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エスプレッソをきみに

  ぺったんこのスニーカー、黒く汚れたふとっちょオーバーオールにキャスケット帽をかぶると、靴磨き道具を持った虎のぼくは裏通りの自宅から飛び出して表通りに向かった。作業服や力仕事のおじさんが行き来する裏通りと違って、一歩表通りへ踏み出すと、スラックスとベスト、ハットなど、きちっとした身なりの人たちが駅へ向かっていく。ぼくはそれを尻目に近所の靴屋で靴墨やウェスをいくらか買うと、いつものバルに飛び込んだ。バルってのはまあ、立ち飲みでコーヒーやエスプレッソ、軽食をとる店だ。テーブル席もあるけど料金が高いから、お金持ち専用ってとこで、今日これから稼ごうという労働者が座ることはまずない。

  「おっちゃん、おはよう! エスプレッソひとつね!」

  「はいよ」

  世間話をしながらカウンターの前に立つと、銀毛で恰幅のよい狼のおじさんがエスプレッソを入れてぼくに出してくれた。ぼくはエスプレッソに口をつけた——お金を払わずに、だ。

  コクのある苦味が口いっぱいに広がったところで入り口から上品な足音が聞こえた。顔なじみの彼はこの国では見かけない色のひとみでぼくを見ると微笑んで、おっちゃんにオーダーした。

  「エスプレッソを。それから、サンドウィッチもよろしく」

  「ヴァンダービルトさん、おはようございます!」

  「やあ、ブルーノ」

  ヴァンダービルトさんはスーツにハット、ステッキを持ったしろくまの紳士だ。貧乏人のぼくから見ても、外を歩く紳士達よりももっといいものをお召しになっているように見える。そんな彼がどうしてこんな、ぼくたちみたいな貧乏人がくるようなバルに来るのか分からない。

  ヴァンダービルトさんは席料の高いテーブル席に迷わずつくと新聞を広げた。おっちゃんがエスプレッソとサンドウィッチを提供すると、ヴァンダービルトさんは席料と、サンドウィッチ代と、エスプレッソ二杯分の料金を払った。

  「ヴァンダービルトさん、いつもありがとう」

  「ははは、儲かるようになったら、今度はぼくの分も払ってくれよ」

  ぼくがお金を払わなかったのはドロボーだからではない。カフェ・ソスペーゾってヤツだ。カフェにくるとお金持ちはエスプレッソ二杯分の料金を支払う。そのお金でぼくら貧乏人がタダでエスプレッソが飲める。これは「貧乏になったり落ちぶれたりしても、エスプレッソくらいはいつでも飲める世の中にしよう」という粋な習慣なのだ。

  しばらく新聞の一角を見ていたヴァンダービルトさんはぼくの所持品をチラリと見ると、なぜか奇妙なアドバイスをくれた。

  「今日は大きめの馬毛ブラシを持っていったほうがいいかも知れないよ」

  ヴァンダービルトさんは理由も言わずに新聞に目を落とした。でも彼の言うことはなぜか当たる。テレパシーってやつだろうか。正直なところ、大きなブラシは鞄の中がかさばるし、なにより値段もするからあまり使いたくないんだけど、ぼくはとにかく家に戻り、高級ブラシを鞄に押し込んだ。

  駅に駆け込むと、駅員さんに挨拶して靴磨き台が並んでいるほうへ走る。それぞれの台の前に靴磨きの少年達が並び、ここでぼくらは靴磨きをして稼いでいるわけだ。

  商売道具を並べているうちに新聞を持った紳士達がどかっと椅子に座る。なにかいつも見る革靴よりもほこりっぽい気がする。縫い目に小さい砂が入り込んでいるな。

  「いや、風が強いようでね。ほこりっぽくてかなわん。丁寧に頼むよ」

  革製品に砂埃がついているとき、そのままウェスで拭いたらガリッと革を痛めてしまう。だからブラシでほこりを払うわけだけど、となりの子はほこりを取るのに苦労して、椅子の紳士に急かされている。ぼくはさっき取りに帰った、大きく毛の長い馬毛ブラシでやさしく革を撫でると、ほこりが取り除かれた革靴を磨いた。大きいブラシはほこりが取りやすいのだ。その分、お値段もなかなかのものだから、普段は使わないのだけど。

  結局いつもと同じ時間でほこりっぽい靴をきれいに仕上げることができた。大きい馬毛ブラシがなければもっと手こずるところだっただろう。ぼくが終わったとき、隣の紳士は懐中時計を見て少し苛立っているようだった。

  「ありがとう、これは料金……と、エスプレッソ代だ」

  ぼくがポカンとしていると、紳士は料金を余分に置いていった。

  今日ぼくは悪条件なのにいつもと同じ人数をさばけたばかりか、それに感心した紳士達から余分な料金や、お褒めの言葉や、キャンディなどをいただいた。料金といっても本当に知れている金額だけど、貧乏人としてはもらえるにこしたことはない。それに大きいブラシを持っていなかったら、お客もぼくもうまくいかなくてもっとイライラしていたはずだ。普段は使うのが惜しくて奥にしまっている、大きいブラシがあって助かった。

  「どうだったかい、大きい馬毛ブラシは役に立ったかい」

  「ええ。どうして分かったんですか?」

  「ははは、また今度教えてあげるよ。それよりワックスは持ってるかい」

  「いえ」

  「じゃあ今日は持っておいき」

  ヴァンダービルトさんはエスプレッソを飲むと、また新聞に目を落とした。

  ワックスなんか普段は使わないし、使ったら余計な出費になるし、時間もかかる。でもヴァンダービルトさんの言うことは当たるのだ。ぼくはいつもどおり靴磨きをしていると、ひとりの紳士が椅子に座った。

  「いや、まいったね。あんなに晴れてたのにさっき降りはじめてさ、慌てて駅に駆け込んだんだ。これから濡れるだろうし、なんとかならないかい」

  「気休めでよければワックスがありますけど」

  「いいね! 革が痛むのが防げそうだ」

  ぼくは水を拭き取ると、靴を磨いてワックスを塗り込んだ。……よし、なんとか終わった。でもいつもよりずいぶん時間がかかってしまったな。これじゃさばける人数が……。

  「ありがとう、これなら靴も長持ちするよ。これはお礼だよ」

  そういって紳士は紙幣を置いていってくれた。

  「おや、君はワックスを持っているのかい」

  「は、はい」

  「うん、じゃあ頼むよ」

  「ちょっとお時間がかかりますよ」

  「雨で靴が傷むくらいならね。是非お願いするよ」

  時間がかかるから今日はさばけないだろうと思っていたけど、靴の傷みを気にする人がたくさんぼくのところへ来てくれた。今日の稼ぎは昨日よりさらに良かった。

  「やあ、昨日はどうだったかい」

  「かなり儲かりました」

  「ははは、そうだろう。じゃあ種明かしをしようか」

  ヴァンダービルトさんは新聞をめくると、あるページのはしっこをぼくに見せた。

  「ぼくは天気予報を見ていただけなんだ。『砂埃がひどいから大きいブラシがあるといいだろう』『雨だから靴の傷みを気にする人がいるだろう』ってね」

  確かにぼくも天気は気にする。でもそれは家を出るときの天気だ。出かけてから雨が降り出したり、晴れでも出かけてから砂埃が舞う日もあったりということにまでは気が回っていなかった。というより新聞なんて買ったことがなかったから、天気の移り変わりまで知る術がなかったというべきか。ヴァンダービルトさんはそれを見ていただけなのだ。

  「売上は何パーセントほど増えたんだい?」

  「パーセント? ……ぼく、学校に行っていないので」

  「ああ、ごめん。……ふむ。このペースなら、三日間働けば、これまで五日間働いたのと同じだけ儲かるよ」

  「そんなに!? じゃあ一日お休みにしたり、もう一日働いてちょっとおいしいものを食べたりできるんですね」

  「うん、それもいいけど……どうせなら、空いた時間で学校に行ってみないかい?」

  ぼくは突然の提案に驚いた。だってぼくは学校に行くヒマがあったら働かないと食っていけないほど貧乏だから靴磨きなんかやってるわけだ。計算もできないから稼いだカネは大体その日のうちに使ってしまうし貯金もない。それに……

  「学校に行っても飯は食えません」

  「どうして? 君は靴磨きができるんだから、お金の計算ができれば靴屋さんにだってなれる」

  「その、学費とか……」

  「学費は国が出してくれるよ。君に必要だったのはお金じゃなく時間だったんだ」

  「でもぼく、汚いオーバーオールしか持ってないし……」

  「ぼくがお金を貸してあげるから、そうだね、“百一パーセント”にして返してもらおう」

  「わ、わかりません……」

  「それがわかる頃には貯まっているよ! さ、靴磨きが終わったら手続きにいこう。それまで待っているからいっておいで!」

  ヴァンダービルトさんに言われるがままに駅で靴を磨きながら考え事をした。それにしても靴磨きは朝の混雑時だけだとはいえ、終わるまで待ってるなんてヴァンダービルトさんはヒマなのだろうか。

  そんなわけでぼくは小学校への入学手続きをした。いまのところ何の役に立つのかさっぱり分からないけど、いつも適切なアドバイスをしてくれるヴァンダービルトさんが気まぐれでこんなことをするとは思えない。とりあえず言うことを聞いておくことにした。

  「さあ、次は服を買いに行くよ!」

  商店街につくと、ヴァンダービルトさんは高そうな財布から一万リラ札を出してニヤニヤしながらぼくに渡した。ぼくは焦る。なにせこんなもの触ったことすらなかったからだ。

  「じゃあ、買いに行こう。値段のアドバイスは一切しないからね」

  ぼくは当然「一番安い服屋」を訊いて、そこに入った。ヴァンダービルトさんは外で待ってるよといって、ウィンドウを見ていた。

  店のおじさんはぼくを一瞥するとだるそうにカネはあるのかいという。まあ、靴磨きなんかやっていたらこういう扱いを受けるのは日常茶飯事だ。ぼくは学校に行くのでそれに十分な服を一式くださいと言った。

  ぼくは汚い財布から一万リラ札を出してみせると、おじさんは信じられんという顔をして、バタバタと街の子供が着ているような服を並べてくれた。

  「ありがとう! お代は?」

  「さ、三千五百リラだ」

  ぼくがバカ正直に一万リラ札を出すと、ニコニコ顔のヴァンダービルトさんがゆっくりと入ってきて、ぼくの手を止めた。目が笑っていない。

  「おかしいなあ、ざらっとした荒い生地と縫製の割には結構するんだな。子供用のズボンとシャツなのになあ」

  ああ、なるほど。ボラれそうになったのだろう。でもぼくには相場も計算もわからないからほいほい出してしまった。簡単にカモれたと思ったところに、高級紳士服を着た人が来たものだから、店主は一発でバレたことに気づいたのだろう。

  「これ、本当はいくらくらいなんですか?」

  「うーん、三百リラくらいかなあ。高いし他の店に行こうか」

  ぼくらが出口に向かうと、店主は恥をかかされて怒ったのか怒鳴り始めた。

  「な、なんなんだあんたは!」

  ヴァンダービルトさんは胸元から高級な革のいれものを取り出し、中から小さな紙を出した。あれはたまに紳士たちが交換している名刺というやつだな。それを見たぼったくり店主はあごが外れそうなくらい呆然としている。

  「ああそうそう、最近おたくの買い付けがずいぶんひどいと苦情が入っているよ。街がら多少黙認していたところもあったけど、ぼくの大事な友人からボろうとしたのが運の尽きだね。強制退去とお巡りさんと自分で出ていくののどれがいいかな?」

  その場にへたりこんでしまった店主とは裏腹に、ヴァンダービルトさんはニコニコしながらぼくを引っ張って店を出た。

  「ヴァンダービルトさん、不動産屋さんだったんですね」

  「ああ、そんなところだよ。じゃあ別の店で服を買ってお昼にしよう」

  そんなわけでぼくは小学校に行き始めた。靴磨きのもうけが増えたお陰で、週に何日かは半日、たまには全日学校に行けるようになった。そしてそれとは別の嬉しい誤算に、先のヴァンダービルトさんのアドバイスのおかげで「あの靴磨き屋はいいぞ」という噂も広まって、収入が安定し、ほとんど毎日の午後は学校に行けるようになった。

  そして学校に行き始めてから少し落ちついた頃。ぼくは気になっていたことを先生に尋ねてみた。

  「先生、パーセントって何ですか?」

  「あらブルーノ、難しい質問ね。パーセントっていうのは——」

  「じゃあ一万リラの一パーセントっていうのは?」

  「百リラね」

  ぼくは愕然とした。ヴァンダービルトさんは勤め人のお給料並み、ぼくの月収の何倍もの金額を、一日の食費ほどの額で貸してくれたのだ。しかも、返済期限を決めずに。

  「ああ、ぼくは投資家でもあるんだ。きみは割のいい投資先だからね」

  「そんなの、わからないじゃないですか」

  「わかるさ。君が賢いことは知ってるから、学校に行けばきっと食うには困らない。君が税金を払うようになれば、この街に投資しているぼくもそのうち回収できるだろ?」

  うまく丸め込まれた気がするけど、ぼくはしっかり学校で勉強しなければと思った。お金がなくて学校に行けない子も、ぼくがそうだったように最初からあきらめている子もたくさんいるこの街で、きっちり勉強すれば、勉強しなかった子にはできないなにかが出来るようになるかも知れない。ヴァンダービルトさんの期待に応えられるように頑張りたいと改めて思った。

  *

  「ヴァンダービルトさん、一万百リラ、お返しします」

  「おや、もういいのかい? 成長期で服も入り用だし、もっとかかると思ったんだけど」

  「ええ、帳簿を付けたらなんとか貯まるようになって……」

  うちの家計簿を渡すと、ヴァンダービルトさんは意外そうな顔をした。

  「……うん。君のことだからどれくらい飛び級するかなと楽しみにはしていたんだけど、まさかもう高等部レベルまでやってしまうとはね」

  「それで、そろそろ靴屋さんの仕事を探そうかと……」

  「何言ってんの!? 勤め人でももったいないレベルだよ!」

  ヴァンダービルトさんは興奮気味にぼくを引っ張って表に出ると、高そうな自動車の助手席にぼくを招いた。車が走り出すとそれは街を出て、長く長く続く道を列車と併走した。

  何十分経っただろうか、隣町へ着くと、車は街の中央でもひときわ大きい建物に向かった。

  「こんな遠いところからエスプレッソを飲みに?」

  「ははは。この光景を見てまずそんなこと言った人ははじめてだよ」

  ヴァンダービルトさんの身なりやふるまいを見ていれば、ただのお金持ちではないことはなんとなく予想できた。この建物も一言で言えば豪邸というやつだけど、それにしても規模が大きすぎる。門の両脇には守衛が立ち、いかつい鉄の門が開けられると、視界の左から右まで建物が広がっている。教科書で見た「宮殿」ってやつみたいだ。

  ヴァンダービルトさんが家の前に車をつけてぼくらが車を降りると、家の中からおじいさんが出てきて、お帰りなさいませと挨拶すると、車に入ってどこかへ消えていった。あれ誰ですかというと、シツジという人らしい。車を片付けるお仕事なんですかと訊くと、苦笑して、身の回り一切のお手伝いをする人だよと教えてくれた。

  玄関の大扉が開くと、床はふかふかの絨毯だ。左右に部屋があって、中央には目を引く大階段がある。ヴァンダービルトさんは中央階段を上がると、右の部屋に入っていった。ぼくもそのあとをついていく。こんなに汚い格好でいいんだろうか。

  「いらっしゃい、ぼくの部屋だよ」

  広さはぼくの部屋の何倍だろう。ベッドが二十個くらい入りそうだ。一角の壁を本棚が埋め尽くしており、その中央にひろーい机が置かれており、数冊の分厚い本と羽ペンがある。さらに奥にもドアがあるから、そっちにはベッドルームでもあるのだろう。贅沢だなあ。

  勧められるがまま小さなテーブルの椅子につくと、ヴァンダービルトさんは小さなベルを振った。なんだろう、これ。しばらくするとさっきのシツジのおじいさんが現れた。

  「やあ、二人分のお茶を」

  「かしこまりました」

  ? ぼくもベルを振ってみた。おじいさんが戻ってきた。

  「どうかなさいましたか?」

  「ははは、ぼくの友人が執事というものを初めてみるようでね。自己紹介してもらえるかな?」

  「かしこまりました。私、ロレンツォ・オルシーニと申します。この館の執事を務めております。以後、お見知りおきを」

  ロレンツォさんは頭を下げて部屋を出た。

  しばらく談笑していると、飾り付けられたケーキや、見たことのない豪華なティーセットがカートにのって現れた。ぼくはエスプレッソしか飲んだことがないし、ティーセットも教科書の写真でしか見たことがなくて飲み方も分からないから、ヴァンダービルトさんの真似をしていたら、砂糖を入れすぎてしまった。ヴァンダービルトさんは笑っていた。

  「どうだい? 紅茶は」

  「ロレンツォさん、洗い物が大変そうだなって思いました」

  「はっはっは、それは考えたことがなかったな。洗い物は別の子だけど、ロレンツォたちの昇給も検討しておくよ」

  それはさておき、この紅茶というやつ、というかシュガーのほうだろうけど、すごく甘くておいしい。ぶどうパンのぶどうをぎゅーっと煮詰めたらこんな味になるんだろうか、って感じだ。そしてこんなにおいしいケーキは今まで食べたことがない。百リラくらいするんだろうか。

  「それも考えたことがなかったな。大きな買い物以外はドカンと予算を会計係に渡して頼んでいるからなあ。それにしても君は細かいことによく気づくね」

  しばらく考えたあと、ヴァンダービルトさんはケーキを食べるぼくの顔を見て、にこりと笑った。

  「きみには靴磨き屋をやってもらおうと思うんだ」

  ヴァンダービルトさんはボケているのだろうか。ぼくは今も靴磨きだ。

  「ああ、靴を磨くってことじゃない。靴磨き屋をつくって経営してほしいんだ」

  「お店をやるってことですか!? さすがにそれは無理があるんじゃ……」

  「帳簿もつけられて、靴磨きとしても人気がある君なら無理じゃないよ」

  ヴァンダービルトさんがロレンツォさんに命じると、ほどなくしてロレンツォさんはお金の載ったトレイを持って来た。

  「さあぼくからのお願いだ。ここに十万リラある。やってくれないか?」

  ぼくはどうしたらいいんだろう。いくらなんでも無謀がすぎる。ぼくは靴磨きのままでもいいし、大きくなったら靴屋さんにでもなれればそれで食べていける。これ以上ヴァンダービルトさんに何かをもらうわけにはいかない。ぼくは申し訳ないけど、トレイを押し戻した。するとヴァンダービルトさんは悲しそうな顔をした。

  「いや、すまない。でも例えばきみが三人雇ってくれれば、三人の子供が学校に行けるんだ。これはぼくのわがままなんだ。失敗して十万リラ失っても構わないよ」

  いくらいいと言われても、人のカネを十万リラも失うのはちょっと「やっちゃった」じゃ済まない。罪悪感に苛まれるだろう。それに十万リラを賭けてまでヴァンダービルトさんは何をしたいのだろう。

  「おっと、隠すのはフェアじゃなかったね。ぼくはアーネスト・ヘンリー・ヴァンダービルト。海の向こうの故郷の鉄道運営で一財産を築き、そのノウハウをこの国に持ち込んで鉄道網を敷設した資産家一家なんだ。だから駅を建設するためにあの街のほとんどのものはヴァンダービルト家が買い上げているんだよ」

  ぼくは目を丸くした。あの服屋だけでなく、鉄道や駅やぼくの家まで、あの街すべてをヴァンダービルト家が買い上げていたのだ。

  「最初は投資先の視察にあのバルに入ってね。そしたら労働者に混じって、きみのような子供がたくさん働いていて愕然としたのさ。治安も悪いし、浮浪者も多いしね。それで——なんとかしようと思った」

  「慈善家なんですか?」

  「いや、あくまでぼくは投資家だよ。地価や不動産価値を上げたいという野心はある。ただ自分が買ったものだけに、あの惨状を放置することに責任は感じてた」

  そう言われてもぼくになんとかできるレベルを超えている。

  「ああ、すまない。性急すぎたね。十分賢くなった君はもう学校で学ぶべきことはないだろうから、靴屋になりたいのならいい店を紹介するよ。でももし助けてくれるなら——来週の朝、いつものように駅に来てくれないか」

  なんでぼくなんだろう。ヴァンダービルトさんは、ぼくが来ても来なくてもこどもたちのために靴磨き屋を作るつもりだから、月曜日には男を向かわせると言っていた。ただ、その人は靴磨きなどやったことがない実業家だから、靴磨きのノウハウもなにもないし、そのままじゃきっとうまくいかないだろう、とも。

  ……ヴァンダービルトさん、お世話になったよな……昔のぼくなら、大人になっても靴磨きをして、年を取ってできなくなったら浮浪者になるしかなかっただろう。でも、今のぼくなら靴磨きの経験や、読み書きや計算の能力を活かして簡単に就職できるだろう。

  なのにいきなりお店をやるなんて……しかも靴磨きの経験がない人を寄越すなんて。……月曜日はどのみち靴磨きに行く。話を聞くだけ聞いてみようか……。

  月曜日、靴を磨きに来たけどそれらしい人は誰もいない。というよりこんなに人が多くてはいても見つからない。まあいつもどおり靴を磨くだけだ。

  ぼくはいつもどおり靴を磨き始めた。一人、二人、三人……するとレッサーパンダの紳士が椅子に座る。小さいので小型のブラシに取り替える。

  「ねえ、十リラ余分に払うから、クリームを塗ってくれない?」

  ぼくはサッとクリームを取りだし、やわらかいウェスに持ち替えて靴にすり込んだ。革靴は上品なツヤを取り戻す。クリームや様々なブラシなどは、ヴァンダービルトさんに言われてからできるだけ持ってくるようにしている。こういうラッキーなお客さんを逃さないように、だ。

  「へえ、磨くだけかと思っていたら、いろいろやってくれるんだね」

  彼はさっと名刺を取り出すと、ぼくの汚れた手に渡した。

  「ぼくはアルフォンス・パンパニニ。ヴァンダービルト様からお話は聞いているよね?」

  靴磨きの時間が終わると、ホームの片隅で話を聞いた。パンパニニさんの話では、まず靴磨きのみんなに声をかけようといったけど論外だ。靴磨きは競争だ。それに改札に一番近いヤツが一番遠いヤツにお金を払う決まりがあったり、日によって「今日は遅い方がサンドウィッチおごりね」なんて気まぐれなイベントが色々発生したりする、秩序のあやふやな場所なのだ。あと、パンパニニさんは最低賃金保証制にしようと言うけど、治安の悪いこの街でそんなことしたら全員サボる。

  一方でブラシやクリームを安く一括で買ってみんなに売るというのはいいアイデアだ。ぼくたちは靴の卸業者に頼んでクリームとワックスとブラシとウェスを定価の三割引で大量に仕入れ、二割引で売ることにした。クリームなどを使うぼくの稼ぎがいいことはみんな知っているから、少し値の張る道具類を安く買えるチャンスがあるなら喜んで買ってくれるだろう。

  あとは無条件に収入を保証するのではなく「最低ノルマを稼いでいれば」一定額までは収入を保証するというシステムを設けた。靴磨きを始めたばかりの子には収入が安定してありがたいシステムだ。もちろん、保証しても経営上はプラスになる仕組みだ。

  あとは仕事後にごく少額で靴の磨き方を教えてあげる。慣れない子たちの収入も安定するし、なにより靴磨き全員の効率や、ぼくら全体の評判が上がる。

  パンパニニさんにそそのかされた形にはなったけど、とにかく十分なメリットをぶらさげて交渉して、一週間経つ頃には、駅の靴磨き全員をこの商売に引き入れることができた。

  パンパニニさんはさすが実業家というか、そのノウハウをほかの街まで持ち込んで似たようなシステムを構築した。靴磨きじゃ大した利益は得られないけど、靴磨きの子供たちの中には、少しずつぼくのように学校へ行き始める子が増えてきたようだ。

  ヴァンダービルトさんが心を痛めていたことは、いくらお金があっても自分ではどうにもできなかったんだ。それが貧乏で靴磨きのぼくならできると、十万リラをぼくに託したんだね。あんなに偉い人が、ぼくなんかに頭を下げて。本当に立派な人なんだなあ。

  *

  「十万リラお返ししますね」

  数ヶ月後、ぼくとパンパニニさんはバルのヴァンダービルトさんに帳簿を見せると、ヴァンダービルトさんはコーヒーを噴き出しそうになった。

  「え、ええと、順調そうだね。そろそろ学校に行ける子も出てきそうだね」

  「? 希望者は全員行ってますよ。シフト制にしたんです」

  ヴァンダービルトさんは目を丸くしている。

  「それから、ぼくは大学に行こうと思ってます。パンパニニさんみたいな辣腕経営者になりたいし、ヴァンダービルトさんのお仕事のことももっと知りたいし」

  「そうかい、それはいい。大学生といっても、君はすでに経営者としての実績もあるし慈善家でもあるからなあ。もう助けてあげられることがなくて、なんか寂しいよ」

  しろくまは苦笑してコーヒーを飲む。

  「あ、おっちゃん。エスプレッソを」

  ぼくはエスプレッソ二杯分の硬貨をカウンターに置いた。

  「おやおや、本当に靴磨きで稼ぐようになるとはねえ」

  ぼくがエスプレッソを得意げに飲むと、ヴァンダービルトさんは満足そうに笑った。

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