のせいで、男だったころのようには沈み込まない布団。

  

  (……ああ……女の子の身体なんだ、僕……)

  

  それを意識した瞬間、羞恥と昂ぶりがないまぜになり、枕に顔を押しつけた。

  布団の中へ、真っ赤な吐息が溶けていく。熱は下腹へ、さらにその奥へと集まり、閉じていたはずの両膝はじわじわと外へ開いていった。自分では止めているつもりなのに、身体が勝手に楽な姿勢を選んでいく。

  

  まだ何もしていない。それなのに、そこが確かに存在を主張していた。割れ目に沿って芯のような感覚が走り、脚を開けば開くほど、意識が否応なくそこへ引き寄せられる。

  うつ伏せから横向きに転がった拍子に、視界の端へ銀色のきらめきが映った。机に置いた水差し。そこに、火照った頬と潤んだ瞳がぼんやりと映り込んでいた。

  

  「……っ」

  

  反射的に顔をそむけたが、一度見てしまったものは消えない。まるで知らない誰かのように艶めいた自分と、目が合ってしまった気がして、心臓が跳ねる。

  

  ──もう、抗う理由はどこにもなかった。

  そのまま仰向けに転がり、両手でスカートをたくし上げた。残る下着を指でつまみ、震える手でそっと下ろした。腿に張りついていた布地が、ねっとりと糸を引いて離れていく。

  

  「……え、ええぇ……っ!?」

  

  そんな感覚はまるで意識していなかった。濡れているなんて考えもしなかったのに──布はあきらかに湿っていた。胸がぎゅっと縮み、顔が一気に熱くなる。

  おそるおそる指先を這わせると、思ったよりもはっきりと、ぬるりとした感触が返ってきた。今までと違う。これまでは乾いた皮膚をただ押しつけるだけで、痛みやもどかしさしかなかった。でも今は、濡れに包まれて、ほんのかすっただけでも快感が走る。

  

  「……っ……」

  

  最初に試したときはよくわからなかった。最初だけじゃない。何度も試して、そのたびに「んん……?」と肩透かしを食らってきた。痛みやもどかしさのほうが勝って、気持ちよさなんてなかった。けれど──今回は違う。

  

  「……あぅ……」

  

  ほんの一瞬、痺れるような感覚が走る。

  快感と呼ぶにはあまりにか細い。けれど確かに、「気持ちいい」と呼べるものがそこにあった。

  背中から後頭部へ、ひやりとした清涼感が抜けていく。同時に、中心の小さな芯がじんじんと充血し、外側からの刺激に合わせてひくりと反応した。

  

  「っ……は……♡」

  

  ただ撫でているだけ。それだけなのに、胸が苦しくなるほどの熱と羞恥が押し寄せてくる。指先はもう止まらなかった。

  

  (……気持ちいい……やっぱり、気持ちいい……!)

  

  痛みや虚しさなんてもうどこにもない。女の身体そのものが内側から昂ぶって、勝手に快感を生み出していく。シチュエーションが背中を押したのか、理由なんてどうでもよかった。今の自分は確かに、女の子として完成している。

  

  (最初は──もっと単純なものだと思ってた……)

  

  指先に触れる、小さな突起。「快楽の芯」、みたいなものを想像していた。

  触れれば即座に甘くなる、そんな単純な仕組みだと。でも実際は違った。位置も曖昧で、形もはっきりしない。そっと押すだけで、快感と一緒に鋭い刺激が混じって息が詰まる。

  

  「……っ、あ……」

  

  強すぎて、正面からは扱えない。むしろ周りをかすめるようになぞった方がずっと心地よく、背中まで痺れるような甘さが広がっていった。

  

  「っ……あ、あっ……!」

  

  震える声が女そのもので、耳に返ってきただけでさらに熱が燃え上がる。強すぎるのはだめ。でも、外側をなぞるように撫でれば──痺れるような甘さが背骨を這い上がってくる。

  

  濡れた感触に指を滑らせ、ほんの少しだけ中へ。

  ぬるりと包み込む粘膜。その直後、ヒリつく痛みが突き抜け、肩がびくんと跳ねた。

  

  (……っ、これ……男だったころ……!)

  

  子供のころ、風呂で皮をむいてみたとき。湯に触れた瞬間に走った、あのヒリヒリする生々しい感覚。今のこれは──あれを何倍にもしたものだった。粘膜。モロ粘膜。あまりに生々しくて、奥まで試す勇気はとても出ない。それでも、入口付近の締め付けるような場所に優しく──

  

  「はっ……あ、ああっ……!」

  

  入口がきゅっと指を咥えて、逆に押し出そうとする。

  そのたびに、とろりとしたものがあふれて水音になり──羞恥に背筋が震えた。

  頭のどこかでは、まだ「男の僕」を主張していた。けれど──"理想すぎて恥ずかしい"とごまかしたあの身体が、今は理想のまま、いやらしく快感を生んでいる。

  

  (……僕、ほんとに女の子になっちゃったんだ……!)

  

  そう思った瞬間、全身がひとつの熱に支配され、甘い絶頂へと引きずり込まれていった。視界が白く弾け、つま先から頭の先まで一気に駆け抜ける

  

  「……あっ、あ、ああっ……っ!」

  

  ──はずだった。

  喉がひくつき、背中が弓なりに反る。けれどそのまま頂点に届く前に、波はするりと抜け落ちていった。余韻だけが残り、胸の奥にはまだ重たい火種がくすぶっている。

  

  (ぬふああぁぁあ……! 今の、イけると思ったのに……! なんで……!)

  

  甘さは途切れていない。膝も手も震えて、身体はまだ勝手に求めている。けれど──決定的な何かが足りない。

  

  (もっと……外側から……? 震えさせるように……)

  

  思考の断片が繋がった瞬間、マツリの表情がはっと変わった。熱に潤んだ瞳が大きく見開かれ、吐息が止まる。

  机の上の包みが視界に入る。ただの買い物袋。その中身の存在感がいやに重たい。──どう見ても「そういう」器具。おそらくは魔力を流すことで振動する、凝りをほぐすための道具。

  

  喉がひくりと鳴る。

  

  これなら、僕が求めていた「外側から」の刺激を与えられる。

  想像する。自分がそれを脚の間に当てている姿を。

  ぼんやりとした妄想が、一瞬で輪郭を持ち、鮮やかに浮かび上がった。

  

  

  *

  

  

  布団から身を起こすと、脚の間にまとわりついていた熱が離れ、ひやりとした空気に晒される。太ももを伝って、とろりとした感触が落ちていく。たくし上げていたスカートが重力に従って「履いている」状態に戻る。

  

  胸の鼓動が速い。呼吸も浅い。

  止まらない。止まれるはずがない。

  机の上の包みへ伸びる指先は、自分の意思よりもずっと先に動いていた。

  

  ごそりと音を立て、買い物袋を片手で探る。視線は思わず逸らしたまま、指先が固い感触をつかむ。引き抜いた瞬間、ずしりとした重みが手首にのしかかってきた。

  正面から見る勇気はなく、けれど視界の端に映るだけで全身が熱くなる。それでもやがて、潤んだ瞳がじわじわと吸い寄せられるように、その形を追ってしまう。

  

  喉の奥で小さく息が鳴る。恐る恐る魔力を流し込むと、ぶぅん……と低い震えが手のひらを伝った。細かい痺れに肩が跳ね、吐息がもれる。強さを上げれば骨の芯まで響くのがわかる。

  

  (うわああぁぁああ……!! ほんとに、動いた……!!)

  

  心臓が破裂しそうだった。もう後戻りできない。手の中の棒を見つめたまま、マツリは喉を鳴らした。

  

  (……どこに、どう当てれば……っ)

  

  どこかで見た光景では、下着の上から当てていたような気がする。でもそのイメージとは関係なく、実際今の身体で感じる事実として、直接当てるのは怖すぎる。けれど、今さらパンツを履き直すのも間抜けすぎる。すると、残された選択肢は──スカートの上から?

  

  (……っ、っそんなの、ぜったい汚れる……っ)

  

  バカみたいだ。自分でもそう思うのに、指先は震えながら布地を摘み上げ、視線はじっと棒の先端から離れない。胸の奥がせり上がり、頬の熱はどうしようもなく強まっていく。

  

  (……ほんとに、バカだ……でも……っ)

  

  立ったまま、震える手で、棒を腿の間へと運ぶ。

  

  ──ちゅ、と。スカート越しに先端が触れた瞬間。

  

  「あ゛っ♡──あ、あぁぁぁっ♡♡♡」

  

  全身が弾かれるように跳ね上がった。思わず両足ががくんと緩み、腰が落ちそうになる。スカートの布地に触れている肌にも細かな震えが伝わって、ぞわぞわとした甘さが華奢な鎖骨を駆け上がる。

  

  「や……やだっ……これ、やば……♡」

  

  当て直す。

  少し強めにした振動が布越しに伝わり、下腹にまで痺れが突き抜ける。

  

  「ひぐぅぅっ♡♡♡っ、ひあぁぁぁぁ……っ♡♡な、なんで……こんな一瞬で……お腹の奥までぇぇ……」

  

  肩がすくみ、首筋が熱くなる。背中じゃない、もっと浅い場所──肩口やうなじにまで甘い感覚が染み込んでいく。吐息が止まらず、目尻から涙がにじみ、頬を伝った。

  

  その足元で、ぽたり、と。

  スカートの裾から零れたしずくが床に落ち、淡い水音を立てる。

  

  「はぁっ……や、だめ……っ……♡」

  

  三度目。

  もう、立ったままでは無理だと悟った。これ以上当てたら、その場で腰が砕けて倒れ込む──そんな予感がして。

  

  ふらつく足取りでベッドに戻り、あぐらとも体育座りともつかない格好で腰を下ろす。

  震える手で、それを太ももの間に差し入れた。

  

  ──ちゅ、と布越しに触れた瞬間。

  

  「んぁぁぁっ♡♡♡」

  

  思わず両足がきゅっと閉じ、弱く挟み込んでしまう。

  けれどその瞬間、甘さが全身を撃ち抜き、背中がのけぞって大きく反り返った。支えを失った身体は、そのまま仰向けに崩れ落ち、ベッドに沈み込む。

  

  口が勝手に開き、ゆるい涎がつっと顎を伝った。涙目で棒を抱え込む姿は、羞恥と快感が混ざりきって、もう自分でも笑うしかないほど愚かで甘い。

  

  (……もう、何も考えられない……っ)

  

  震える指先が勝手に棒を握りしめ、腿のあいだへと深く押し当てた。スカートの布地がくしゃりと潰れ、内腿にまで震えが滲み込む。その瞬間、マツリの腰がびくんと跳ね上がった。

  

  「あっ、あああああっ♡♡♡んんんっっっぉぉ♡♡♡♡」

  

  頭の奥が真っ白に弾ける。両手が震え、無意識に棒を腿で挟み込み、抱きしめるように押しつける。スカート越しの布地がぶるぶると震え、その振動が肌から骨へ、骨から奥へ──お腹のいちばん深いところまで突き抜けていく。

  熱い。甘い。刺すような快感が、どろどろに溶けた熱となって内側を駆け巡る。息が勝手に漏れる。

  

  「あぁっ、んぁぁぁぁっ♡♡♡♡も、もっ……っ♡♡♡」

  

  腰が反り返り、肩から首筋までぞわぞわと痺れる。

  びちゃ、と何かが飛び散った気がした。スカートの奥で、ぐっしょりとした感触がいっそう広がる。頭の中は快感だけでいっぱいになり、言葉も記憶も全部溶けていく。

  

  「あ……あぁぁぁぁぁぁっ♡♡♡♡♡♡」

  

  全身が大きく痙攣し、甘い破裂がどこまでも続く。

  気持ちよすぎて、死んでしまうんじゃないかと思うほど。

  けれど、まだ……身体は欲しがっている。

  

  視界の端に、机の上の包みが映った。

  そこにはまだ、さっき買ったままの小瓶や器具がずらりと並んでいる。

  

  まだ使ってすらいないものが、こんなにもある。

  

  その事実が、くらくらするほど甘くて、可笑しくて。マツリの口元に、にへ、と無防備な笑みが浮かんだ。

  

  (……まだ、いっぱいある……♡)

  

  

  *  *  *

  

  

  ──季節がひとつ過ぎたころ。

  

  マツリは、アカネの膝の上で脱力していた。

  

  背中から抱きしめられて、首筋をくすぐられて。

  体温とぬるい魔力に包まれて、何も考えられなくなっていく。

  最近は、こうして甘やかされる時間が日課みたいになっていた。

  

  「……アカネ、耳……やばいって……♡」

  

  「うるさい。おまえが可愛いのが悪い」

  

  ぞくりと背筋が甘く痺れ、膝の上でびくっと震えてしまう。布の上からすり寄るような指先の動きに、思わず喉が鳴った。

  

  (……まあ、こんな僕を見捨てずにいてくれるだけで、ありがたい話だよね♡)

  

  冒険者としての活動は、もうすっかりご無沙汰だ。誘われれば行くし、魔法も使えるし、準備もできてる──けど、最近はめっきり声がかからない。

  

  代わりに、こうして気持ちいいことだけが増えていった。アカネに甘やかされて、キスされて、撫でられて。何もしてないのに、全身が蕩けるみたいに甘くなる。

  

  ……もちろん、アカネだけじゃない。カナメも、最近はなんだかんだ理由をつけてはうちに来る。夜になると、自然な流れで腕をまわしてくるのが当たり前みたいになってた。

  

  あと──ヨミって子も。

  出会ったのは少し前だけど、たぶんいちばん、"そういう意味"では危ない。目を合わせるだけで、背筋がゾワッとするのに、気づいたら──

  

  (……まあ、みんな優しいし、いいかな♡)

  

  それぞれに、ちょっとずつ違う甘さがある。

  アカネは包み込むような強引さ。

  カナメは言葉少なだけど、ちゃんと見てくれてる。

  ヨミは……正直、あんまり語りたくない。語ると何か壊れそうで。

  

  でも、どれも全部、心地よくて。誰か一人を選ばなきゃいけない理由なんて、どこにもなかった。

  たぶん、僕のことを冒険仲間として見ている人は、もういない。でも──それはそれで、悪くないのかもしれない。

  

  (……だって、女の子って、こんなに甘やかされる生き物なんだもん♡)

  

  

  【END2『YES』】

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  ここまでの進行をセーブしますか?

  

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  【03】

  

  ──暗い。

  ひどく湿った闇のなかに、ただ押し込められていた。

  

  上下の感覚がない。右も左もわからない。ただ、ぬるりとした膜のようなものが全身に貼りつき、重さと湿気だけが現実だった。

  

  目を閉じたまま、断片が浮かんでは沈んでいく。交流会の賑やかな声、露店の香り、アカネと笑い合ったあの日の夕暮れ――それが本当に数時間前のことなのか、まったく別の世界の出来事なのか、判別はつかない。

  たしかにさっきは──簡単なクエストを受けて、二人一組で向かったんだ。たったそれだけのはずだった。

  

  ここがどこなのか、なぜこんな状況にいるのか。思い返しても、つじつまの合う説明は出てこない。だが、胸の内に、小さな確信があった。

  

  (……生きてる……)

  

  理由はわからない。ただ、死んでいない。

  その一点が胸の奥を温める。わけもなく、涙が出そうになるくらいに。

  

  だが、その安堵はすぐにひび割れた。

  

  ……おかしい。

  呼吸の感覚がない。

  胸も上下していないのに、どこか別の場所で空気を吸っている。

  喉を通らない。肺も動いていない。なのに酸素は、確かに体に満ちていた。

  

  (……なに、これ……? どうなってるんだ……?)

  

  視界もおかしい。

  暗闇なのに、完全な闇ではなかった。光はないのに、湿った壁のざらつきや、わずかな動きが「見えて」しまう。

  だが眼球は動かない。焦点はひとつの方向に釘付けで、視線を逸らすことすらできなかった。

  

  それだけじゃない。

  腕も、脚も──まるで最初から体に繋がっていないように、存在の感覚が遠い。

  そこに「ある」ことはわかるのに、重さや筋肉の張りが感じられない。

  まるで外皮だけが残り、内側はどこかに置き去りにされたような、妙な乖離感。

  

  

  耳の奥を、ぶぅん……と羽音が震わせる。

  低く湿った響きが骨の奥にまで染み込み、臓腑をじりじりと撫でる。

  空気は生ぬるく、ねっとりと肌に貼りつき、どこか甘ったるい。

  腐った蜜のような匂いが、呼吸していないはずの体内に流れ込み、喉を焼く。

  

  胸が早鐘を打つ。このままじっとしていたら、何か取り返しのつかないことが起きる──そんな予感だけが、嫌に鮮明だった。

  

  確認しなきゃ。確かめないと。

  ここがどこで、自分がどうなっているのか。

  ただ黙って押し込められているわけにはいかない。

  

  (動け……! せめて、指だけでも──!)

  

  

  *  *  *

  

  

  山道を駆け下り、木々の切れ間からようやく街の外壁が見えてきた。

  ぱたぱたと靴音が石畳を打つ。もう門の近くだ。息が切れて、胸が苦しい。けれど止まれない。

  

  ──やっちゃった。ほんとに、やっちゃった。

  

  きっかけは、ほんの偶然だった。

  交流会のあとで受けた、単発の簡単なクエスト。山中の調査を兼ねた依頼で、二人一組にされた班分けで、たまたまマツリさんと同じになった。

  ……それだけのはずだったのに。

  

  背後の森から、まだ羽音が追ってくる気がする。振り返れない。けれど頭の中には、さっきの光景が何度もよみがえる。

  

  人は人のままじゃいられないことがある──なんて、物語や昔話の中だけのことだと思っていた。

  歌にもなっている。子どもだって知っている"決まりごと"。でも、まさか実際に見ることになるなんて。

  

  あれは嫌いだ。ずっと前から。

  基本的には無害な──有益と言ってもいい──生き物だから、よく愛らしい姿にデフォルメされている。

  飴細工の人形や、絵本の挿絵。今日のモンスターフォーラムでも「養蜂の希望」として、にこやかな顔で展示されていた。

  

  ──けれど、実物はどうしても正面から見られない。

  蜜を集めて、花を渡り歩く。ただの昆虫と変わらないじゃないかと言う人もいるけれど……。

  下手をすれば、人間の子どもほどの大きさにもなる。

  光を散らす複眼。うねる脚。ひとたび羽ばたけば、地面までびりびり震わせる。

  「かわいい」なんて言葉じゃ、とても片づけられない。

  

  ……それに、気持ち悪いだけじゃない。

  あれが「昆虫」ではなくモンスターに数えられているのは、その大きさや外見からじゃない。無害そうに見えても──あの生き物には、ひとつだけ、決定的に異常な性質がある。

  

  女王が死んだとき、その場にいる者の中でいちばん魔力の多い個体が、新しい女王に作り替えられる。

  

  ただの虫ならありえない。

  でも、それが決まりごととして、物語や歌にまで繰り返し語り継がれてきたのには理由がある。

  誰かが、実際に体験してきたからだ。

  

  ──そして、いま。

  その"誰か"に選ばれたのは、マツリさんだ。

  わたしが、冗談半分で口にしたひとことで。

  

  あのとき、森の中でマツリさんが振り返った。

  「でかっ、キモッ! どうすんの、あれ!」と、妙に楽しげな顔で。

  

  噂に聞いてはいた。戦えば無茶苦茶に強くて、しかもやたら可愛い。白い髪が揺れるたび、信じられないほど愛らしいのに──生活の常識はすっぽ抜けている。実際に並んでみても、その落差は冗談みたいだった。

  

  ふと、胸の奥でひとつの考えが浮かんだ。

  (……この子なら、もしかして)

  

  何を思ったのか、自分でもうまく説明できない。怖さじゃない。ただ、ためしに口が勝手に動いた。「女王を倒したら……いいことがあるんだよ」──そんな風に言った……気がする。正確になんて覚えていない。ありえないことを、冗談半分で。

  

  なのに、マツリさんは真剣に目を輝かせ、次の瞬間には矢をつがえていた。

  ただの矢じゃない。見よう見まねのはずなのに、指先から迸る魔力が炎となって矢じりを包む。

  本人は得意げに笑っていたけれど、常識を知っている者からすれば──あんな規模の術式を即席で矢に乗せるなんて、正気の沙汰じゃなかった。

  

  誰もやらない。だから、誰も見たことがない。

  女王が倒れる光景なんて──語りや歌の中だけで、実際には避けられてきたものだ。

  だがその矢は、燃えさかる尾を引いてまっすぐに突き刺さり、たった一撃で巨体を崩れ落とした。

  

  その瞬間、羽音が狂気に変わった。

  最初に動いたのは、すぐ近くで蜜を集めていた働き蜂たち。花から顔を上げたその複眼が、一斉にマツリさんを射抜いた。

  次の瞬間には、どこに潜んでいたのかと思うほどの群れが木々の間から湧き出し、空を覆い尽くす。翅の震えが重なり合い、空気そのものがざわめき、地面までもびりびりと震わせた。

  

  白い髪の小さな背中めがけて、無数の影が殺到する。

  さっきまで自信に満ちていた表情が、怯えとも恐怖ともつかない顔に変わるのを、はっきりと見た。

  そして、大群は彼女を飲み込んだ。複眼と脚と針が押し寄せ、白い髪も細い手足もすぐに見えなくなる。

  

  押し合いへし合いになった巨体の羽虫たちが、潰れ、もがき、羽をもぎ取られながらなお群れを維持しようと蠢いていた。

  ちぎれた脚が地面に散り、甘ったるい匂いと酸っぱい体液の飛沫が空気を満たす。

  そのただ中に、マツリさんは小さな背を折り畳まれ、黒い塊に呑み込まれていった。

  

  ──怖い。取り返しのつかないことをしてしまった。それなのに、胸の奥が焼けるように熱い。

  城壁の影が迫るほどに、その熱は強くなるばかりだった。

  まるで、わたしの言葉が世界を動かしたみたいに。

  

  (……いま、どんなふうになってるんだろう)

  

  知りたくない。けれど、知りたくてたまらない。

  唇を噛んでも抑えきれない。恐怖と、抱いてはいけない悦びとがごちゃまぜになって、走る足の奥まで痺れるように満ちていく。

  

  

  *  *  *

  

  

  「──っ、ぁ、あ……っ!」

  

  声が漏れた。──気がした。

  動いた感触は確かにあった。だがそれは指先じゃない。

  

  まず、震えたのは"内側"だった。

  皮膚の下の筋肉──そういう意味じゃない。骨も筋も、皮膚も爪も、全部まとめて"外側"に追いやられてしまっている。

  そこはもう自分の領域じゃない。動いたのは、殻の中に押し込められた中身だけ。

  さらに、関節。曲げようとした瞬間、骨は応えず、代わりにとろりとした肉の水が滑った。骨と筋がなくなったみたいに、形を保たず流れるだけ。

  

  指先で感じたその異様な感覚は波打つようにじわじわと広がり、手のひら、腕、肩──全身へと駆け巡っていく。触覚の順路をたどるように、皮の内側だけが次々と揺れた。

  脚の奥、腹の底、胸の裏。外殻は人形のように沈黙しているのに、内側の液体だけが無様に撹拌されていく。

  

  (……っ、ぁ、あ……っ!)

  

  さっき漏れたはずの声。その声さえ、外殻の喉ではなく、液体の中で勝手に泡立ったものだった。

  喉を鳴らす感覚がない。声帯も、舌も、唇さえも──全部が殻の側に置き去りにされている。

  それでも内側の液体は、悲鳴をあげようとする意識に合わせてぶくぶくと震えただけ。

  

  (……僕……いま……内側しか……ない……!)

  

  理解してしまった。

  自分は外殻ではない。

  液体だけになった内側、それが「僕」のすべてだ。

  

  その事実を認識した瞬間、言葉になる前にひとつの感覚だけが胸を貫いた。

  

  

  

  ──小さい。

  

  

  

  ずっと前からそうだったのに、そのことに気づいた瞬間、すべてが迫ってきた。世界が広がったのではない。自分が縮んでいた。液体のかたまりとなって、外殻の内側に押し込まれている。

  

  (……なにが……起きてるんだ……!?)

  

  思考が空回りする。焦りが理屈を吹き飛ばす。このままでは何かに呑み込まれる、そんな直感だけが胸を焼いていた。

  

  ──たしか、あれは。

  冒険家気取りで、ほんの軽い気持ちで受けた単発のクエスト。山道の調査といった類いのもので、正直内容はあまり覚えていない。二人一組で動くのが条件で、たまたま同じ班に入れられたのが──今の自分より少し幼く見える女の子。ヨミ、と名乗っていた。

  森の奥を進むうちに、甘ったるい匂いが鼻を刺した。

  樹液か、蜜か。木々の間から低い羽音が混じりはじめ、気づけば花畑の上空に巨大な蜂の群れが漂っていた。

  

  マツリには、それがどんな存在なのかまるでわからなかった。モンスターの一種なのか、ただの虫なのか。その違いすらあやふやで、危険度も想像がつかない。

  けれど、隣にいたヨミだけは息を呑み、目を輝かせていた。

  

  「女王までいる……? こんな場所で……」

  

  珍しそうに呟くその声に、マツリは曖昧な笑みを返した。女王が珍しいということも知らなかった。討伐すればどうなるかも、まるで知らない。ただ「倒せば何かいいことがあるらしい」という彼女の一言に釣られるように、炎の矢を放った。

  

  矢は女王を貫き、確かに崩れ落ちた──はずだった。

  静かだった羽音が、次の刹那にはざわめきへと変わった。それまで花の蜜を集めるだけで、こちらになど興味を示しもしなかった働きバチたちが、いっせいに顔を上げた。目を覚ましたように、怒り狂ったように、すべての複眼がマツリひとりに突き刺さる。

  

  一匹一匹は取るに足らない。けれど数が違った。羽音が折り重なり、空気そのものが震えて逃げ場を塞いでいく。振り払っても、撃ち払っても、隙間から潜り込む。

  視界の端をかすめた針の一本が、あっけなく肩を貫いた。たったそれだけで──気づいたときにはもう、この暗闇だった。

  

  (……そんな……バカな……!)

  

  ありえない。毒か、麻痺か、幻覚か。必死に可能性を探そうとしたその時、不意に頭の片隅で声が蘇った。

  

  『……ほんと、気を付けろよ。アンタ、力はあるけど常識がすっぽ抜けてるからさ。運良く今まで勝ててただけで、罠に当たったら即アウトってことだってあるんだ』

  

  アカネの、呆れ半分の声。彼女の隣で、カナメが真剣に頷いていたのを思い出す。

  

  『種族変化系の罠も報告がある。踏んだ瞬間、人じゃなくなる。実物は見てないけど、調査記録には残ってる』

  

  (……違う。違う、はず……っ!)

  

  意識が凍る。外殻が自分じゃなくなった、この異常な感覚。今まで笑い話だと思っていた「人じゃなくなる」という言葉が、暗闇のなかでじわじわと形を帯び始めていた。脳裏にアカネの声が蘇る。

  

  『カエル茸なんかは笑い話で済むんだ。時間が経てば戻るし、解呪でも治る』

  

  ──あのときは笑って聞き流した。だから、いまのこれも……そういうのと、同じ……きっと。

  

  (……大丈夫。最悪「そう」だとしても、治る……なおる……!)

  

  言葉にしたくない語を、あえて避けるように言い換える。「変わってしまう」なんて思考をつぶしてしまえば、まだ希望は残る。だから、戻れる。治る。元に戻る。そう、心の中で繰り返す。

  

  しかし、声に出す前に、体の奥が応えた。内側の液体が、鋭く流れを変える。かすかな波紋が、胸の裏から喉の奥へ。泡が立ち、粘るような脈打ちが頭蓋の内側を伝っていく。

  希望を呪文のように唱えるたび、体の内側が別のリズムで応え、別のかたちを探し始める。短い波、さらに短い波。ざわり、ざわり、と。

  

  (……あれ……?)

  

  ふと、最悪の想像が静かに浮かんだ。

  ある種の──いや、大半の昆虫が──成長の途中で経るという「あの状態」に似ているのではないか……という疑い。

  否定した。叫ぶべきだと分かっているのに、声は殻の側に留まり、内側の自分からは泡沫のようにしか出てこない。

  

  だが、否定するたびに内側の脈動は濃くなった。別の枠組みを探すように、液体がまとまりを増していく。

  あっという間に、確信が零れ落ちた。

  ──もう、始まっていた。

  

  

  *  *  *

  

  

  「──じゃあやっぱり、蛹なんですか?」

  

  グラスを置いた手を小さく動かして、ヨミは問いかけた。声の調子は平板だが、その目はわずかに潤みを帯びていた。反対の手は、いつのまにか腹の前で強く握られている。

  

  「蛹っていうか──そうだな、現象としては、そう見えるかもな」

  

  そう答えたのは、バーカウンターの隣に座っていた赤毛の女だった。派手な柄のシャツをゆったりとはだけ、首元には金属製のチョーカーを着けている。けれど、その軽薄な外見に反して、言葉のひとつひとつは驚くほど理路整然としていた。

  

  「モンスターの中には、ある種の『合体』や『置換』を伴う繁殖形態を取るものがいてさ。で、今回あんたが言ってたのは──その手のやつ、だと思う」

  

  店のざわめきの中、テーブルの上では蒸気を立てるスープが冷めかけていた。ここは冒険者が集まる酒場、夕刻には騒がしくなるのが常だ。だが、この隅のテーブルだけは不思議なほど落ち着いた空気が流れている。

  

  「……じゃあ、その……身体の中身が、作り変えられてるってことですか?」

  

  問いながらも、胸の奥で熱が広がっていくのを止められなかった。

  アカネはグラスを指で転がしながら、言葉を選ぶように答える。

  

  「正確には、いったん全部"分解"されてる。骨も、筋肉も、臓器も。液状になってな。で、魔力と因子に応じて──再構築される。だから、『自分』は一応維持されてる」

  

  その響きが、耳から離れない。

  

  想像してしまう。

  あの白い髪の少女の、透き通るように細い手足が。

  屈託なく笑っていた小さな口元が。

  戦えば誰よりも強かったあの小さな身体が、声も出せず、液体のかたまりとして震えている姿を。

  

  ヨミは、息を詰めるようにしてうつむいた。

  

  「ん、ああ、気持ち悪かったか。わりぃ、グロかったな」

  

  そう言いながらも、赤毛の女──アカネはどこか楽しげに口角を緩める。その視線の先で、ヨミはふいに背を向けた。肩が小さく震えている。その仕草は──笑みを隠すためのものだった。

  

  「……っ、すみません」

  

  言葉を切った、その一拍の間に。ふと、甘美すぎる疑問が胸を貫いた。思いついただけで息が詰まり、昇天しそうなほどの熱が背筋を駆け上がる。

  その感覚に自分でも怯えながら、声だけはどうにか繋げていた。

  

  「その……意識はっ、残るんでしょうか……?」

  

  表面上は会話の流れの延長。けれど、その震えは恐怖からではない。抑えきれない昂ぶりが、言葉の奥に滲んでいた。

  

  「意識ぃ? ──そりゃあ残らねえだろ。ぐちゃぐちゃに溶けるんだからさ。骨も臓器も、ぜんぶ分解されて再構築されんだよ? 意識だけ残るなんて都合のいい話あるかい」

  

  その瞬間、胸にひどく卑しい感情が芽生えた。――残念。

  自分でも理由はわからない。だがその浅ましい一語は、否応なく心の奥に焼きつき、ますます熱を募らせていった。気づけば、アカネの言葉はもう耳に入っていなかった。

  

  もし意識が残っていたとしたら──。

  繭の奥、肉も骨も融け落ち、声を発することもできず、それでも思考だけが閉じ込められて続いていたら。あの愛らしい顔が、無惨に、どうしようもなく変わり果てていく過程を。「自分」であることを保ったまま味わい尽くしていたら。

  

  そのとき、アカネの声が不意に現実へと引き戻した。

  

  「……ま、人間がそんな状態で意識なんか残ってたら、地獄だろうけどな」

  

  残っていたとしたら、痛みか、快楽か、あるいはそれらが混ざった感覚なのだろうか。途中で狂い、何も感じなくなるのかもしれない。それとも、生物学的な秩序に従って、ただ静かに、"消える"のか。

  いずれにせよ、最後には「僕」という輪郭が薄れていくだろう。想像だけで、息が詰まりそうになる。背筋を這い上がる熱に、心臓が打ち破れそうなほど脈打っていた。

  

  しばらく、沈黙が落ちた。店の奥から笑い声が上がり、ホールを走る店員の足音が響く。ふと、アカネがグラスの縁を指でなぞりながら、ぽつりとつぶやいた。

  

  「──あんた、魔力高そうだし、気をつけなよ。……変な気を起こすんじゃないぞ」

  

  「……っ」

  

  「実際、"志願者"みたいのがたまにいるんだよ、あの手のやつ……。だからかな、資料がやけに充実してる。──困ったことにさ」

  

  そこまで言って、アカネはふとヨミの顔をじっと見る。

  

  「……でも、なんだってそんなことを? 聞いてきたの、あんたくらいだよ。そんなの、冒険者なら誰でも知ってるだろうに」

  

  「だからさ、誰も女王は殺さないし、別に害があるわけでもないから、討伐依頼だって普通は出ないんだよなぁ。冒険者の間じゃ暗黙の了解っていうか……あんまり近寄らない、みたいな」

  

  ヨミは一瞬だけ目を伏せて、それからふわりと微笑んだ。

  

  「いえ、ちょっと気になったので……ふふっ。ありがとうございます。助かりました」

  

  そう言って立ち上がると、礼儀正しく小さく頭を下げ、背を向けたまま酒場の出口へと歩き出す。アカネは小さく手を振って、すぐにまたグラスの中身に意識を戻した。

  

  

  *  *  *

  

  

  「ああぁあぁぁぁぁ……???!?…………?!」

  

  意識が、焼け爛れる。

  

  全身が──いや、"全身"という概念が、もうおかしい。

  痛い。痛くない。痒い。熱い。冷たい。気持ちいい。気持ち悪い。

  知覚が暴走する。刺激が増幅する。

  僕のなかで、僕の形が流れている。

  

  ──溶けてる。

  皮膚も、骨も、内臓も。

  全部、液体になって、ぐつぐつと混ざって、まるで料理みたいに──

  

  でも、僕はそこに"いる"。

  どこにもいないのに、"すべて"にいる。

  今、この身体の隅々すべてが、僕の脳になっている。

  

  脳は一箇所ではない。全身が脳だ。

  胃が思考を持ち、眼球が計算し、肛門でさえ反応を返す。

  皮膚の隅々――そこが今、思考の核になっている。

  すべてが、いま、脳として働いている。

  

  (やめて、やめてやめて……)

  

  それを、全部、理解してる。全部、感じてる。

  

  「──精神保護」

  

  その言葉が頭の中をつい、と走る。ああ、そうだった。スキルがある。どんな異常でも、正気をつなぐ。

  

  (……最悪、最悪だ……っ!)

  

  狂えない。狂えないのだ。

  理由があるから、心は壊れない。すべてが届く。

  痛みは分解され、悦びは混ざり合い、区別は消える。だが「わかる」――その事実だけは、容赦なく突き刺さる。

  

  だから、僕に残されたことはただ一つ。

  すべてを、理解したまま、味わうことだけだ。

  

  

  *

  

  

  ……どれくらい経ったのか、わからない。

  気づけば腹の奥で、奇妙な臓器が脈を打っていた。

  

  心臓に似ている。けれど違う気もする。

  鼓動は早すぎて、人間のそれではあり得ない。一定のリズムで収縮を繰り返すたびに、腹の奥からぞわりとした感覚が広がる。

  ──これは、卵を蓄えるための器官だと、理解してしまう。

  

  (……やだ……やだやだやだ……っ!)

  

  逃げたいのに、逃げられない。

  精神保護があるせいで、正確に理解できてしまう。

  

  やがて、液状の体の別の場所で凝固が始まる。

  内側に"指先"のような感覚が芽吹いた。

  

  (……何、これ……!?)

  

  だがそれは指ではなかった。

  細く、硬く、節で折れ曲がる感覚。関節が逆向きにしなるたび、異様なほど鋭敏な触覚が走る。

  

  ──脚だ。

  節足動物の、脚。

  

  (あああぁぁぁあぁっ!! いやだっ、違う違う違う違う──!)

  

  翌日には、背中に硬い膜の芽が広がっていた。

  さらに数日、顔の裏側で光沢を感じる粒が並び、やがてそれが複眼の結晶になるのを理解させられた。

  

  狂えない頭で、ただ記録し続ける。少しずつ、人間の形は失われていった。

  

  背中の内側が押し広がる。

  皮膚の内側に、膜のような何かが展開する感覚。

  翅だと、わかる。

  

  抵抗は許されない。すべてがはっきりとしたまま、新しい身体が完成していく。

  

  違うと思いたい。

  でも、理解は止まらない。

  

  新しい肉体が、あと僅かで完成する。その先に待っているのは、この少女の『殻』を破り、生まれ出る瞬間。

  

  (……いやだ。いやだ……でも……)

  

  精神保護が、考える余裕を与える。それは地獄だった。変化の痛みも構造も、何ひとつぼやけない。

  だが……それは同時に救いでもあった。壊れずにいられる。思考できる。思考できるなら、可能性を探せる。

  

  最初は恐怖しかなかった。人間ではなくなること。「そうかもしれない」という不安が確信に変わる過程。考えれば考えるほど、喉の奥から泣き出しそうな熱が込み上げる。

  ……けれど。考え続ける中で、ふとひとつの線が結びついた。アカネが言っていたトラップや魔法の話。

  

  (もし、そんなものがあるなら──)

  

  いま自分に起きているこの変化がどういう性質のものであれ、その変化を「上書き」できる可能性はあるということだ。物々交換式に、種族を『上げて』いくことだってできるかもしれない。

  

  (生きよう。生きて、戻るために……!)

  

  限られた知識の中で、マツリは必死に線を結ぶ。まずは誰かに助けを求める。まだ生まれていないこの体だが、声を出せるかもしれない。這ってでも、進めるかもしれない。

  

  (どんな姿でも、僕は……生きて、戻ってやる……!)

  

  その決意が胸の奥で点った瞬間、動かぬ少女の背中がぱつん、と裂けた。

  

  粘液が弾け、薄膜の翅がぶわりと広がる。複眼の光が生まれ、細い脚が一斉に突き出た。呼吸はもう胸でも喉でもなく、腹の気門が勝手に開閉している。その異様なリズムが心臓とずれて、胸の奥をざわつかせた。

  

  殻を破った女王蜂は、横倒しのまま床にへばりついていた。

  六本の脚は力なく震え、翅は背に貼りついて乾かず、腹部は重すぎて転がることしかできない。それでも複眼の奥には、かすかに光が残っていた。

  

  

  ──その羽音が聞こえるまでは。

  

  

  【04】

  

  羽音が、近づく。

  低く、湿って、腹の奥をなぞるような振動。さっきまで闇の中で聞こえていた音より、ずっと鮮明で、ずっと力強い。

  

  複眼に、彼らの姿が映る。大きな影がいくつも。節くれだった脚、光る針、黒光りする腹部──。

  翅を小刻みに震わせながら、巣の天井近くで停止飛行している。静かに、けれど確かに、マツリ──女王を取り囲むように。

  

  (……でか……っ)

  

  反射的に思った。そのうちの一匹──いや、一体は特に大きい。僕の──この羽化したばかりの身体よりも、さらに二回りはある。他の個体も、そう変わらない。明らかに"成虫"として完成された蜂たちだ。

  

  怖い。怖すぎる。

  この大きさ、この数。反射的に脳裏に蘇ったのは──まだ人間だったころ、森で見たあの光景。

  咄嗟に放った一撃が女王を貫いた、あの瞬間。狂ったような羽音とともに襲いかかってきた働き蜂の群れ。複眼、脚、針。あの時のあの黒い塊が、今、僕のまわりを囲んでいる。

  

  ──また来る。潰される。喰われる。直感が警鐘を鳴らし、脳が悲鳴をあげる。脚が震える。動けない。腹が重い。翅は乾いていない。転がるしか、できない。

  

  ……けれど。それでも、なぜか──彼らの動きは、あまりに静かだった。怒りや殺意の気配はない。ただ、こちらを見ている。まるで、何かを待っているように。

  

  (…………あ、れ……?)

  

  違う。違う、これは……あの時とは……。あのときの蜂たちの複眼は、はっきりと敵意で染まっていた。獲物を見る目だった。でも、今のこれは──違う。

  

  彼らは、僕を見ている。何かに似ている。親しさ。忠誠。迎え入れようとする、仲間を見る視線。

  

  (……やめろ……やめろ、やめろ……ッ!!)

  

  その理由を、知覚が理解するよりも早く、本能が察知してしまった。

  

  ──ああ、そうだ。

  僕は、同族になってしまったんだ。

  

  気づいた瞬間、ぞわりと吐き気が込み上げる。こんな、気持ち悪い生き物に。こんな、ぐずぐずに変えられたこの身体を、「仲間」だと見なされている。拒絶したい。否定したい。でも、この複眼が、節足が、気門が、すべてその事実を肯定している。

  

  逃げなきゃ。逃げなきゃ……!

  腹に力を入れる。脚を突っ張る。翅に、魔力を通そうとする。

  動け……!

  

  動かない。

  

  脚が滑る。

  翅が、乾いていない。重くて持ち上がらない。

  魔力は、出ない。思考だけが焦り、身体はついてこない。

  

  (動けっ……僕は……僕は……!)

  

  焦りで視界がぶれる。

  

  その時だった。彼女を取り囲む輪の中から、一際大きな個体が、ぬるりと前に出た。

  さっきまで空中を静かに旋回していた雄蜂。その巨体が、まっすぐにマツリの正面へと降り立つ。脚が地面を這うように動き、腹の先がわずかに持ち上がっている。その挙動は、奇妙なほどに丁寧で、決まっていた。

  

  (……なに……?)

  

  動きが、遅い。けれど遅さに無駄がない。まるで何かの手順でもなぞっているかのような、決まった動線。それが余計に不気味だった。わからない。なにをされるのか、まるで見当がつかない。

  脚が動かない。腹が重すぎる。本能的に「立ち上がらなきゃ」と思った。けれど、すぐにわかった。

  

  ──無理だ。

  この身体は、もう"立つ"ようにはできていない。細い六本の脚は節が多すぎて、力が分散する。後ろ脚だけがわずかに太いが、それでも、この腹を支え上げるには明らかに頼りない。

  いまの僕は、もはや二本の足で地面に立つヒトではなく──飛行のときに、補助的に節足を這わせることしかできない、虫だ。

  

  その事実を理解しただけで、背中に寒気が走った。脚は空しくもがき、腹は地面に擦れて揺れる。自分でも目を逸らしたくなるほど、無様で、情けない姿だった。

  

  そして、そこに──影が落ちた。

  複眼の端に、大きな塊が映る。一際大きな雄蜂が、こちらへ向けて静かに降りてくる。その腹部の先端が、静かに、けれど確実に──マツリの下腹部へ、向かってくる。

  

  (……っ……え……?)

  

  直感が、理解に変わる。一瞬で全身が凍りついた。

  今まで感じていた異常な挙動の意味が、一つの線で繋がってしまう。

  

  (あ……あああぁぁあっ──!!)

  

  本能が叫ぶ。絶対に。絶対に許してはいけない行為がこれから始まると。

  横倒しのような姿勢のまま、後脚に力を入れる。腹をずらし、地面を蹴って──逃げようとする。だが、動きが鈍い。脚は地を掻くだけで、思うように体が前へ進まない。

  

  転がる。

  滑る。

  翅を叩きつけるように震わせる。乾いていない。音だけが情けなく鳴って、上昇どころか、バランスすら崩れて地面に転がった。

  

  (動いて……っ! だめだっ……! 逃げなきゃ……これは、だめだ……っ!)

  

  魔力を練る。

  術式を思い出す。無理矢理にでも、炎を──風を──

  何かを。何かを撃てれば──

  

  出ない。頭の中に浮かべた術式は、ただのノイズとして散っていく。この身体に魔力回路はある。けれど、人間だったころのようには制御できない。これはもう、人間の体じゃない。

  

  (くそっ……どうして……っ!)

  

  振り返れば、すぐそこに、雄蜂の影。

  距離は開いていない。というか──最初から、追ってすらいなかった。相手は飛べる。速度が違う。優雅に、余裕すら見せるように、雄蜂がこちらを見下ろしていた。

  その腹の先端が、ほんのわずかに震える。交尾器。受け入れられることが前提の器官。拒絶も否定も──通じない。

  

  (やだ、来るな……来るな、来るな、来るなっ!!)

  

  ありったけの力で翅を動かした。

  だが、乾ききらない翅はバランスを崩すだけで、変な角度に攣ったように痙攣する。

  六本の脚をばたつかせても、重い腹が床を擦るばかりで、前へ進めない。

  

  (動いて……っ! 動けよ……っ!)

  

  必死に、全身を使って必死に逃げていた。

  だから、気づけなかった。

  

  ──壁だった。もう、どこへも行けない。

  

  (うそ……こんな……)

  

  複眼の奥がにじむ。

  涙という概念がまだ残っているのかどうかもわからないのに、泣きそうになった。

  

  何をされるのか、もうわかっている。

  止める術はない。

  それでも脚が動く。

  それでも翅が暴れる。

  だが、何もできない。

  

  雄蜂は、真上にいた。

  自分と同じように、地面すれすれに身体を横たえ、腹部の先端だけをゆっくりと持ち上げている。その動きには、焦りも怒りもない。ただ、当たり前のことを当たり前に行うだけの、生物としての仕草だった。

  

  マツリは最後の力で身をよじった。

  転がるように、脚で押し返そうとする。

  だが、壁が背を押しつけ、重たい腹が勝手に開き、下腹の粘膜がひやりと外気に触れた。

  

  ──そこに、雄蜂の下腹部の器官が、ぴたりと重なった。

  

  (いやだ……いやだ……っ)

  

  人間だったときでさえ、一度もしたことのない行為を、虫の姿で、今からされようとしている。馬乗りの姿勢を横倒しにしたようなわけのわからない姿勢のまま、雄の節足がマツリの背中──に相当しそうな部位──に触れている。

  

  抵抗か、あきらめか、マツリの六本脚が弱々しくもがく。その動きのたびに、奇妙な違和感が全身を走っていた。

  

  六本の脚。

  頭に近い二対四本は、細く、神経が過敏で、いわば"手"のような動きをする。

  後ろの一対は、力強い感覚があり、動かしていて「足」に近い感覚がある。

  

  そして──その"足"のさらに後ろから、お腹が生えている。

  

  巨大な、重い、肉の塊。柔らかく、ところどころ節くれていて、でも表面はしっとりと滑らかで……その中には、知らない臓器が詰まっている。蠢く感覚がある。

  思っていたよりも、柔らかい。虫だからもっと硬質な、甲殻的なものだとばかり思っていた。でも違う。肉だ。ちゃんと、中は筋肉でできている。

  

  その"腹"のさらに下、節の終わり。意識するまでもなく、それが性器であることを、身体が理解していた。入口が、ある。肉が、粘膜が、外と繋がることを前提に形作られている。

  

  そして──侵入が、始まった。

  

  粘膜が押し広げられた。

  冷たく、異質な感触。

  ぶちり、と何かが裂けたような感覚とともに、異物が入り込む。

  粘膜が、収縮し、巻き込み、ぬるりと飲み込んでいく。

  節の奥からずぶずぶと這い入るような動きが、腹の中を攪拌した。

  

  (──やっ……いやあああああああああああッッ!!!!)

  

  頭の中が真っ白になった。

  悲鳴の代わりの呼吸が、気門から漏れる。

  脚が跳ね、翅が暴れる。

  でももう、何も止まらない。

  

  雄蜂は体をほとんど動かさない。ただ、接続された交尾器だけが、前後に、ゆっくりと動いている。

  最初にきたのは、ぞわりとした粘膜の気持ち悪さだった。知らない臓器が、知らない動きをしている。腹の奥が攣るように収縮する。それが、なぜか、少しずつ──快楽を帯びていく。

  

  (あああぁぁ……! ふざっ……ふざけっ……! 気持ちいいわけが……っ……!)

  

  マツリの節足が、勝手にうねった。翅が震え、足が空を掻く。無様に、滑稽に。その動きが、交尾器をさらに奥まで吸い込む形になっていく。

  粘膜から、どろりとした液体が滲む。どこから出ているのかわからない。でも確かに、自分の体から分泌されている。その液体が相手の動きを滑らかにし、さらに奥まで異物が入ってくる。

  

  嫌悪感の奥に、じわりとした熱が混じる。拒絶の言葉を頭で繰り返すほどに、内側が勝手に蠢き、ぴくぴくと締めつける。触角の根元、翅の付け根、その場所が、どんどん熱く、ぬるく、ふやけていく。

  

  (あああっ……! いやだっ……! やだやだやだぁ……っ! こんなのっ……ちがっ……やめろ、やめろっ……ああっ……!)

  

  叫んでいるつもりだった。

  けれど口はただ横方向にパカパカと開くだけで、空気も、声も、もう通っていない

  代わりに、どこか内側──胸でも喉でもないどこかが、熱くうめくように震えていた。その震えが、外へ出ることはない。溺れるように、内側だけが掻き乱されていく。

  

  そして──「それ」は加速する。振動に合わせて体全体が揺れる。その揺れさえも、心地よさに似た感覚を呼び込んでしまう。拒絶するほど、快楽が輪郭を増していく。

  

  (ん、ひぁっ……あああぁああっ……!!)

  

  腹の奥がひくついて、勝手に痙攣が走る。全身が跳ね、視界が白く弾ける。

  ──それは絶頂ではなかった。けれど、限りなく近かった。体だけが、知らない悦びを覚えはじめている。

  

  (……だれか……)

  

  その言葉は、意識するより先に零れ落ちた。

  ふいに、抱きしめられたい、と願ってしまった。ただ、それだけでいい、と一瞬思ってしまった。誰に? と考えた瞬間、背筋が凍る。思い浮かんだのは、この雄蜂のざらついた節足だった。自分を押さえつけ、奥まで擦っている、その脚。

  

  (ちがう……っ……いやだ、いやだ……っ!)

  

  思考を止める。止めないと、壊れる。人間だったころの柔らかさも、ぬくもりも、あの手も、あの胸も、もう二度と──

  

  奥が、跳ねた。痙攣の波が、腹の奥からせり上がる。自分の意志とは関係なく──

  熱い何かが、どろりと流れ込んだ。臓器の深部で、それが受け止められ、吸われていくのがわかる。わかりたくもないのに、はっきりと感じ取ってしまう。

  

  (──ああ……やだ、これ……っ……!)

  

  逃げたかったのに。振り払いたかったのに。最奥を抉られ、注ぎ込まれて、貯蔵して。そのすべてに、身体だけが応えていた。

  

  ――なのに、ほんの一瞬。

  

  ふと、何かが足りない、と、思ってしまった。

  

  その感情の形に、自分でも吐き気がした。

  でも体は、ただ気持ちよさに蕩けている。

  その気持ち悪ささえ、甘い余韻へと変わっていった。

  

  【05】

  

  そして──数えることもできないほど、同じ行為が繰り返された。

  身体の奥が擦られ、注がれ、膨らみ、満たされる。

  

  やがて、雄たちは離れていった。理由はわからない。──でも、身体は理解してしまっていた。もう中に"十分に残っている"。だから、次は来ないのだと。

  

  (……くそっ……っ)

  

  潰れたように寝転がったまま、マツリはじっと翅を震わせた。

  羽音が響く。いかにも虫じみた、単調で、反射的なそれが、腹の気門から勝手に漏れていた。

  

  (違う……僕は……)

  

  どこにも鏡なんてない。けれど、自分の姿が、どれほど"ヒイラギ・マツリ"から遠ざかったかなんて、考えるまでもなかった。触角。複眼。六本の脚。──鈍重な腹部。

  

  (……こんな、もん……僕じゃ、ない……)

  

  口にしようとした瞬間、歯のない顎が、わずかに動いた。鈍い反響音。

  泣きたかった。泣いてしまえば、楽になれるかもしれない。けれど、精神は──まだ壊れていない。

  

  (まだ、だ……まだ、終わってない。……ここから、出なきゃ)

  

  翅を震わせる。腹が重くて、飛び上がれはしない。

  でも、這うくらいなら──きっとできる。

  

  誰かに見つけてもらうんだ。魔物の姿でも、意思さえあれば、きっと──

  アカネなら。カナメなら。ヨミなら。……いや、誰でもいい。

  「僕」を知ってくれている誰かに、気づいてもらえたら……。

  

  体の奥で、ずっと熱いままの異物が、ずしんと重さを訴えていた。

  それでもマツリは、爪のない前脚を地面につけて、腹を引きずりながら前に出る。

  

  (生きる。戻る。……ここで、終わらせたりなんか、しない)

  

  だが、最初は六本の脚をどう扱えばいいのかすら見当がつかなかった。

  地面を押してみても力は逃げ、前へ進もうとすれば腹が床を擦るばかり。

  そもそも"歩く"ための構造ではない──そのことを、嫌でも思い知らされる。

  

  巣の中を飛び交う雄蜂たちを見て、ようやく理解した。

  彼らは壁にとまるときに脚を使う。つまり、脚はあくまで飛行の補助。

  この体にとって「前へ進む」とは、翅で飛ぶことを意味しているのだ。

  

  ……だからこそ、翅を必死に震わせてみた。

  だが、何度やっても体は浮かない。羽音が虚しく響くだけで、ただ腹が揺れるばかり。

  

  (……まさか、『女王』はそもそも飛ぶようにできていない……?)

  

  そんな恐怖に似た疑念が、じわりと胸を締めつける。

  もしそうなら、このまま一生ここに──。

  それは言い訳にも似ていたが、否定できない可能性として頭を離れなかった。

  

  けれど、ふと魔力を翅に流した瞬間、感覚が一変する。

  まるで鍵穴に鍵を差し込んだように、奇妙な理解が流れ込んだ。

  この翅は、ただ震わせるだけでは意味がない。魔力を通すことで、初めて飛行能力として機能する。

  

  マツリは後脚で床を蹴り、思い切って翅に魔力を叩き込んだ。爆発的に体が浮き上がり、制御を失ったまま巣の壁へ真っ直ぐ突っ込む。

  

  「っ、うそっ──!?」

  

  慌てて翅をねじったが間に合わず、今度は床に叩きつけられる。

  節足がもげ、液が飛び散る。痛みに喘ぐより早く、傷は勝手に塞がり、筋肉がつながり、魔力によって治癒してしまう。

  意志とは関係なく治されるその感覚に、悔しさばかりが募った。

  

  ──それでも。

  

  何度も墜ち、何度も立ち直りながら、彼女は少しずつ飛び方を掴んでいった。

  翅を震わせ、魔力を通し、壁を蹴って浮き上がる。

  虫の体に慣れることが、屈辱であると同時に希望でもあった。

  

  (……行ける。僕はまだ、出られる……!)

  

  そう思えるほどに。

  

  だがその一方で、腹の奥は日に日に重くなっていた。

  下腹に熱がこもり、内部が圧迫される。

  歩こうとしても、重みに脚が滑る。

  

  ──産卵期が来る。

  

  (大丈夫……やり過ごせばいい。ただの生理現象だ……!)

  

  必死にそう言い聞かせる。

  

  ……だが、実際に始まってみると違った。

  腹の奥が痙攣し、ひゅるりと粘膜がひらく。

  どろりとした一粒が押し出され、地面に落ちた。

  

  見た瞬間、ぞっとする。

  透明で、軟らかく、ぐにゃりと形を変える球体。

  ──僕が生み出した"命"だ。

  理屈では気味悪くて仕方ないのに、どこからか愛着にも似た感情が滲み出す。

  

  (ちがう……こんなもの、排泄と同じ……!)

  

  慌てて頭を振り、必死に打ち消す。

  だが、次の瞬間にはもう第二の痙攣が走っていた。

  一粒、また一粒。吐き出すたび、内臓の奥が収縮し、ぴりりとした熱が粘膜を撫でていく。

  

  最初は「単なる排出」に近い感覚だった。

  だが繰り返すごとに、わずかな快楽が混じりはじめる。

  否応なく走る熱に、脚が震え、翅がわずかに鳴った。

  

  腹は震え、粘膜は勝手に収縮し、どろりとした命を吐き出していく。

  止まらない。止まらない。止まらない──。

  

  それでもマツリは、自分に言い聞かせ続けた。

  これは生理現象。ただの、生理現象にすぎない。

  

  そう唱えながらも、心の奥では知っていた。

  終わるまで続く。続くたびに、もっと強い感覚が芽吹いていく。

  

  (……終わったら。終わったらすぐに……!)

  

  それだけを支えに繰り返す。

  産卵が終われば、必ず外へ──。

  涙も声も出ないまま、翅だけがかすかに震えていた。

  

  

  

  

  

  【06】

  

  「うげっ、まだ生きてる。こりゃ焼き残しかな」

  

  山道の途中。木々の合間にぽっかりと広がった、陽の差す草地。その片隅で、モーブと呼ばれた男が、黒ずんだ何かをつま先でぐりぐりと踏みつけた。

  

  「……ちょっと、それひどくない?」

  

  肩越しに声をかけたのは、長い銀髪を後ろで束ねた女──マヤだった。

  手には火を扱う装置と、焼け跡の中から拾い上げた網籠を提げている。

  

  空気は熱を含み、焦げた匂いが鼻をつく。

  地面には、複数の黒い塊──まだうっすら煙を上げる虫の死骸が散らばっていた。崩れかけた木の根元。その奥には、裂けたように露出した巨大な巣の影。

  

  「生きてるっていっても、もう半分炭だろ。踏んで楽にしてやってんのさ」

  

  「そーいう問題じゃなくて……」

  

  マヤは眉をひそめ、足元に転がる黒い翅の残骸をちらりと見る。焼け焦げた殻の奥、潰れかけた複眼が──かすかに、動いていた。

  

  「……ねえ、モーブ。動いてるの踏まないでよ。どうせ捕るなら、ちゃんとキレイに捕って」

  

  「へいへい。……でもさ、マヤ、働きバチって何匹必要なんだっけ? 一匹で十分とか言ってなかったか?」

  

  「最低でも三匹。殺しても文句は言われないけど、無駄に潰すと割に合わないよ」

  

  「ったく、めんどくせー注文だな……。で、肝心の"女王様"は?」

  

  「潰したら報酬ゼロ。ちゃんと生きたまま、傷つけずに。──クエスト条件、忘れないでよね?」

  

  モーブがふぅっと煙を吐きながら、ぶつぶつ文句を言いながらも後退る。その奥。巣の裂け目の手前で、もう一人の女はただ黙って立っていた。

  無言で、ただ、奥を見ていた。木々の向こう、焼き跡のさらに奥。そこに──何かがまだ、動いている。

  

  

  *

  

  

  丸太のような倒木を乗り越えた先に、それはあった。

  木々のあいだに張り渡された蔦の先、視線の高さをぐっと超えたところ。その先に鎮座するのは、まるで森に巣食った腫瘍のような、巨大な球体だった。

  

  「……でけぇな」

  

  モーブが思わず呟いた。地面に立つ彼ら三人が縦に積み重なってようやく届くか、というほどの高さ。

  表面には蜂の巣特有の、波打つような層がいくつも重なっている。近づけば近づくほど、その一つひとつの模様が人の背丈ほどもあることに気づかされる。

  

  構造としては、「普通の」「昆虫としての」蜂のそれと似ている。──ただし、あまりにもでかい。

  内側は見えないが、翅の音がぶぅん……と低く、太く、空気を震わせている。

  

  「ねえ、入り口……見えなくない?」

  

  マヤが眉をひそめ、手にした網籠を持ち直す。横のモーブはすでに火槍を構えていたが、照準の先を定めかねている様子だった。

  

  「……なあ、これ。外壁ぶち抜くしかねーよな」

  

  「そうね……本当は入口を見つけてきっちり封鎖したいんだけど……」

  

  マヤが視線を巡らせる。周囲を一通り検分したはずだと、仕草だけで伝わる。木の影、蔦の重なり、巣の曲面に生まれる陰影――それらを見ても、入口らしき穴や裂け目は見当たらない。大きすぎる。だから、彼女の声は諦めにも似ていたが、同時に合理的な結論を示していた。

  

  「入口が見えない以上、そうするしかないわね」

  

  モーブが短く頷き、火槍の先を軽く調整する。

  

  「女王を焼いちまったらまずいからな、慎重に行くぞ」

  

  「そんなこと、わかってる。……あれを殺したら、あたしかアンタが"次"になるんだから」

  

  その言葉に、確かな重みが伴う。町では昔から「女王は生かせ」と教えられてきたのは、単に増殖の問題だけでなく、うっかり女王を絶やせば"次"が自分たちになる危険があるからだ。

  

  「……ったくよ。どうしてあれが自然界で回ってんのか、未だに納得いかねぇ」

  

  モーブが舌打ち混じりに言い捨てると、マヤは小さく肩をすくめた。

  

  「子供のときに習ったでしょ。だから"蜂の女王は殺すな"って、ずっと言われてきたじゃない」

  

  「知ってるけどよぉ……生きてるうちに、ほんとにやるとは思わなかったわけで」

  

  火槍の先を、少しだけ下に向ける。──準備は整っていた。

  

  

  *

  

  

  モーブが火槍を肩に担ぎ、巣の中腹を見上げた。

  

  「じゃあ──いくぜ」

  

  ひと呼吸、間を置いてから。

  轟、と爆ぜる音と共に、炎の矢が放たれた。着弾と同時に、外壁の一部がごそりと崩れ、黒く焦げた煙がもくもくと立ち上る。焼け焦げた脂の匂いが、風に乗って漂ってきた。

  

  「……っ、うえぇ、臭っ」

  

  「モーブ、上! 来るよ!」

  

  次の瞬間、穴の空いた外壁から、働き蜂たちが次々に飛び出してきた。ぶんぶん、と低く唸る翅音が、空気の層を波打たせる。

  

  「おっとぉ……やっぱ出るか」

  

  モーブは後ずさりしながら、再び火槍の引き金を引く。炎の舌が風を裂き、一匹目の蜂が燃え上がった。羽が爆ぜ、脚が縮れ、炭のように地面へ落ちる。

  二匹目、三匹目も同様だった。連携を取って突っ込んでくる様子はあるものの、それはあくまで群れとしての本能の延長にすぎない。武器を手にした人間の前では、秩序は容易に崩れていった。

  

  「女王を殺すとこいつら一斉に牙をむくんだろ? ……今のぐらいなら、大丈夫そうにも思えるけどなあ」

  モーブが鼻を鳴らしながら吐き捨てる。

  

  「油断しないで。いまはまだ本気じゃないだけよ。女王が死んだときだけ、あの群れは本当に牙をむくの」

  

  マヤが冷静に言い返し、網籠を構える。手元には小型の麻痺弾が数発、装填済みだ。

  

  巣の中からは、低く重い羽音が絶え間なく響いていた。

  炎と煙の奥、裂け目の影が一瞬揺れる。

  

  「……女王って、どんな姿なんだ?」

  

  「魔導映像で見たことあるわ。働き蜂より一回りか二回りは大きいって聞いたけど」

  

  巣の奥は薄暗く、途切れ途切れの羽音が深みに反響していた。

  一歩ごとに影が濃くなり、やがて視線の先に、形を成すものがある。

  

  外からでは見えなかった遮蔽物の裏。

  その中で──"それ"は、うずくまっていた。

  

  

  *

  

  

  ぬらり、ぷつり──

  下腹の隙間から、半透明の卵がじわじわと押し出されていく。

  

  狭い管を通るあいだは押し潰されたように細長く変形していたが、露出する部分が増えるにつれて、丸みを取り戻していく。最後には全体が腹の先から抜け落ち、つややかな球体として転がった。

  

  その瞬間、女王の体がぴくりと跳ねた。

  腹の節がかすかに波打ち、脚が内向きに力なく縮む。顎がわずかに持ち上がり──その口元から、とろりと涎が垂れた。

  

  次の一粒が、すぐに後を追う。

  再び、同じ反応。腹部がひくつき、翅が震え、涎がぽたりと床に落ちる。顎は仰け反り、全身が細かく震えた。

  

  まるで、身体そのものが勝手に悦びを繰り返しているかのようだった。

  ──あるいは、どこか、そんな自分を恥じているかのようにも見えた。

  

  最初に口を開いたのは、マヤだった。

  言葉に詰まりかけながら、顔をしかめ、網籠をそっと下ろす。

  

  「……なにこれ。いや、それは、そうなんだろうけど……」

  

  目の前で繰り返される、生々しい産卵の光景。仰向けに近い姿勢で横たわった女王の腹からは、ぬるり、ぬるりと卵が生まれ続けていた。一粒産むたびに体がびくつき、顎が持ち上がり、涎を垂らす。

  

  「うへえ……なんか……すごい光景だな。見ていいのかこれ」

  

  モーブが思わず視線を逸らしながら言う。が、口元には苦笑すら浮かんでいた。気まずさ、気味悪さ、言葉にできない居心地の悪さ。どれが本音かは、本人にもわからない。

  

  「……やっぱり、これって……もともと人間だったのかな」

  

  横目に見つつ、マヤがぽつりと呟いた。反応を求めたわけではない。ただ、自分の中の違和感に言葉を与えたにすぎなかった。

  

  「おいおい、やめろって。気持ち悪ぃだろそういうの。たしかに『材料』は人間かもしれねえけどさ」

  

  モーブが軽く手を振って、まるで呪いを払うように言葉を遮った。

  

  「見ろよ、どこに人間の面影があるんだよ。あれは……ただの虫だろ。デカくてキモくて、卵を産んでるだけの」

  

  その言葉に、マヤは口を閉ざす。

  

  「でも……記憶が残ってるとか……ないのかな。なんかさ、今の……」

  

  マヤが絞るように言った。

  

  「卵を産むたびに、こう、涎垂らして……あれ、なんか、恥ずかしがってるように見えたっていうか」

  

  「ねーよ。気のせいだって」

  

  モーブは鼻を鳴らした。

  

  「……でもさ、女王のサイズ、ちょっと……小さくない?」

  

  マヤの声が少し低くなる。

  

  「私たちが習った知識だと、もう少しこう……威厳あるっていうか。でっぷりしてて動かないっていうか」

  

  「……おい、それってつまり──」

  

  モーブの言葉を遮るように、マヤは一瞬だけ視線を逸らした。考えれば考えるほど、虫の体に人間性を探すのは気持ちが悪くなるだけだと、どこかで二人ともわかっていた。

  

  「いや、やめとこう。考えるだけ損だ」

  

  モーブが軽く舌打ちして、肩越しに笑ったような声を漏らす。

  

  「じゃ、括るか。傷つけたらマズいからな、幻覚と思考阻害でもかけておいて──あれ?」

  

  ぐにり、と女王の脚が動いた。ひとつ、またひとつ、脚がばたつく。翅が震え、首がわずかに左右に振られた。

  

  「あ、あれ……動いてね? 魔法効いてねえの?」

  

  「う、うわっ……ちょ、なに、こっち見た! 見たよね! ? 今、首こっちに──」

  

  「やだやだやだ、きもいきもいきもいっ!! ていうか、効かないとか聞いてないんだけど! ? なんで! ?」

  

  脚がばたばたと"イヤイヤ"をするように暴れ、腹部が左右にくねる。まるで縛られることを理解しているような、有り得ない反応だった。

  

  「だああもう、やめろっ! 動くなっての! ひぃ……うっわ、ヌルッてした! 最悪! 無理ぃっ!」

  

  マヤが悲鳴を上げて後ずさる。モーブも眉をしかめて腰を引いた。

  

  「くそっ、しょうがねえな。傷はつけたくねえから──物理拘束、レベル1──!」

  

  ぽう、と淡い青光が女王の体にまとわりつく。抵抗するかのようにその身が小刻みに揺れ── 一度だけ、びく、と痙攣したあと、ぴたり、と動きが止まった。脚が持ち上がったままの姿勢で固まり、翅が宙に浮いたまま微動だにしない。

  

  「……止まった?」

  

  「止めた。数分はこれで動けねえ。……つーか、これだけでもう汗だくなんだけど」

  

  「ふう……でもさでもさ、今の動かなくなる直前の"ぴくっ"ってなったやつ。……ちょっとだけエロくなかった?」

  

  「は? てめえ黙れ」

  

  空気が乾ききらないまま、ふたりは縄を取り出す。粘膜のような脚をひとつひとつ束ね、女王の背中に沿わせるように括っていく。まだぬめりの残る節に縄が食い込むたび、わずかに皮膚が盛り上がった。

  

  「ひいぃ……指に粘液が……最悪……」

  

  「しゃべるな。集中しろ。ほら、棒通すぞ」

  

  縛った手足と胴体のあいだに、太い運搬用の棒を差し込む。節と節の隙間にねじ込み、ずれないよう固定すると──女王の身体がぶらりと持ち上がった。腹が重い。内側から詰まっているのが、視線越しにすら伝わる。

  

  「よし……持ち上げて──はい、せーのっ」

  

  ふたりがかりで棒を担ぎ上げると、吊られた女王の体が反転する。腹が下に垂れ、ずるりと震え──そのまま、一粒。

  

  にゅるり。

  ぷつん。

  

  宙吊りの腹の下から、また卵が生まれ落ちた。粘液の糸を引きながら、ぬるぬると床に落ちる。

  

  「うえっ……! まだ産むのかよ……! ていうかこれ、腕、千切れねえか! ? 腹の重さやばいって!」

  

  ぶら下がった身体が、わずかに左右に揺れる。

  そのたびに節がたわみ、腹が重力に引っ張られてぷるぷると震える。膨れすぎて今にも裂けそうな嚢のようだった。

  

  

  *  *  *

  

  

  (……うっ……うぅっ……!)

  

  縄が節に食い込み、六本の脚が不自然な角度で束ねられている。

  豚の丸焼きのような姿勢で棒に吊られた自分の身体がぶらりと揺れるたびに、腹の奥が勝手に押される。

  

  ──ぬらり、と一粒が滑り出て、粘液の糸を引いて落ちる。

  脚をばたつかせても、ただ縄がきしむだけ。何もできない。情けない。情けなさすぎる。

  

  (……殺される……っ……? いや、でも、それなら……っ)

  

  視界の端で、焼け焦げた殻が黒い灰になって崩れていく。──あれは雄蜂たちの死骸。ついさっきまで同じように羽音を立てていた者たちが、火に包まれて脚を縮め、翅を焦がし、最後は真っ黒な塊になっていく。

  

  その光景が、自分自身の未来図のように重なった。火を浴び、腹が弾け、脚を折りたたんで、虫のまま焼き殺される自分。想像した瞬間、背の奥がぞくりと凍りついた。

  

  焼け焦げた雄蜂たちの死骸がちらつく。あの羽音、あの炎。自分も、あのように燃やされるのかと思った瞬間、背中の奥が凍りついた。

  

  けれど──もし殺すつもりなら、あの場で焼かれていたはずだ。

  

  (……助かる、の、かもしれない……)

  

  希望と羞恥と、腹の奥でひくつく余韻がぐちゃぐちゃに混ざって、視界が歪む。揺れるたびに、ずしりと重い腹がぶるぶると震え、六本の脚はただ、縮こまるしかなかった。

  

  (くぅ……あっ、うぅっ……!)

  

  ──また。

  ずるりと粘膜が押し開かれ、腹の奥から一粒が滑り落ちた。縄で吊られた身体が揺れるたびに、勝手に押し出されるように。止められない。止まらない。

  

  怒りに近い感情が込み上げる。どうしてこんな姿で。どうして、僕が。けれどその怒りを裏切るように、次の瞬間、腹の奥からじわりと熱が広がった。

  

  ──気持ちいい。

  否定すればするほど、そうとしか言いようのない感覚が、じわじわと強まっていく。

  最初は微弱な痺れだったのに。今は、怒りや羞恥を打ち消してしまうほど、確かなものになりつつあった。

  

  運んでいる二人は、なるべくこちらを見ないようにしていた。

  目を逸らし、顔をしかめ、棒の両端だけを見つめている。

  まるで、ただの汚れ物か死骸でも運んでいるかのように──壊さぬよう慎重に、だが触れたくないという仕草が全身から滲んでいた。

  その視線が、胸に突き刺さる。

  

  ──虫。

  そうだ。今の僕は虫だ。産んで、揺れて、だらしなく快感に震える、ただの虫。

  

  (……ちが……っ……違う……! 僕は……僕は……!)

  

  視界が揺れる。

  吊られた腹がぶらぶらと震え、脚は縄に縛られたまま縮こまるしかない。

  涙も声も出せないのに、胸の奥だけが焼けるように軋んでいた。

  

  そのとき──靴音。

  規則正しく近づいてくる足音が、耳の奥に染みこんだ。

  

  誰だ。見られたくない。助けてほしい。死にたくない。

  相反する思いが同時に押し寄せて、頭の中がぐちゃぐちゃになる。

  それでも直感は訴えていた。

  

  (……知ってる……この歩き方……?)

  

  見覚えがある。だが名前も顔も思い出せない。

  ただ"知っている誰か"だという感覚だけが、胸をひどく揺さぶった。

  

  恐怖と羞恥と、わずかな救いの期待。

  その全部を抱えたまま、視線をそちらに向けた。

  

  ──ヨミ。

  

  その目は、冷たくも優しくもなかった。

  ただ、異様に熱を帯びていた。

  観察者のように、息すら忘れ、僕を──僕のこの姿を──凝視している。

  

  「……おいヨミ」

  モーブが怪訝そうに声をかける。

  「虫嫌いだって言って、捕獲じゃなくて荷運びだけ受けたんじゃなかったのか?」

  

  だがヨミは答えない。

  耳に入っていないのか、入っていて無視しているのか。

  恍惚とした表情を隠そうともせず、ただ僕を、食い入るように見ている。

  

  意味がわからない。

  なんでこの子がここに。どうして、そんな目で僕を。

  怒るべきなのか。喜ぶべきなのか。答えは出ない。

  ただ、確かにわかった。

  ──この人間は、僕のことを"僕"だとわかっている。

  

  なのに、助けるでもなく、声をかけるでもない。

  ただ、凝視している。

  

  その目は、冷静さと熱っぽさがねじれ合っていた。まるで奇妙な儀式を目撃した信徒のように、恍惚すら滲ませている。

  視線は腹のふくらみへ、翅の震えへ、縛られた脚へ。ひとつひとつを順番に辿り、観察し、刻みつけていく。

  

  意味がわからない。

  怖い。

  なぜ、そんな顔で僕を見ている。

  

  (……やめて……見ないで……!)

  

  その願いを嘲笑うかのように、腹の奥がひくついた。

  ぬるりと管が押し広がり、細長く歪んだ半透明の球が顔を覗かせる。

  狭い出口を通り抜けるあいだ、押し潰されるように形を変え、露出するにつれて、すぐに丸みを取り戻す。

  

  (……っ! あ、ああ……っ!)

  

  顎が勝手に持ち上がり、涎が垂れる。産み終える瞬間、全身が短く震え、ぶら下がった体が小刻みに跳ねた。

  

  その反応を、ヨミは逃さなかった。

  まばたきもせず、息すら止めて、ただ凝視していた。

  観察の刃で皮膚の下まで抉られるように、視線が痛い。

  

  次の瞬間──ふっと、笑み。

  「確信」を得たのか、それとも「確信する手段」を思いついたのか。

  その表情は、不気味なほど楽しげだった。

  

  ぐに、と。

  

  産卵管の根元を握られる。

  (や……だ……っ、なに、これ……っ!)

  熱が逆流し、卵が内側に押し戻される感覚が走る。

  粘液が弾け、全身がのけ反った。

  (あ──っ、あああぁあああっ……!!)

  

  今度は指で輪を作るようにして、産卵管を上下に扱き上げた。ぬちゅ、ぬちゅ、と粘膜を擦るいやらしい音が鳴る。

  

  産むでもなく、交わるでもなく。

  これまで一度も知らなかった、異質な快楽。

  産卵と連動していた痙攣とはまるで違う。

  腹の奥を直撃し、脳を焼き尽くすような熱が駆け抜ける。

  

  「お、おい! やめろよ! 壊すなって! なにやってんだ!」

  

  モーブが慌てて声を荒げる。

  その声には焦りしかなく、勇ましさも冷静さも欠けていた。

  

  一方で、マヤは言葉を失っていた。

  目の前で繰り広げられるのは、ただの捕獲でも処理でもない。

  粘膜を握り、管を扱き、産み落とす瞬間を快楽に変えるその所作は──まるで、理解を超えた祭儀のように見えた。

  意味のわからない儀式を見せつけられた参列者のように、声を上げることもできなかった。

  

  はたから見ればあまりにも意味がわからない状況の中、吊られた体がびくびくと痙攣し、もうなんの汁なのかもわからない液体を撒き散らす。翅は勝手にぶるぶると鳴り、顎は上向きに震え、涎が滴る。

  

  (ひいっ……うぅっ……ああああぁああっ!)

  

  無様。無様すぎる。それすらも快楽に変換されていくのか。わからない。わからない。わからない。

  

  「……へえ」

  

  ヨミの口の端が、ゆっくり吊り上がった。

  観察者の微笑──いや、実験に成功した研究者のそれ。

  

  「やっぱり……あなた、まだ"中身"が残ってるのね」

  

  (……っ! 僕、だと……わかって──)

  

  頭の中で言葉にならない悲鳴が響いた。

  怒るべきなのか。喜ぶべきなのか。

  でも、確かに伝わった。

  この人間は、僕が僕だと理解している。

  

  産卵管をもう一度、ぎゅむ、と握られる。

  卵が内から押し出され、粘液を撒き散らす。

  扱き上げと産卵が重なり、背骨が反り返るほどの快楽が爆ぜた。

  

  (ああああぁぁぁっっっ!!!)

  

  宙吊りの身体がのたうち、揺れ、汁を滴らせる。

  六本の脚は縄をぎしぎしと締め上げ、ぶるぶると震え続けた。

  

  ヨミは恍惚とした表情でそのすべてを眺め──囁いた。

  

  「ねえ……いいこと、あったでしょ?」

  

  その一言が、脳天から突き刺さる。

  怒りと羞恥と安堵の破片が、ひとつに溶けて消えていく。

  なにを選べばいいのかも、もうわからない。

  

  (……ああ、そうか……)

  

  助かることは、もうない──その確信だけが、異様なほど鮮明だった。

  目の前の行為が何のためなのか、なぜヨミがここにいるのか、

  何ひとつわからないのに、ただ「終わり」が目前にあることだけは、はっきりとわかってしまった。

  

  怒るべきでも、喜ぶべきでもなかった。

  そのどちらの感情も、もう選べなかった。

  残っていたのは、ただ──終わりのない絶望だけだった。

  

  

  

  【07】

  

  ──にぎやかな声が響いていた。

  通りの両脇には土産屋が並び、焼き菓子や蜂蜜酒の甘い匂いが漂っている。

  手を繋いだ子供がはしゃぎ、観光客らしき夫婦が写真を撮っていた。

  

  「はーい皆さん、こちらにご注目くださーい!」

  明るい声とともに、街の中央広場に立つ案内人が手を振る。

  その背後には立派な石造りの展示館があり、入り口には「ハイアピス養蜂記念館」と金文字が掲げられていた。

  

  「この街はですね~、クロネッカー商会が試みた"女王蜂の飼育"が大成功しまして!

  今ではこうして一大観光地に発展したんですよ~。

  こちらが当時の街の模型です~、ご覧くださーい!」

  

  観光客たちから「へえ~」「すごいなあ」と感嘆の声が上がる。

  蜂蜜を練り込んだ焼き立てパンを頬張りながら、子供が「おいしい!」と笑う。

  案内人は得意げに胸を張り、さらに言葉を続けた。

  

  「そして、皆さんお待ちかね!

  これより女王蜂の巣をご覧いただけます。

  今も元気に卵を産み続けておりますので~、どうぞお楽しみに!」

  

  ──ぱちぱち、と拍手が起きる。

  期待に満ちた笑顔と熱気。

  それらの声が響くその奥で、厚い扉の向こうに。

  "彼女"は吊られたまま、今日も卵を産み落としていた。

  

  

  「ご覧くださいませ~!

  こちらが当館最大の見どころ、ハイアピスの女王でございます!」

  

  ざわめく観光客たちの視線の先、厚い硝子越しに見えるのは巨大な生物。

  縛られたまま吊られた女王蜂が、ぬらり、ぷつりと卵を産み続けている。腹部がひくつくたび、節が震え、涎が糸を引く。

  その光景は、神秘的とも、どこか不潔とも形容できるものだった。だが不思議なことに、その表情は──恍惚の色すら帯びて見える。

  

  「この個体から生まれる卵には、非常に豊富な魔力が含まれております!

  他の街でも同様の試みが行われていますが、ここまで高純度の魔力を保ち続ける例はございません。

  卵から抽出される蜜や薬はたいへん貴重で、今では街の基幹産業となっております!」

  

  一呼吸おいて、案内人はさらに声を張った。

  

  「通常、ハイアピスの寿命は五年から十年。

  魔力が尽きると、どれほど健康でも命が終わってしまうのです。

  ですから、普通の個体は卵に込められる魔力も一~三年で枯渇してしまいます。

  

  ──ところが!」

  

  観光客がざわ、と顔を見合わせる。

  

  「こちらの個体は、羽化から五年を過ぎた今なお、魔力量がまったく減っておりません!

  奇跡としか言いようのない存在なのです!」

  

  拍手と感嘆の声。

  子供の「すごーい!」という叫び。

  甘い蜂蜜酒の香りと混じって、場の空気が熱を帯びていく。

  

  「クロネッカー商会は今でも研究に多額の投資を続けています。

  こちらの個体では現在、"無精卵"のみを産ませる実験が行われているんですよ」

  

  案内人の声が、展示室に響く。

  無精卵──つまり、雄蜂との交尾を一切行わせずに卵を産ませる試みだ。

  通常であれば一~三年で魔力が枯渇するはずだが、この個体はすでに五年を超えてなお魔力量が減少しない。

  観光客の誰もが「奇跡だ」と拍手を送り、記念写真を撮っていた。

  

  ──だが。

  

  その硝子の奥で、吊られた女王蜂は、今日も卵を産み続けていた。

  脚を縛られ、腹を震わせ、涎を垂らしながら。

  

  

  

  

  *  *  *

  

  

  

  

  「ぁぁぁぁああああああああああああああああ!!!!!!」

  「うううううあああああああああああああ!!!!!!!!」

  欲しい。欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しいほしいほしいほしいほしい──

  

  捕らえられたのは、養蜂のためだった。

  僕がなったこの虫は「ハイアピス」と呼ばれているらしい。魔力を蓄えた女王蜂として、人間に利用される存在。

  

  ……あの蛹の中で、僕は何度も考えた。アカネが言っていた罠や魔法、種族変化の話。もし生き延びられれば、この体を「上書き」することもできるかもしれない、と。

  だから最初は必死に脱走を試みた。人間に近づき、必死に声を伝えようとした。でもどうにもならないまま──何年も、ここに囚われている。

  

  最初は、交尾も、産卵も、心底嫌だった。身体が勝手に震え、涎を垂らし、卵を産み落とすたびに羞恥で泣き叫んだ。

  

  でも今は違う。慣れた。

  いや、慣れてしまった。

  交尾の快楽も、産卵の快楽も、すっかり身体に染みついた。

  

  だからこそ。いまは、もう気が狂いそうだった。いや、狂えるなら狂いたいし、死ぬことができるならそうなりたい。

  長い間、雄が現れない。

  

  産卵だけは続く。卵を産むたびに甘さは走る。

  けれど、頂点に届かない。管理する人間たちの都合で、僕に無精卵だけを産ませているのだろう。

  

  悔しい。悔しい。悔しい。僕の"成果"はすべて他者の利益になり、僕自身の願いは一切許されない。ここから出ることすらできない。

  

  ──だから。

  

  その羽音を聞いた瞬間、体の奥が爆発した。

  雄の気配。待ち焦がれた影。涎を撒き散らしながら、吊られた体をもがいて動かす。翅を鳴らし、脚を伸ばし、昆虫の体なのに、まるでハグでもせがむように雄に向かって「手」を差し伸べていた。

  

  空調の効いた巣の中は、広さにして二十畳ほど。おがくずと木材で形だけ再現された壁に囲まれ、余計な飾りはひとつもない。

  湿気も排泄の匂いもない──というより、僕自身、捕らえられてから一度も排泄をしたことがなかった。女王蜂というのは、もともとそういう体質なのか。それとも、僕だけが特別なのか。……いずれにしても、ここは「清潔な檻」だった。

  

  観光客が来るときは、木製の扉が開いて金網越しに晒される。産卵を見世物にされ、神秘だの気味悪いだのと囁かれる。でも、それ以外のときは──本当に、ただ何もない空虚な箱だ。……それなのに。

  

  「えへへぇ……♡♡」

  

  羽音が響いた瞬間、この殺風景な箱は一変する。

  

  雄蜂の影が一匹見えただけで、二十畳の檻は夢のテーマパークになった。遊具も飾りも要らない。あの雄がいる──それだけで。

  

  

  *

  

  

  産卵管の奥が、じわじわと熱を帯びていく。

  翅がばさりと広がり、僕はふわりと浮かび上がる。もうすっかり慣れた飛行なのに、わざと尻を振るように、ゆっくりと。

  振った尻の動きに合わせて、雄が低く唸る。羽音の波が重なり合い、箱の空気が震える。

  

  すぐ背後に回ったのに、まだ結合してこない。焦らされているのではない。雄は単純だ。ただ、こちらの動きに導かれるままに近づいてきている。だから僕は、さらにゆっくりと翅を震わせた。尾をわずかに持ち上げ、見せつけるように管を開く。

  

  ──来た。

  熱を帯びた器官が擦れ、ぬるりと入口を押し広げた。結合した瞬間、脚が勝手に震え、翅が大きくはためいた。

  

  二匹は浮かび上がると、狭い箱の中を、結合器を突き合わせたまま旋回する。上下も前後もなく、ただ絡み合いながら飛ぶ。

  どちらからともなく、床に落ちた。硬い衝撃のなかでも、結合はほどけない。逆に深く沈み込み、ずるりと奥をこすられる。腹が痙攣し、節が震える。

  

  普通なら、ここまでだ。交尾は背後から覆いかぶされるだけ。それ以上はなかった。

  でも、僕は知っている。脚の絡ませ方次第で、雄の体を横に転がせることを。翅を支えに使えば、腹を重ねて向かい合う姿勢にできることを。

  

  ぐい、と脚で雄を引き寄せる。節と節が擦れ合い、腹同士が合わせられる。顎が触れ、触角が絡み、脚が抱き合うように重なる。

  まるで人間の正常位のように、正面から向き合いながら交尾が続いた。雄の器官が斜めから擦り上げ、今まで触れたことのない面をざらりと抉る。奥で弾けるたび、体中がひくひくと痙攣する。

  

  脚は自然に雄を抱きしめ、触角は頬を撫でるように絡みつく。そのたびに奥が突かれ、節の隙間から甘い震えが走った。

  

  「あ、ぁ……っ、ひぁぁ……っ!」

  

  声は出ないのに、頭の中でははっきりと甘い声が響いていた。

  

  自分の声。女の子になってからの、あの透き通るような声。

  

  ──男だった時間の方がずっと長いはずなのに。どうして、いまの僕には、この声しか思い浮かばないのだろう。この体が雌だからだろうか。

  その声で「幸せだ」と告げられるたびに、胸の奥が焼けるように熱くなった。

  

  ぐちゅ、ぐちゅり。

  粘膜が擦れ合う湿った音が、久方ぶりの結合を祝福する。産卵の快楽では届かなかった領域に、熱が次々と流れ込んでいく。

  

  「あっ♡あ……ぁぁぁ♡♡」

  

  甘く、とろけるような吐息。それはやがて、形を保てなくなっていく。

  

  「ひぁっ♡あっ、あっ♡んぐぅっ♡♡」

  

  翅が痙攣し、節足が床を掻く。結合器が奥を抉るたびに、最初の余裕は切り裂かれ、かわりに蕩けた叫びが迸った。

  

  「んぉっ♡おほぉっ♡♡ふぁ、あぁぁっ♡♡♡」

  

  ぐちゅっ、じゅぷっ、どちゅっ♡

  箱の中に淫らな水音が充満し、喘ぎと混ざって世界を染め上げる。

  

  目の奥がちかちかと明滅する。

  視神経そのものが震えているようで、見える景色すら甘く揺れていた。胸でも喉でもなく、腹の気門から荒い吐息が勝手に漏れる。ぷしゅ、ぷしゅ、と乾いた呼気が重なり、それさえも快楽のリズムに聞こえた。

  

  触角がびくびくと跳ねる。まるで勃起のように血が集まっているのか、理由はわからない。けれど確かに、触角の付け根から得体の知れない熱が突き上げてきて、頭の奥まで痺れさせていた。ただ、快楽だけに支配されていく。

  

  「あっ♡あああああぁぁぁっ♡♡♡」

  「んおぉっ♡もっ……とっ♡♡ほしいぃぃ♡♡♡」

  

  理性のかけらも消え、ただ狂乱。悦びに喉を焼かれ、頭の中で声が絶叫する。

  

  その瞬間──どぷっ♡と腹の奥に熱が注がれた。結合器の根元まで押し込まれ、臓器が勝手に絡みつき、すべてを受け止める。

  

  「んんんんんっ♡♡♡あぁぁぁぁぁあああああっっ♡♡♡♡」

  

  絶頂が爆ぜた。

  腹の奥に、熱がどぷどぷと流れ込む。

  一度ではなく、何度も、途切れず。

  

  臓器が勝手に吸い上げ、絡みつき、離すことなく受け止めていく。

  頭の中で、自分の女の子の声が甘く汚れて響いていた。

  

  「あっ♡ぁああっ♡♡まだ……っ♡まだくるのぉ……っ♡♡♡」

  

  声にならない声が頭に響く。

  甘い、蕩けきった女の子の声で。

  その声が震えるたび、僕はただ受け入れることしかできなかった。

  

  絶頂は波のように繰り返し押し寄せ、ひとつ収まるたびに、次の波が腹の奥から突き上げてくる。

  視界が白く明滅し、触角がびくびくと硬直し、気門から荒い吐息がひゅうひゅうと漏れる。それでも快楽は止まらない。

  

  「んぅぅぅぅぅっ♡♡♡あぁぁぁぁぁぁぁぁっ♡♡♡♡♡」

  

  甘さに溺れながら、心のどこかで震えていた。

  

  ──これが、ずっと続くのだろう。

  

  感謝にも似た、多幸感の中で。

  

  永遠の、あるいは甘い地獄として。

  

  

  

  【END1『42』】