耳障りなスキール音と、直列6気筒ツインターボの甲高い咆哮。それが、ガクの頭の半垂れ耳を容赦なく[[rb:劈 > つんざ]]いていた。
荒れ放題のアスファルトを蹴り飛ばし、車内に激しい振動を伝えながら爆走する一台のスポーツカー。水垢のついた窓ガラスの向こう、左手側には、無惨に中ほどで折れた東京スカイツリーのシルエットが流れていく。
「ガク、落ち着いて! この次の交差点を南下するよ。言問通りを道なりに行って、その先の……」
「今言われてもわかんねぇ! ハル、とりあえず直前になったら指示出せ!」
怒鳴りながらバックミラーを睨むガクの喉の奥から、無意識に『グルル……』と低い唸り声が漏れる。
背後に迫るのは、獲物を逃がすまいと爛々とヘッドライトを輝かせるトヨタ・ランドクルーザー200系の群れだ。プッシュバンパーにパトランプを備えた、重量級の鉄の塊たちが、猟犬のようにスープラの後塵を喰い破りながら猛追してくる。
「この先! 太平一丁目を右折! 左車線は廃車で詰まってるから、右車線を走って!」
助手席に座るゴールデンレトリバーのハルが、分厚いナビゲーション用モニターを抱え込みながら叫ぶ。極限の恐怖と、それを上回る異常な高揚感からか、彼の黄金色の尻尾がバケットシートをバンバンと叩いているのがガクの視界の端に映った。
「ここだなッ?!」
血統を持たない雑種であるガクは、純血のお坊ちゃんが下す無茶な指示を微塵も疑うことなく、ステアリングを乱暴に切り込んだ。
タイヤが悲鳴を上げ、溶けたゴムの焼ける匂いが、犬特有の鋭い嗅覚を強烈に刺激する——。
交差点を曲がり、指示通り蔵前橋通りの右車線へと進入した、次の瞬間。カーブを曲がりきれなかった一台のランドクルーザーが、ドシャ、と重鈍な音を立ててスープラの右後部にその鼻をぶつけてきた。
重い車体が弾き飛ばされ、激しくスピンする車体。車内は内臓が千切れるような強烈な遠心力に支配され、ハルが窓ガラスに黄金色の毛並みを押し付けられて悲鳴を呑み込んでいる。
だが、ガクは至って冷静だった。
ブレーキではなくアクセルを踏み込み、クラッチを蹴り飛ばして強引にバックギアへと叩き込む。ギャリッ!と悲鳴を上げるトランスミッション。無秩序に回転するはずだった車体を腕力と神業のペダルワークでねじ伏せ、横転した路線バスの残骸スレスレでピタリと止める。
「大丈夫か? いくぞ!」
ハルの安否を一瞥し確認すると、ガクは再び1速へとギアを叩き込んだ。ガコン、と車内に無骨な金属音が響く。
ガクたちを捕らえるべく陣形を整えようとしていたランドクルーザー達の僅かな隙間。そこへ、サイドミラーがへし折れることも臆せず、スープラは弾丸のように駆け抜けた。
「よし、よし、よし! このまま行けば、蔵前橋……」
安堵しかけたハルの声が、前方を向いた途端に引きつった。
「ガ、ガク! この先首都高6号線、崩壊してる! こんなの、前走ったときには……!」
予想外の事態にパニックを起こして叫ぶハル。しかし、ガクはそれを鼻で笑い飛ばした。
「だからなんだってんだ! それをどうにかするのがお前の役目だろ、ハル! 無線が使えない今、お前の知識と判断が俺達の命綱なんだぞ!」
怒鳴りつけてやると、隣でハルが息を呑む気配がした。
一瞬の静寂のあと、パニックになっていたはずの彼が顔を上げ、どこか腹を括ったような、強靭な光がその瞳に宿るのを、ガクは確かに感じ取っていた。
「えっと、えっと……」
ハルは必死に思考を巡らせる。その間にも、スープラは恐ろしい速度で進んでいき、行く手を塞ぐ崩落した首都高の瓦礫の山へと迫っていた。
あと500m。400m。
限界まで目を見開き、犬特有の優れた動体視力で辺りの景色をバラバラに分解し、再構築したハルが、不意に顔を上げた。
「……ガク。この車って、少しくらいの障害物なら弾き飛ばせるよね?」
ハルの声から、先程までの焦りが嘘みたいに消え失せている。
「限度はあるけどな!」
ガクが叫ぶと、ハルはそれに呼応した。
「じゃあ、そこの赤の軽自動車を吹っ飛ばして! その奥に、荷台がスロープ状に傾いたキャリアカーがある! 飛んで!」
無茶苦茶な指示だった。だが、ガクは獰猛な笑みを浮かべ、迷わずアクセルを床まで踏みちぎる。
エンジンが爆音を上げ、1.5トンを超える鋼鉄の塊が、邪魔な軽自動車の横腹に大質量のハンマーのように突き刺さった。
金属がひしゃげる轟音と共に、軽々と鉄屑は弾き飛ばされ、隠れていたキャリアカーの傾斜が姿を現す。
「しっかり掴まってろよ、ハル!」
「うん!」
ガクの操る70スープラは、一直線にキャリアカーの荷台を駆け上がり——サスペンションを限界まで沈み込ませた後、重力から解き放たれて、廃都の宙へと高く舞い上がった。
自身の身体が実際に宙に浮く感覚。それは、ハルのような良いとこ育ちのお坊ちゃまには、絶対に味わえないであろう劇薬だ。だが、今、この瞬間、スープラはそのサスペンションをだらりと伸ばして、宙を舞っている。
耳から聞こえるロードノイズは急に静かになり、ただ浮遊感のみが車内を支配した。
視界の下には、崩落した高速道路。そして——水没しかけている、蔵前橋が見えた。
着地地点が、ない。このままでは、隅田川の底に沈む。
隣を見ると、ハルが強烈な後悔に顔を歪め、死を覚悟したように目を固く瞑っていた。
——馬鹿野郎。誰が死んでやるもんか。
「舌噛むなよ!」
ガクの咆哮に驚き、ハルが反射的に歯を食いしばった瞬間。
ガァァンッ!!
限界まで沈み込んだサスペンションが金属音を上げ、暴力的な衝撃が車内を貫いた。水没は免れた。ガクは、隅田川に橋とともに沈みかけていた、巨大なトレーラーの背中に車体を落としたのだ。
しかし、その鋼鉄の質量は、腐食していた荷台に過大な負荷をかけ、結果、トレーラーは悲鳴を上げて、急激に水面へと傾いていく。
「っしゃ! うまくいった!」
狂気じみた歓喜を上げ、ガクはアクセルを煽る。キュイイイッ!とタイヤが鉄板の上で空回りする音が鳴る。
沈みゆくトレーラーを蹴り台にして、スープラは再び短く宙を舞い——今度こそ、対岸のアスファルトに重い尻を叩きつけた。
バックミラーの向こうで、踏み台にされたトレーラーが、巨大な水柱を上げて隅田川の底へと沈んでいく。
「ヤバかったな、流石に」
ガクはニヤリと牙を覗かせて笑い、隣で呆然としているハルを見た。
あぁ、そうだ。これだから……。
死にかけていたはずのハルが、ふふ、と笑い声を漏らす。
「君はやっぱり、最高のドライバーだよ!」
呆れるほど真っ直ぐなその賛辞に、ガクは喉の奥で小さく笑った。蔵前一丁目交差点を北上する頃には、また新手の追手がやってきていた。しかし、隣に座る相棒からはもう、一切の焦燥感が消え失せている。
『*ノイズの音*……い、おい! 無線が聞こえてるなら返事してくれ!』
そのタイミングで、音割れしたスピーカーから、野太い男性の声が響く。
あぁ。やっと繋がった。安堵したように、ハルがバケットシートに深く身を預ける。
「……鉄朗さん、心配をおかけしました!」
明るい声で応じるハルから、安物のシャンプーと汗が混ざった匂いが漂い、ガクの鼻腔をくすぐった。
赤色灯が背後で光り、まだ鬼ごっこが終わっていないことを伝える。
だが、このイカれた相棒が隣にいる限り、誰にも捕まる気はしなかった。