銀色の麗人

  神々しいという言葉しか浮かばなかった。

  豊かな銀色の毛に覆われた体は尾の先まで陽の光を浴びて眩く輝き、四肢は逞しく大地を捉えて力強く伸び、金色の眼は思慮深い光をたたえている。

  一緒にいた俺の相棒、サモエド犬の虎徹と虎太郎も吠えることも唸ることもできず、ただただ、相手を見つめるだけだった。

  狼が、これほどまでに美しく気高く神々しいとは。

  それは世間がクリスマスを意識し始める頃の晴れた冬の午後で、ようやく犬橇の練習に充分なだけの雪が積もり、俺は相棒たちと犬橇の練習に出かけた。

  北の大地の森の中に小さな工房を構え、木工職人として家具の製作や修理をして生計を立て始めて約十年が経つ。

  お客は近くの別荘地の住民がほとんどで、別荘といっても今では定住している人たちが増えたので、こうして犬を二頭飼って犬橇を楽しむ余裕も出てきたというわけだ。

  去年から使い始めた橇は、これまでの橇と比べて格段に性能がよく、約半年ぶりに乗ったとは思えないほどよく走った。

  広いトラックのコースを何周かした後、林道コースを気持ちよく走らせているうちに森の奥まで来ていた事に気づいた。それまで立ち入ったことのない場所で、これはいけないと元に戻るためUターンしようとした時、木立が途切れた場所から、こちらを見つめているその姿に気がついたのだった。

  なぜ、こんなところに狼が? この狼はニホンオオカミではなくヨーロッパかアメリカの狼に近いように見えるけど……。いやいや、今の日本には狼は生存していないはずだぞ。

  神々しいまでの姿の狼を前に、俺は自問自答を繰り返していた。

  ああ、ウルフドッグ、狼犬だ。それなら、見た目が狼そっくりでも不思議はない。

  そして、どこからか逃げてきて野生化した狼犬がこのあたりに潜んでいるらしい、という噂が広まっているのを思い出した。

  ではこの二頭が、その狼犬なんだろうか?

  でも、俺の本能は、この二頭は狼だと訴えていた。

  不思議と恐ろしさは感じなくて、ただ金縛りにあったように体が動かず、狼から視線を逸らすことができずにいた。

  それは虎徹と虎太郎も同じだったようで、俺と同じく彫像のように固まっていた。

  どれほどの時間がたったのか、狼が突然耳を動かし林の奥に視線を移した。

  すると林の奥から、同じように美しい銀色の毛を纏った狼が姿を現し、こちらにいる狼に近づいて仲良く寄り添い、互いを確かめ合うように顔を近づけた。

  あとから来た狼の足どりに違和感を覚え、目を凝らしてよく見ると左の後ろ脚に怪我をしている。

  狼犬狩りの罠にかかったのだろうか、血がこびりついて固まっているようだった。

  ここまでやって来て疲れてしまったのか、その狼はその場にうずくまると傷を舐め始めた。もう一頭の狼も一緒に傷を舐めている。

  思わず引き寄せられるように狼に近づくと、俺はバックパックから水筒とタオルを取り出した。

  「今、血を拭ってやるから。だからじっとしていてくれ、な」

  野生動物に人間が手を貸してはいけない、御法度だ。そのくらい百も承知だ。

  ただ、この後ろ脚にこびりついた血を何とかしてやりたいと、それしか考えていなかった。

  いつの間にか隣にやってきた虎徹と虎太郎も、二頭と鼻と鼻を突きあわせてそれぞれ挨拶を交わし、さらに頑張れとばかりに一所懸命に尾を振っている。

  二頭の狼は俺を見つめると、怪我をした狼が血を滲ませた脚を俺の方に向けた。

  俺の言葉がわかるのか。

  信じられない思いで恐る恐る狼の脚を手に取り、水筒の水を少しずつ傷口にかけて、タオルで丁寧に血を拭ってやった。

  「ごめんな、痛かっただろう。でも、これできれいになった。もう血は止まっているし、見た目より傷は浅いから大丈夫だと思う」

  俺の言葉がわかったのか、うずくまっていた狼は立ち上がると俺を見つめ、次に虎徹と虎太郎に鼻をすり寄せ挨拶をする。

  二頭の美しい狼は、次の瞬間にはその身を翻し、林の奥へと音もなく消えていった。

  『ありがとう』

  林の奥に消える寸前、声が聞こえたような気がした。

  帰り道、いつもなら夕陽に照らされて淡いばら色に染まる山の斜面が、いつもより赤みを帯びていた。

  珍しいこともあるなと思ったとき、幼い日の記憶が蘇った。

  まだ学校に上がる前、保育園に通っていた頃のことだ。

  当時、母方の祖父母は森の中に家を構えていて、まるで隠れ家のようなその家で過ごす時間が俺は大好きだった。

  冬は、初雪の便りが届く頃に母は俺を祖父母にあずけ、クリスマスイブの夜にサンタクロースよろしくプレゼントを持って祖父母の家にやってきて正月まで一緒に過ごすのが恒例だった。

  もうすぐクリスマスというある日、目覚めると祖父母の家の周りは新雪で覆われていた。誰も足を踏み入れていない真っ白な大地が朝陽に照らされ、きらきらと光っている。

  朝食の後、俺は新雪の上を歩きたくなって、黙って表に出ると家の周りを歩き始めた。

  ふかふかと軽い雪を踏む楽しさに俺は無心に歩き続け、いつしか森の中に入ってしまい、気づくと周りには木立しか見えなかった。

  どうしよう、森の中に独りぼっちになっちゃったと、途端に心細くなって涙が出そうになったとき、一人の女の人と狼がこちらを見ているのに気がついた。

  とびきり綺麗な銀色の毛に優しそうな金色の眼をした狼と、狼とそっくりの髪の毛にやはり金色の眼をした女の人だった。

  俺は狼と知らない女の人を怖がるどころか、この森の中に独りきりではないことにホッとして、「こんにちは、狼さんもこんにちは」と話しかけた。

  すると狼も好奇心を持ったのか、少しずつ俺に近づいて来てくれた。

  女の人は、まだ就学前の子どもが一人で森を歩いていることに驚き、家はどこか、名前は、など当たり前のことを聞いてきた。

  ところが、家から森の​中まで歩いてきた疲れと一人じゃない安心感とで気が緩んだのか、俺はその問いに答えることなく、その場で寝てしまった。

  眠りに落ちていく中で憶えているのは、あらあらと言う女の人の優しい声とともに、狼がふわっとした柔らかい毛で俺を包み込んでくれたことだ。それはとても温かく幸せで、自分は守られているという安心感に包まれていた。

  どれくらい時間が過ぎたのか、冷たいものが顔に当たる感触で目覚めると、俺は狼ではなくサモエド犬に抱かれていて、冷たい何かと思ったのは俺の顔を舐めるサモエド犬の舌だった。

  そのサモエド犬は祖父母が飼っていた二頭のうちの一頭だった。

  「お前はぺぺだね。サーレは、どこにいるの? それより、あの女の人と狼さんはどこにいったの?」

  俺は不思議だった。いつの間に狼がぺぺに替わったんだろう。

  それに、目覚めた場所は狼たちと出会った場所とは違い、木立が途切れた雪原だった。俺が狼たちに出会ったのは森のもっと奥で、木立しか見えない場所だったのに。

  ぺぺは俺の顔を舐め、俺がどこにも行かないように、両前脚で俺の体をしっかりと抑え込んでいた。

  やがて雪を踏む足音が聞こえて、祖父ともう一頭のサモエド犬、サーレがやって来るのが見えた。

  「おじいちゃん! サーレ!」

  俺が大声で叫ぶとペペも負けじと吠えて、祖父はすぐに俺たちに気づいてくれた。

  「あのね、女の人と狼さんに会ったの。僕を温めてくれたんだけど、いつの間にかぺぺに替わってて、場所も違うの……」

  一気にまくし立てる俺に祖父は笑いながら、そうかそうか、女の人と狼に会ったのかと言って、その大きな背中に俺をおんぶすると、ゆっくりと家までの道のりを歩き始めた。

  「僕が女の人と狼さんに会ったこと、おじいちゃんは信じてくれる?」

  「ああ、信じるよ。お前を助けてくれたんだね」

  「うん。でも、狼さんたちに会った場所と目が覚めたた場所が違うの、どうしてだろう」

  「それはきっと、彼らが魔法をかけたんだろうな。自分たちの居場所を知られたくないって」

  「どうして?」

  「いいかい、よくお聞き。お前が会ったのは人狼の一族だろう。昔からの言い伝えがあるんだよ。この森の奥深くには人狼の楽園に繋がる扉があるとね。その扉は特別な時にしか開かないから、彼らはその時を待っているんだ。ひっそりとね」

  「おじいちゃん、ジンロウって何?」

  「ああ、狼と人間と両方の血を持っているものだ」

  「狼男みたいなもの?」

  「まあ、そんなようなものだ」

  「じゃあ、あの女の人もジンロウで、狼に変身するの?」

  「きっとそうだろうな」

  「どうしてそのジンロウたちは人間に居場所を知られたくないって思うの?」

  「彼らを捕まえようとする人たちがいるんだ」

  「どうして?」

  「人間と狼の両方の血を持っている一族のことを調べたいんだよ。調べた後、彼らの種を滅ぼしたいらしい。だから、何とか捕まらないように、誰も森の奥まで来られないようにしてるんだ。途中で霧が出て前に進めなかったり、同じところをぐるぐる回っていたりね」

  「じゃあ、どうして僕は会えたんだろう」

  「そうだな。お前は小さいから特別だったのかも知れないな。とにかく、人狼に会ったことは誰にも言わないで忘れてしまいなさい。お前を助けてくれた人狼たちを、そっとしておいてやろう。人間に捕まらないように」

  これはお前とお祖父ちゃんと二人だけの秘密だぞ。

  その言葉を最後に、祖父はそれ以後、人狼のことを口にすることはなかったし、いつになく厳しい口調の祖父の言葉が効いたのか、いつしか俺も人狼に会ったことを忘れていた。

  その記憶が蘇ったのは、帰り道に、あの時と同じ風景を見たからだ。

  夕陽を浴びて、赤みを帯びたばら色に染まった雪山の斜面。それは祖父におんぶされて帰る道で見た風景と全く同じだったのだ。

  そう、俺は今、祖父母が住んでいた家で工房を営んでいる。

  

  「なあ、どう思う? あの二頭は人狼か、狼犬か、狼か。おれはあの時の人狼一族の末裔だと思いたいんだけど」

  それは帰りにあの日と同じ風景を見たこともあるが、何よりあの二頭が俺の言葉を完全に理解しているようだったことと、虎徹と虎太郎への警戒心のなさだった。。

  虎徹と虎太郎はペペとサーレの孫にあたるから、もし彼らがあの時の人狼の末裔だったら、お互いにDNAに何らかの記憶が埋め込まれていてもおかしくないんじゃないかと、馬鹿げているだろうけど、そんなことを考えたのだ。

  「ここの森に、また人狼の楽園への扉ができるのかな……。明日、もう一度森に行ってみるか」

  虎徹と虎太郎に向かって呟くと、二頭ともサモエドスマイルで応えてくれた。

  モチロン、と。

  その夜、夢を見た。

  空一面が赤く染まり、狼の遠吠えが森中にこだましている。

  いや、違う。

  あれは人狼の遠吠えだ。彼らの声が森中に響いているのだ。

  ぺぺとサーレも人狼の遠吠えに呼応して、必死に何かを訴えかけていた。

  俺は祖父のジャケットの裾をギュッと握り、祖父とともに真っ赤な空を見上げて、とんでもないことが起きようとしているのだということを感じていた。

  祖父は空を指差して俺に何かを言っているが、遠吠えの声が大きくて聞き取れない。

  なんだって、こんなに遠吠えがうるさいんだろうと思ったところで目が覚めた。

  遠吠えがうるさく聞こえたわけは、すぐにわかった。

  虎徹と虎太郎が遠吠えをしていたのだ。

  もしかしてと耳を澄ませるが、狼らしき声は聞こえてこない。こいつらは俺の夢に呼応して遠吠えしていたのか?

  時計を見ると、まだ5時前、夜明けには程遠い。

  「おい、頼む、寝かせてくれ」

  俺は一言呟くと夢の続きを見ようと目を閉じたが夢は訪れず、意識は漆黒の闇の中に沈んでいっただけだった。

  翌日、俺たちは再び森に向かった。

  夜のうちに降った雪で、コースには誰の足跡もついていない新雪がふかふかに積もり、そのまま寝ころんだら気持ちよさそうで、いいことがありそうな気がした。

  行けの合図で虎徹と虎太郎は勢いよく走り出し、舞い上がる新雪でむせそうになる。

  昨日と同じ、木立が途切れる辺りで突然二頭は走るのを止め、木立の向こうの匂いを嗅ごうと鼻を上に向け落ち着かなくなった。

  ストッパーをかけて橇を降り、犬たちのハーネスを外してリードに替え、木立の向こうに何があるのか確かめようと近づいた。

  するとそこには、二頭の狼が楽しくて仕方がないといった風にじゃれ合い、新雪の上を転げ回っていた。

  二頭が動くたびに新雪が舞い上がり、空中できらきらと反射する。

  それは厳冬期に見られるダイヤモンドダストのようで、ただでさえ神秘的な狼をより一層神秘的に、かつ美しく見せていた。

  昨日の二頭だろうか。

  俺は左後ろ脚を注意して見ていたが、傷があるかどうかは遠目では確認できなかった。

  けれど、狼が二頭と思ったのは俺の見間違いのようで、新雪の上から起き上がったのは狼と一人の女性だった。

  狼が体をぶるぶると震わせると毛についた雪が舞い上がり、それがまた太陽の光に反射してきらきらと輝き、女性の周りに舞い降りる。

  女性のゆるく波打つ豊かな髪が陽の光を浴びて銀色に輝き、それは傍らの狼とそっくりで、狼の人間版かと思うほどだった。

  きっと麗人とはこういう人のことを言うんだろうと、目の前の光景から目が離せないでいると、女性がこちらに気付いて柔らかく微笑み、近づいてきた。

  狼はまるでボディーガードのように、女性にピッタリと寄り添っている。

  よく見ると、狼の左後ろ脚にはうっすらと傷があり、ああ、やはり昨日の狼だったのだと俺は嬉しくなった。

  「こんにちは。新雪が嬉しくて、すっかり雪まみれになってしまいました」

  女性はそう言って笑い、さらに続けた。

  「昨日は彼を助けてくれて、ありがとうございました。おかげで傷口も綺麗になって、走るのにほとんど影響がなくなりました」

  「もしかして、あなたは……」

  「ええ。そばにいたもう一頭です」

  ああ、やはり人狼だったんだと、俺は訳もなく嬉しくなった。

  「とんでもない。傷が深くなくて幸いでした。化膿したりしなくてよかった」

  虎徹と虎太郎は、もう一頭の狼の所へ行って、三頭でじゃれ合っている。昨日会ったばかりなのに、種を超えた友情は本当に存在するらしい。

  「あなたは、私たちのことをご存知なんですね」

  「昨日、突然思い出したんです。小さい頃、森で人狼に助けてもらったことを。だから、根拠はないけど、あなたたちも人狼に違いないと思ったんです」

  俺は幼い日の出来事を、かいつまんで説明した。

  「その話なら、彼から聞いたことがあります。あの男の子は、あなただったんですか。彼は、その時の人狼一族の末裔だから、あなたの匂いがDNAに組み込まれているはずです。だから、あなたを信じて怪我の手当をしてもらったのね」

  狼のDNAに組み込まれた俺の匂い。ちょっと、カッコよくないか?

  「それより、野生化した狼犬がこのあたりに逃げてきて、猟友会なんかが探しているみたいですけど、あなたたちのことですか?」

  「いえ、それは狼犬だと思います。私たち人狼は結界を張った中で活動しているし、結界の外に出るときは人間になるから」

  だから普通の人間には、狼の姿は見えないはずなのだと。

  では、噂になっている狼犬は存在するってことか。

  「もしかしたら、私たちをおびき出す餌かもしれないけど」

  え?

  種を滅ぼすことを何とも思わない人間もいるからと呟き、驚いた俺に気付くと、冗談よ、忘れてねと笑ったその目はしかし、強い光を湛えていた。

  もう一頭の狼に何かを語りかけ、虎徹と虎太郎に挨拶をし、暫く俺の顔を見つめて、それじゃまた、と一言を残し踵を返す。

  俺は思わず声を上げていた。

  「あの、また会えますか? 虎徹と虎太郎が会いたいって……」

  「もちろん。あなた方には結界は関係ありませんから。いつでもどうぞ」

  そう言うと森の中へと去って行き、その時には彼女は狼に姿を変えていた。

  家に戻り、彼女ーー人狼と言うべきかーーの言葉が気になった。

  『種を滅ぼすことを何とも思わない人もいるから』

  祖父も同じようなことを言っていたはずだ。人狼のことを調べた後で種を滅ぼす、だったか。

  そんな奴らが本当にいるんだろうか。

  祖父たちの思い過ごしであって欲しいと思わずにはいられなかった。

  それから俺たちは毎日のように森の奥へと出かけ、それまで橇の練習に当てていた時間を人狼たちと過ごすようになった。

  ただ一緒にいるだけ、虎徹と虎太郎たちと戯れているのを眺めているだけなのだが、それは時間がゆったりと流れるなんとも贅沢なひとときだった。

  ある日、いつものように人狼たちと楽しい時間を過ごして、家に向かって橇を走らせていた時、誰かが俺たちを見つめているような気がして、落ち着かないままに帰宅した。

  翌日、出かけようと表に出ると、向かい側の大木の下に見慣れない靴跡があった。

  俺を監視していたのか?

  何とも言えない不気味さを感じ、さて、今日は行っていいものか悩んでいると、風に乗ってかすかに遠吠えが聴こえてきた

  虎徹と虎太郎はすぐさま遠吠えで応え、何度か遠吠えでやり取りする。

  やがて遠吠えの交換が終わり、虎徹と虎太郎は遠吠えの交換に満足したようで、すたすたと家の中に戻って行った。

  「おい、今日は行かないのか?」

  俺の問いかけを無視して、自分たちのお気に入りの場所に座り込む。

  「今日は来るなと、そう言われたのか?」

  二頭が頷くのを見て、種を滅ぼしたい人間が本当にやって来ているのかもしれないと、怪しい靴跡が頭をかすめた。思い過ごしでありますようにと祈りながら。

  そして、あの夢だ。

  夢に出てきた真っ赤な空、あのことを祖父が何か言っていたような気がするが、何と言っていたのか、どうしても思い出せない。

  祖父がいたなら、確かめたいと強く思った。

  

  翌朝、午前中はスツールの修理を仕上げ、昼食を早めに済ませると外出の準備を始めた。

  虎徹と虎太郎に出かけるぞと合図をするが二頭とも後退りして、自分たちの寝床に潜り込んでしまう。

  いつも、リードやハーネスを見せると飛び上がって喜び、俺を引きずるようにして出ていくこいつらが、どちらを見せてもまるで反応しない。

  昨日の遠吠え合戦が頭をよぎった。

  「虎徹、虎太郎、昨日の遠吠え合戦で、今日もここに来るなと言われたのか?」

  二頭はこちらを見ると、大きく頷いた。

  そういうことか。だとすれば、もう来ていいぞという合図を待つしかない。やはり、あの靴跡を警戒しているんだな。

  人狼たちから、虎徹と虎太郎にいつ合図が来ても大丈夫なように準備を整えて、仕事に戻った。

  三時のおやつの時間を過ぎ、西の空がひときわ濃い茜色に染まって雪原を赤味のあるばら色に染め、太陽が沈んで夜の帳が下りても、二頭は出かける気配がなかった。

  あの人狼の呼びかけを待つつもりなんだろう。

  それにしても、一体いつ呼びかけてくるんだ。もうすぐ夜中になってしまうのに。

  その時、玄関ドアをノックする音が聞こえた。

  こんな時間に誰だとドアを開けると、そこにはサンタクロースがニコニコして立っていた。

  「やあ、ちょっと早いけどメリークリスマス!

  「こんばんは。って、え? 今日、クリスマスですか?」

  「今日はクリスマスイブだよ。カレンダーを見てないのかい?」

  もうすぐクリスマスだとは思っていた。思っていたが、チェックはしていなかった。

  「それより、子どもたちへのプレゼントは配り終わったんですか?」

  「ああ、もちろん。だからこうやって、君に会いに来たんだよ。犬たちも元気そうで何よりだ」

  俺は去年、サンタクロースの橇を修理した。彼は出来上がりをとても気に入り、以後、本業が暇なときに度々やって来ては、虎徹と虎太郎の遊び相手になってくれているのだ。

  いつの間にか寝床から起き出してきた虎徹と虎太郎の頭を撫で、はい、クリスマスプレゼントと犬用のガムを取り出した。

  それは彼らが好きな靴型のガムで、さすがサンタクロース、ちゃんと好みを把握しているんだなと変なところで感心していた。

  すると突然、虎徹と虎太郎が耳をピンと立て森の奥の方角に顔を向けた。やがて微かに遠吠えが聴こえてきて、昨日と同様に二頭は遠吠えを返している。

  微かに聴こえていた遠吠えはやがて数が増え、森の隅々まで広がっていくようだった。

  虎徹と虎太郎は俺とハーネスを交互に見つめ、玄関ドアの前で早く早くと急かしている。

  「あの、せっかく来てもらったんですけど、これから森に行かなくちゃならないんです」

  サンタクロースは、わかってるよ、今夜は特別な夜だ、行っておいでと微笑み、俺たちと一緒に表に出た。

  本当にサンタクロースは全てお見通しみたいだ。

  表に出た俺は、空を見て鳥肌が立ち体が震えそうになった。

  空は一面、赤いカーテンのようなオーロラに覆われていて、何層もの襞が美しいグラデーションを作りだしていた。

  それは夢の中の赤い夜空と同じで、森に響き渡る狼の遠吠えも同じだった。

  あの時の赤は、オーロラだったんだ。

  「ほう、低緯度オーロラ。なるほど、これが合図か」

  テイイドオーロラ?

  サンタクロースの呟きに、祖父の言葉が今やっと蘇ってきた。

  《ごらん、あれはテイイドオーロラといって、北極圏よりも低い緯度で見えるオーロラだ。滅多に見られない貴重な景色だから、よく憶えておきなさい》

  そして、確かこう付け加えた。

  《このテイイドオーロラが出ている間だけ、人狼の楽園への扉が開くんだよ》

  今は感傷に浸っている暇はない。急がないと。

  その時、向かいの木立に隠れてこちらを伺っている人間の影が見えた。

  あいつが種を絶やしたいヤツか? だとしたらヤツもこの時を待っていた訳だ、俺とは全く別の意味で。

  気づかれないようにサンタクロースの所に行くと、俺はひとつ頼み事をした。

  そして虎徹と虎太郎にハーネスを繋ぐと、二頭は待ってましたとばかりに森の奥に向けて走り出した。

  空にオーロラが輝いているとはいえ、その光は木立に遮られ林道は暗闇に沈んでおり、俺のヘッドライトの灯りがどの程度助けになっているのかわからない。

  けれども俺の指示など必要なかった。

  二頭は何かに導かれるように、一直線に森の奥を目指してひた走る。

  それは、少しでも気を抜けば橇から振り落とされそうなほどの速さで、歯を食いしばっていないと舌を噛みそうだ。木立の間を縫って走る様は、神がかりと思えるほどだった。

  空にオーロラが輝いている間しか、人狼の楽園への扉は開いていない。

  楽園に行ってしまう前に二頭に会いたいと虎徹も虎太郎も必死なのだ。楽園に行ってしまったら、二度と会うことはできない。

  出会いはごく最近で、一緒に過ごした時間もわずかだけれど、彼らにとっては濃厚な時間だったろうし、犬にしかわからない繋がりもあるんだろう。

  やがて森の奥に到達し、切り立った崖の上にある雪原へとたどり着いた。

  そこには、どこに隠れていたんだと驚くほどの狼、いや、人狼たちが集まっていて、遠吠えをするもの、切り立った崖から跳躍するもの、群れの間を縫って歩いているものなど、ちょっとしたカオス状態だった。

  橇を邪魔にならない場所に停めていると、こちらが探すまでもなく二頭の人狼が俺たちを見つけてやって来た。

  四頭は鼻と鼻をくっつけ、顔を舐め合い、最後の別れを惜しんでいる。俺は、そんな彼らを見守ることしかできなかった。

  やがて十分に別れの儀式ができたのか、虎徹と虎太郎は俺のところにきて、伏せの態勢に入った。

  人狼二頭が俺のところにやってきて、俺にも別れの挨拶をしてくれる。

  顔を寄せると狼の匂いがして、幼い頃、俺を包み込んでくれた匂いと同じだと懐かしさで胸が いっぱいになった。

  「さ、時間がなくなる、楽園にお行き」

  二頭はかすかに頷いて、崖に向かって並んで走り出した。

  天空いっぱいに広がる赤いオーロラへと、崖から大きく跳躍する。

  すると次の瞬間、彼らの体が光を放ち、そのままオーロラに吸い込まれて姿が見えなくなった。

  無事に人狼の楽園に行けたんだな。

  周りにいる人狼たちも、次々と崖から跳躍してオーロラに吸い込まれ、やがて全頭が楽園へと旅立ち、雪原には俺達しかいなくなった。

  急に静かになった雪原に、俺たちの橇がちんまりと置いてある。

  「帰るか」

  虎徹と虎太郎に問いかけると、二頭はサモエドスマイルと大きなしっぽの振りで答えてくれた。

  帰り支度をしようと足元を見ると、二頭とも靴が脱げそうになっている。レースでどれだけ走っても何ともない頑丈な靴なのに。

  それだけ彼らは必死に走ってきたのだと、胸が熱くなった。

  靴を直しハーネスをつけるが、二頭は疲れ切ったのか、その場にへたり込んでしまった。

  仕方ない、俺が橇を引いて帰ろう、彼らを乗せて。しかし家までは、どれほどの距離があるのか、想像すると目眩がしそうだった。

  その時、空からトナカイが降りてきた。サンタクロースが乗った橇を引いて。

  「迎えに来たよ。彼らはもう動く気力がないだろうと思ってね」

  どうして、サンタクロースは全てお見通しなんだ? まあ、だからサンタクロースなんだろうと勝手に解釈する。

  橇の上の袋が目に付き、あれは何ですかと聞いてみた。

  「君が言っていた不審者だよ。動けないようにしてくれって頼んだだろう? だから、こうして袋詰にしておいた」

  そう言ってサンタクロースは楽しそうに笑った。

  世界中の良い子が、人間の袋詰を真似したらどうするんだ?

  「この袋は、彼が所属してる研究所にクリスマスプレゼントとして運んでおくよ。人狼の研究に名を借りた種の絶滅作戦など、とんでもないことだ」

  逃げて野生化した狼犬の噂は彼が出どころで、地元の人間に人狼を捕まえて欲しいという一心でそんな噂を流したらしい。

  サンタクロースの橇は雪原から飛び立ち、俺たちを乗せて森の上を悠々と走っていた。もちろん橇を引くトナカイの先頭は赤鼻のルドルフだ。

  「どうして研究所の人たちは人狼を絶滅させたかったんでしょう」

  「さあな。人間の考えることは、わからないよ」

  「この研究所は、これからも人狼の研究をするんでしょうか。人狼たちは楽園に行ってしまったんだから、どっちみちできないと思うけど」

  「彼の頭から人狼に関する記憶を消しておいたから、大丈夫だよ。研究所の資料も全て処分したし」

  「え、サンタクロースって、プレゼントを配るだけじゃなくて、そんな陰謀めいたこともするんですか?」

  「人聞きの悪いことを言うな。これは、人狼たちへのクリスマスプレゼントだよ」

  そう言ってサンタクロースはウィンクをすると、あははと大きな口を開けて愉快そうに笑った。

  空いっぱいに広がっていた赤いオーロラはいつしか姿を消し、澄んだ冬の夜空には満点の星が輝いていた。

  一際明るく輝くシリウスを見て、人狼の楽園は、きっとシリウスの近くにあるに違いないと俺は確信した。

  シリウスは中国語で天狼というらしいから。