通学路でくらべっこ(1)

  アスカは困っていた。朝の決まり事として真っ先に入ったトイレの中で、自分のお腹の下に見慣れないものが生えていたのが気になって、尿意はすっかり引っ込んでしまった。

  「お母さん、大変よ。おちんちんが生えてきちゃった」

  居間でテレビの天気予報をチェックしている母に報告しにいくと、母もまた、アスカと同じように困った顔をした。

  「まあいやだ。四年生にもなって、気安くおちんちんなんて言うんじゃありません。みっともないわ!」

  母は、アスカと同じ金色の毛皮をしたネコ獣人である。

  怒ったり困ったりすると、とんがった大きな耳をぴったりと伏せる癖があった。

  「聞いたことのない大事件じゃないか」

  キッチンでベーコンエッグを焼いていた父が言う。

  父はアスカと似ても似つかぬ灰色の毛皮だが、二人の目はお揃いのエメラルドグリーンである。

  「アスカ、おちんちんは痛むかい。おちんちんが生えてきた他に、体のどこかに変化はあったかい?」

  「なんにもないわ。ただあたしのお股に知らないモノが生えてきただけなの。だからなおのこと奇妙な感じなの」

  「今日は学校をお休みしなさい」と、父が言う。

  「異常がないなら学校に行くべきよ」と、母は反対する。

  父は火にかけたフライパンを下ろすと、磨きたてのお皿にベーコンエッグを乗せて、母のために居間へと運んだ。

  「アスカは今まで女の子として暮らしてきた。急におちんちんと一緒に暮らせと言われても、そう簡単にできることではないだろう」

  父はこう言って譲らない。

  「学校は休んで、お医者様にみてもらうべきだ」

  母はお皿を受け取るなり、ベーコン三枚と卵ふたつの目玉焼きとをひとくちで平らげてしまった。

  「アスカが決めるべきね。学校へ行くか、お休みするか」

  「あたしはどっちでもいいわ」

  アスカが耳を伏せて答える。

  「行ったって、行かなくたって、どっちでもいいんだもの」

  それでアスカの母はすぐに学校に電話をかけ、父は猫獣人のための病院へ電話をかけた。

  病院はすぐに見つかったが、診察は午後からに決まった。

  パンツの中がムズムズして、アスカは機嫌が悪かった。

  アスカは自分の部屋に入って布団に潜り込むと、パンツをずらして薄明りの中へとおちんちんを取り出した。

  ふかふかした金色の柔らかい毛皮の間から、小指ほどの長さの、皮を被ったやわっこい肉が突き出している。アスカが股を揺らすと、おちんちんは呑気にゆらゆらと揺れて、指先でつつかれれば押された反対方向へだらりと垂れた。

  ――まるで明け方の祭り風船ね。

  アスカが思い出したのは、夏祭りの出店でとった水風船の末路だった。夜のうちは気前よくぱつぱつに膨らんでいるくせに、一晩経てばすっかりしぼんで、中に入っている水と外側の緩んだゴム風船という奇妙な組み合わせのために、未知の感触をアスカの手の平にもたらしたものだった。

  やがて、アスカは朝の騒ぎで忘れていた尿意を思い出し、仕方なく布団を出てトイレに入った。

  しかし、おちんちんを携えてのトイレは初めてである。

  洋式の便器を前に、アスカは途方に暮れた。

  「お父さん! あたしどうしたらいいの?」

  トイレの中でアスカが嘆いていると、扉をノックする音の後で、気まずそうな父の声が扉の外から返ってきた。

  「お父さん、いるんだったら入ってきてよ」

  「娘とはいえ、年頃なのだ。父親が見るべきものではないと思うのだが」

  「そんなこと言ってる場合じゃないわ。おちんちんのことが分かる人の助けが必要なの!」

  アスカがもっと仔猫だった頃、トイレトレーニングは母が世話してくれたが、母にはおちんちんが生えていないのだ。

  「本当に、いいのかい。お父さん、入るからね」

  狭い個室に父が入ると、それだけで個室は満杯だった。

  「あたし、こんな体でおしっこなんてできないわ」

  アスカが便器の前でおろおろしていると、父は愛娘に寄り添って便座を持ち上げた。

  「できるとも。はじめは失敗するかもしれないが、じきに慣れるさ」

  アスカの背中に父のお腹がくっついて、ぎゅっと二人の距離が近くなる。アスカは小柄な女の子なので、背の順で並ぶたびに前のほうに立たされるのが悔しがっている。そのくせ、父はたびたび猫科に詳しくない獣人たちからヤマネコと誤解されるほどに背が高いから、余計にアスカが小さく見える。

  「なるべく便器に近づいてから、出すんだ。遠くからだと、おしっこが跳ねてしまうからね」

  父のお腹に押されながら、アスカは便器の前にじりじりと近づいていく。いつもなら、後ろを向いて尻尾を上げながら座っていたはずなのに、正面から近づいてみるのは新鮮で、どのぐらい近づくべきか分からないまま、父に制してもらえる瞬間をうかがいながら足を踏み出していく。

  「下からおちんちんを、優しく握って支えてやるんだ」

  アスカの肩に父の手が触れて、肘のほうへとすべるようにゆっくりと下りてくる。

  「そうじゃない。手の平は、こう。そして指先は、こうだ。人さし指と親指でつまむように持つんだ」

  アスカの手の甲に父の手が重なる。手とり足とり教えてくれる父は夢中になっていて、アスカがドキドキしていることには気づいていないようだった。

  「ちゃんと持たないと、おしっこを出すときにおちんちんが暴れて大変なことになるぞ」

  父のふかふかした指先がアスカのおちんちんの先をかすめていった気がして、アスカはますますドキドキしてしまう。

  「どうだ、ちゃんと出そうか」

  「わかんない。なんだかおしっこが引っ込んじゃった気がするの」

  「油断してはいけない。男の子の体は、女の子の体よりも尿道が長いんだ。もしかしたら、アスカ体が感覚のギャップを分かっていないだけかもしれない」

  アスカがまごついていると、父が猫背をもっと丸めてアスカの頭上にひげだらけの下あごを乗せてくる。

  夕飯のあとで、ソファでくつろいでいる父の膝にアスカが乗っかると、父は決まってアスカの頭にあごを乗せてゴロゴロと喉を鳴らすのがお決まりだった。

  「落ち着いて。ゆっくり息をしなさい」

  父がやろうとしてくれていることが、アスカには分かる。ドキドキしてはいけない。ドキドキしすぎると、おしっこは引っ込んだまま出てこなくなるのだ。

  下腹に熱が下りてきて、アスカの尻尾がぶるりと震える。

  握った柔らかな肉の根元が水圧で硬くなり、ゆるやかな解放感と共に、アスカは便器の中に朝から溜め込んでいた尿をすっかり注ぎ出してしまった。

  ……猫科を専門に扱う小児科のお医者様は困惑していた。

  両親がそうであったように、お医者様もまた、少女の股間におちんちんが生えてくるなんて症例を知らなかった。

  「どうかな。痛いとか痒いとか、感じるかな」

  お医者様がこう言うと、アスカは首を横に振った。

  「せんせい、あたし、どっこも悪くないのよ。だけどあたしがあたしじゃなくなっちゃったみたいな気分なの。だって、あたしはずうっと女の子として生きてきたんだもの」

  「そうだよねえ、変な感じだろうねえ」

  お医者様はオスのアルマジロ獣人だったが、爪を短く切った手指で丁寧にアスカのおちんちんを触診すると、カルテにくちゃくちゃの文字を書きはじめた。

  「できものとか、内臓の管が飛び出てきたとか、そういうのではなさそうですけどねえ。うん十万人に一人の、非常に稀な症例かもしれないので、もっと大きな病院でみてもらったほうがいいかもしれません」

  あまりにお医者様が優柔不断なので、付き添いでやってきたアスカの母はすっかり不機嫌になって、座椅子の下で尻尾を風車のように振り回していた。

  ぐったりして母とアスカが家に帰ると、父が居間に沢山の手紙や書類を広げていた。

  「アスカを引き取りたいという申し出があった」

  二人が散らかった部屋を見てあきれていると、父が紙の山からひとつの手紙を出して広げた。

  「お父さんが子どもの頃に、一度だけ会ったことのある遠い親戚に相談したんだ。山奥の小さな村に暮らしている人で、話を聞いてみたらドンピシャだった。あの村に暮らす子どもの中にも、アスカみたいな体質の子が何人もいるらしい」

  アスカは自分とおんなじ仲間がいると聞いただけで、励まされた気分だった。

  「それで――相手はお父さんの伯父さんの甥っ子の、腹違いの姉のそのまた父のいとこなのだが――アスカさえよければ、村で暮らすほうがいいんじゃないかと提案してくれている」

  「あらまあ、一体どこの誰なんだか!」

  病院で我慢していた母の癇癪が、とうとう爆発してしまったようだ。

  「アスカをよその家にやるですって? アスカには私たちがついてるわ。おちんちんが生えたぐらいで、そんな!」

  「お医者様はなんと診断したのかね」

  母が苛立っていると、父は冷静になるものだ。

  「切れば治るようなデキモノとでも? 生えてきたときと同じように、明日になればおちんちんが引っ込んで元通りになります、とでも答えてくれたのかね?」

  「それが、医者だっていうのになんにも分からないって言うのよ! すっごーく珍しい病気かもしれないから、学会で発表したいって、アスカのハダカを写真に撮らせてほしいなんて、ひどいことを言うもんで、あたし許せなくって――『もう結構です』って答えて、すぐに帰ってきてやったわ!」

  アルマジロ先生に背中から尻尾の毛まで逆立てて威嚇する母を思い出すと、アスカは耳の先が熱くなってしまった。

  「稀な体質であることは間違いない」

  父は、再び毛を逆立てはじめた母を抱きしめて宥めた。

  「都会にいては目立ってしまう。アスカを調べたいと言って、学者や記者が追いかけてくるかもしれない。山奥は都会より不便だが、アスカと同じ仲間がいるし、向こうはいつでもアスカを歓迎すると言ってくれている。そこで新しい体との付き合い方を学ぶというのはどうだろう?」

  父に抱きしめられて、母は泣いていた。

  アスカはいよいよ自分の居場所がここではないように思えてならなかった。

  「あたし、田舎へ行くわ」

  お医者様が自分のおちんちんに注ぐ視線のことを思い出すと、アスカは二度とあんな怖い思いはしたくなかった。

  自分と同じような子どもがいて、自分を受け入れてくれる仲間がいるのなら、学校が変わろうと、暮らす家が変わろうと、アスカはちっとも怖くなかったのだ。

  「アスカがそう言ったって、私たちは引っ越せないわよ」

  「そうとも。アスカはひとりで田舎へ行って、お父さんの遠い親戚の家から、田舎の学校へ通うんだ。できるかい?」

  父が真面目な顔で尋ねたので、アスカは胸の毛皮を膨らませて「できるわ」と答えた。

  そういうわけで、一家はアスカの一人旅についてひと晩かけて話し合い、入念な準備を進めた。

  「本当に、すぐに引っ越しちゃっていいの?」

  母はアスカを抱きしめて、悲しそうに聞いた。

  「明日でも今日でも、いつだっていいの。あたしが転校したところで、悲しんでくれるお友達はひとりもいないもの」

  荷造りは一日で終わり、転校の手続きは二日で終わった。

  大変なのは、アスカがひとりで知らない人の家で暮らして、知らない学校へ行かなければいけないということだった。

  「お父さんの遠い親戚は、カンザキさんという」

  朝いちばんの新幹線に揺られながら、アスカの隣の席にかけていた父が言う。

  「向こうでは、猫の獣人は珍しいらしいけどな。お父さんと同じ灰色だが短毛で、毛先が黒っぽいんだ」

  父がその昔、一度だけ会ったことのあるカンザキさんがどんな人なのか。アスカは話だけ聞いても想像できなかった。

  これから会うのだから、そのときに判断すればいいじゃないか、というのがアスカの意見だったが、父は熱心にカンザキさんとの古い思い出話をしたがり、そのうちに新幹線は目的の駅に着いてしまっていた。

  新幹線を降りると、一時間に一本だけのローカル線を辛抱づよく待つ。やってきた電車は二両編成で、車窓に流れるのは山ばかりだ。駅を降りた二人がロータリーで待っていると、空色の車が二人の前で停まり、父に似ているが短毛の、そして父より頭ひとつ分も小柄なおじさん猫が降りてきた。

  アスカは丸い目をもっと丸くしてカンザキさんを見つめた。

  それというのも、カンザキさんが父よりずっと年上だったからだ。

  頬や額は白髪まじりで、短毛なのもあって痩せた体型は際立って見えるが、足腰はしっかりしているし、父と挨拶を交わす声はよく通るキンキン声ではっきりとしている。

  灰色の猫男たちは車の前で長々と挨拶をした後、ようやくアスカに挨拶の番が回ってきた。

  「こちらが例の、アスカちゃんかい」

  カンザキさんはアスカの前にしゃがんで、興味深そうに尻尾をゆらめかせた。

  「こんにちは。これからよろしくね。なあに、緊張しなくていいよ。おじさんのことはニカちゃんと呼んでおくれ」

  後になってアスカは知ることとなるが、カンザキさんは若い頃に一度山を出て、警察の第二課に勤めていたという。それが田舎ではすごい話題になって、隠居した後にもみんなからニカちゃんと呼ばれているのだ。

  「お父さん、見送りはここまでで結構よ」

  アスカは背筋をまっすぐにして言った。

  「難しい話ばっかり聞いてたら、あたし眠くなっちゃうわ」

  カンザキさんの運転する車は、舗装された山道をぐんぐん進んでいった。おじいさんみたいなおじさんは気さくな猫男で、アスカから器用に家のことや両親のことを聞き出しては、愉快そうに笑って頷いてくれた。

  「ボクの家には子どもがいないんだけどね、近所の子どもたちが遊びにくるから、相手あいてあげるんだ。田舎ってカギをかけないで玄関のドアを開けっ放しにしておくのが習わしでね。ボクが家で昼寝していると、いつの間にか子どもたちに囲まれちゃうんだ」

  山道はいつしか、道路のない土だらけの道へとさしかかり、アスカは不安定な車の揺れに目が回りそうだった。

  「もうじき村に入るよ。これからアスカちゃんが通う学校も、ちょっとだけ見えるからね」

  木々の隙間を縫うように、青い車が隘路を進んでいく。

  緩やかな斜面を超えると、ようやく目の前の景色が明るくひらけて、アスカはシートベルトにしがみついたまま眩い山の風景に目を輝かせた。

  まるで巨大な火山の火口を埋め立てたかのようなすり鉢状の地形に、木と家と、それから段々畑が並んでいる。

  しかし、これから通う学校が一体どこにあるのか、アスカはカンザキさんの家に着くまで分からなかった。畑の合間を通り抜けたとき、カンザキさんが指さした先に朱色の大きな鳥居がひとつぽつんとあったはずだが、鳥居の後ろには鬱蒼とした森が広がっているばかりで、校舎らしき建物も、ランドセルを背負った「仲間」の姿も見あたらなかった。

  村にはアパートなんてないし、ショッピングモールも映画館もありそうにない。しかし、カンザキさんの家にはテレビがあるというので、少しだけアスカの心は励まされた。

  アスカは畑の合間に点々と並ぶ家を数えていたが、二十を数えたあたりで飽きてしまった。

  果樹を世話している家、大きな葉っぱの塊を育てている家、中には畑を丸ごとビニールで覆っている家もある。

  カンザキさんの家と、他の誰かの家は、どれも似たような木造の平家で、アスカは学校帰りに家の見分けがつかなくて他人の家に間違えて帰ってしまったらどうしようかと怯えていた。

  「村のみんなとは顔なじみなんだ。明日になったら、順番に挨拶しに行こう」

  カンザキさんの提案に、アスカはちっとも乗り気になれなかった。