世の中には空模様がある。
一年が四季に分かたれ、一定でいられないのと同じであった。
栄枯盛衰と呼ばれる事柄が、いつ起きるのか知れたものではない。
こうした不幸や幸運を、人々は天意や運命。定めと呼び崇め、ときに恐れる。
うらさびれた土地に風がふく。道を通り抜ける。乾いた音が寂寥感を添えた。
山中に位置するこの土地は、その昔は王都に次いで栄えた豪商たちの縄張り。
自然に囲まれ、王都の輝きが一望できる人気スポット。観光地として有名だった。
だが盗賊が出没するようになってからは、万が一に備え、豪商たちは拠点を移動したことを切っ掛けにひとの流れが減り、思いもよらぬほど素早い滞りを起こした。
今となっては栄華を極めた王都からは遥かに離れた、とるものもない寂しい土地だ。
店を構えていた建物はがらんどう。商品も人気もなく、隙間風が物悲しく歌うばかり。
この先も栄えることはなく、緩やかな滅亡を突き進んでいるが、住むものは極僅かだ。
残っている者たちは季節が変わるように、再び街が活気づくのを求めているわけでもない。ただ山の中の暮らしが性にあい、畑を耕す生活を静かに送っていた。ほとんどが老いたもので、新天地でなく安息の地を求めたもの。
通行人でごった返していた通路はゴミが散乱し、むかしの繁栄は人々の記憶からすっかりと忘れ去られている。
皮肉なことに、王都の夜景は以前にも増し、光り輝いていた。
夜の帳が下りると、遠くにある灯りは地上の星と呼ぶに相応しい。
温かな輝きは王都の発展を約束し、未来を祝福しているようだった。
彼方に広がる王都から離れ、築き上げられた建造物も山の岩場と大差ない。
夜が更けると、遠くの王都は光に満ち溢れる。活気ある声が聞こえてきそうだ。
王都が輝くほどに、この土地は過去の栄光と現在の寂寞との対比を際立たせる。昔ながらの建物は時間の重みに耐えかねて、壁にはヒビが入っていた。空き家になった場所は輪をかけて酷く、補修もされていない屋根が目立つ。窓ガラスが割れたまま、吹きさらしになった場所もあるほどだが、ゴーストタウンというほどではない。点々と人々が暮らしているからこそ、以前の栄えを想像させる。
山を切り開拓された土地は、よく風がふき、夏場は避暑地とされていた。
この土地では、静寂と忘却の中で時間だけが静かに流れていく。昔ながらの生活に慣れた人々の息遣いが、ささやかに場を彩る程度であった。
そんな場所に、忙しない足音。
蹄で石畳を打ち鳴らすような、なりふり構わない様子だった。
突如として異変が起きようとも、ここはひとも寂れている。
周辺の風紀は乱れ、治安はよろしくない。心まで寂れているのだ。
住民たちは気にしない。自分たちが狙われるわけがないと、知っていた。
王都の方面で悪事を働いた者が、ちんけな土地を訪れ足を休ませているだけ。
憲兵に通報する者もおらず、首を突っ込まないよう、布団に潜り込んでいる。
三人組の強盗が、道を突っ走っていた。
全員が爬虫類系で、暗がりの中で一瞬だけ鱗が光沢を帯びた。
月明かりの下、古びた建物の影を縫うようにして、彼らは息も絶え絶えに走る。
足音は緊迫感をもたらし、殺風景な夜空に響き渡る。彼らの顔には、追っ手から逃れるための焦りはない。獲物をせしめた笑みだけだった。
ここに踏み入れて進むにつれ、顔はより晴れやかになる。
タタタタ、タンッ、タンッ
駆け抜けると、壊れかけた壁や崩れ落ちた石の上を踏みしめ、その音がこだまする。
冷え切った山の息吹が汚れた服をはためかせ、遠くの王都から漏れる光が彼らの影を地面に映し出す。
「逃げ切ったぞっ」
一行は、王都を見下ろしながら、見知らぬ家の側で腰を落ち着ける。
「見ろよ、俺たちだぜ」
家の壁に貼り付けてある手配書に、人相の悪いトカゲの顔が三つ並んでいた。
彼らは古い自分たちの懸賞金を指差し、あれから随分と売れちまったもんだと笑う。
ひとしきり笑い、逃走の際に用意した飲食物を補給し足を揉み、首をひねっていた。
次の逃走ルートを相談しながら、関所をどうするか話し合っていたとき、足音がした。
通行人であれば、気にもとめずに会話を弾ませていたが。その音は重かった。
三人が音の方角を見やり、また金属の擦れる音が混じり出す。トカゲの顔をそれぞれ見合わせ、注意深く背中あるいは腰にさげた得物に指を添えていた。
「しっ……こっちに来るぞ」
リーダー格が、口先に人差し指を当て言い終えた後。二番手が粘っこい笑み。
「いいじゃねぇか兄貴。報酬をがっぽりと渡すと言われてるんだ。ここにいる憲兵だったら、容赦なくやっちまおうぜ」
「送られた三兄弟は、どうやらおまえたちで間違いないようだな」
三人の長い口が、同時に引きつった。
涼やかな女性の声色が癪に障ったのだ。
スカした女の声。
それも偉ぶった女。
昔。奉公先で女主人に甚振られた過去を持つ三兄弟は、偉ぶった女が大嫌い。
男でも女でも殺すことに躊躇ないのは、過去の経験からなる鬱屈した精神によるもの。
自然と攻撃性を剥き出しに「どこのどいつだ」と睨みつける。歩み寄ってくる女が現れるのに合わせ、剣を鞘から引き抜いた。
三つの視線を浴びるのは細身の鎧。その体が描くのは美しくも柔らかなライン。
紛れもなく女のもの。暗がりに光る灰色の瞳。感情らしいものは浮かんでいない。
細長い尾も、つくりものみたいに動かない。針金でも詰まっているのかと兄弟は眉を寄せた。
「大人しく捕らえられる気はないだろう。相手をしてやろうか?」
女は、犯罪者の三人を見つめ、これといった感慨もわかないふうに冷めた表情をそれぞれにやる。腰にさげたレイピアは如何にもな装飾が施されていて、金持ちしか使わないような贅沢品に違いない。
余裕を崩さない生意気な女!
それも地位に恵まれた、鼻持ちならない女!
三兄弟は苛立ちを増幅させ、一触即発の空気が通路に張り詰めた。
空間がきしむ不思議な音が発せられるようだ。しかし、女は表情ひとつ変えない。
斬り刻んでやる。三人の心はひとつになり、三角形を描きながら、女を包囲する。
長男が正面から攻め。背後からは次男と三男が、それも二箇所を同時に攻め入る必勝の布陣。
「ついてこられでもしたら面倒だ。わかってるな!」
まず、長男が声を張りあげる。弟分に返答を求めた。背後と正面に意識を向けさせる。こうすると敵の動きは鈍るのだと、三兄弟は経験から学んでいた。
「ちょうどいい。獲物が足りてないと思ってたんだ。なあ!?」
「こいつの鎧とピカピカの剣をいただけば上前が増えるよ。大賛成だね!」
三兄弟の意見は一致していた。
靴裏を鳴らし、すべらせ、にじり寄る。
彼らの感覚では、あらわれた女は銭袋と大差がなかった。
嬉しいことに、女の腰にさげたものは、細工が多い高級品だ。
女は暗がりの中。ピクリともせず、長男の顔を見つめていた。
「余裕ぶってんのか? さっき仕留めたやつも、最後まで何もしなかったっけ」
長男は真正面からニヤリとして、剣の汚れを翳してみせる。
真新しい汚れがある。刃に曇り。ひとの血。その油分だ。
剣身が月明かりを濁らせた。弟たちの刃も汚れていた。
「兄貴。さっさと仕留めようぜ!」
「そうだよ、どうせ、何も出来やしないんだから」
「落ち着けよ、まずは俺から、斬り刻んでやるからよ」
どんな達人であろうとも、三方向からの攻撃は回避しきれない。
早い段階から連係攻撃の強みに気づいていた兄弟は、次々に自分たちよりも格上の相手を仕留め、決して人数が自分たちより多い相手とは戦わないことを決め、今日まで生き延び、先程も一人仕留めてきたばかりで気がたっていた。
「死ねぇ!」
長男が地面を蹴った。
殺気立ち、怒涛のごとく掲げた剣を振り下ろす。
しかし、それよりも先に、背後の二人が同時に襲いかかっていた。
まずは俺から、斬り刻んでやるからよ
相手に順番を印象付け、そう思い込ませてから背後の奇襲。
三兄弟の必勝法。後ろより二つの刃が肩と胴を襲撃。仕上げは正面からの一撃。
間髪をいれず三回の動きをすれば、いかなる達人であろうと、対処しきれないのだ。
剣を振るったとき、三人はニヤリと勝利を確信。だが、女の動きは見たことがない。
前かがみの姿勢になり――長男に目掛け突っ込んでいた。
肩と胴を狙う攻撃を一つの動作で空振らせ、長男に目掛け突撃する。
バカが、と両腕を引くように、剣の軌道を手前にズラし頭部を狙った。
が、振り下ろせない。長男は空を見上げていた。背中がのけぞっている。
「あ、兄貴!?」
次男の叫びを聞いてから、下からすくいあげるような拳を叩きつけられ宙を舞っているのだと思い知らされた。口の中に血が溜まり、嫌な味が喉と口周りにひろがっていた。
「戦法は悪くない。初見殺しとしては一流だろう」
長男が空中で一回転し、地に打ちつけられた。
三男の頭にコンっと当たったものは、折れた前歯。
血と折れた歯を吐き出して、長男は地面で痙攣する。
ふたりは頭に血がのぼり、再び同時に、踏み込むものの。
すでに一度は回避されている。三本の刃は一本が欠けていた。
次に殴りふせられたのは三男だ。踏み込みにあわせ腹をぶん殴られ、内蔵を押しあげながらメキメキと背骨を慣らす。血と体液を鼻と口から噴き出し、仰向けに寝かされた。
「てめえええ!!」
次男は激高し、太い両腕を伸ばす。
剣を途中で捨て、丸太をおもわせる両腕を胴体に絡ませた。
斬ると見せかけた強引な組みつき、相手の間合いを狂わせる。
筋肉質なトカゲに対し、女は野草の茎さながらに頼りなかった。
骨を砕き内蔵を潰し圧殺を試みる。その腕力を活かそうとしたとき。
「うごおぉお!??!」
次男は悶絶し、唾液をこぼしながら腕をほどき、両膝をついてしまう。
掴まれ持ち上げられた拍子に、喉に手刀を受け腹に膝をめり込まされた。
震える指先で地面を掻きむしり、女を倒そうと意気込むが、意識を失った。
喧騒をあげた通り道は、ふたたび静まり返る。風の人恋しい呼びかけが、建物の壁をくすぐった。仰向けの長男は女を見つめた。ちょうど、月明かりが道に差し込み、その全貌を確認できた。
「……たしか……おまえ」
月を浴び、バッと白が弾けるように輝いた。
艶やかなる白い毛皮が風を受け流れるように滑る。
真っ白な猫を思わせる風体だが耳が尖り、特徴的だ。
山猫と呼ばれる種類。灰色の目を持つ真っ白な猫女。
彼女は道端の石でも見るような目つきを崩さなかった。
「見たことあるぞ、アスティナ・イヴォニア……おまえ、王都の近衛隊長じゃ」
「私を知っていたか。ご覧の通り、左遷をされてしまった。憲兵をしている」
「ちくしょう……憲兵って、おまえのことかよ」
長男の視線は壁に貼りつけられた、自分たちの手配書に向けられた。
「なんてことない仕事のはずだったのに、なんで、名家の次期当主が、こんなゴミ箱みてぇな……土地によ………………」
アスティナは答えない。腰にぶら下げた水筒を掴み、口にあて傾ける。
ごく……ごく……ごく……ごく……
彼女は澄んだ湖面のように表情を変えない。しかし、水を呑む喉の動きは妙に素早く落ち着きがなかった。
[newpage]
アスティナ・イヴォニア。
武功をあげ王家に仕えてきた誉れ高き名門の中の名門。
中でもアスティナは一族の言い伝えにある『白毛』の生まれ。
才能に恵まれ運気にも恵まれた、運命の子となるであろう。
赤子の時代より、そう持て囃されていた。何をしても褒められていた。
実際に鉄の塊のような期待を持て余すことなく、期待以上の働きをやった。
アスティナは冷静沈着な性分であり、何事も淡々と挑み、こなしてしまう才女。
歴代の剣術家が舌を巻く上達ぶり。さらに魔法の腕前も並以上ときたものだ。
彼女からすれば「やれ」と言われたことを「やった」だけに過ぎない。
比較対象はさしておらず、どれほどに優れているのか、自覚がなかった。
そのため、いざ模擬戦となれば容赦がない。常に油断せず、相手の戦法や戦略を予想しながら先を読みながら勝利を掴み取った。驕り高ぶるのは騎士道に反する行為であり、彼女は平然と、こう返す。
ありがとうございます
一言。気取らない。斬って捨てるかのような口調。
感情の起伏を含まない声色に灰色の瞳も相まってだろうか。
必要以上に噂が独り歩きをし、必要以上に強く思われていた。
イヴォニア家の次期当主と国の上役からも目をかけられてしまう。
山岳地方に囲まれたアルトリア王国でも指折りの実力者。伝説の一ページを飾るに違いあるまいと幼少の頃より期待されるほどであった。才能を持て余したあいつと比べても見劣りしないと、引っかかる言葉が耳に届いてもいた。
実際に、若くして武功をあげ、十歳になる以前から任務を請け負った。
二十五歳という若さながら、アルトリア国王の直子ギャヴィン王子の近衛隊長に任命された上、剣術指南役に抜擢された。自然とイヴォニア家の勢力が王子に集い、王位継承権の争いは終止符を打った。それほどに影響力を誇っていた。王国が栄える限り、イヴォニア家の栄光は続くのだと一族のだれもが疑わず、邁進するものがいれば、家名を笠に着る不届きものがいた。
その中でアスティナは英才教育を受け、ひたすらに自己研鑽の日々を送った。
感情をみだりに表すのは下品であり、弱味を見せかねないと表情を顔に出さない。
弱者に手を差し伸べ、不義に剣を振り下ろす。一族が脈々と受け継ぐ騎士道精神をみっちりと叩き込まれていた。
アスティナの名が高まるほど、イヴォニア家の名は輝きを増した。
当然の勤めを果たしている。そう飾らないのはアスティナ当人だけだった。
ましてや自分の失態がきっかけで左遷されるのも、イヴォニア家から勘当されるなど夢にも思わず、最悪の日が訪れる直前まで己を磨きあげていた。
コツ、コツ、とブーツが一定のリズムを刻む。
アスティナは王宮の通路を進んでいた。
瞳はまっすぐ正面から離れず、背筋はブレない。
忠誠を捧ぐギャヴィン王子は、年齢こそ幼いが聡明で慈悲深い。
この方ならば国の行く末を任せられるだろう、そう信じさせてくれる人柄のよさ。
早くして王族の義務を学び、自覚を持ち、立ち振る舞いにも気をつけているのであるが。
唯一。惜しむべきところは政敵に対する寛容な心。いや、寛容すぎる心であった。
国を思うもの同士。手を取り合えぬものか。常にその問題へ頭を悩ませ、裏切りや不意打ちを警戒していない。そこが彼のよいところであるのが、困りものであった。
ただの剣術指南役であれば、わざわざアスティナが抜擢される理由はない。
忠義に厚く他勢力になびかず、近衛も務まるものとして、彼に仕えている。
アスティナは重ね重ね王より「我が子を頼む」と仰せつかっていた。そして王子に武芸を仕込んできた。戦いの気構えと、襲ってくる敵の恐ろしさ、その心理に至るまでをだ。
とはいえアスティナに問題がないわけではない。
彼女ではなく、強大な勢力となったイヴォニア家に下劣な者が潜んでいる。
たとえばアスティナを旗印に、私はあのイヴォニアだと居丈高に振る舞い出す。
貴族とはいやなもので、媚びる相手は貢ぎ物を差し出し、取り入ろうとするもの。
そんな連中を相手に気をよくし、口利きをしたり、されたり、しようのない話だ。
本当に、アスティナ万々歳だ
もっともアスティナ当人からすれば、歓迎できる話ではない。騎士道に反していた。
我が一族の誉れだと、親戚一同も褒め称え、中には媚びへつらう者まであらわれた。
今日は重要な日取りだからと、親戚が何度も声をかけ、中断できず時間を食った。
アスティナは彼らを好ましく感じず、機会を見計らい逃げようとしていた。
何もせずにいるものたちから勝手に心配され、しくじらぬよう言われる。
応援されるのであれば納得はいく。理解もできよう。
今後の利益に関わると力説されても敵わなかった。
「今日がどのような日であるかなど、用意していたのは私なのだから、よく知っている」
胸のうちに呟き、押しかけてきた連中の言葉を反復しそうになる。
だが、記憶とは厄介なもので、覚えようとする以上に、思い出そうとしたほうが定着がよい。
いけ好かない言葉を事あるごとに思い出すなど、頭の無駄遣いだ。
利き手を腰にさげた得物へ寄せる。肉球をそっとあて、深く息をする。
腰に下げたイヴォニア家に伝わるレイピア。柄飾りに触れると心が安らぐ。
細く鋭い剣身。鞘から引き抜けば、見惚れるような白銀の刃が景色を映し出す。
カップ状の飾りに掘られた曲線をえがく草花の彫り物。そこを優しくなぞる。
「………………」
ふぅ、と軽い空気を漏らしてから、調子を取り戻す。
「いつも助かっている。感謝しているぞ、アフィラート」
このアフィラートを目にしたとき。
初めて欲望に燃えた。これを自分のものにしたい。
現当主に頼んだところ。彼は笑顔で快諾してくれた。
「イヴォニア家にいる剣の達人たちと決闘をするのだ。全員に勝ち越せるようになればよい。そうすれば、これはおまえのものになるだろう」
これも騎士の試練であるとアスティナは受け入れ、約束通り譲り受けたのだった。
名品に恥じぬ使い手になりたいと、幼少期から惜しみない研鑽を続けてきた。
「やあ、やあ、これはどうも」
聞き覚えのない声であったから、反応が幾ばくか遅れた。
「お初にお目にかかります。お初ではありませんが、直に挨拶を交わすのはこれが最初というわけです。こういう形式的な挨拶を済ませてもよいでしょうか?」
風変わりな物言いをするものだ。先程から右手側にべったりと貼りついている。彼は蛇だ。もぐもぐと何かを咀嚼し、いま嚥下を終える。行儀の悪い紳士がいるものだとアスティナはおもった。こちらに用があるらしいので、立ち止まり向かいあう。
「あなたは、グリムヴァルド様の側近……なのでしょうか?」
すこし間があったのは警戒心。そして情報の少なさからだった。
傭兵から召し抱えられた豪運の蛇。くらいしか耳に入ってはいない。
「ええ。イヴァリスと申します。まあつまらない傭兵あがりですよ。グリムヴァルド様の目が節穴だったばかりに、側仕えを勤めさせてもらっています。ケチな雑用とでも思っていただければ、ええ」
縄のようにくねる長い身に、爬虫類の表情がのっぺりと貼りついていた。
陽気でありながら空々しくて、どこまでが本気で演技か掴み取りづらい。
友人のカティアから「うなぎみたいな男です」と言われていたが、納得した。
こうしている間にもウネウネと、どこかへ逃げてしまいそうな雰囲気がある。
「不躾ながら申しあげます。主人にそんな物言いをしてはいけません。自分自身の誇りにも傷がつきます」
身体をうねらせているのはよいが、これでも身だしなみに気を使っているのだろう香水が鼻をくすぐった。古風にも香木を嗜んでいるようで、見た目と言動に見合わず育ちがよいのだろうか。
「これはこれは御丁寧に、噂に違わぬ御仁と見受けます。いやはや、どうせならそちらにつきたかったですよ。食べますか?」
差し出されたのは薄い何か。
干し肉。それも黒ずんでいる。
「………………」
アスティナは見つめた。
どうも変な異臭が鼻をつく。
空腹ではない。酒の席でもない。
「いえ。ご遠慮します。朝食はとっておりますゆえ」
片手をあげ、やんわりと拒否した。
彼は表情を消し、見上げるように覗き込む。
一メートルほど離れているのに、圧が強かった。
「なにか?」
「いま口にしたのは本心ですよ。もっとも、あなたのような騎士が組みする陣営。私のような卑しい浅ましい方法を使うものは、お呼びでないでしょうがね」
「………………?」
近くでうねって、額を叩き口を大仰にひらいた。
舌をシャーと突き出した上に、にょっきりと牙を開いてみせる。
芝居かかった仕草ながら、どことなく嘆かわしそうにしていた。
どうにも好ましくない人物で、アスティナは先を急ぐことを選ぶ。
「私はアスティナ・イヴォニア。ギャヴィン王子の近衛隊長。そして剣術指南を担っております。もうしわけありませんが、時間がありませぬゆえ、失礼をいたします」
蛇の横を通り過ぎると、彼は無言で去っていった。
片手を振り、「あなたは悪くありません。周りが悪いんです」と妙な言葉を言い捨てていった。振り向きもせず、長い尾で床を引っ掻いてもいた。何をしにきたのか、本当にわからない。
「私は悪くはない。周りも悪くはないとおもうが?」
意味を掴みあぐねている。いったい何を主張していたのか、無意味な戯言なのか。
友人に「うなぎ」と言わしめた人物。あまり真に受けていると体中にヌルヌルと絡みついてくるかもしれない。構うべきではなく、使命に集中するため歩き出す。
「今日の演習ではグリムヴァルド様も御見学なさるはず……なぜ側仕えを自称した彼が、私に挨拶を? グリムヴァルド様のいらっしゃる方角はこちらのはずだが」
声をかけるべきか、いや、理由がないとも限らない。
何もかも不審で釈然としなかったが、やはり放っておいた。
すこしばかり気味が悪い男だ。あまり近づきたくはなかった。
冷たい朝の光が城壁に反射し、厳かな王宮の広間を照らし出す。
アスティナは制服の襟を整え一日の始まりに備える。
灰色の瞳は周囲を見渡し、気を配っていた。
いかなる危険も見逃さないよう、訓練されている。
「アスティナ、待っていましたよ」
隣に立つ若い獅子獣人の王子、ギャヴィンが目を輝かせる。
まだ十代の仲間入りをしたばかり、王の血を引くが鬣は頭に生えている程。
時間に余裕はあるはず。だが、主人よりも到着が後であれば、それは遅参だ。
「これはギャヴィン王子」
アスティナは恭しく頭をさげ、その場で片膝をつき、胸に手を添え挨拶をする。
「遅くなりました。もうしわけございません」
「謝ることではありません。僕がカティアに強請って、連れてきてもらったのです」
どうも~、と緩く両手を振ってみせたのはアスティナと対照的に黒い猫。毛並みと同じ色を基調とし、白いエプロンを結わえたメイド服。頭にはヘッドドレスもつけられていてアスティナと年齢はそう変わらないのだが、遊び癖が抜けきっていない少女の笑み。青い瞳はいたずらっぽく輝いていた。耳をひょっこりと立たせ、尻尾は落ち着きなく揺れている。
「王子様がワクワクして落ち着きがなかったので、下見の名目で馳せ参じちゃいました。もう王子様ったら、叔父上にアスティナと近衛隊の勇姿を刮目していただくのだって剣を振り回していらっしゃったんですよ」
えい、えい、とカティアは剣を振る真似事をやった。
事実なのだろう。ギャヴィンは手をあわせ俯いてしまう。
「カティア。おやめなさい。あまりにも無礼です。不敬です」
「ごめんあそばせぇ~、王子様のおしめを取り替えていた時期もあり、昨日も同じお布団で寝ていましたから、ついつい、可愛がっちゃうのです」
カティアは言いながら恥ずかしがるギャヴィンの両肩を掴み、よしよしと頭を撫でていた。彼女とは友人であるが、どうあっても公の場で王子をからかうのだけはやめさせたいアスティナだが、聞き入れてもらった試しはなく、ふざけているようで用心深い。目撃者は今のところはいないそうだ。また、王子も嫌がっていないため厳しく言えなかった。
「今日の演習は期待しておりますよ」
「はい。ご心配にはおよびません。普段の任務を、見られている中でやるのみです。手抜かりはございません」
アスティナは冷静に答えた。
「王子、本日は演習後。王宮の南門から市場を経由し、教会への訪問。それから洗礼が予定されております。貴方の安全は必ずや、このアスティナが約束いたします」
ギャヴィンは言葉に安堵の表情を浮かべた。
以前に刺客を差し向けられた経験から王子は過敏になっている。
アスティナはも強く、誰よりも忠実で、王子にとって代えがたい存在。
そうあるべきだと、アスティナ自身も思っている。今後も手抜かりはない。
いまは国王が和平交渉のため遠征中。王子の立場から政にも加わっている。
気の休まる時間はそうない上に、現状の近衛では守りが不十分なのではないかと、叔父に軍備強化をせっつかれていた。まだ意見はまとまっていないが、この先にどう転ぶかは王子の幼い肩にかかっている。
やがて、その刻限はやってきた。
王宮の広大な訓練場で、アスティナは近衛を整列させ、先頭に立った。
「それでは、これより近衛隊の演習。その御披露目をさせていただきます」
特別席を設けられ、中心に腰掛けるのは図体のある熊だ。
全身に鎧をまとっていて腕を組み踏ん反り返っている。
武功こそ眩いが、心の底の邪な願望を隠せていない。
アスティナは釘を刺すように彼を一瞥していた。
彼こそがギャヴィンの叔父。
国王の弟にして、現状二人目の王位継承権を持つもの。
いまの王をハト派とすれば、あのグリムヴァルドはタカ派。
あらゆる勢力が近衛の軍事演習を拝見しようと、揃っている。
ギャヴィンの瞳は得意気に輝き、我が近衛隊と誇っていた。
「まずは剣術指南役アスティナの剣技を見せてもらおう。次に近衛隊の剣技も見せていただきたい。あのアスティナ・イヴォニアの手本を是非とも拝見したい。よろしいですな、グリムヴァルド様」
「かまわん」
王族のひとりが手をあげ、興味津々の様子であった。
すでに演目の内容は配られていて、その様になっている。
わざわざ声をあげ、グリムヴァルドの注目をあげる狙いか。
あわよくば自分にも集中してもらいたい欲が滲む。
しかし、本日の主役は飽くまで王子の近衛隊であるべきだ。
アスティナは「かしこまりました」と一礼。腰にある業物を抜く。
――――シャンッ――――
金属と絹の布。その中間の物質を二つあわせ、擦りあわせたような調べ。
白銀の軌跡をつくりだす一振りに、初見のものは思わず息を呑んだ。
陽光を受ける。巨大な原石からカッティングされた宝石さながら。
握る手を胸元へやり、鼻先に切っ先がつきそうなほど寄せた。
刃渡りは六十センチほど。貴族の決闘用のレイピアである。
ヒュンッ! と刃が流れていく。
鋭く風を切り裂き、水面を撫でるような緩やかな踏み込み。
彼女の動きは猫の身体能力。バネを十全に活かしきった。
重いブーツが地を踏もうとも砂煙はあがらない。
無駄な力の一切を抜き、四肢を靭やかに使う。
その剣技は輝きをまとい、光の筋を描いた。
「………………?」
アスティナに違和が生じた。
頭にイメージした敵と斬り結ぶ。
近衛に伝わる伝統的な剣技を披露した。
どこも、ミスはない。
なにも、変ではなかった。
上々の出来栄えだと胸をそらせるはずだ。
剣を持った右半身を前に、剣を振るい続ける。
左半身と左手に尻尾で巧みにバランスをとった。
すべては順調。何もかも普段通りなのだが。
苦しいくらいに喉が渇いた。
プレッシャーだろうか。
唾を呑むと喉が痛む。
アスティナの体に異変が起こり始めた。
剣を振るうだけで汗ばむ。
柄に水気が出来上がる。
ありえない
心で否定する。
だが、水気は増す。
腋や股がこもりだす。
息があがりフラついた。
白い毛が濡れていく。
動悸が激しくなる。
眉を寄せそうだ。
私としたことが……腹痛か?
体調管理は万全であり、昨夜は医者を呼びつけていた。
アスティナの主治医は王都でも指折り。誤診は考えづらい。
内蔵を両手で鷲掴みにされ、こねくり回されるような不快感。
おもわず剣を手から取りこぼす。
あっ!
失敗したのだと、ほうぼうから声があがる。
ここで取りこぼしては騎士の名折れ。
急ぎ柄に指を通し、空へと放った。
演目のひとつであると主張する。
パチパチパチパチ!
拍手があがり、心の内では安堵した。
額に汗が浮かび、鼻に水滴があらわれ口に伝う。
信じられないほど塩辛い。体から水が抜けていく。
乳房の谷間が、ずしりと重い。ブーツの指先も濡れる。
最初より踏み込みが甘く、少々の砂煙をあげてしまった。
まずい。私としたことが、体調不良に気づけなかったのか?
それとも、王族たちを前にした重圧に、神経が悲鳴をあげた?
雑念が増える。剣技への集中が途切れかけた。
剣を振るたび輝きが増量するのは、飛び散る汗が太陽を浴びたせい。
体中から嫌な臭いがした。あらゆる成分が混ざり、体温で熱されている。
全身から水が流れる。下着まで、水に浸したように、ぐっしょりと音がした。
ブラジャーとパンツにとどまらない。
なぜ、こんなにも汗ばむ……体が熱くて息があがっている
ギャラリーは実戦並みの迫力であると称賛した。
口に塩味が濡れる。唾液が枯れる。病的に喉が渇く。
慣れ親しんだ、目を瞑ってもこなせる動きはぎこちない。
不意に下腹部が萎縮。痛みに片目をつむりそうになった。
異常だ。夏場の訓練でも、こう汗が流れてはこない。
内蔵がうごめいている。体中が干上がっていく。異常だ。
心を静め剣技を披露しているつもりでも、部下に気取られる。
隊長の様子が変だ。そんな気配を体中に感じる。尻尾にさえも。
服に塩水が吸いあげられて、体のラインが浮きあがっていた。
一刻も早く終わらせなければ、焦燥感に突き動かされる。
足をもつれさせたのは久方ぶり。胸に不安が溜まった。
ビクンッ
突然の腹痛とともに、新たなる腹痛に苛まされた。
片目を引きつらせ、思わず息を呑む。剣が止まった。
体中を何かに寄生された気分だ。自由が利かなくなる。
王子が見守る中、部下が見守る中、無様を晒したくはない。
「フッ!」
太く大きく、猫の口より息の塊を吹いた。
白い毛並みが汗を撥水させる。バシャッと水面を叩くのと似た音。
おびただしい水気。隊長の制服。下では不愉快なほど毛皮を蒸された。
「フンッ!」
呼吸に気合いを込めるのは逆効果だ。
つい片目をつむり、痛みに面食らった。
なぜ、こうも痛む?
私に手抜かりはなかった。
記憶を反復するが理解できずにいた。
アスティナは不調の原因に思い至らない。
だが、差し迫る危険は急速に思考能力を削ぎ落とす。
荒い呼吸をしながら、塩水を地面へ点々と撒き散らした。
尿意。目がくらみ倒れてしまいそうな、猛烈な尿意がする。
バカな、ありえない。
この私が、用を足したいなど。
体調管理は万全であったはずだ。
アスティナは訓練を経て、二日間、用を足さない事にも抵抗がない。
素知らぬ顔をしながら、排泄物を体内に溜めたまま実戦すらも可能だ。
だが、剣を振るたび知覚する。下腹部の疼きはジンジンと太腿や胸元に迫る。
気持ち悪さが首を伝わり脳を痺れさせた。指先から股の間にかけて、むず痒い。
落ち着け、落ち着け、落ち着け、こんなものは、どうということもない
剣戟が響きあう決闘をはじめ、矢弾や魔法の飛び交う戦場を潜り抜けてきた
排泄に見向きもせず、意識もせず、心身を鋭敏に研ぎ澄ませてきたではないか
アスティナは自分を叱責していた。
自分が乗り越えた辛い経験を思い返す。
思えば思うほどに緊張が神経を走っていく。
尿道に熱。強引に抑え込んでいても決壊は目前。
足運びを行えば、括約筋が強張り、引きってしまう。
股関節の筋が硬直する。かすかにあげるだけでも傷んだ。
それでも王子の御前。期待を裏切るわけにはいかなかった。
どうして、なぜ、いったい、私に何が起きている
疑問を解消しようにも思考能力は激減し、体の舵取りもままならなかった。
尿意が限界まで迫っているのでなく、限界を超えているのだと肉体が吠える。
排泄をコントロールする勉強までしてきた。一般人とは比較にならない訓練の連続。
その成果が実りを結び、十年以上も限定的な排泄行為を経て、近衛隊長の任務をこなしてきた。
「んぅぅ、ふぅぅ…………んぅうふぅう…………」
気がつけばみっともなく息をあげ、悩ましく呼吸を漏らしていた。
武芸の心得のないものたちは、剣さばきに見惚れるが、近衛隊の反応は異なった。
敵対勢力である王弟グリムヴァルドにも、この無様な剣を観られてしまっている。
軽んじられるわけにはいかない。王子が取り仕切る近衛の催しが、こんな状態では攻め入る好機を与えるのと同じ。決して、敵に塩を送るものかとアスティナは気張っていた。
ぶわっ……と汗が流れ出す。
体中が重くなり、ひとたび気を抜けば、足をもつれさせ横転しかねない。
波。ざぁ、さわぁ、と膀胱内に起きる痛み。いますぐ服を脱ぎ捨て、締めつけているものを開放したかった。おもいっきり、小便を出し、スッキリした後に剣技を続けたい。
何をバカなことを!
芽生えた欲望。なんと浅ましい欲求。
沸き立つ稚心を、一喝の元に斬り伏せた。
私はアスティナ・イヴォニア。
ギャヴィン王子の護衛。剣術指南役にして。
王子の近衛隊、隊長。国王から王子を任された騎士!
私の体は私だけのものにあらず、弱音は許されぬのだ!
「ふぅう……んう…………」
どれだけ抑え込もうとも、生理現象はアスティナの意に逆らった。
ヒュン、ヒュン、と白銀が宙に舞いあがる度。膀胱が悲鳴をあげる。
膀胱は蠢く。生じた波が胃や腸の落ち着きを消し、気分を悪化させた。
「ふぅうぅ…………」
剣を振るいながら鼻をすすり、塩辛いものを両目から溢れさせる。
みっともない泣きっ面を晒しそうだ。五歳のときに押し留めた悔し涙の封が、解かれようとしていた。
「!?!?!!?」
踏み込み鋭い突きを繰り出した瞬間。
芯を通したように前方へ伸びあがる腕。
その動作に必要な踏み込み、隠し仰せない砂埃があがった。
突きを放つ姿勢はブレ、全体が歪み、滑稽なポーズに仕上がる。
大勢はそれに気がつかないものの、自分自身は誤魔化せなかった。
王子と王弟の前で、なんという失態だと恥じる暇も、アスティナにはない。
じわっ……
股間の毛が熱を帯びた。あたかも手にすくいあげた湯を、そこへ放ったような感覚。
考えたくない。意識しないようにも出来ない。鼻が汗を垂らす。目からは涙をこぼす。
下着が、濡れてしまっていた。びっしょりと汗を吸いあげながら、違う体液により、じわりと染みを広げている。
「!!?!?」
眉を寄せ、思わず両足を閉じかけた。
なんという恥さらしだ。それでも近衛の隊長か。
国王より重ね重ね、王子の手本となるよう命じられた。
それが人前で滑稽な剣を見せるばかりか、毛皮と下着に小水の染みをつくった。
鼻にプンプンと臭ってくる。生臭くて、べったりとしながらもさらりとした多量の汗。
刺激臭に朝食。夕餉の際に嗜んであろうワインの香りが混ざった、自分の排泄物だ。
わ、私は、なぜトイレを我慢しなくてはならないのか
これまで一度も、こんなことは、起きなかったはずなのに
足の裏が地を踏むたび、膀胱に振動が伝わる。
顔をしかめないよう心がけるが、自信はなかった。
膀胱に振動が通る度。びくり、と腰を不用意にひねってしまう。
茂みへ隠れる尿道から、ぴゅるり、と雫が飛び出してしまった。
括約筋を締めるほどに意識が股間へ向かう。頭が狂ってしまいそうだ。
む、無駄な力を入れすぎている
私は何をしているのかを思い出せ
王子の前。この催しを成功させる義務が
騎士たるものの、隊長としての責任がある
右腕を前へ翳し、左腕をゆるやかな動きで引いていく。
白銀の刃に映った自分の表情。目に入れると、弱っていた。
流れる汗。股間にばかり意識を集中させ、体はそこかしこが震えた。
水がほしい。体中の水分が体表に出ている。理由がわからなかった。
剣を左右に、上下に振るう。ついで敵の剣を絡め取るよう円を描いた。
深呼吸をするのも難しい。口を微かに開けば、より塩の味が濃くなった。
汗を吸いあげているシャツやパンツ。水に浸したように、べたりと張りつく。
股間部にパンツが食い込む。痛みが生じ、濡れた布と毛皮がズリズリとすれる。
どれだけ不愉快に思おうとも、中断は許されない。手抜かりは許されないと、何度も何度も自分に言い聞かせる。眉間が寄り、その凹凸にも水が染みてしまっているのだ。
こ、こんなところで小水など、あってはならない!
尖った歯を食いしばる。何かしていないと、いまにも溢れてしまいそうだ。
尿道の奥から制御不可能の強い力が、出口に流れ楽になろうと主張した。
隊長の様子が変だ。いったい何故にあそこまで汗をかいておられる。
湿り気を帯びる腕を振るう。両足を素早く運ばせ膀胱を刺激した。
剣技の一振り一振りが重くアスティアにのしかかっていた。
また近衛隊の列に乱れが起きる。こちらを見るためだ。
部下を動揺させてはならない。わかってはいるが。
「くっ……うう……」
膀胱が痛い。苦しい。
いま膝をつければ楽だろうと、おもってしまう。
顔を歪ませまいとするが、足は笑いはじめていた。
体の軸はとっくにブレていて、足運びは鈍くなった。
伸び切っていた背筋は緩み、背骨が曲がりはじめる。
「ハッ!」
声をあげ、周囲の空気を塗り替えた。
それを聞いた途端。部下たちは動揺を隠し、観客は感心する。
必死に尿意に耐えながらも、震える指で剣を握り続けていたが。
もはや、やっと。
剣を振るうどころか、構えるのさえ、やっとの有様。
いますぐに剣を投げ捨て、トイレを目指したくてならない。
全力全開で尿意をおしとどめ、膀胱の悲鳴に耐えながら目を瞑る。
わずか数秒。構えたまま立ち止まり、精神を集中させ、瞼を開いた。
強い尿意を一時ながら忘れ去る。軽く歩けば膀胱より血管や汗の重みに意識が向かっていった。
「ふ……うう……!」
かすかなる呻きをあげた。
体中に込められた余分な力が一気に抜け、下腹部の引き締まりも軽いものだ。
風がふけば火照った体を冷たく通り過ぎる。ようやく御披露目は終わりにさしかかる。
アスティナは瞑想状態。心を乱すものを捨て、緊張を解す。体に溜まったものを溢れさせないよう、耳や尾に至るすべてを脱力させていく。
水分だけでなく、体力や気力もごっそり地面に吸われた。
徐々に徐々にと終わりへ差し掛かり、剣技の流れは減った。
風が吹く。尻尾や耳に冷たさを呼び起こす。問題はなかった。
この場に在る全ての両目。その視線を一身に受け、剣を掲げる。
白銀の切っ先が地表から空へと、艶やかな軌跡を描き、終了となった。
あとは剣を下げ、鞘に収め幕を引く。ラストに騎士らしく一礼をするのみ。
プシュッ……
下着が、濡れてしまう。
おさえていたものが、制御しきれなくなった。
プシュッ……プシュッ…………プシュッ…………
自分の意志と関係なく放尿が始まろうとしていた。
大丈夫。まだ、ほんのすこしだけ。汗と誤魔化せる量。
布に水流が触れては、股間部を中心に汚れがひろがった。
もう駄目だと諦めかけ、それでも息を整えようとしていた。
なんとか刃をおろし、切っ先を鞘にあてようとしたときに。
「!!?!?」
ぶるっと身震いした。
全身のちからが、ほんの一瞬だけ、抜けてしまった。
水に石を放ったように、アスティナの顔に波紋が出来る。
体は忍耐を突破しようとする。死物狂いで押し留めたのに。
シィイイイイイィイィイイイイイイ!!!!
剣を握り締めたまま、不意に股間を両手で押さえつける。
白銀の家宝に黄色い小水が当たるたび、ガラスに雨粒が落ちたみたいに鳴った。
どよめきが起きる。何が起きているのか、部下たちは信じがたいと目を向ける。
「あっ……だめだ……そんな………………ありえ、ない……」
下着とズボンを貫通し、なお有り余る放水の勢い。
プシィイイイィィイィイイイイ!!
パタ、パタ、ポタポタ、パタポタタタタタタッ
布地を汚す音を部下や王族の前に、何よりギャヴィン王子の前で響かせる。
慌て、どれだけ筋力を使おうとも穴は半端にしか閉じず、温水を垂れ流した。
周囲はざわつき、近衛隊の列は乱れ、小便の量に比例しバラバラに散っていた。
シイィイイィイィイイプシィィイィィイ!
プッ、シィイィイィイイィイイイィィイイイイ!!
パタパタパタ、ポタポタ、パタパタパタと。
白銀の家宝に黄色い恥を浴びせ辱めてしまう。
パタパタ、パタパタタタタ、ポタポタ、パタ。
ひねった蛇口の下に、トタン板を添えたようだ。
部下の視線を一身に受け歯噛みする暇さえなかった。
小便を止めないと、隠れないと、隠さないと、そればかりだ。
しかし体中から水分が抜け出していき、小便が流れ落ちる開放感。
「あぁ……」
シィイイイイィイイイイイイイ~~~~!
うっとりとした笑みを浮かべてしまう。張り詰めていた体が和らぐ。
ほんの十秒の間だけ、浮かんでしまった笑顔。ホッとした雰囲気。
いつもの隊長ではない。あんな姿を隊長がするなんて。狂ったのか。
ポタポタ、ポタポタポタ、ポタ、ポタ
布地から飛び出す雫。楽器さながらに鳴る刃。
王子と視線があう。唖然として、感情を失い魂が抜けてしまっている。
失望したもの。現実を否定するもの。乾いたような笑みを浮かべるもの。
あらゆる表情がこちらへ向けられるが、観察する余裕はなかった。
ただ、羞恥心が全身を焦がす。風が吹き、体が冷えていく。
太腿がびしょびしょになるのを眺められる。
ぼたぼた、ぼたぼたと水溜まりが跳ねた。
シィイィイイィイィイィイィイイイイィイィ!!!
尿が垂れる。止め処なく垂れていく。
放尿の悦楽から覚め、現実
「これは一体どういうことだっ」
「何をしているんだ!」
「これが近衛隊か!」
「ギャヴィン王子様の前で、粗相がすぎる!」
「王弟グリムヴァルド様の前でなんと無礼な!」
名のある臣下たちが大勢に騒ぎ出す。王子の反応は、わずかもなかった。
そんな中、グリムヴァルドは熊の大きな頭に手をやり首を振り、呆れ返っていた。
「こ、これは、その、これは、その、その…………」
気がつけば腰を下げ、前かがみになっていた。
両手で小便だらけの布地を握りしめ、誇り高き制服を穢す。
プシュィィイイイィイィィイイ!! びちゃびちゃ、ビタタタタタ……!
濡れ広がった下着。制服の下腹部に至るまでに染みがついた。
「大丈夫ですか、あの、隊長? 何かの、作戦ですよね?」
最寄りの近衛がいてもたってもいられずに、声をかけたのだろう。
しかし、アスティナは前かがみで、震えながら小便を漏らすだけだ。
「あ、あの……これは、これは……これは…………」
アスティナは何とか平静を保とうとしたが、肉体は制御が効かない。
放水に不名誉な時間は継続される。全員の目の前で失禁してしまった。
後世へ語り継がれるような笑い話だ。恥晒しなんてものではなく、今後も危うい。
白い体が身震いする。ブシィィイ、と尿の噴出がさらに強まり、背筋を丸めていた。
トイレで用を足す動物のようではないかと、だれかが言った。それを口火に場は静まり返る。
シイィイイイイイィィイイイィイイイィィイイイ!!
ポタポタポタポタ、ポタポタポタ、ぼちゃぼちゃぼちゃちゃちゃ!!
尻まで濡れていく。ズボンで濡れていないところを探すのが難しくなった。
腹回りどころか背中に至るまでが、このアンモニア臭を吸水していった。
周囲は一瞬の静寂に包まれた後。くすくすと笑い声が広がり始めた。
アスティナの顔は青ざめ、汗と尿。心は屈辱で満たされてしまう。
足元の水溜まりは尋常ではなく、バケツ一杯をひっくり返したようだ。
ブーツの内側も小便に満たされ、微かに動くとジャポジャポと空気と混ざり、湯気が立っていく。
あ、ははははは!
アスティナは黄色い洪水をズボンから、まだ溢れる。
シイィイイイイィイィイイィイイイイィイィイ!!
「見苦しい! 消え失せろ!」
「こんな小娘が隊長とは不適任だ!」
「何をしている、下がれと言われただろう!」
身分ある者たちに騒がれては、どうしようもない。
普段ならば反論も出来るが、いま出来るのは小便を漏らすだけだった。
シイィイイイィイィイイイイ!!!
どれだけ冷静沈着に物事を運んできた才女でも、羞恥にまみれては思考も空回り。
ただちに場を離れ、泣きじゃくる顔をうつむかせ、遠ざかる。一礼するのも忘れた。
小便が止まっても震えは止まらず。軽くなった股間が屈辱を増やす手伝いをしていた。
汗を流しすぎているせいなのか、体がフラフラとして、頭が痛い。何もわからない。
通路をすれ違う度に人目を引き、足跡をつくり水滴を撒き散らす。
この日を最後に、アスティナの名声は地に落ちるのだった。
[newpage]
ギャヴィン王子と、近衛隊の威信にかけた演習。
それは隊長アスティナの失禁により、最悪の形で中断となった。
その夜、アスティナは部屋の窓から外を見つめながら、深い苦悩に沈んでいた。
「なぜ、どうして……こんなの、ありえない…………私が、漏らすだなんて」
入浴の支度をしてもらい体を清めた。
何かの間違いだと自分に言い聞かせながら、馴染みのメイドに始末を頼んだ。
小便だらけの、汗まみれの、重々しく生臭いブラジャーにパンツ。隊長の制服。
目を丸くし薬品でもぶちまけられたのか、魔法によるものか、それとも何かモンスターに襲われたのかと心配された。身勝手な嘘をつくのは恥であるのが信条のアスティナは顔馴染みに嘘をつけず、誤魔化せもせず、消え入るような声で頼んだ。
「頼む……聞かないでくれ…………詮索はやめてほしい」
体を一刻も早く清めなくてはならない。
次期当主の名折れでは済まない不祥事を起こしてしまった。
逃げるように風呂場に駆け込む。屋敷にも尿のあとを作っている。
もう、ここに住むもの、仕えているもの、すべての耳に届いたはず。
アスティナが演習中に小便を漏らし、下がるよう命じられた。
浴槽を前に、タイルを踏んだ瞬間に腰が砕けてしまった。
体力が以上に消耗されているだけでなく、精神も折れていたのだ。
真っ白な毛皮。頭から足の爪先。尻尾の先までもが白磁の陶器のよう。
いまは汗で所々が束なり、両耳の内側と、鼻の先は充血により赤かった。
体を洗っている最中。しゃがんだまま、小便をタイルに撒き散らしていた。
シイィイイイィイィイ!!
身を震わせ、おしっこを堪えきれなかった女児のように身を竦ませての失禁。
ただ股間周りに石鹸を泡立て、磨いている最中であったのに、尿が泡の一部を流してしまう。
「やめろ……どうして……なぜこんな」
言葉が全く出てこない。恥ずかしすぎて、脳は沸騰している。
焦った心臓は強く激しく脈を打ち、体中の血管が膨張しっぱなし。
プシュィィイウゥウゥゥイィィイイイイイ~~~~!!
貴族の屋敷なだけあって、アスティナの使う浴場は広々としている。
だが構造的に音の響きがよいのは、一般的な浴室と共通していた。
この尿の弾ける勢いある音色。羞恥のリズムが外にも広がった。
換気のため開けられた小窓。扉越しに控えるものの気配……。
聞かれた。側仕えのメイドに、庭仕事をしている使用人に。
「よ、よせ……私を辱めるな…………」
目を閉じ、石鹸を股間部にあてがうものの、泡の刺激に身震いしてしまう。
「ううぅ……!」
先程より頭が落ち着いているからこそ、演習での失態を深く恥じ入ってしまう。
制服を着たまま、失禁した。剣技を披露した直前。家宝の剣まで、尿びたしだ。
イヴォニア家の先祖たちに顔向け出来ない。どう足掻こうと申し開き出来やしない。
プシィイィイイィイイイイイイイイ!!
尿道から、黄色い線がすっ飛んでいくように通り抜けていった。
排泄をはじめた後になって、神経が排尿の準備を整え体を弛緩させる。
興奮状態の頭がリラックスして、手足から不要な力が抜け、安堵感が込み上げた。
「違う、こんなもの……望んでなど……求めてなど…………王子……おゆるしください」
ぶるっ、ぶるっ、ぶるぶるっ!
懺悔をしながらの痙攣。
排尿が止まり、尿臭いタイルが湯気をあげているのが目に留まった。
石鹸の泡が混ざっている。黄色い流れが、むんむん、と獣臭さを漂わせていた。
「あぁ……あぁぁ……そんな……」
手を輝かせ、魔法による癒やしを試みた。
しかし、どの魔法を使っても反応がなかった。
解毒や解呪を始め、体を癒やすもの全てを試す。
だが、どれも空振り。体の不調。何かの異常だ。
「陛下に……どう、お詫びしたら」
顔中に石鹸の泡を、手についた小便を塗りたくるようにして握りしめる。
小便を漏らしてしまった。剣技を見せている最中、名剣をふるいながらの失禁劇。
末代までの恥ではないか。こんなことが許されるわけがない、死んでしまいたい。
あの場に居合わせたものの嘲弄が耳から離れない。何度も反復しては胸が重くなった。
自分の名誉。これまで築いてきたすべてが、あの一瞬で崩れ去ったように感じられた。
時間に換算すれば、ほんの数分。近衛の実力を誇示する大事な見せ場。政略的にも重要視される一大イベント。
シイィイイィイイイィイイィイイ!
あの音を思い出す。気が滅入る。
しゃがんでいるだけで、出してしまいそうだ。
体中から汗をしたたらせ、排泄液が身に絡む感触。
耳を潰すみたいに頭を掴み、顔をくしゃくしゃにした。
ひそひそ声を背に受けながら、妙な目をむけられながら自室に入る。
湯上がりのバスローブ姿。股間がむず痒く、体中がまた汗を流しだす。
メイドに頼み水を運んでもらった。大量に呑んでも、喉の渇きが癒えない。
「アスティナ様? あの、ご加減が優れないのでしょうか?」
そう顔を覗き込まれるが、妙な気配を放たれている気がしてならなかった。
彼女は自分と同じ猫。すこし茶色っぽい年上。気分が優れないから、彼女を疑っているのだと騎士の精神にのっとって自らを恥じる。今日は自分を恥じてばかりだと一層の自責を加え、身が泥沼に沈んでしまいそうだ。
「大丈夫だ……ありがとう。今日はその、色々と申し訳ない」
メイドは何も言わず、会釈をして立ち去った。
ごく……ごく……ごく……ごく…………
水差しからグラスに、何度も注いでは呑み干す。
こんな経験は今までにない。漏らしてしまう不安感から、呑む手が止まり、耐えきれずに一気飲みを何度もやった。
やがて水を呑む気力もなくなる。最初は王子の政局を考える時間さえ持てず、これは夢。悪い夢に違いないと、何度も現実逃避に走っては切迫した尿意に苛まされ、急ぎ自室のトイレに駆け込む。
ピシィイィィイイイイィイィ!!
白磁の陶器に、真っ黄色の体液を噴出させる。
一日に排尿をしなくても過ごせるよう訓練を重ねてきた。
文字通り粗相をしてしまうなど、絶対にありえるわけがない。
ピィイィィイィイシイィィイイ!!
水が弾け、自分自身にすっ飛んでくる。信じられない速度だ。
アンモニア臭だけではない。濁った感じの異臭が混ざり、苦しい。
排尿をすると気が紛れて、体が休まる。不自然が極まりない状態だ。
普段よりも汗をかく。座っているだけでもパンツやブラジャーが湿る。
段々と調子は落ち着き、ときおりに堪えきれない尿意が起こるに留まった。
しかし、近衛隊の晴れ舞台。王子の政治的な力を示す、絶好の機会のはずが。
イヴォニア家の名を穢し、自分自身の名声を地に貶めた。異国を見習い割腹してしまいたくなる。
尿が止まり、便器を見下ろすと異様な程に色づいていた。
こんな臭いものを、こんな穢れを、制服に染みつかせていた。
自分に従ってくれる部下と、陛下に任された王子の御前で。
「尿を……こんなに、出してしまった…………もらして、しまった…………」
決して、手抜かりはないのだと太鼓判を押した自分の愚かさ。
あの王子の笑顔を裏切った。威厳を知らしめるはずであったのに、王子と陛下の名に傷をつけた。面子や評判に厳しい世界の中、責任のとりようがない事態となった。
「く、うぅう……」
口を噛み、すすり泣いた。
顔をしわくちゃにして泣く。恥さらしだ。
これでは本当に小便垂れの小娘ではないか。
呼びつけた医者に診てもらうが、原因は不明だった。
そんなバカな。絶対にありえないと焦り、取り乱した。
私は正常なはず。これまで、こんなことは一度もなかった。
もっと見てくれと医者を困らせたが、尿意に負けトイレに行く。
すべてを出し切った後。メイドに彼は血相を変え帰ったと聞いた。
「私に異常がない? そんなわけが、そんなわけが」
窓ガラスを見つめる。
灰色の瞳は潤み血色が悪くなっていた。
外は曇り、雨がポツポツと降り注いでいる。
部屋の空気は自然と湿気りを帯び、尿が臭う。
「やめろ、こんなときに雨など……」
水の音を聞くたび、精神が追い詰められる。
窓ガラス。屋根などに触れた音が聞こえるたび。
白銀の刃に、黄色い恥をぶつけた音をおもいだす。
壁にかけたアフィラートの輝きに嘲弄が混じっていた。
「違う……私は、小娘などではない……」
しかし、事実は事実。否定しても意味はない。
ベッドに腰掛け太腿の上で両手をあわせる。
気疲れと消耗からか背筋は曲がっていた。
「………………王子……もうしわけありません」
近衛の隊長を解任されるのは、もはや避けようがなかった。
反対勢力や奸臣が、ここぞとばかりに上奏し罰を訴えるはず。
自分の流した無様により、イヴォニア家の親類にも危害がおよぶ。
体中から水分を流しているせいか、熱の治りかけみたいに、だるい。
ベッドに腰掛けたまま倒れ込む。尿道に、ズキズキと刺激が残っている。
「………………」
マッチの火を近くにあてられているような。熱くて、嫌な感覚を気にする余裕すらなくなっていた。
「………………」
寝る以外に出来ることはない。ドアを叩かれるが無視をした。
これから行動しても、何も起こりはしない。どうもできはしない。
明日には罰の知らせが届くはず、頭をさげ受け入れる以外になかった。
疲れた、苦しい、嘘だ、そればかり考える。咎める声が聞こえた。
慰めの言葉は期待できない。糾弾する以外のものは何一つ。
「………………」
やがてアスティナは入眠する。下着姿の情けのない格好だった。
ほぼ気絶。張り詰めた糸へ刃を当てたような、ぷっつりとした感覚。
寝息をあげ、起きればすべてが霧散するのではないか、そう期待した。
[newpage]
「ん」
アスティナは目覚める。
当然ながら期待の通りにはいかず、顔をしかめての起床となった。
身じろぐ。小鳥の鳴き声を目覚ましに、ざわついた屋敷の空気を吸う。
嫌な夢でも見ていたのだろうか、また体中が汗ばみ、じっとりしていた。
ベッドの上で夢現。いっときながら悪夢から遠ざかり、休むことが出来た。
「また……どうしてこんなに嫌な汗を流してしまうのか」
訓練や稽古の最中に流れるものは、ああも晴れ晴れとしたものなのに。
目覚めの深呼吸をするが、毛がベタベタとして、肌に不快感が生じている。
「ん……」
不意に、すんすん、と鼻を動かす。眉を寄せる。
アンモニア臭。それも饐えた体臭が混ざったもの。
演習のときに嗅いだのと、ほぼ同等の濃さ。顔をしかめた。
悪夢のあまり、ついに感覚が錯覚を起こしているらしかった。
嫌になる。身を起こし、自分を見下ろし、さぁっと青ざめる。
「………………!?!?」
目をしばたかせる。
最初は寝汗。そう寝汗だと信じていた。
涙がじわっと目の端にまで、満ちてしまう。
「う、う、嘘だ……私が、おねしょ、おねしょなんて、ありえない……」
自分の口が嫌になってくる。自分自身を嫌いになっていく。
昨日から言っていることに変化がなく、逃れられない状況が続いていた。
下半身。膝にまで面積が届き、奇妙な図形をつくりあげてしまっている。
背中や尻尾を汚し、べっちゃり、とした感触。布団や毛布が水を含んだ綿のよう。
巨大な綿に小便を吸わせ、そこに腰掛けていたら、間違いなくこうなる。いま自分はそれに身を預けているのだ。
「く、くぅぅ……なぜ、この私が、そんなことを…………」
そんなもの想像もしたことがなかった。いま、それを想像する自分に嫌悪した。
黒っぽくなったパンツ。布団や毛布。黄色くなった毛並み。イヴォニア家に伝わる縁起のよい純白の毛が、恥辱の色に塗り替わっていた。
「う……うぅう………………」
鼻が痛む。
すごい粗相をした。
また、やってしまった。
湯気は少しも出ていない。そのくせ異臭は出っ放し。
すっかりパンツや布団に吸いあげられ、跡がついていた。
指で触れると冷たい。何時間も前に、出してしまったもの。
おねしょをした。この歳で、この近衛隊長に選ばれた次期当主が。
「おはようございます、アスティナ様」
ビクッとした。
口を開ける。言い訳を、言い訳をしなければ。
「昨夜は雨でしたが、本日はよい天気ですよ」
そう微笑まれるが……目の奥に澱みを見た。
彼女は視線を外している。含みを感じられた。
身を硬直させる。一礼する彼女を凝視していた。
不安感に総毛立つ。生まれてこの方にない経験だ。
合い鍵を持つ顔馴染みのメイドが、様子を窺いに来たのであった。
どこか好奇心と、邪な感覚が混じっているのは、見間違いではない。
「あの……昨日のは何かの間違いですよね? アスティナ様が、漏らしたなど……」
彼女は何かを心配している。それだけは見当違いではなかった。
はじめて、失禁してから思いやられている。そうアスティナはおもう。
メイドは顔をしかめ、鼻をつまむ。この尿臭を嗅がれてしまい耳を下げた。
顔を朱色にする。まるきり、夜尿症の女児が、自らの失態を苦悩する様子だ。
「あぁ……漏らしたんですね……すごく、盛大に、ベッドをよごして」
冷たい声をあげられる。蔑みばかりのこもった、嫌な口調だった。
普段から親しく接してくれた給仕。彼女は、ゴミを見るような目をする。
露骨なほどに鼻をつまみ、やっていられないとばかりに汚れを見つめた。
いや、見下ろしていた。自分より弱く劣っている相手を唾棄するみたいに。
言葉をかけられず、慰めるでも戸惑うでもなく、無言で蔑まされてしまった。
「これは、どういうことですか?」
詰問じみた口調……小便を漏らしたショック、昨日の今日で冷静さを欠き言葉を出せずにいた。上手く言い訳を出来たら、そんな考えまで頭に生じ、口をパクパクとさせる。
「これは、どういうことですか?」
横柄なまでに不機嫌な態度。ハァァ、と不快さを隠さない溜め息を添えられる。
口先を震えさせる。認めたくない。なぜ小水を溢れさせ、ベッドを汚しているのか。
「も……もら、もらしてしまって……」
「どうして? おしっこも我慢できないんですか」
声が詰まる。
というより息が詰まった。
喉を握られた心持ちだった。
「すまない……昨日から調子が、優れない」
消え入るような呟き。
「寝る前に、しなかったんですか? 答えてくださいよ」
「した。したはずだ……」
またしても溜め息をつかれた。
やっていられない。信じられない。そう顔に手をつけた。
主人に対しする態度ではない。それを咎める口はなかった。
普段ならば動じない他人の不機嫌な対応が、身を萎縮させる。
心の器がひび割れて、自信と一緒に小便が流れていくようだった。
「それでは掃除の支度を調えてきますので、待っていてください」
彼女は言って立ち去る。
体を水浸しに、泣きじゃくるのを堪えた。
臭い。冷たさ。不快感が半端ではなかった。
待てども、待てども、彼女は戻ってきてくれない。
やがて一時間が経過する。やむを得ず自分で身を拭く。
彼女に何かあったのではないかと、廊下に出て探しはじめる。
「………………」
目についた使用人に歩みより、口を開こうとしたのだが。
声をかけようとするや、顔をそむけ足早に去られてしまった。
明らかにひとから避けられていた。また一族の者に怒鳴られた。
こちらの預かり知らぬことを散々に喚き、拳を振るいあげている。
アスティナは知らん顔。だが、漏らしたことを言われると胸が痛む。
よくも小便を盛らせたものだと、大声で叫ばれた。苦痛に苛まれる。
やがてメイドを見つけて、歩み寄ると不機嫌。というより嫌悪感がありありと浮かんでいた。
「何かあったのではないかと思って探していた」
声をかけると、間が起きる。
彼女は立ち止まると、大仰に溜め息をついた。
それは勢力争いをする連中が、よくする所作と同じ。
「アスティナ様……どうやら噂よりも、鈍いのですね」
「何を言っている?」
「メイドでも知っているのですよ。イヴォニア家に、おしめの必要な御令嬢に居場所はないと……あなたは、漏らしてしまったのと同時に地の底にまで、足を踏み外してしまったのです」
昨日の失態。今朝の失態。あらゆる尿にまつわる出来事が脳裏にひらめき、頬が熱くなった。それ以上に目頭が熱くなる。彼女のことはよく知っていて、昔なじみのはず。それが一夜にして、ここまで冷たくなるものなのか。
「ご理解いただけましたか。取り入る相手を選ばねば、メイドも誹りを受けます。小便の世話をしているのかと、嫌味を言われるのも、これから降格処分を受ける主人の元で働いていては給金や立場にも関わります……あなたも私も、今後の身の振り方を考えねば」
アスティナはやらるせなくなった。
彼女を親しい相手だと、認めていた。
「なぜ私を侮辱する。そこまで言われる謂れなど」
「仕事がありますので、ご無礼いたします」
言って背を向けられた。
見切りをつけられたのだ。
生まれて初めて、アスティナは知った。
自分の置かれている環境の冷たさを覚えた。
咲き誇る花畑のように華やかに見えるが、実際は違う。
その花の蜜を貪り喰らい、枯れたら別の花に飛び移る蟲。
いま、アスティナは自分の価値を喪失したのだと気づいた。
あいつは終わりだ
大勢の前で小便を漏らした
今日は処分がくだされるだろう
ほかの使用人たちも、似たりよったりの反応を示して、嘲った。
視線をあわさぬよう顔をそむけ、そそくさと立ち去っていく。
気がつけば自分ひとり。側に誰ひとりとして寄りつかない。
廊下に佇む格好になってしまっている。実に滑稽な姿だ。
「そんなに……私は至らないというのか……そこまで、せずともよいではないか」
悔しさ。悲しさ。一度に押し寄せてくる感情を処理できない。
ぶるぶる肩を震わせた。両手が拳を握る。体中が硬直した。
「笑顔も何もかも……たった一夜で消えるものか……愛想を振りまいていたのも、所詮は媚びだったとでもいうのか…………」
側にいたところでプラスにはならないと、損得勘定を優先された。
忠義を尽くしてくれと思ったことはなかった。しかし、酷い仕打ちだ。
彼女だけに留まらなかった。給仕も執事も、雑用係でさえ鼻で嘲笑った。
これまで持て囃して、おべっかを使っていた。だから離れるのに躊躇がない。
給仕のもの言いや態度も、ただただ、自分を辱めるために用いられたのだろう。
罰せるものなら罰してみろ。
歪んだ瞳が語っていた。
わかって言っている。
罰せられないと。
弱者に手を差し伸べ、不義に剣を振り下ろす
それが家訓である。破ったことは一度もなかった。
イヴォニア家を体現する生き方しか、アスティナは知らない。
いくら無礼を働かれたとしても、鞭を持ちあわせていなかった。
このおもらし令嬢は、絶対に罰をくださない。
いやな信頼があったものだ。
余計に虚しくなる。両親からも見放され、消えるよう怒鳴られた。
とりつく島もないまま、アスティナは王子から降格処分の報告を受ける。
指南役の任も解かれイヴォニア家の名を地に貶めたと、勘当だと叫ばれた。
その昔に栄え、いまや見る影もない王都より離れた山岳地帯への左遷される。
言ってしまえば、簡単なこと。
追放処分を受けた。
ただ一度の過ちにより、アスティナは存在を根底から否定され、なじられるまでに落魄れてしまった。
こうしている間にも、何度もトイレに駆け込み、便器に飛沫をあげていた。
どうにもならない惨めさ。価値がないと下されれば打ち捨てられる無情。
自分が誇り高いと信じていた家柄も、積み重ねてきた名声も、無意味。
何のために稽古の道を歩んできたのか、自己の存在意義が揺らいだ。
「私は……もらした……その一度の失敗で、こうも蔑まされるのか」
何か異変があるはずだと、親にも身内にも訴えかけた。
だとしても、大舞台で漏らしたおまえの席はなくなった。
時期当主の座も剥奪される。
家からも、捨てられてしまった。
出立の際も見送りはひとりもない。
剣を置いていけとさえ、吠えられてしまった。
「これは私が当主から勝ち得たもの……望むのであれば、奪い取ればよろしかろう」
怒りのあまり柄を握ったのは、初めてのこと。
威嚇すれば、すぐに牙をもがれたように離れられた。
こんな腰抜けたちと、暮らしていたのかと反吐が出る。
小便を漏らさなければ気づけなかった。なんという皮肉か。
やがて最低限の荷物を持ち、憲兵の制服を身にまとった。
屋敷を出る際は振り向きたいとも、おもえない。
一族は猫の手も借りたいと地位の立て直しに尽力。
使用人たちは平常時の振る舞い、アスティナを無視。
誉れ高き血筋に生まれたことを神に感謝し敬ってきた。
この家名を持つものたちに、温かな血は通っていなかった。
[newpage]
時刻は遡る。
カティアは訝しんだ。
絶対に普通ではなかった。確信を持って、仕組まれた出来事だと断言できる。
「証拠はないけど、ま~ちがいなく! アスティナは貶められた。あんな酷い方法をよく思いつくものだわ……人前でおしっこさせるなんて、残虐非道!」
シャァァ! と毛を膨らませ前屈みになり、両手の爪を伸ばし牙を剥く。
どこかにいるはずの犯人に目掛けての宣戦布告。首を洗って待っていろと息巻いたのであった。
「シャアアア! でも、あれでアスティナの地位をはじめ、信用、信頼、これまでの全てが崩れ去ったのは間違いないわ。おしっこひとつで、あのイヴォニア家の令嬢アスティナを、こうも辱めるなんて……考えたやつは絶対に変人だわ
うぅん、腕を組み、片手を顎下に添える。
あんなにバカげた計画であるのに、効果的なのが腹立たしい。
とはいえ、計画の全貌が伺えない。
誠に気味の悪く、手が出しづらかった。
目撃者などの情報を集めカティアも調査しているのだが。
せいぜい、イヴァリスと廊下で話していたといった推測のみ。
魔法を使えば近くにいる手練れが察する。警報が鳴りかねない。
「その前に、アスティナが先制攻撃を仕掛けるなり、反撃するなりしていたでしょう。ねえ王子?」
「う……うん……アスティナなら、きっと、そう、するよね」
ショックのあまり熱でも出したのだろうか。
王子の反応はイマイチで体温が上昇した。
「王子。お加減は大丈夫?」
「うん……平気だけど、緊張がおさまらない」
「あとでハーブティーを淹れてさしあげますね。話を戻しますが、うーん。何もされていないっぽいのよね~」
屋敷内でも不審な点はなく、
「もしも陛下の御前であったら命がいくつあっても足らないわ」
あの剣が服を着ているように実直かつ硬派なアスティナが、漏らしてしまった。
それも盛大に。バケツをひっくり返したみたいな尿を、ブシュブシュと失禁した。
汗に続き大量の尿! 数人分の小便を一度に集めたような小水が臭気と共に溢れた。
「ありえないわよね、王子。あんなにおしっこ出すなんて……病気じゃなかったら敵対勢力の仕業に違いないのよ」
「うん……そうだとおもう……あんなに、いっぱい、おしっこして……アスティナが震えて……僕は、どうしたらいいか、わからなくて」
「よしよし、大丈夫ですよ……致死量の毒とか呪いじゃないですから、アスティナは無事ですから、ぜったーいに立て直せます」
カティアは王子の腰掛けた椅子の背に止まる。
その背もたれに身を乗せ、乳房と両手で頭をわしゃわしゃと可愛がった。
硬直しているらしい王子の反応は鈍いが、身をぎゅうっと縮こまらせている。
「やっぱり、居合わせたグリムヴァルドの仕業よ。あいつ以上に拡大したがっている勢力はないもの……でも、それにしては反応が呆れていて……演技でもなかったし」
カティアは友人が小便を流している最中。
敵の姦計を疑い、周囲を注意深く観察した。
だれもがかれもが呆れ、バカにし、嘲笑い出す。
グリムヴァルドの反応は……とても白けていた。
「すごく溜め息をついていたというか……軍人気取りの鎧熊なら、もっと喜んで、勝利に酔っちゃいそうなもんなのに、へん」
彼はタカ派であり、国王の座を現在も狙っていた。
戦いによる勝利こそが全ての解決策と信じ切っている。
だから、隣国との和平よりも強硬手段に訴えたいのだ。
だが隣国とて弱小国ではない。戦えば無傷では済まない。
長引けば長引くほどに損をするし、交易も途絶えかねない。
美味しいごはん。のんびりした就寝。
それらが危ぶまれるなら、カティアは断固反対の立場だ。
「アスティナが……アスティナが……あんなふう、に」
声が上ずっているのは、彼女が側からいなくなってしまう不安からと思った。
耳を撫で頬を揉み、元気づけようとするが効果がない。どこか上の空になっている。
「証拠さえつかめれば……うーん、どうして、あんなに漏らしてしまったのか?」
「う、うん……ビシャーって、プシィィイって、あ、あんなにもらしちゃってたよ」
アスティナの剣技が時間経過によって乱れていった辺り。
少々ながら武芸の心得を持つカティアは、内心で眉を顰めた。
手抜かりはないと、胸をそらさんばかりだったのに動きが鈍い。
最低限の力加減。風や水が流れるような剣さばきが、カクついた。
あれ? どうしたのよ、アスティナ
剣があんなにブレブレのへっぴり腰なんて
あなたらしくない……変なものでも食べたの?
まったくもって彼女らしからぬ不具合。
武芸の心得がないもの、浅いものは気づきもしなかった。
近衛隊は動揺を隠しているが、隊長らしくはないと目を疑っていた。
まったくもう手抜かりはないんじゃなかったの?
自分の体調が悪いなら、副隊長へ任命すればいいのに
副隊長が成し遂げたなら、全員の印象もよくなるのにね
あなたのそういう真面目なところ、損してるとおもうわよ
ひとを頼らず全部を自分でやろうとするのは、彼女の悪いところ。
冷静沈着かつ表情の変わらない態度が、ひとを誤解させ敵もつくってきた。
白銀の名剣が風を斬り裂く。ステップに汗の飛沫が混じり、臭いが届きそう。
以前にも増して迫力があると錯覚したのか、王子は息を呑む。溜め息までした。
「いったい、あれはどういうものだったのでしょう? 呪い? それとも毒?」
カティアは「むぅう~」と額に肉球を当てる。
あのときに眺めていた光景を思い起こし、推理しようとするが。
「さっぱりわかりません! 王子はわかりましたか?」
王子の部屋でふたりきり。
彼はといえば椅子に腰掛け前屈み。たまに身動いだ。
カティアは席に腰掛けた王子の後ろを右に左に歩き回る。
王子から数メートルの距離を保って、右に左に進み続けた。
「………………わからない。わからにゃい。まったく、なんにも、さっぱり」
アスティナの尋常ならざる様子を頭に反復する。可哀想な顔だった。
体調不良を隠しているのだと思っていたが、汗を異常に垂らしている。
毒を盛られてあのではないか、刺客に襲われ怪我でもしているのではないか。
いろいろとミスがあったのを見守り、最後の一振りが終了したとき息をついた。
もう大丈夫よね。そうカティアが確信を抱きかけた瞬間――アスティナが漏らす。
普段から表情を変えない白猫が、慌てふためき前かがみになり、身を引き痙攣した。
何かのパフォーマンスかサプライズなの? そう勘ぐる。
ただただ失禁しているのだと気づくまで時間は必要なかった。
「プシィイィイィイィイイィ! ポタポタポタ、パタパタパタ、ズボンから一気に尿が飛び出して、あのイヴォニア家の家宝のひとつにぶっかかっちゃった、うーん」
ビクッ、と王子は身を震わせる。
あの光景を思い出させてしまったようで、自分の迂闊さに眉を寄せた。
「大丈夫よ、大丈夫。大丈夫ですよ。彼女はあんなくらいで、へこたれたりしないから」
とはいえ自信はない。懸念がある。
アスティナは気位が高く実力も高い。
幼い頃から褒め千切られて生きてきた。
蔑まされる気持ち、悔しい気持ちと無縁。
いまアスティナはどん底。奈落にいるのだ。
果たして、浮きあがってこられるのかどうか。
「あ、きましたきました」
コンコンと窓をノックする小鳥。手のひらサイズで、実に小さかった。
どこにでもいる雀のような外見だが、目を凝らすと額部分に金具がある。
窓を開けると、首の部分がパッカリと開き、丸まったメモ用紙が飛び出す。
「にゃんとにゃんと」
カティアは黒い尻尾をピンと伸ばす。口調はそのままに、オーバーリアクションに目を開いてみせた。
「演習に居合わせたものたちはイヴォニア家の失脚にあわせ、行動すると。ほかの貴族や王族も勢力図を塗り替えられる好機ではないかと、行動を始めたそうです。アスティナの降格やイヴォニア家の体制などについて上奏し、イヴォニア家や王子のことに口出し横槍するつもり、にゃんとにゃんと」
小鳥を手のひらに載せ、ひろげたメモ用紙を王子の前にひろげておいた。
彼は反応は薄いが、今後どうすればよいのかを、ある程度は見通している。
「……アスティナは憲兵に降格。僕の剣術指南役も取り下げ。遠方に左遷するよ」
「にゃんと、そう言いたいけど仕方ないわよね。うんうん、にゃんにゃん、つらいわよねギャヴィン、お姉ちゃんの胸で泣いていいわよ」
「泣かないよ……」
ギャヴィン王子は余程にショックだったのか、うつむき、目を充血させている。
額に手を当てると嫌に熱い。変な汗をかいているし、落ち着きがなかった。
膝をすりあわせたり、手をこすりあわせたり、顔があうと目を泳がせる。
まだ十歳になりたての少年だ。とても平静でいられるわけがなかった。
全幅の信頼を寄せた部下。名家の令嬢。近衛の隊長。剣術指南役。
そんなアスティナが地位を追われる。王子派の勢いが零落れる。
今後が危ういのだと、王子の心境をカティアは存じていた。
[newpage]
アスティナの一族追放。降格処分から三日後。
すぐに会っては不味いからと、日を跨いでいた。
深夜の王宮、隠された一室が静かにその扉を開く。
通り抜けたのは一人の男、イヴァリスだ。本棚の裏側に、隠し部屋があった。
とはいえ、隠されていたのは大昔。何度も開閉した痕跡があり、蝶番が緩いのは確認済み。新鮮な料理の香りと、古い香りが入り混じっていて、召し使いの出入りも頻繁にあるのは明白。隠されていない隠し部屋とは、恐れ入った。
「隠し部屋がこうも開放されていては、隠す意味もないというか」
つくづく鎧熊は隠し事が出来ない性分らしい。狡猾さが足りていなかった。
これではどれだけ自分が姦計を練ろうとも、うっかり口を滑らせかねない。
「それはそれで、楽しそうですけどね」
シュルっと舌を覗かせ、スリルにゾクゾクと自分自身を抱きしめた。
傭兵の頃から、いつ自分が果てるともしれない興奮に身を任せてきた。
ひとを騙したり、撹乱したりが大好きであるから、王宮の面倒事に身を滑り込ませることを決めた。案の定というか、傭兵あがりの自分をマークする者は少ない。せいぜいアスティナと彼女の信頼が置かれた部下くらいのものだが、決定的な間違いを犯していた。
イヴァリスは傭兵である。しかし、別に戦闘が好きでも得意でもなかった。
ずる賢く立ち回り、これまでにあげてきた戦果も地味なものばかり。
徹底して裏方のサポートに回り、目立たず影を這いずっていた。
「まあ私の戦い方を知られていては商売あがったりなので、知られないようにしていましたけどね」
暗黒の廊下。石造りの冷えた空間。
その向こうは明るさに満ちて、目が眩みそうだ。
「なんとまあ豪華な。いるだけで鱗が痒くなりますよ」
部屋は豪奢な装飾で飾られ、重厚な赤と金のタペストリーが壁に掛けられている。灯りは柔らかく、影を作り出し、部屋にある芸術品を神秘的なヴェールに覆う。大理石の床には、繊細な模様が刻まれ、足元からも贅沢さが感じられるが……こちらは後で増設されたものだろう。少々ながら部屋とミスマッチで、壁に立てかけられた刀剣に一角に突っ立つ鎧一式など豪奢な内装に不釣り合いなものが多く、部屋主の趣味や内面が伺い知れた。
「ようこそ、我が隠れ家へ」
グリムヴァルドは席を立ち大仰に腕をひろげ、丁寧に迎え入れる。
どうも、と短く返答。愛想笑いをやりながら、彼の側をゆっくりと観察。
テーブルには、色とりどりの料理が並べられていた。新鮮な果物、煌めくクリスタルの器に盛られた様々なチーズ、そして、輝くような銀の盆に盛られた肉料理。それらから立ち上る香りは甘く、スパイシーで、どこか異国の香りを思わせた。空気には料理の芳香と、古木の家具から漂う重厚な香りが混じり合い、その場の雰囲気を引き立てていた。イヴァリスの感覚で例えるならば、上質な宿屋にある食堂。
傭兵あがりの性分から、料理よりも先にナイフ、フォークなどを見つめてしまう。
輝きに曇りはない。薬物や毒物のたぐいは塗られていない。また見事に研ぎ澄まされ食事以外の使い勝手もよさそうだ。
「窓は開けてある。蛇の体に夜の寒さは応えるか? 酔うと熱くなるのでな」
「いいえ。そんなヤワではありません」
イヴァリスが静かに歩む度に、重厚な布の上で足音がほんのわずかに響き渡る。通り過ぎると、微かな風がタペストリーを揺らし、かすかな生地のざわめきが耳に届く。滑らかな手でテーブルを撫でると、木の質感と冷たいながら温かみのある不思議な感触が伝わってきた。職人技術とは素晴らしい。生まれてこの方、家具に興味を持った経験もないのに、つい視線を当ててしまった。
「持って帰ろうとは思わないでくれよ。何しろ俺のお気に入りだ」
言いながら熊はゆっくりと席に着き、ふぅ、と溜め息をつき肩の力を抜くのだった。
イヴァリスは肩をすくめ、彼と向かい合う位置の席へ陣取る。彼は現在の主を見つめ納得する。
王宮の喧騒から隔てられたこの一室は、彼にとっての秘密の隠れ家。
日常からの逃避場所なのだろう。豪華絢爛な見た目とは裏腹に、裏路地を縄張りとするゴロツキたちのように、相手の島をいつ奪えるのか虎視眈々と狙いすましている。しかも後ろからナイフで襲われても不思議はない。こうした奥まった部屋は、心を休息させるにうってつけというわけだ。
「今日はなぜ欠席した?」
「芝居を見に行きました。あちらのほうが面白そうだったので」
「無礼だが、許してやろう。それよりも、おまえの手際には驚かされる。いつの間に毒を仕込んだ?」
わざとっぽくコチラを値踏みする視線を鱗で受け流す。
自分の得意技を明かすに等しい。答える必要を感じなかったが、不機嫌になるのは予想できた。
「すれ違ったときに、ちょいと仕込みました。傭兵はこう、スリのように手先が器用なもので」
片手をあげ、開閉してみせれば納得したふうであった。
「まあ、せっかくの作戦成功の祝いだ。腰掛けてくれ」
部屋の中心に置かれた長いテーブルの上では、蝋燭の炎がゆらゆらと踊り、暖かく柔らかな光を放っていた。その光は、金色のワイングラスに反射し、液体の中できらめいている。
「ビールのほうが好みなのは聞いているが、まずは上等なワインを開けた。乾杯はこいつでさせてもらおう」
「ええ。せっかくですので、いただきましょう」
互いにワインを注がれたグラスを手に、軽く「乾杯」と声をあげた。
グラスにそっと口をつけると、上質なワインの香りが鼻腔をくすぐり、舌の上で芳醇な味わいが広がった。高級品に慣れている王族であるからか、グリムヴァルドにじっくりと堪能している様子はない。
「ふぅ、音楽をかけても?」
「どうぞ。蓄音機は好きです」
部屋の片隅では、薄暗い影の中で、柔らかな音楽が奏でられていた。その音色は、部屋に満ちる他の音に紛れず、耳に心地よい調和をもたらしていた。織物の壁掛けが微かな音の振動を吸収し、ワインの味に酔いしれる。
「ワインもよいものですね。ビールも期待できるというものです。それでは、私はこちらを頂きます」
言いながらジョッキに持ち替え、ビールを注ぎ泡立てていた。
窓の外には、夜風が静かに吹き抜けていく。月明かりが窓ガラスに反射し、室内からは蝋燭の灯りを浴びる。曇り一つない一級品のガラスは、窓にハメているだけでも芸術的だとイヴァリスは感心した。
「計画を聞かされていなかったが……まさかアスティナに小便を漏らせるとは、どういう神経をしておるのだ。ハァァ、おまえというやつは、まったく得体が知れない男だ」
がっかりしたと、失望の溜め息を織り交ぜてから、こう続けられた。
「今日は祝いと喜ぶはずだった。それなのに、豪勢な料理が無駄になったのではないかと心配している。あれは、何の意味がある?」
イヴァリスは雇い主に計画の全貌を伝えていなかった。気に要らないと小馬鹿にするのは想像がついていた。それに口を滑らせてもらっては困るからだ。知らなければ、どうあってもバラしようがない。だからこそ、是が非でも秘密を押し通した。
「いろいろと都合や計算がありますから。そんな訝しがらずとも結構です。それで、王子の様子に変化はありましたか?」
「すっかりと塞ぎ込んでしまった。憧れのアスティナが、あの大舞台でおしっこを漏らしたとあれば無理もなかろう。あれだけ悲しむ王子を見るのは初めてだ。いやはや、一刻も早く立ち直ってほしいものだ」
さも嘆かわしいとばかりに首を振ってみせる。その目は緩んで口はわざつらしいくらいに吊りあげられ、だれが見聞きしても、嘘偽りの心配だと察せられた。事実グリムヴァルドは「二度と部屋から出てこなければよいものを」と心でつけ加えている。そして目を細め、今度は感情のままイヴァリスを睨み据えた。
「下剤か利尿剤かは知らんが、なぜそんな真似をした? 毒殺してしまえば、すべては簡単だったのではないか? おまえは俺に利益をもたらすと約束した。だからこそ、信じ黙っていたものを……返答によってが解雇か、処分をくださねばならない」
怖がらせないでくださいよ、とイヴァリスは片手をあげてみせた。
さすがは一流の武芸者。ここで斬り捨てるのは簡単だと脅してきた。
「すこしも気づきませんでしたか? 本当に? まさかぁ~、知らん顔をせず、白状してくださいよ。私の計画なんか、お見通しだったのでしょう?」
しばらく反応を待った素振りをしてから、蛇は目をしばたかせた。
「まさか本当にご存知でない?」
今度はイヴァリスが大仰かつ嘆かわしげに振る舞う番となった。ひとしきり、それもグリムヴァルドの瞼がヒクヒクとしはじめるまで、彼は口を開かずにいた。それもビールのジョッキを傾け、口周りを泡だらけにしているのだから、タチの悪い対応であった。
「あのですねグリムヴァルド様。毒殺なんて野蛮な真似をすれば、如何ほどの非難を受けましょうか? それに相手はアスティナ・イヴォニア。あの才に恵まれた女傑アスティナ! 加えてイヴォニア家の後ろ盾!」
わわーい、大変だぁ、とイヴァリスは両手を振ってみせた。
目をまんまるにし、シャー、と舌を突き出す。逃げ惑う愚者の物真似だ。
また、熊の下瞼がピクピクと痙攣し始めていたが、蛇は知らんフリを続ける。
「わかりませんか?」
干し肉を噛み締めながら、彼は改めてグリムヴァルドを見つめた。このイヴァリスなる男は、どれだけ贅を尽くした料理を振る舞われようとも、必ず持参する安っぽい干し肉を一枚は齧っていた。傭兵時代の貧乏性が骨身に染みているのだろうと、グリムヴァルドは胸の内では嘲笑っている。
「まーだわかりませんか? あなた英才教育をお受けでない?」
そしてイヴァリスは、真正面からグリムヴァルドの思慮の浅さを堂々と嘲ってみせた。それは女を品定めするゲスな男の視線と変わらなかった。
「王宮に関わるものを殺すのが、どれほどに愚かで危険なのか、ご存知ないようで」
口が緩み舌をシュルシュルと出し入れして、干し肉をしゃぶりあげる下品な所作。とても王族の食卓でしていいものではなかった。
「だがな。敵を斬り伏せてこその戦い」
問いかけにムスッと腕組みをし、答えた。
「討つか討たれるか。それこそが戦場の習わしであろう」
グリムヴァルドは勇猛な戦士としても知られているが、最前線に立つ将軍としても名高い。それでいて決して部下を無駄死にさせるようなヘマはせず、突撃を口にするのはいつだって決めの一手。そのため人望に厚く、自分が王座に腰掛けても反対勢力ばかりではないと、イヴァリスは存じていた。また、彼がそれを計画の勘定に入れているのも知っている。
「あなたは忘れていらっしゃるようですが、王宮は戦場ではありますまい。まして戦場に変えてしまえば、血の雨! 血の海! どんな称号を持ち兵士たちから信頼も厚かろうとて、全身が真っ赤に染まればどうなることか。剣を持つものは納得しても、国民を納得させるのは至難の業。あなたに出来ますかな?」
ケタケタと笑いながら、イヴァリスは指を振るった。おのれの首にあて、横へシュッとはしらせたのだ。
「わきまえねば、法と世論に討たれますよ。首をチョンっとね」
どれほど武名に恵まれた戦士であろうとも、戦いようのない相手を引き合いに出されては黙る以外にない。グリムヴァルドはますます面白くなかった。
「俺はおまえのそういうところが理解できん。戦場を駆け回っていた傭兵の考え方とは思えん。てっきり俺と同じ性質を持っているからと、目をかけてやったというのに」
イヴァリスは実績こそないが、常に生き延び戦果をあげたメンバーに名を連ねた。
ただのバカならそうはいくまい。だからこそ声をかけ、手近に置いてやったのだが。
やることはどれも陰湿であり、武人や武芸者の心得なんてものはそっちのけ。
先程に毒を盛らなかったのかと質問をしたのは、狙いを掴みあぐねたゆえだ。
卑劣と呼ぶには生易しく、邪魔者を消すにしては手緩い。
どういう効果があるのか見当もついていなかった。
「同じものを二つ揃えたほうがよいこともあります。しかし、違うものを一つずつそろえたほうが潰しがキクというもの。ああ、話は本題に戻りますが、次の剣術大会にもちろん手駒を出しているのでしょう?」
「ああ、出しているが、それがどうした?」
グリムヴァルドはますます分からない。何をどう考えているのか。
剣術大会は自分の優秀な配下を参加させ、優勝を獲得するつもりだ。
そうなれば名に更に泊がつき、自分の勢力を拡大できる見込みがあった。
王子の勢力を削ぐ、そのために利尿剤を使ったのだけは、理解が及ぶ。
「ならば結構。あの利尿剤の効力は暫く続きますからね。一週間か二週間そこいらでは治らないでしょう」
剣術大会が行われるのは、ちょうど十日後。
「……わからんな。日和見の愚兄が遠征に出ているからと、重い腰をあげてみれば、おまえは何が目的だ? そうやって敵対勢力に薬を飲ませ、小便やクソで王宮を汚すつもりなのか?」
「あなたねぇ、もしあそこで、愚兄がおわしたらどうなっていると思います? アスティナは複数の罪を免れません。最悪のケースでいえば、打首もありえたでしょう。これには王子も降格や左遷の罰に納得せざるを得ません。投獄や死刑よりずっといいです。事態が大きくなるよりも先に、自らが手を打ったわけです。主人が直々に罰をくだせば家臣や反対勢力も多少なりとも納得します」
たしかに王族の面前で小便を派手にぶちまけ大事な日程を崩し、騒がせた。
当然ながら罪に問われてしまう。揃った面子を考えれば国外追放もありえた。
愚兄はすまいが不敬であると、その場で斬り捨てられても不思議はなかった。
国家の政の最中、小便を漏らした。一言で片付けられない大問題となる。
王子はアスティナを守るため罰した。そういうことか。
「辛いでしょうね。剣を学んだ師匠が小便垂れの汚名を着せられた。罰するべきだと騒ぎ立てる家臣。近くに置けない。さりとて罰せずわけにもいかず、なるべく軽い罪を幼いながら聡明な頭で、こねくりだしたことでしょう。命じるときの声は震えていたかも」
蛇は見てきたように語った。しかも、芝居かかった仕草で身をそらせている。
実際。アスティナの個人的な失態にしても、内容が内容だけに王子も庇いたてが難しかった。
彼女を側に置こうにも、いちいち揉め事の火種になってしまう。
小便を漏らす輩には不適任である。そう上奏されたら反論もない。
指南役の剥奪に近衛隊長から憲兵に降格。加えて寂れた土地に左遷。
実質的な追放処分だ。重用するギャヴィン自らが手を下した事実がある。
アスティナの功績を利用してきた一族は、まとめて信用を失っていた。
「こうやって敵対勢力を、糞尿にまみれさせるのが作戦というわけか? フンッ」
「かといって政敵が何度も小便を漏らした、大便を漏らした。なんてスキャンダルが続けば『薬を盛ったのではないか』と疑われてしょうがない」
イヴァリスは自らの額を親指でつつき、ぐりぐりとひねった。
「理由もなくあんなものを使ったと、本当に思っているのでしたら、あなた王の器じゃないですよ」
「聞き捨てならん。無礼な態度にも嫌気がさしている」
さっさと理由を言ってみろと剣の柄へ指をやったところ、イヴァリスは表情を変えずに続けた。
「まず王子の側近。家柄もよく後ろ盾も強い、一大勢力のイヴォニア家。その中でも才女と名高いアスティナを小便まみれにして、本人と王子に精神ダメージ、家名に泥を塗った。ここまではよいですね?」
なんと回りくどい……グリムヴァルドは溜め息をつきながらも首肯する。
「これで王子の剣術指南役は消えました。イヴォニア家との繋がりも怪しくなり、そもそもイヴォニア家の才女。次期当主であるアスティナがイヴォニア家と絶縁関係になる。もう絶縁を言い渡しているそうですし、いまや『あのアスティナの一族』という呼び方も意味合いを変えてます」
次期当主の失脚。たしかに、これまで彼女を持て囃してきた一族全体にとって痛手であり、鼻っ柱をへし折るのに適していた。公務の失敗でなくアスティナ個人の『おもらし』によるものとなれば、なおのこと無様であった。彼女の武勇伝を語り注目を浴びてきた者たちは、さぞや赤っ恥をかいたはず。
「人前でおしっこも我慢できなかったのか。いつも我慢していたのか。あいつ、次はいつ漏らすかわからないぞ。アスティナはおもらし。イヴォニア家は小便娘に牽引されていた情けない一族だ。イヴォニア家が通るぞ、離れろ、おしっこをひっかけられるぞ。トイレの臭いがするかとおもえば、イヴォニア家の血筋がいるじゃないか」
べらべらとイヴァリスは複数人が陰口を放つ真似事をして、さらに言う。
「あの家も失脚すれば、こうしている間にも勢いを下げていくでしょう。もちろん噂も流布しておきましたからね。厳しすぎる訓練がトラウマになり、アスティナはあんなふうになったのだと」
本当に手抜かりのないやつだ。呆れるが、これほどに面倒な相手を敵に回さず懐に抱き込めたのは幸運と呼ぶべきか。悩むところだと、グリムヴァルドは額に力を入れた。
「ほかにも心や体に傷を負ったものが後を絶たない。血筋もよいから、表立って言えない事が多いとか、医者が出入りしているとか、そういう話をたっぷりとね」
小便を漏らしたことを機会に、イヴォニア家そのものを貶めた。これまで王に重用されてきた一族にして武芸者の名門。厳格な家柄なのは周知の事実。また武芸の稽古をしているのだから、怪我をするのは当然なのであるが、それを大っぴらにするのは敵対勢力に弱味を見せかねない。用心深く医者をこっそり出入りさせていた。それらを利用し、一族全員の人格否定へ繋げ、あいつらの実態は小便垂れ。厳しい教育で頭に異常をきたしているといった悪評へと結びつけていく。
「今後は何かにつけて反対勢力がイヴォニア家に任せるのは『不適』であると、騒ぐことでしょう」
これまでプラスに働いていたもの全てがマイナスになった。
ただ一度。アスティナが小便を人前で漏らした、それだけで。
「アスティナは潔白すぎましたからね。それでもイヴォニア家の全体が白いというわけでもなく嫌な話もちらほら聞きます。こんな状態になれば、妬み深い噂好きのバカどもにとっては、踏み荒らしたくてしょうがない獲物でしょう。こっちがやらなくたって、どうせ勝手に広がっていきました」
人の心を読んでいますとばかりに言われるのは、グリムヴァルドにとって癪であったが一理ある。
どれだけ敵が憎かろうと、敵の実力や長所を軽んじるものは戦場で生き残れないのをグリムヴァルドは重々に承知していた。この蛇は性根が歪んでいるが、自分にはない強さを持っている。それは認めねばならない。
「アスティナと王子の仲も引き裂けただけでなく……王子の勢力であったイヴォニア家の頭をおさえこんだわけか。そこまではいいが、剣術大会となんの関係が?」
「急遽いなくなった王子の剣術指南役アスティナ・イヴォニア。その後釜を優勝者にプレゼントすると大々的に流しちゃいましょう。国家が主催する一大イベントです。いま利用しパイプをつくっていけば、グリムヴァルド様は今後とも国のイベントに介入しやすいでしょう。権威を得られますよ、国民の支持だって少なからず」
こいつ、と思わず口を開きかけた。
「愚兄さんはいないのでしょう? あなたならばすぐに命令できるはずです」
玉座を目指すからには避けて通れない話であった。
王族の威信をかけた催しは無論。国民が待ち望む催しは数多い。
ただのバカ騒ぎではない。こうしたイベントは需要な政である。
何しろ勢力争いや利権争いが起こり、水面下で火花を散らしてやまない。
そこに介入し牛耳ったとあれば、今後も催しを取り仕切る立場に居やすい。
「イベントの舵取りをするとなったら、領主や町長などの顔役との交渉もしやすいですからねぇ」
イヴァリスは、むしゃり、とチーズを齧る。ワインを下品にすすりあげた。
「その後に王子の周辺で、グリムヴァルド様の勢力が地盤固めをしていけば、まあ囲うのは難しくはないかと。王子の勢力とあなたの勢力があわさってしまえば、愚兄さんの意見を通せない。あとは煮るなり焼くなり。御輿に国を後ろから動かせるじゃないですか」
ようやくイヴァリスのつくりあげた筋書きが読めた。
まさか、小便ひとつで勢力図を塗り替えるつもりだったとは。
敵側もそこまでの考えがあるとは読めまい。読めるわけがない。
「それでもアスティナが邪魔がいれば、刺客を送るなり金を払うなりして遠ざけていけばよし。傭兵を雇い八百長をしてもよし。優勝するのもそう難しくはないかと。仮にアスティナが復帰したとしても彼女は薬の効力が続いているので、本来の力は発揮できないはず。闇討ちで更に弱らせてもいいでしょう」
あとは、そうですね~。と蛇はわざとらしく長い首を傾げてみせた。
「敗者は剣を勝者へ差し出す。とするのはどうでしょう?」
「……何の狙いがある? 自分の武器を手放したい者など、あろうはずがない」
「参加者がしぼれますよね。それに~、愛用品でない武器を使うとなれば少しは実力も下がるでしょう」
この意見にグリムヴァルドは納得しかねる。同じ武器であれば、使い心地は変われど実力を変えぬよう努めるのが武芸者。さもなくば死ぬ以外にない。
「本命はこちらです。アスティナが敗北しようものなら家宝の名品を得られますし。これを返してほしくばとイヴォニア家を脅迫するのも可能です。こうなれば王子とイヴォニア家の繋がりは完全にチョンッ!」
長い首に指を這わせ、スッ、と横へ引く。
うえー! と首を落とされた犠牲者の演技。
「ついでに貴方様の恐れてやまないアスティナは、表舞台に立てなくなるでしょう」
長々と語り終えると、イヴァリスは無表情になる。
どう? と両目が不敵に覗き込んできた。好ましくない作戦ではあるが、王族の争いで血が流れないのは悪くない。それに一大勢力で調子づき、愚兄に尻尾を振ってやまないイヴォニアの尻を蹴りあげ、玉を握ってやれる。よい作戦ではないか。愚兄の勢力と肩を並べるのも夢ではなくなった。長い目で見れば後継者の争いでも有利に立てる。
「薬が疑われる心配はないのか?」
死に至る劇薬であろうと尿を漏らす薬であろうと、白日のもとにさらされたら罰は免れない。計画が漏れずとも、一服盛ったとなれば「卑劣な悪行を成した」と誹りを受けるのは自然の成り行き。これまでアスティナを貶めていた意見が、一斉にこちらへ向けられる結果を作りかねない。
「もう心の病と流布しまくってますからねぇ。ちょうど医者が、逃げるように立ち去った事実もあります。気が触れたと、おもわれても不思議ないでしょう」
手抜かりはありません、とイヴァリスは得意気にしてみせた。それもアスティナの口真似をしているのだから趣味が悪い。
「そうしなくても小便を漏らした言い訳にしか聞こえないでしょうから、みんなもっともらしい方と、相手を貶められる言い分を信じるでしょう。バカげた薬を使うやつがあるものか、なぜ毒を盛られなかったのか言ってみろ、と世間は嘲笑います。こういう卑しさを作戦に組み込むのも、悪くないものです」
頭が痛くなる。たったいま、なぜ毒を盛らなかったのかと睨みつけた後で、そんな話をわざと聞かせてくるのは侮辱以外のなんでもない。
「では話を進めましょう。剣術大会で、王子の新しい指南役を優勝トロフィーにつけ加えますね?」
「ああ。そうしよう。だがな」
ひとつだけ、グリムヴァルドには懸念があり、それを解消しきれないうちは枕を高く寝られはしなかった。口元に手をあて、こればかりは真剣に考えなくてはならなかった。
「まだ何か?」
「アスティナが復帰した場合はどうなる? 本当に復帰しない保証はあるのか?」
腐ってもアスティナは武芸の達人。
天賦の才を持ち、隊長に抜擢される実力者。
彼女が勝ち上がってくれば事態はややこしい。
「小心者ですね~~。ないですよ」
あっさりと言い切られグリムヴァルドは不快になる。
小便を漏らしたからといって、弱くなったわけではない。勝利をもぎ取られようものなら、指南役と優勝トロフィーを渡す。アスティナの復権はイヴォニア家の復権を意味しているので、最後まで慎重にならねばならない。
「何事も絶対なんてことはありえません。どれだけ作戦を練ろうとも、そのとおりになるとは限りません。本当に邪魔なら、それこそグリムヴァルド様の大好きな血の雨を降らせればいいだけの話。王子の剣術指南役をかけた一大勝負! ライバルを蹴散らす相手はいつでも目を光らせていることでしょう、もしかしたら、優勝者が犯人で、順位が入れ替わる番狂わせが起きるかも!」
両手をあげ、わわーい、と叫びだす蛇を見つめ呆れた。
「あと薬は強力です。もう一回、言いますよ? あれは強力です。復帰したところで人前で小便を漏らしかねない。あのときの恐怖や不安が蘇りますし。仮にきたところで小便を撒き散らし、また自分と家柄の名に泥を塗るだけです」
アスティナが復帰する可能性も考慮した上で、二重三重と罠を張り巡らせている。
しかも、その仮定に不慮の事態が起ころうとも、リカバリーの対策が練られていた。
「おまえは用意周到なのではなく、陰湿なのだな」
「だからこそ、戦場で生き残れたのですよ。寝首をかかれるより、かく側に回ったほうが生存率は高いもので」
イヴァリスはへらへらとしながら大皿から取り分けた料理をナイフとフォークで切り始める。
「あと利尿剤というのは、正しくないのですよ」
「なに? あれはそういう薬ではないのか?」
「目に見えるものばかりを追ってはいけません。小便を漏らすなんてものは、作用のひとつ。あれは脱水を起こす毒です。異常なくらい小便を漏らしてたの、気づきませんでしたかね?」
蛇は、もしゃもしゃ、とわざとらしく咀嚼した。ヤケに時間がかかっている。
「焦らしているつもりか? いつまで噛んでいる」
イヴァリスは答えず、自分の口を指さす。
「口が蛇なもので、咀嚼に時間がかかります。ほら、このとおり」
シャーと口の中を見せつけられる。
牙を折りたたんでいる上に、本数が少ないから普通より手間が必要らしかった。
ほかの蛇と同じように丸呑みにでもすればよいものを、思いながらもグリムヴァルドは言わずにいた。
「量を調整すれば、とっくに死んでしました」
いつでも殺せたと、言わんばかりの口調だった。どこまで本気でハッタリなのか、グリムヴァルドは判断がつかない。
「とはいえ、彼女に使った量は、カラカラの砂漠地帯ならば干上がって死にます。沼地などの湿地帯で使おうものなら喉を潤すため沼の水を口にし、やはり死んでいきますよ。激しい運動も体に毒。戻ってきた彼女は、はたして水を呑むか、堪え脱水を起こすか。これは見ものじゃありませんか! 人前に出てくるつもりがあれば、ですけど」
「………………」
「それにしても、さすがは王族の食事!」
こんなにも食材と調味料を惜しげもなく使って、ほっぺが落ちそうですよ。などと、ふざけたことを宣っていた。
[newpage]
アスティナは家からも王宮からも追放されたが、心根は変わらない。
三兄弟をしょっぴいて、全員を縛りつけ、檻の鎖に繋いでおいた。
憲兵として辺境に飛ばされようが、生真面目に職務を全うした。
だいたいは何もない見回り。荷車を押す手伝いなどである。
ごく……ごく……ごく……ごく……ふぅ……
水筒に口を押しつけ、傾け端から溢れるのも構わず呑む。
空が白み始めている頃合い。赴任したばかりの新居を目指す。
また汗が滲む。初日よりは落ち着いたが、だるさは抜けなかった。
「おかえりにゃさーい」
ドアをあけると、カティアがスカートの両端を摘み、腰をおらない微笑みで迎えてくれる。彼女は王子より遣わされ、こちらとあちらで情報のやりとりをしてくれていた。
「トイレは大丈夫?」
「やめてくれ。さっきしたばかりだ。それより、三兄弟は倒しておいたぞ」
「うんうん。連中の考えそうなことだもの。先制攻撃はやっておかなくっちゃね
既にカティアはだれがやったのか、調査をした。
最初に怪しく感じたのはイヴォニア家。朝食や夕食もここでとった。
アスティナを妬む者も多い。彼女の物静かな姿から誤解をされがちだ。
使用人の中に「ムシャクシャしてやった」や「自分のものを混入させた」など故意や不注意の線も洗いざらいに調べまわったところ――――完全に白だった。
ならば敵対勢力に違いないわ! と当てずっぽうで調査を開始。
登場したのはグリムヴァルド……の側近であるイヴァリスの名前。
あの最悪の日に、彼女と最後に言葉を交わしたのは、あのウネウネ。
カティアは王子の側近であり、噂話好きの性分。あらゆる方面のパイプを持ち、それを駆使すれば予測はつけられた。
とはいえ、アスティナは彼を疑っていなかった。
下手な真似をすればアスティナは反撃したはず。干し肉を食べていた以外に、これといって不審な点はないと断言された。しつこく聞き続けていたら「騎士の誇りにかけよう」と真面目に返されてしまう。
カティアは、あの『うなぎ男』を偏見から犯人と疑った。
失礼ではあるが、一番やりそうなタイプに思えてならない。
問題は証拠。いつどうやったのか。謎を解かなければ仕様がない。
しかし、前述の通り証拠はまったくなかった。
細工をされたと主張をまくしたてても意味がない。
それを証明できたとき、戦局は覆る。反転攻勢だ。
「スパイ鳥に、アスティナの食べた一週間分の献立まで取り寄せさせたのよ」
「……そんなことまでしていたのか。徹底しているな」
アスティナは呆れながら、眉間を指でなぞりあげる。脱水によって少々の頭痛が起きているのだ。急ぎグラスの水を傾け喉を潤す。
「きっと、この『手』で解決してみせるんだから」
微笑ましく片手を掲げ、カティアは友人を元気づけようとした。
表情からは判別がしづらいものの、アスティナも少しは明るくなっていた。
「あと、その。栓の調子はどう?」
「うむ……辛いが、使えないわけでは、ない……」
無表情ながら恥じ入り、目線をふいっと傾けた。
カティアの提案によって、治りが悪いなら栓をすればいいと、彼女が尿道を堰き止める細長い栓を作ってくれた。寸法を測ると股を開かされたのは、少々ながら恨んでいる。
「それと大変にゃんだけど。剣術大会があるでしょう?」
「ああ。私は参加する予定はなかったが、それがどうかしたのか?」
「あなたの後釜を用意するため、優勝者は剣術指南役に任命されるそうよ」
これが、失脚をさせた理由なのではないか。
アスティナは憤慨する。人前で小便をしないかと恐怖はあるが、砕け散ったものを一纏めに繋ぎあわせる機会が得られるのは、願ってもなかった。
[newpage]
剣術大会の当日。
早朝の冷えた空気。風がふいた。
ラッパが鳴り、開幕の合図となった。
国歌斉唱のため、観客は立ち歌い出す。
無論アスティナも背筋を正し、それに習う。
アルトリア王国の旗が支柱に掲げられていく。
赤い布に描かれるは左に獅子、右に熊。中央に剣。全体を鱗が円形に囲う。
建国のため力を合わせた獅子と熊。両名が肩を並べ剣を掲げた様子を示している。
鱗は深く語る文献は残されていないが、全体を囲うことは山岳地帯の中央にあるアルトリアを意味し、再生や繁栄を象徴している。といった説が有力らしい。
まったく王族の風上にもおけん話ではないか
騎士や戦士の誇りたる武器を、差し出すルールとは
参加書類の表記に、得物を貰うか否かがあった。
当然だが他人の武器を奪う趣味はアスティナにはない。
とはいえ、だれもが私と同じようには考えぬもの
何しろ賞金に加え、業物が手に入るのだから。
おそらく、アフィラート欲しさに考えた計画だろう。
これを強請りのネタにイヴォニア家と話す気か。
アスティナは罠に飛び込むつもりで参加した。
剣術大会の会場は旧世代から使われるコロシアム。
石造りで円形。青空の下で風を浴びながら開催宣言が行われた。
コロシアムの特別席に、王子やカティアを確認する。隣にはグリムヴァルドと、ウナギみたいな蛇が腰掛けている。あのグリムヴァルドは、こちらを注意深く眺めていた。
「生き恥を晒そうとも、致し方ない」
コロシアムのリングに立ち並ぶ参加者に並び、国旗を仰ぎ見る。
今日イヴォニア家でなく、ただのアスティナとして見上げた。
剣術指南役に返り咲ければ、再び王子の役に立てるはずだ。
あの失態をなかったことには出来ないが、挽回は出来る。
国民は厳しい。アスティナの参加に罵声が放たれた。
参加者は近くにいるから、いっそう厳しく思えた。
口々に小便を漏らした。そう軽んじられている。
あの一日で全てを失ったのであれば。
この一日で自分自身を取り戻そう。
堪えきれない尿意に苛まされていようとも、剣は使える。
剣術大会であるため、魔法の使用は禁止されているが。
たとえば槍や鉄球などの特殊な武器は許されていた。
毎年。ひとりは武器を使わず素手の参加者がいる。
昔は剣のみであったが、時代によって変化した。
正面にいる対戦相手も剣は持っていなかった。
「小便を漏らした小娘なんぞに、敗けるはずがねえ!」
自らに言い聞かせるように男は言った。
大柄の猫だが、虎に匹敵しかねない。
手にしているのは太い金棒である。
小柄な丸太。そういう鉄の塊だ。
「捻り潰してな。俺の踏み台にしてやるよ」
「あまり息巻くものではない」
アスティナは昔から怒ることは苦手だった。
しかし、漏らしたと言われ続けてきたせいだろう。
不愉快なものだと、腹立たしく眉間に力が入っていた。
「大恥をかかせてもらいたいなら、構わないがな」
アスティナの表情に乱れは一切なかった。
大男はといえば、ニヤリ、と早くも勝ち誇る。
「小便を漏らす以上にか? 今日は漏らすんじゃねえぞ」
――シャンッ――
白い指が輝かしい得物を引き抜き、普段の構えに入っていく。
右腕を軽く伸ばし、右半身を前に出す。左腕を引いて、左足を後退させた。
「その言葉。そのまま返すぞ」
振り下ろし、あるいはスイングよりも素早く距離を詰められる。
筋肉だけに頼っていない。戦い慣れた動きであるだろう。しかし。
突きはレイピアを愛用するアスティナの得意分野。見切るのは容易い。
半歩横に身をスライドさせる。金棒の一撃は、それだけで回避終了。
すれ違いざまに刃を一振り。白銀がキラキラと瞬き、鞘に収まる。
「ふざけんなよションベン! レイピアで居合いでもするつもりか!」
アスティナへ振り返り、大男は怒りに任せ金棒を振り上げる。そして。
ズボンが、パラッとリングに落ちる。ベルトのみを突き裂いていた。
粗末な布でつくられたパンツが露わになる。場が静まり返った。
あまりにも素早い。一瞬の出来事。目で追えたものは少ない。
「……えっと、斬ったのか? いまの一瞬で?」
「そうだ。斬らせてもらった」
大男の感覚では、そよ風が横切った。その間に一太刀を貰っていた。
もしも今のがベルトでなく股間。心臓や首であれば、絶命は免れない。
「他の部分も斬ってほしいのであれば、私は遠慮なく続けるが?」
大男は逡巡する。実力差は明白。太刀打ちは出来ない。
「そんな脅しが通用するとでも……」
でかい口を叩いたから、踏ん切りがつかなくなっていた。
アスティナは彼の背を押すため指を柄にあて、なぞりあげる。
「わ、わかった。やめておこう」
彼は聞き分けよく金棒を背に担ぎ、参ったと手をあげた。
「これ以上の恥を晒したら、この国で仕事が出来なくなるからよ……」
「賢明だ。おまえは小便を漏らす以上の恥晒しとならずに済む」
皮肉で返し、真顔のまま石のリングから降りていく。
勝者の宣言を背で受け、これといった関心も示さない。
狙うは優勝ただひとつ
一回戦の勝利で浮かれてはならない
まだ優勝まで遠く、自分以上がいないとも限らなかった。
何より脱水が気になる。いまも猫背。気怠さに精神をやられそうだ。
「はい、どうぞ、メイド水をめしあがれ~」
「変な言い方はやめてくれ。呑む気がなくなる」
通路で待ってくれていたカティアが金属の水筒を渡してくれ、急ぎ水分補給。
ごく……ごく……ごくっ
呑んでいる今現在も、尿が膀胱を叩き、外に出ようと暴れている。
水が甘い。口周りを舐めるが、味覚が変になっているわけではない。
「特性ドリンクよ」
片手の指を立てて、カティアは笑顔を寄せ得意気に語り出した。
「水分補給に必要な糖分や塩分、少しの酸味を加えて、薬草なんかも混ぜたの。少しは尿意がおさまるはず。喉の渇きはもっと癒えるとおもうわ」
カティアのありがたい心配りによって、汗は酷いが渇きは癒えた。
嫌な手段ではあるが、尿道に封をすることで失禁も何とか堪えられた。
得意の突きを活かして早々に決着をつけ、順調に決勝へとコマを進めた。
剣の使い手がいれば槍の使い手がいて、さまざまな武芸者との真っ向勝負。
気がつけば己を取り戻し、義務や責任でなく、勝ちたい。そう思い始めた。
そして訪れるのは準々決勝。
太陽は傾き、ほんのり赤みがさしていた。
ようやく優勝に足をかけた。チェックメイトまで、そう遠くない。
次なる対戦相手は古びた布を体中に巻きつけ、何の種族かわからなかった。
ただ、その手に握る巨大な鉄槌が、ただものではないとアスティナに伝える。
アスティナは間合いを詰め、一気に勝負を決めようと戦いの流れを計算していく。
対峙する巨大な鎚が、重力に逆らいながらゆっくりと上昇する。チャンスがない。
これだけ遅いのに、つけ入る隙がないとはな
間合いを詰めづらい。どこから攻めたものか迷う
だが、なぜ、いま振りあげている……そういうことか
敵は両手をのっそりと振りあげる。
さながら桑で無防備な地面を耕すような所作だ。
その動きは、まるで時間そのものが遅くなったかのように、じわりと、しかし確実に空を目指していった。そして、その頂点に達した瞬間、アスティナは一瞬、息を呑む。
次の瞬間、鎚は落下を始める。大股の踏み込みによって、頭上を槌が捉える。
その降下は、ただの振り下ろしにあらず。生命をも打ち砕くかのような力強さを宿していて、ただならぬ気迫に身震いがする。
じわっ……
ついに栓へ尿が触れた。不快感に脂汗を噴き出す。
同時に、アスティナは膀胱を緊張させた。尿意がおさまらない。
片目を歪ませる。小便を堪え戦うのは、生きた心地がしなかった。
鎚の持ち主は、両腕と肩周りの筋肉を膨張させ、入魂の一発を御見舞いする。
巨大な重量に振り下ろす全身が一体となり、アスティナに目掛け突き進んだ。
そして、衝撃が生まれた。
鎚が地面に触れた瞬間、雷鳴さながらの轟音が辺り一面を覆い尽くす。
客席を満たすひとびとの声を掻き消す。世界は、槌の雄叫びに覆われる。
空間そのものが震えるような、深く、重い響きを持ち、居合わせたものの内蔵を太鼓みたいに揺さぶった。
リングは脆弱なガラスも同然。
ひび割れ、粉々に砕ける。破片が客席にまで吹っ飛んだ。
その衝撃波は、ただ目に見えるものだけではなかった。地面を打った鎚から発せられる振動は、周囲の空気を震わせ、周囲のものすべてに伝わっていった。この振動は、ただ触れるだけでなく、全身を通じて感じ取れるものだった。それは毛を竦ませ、皮膚を通じ筋肉を震わせる。骨を髄にまで響いていった。
「ぐ、う……」
無論。
アスティナは近くにいるのだから、衝撃に目を見開いた観客以上にそれを浴びた。
相手の踏み込み。呼吸をあわせ前にステップ。槌の柄に指を添え、前屈みの肉体に身を滑り込ませた。
足や背から伝わってきた振動は半端ではなかった。
体から力が抜けていく放出。一種の虚無感を生むが余波に痺れた。
内股になり、ガクガクと足を笑わせ、奥歯を食いしばり放尿を止める。
痛みとも鍔迫り合いとも違う衝撃。平静ならば、驚く程度で済んだ状況。
「ぐぅう……うぅうぅ…………」
レイピアを持つ指は震え、口は食い縛られ、膝と膝はおしくらまんじゅうをする。
切っ先は、かろうじてであるが、対戦者の喉元に押しつけられた。審判に勝利宣言をしてもらいたいが、彼はなかなかに動いてくれなかった。
わ、私の勝ちではないのか……?
相手はどうみても戦闘不能ではないか!
今しがたの一撃は、いまだひとびとの意識を砕いたままだった。
心臓は息を潜め肺は呼吸を止めてしまっていた。目は開いたまま。
ど、どうなっている
相手は片手をあげているではないか
私の勝ちに不満があるのか、物言いか
彼女は己と対戦者だけが息をしている不思議な事態に焦った。
観客の心は一時的に、この世界の外に押しやられた。審判の心もだ。
そして、時間が再び動き出したとき、審判がアスティナの勝利を宣言。
ワアアア!!
砕けていったものが一箇所にまとまり、元通りになっていた。
はぁ、とアスティナは溜め息をつく。膀胱は限界であるが、まだ栓は持ちそうだ。
リングを降りる彼女は気づけない。ただ終わったことを安堵するので精一杯。
あの鉄槌の破壊力は、恥をせき止める栓の位置を――ずらしてしまった。
一時の休憩。
観客が繰り出す騒音も、ここでは幾らか遠かった。
栓がある安心感から、少し目をつむり体を休めていた。
休憩室にカティアがすっ飛んできて、何事かを叫びだす。
「すごいの、すんごくつよいのよ!」
「要領をえないぞ。最初から頼みたい」
「次の相手はね! イヴォニア家の天才。本来、あなたの腰のものを受け継ぐはずだったひとよ! テビィ・イヴォニア!」
「そうか。イヴォニア家でも名前があがらない。葬られた達人だな」
「さっきの試合すごかったのよ! たぶんあなたより強い、強いのよ!」
わいわいにゃーにゃーと腕を振られて飛び跳ねられる。心配してくれているのだけは伝わってきた。
「影で比較されていたので気になっていた。ちょうどいい機会と受け止めよう」
「あれは大丈夫? チェックする?」
アスティナは固まる。
部屋を見渡すと、まだ何人かいるではないか。
こんなところでチェック……いや、絶対に断る。
「ああ、大丈夫そうだ」
「うん! じゃあ、ファイトしてね! 私も犯人を追い詰めてやるんだから!」
びゅんっと彼女は去ってしまう。
騒がしい友達の声援を喜ばしく思いながら、あとで「チェックしてもらえばよかった」と後悔するハメになるのだった。
[newpage]
準決勝が始まろうとしていた。
どうでもよかったので彼は席を立った。
特別席専用の通路を、イヴァリスは歩く。
トイレと偽り、ばっくれるつもりでいたのだ。
「こら、そこのうなぎ男!」
背後から声を浴びせられた。咎められている?
イヴァリスは意外な訪問者を前に小首を傾げた。
振り向けば、そこにいたのはカティアではないか。
彼女の様子から察するに、どうやら一人になるタイミングを狙われていたようだ。
「あんたが王子の勢力を削ぎ落とすため、アスティナに毒をもった張本人でしょう!」
適当に抜け出し、ほっつき歩く予定が狂ってしまった。
証拠を集められたのではないか、そう胸を高ぶらせ問う。
「どうしてそう思ったのか、理由を教えてくれませんか?」
「ノープランで来ました」
高ぶった胸が意気消沈する。なんだそれはと、がっかりした。
「それはまたどうして?」
「どれだけ調査しても、あんたみたいなウナギ男以外に怪しい人物がいなかったのよ」
「それで?」
「とっちめて吐かせてあげる」
まさかの強硬手段!
「やめてくださいよ。冤罪です」
「最後に物事を解決するのは、だいたいがパワーにゃので」
「ちょっとまってくださいよ」
「この手で終わらせてみせるのよ」
話の噛みあわせがなっていなかった。
カティアは決めたら突き進むタイプらしい。
王子派は穏健と聞いていたが、グリムヴァルドと似た気構えの女性がいたものだ。
「証拠ならあるわ。あなたの干し肉にね!」
これを疑られたのは初めてで、イヴァリスはちょっと気分がよくなる。色の悪い干し肉を懐より取り出し、団扇のように手で弄ぶ。
「秘密? ほう、これにどのような隠し味が? 結構な自信作なのですよ。食べますか?」
「いりません! けっこう!」
カティアは両手を振り、「にゃめ~!」と断固拒否。構え、攻撃の準備に入る。
「美味しくなさそうなのは口に運びません! それに毒が含んであるのでしょう!」
「あー、それは間違っています。これに毒なんて含まれていませんよ」
軽い声は真偽を曖昧にさせるような響きがあった。だが、そんなものはひとをけむに巻く騙しの手段。誤魔化されないとカティアが挑もうとした矢先であった。
「私は悪くありませんからね? 状況と場合が悪かったでしょう。でも、私は悪くありません」
「何をいけしゃあしゃあと、にゃあにゃあで済ませないからね――ンン?」
カティアは眉を寄せ驚く。
体中から汗が噴き出してきた。
まだ攻撃をしてもいないのにだ。
緊張しているのかと、手を握りなおす。
じわっと肉球に大粒の水が出現していた。
目を瞬かせ、にゃににゃに、と小首を傾げる。
「目的はなに?」
イヴァリスは顎をしゃくって、自らの後ろを指さした。
不意打ちを警戒しながら振り向けば、あるのは通路の果て。
コロシアムの観客。支柱で靡く旗。見当たるのはそれだけだ。
「どんな相手がいるのか、どんなひとたちが国を治めているのか興味がありました。でも性分にあっていなかった。なんというか鱗にチリチリと嫌な気配がつきまとって、ゲロの中でも泳いでいるような…………陰湿だった。ちょっと憧れてたのにな」
長々と言いながら、長い首を振るった。何かを否定するみたいだった。
「私にとって、政は面白くありません。ちょっとスリルが足りないのですね。グリムヴァルド様ではありませんけど、斬り伏せられる恐怖がないと、何か物足りなくって。あの刃の中を歩いているような感覚のほうが、ずっと有意義なもので」
「さっぱりわからないから、さっさととっちめて
「あ、これ差し上げます」
イヴァリスはカティアの手に、二枚の干し肉を握らせる。
「これ、解毒剤を練り込んでありまして。噛んでると落ち着きますよ。あなたとアスティナに必要でしょう」
「えにゃ? ちょっと私にも!?」
「はい。さっき危険を感じたもので、つい。だって、あなた昔に剣術大会で優勝したことあるでしょう? 素手で」
「にゃ、にゃにを! い、いつの間に!? いったい、何を!? これが解毒なら、ど、毒はいったいどこに?」
カティアは震えあがった。
ほんの数分前まで体は健康そのもの。
拳を振り上げ暴れる準備も整っていた。
「にゃ、にぃあぁぁ……!」
膝を曲げ前屈み。干し肉を手にした両手が、エプロンドレスの股間に密着する。
またたく間に脂汗を流す。心臓が早鐘を打ち、体中の水分を外に出すと動き出す。
「うーん。せめてもの情けです。私は失禁を見物する趣味はありませんから、観客席に戻ります。無実なのに疑わる材料をつくっては大変ですからね」
いけしゃあしゃあと手を振り、来た道を戻っていった。
「ま、まつにぁあ!!」
腹を力ませ、言葉を張りあげたものの、既に姿はない。
ひとり。尿意を堪える黒猫メイドが通路に残されていた。
通路に響く観客の大声が、神経をビリビリと震わせていく。
「にぁぁぁぁ…………」
喉は自然と呻きをしぼりあげる。
冷や汗が、うなじを伝っていった。
お尻を後ろに突き出す。なんとも女らしからぬポーズ。
「にゃ、で、でにゃい、でぇぇ……」
黒い毛が蒸れていく。何時間もトイレを堪えたような切迫感。
一秒を追うごとに汗が垂れる。額や背を玉が滑って落ちていた。
スカートの内側は煙を溜めたように熱い。涙が目に浮かび出した。
解毒剤と言われた干し肉を口にしたいが、体の硬直が解けなかった。
毒が回ってきているのか、利尿作用に内蔵が、拗られるようだ。
過呼吸。異常な発熱。下着から汗が溢れるほどの発汗。
明らかにアスフィナと同じ症状。やはり犯人だった。
「くぅうう、にゃぁ、ゆるしゃにゃあ……」
前屈みで、大事なところに力を入れる。
唾液を垂らす。涙をこぼす。干し肉を潰す。
股間部に、ぎゅう、っと手を押しつけていた。
びくり!
膝が笑い背骨に刺激が走っていく。
ぼちゃぼちゃと膀胱内の水分が痙攣にあわせ波を打つ。
排泄口を力ませ、圧迫し、筋肉を強張らせ出すまいと堪えた。
じょわぁ……じょ、じゅぅわぁ…………
「やにゃ……あ……」
努力も虚しく、涙や汗と一緒に、黄色いものがスカートから床にポタッとした。
「こにょまま、にゃああ……」
押さえている指。手のひらに厭味なぬくもり。
通路の向こうでは歓声。準決勝が始まっているはず。
友達の武運を祈る余裕を持てず、無意識にトイレを探す。
あるわけがない。わかっているのに目を彷徨わせてしまう。
おしとどめるには頼りないパンツ。とっく染みを作っていた。
ちょろ……ちょろ……じわぁ…………
意志に逆らい膀胱が自らを搾り、流れ出る。少しずつ、溢れ出す。
手のぬくもりが強く、また範囲がひろがっていき、体が湿った。
「にゃ……うぅう…………あ、あのうなぎ……蒲焼きに、してや、やるぅう」
力任せに尿道の位置に指を押さえつけるが、まったく塞げない。
どれだけ制御しようとも、膀胱はチャプンと小水を出そうとしていた。
身を苛ます原因を、いっそ出してしまえたら、どれだけ楽になるだろう。
首を横に振りバカな考えを取っ払った。王子のメイドがしていいわけがない。
ちょろ……
また膀胱は熱水を解き放とうとしていた。
奥歯を噛み締め、唾液をすすり涙をこぼす。
この状況を変えるには、走る以外になかった。
特別席に腰掛ける地位あるもの専用のトイレ。
やむを得ない。そこを使えば、間に合うはず。
心で意を決して、走り出そうと力んだとき。
「カティア? 大丈夫か? いったい、どうしたんだその格好は?」
王子に声をかけられた。
びくっとしながら振り向いてしまった。
じょろっ
「にゃあ……!?」
王子が近づいてくる。靴音を耳にしながら、メイド服の股間を両手で握っていた。
スカートをしわくちゃにしながら、ちょろちょろ、と涙目で、異臭を漂わせている。
「カティア、何かやられたのか?」
心配し急ぎ足で覗き込めば、気づかれてしまった。見られてしまった。
羞恥心に顔中の毛が寝そべった。スカートが言い訳が不可能なほど汚れていた。
腹に込めていた力が抜け、肉体は生理現象を優先し、勢いよく噴き出してしまう。
「にゃ……にゃああ…………」
ぶるぶる、と身を震わせて、そして。
しゅううううう!! ぷしゅあああああああああ~~!!
大量の湯気をあげながら、ボチャボチャ、と床に撒き散らしていく。
尻を突き出した格好。解毒剤を股間に押しつけながら、もう止められない。
「にゃ、い、にゃ……みにゃ、いでぇ…………」
呆然と、王子の眼の前で失禁してしまっていた。
しゃあああああああ! しゅあああああ~~!
ぷしゃぁぁぁぁぁぁぁぁ~~~~! ぼちゃぼちゃ、ぼちゃっ
スカートの広い布地に尿を浴びせ、ときにエプロンを黄色が貫いていった。
これを嗅がれてしまっている。これを聞かれて見られてしまっている。
あまりの屈辱である。恥辱由来の熱気と、尿の成分で肌を痒くした。
ぶしゃあああああ! ぶちゃっちゃちゃ! ぼちゃちゃ、ぼちょちょちょ!!
股を隠して顔隠さず。
みっともない泣き顔を王子に見られながら、その衣に尿を弾けさせてしまった。
すべてを出し切った後に、カティアはくたりと膝をつき、尿の上で啜り泣き出した。
[newpage]
準決勝戦。
石の舞台に役者が揃っていた。
白猫が、薄灰色の猫とむかいあう。
アスティナ以前に、イヴォニア家の天才と呼ばれた男だ。
パッと見た限りでは、礼儀正しそうな紳士に見えてならない。
服装は簡素。長袖と長ズボン。薄っぺらい革靴を履いていた。
腰に下げている長剣は、どこにでもあるナマクラ。出来が悪い。
鞘から抜かずともわかる。ガラクタの中から拾ったような粗末な品。
「はじめまして。いまはまだ、テビィ・イヴォニアだ」
「これは御丁寧に。私はアスティナ・イヴォニアと申します」
できれば自己紹介などせず、いますぐに戦いを始めたかった。しかし、名乗られたのであれば、こちらも名乗るのが筋。騎士の礼儀を軽んじたくはない。明らかな含みがあったとしてもだ。
「次期当主と呼ばれた者同士。すこし話さないか?」
彼は少々ながら背が低い。自然とアスティナは目を下げていた。
「申し訳ない。私は、ここには剣をまじえにきた。それは次の機会に」
「俺は、まあ君を倒すというよりは、優勝し剣術指南役をもぎとるよう頼まれてね。別に無視してもよかったが……俺に二度と干渉しない、俺の名をイヴォニア家から除名するの二つを条件としたら、受け入れてくれてね」
アスティナは笑いが込み上げてきてしまった。
こちらは必死に取り戻すとしているものを、彼は捨てようとしている。
「あとは刃で語り合うとしよう」
「望むところ」
同時に、同じ構えで剣をむけあう。
刃と刃を重ねて、シャンッ、と鳴らす。決闘の姿勢だ。
試合開始の合図を耳に、ほぼ同時に、剣と剣が吠えはじめる。
テビィは長剣を巧みに操り、手首を返すような最低限の動きで突きかかった。
その長剣は、自分の一部のように軽やか。風に彷徨う木の葉を彷彿とさせた。
くっ……かなり熟達している
レイピアで受ければ、たしかな重量と腕力を載せられる。
刀身は光を反射し、細かな傷が、戦いの歴史をアスティナへ語りかけた。
使い手と違い武器は決して嘘偽りを述べない。実戦経験は、こちらより上。
「あたりまえだ。俺のほうが長く生きている」
確固たる自信ではない。
事実を口にした。それだけだ。
しかし、私は、むざむざと敗けるために、赴いたのではない!
レイピアで長剣を脇に避け、腹や胸を目掛けての二連突き。
身を反らし回避されて、二回目を長剣に弾かれてしまう。
横薙ぎにされる刃。身を屈めやり過ごせば蹴りが飛ぶ。
容赦なく顔を狙われていた。足首に手をつけ、身を後退させる。
蹴られるはずの身に勢いをもらい上昇。反動で姿勢を整える。
ひゅんっ!
構える直前。怪物がくちばしを突き出すように、長剣が前進していた。
レイピアのカップ状の飾りを押しあてる。進む方角を変え、アスティナが剣を下から上にと振りあげる。
刃と刃が、ギンッ、とかちあった。
赤い瞬きが起きる。体温を感じあう間合い。
鼻面が触れそうな距離で、猫と猫が睨み合う。
耳の毛を逆立てていた。両者は冷静でありながら、血潮を煮えさせた。
ギリギリと刃が押しつけあい、剣術以上に体術がものを言う状態を維持。
引くに引けず、押すに押せない。表面張力のようにギリギリを保っていた。
ふたりとも攻めあぐね好機を窺う。
「!?!?」
じゅわっ…………
先にブレてしまったのは、アスティナのほうだった。
尿を堰き止めている栓が移動した。ほんの数ミリ、たしかに動いた。
戦いに熱を入れすぎた。膣周りが湿気り、それが潤滑油になっている。
や、やめてくれ……!
準決勝にきてまで、限界になるなど!
また、あの恥を受けなくてはならないのか
いや、違う。
あれを上回る恥を、受けなくてはならない。
ここで漏らせば、取り戻しつつあった欠片が、今度こそ崩壊する。
ポンッ、と栓が押し出される。
あとはコルクを抜いた瓶が、逆さにされるのと同じ。
「いや、いやぁ……」
じょろっ、と最初の黄色が飛び出せば、後は続くだけ。
シィイイイイィイィイィイィィィイイ~~~~!!
尿道が排便をしたら、今のような感覚に陥るかもしれない。
がくんっ! がくんっ! 腰が、膝が、電気を浴びたようになる。
シイィィイイィイイィイィイイイイイイイ!!!!
誤魔化しようのない恥をズボンに噴きつけ、貫通していく。
温水を下着に浸し、押しつけあった両膝に垂れ落ちていった。
あのときのように利き手と剣を穢さぬようにしたが、汚れは汚れ。
腰をくねらせ、膀胱を収縮させる。熱が両足から伝い、湯気にさらされる。
純白の毛は上側に湿り気。下はズブ濡れに。足元はアンモニア臭い水溜まり。
シィイイイイィイィイィイィィイイイイッッッ!!
閉じていた尿道が、じんじんと熱を帯びる。
虫刺されを何回も引っ掻いたみたいな痛痒が、四肢にまで走り抜けた。
気高く気丈になろうとも、決壊した今、自由はきかない。
観客が笑う。大笑いし、嘲笑し罵詈雑言を浴びせかけてくる。
容赦ない悪意の集中砲火の的となり、耳をしょげさせ左手で股間をおさえていた。
シイィイイイイィィイ! シッ! シィイ! シイィィイイィイイ!!
涙を溜め、足のつけ根を熱くする。
「ぁぁあ! ぅ……っ!?」
シイィイイ! プシュシュィィイィイイイイ!!
耳を塞ぎたいが、片手ではどうしようもない。
仮にやれたとしても、嘲りは鼓膜にこびりつく。
焦燥。不安。尿以上に怒涛に押し寄せる感情に精神が潰れる。
濁流にさらわれた砂の城も同然に、あっというまに押し流された。
膝小僧を重ね、背骨を曲げ腰骨を震わせ、膝を屈してしまいそうだ。
猛烈な尿意にメンタルを汚染される。目を閉じても光の瞬きを幻視した。
こんなにも、どうしようもない気持ちになっても、開放に体は快感を得る。
終わった
何もかも、終わってしまった
とても立ち上がれない。立てるわけがない…………
自己否定。尊厳の消失。
嗚咽を漏らしながら前屈みでいる。
大笑いが聞こえる中――テビィは言った。
「俺はイヴォニア家が大嫌いだ。よくしてもらったことはない」
藪から棒に、彼は肩をすくめてみせた。
「まだ、出し尽くしてないだろう? それで終わったら、俺がここに来た意味がない」
さらに突飛なことに、自分の上着を脱ぎ始める。
あらわれたのは、複数の傷。毛穴を潰すほど深いものが、あちこちに残っていた。
撫でるものから深く押し込められたものまで、実に様々だ。しかし、どうにも不自然だった。急所の付近にはほとんど傷が見当たらない。
「稽古だなんだと口実に。玩具みたいに刺されてきた。斬られてきた。親に兄弟に親族に、あいつらの気持ちをよくさせるための藁人形。それが俺だった」
テビィは傷のひとつひとつをなぞりあげ、自嘲する。
「恐怖に震え打ち負かされては涙に鼻水をこぼした。床や地面をのたうって、血に小便にまみれながら騎士道がどうのと嘲られた。俺はイヴォニア家の中でも、だいぶ下のほうだった。立場も、精神のほうもな」
弱虫で内気だったのもいけない。吐き捨てるように添え、厳しい目をむけ。構えをとっていた。
「勝ちたくなった。強くなりたくなった。そうしたら才能に溢れるだとよ、立派な騎士道だと鼻で笑って、さっさと逃げさせてもらった。俺が抜けた後に後継者争いをして潰しあえばいいと呪いながら」
「………………」
「イヴォニア家のアスティナとまで言われた才女だろ。俺は今日、その鼻持ちならないレイピアと、イヴォニア家の精神をへし折りにきた」
アスティナは自らを見下ろす。湯気が立ち、足元では黄色がひろがった。
尻から背中。下腹部。両足の外側を抜かして、ほぼ小便の染みが出来ていた。
今日ここになにをしにきたのか。バラバラになったものが、つながっていく。
「あまり口を出させるなよ。談笑しにきたわけじゃないと、言ったのは誰だ?」
泣いてどうなる。
悔いてどうする。
温かく毛並みを汚した。
肌は少し痒い。目も傷んだ。
だが、剣は一度も手放していない。
「すまなかった。テビィ殿」
アスティナは濡れながらも、恥じながらも、勇ましく立った。
「続きをしよう」
それに、テビィは躊躇なく応じる。剣からは加減が見当たらない。
腕を縮こまらせては、伸びやかに突進させる。シンプルな連続攻撃。
その一回ずつを、位置を調整しながらレイピアで外へ逸していく。
小水をブーツにまで染み込ませたまま、足跡をつくりながらも集中する。
「ようやくだ。らしくなってきたじゃないか」
テビィは大口を開け、血眼になる。
憎しみの矛先が、肌に打ちつけられた。
体の余計なものが外に出て、臭いをあげた。
顎下から額にまで、その湿りが到達しても。
「ああ。テビィ殿に感謝しよう」
泣きじゃくり赤くなった灰色の瞳を、閉じたりしない。
彼の連続突きは腕を使うだけの大雑把なものに見えるが。
下半身。背筋に至るまでを土台とし、矢を放つように正確無比。
彼の動きは力強く、しかし繊細。紛れもなくイヴォニア家の剣技。
右に左に刃を薙がれる。足から振るう、鍛錬がなくては不可能な追撃。
アスティナは紙一重。彼の剣に服や首に頬の毛が切り落とされていった。
長剣の先端は正確にレイピアの動きを追っていた。所有者のテビィ、その眼光は冷たく研ぎ澄まされ、戦いに燃えていた。
シュッ、シュッ
ナマクラは重さに相反して、浮かぶような唸りをあげる。
猛獣が獲物を狙うかのように精密で、獰猛な殺意が内包されていた。
なんという目をするのだ
赤い蜘蛛の巣。
目が血走っている。
溢れんばかりの憎しみ。
過去の全てを叩きつけるよう。
痛々しくなるほどの苦悩が滲んだ。
アスティナにはない負の力であった。
二つの剣がぶつかり合う瞬間。
高く澄んだ響きをコロシアムに打ち鳴らす。
半歩の距離にまで迫り、刃と刃がかみあわさる。
鍔迫り合い。
ただの力のぶつかり合いではなく、技術と意志の競い合いだった。
足元から尿の雫。冷や汗のようにリングへ滴る。テビィは気にもとめない。
半歩の距離を遠ざかり、また刃同士を激突させた。同じ距離を維持する。
長剣は鈍く、レイピアは軽く、正反対の調べをリングに掻き鳴らす。
傷だらけの長剣は、その重みを生かしレイピアを押し返していく。
曇りひとつないレイピアは、最小限の力加減で拮抗を作り出す。
先に腕を引いたのはアスティナ。勢いを受け反らしてやる。
テビィは、これしきでバランスを崩す相手ではなかった。
「シャッ!」
テビィの掛け声は、雄々しく荒々しい。
怨恨を両目から溢れさせる。毛を逆立て、唸る表情。
長年に溜め込んでいたものを、磨いた五体に注いでいる。
テビィの長剣は、ただ強力なだけでなく、その柄を握る手の微妙な感覚によって、まるで生きているかのように動き、アスティナの隙を突こうと狡猾に狙いをつける。
だが、アスティナも突風の動きと的確な突きで応戦していた。
「そうこなくてはな……ますます、へし折りたい!」
「私の精神は、もう二度と、だれにも折らせはしない」
剣は何度も交わり、その都度に火花を散らし、戦いの熱をさらに高めた。
この一瞬一瞬の攻防に技術と意地を詰め込み、刃の会話をくりひろげる。
レイピアは、スピーディーに輝き、蛇のようにしなやかにテビィを狙った。
その悉くが傷だらけの長剣で受けられ、ときに弾かれる。アスティナは怯まない。
「ハッ!」
アスティナの突きは狙いを定め、疾風のように襲いかかる。
肩口に触れる直前に、長剣が横から巧みに軌道を変えた。
「つっ……!」
剣の柄で手首を打ちつけられる。骨に鈍い感触がして、肉が鋭く痛む。
しかし彼女は一瞬のうちにバランスを取り戻し、再び距離を詰めていった。
アスティナはテビィと何度もすれ違う。その度に刃がアスティナの服を裂く。
鍔迫り合いでは、力と力がぶつかりあう。強烈な振動がふたりの腕を貫いた。
ぽたり……ぽたり……
ズボンから滲み出る恥の存在。いくつもの残尿で足跡をつくりあげる。
アスティナは足を止めない。呼吸を止めない。目をそらさない。諦めない。
「この程度か。あのイヴォニア家のアスティナは!」
一切の疲れを見せず、余裕を切らさないテビィの攻めは苛烈さを増す。
長剣は、その一撃一撃に重さと力を感じさせるが、レイピアはその鋭さで応じ、リングで舞踏のように互いの攻撃を交わしていく。火花がふたりの間を彩り、汗をこぼす。
不名誉な半身を曝しあう。ひたすらに研鑽した身を遮二無二ぶつけあった。
交差する刃は激しさを増すばかり。名剣が欠けそうだ。
アスティナが疲労から反応が遅れて、踏み込みが浅くなる。
長剣が、その隙を斬り上げる。顎下に迫ったそれを弓なりに回避。
「そこっ!」
レイピアが空を突き、テビィの頬をかすめていった。彼はわずかに顔をしかめながらも、またたく間に構えを取り直す。薄灰色の毛。その一本すらアスティナは斬り落とせずにいた。
ふたりの剣は、再び激しく交錯する。
刃が体当たりの格好。密着距離になった。
「こんなに鍔迫り合いをしたのは、久しぶりだ」
「私は初めてだ」
火照った息と身を互いに感じあう。
相手の実力は、こちらと比較して上だ。
この準決勝に足をかけるまで、多少なりとも消耗はしていた。
一方アスティナは脱水症状が追加され、少しずつキレが失われた。
いいや、言い訳はよそう
テビィ殿は、私以上に強い
彼の生きた年数に比例し、いや、流した血の数だけ圧倒されている。
すでに均衡は崩れつつある。身に刃が触れているのは、アスティナだけだ。
埋めようのない力の差を感じてしまうな
ならば、埋められる場所を探していこう
彼に上回っている部分。確実なるものが一つだけ存在していた。
柄を握る力加減を変えて、濡れたブーツで擦り足をやり目測を図る。
狙いに気がつかれたら、二度と勝機は訪れない
ゆえに、チャンスは一度きり。
彼の憎しみを利用する。力の拮抗をつくろうと、剣を突き出す。
そら、攻めようとしてくる
腕を引き、伸ばす。くりかえす。
彼がしたのと同じ構え、連続の突きを見舞う。
だが見切られる。攻撃が遅くなったわけではない。
刃を交えようともせず、身をずらすだけで避けられた。
薄灰色の毛。その一本に、一度も届かせて貰えなかった。
これが実戦経験の違いか
私に慣れるまでが、想像以上に素早い
しかも、テビィには油断がなかった。
長剣が薙ぐと見せかけ停止。突きに変わった。
「!?」
顔に目掛けての突き。
頬に赤い筋が垂れていき、痛覚に刺激。
回避しきれず、頬の皮膚をもっていかれた。
尿をポタポタと垂らしながらの、僅かな後退。
首筋の輪郭を撫でる突風みたいな横薙ぎが迫る。
だとしても――アスティナは目をそらさなかった。
ここだ!!
最後の勝機に、足掻いて、喰らいつく。
突きにあわせて――突きを放つ。
刃が擦りあわさる。
レイピアと長剣が交差していく瞬間。
アスティナは手首をうちに返し、円を描いていく。
つけ根にあるカップ状の装飾を長剣の平に激突させた。
実力が上回る相手には、余程のことがなければ通じない。
テビィの力と勢いにアスティナ自身のそれらを上乗せする。
長剣は頑丈な丸みを押しつけられて、刃の傷が、断末魔をあげた。
ベキッ!
そんな音がしたわけではないが、何かが折れるのを、アスティナは耳にした。
半ばから衝撃を受け、古傷を割り開き、テビィの長剣がへし折られていた。
軽くなった自分の得物を、テビィは何とも言えない表情で眺めている。
「いまの、武器を絡め取る技じゃないのか?」
「絡め取らせてくれるとは、とても思えなかってもので。そのための装飾でないのは知っているはず」
「だからか。カウンターによる破壊を、想像されないと。やられた」
目は血走り、威嚇の表情をしていたものの。
テビィはどこかしら納得したふうに、折れたものをリングに投げた。
「その名剣。奪われるなよ」
「これは、あなたにも譲りたくありません。テビィ殿」
「なんだい?」
「手合わせに感謝いたします」
「こちらこそ、どうもありがとう」
それきり会話は打ち切られた。
「……まったくもって、こんなふうになるのは慣れないものだ」
アスティナは観客が沸いているのにも気がつかず、股間の汚れを再び恥じ入った。
選手用の通路を歩き、十字路に差し掛かる。左右にあるのはスタッフ専用だ。気配があるのはなぜだろうか、そうおもっていると黒い片手が出てきた。カティアがいるらしい。
「あ、あの、あのあの、あのね、えっと、にゃんとねぇ……にゃっとねぇ」
「……?」
カティアは曲がり角から出てこようとしなかった。声は震えていた。
小便の臭いが濃い。戦いで二度目があったのだろうか。覚えがなかった。
「次の対戦相手だけど、黒いの、すっごく黒いの」
「……? わざわざそんなことを伝えにきたのか?」
「あの、きいたことない? 黒狼の冒険者って、噂話……あのひと、らしい、にゃぁ」
先程から声が震えていて、聞き取りづらい。
覗き込むと。彼女は何故かボロ布で体を覆っている。
おそらく誰かが忘れたマントか、衣服のどらかだろう。
具合が悪いのか俯き、顔をあわせようともしなかった。
似たような格好でいるのは、見知った獅子の子供。
「これは、ギャヴィン王子……お見苦しい姿をさらして、誠にもうしわけありませぬ」
膝をつき礼をすると、じゅわじゅわ、と股間から黄色い恥が垂れていった。心底に情けなくなるが、もう出してしまったものと諦めがついていた。それはそれとして面目ない上に羞恥心で首から先が灼けてしまう。
「う、ううん……いいよ……すごく、りっぱで、かっこよかったよ……」
王子の声も妙にあがっているような、火照っているような、なぜか照れたふうに感じられた。ますます意味がわからず、目をしばたかせた。
「王子? いかがなさいましたか?」
「あのね、にゃんでも、にゃーいというか、疲れてるの」
色々あったのだろうとアスティナは疑わなかった。
「必ずや優勝し、これまでの恥を雪いでごらんにいれます」
力強く言ってみせるが、小便にまみれている自分はバカ丸出しもいいところではないか。そう俯いたまま、頬を赤らめていた。
「あ、あとね……これ、食べてにゃあ」
差し出されるのは、見覚えがあるような薄汚い干し肉。
嫌悪感に眉を寄せる。意識してしまったせいか尿の臭いが濃い。
心なしか、この干し肉から発せられているような気がしてならない。
それがどういう経緯で臭っているのか、知らぬが仏というやつであった。
「ん……変わった味だな……」
「あの脱水を起こす毒を、中和してくれる……解毒薬らしい、にゃ、あ」
「そうだったのか。もしやイヴァリスのものか?」
返答はない。
あのとき差し出されたものを口にしていれば、こうはならなかったのか。
とはいえ、敵対勢力から手渡しされたものを大人しく食べるわけもない。
ワアアアアアア!!
少しは休憩できると思っていたが。
決勝戦の相手が決まったらしい。高らかと、審判の勝利宣言が耳に届く。
[newpage]
決勝戦の相手は、カティアの言った通り。
伊達でマントを使うものもいるが、彼は本物だ。
風でバサバサとなびいている姿に迫力があった。
あれが黒狼の冒険者、ルドルフか……
随分と重装甲だ。戦場を闊歩するような
噂に違わぬ黒一色で、表情が読みづらい。
黒い。頭から耳も、尻尾の先も、黒々としている。
威圧感も底が知れぬ。深い穴や洞窟を覗く気配がした。
無骨な大剣も黒い。素材が何なのか見当がつかなかった。
あの巨大な鉄槌とは別種のものを感じ取って、眉を顰める。
しかし、なんだあれは?
本当に普段遣いの装備なのか?
家柄がよく財産も豊富であったイヴォニア家にいれば、自然と審美眼は磨かれる。どういう名品なのか、腕によりをかけ作られた品であるのかを読み取れた。
なのに、ルドルフの装備については、良し悪しもわからない。
鎧といい剣といい、どういう相手を想定している?
黒一色で塗り固めている。何か理由があるはず。
あれだけ巨大な剣だと、一回戦の金棒が可愛く思えた。
長身で割腹のよい肉体を、黒い金属で鱗みたいに覆っている。
ふう、と一呼吸。ただの空気であるのに鉛のように黒く重い。
彼は剣を肩に担ぎ、鎧に刃を載せた格好を維持していた。
開始の合図と同時に、あれを横薙ぎにするつもりか。
こちらはレイピア。小回りでは圧倒しているはず。
半身が濡れているからとて気後れはしたくない。
「……ふう」
溜め息をつかれてしまう。
どこか億劫そうな色合いだった。
まさか小便垂れの小娘を相手取るのは気は引けるのか。
心配無用と声をあげようとしたとき、彼は片手を掲げた。
「なに? どういうつもりだ?」
「……棄権だ……乗り気がしない」
「なぜだ? 私を侮っているのならば許さない」
ルドルフはやりづらそうに目を細めていた。
「なぜって、おまえが辛いだろ?」
偶然なのか、必然なのか。
胸に突き刺さる言葉だった。
情けをかけているのではない。
純粋に、相手を思いやった台詞。
「いま……俺が長引かせちまったら悪い……そっちほど優勝に思い入れもない……。必死そうだし、何か理由があるんだろう? それを邪魔しちゃあ、悪いと思ったんだ」
棄権の言葉に、大勢が目を丸くしていた。
いまもルドルフは片手をあげている。
「ふざけるなっ! 何が黒狼の冒険者だ! 腰抜けではないか!!」
グリムヴァルドは観客席から身を乗り出し、襲いかからんばかりだった。
彼の手のものは、すでにルドルフとアスティナの両名に倒され、リングから去った。
隣にいるイヴァリスは腹を抱え笑っていた。喜劇でも観たような様子にアスティナは呆れた。
「あいつは本当に、腹の底が読めないな……」
ポツッと言い終えるが、いまもトイレに向かいたくて仕方がなかった。
早く終わるならば嬉しいものの、グリムヴァルドはそれをよしとしない。
「勝てば賞金がたんまり支払われる! 観客も俺も、おまえとそいつの決着を待ち望んでいるのだぞ!!」
そうだ! そうだそうだ!
戦え! 決勝戦をみせろよ!
大勢が、やいのやいのと大賑わい。
それでもルドルフは意見を変えなかった。
「……俺は望んでいない。彼女は、もう十分戦ってきただろ……」
彼は冒険者であるが人情というものを知っていた。
アルティナは冒険者などゴロツキばかりと疑わなかったが、偏見を改める切っ掛けを得る。
「というか、なんで戦わせたがるんだ……アスティナって有名な騎士だろ?」
ルドルフは耳の後ろを引っかきながら、さらに続ける。
「何かされているから、あんなふうになっているんじゃないか……それを正すのが、そこの席に座ってるひとたちじゃないのか? 俺に彼女を倒せと言っているように聞こえるが、そういうのは魂胆が透けて見えるぞ……利用されるのはゴメンだ」
久方ぶりだ。こんなふうに庇ってもらえるのは。
この冒険者は王族を前に、全く物怖じしない。
だが、グリムヴァルドは更に言葉を重ねた。
「いいのか! これを逃せば次はないぞ! ギャヴィン王子の剣術指南役に取り立てられる。生涯に一度の大チャンスではないのか! わかっているのか、王族から重用される破格の待遇が待っているのだぞ!」
「……剣術指南役?」
黒狼の冒険者は眉を大きくあげる。
さすがに心が動いたのか。グリムヴァルドはニヤけるが。
「……そんな話があったなんて聞いていなかった……」
「最近に決められている。わかったらさっさと――」
「ますます戦う理由がなくなった」
ポカン、とグリムヴァルドは目を点にする。
隣のイヴァリスは椅子から転げ落ちてしまった。
「どこかに居座るつもりはない……それに俺のは我流だ。一国の将来を担う王子に習得させたいもんじゃない」
彼は剣を背に戻し、グリムヴァルドの叫びを捨て置き、さっさとリングを降りて行ってしまった。
「も、戻ってこい! アスティナを討ち取らんか!」
「……悪いな、連れを待たせてるんだ……手合わせは……まあ面倒でなければ次の機会にとっておこう」
「あ、ああ……そちらが望むならば、私は剣をいつでも抜こう。それより」
「ン?」
「助力に感謝する。なんと礼を言えばいいか」
「……長引かせないほうがいいぞ、つらくなるからな」
彼は言って、背を向け一度も振り返らず、足早に去っていった。
荒々しく物騒な男と耳にしていた。想像以上に紳士的ではないか。
勝者の宣言が行われる。下半身が大濡れであろうとも、掴んだ勝利は変わらない。
うむ。私は、成すべきことを、成し遂げたぞ。
どれだけ臭っていても、濡れていても、恥じらっていても。
頬を赤らめ目を潤ませ、優勝者のしきたりに習う。剣の先端を空へ掲げる。
アスティナの心は晴れやかだ。求めているものを掴み、掲げられたのだから。
やがて、万雷の拍手が、夕暮れをつんざくように轟き渡った。
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特別席とつながる通路。
光の向こうでは、観客から惜しみない賞賛を受けるアスティナがいた。
小便を漏らし、生き恥を曝した小娘! それが尊敬を恣にしているのだ。
納得できるわけがない。完全に、世論は小便娘を嘲る方に進んでいたはず。
だというのに、あの浮かれた叫びはいったいどうしたことなのか。
「すべて水の泡ではないか!」
鎧を着込む熊は愚兄と蔑む国王を頭に浮かべる。
あの日和見から玉座を奪う道が、遠ざかっていく。
「役立たずの能無し蛇めが、この落とし前をどうつける!?」
グリムヴァルドが拳を通路に叩きつけ、破砕させた。
怒鳴られるイヴァリスはどこ吹く風。笑いすぎて泣く始末だ。
次に、イヴァリスは「ふぅぅ」と息をふきかけるように吐いた。
「いいじゃないですか。イヴォニア家との確執があるでしょうから、完全に元通りとはいきませんもの」
「そういう問題ではない。たわけが! おまえのような陰湿な蛇を、引き入れたのが間違いだった。斬り捨ててくれるわ!!」
腰の得物を引き抜こうとして、グリムヴァルドは後方に倒れていった。
仰向けになり、わけがわからないと目をパチパチとやるが、口一つ動かない。
「毒です。麻痺するやつなので、死にはしません」
なんてことないように言って、イヴァリスは懐の何かを、グリムヴァルドの鎧の隙間にグイグイと押し込んでいった。
「どうやっているか知られたら商売上がったりなので言いません。こちらにアスティナへ使った毒と効力が似たものをプレゼントします。これはですね、王子派が欲しがっている証拠になっちゃうんです」
ケラケラと仰天する熊を見下ろし、王宮暮らしとオサラバしようとしたとき。
鼻面を壁に激突させた。冷たくて痛い。なんだと見上げると、黒い狼の顔がある。
「……よお、あいたかったぞ」
「ルドルフじゃありませんか、ここは立ち入り禁止……ぐえ」
喉を掴まれ、軽々ともちあげられてしまった。彼の目は至って冷静だが、イヴァリスは恨みを買った覚えがない。何しろ彼とは初対面である。だから反応が遅れてしまった。
「な、なんの恨みがあって……!」
「……依頼だからな……やんちゃが過ぎたわけだ」
言葉で惑わし、逃げようとするが、喉を指で圧迫された。息を吸えず言葉も出せない。
「よくも友達に毒を吐きやがって、裏切り者。そういう伝言もある」
彼は懐からテープを取り出すと、蛇の口をぐるぐると巻いてしまう。
唸り抵抗するイヴァリスであるが、ルドルフは少しも怯んでくれなかった。
[newpage]
すべてが終わった。
アスティナは厄介になっているカティアの部屋で、目を覚ます。
剣術指南役に戻れたからといっても、近衛ではなく、またイヴォニア家の門を潜ってもいない。
いくら小便だとか小水だとか、漏らしたと言われても気にならない。
彼女はメイドであるが、ほかのメイドと違い王子の専属であるからか。
あまり家事炊事をしない。物を運んだり話し相手になったり、護衛をするなどがメインらしい。
「おはよう、気分はどう?」
「……あの変な肉を食べてから、また調子が戻ってきたようだ」
メイドは目をそらした。
「そ、それは、よかった、にゃあ……お腹を壊しても、いないようでぇ」
「? ああ。毒など、カティアが渡すわけがないからな。信じている」
「その、全幅の信頼がちょっと心にプレッシャーというかにゃぁ」
頭に疑問符を並べていると、カティアはパンパンと手を打った。
ホットケーキと紅茶が用意されている。遠慮なくテーブルにつく。
騎士たるもの。食事の前に祈りはかかさない。手を組み心で言葉を紡ぐ。
それを終えてから、ナイフとフォークを手にした。
「どうした?」
カティアがテーブルに突っ伏し、溶けてしまっている。
「うにゃーん。いろいろあったから疲れちゃってぇ、いやになっちゃってぇ」
「まさかイヴォニア家を取り入れなくとも、グリムヴァルドの勢力が瓦解するとはな」
一番の心配事であったグリムヴァルドは毒物を鎧に忍ばせていた。
あれがイヴァリスに渡したものか、イヴァリスに渡されたものかは不明。
捕らえられている王弟は未だに無実を訴えているが、結構な埃も出てきた。
これからは王位継承権を剥奪。ほかにも称号や地位を取り下げられるだろう。
「王子の行く末が安泰であれば、私は言うことはない。陛下にも面目がたつ、私の矜持や忠誠も守られた」
はむ、と蜜たっぷりの生地を咀嚼する。
するとカティアは溶けたまま、へらへらと笑い出す。
「王子といえばねぇ。私がその、アクシデントがあってからにゃ~。私がおトイレの最中にまでついてくるようになっちゃって、ほんともう、安心したから甘えん坊になっちゃったみたいでにゃぁ~~」
惚気ているような、自慢話のような、弟自慢のような。どれとも受け取れる欲張りな微笑みであった。
「そうか。私が声をかけたときも、声を上ずらせておいでだった。うつむいておられるばかりか、指は震え足も硬直していらっしゃった。ご加減が優れないのではないか?」
「うーん……でも医者を呼んだら、別に変じゃないって。恋の病だったりして?」
「まさか」
そう笑って紅茶を口に運ぶアスティナは、カティアと談笑を楽しむ。
これから、国王が遠征から戻るまでは安泰だろう。そう確信していた。
ただひとつ、ギャヴィン王子にちょっとした癖がついたのは、やむを得ない代償というほかになかった。