事実のみを嗅ぎ分けよ

  「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。

  [[rb:獣人>じゅうじん]]――[[rb:犬狼族>けんろうぞく]]の男で、痩せて背の高いボルゾイ系の容姿は[[rb:日本人>・・・]]には珍しい。仕立ての良いスリーピースの背広をきっちりと着こなしている。

  彼は[[rb:嗅覚判定士>きゅうかくはんていし・]][[rb:資格認定試験>しかくにんていしけん]]における実技試験の監督官である。

  その[[rb:手許>てもと]]に置かれた判定台の上では、受験者である[[rb:柴本>しばもと]]が選んだ[[rb:臭紋>しゅうもん]]キューブが、紫外線灯に照らされて蛍光色を放っている。

  試験に用いられるキューブは、正しい答えのものには無臭の蛍光塗料を染み込ませることが決められている。もし不正解ならば、立方体の色は白から変わらない筈だ。全一〇問のうち、またひとつ正解したことを示していた。

  「おっ! ここまで全問正解か。やったぜ!!」「お静かに」

  空気を読まず[[rb:快哉>かいさい]]を上げる柴本に、監督官は[[rb:眉間>みけん]]にしわを寄せて咳払いをした。

  試験会場である[[rb:河都大学>こうとだいがく]]共通B棟の講堂は、静かだが重苦しい[[rb:緊張の匂い>・・・・・]]に満ちている。

  彼らの後方では、すでに三回のチャンスを使い切ってしまった受験者ふたりが、肩を落としてとぼとぼとした歩みで出口に向かっているところだった。今や、広く殺風景な講堂に残っているのは、柴本と監督官だけである。

  鋭く確かな嗅覚を持っていることを証明する資格、[[rb:嗅覚判定士>きゅうかくはんていし]]。

  資格を持つ者の大半は獣人だ。その例に漏れず、[[rb:柴本光義>しばもと・みつよし]]もまた犬狼族の獣人である。

  [[rb:わたし>・・・]]の同居人であるこの男は、[[rb:柴犬>しばいぬ]]なる系統に属する。監督官とは違い、この国で生まれた獣人としてはよくある感じの見た目。

  もう少し付け加えるならば、先祖にコーギーの血が混じっていることによる胴長短足かつ寸胴な体型あたりか。

  「まだ半分です。あと五問ありますよ」「うっす」

  判定済みのキューブを台の上から片付けながら、ボルゾイの監督官は続けた。

  試験に失敗したふたりが完全に退出したのを見届けてから、キャスター付きワゴンの棚から樹脂製のトレイを取り出し、柴本へと差し出す。

  トレイの上には二五個の白い立方体が載っていた。どれも一辺の大きさは二センチくらい。色も質感も掃除に使うメラミンスポンジによく似ている。

  [[rb:臭紋>しゅうもん]]キューブと呼ばれるこれらの物品は、匂いを染みこませて記録しておくために嗅覚判定士たちによって使われる。殺人事件の現場に残された犯人の痕跡をたどるために、あるいは食品の偽装や異物混入の可能性を調べる用途まで、資格保持者ともども様々な局面で活躍している。

  「五つ選んで取ってください。合図があるまで、絶対に匂いを嗅いではいけません」「へーい」

  キューブの見た目はどれも同じだ。柴本は直感にしたがい、薄手の手袋をはめた手で二五個のうち五個をつまみ取り、小さなトレイに移し替えた。

  嗅覚判定士の資格認定試験は、筆記と実技の二段階に分けて行われる。

  まず筆記試験では、関連する法令や化学物質の特徴などについて問われる。こちらは高校を卒業する程度の学力があれば、誰でも――つまり種族は関係なく合格を狙える。

  もう一方の実技試験には、種族的な資質が要求された。

  匂いを染みこませた二五個のキューブのなかから、受験者は五個を選んで取る。サンプルとなる物品と選んだ五個の匂いを嗅ぎ比べ、一致するか否かを調べるものだ。合格基準となる七問以上を正答させるのは、獣人の鋭い嗅覚をもってしても困難だ。

  願書の提出だけならばどの種族でも可能だ。けれども、実技試験が難易度を格段に引き上げ、かつ資格を持つ者のほとんどを獣人が占める状況を作り出していた。

  種族差別を促す悪しき制度だと訴える人々は一定数いるようで、廃止を求める声はたびたび上がる。けれども、現在の生活や産業のあらゆる場面で、判定士を欠かすことは出来ないのが実状だ。

  人類――[[rb:マンカインド>mankind]]あるいは[[rb:サピエンス>sapiens]]およびその社会は、人間や獣人など複雑な社会を構築可能ないくつかの生物種によって構成される。外見や身体能力に違いのある種族が入り混じって暮らせば、不平等から来る不満や格差、その他の問題が生じることは避けられない。けれども、違う者同士が互いに助け合うことによる良さもまた、確かにあるのだ。

  多種族共生を理想として掲げる[[rb:河都市>こうとし]]に移り住み、種族違いの同居人と一緒に暮らし続けるなかで、わたしはそれを強く実感している。

  この場にいないわたしではなく、柴本たちに話を戻そう。

  柴本が五個のキューブを選んでトレイの上に置いたのを見計らい、監督官は密閉式の容器からサンプルを取り出した。

  穴の空いた透明なプラスチックケースの中には、深い切れ込みの入った植物の葉と茎が入っていた。大麻である。日本では[[rb:薬物取締法>やくぶつとりしまりほう]]によって、所持しているだけで罪に問われる。

  「あなたが選んだ五つのキューブは、大麻の所持が疑われる人物を模したものです。所持している人物を特定しなくてはなりません。始めてください」

  試験官の声を合図に、柴本はサンプルの入ったプラスチックケースを手に持った。横に開けられた通気穴に鼻をくっつけて息を吸い込む。青臭さと甘さが入り混じった匂いが[[rb:鼻腔>びくう]]を満たした。

  匂いを軽く覚えるだけに留め、すぐにケースを机の上に戻す。長時間匂いを嗅ぎすぎると鼻が慣れてしまい、キューブに染みこませてある匂いを嗅ぎ分けるのは難しくなってしまうのだと、後に柴本は教えてくれた。

  サンプルの匂いを思い出しながら、キューブの一つを手にとって鼻を近付け、スーッと息を吸い込む。

  [[rb:雑匂>ノイズ]]が多い。柴本は思わず顔をしかめた。

  「うわ。これうるせぇな……」「お静かに! 私語は減点しますよ!」

  口の端を引きつらせた監督官が、先ほどより強い口調で言い放った。

  「えぇー!? そんな決まりありましたっけ?」

  「たった今、決めました。ひとつ。私語は減点一。ひとつ。[[rb:監督官>わたし]]の言うことは絶対。以上」

  「横暴だー! 理不尽だー!」

  ブーイングを飛ばす柴本に対し、ボルゾイの美丈夫はすかさず

  「ハイさっそく減点一! あと二回♪ あと二回♪ ……うるさい!! 手拍子すんな!!」

  ちょっと面白くなってきたのか、節を付けて[[rb:囃>はや]]すような調子で言う。そこに合いの手を入れる柴本に鋭い突っ込みを入れた。

  氷のような冷たさ鋭さが先立つ見た目に反して、プライベートでは意外と陽気な人柄なのかもしれない。それが柴本による彼に対する人物評であった。確かに、五問の時点で全問正解していることを指して『チャンスは残り三回です』などと表現する辺り、独特の――少々ひねくれたユーモアのセンスがありそうだ。

  なお、柴本は一緒に酒とか呑んだら面白いだろうなとも言っていた。が、この掴みどころのない美男が、仕事の延長上の呑みニケーションも楽しめるタイプか否かについてまで、今ひとつ想像が及ばない。

  また話が逸れるところだった。

  五つのキューブのうちひとつは、酷い[[rb:雑匂>ノイズ]]が込められていて、調査対象である大麻の匂いを嗅ぎ分けるのは難しいように思えた。が、業種を問わず実際の現場では、様々な匂いが入り乱れた中から目当てのモノを嗅ぎ分ける技術は必ず求められる。

  キューブを鼻に近付け、嗅覚を研ぎ澄まさせるべく目を閉じてから息を吸い込む。

  そうして、まぶたの裏に匂いにもとづいて風景を描き出すことを試みた。

  紙と枯れた草が焼け焦げる甘苦い匂い。これはタバコだろう。柴本は仮定しようとして――いや違う。甘さと青臭さが入り混じる特有の香気いや臭気。大麻だ。このキューブは"クロ"だと確信する。ジョイントと呼ばれる紙に巻いたタイプ。そういう設定で作られているらしい。それだけ分かれば試験への回答としては充分だった。が、出題者はより多くの情報を込めているようだ。

  単に受験者を困らせるためではない。そんな気がした。

  自らの[[rb:嗅覚>はな]]を頼りに、匂いという字の無い手紙を読み解いてゆく。嗅覚判定士の資格は、その確かさを示すものだ。ならばこそ、目の前に置かれた手紙を一字一句に至るまでつぶさに読み取るのが役目であろう。

  そう考えた柴本は、手紙の差出人――この場合は問題の出題者――が何を込めたのかを知るべく、今ふたたび深く息を吸い込んだ。

  甘ったるい煙の奥、人影が浮かび上がる。脂じみた、きつい体臭。獣人だ。大柄な犬狼族か。いや違う。[[rb:熊族>くまぞく]]。男だ。風呂に入っていない日数は数日どころじゃない。

  むせかえるような雄の臭いで自分の弱さを覆い隠し、精一杯の虚勢を張る。見苦しく野暮ったい、けれども何としても己を貫かんとするところに、どこか気高さや美しさに似た気配を感じたとも語ってくれた。それがかえって、物悲しさを一層際立たせていたと。

  大麻と酒に溺れるしかなかった哀れな男。もしかしたらこれは、出題者がよく知る――そしてもう二度と会えない誰かの姿だろうと柴本は思った。まぶたの奥に悲哀と絶望の臭気を帯びた顔が、ゆらめいて映る。呼びかけようとしたところで、幻は終わった。

  「大丈夫ですか?」

  肩を叩かれて柴本は我に返った。

  「え、……ああ」

  ぼんやり開けた目の先で、ボルゾイの[[rb:細面>ほそおもて]]が心配そうな表情で見おろしている。

  「かなり時間をかけましたね。五個すべてを嗅ぎ分けなければ点数にはなりませんよ」

  「分かってます。受けるのはこれで三回目なんで」

  一つめのキューブを"該当"のトレイに置いてから二つ目を取って臭いを嗅ぎ、手早く"非該当"のトレイに移した。

  今度はあくまで流れ作業で、サンプルの匂いだけを選んで嗅ぎ分けた。

  「急ごうと思えば出来るんですね」

  呆れたような声の監督官に、柴本はキューブを検分する手と鼻を止めぬまま言葉を返す。

  「さっきのは手紙みたいだったから」「試験問題がですか?」

  切れ長の目を光らせて自分を見る監督官を意識しながらも、作業の手と鼻は休めない。三つ目は"該当"。

  「単なるノイズにしては訴えてくるっていうか。上手く言えねぇけど、そんな気がしたんです」

  「ふむ、興味深いな。伝えておきましょう」

  端末を手に取ると何かを入力し、ふたたび机の上に置いた。四つ目は"非該当"。

  「で、その手紙は泣くような話だったんですか?」

  五つ目を"非該当"に置く赤毛の受験者を横目で見、時計を確認しながら監督官は疑問を口にした。

  指摘を受け、柴本は目元をひとすじ伝う涙を太短い指で拭い

  「花粉症かな。同居人がそりゃもう酷くって」

  「うつる病気じゃないですよ。あ、今回も正解です。おめでとう」

  "該当"と"非該当"のトレイそれぞれを判定台の上に載せ、どこか嬉しそうに声を弾ませながら続けた。

  「七問目の前に、ひとつだけ忠告を。他人に深入りし過ぎるのは良くありませんよ。匂いは文字や言葉よりもずっと強く、心を引っ張りますから」

  「分かってます。でも性分なんで」

  [[rb:口吻>マズル]]の短い[[rb:仔犬顔>どうがん]]に、三〇代半ばの男相応の笑みを浮かべて言葉を返し、それから思い出したように

  「そういや、無駄話は減点でしたっけ?」「不問にします」

  七問目のキューブを載せたトレイをワゴンから出しながら、淡い毛色の監督官は柔和な笑みを浮かべた。

  七、八、九問目は難なく突破したようで、特にこれといって話は無かった。

  最後、一〇問目は先ほどとは違う意味で難関だった。

  「今、選んでいただいた五つのキューブはカレーパンの匂いを[[rb:封入>ふうにゅう]]してあります。製品に異物混入がないかを検品していただくのがあなたの役目です」

  中にカレーパンを入れたプラスチック容器が置かれるのと同じタイミングで、柴本の腹の虫が盛大な鳴き声を上げた。

  「食べちゃダメですよ」「いや、ケース割らなきゃ食えないでしょ?」

  通気孔の空いた容器を手に持って鼻に近付けたとき、また腹の虫がしっかりと主張をしたのだった。

  サンプルの匂いを覚えたのち、五つのキューブのうちひとつを手に取る。匂いを確かめると、スパイシーで旨味を感じる香りのなかに、かすかに機械油と錆びた金属の匂いを感じた。"該当"のトレイにキューブを置く。二つめ、三つ目のキューブは異常なし。"非該当"。

  四つ目を鼻に近付け、息を吸い込む。違和感に首を傾げる。

  左手にサンプル、右手にキューブを持つ。まずはサンプルの匂いを嗅ぐ。

  こってりと旨そうなカレーフィリング、それにイースト発酵させた小麦粉の生地を油で揚げた香ばしい香り。

  口中に湧き出てくる[[rb:涎>よだれ]]を、ごくりと喉を鳴らして飲み込む。

  続いてキューブを鼻に近付けた。こちらもカレーフィリングとパン生地以外の匂いはない。けれども何か違う。生地を油で揚げていない。それに、カレーに使われているスパイスの配合がちょっと違う。

  「質問、いいですか?」サンプルを置いてから片手を挙げる。が

  「キューブの内容についてはお答えできかねます」「ほい、了解」

  少し迷ってから異常あり、すなわち"該当"のトレイにキューブに置き、五つ目を手に取った。

  かすかだが、有機溶剤の臭気を鼻の奥に感じた。気付かずに出回れば大変な騒ぎになりかねない代物である。今度は迷わず"該当"のトレイにキューブを置いた。

  「時間です。そこまで」痩せたボルゾイ系の男の一声を合図に、試験は終わった。

  「おや? 今回はダメでしたね」

  判定台に載せたキューブを見て、ボルゾイの監督官は少し驚いたような声を上げた。

  "該当"のトレイに載せた三つのキューブのうち、ひとつが光らず白いままだった。

  「あー、やっぱり」「今度は何に気付きましたか?」

  ふたたび、黒目がちの目を好奇心にきらめかせながら自分を向くのに柴本は

  「カレーのスパイスがちょっと違いましたね。なんか足りなかったり、多かったり。あと、パン生地、焼いてますよね。油の匂いがしなかった」

  「なるほど、それも出題者に伝えましょう」

  机の上に置いた端末を手に取り、フリック入力で手早く何事かを打ち込みながら言う。それを今度はジャケットの内ポケットにしまい

  「採点と合否の判定を行います。水分補給やお手洗いは自由としますが、三〇分後には戻っているようにしてください」

  「へーい」

  使用済みのキューブを載せたワゴンを押しながら、監督官は講堂から出ていった。長く柔らかい毛に覆われた尻尾がゆったり大きく揺れながら遠ざかってゆく。柴本はそれを[[rb:欠伸>あくび]]混じりに見送った。

  きっかり三〇分後、ボルゾイの監督官は戻ってきた。

  「おめでとうございます。実技は全問正解です。筆記は合格ギリギリの点数でしたが。でも、過去二回に比べれば頑張りましたね」

  「あれ? 減点は?」それに一〇問目は間違えた筈。目をしばたたかせる柴本に、監督官は

  「冗談です。不問にすると言ったじゃないですか。あと、一〇問目は出題者のイタズラでした。意図的に違う商品の匂いを混ぜてみたとのこと。協議の結果、合格とみなすと判定が出ました」

  「へー」

  丸っこい目を見開く柴本の前に、淡い毛並みのボルゾイは嗅覚判定士の認定証を置いた。

  「それから、出題者から[[rb:言伝>ことづて]]と、渡したいものがあるとのことで預かっています」

  「お、何っすか?」

  首をかしげる柴本に、痩せたボルゾイの男は思い直したように

  「やっぱり、[[rb:宣誓>せんせい]]の言葉のあとに致しましょうか」

  促され、柴本は立ち上がる。

  彼らふたり以外には誰もいない講堂に、宣誓の言葉が朗々と響き渡った。

  『[[rb:一>ひと]]つ。われわれ[[rb:嗅覚判定士>きゅうかくはんていし]]は、[[rb:鋭敏>えいびん]]なる[[rb:嗅覚>きゅうかく]]を[[rb:以>もっ]]て、[[rb:虚偽>きょぎ]]や不正を暴き、人類社会の秩序ならびに多種族共生の理念を守るため尽力することを誓います――』

  **********

  わたし――[[rb:鴻>おおとり]][[rb:那由多>・なゆた]]が仕事から帰宅したとき、同居人である柴本は、仏間の神棚に向かって[[rb:柏手>かしわで]]を打っていたところだった。ズボンの尻から突き出た巻き尾がぶんぶん揺れている。何か良いことがあったのだろうとすぐに察しがついた。分かりやすい。

  一六二センチの背丈では天井近くにある神棚には届かないようで、低い[[rb:脚立>きゃたつ]]の上に立っている。畳に傷を付けないように分厚いフェルトの敷物を敷いている辺りに、几帳面で律儀な一面を見ることが出来た。

  身長は低いが体重はガタイに相応の七八キロ。対策は必須であるとしっかりと理解しているようである。

  [[rb:柴本光義>しばもと・みつよし]]は便利屋だ。人々の困り事を有償で請け負うことを仕事にしている。ウェブ上の口コミを見る限り、おおむね高評価が付いているのは、日頃は隠れて見える[[rb:丁寧>ていねい]]さにもとづく部分も大きいのではと、わたしは思っている。

  声を掛けて驚かせては転ぶかもしれず、危険だ。終わるまで待っていると、丸っこく手足が短めの体からは思いもよらない素早さで脚立を下りて

  「おっかえりぃー!!」

  [[rb:口吻>マズル]]の短い[[rb:仔犬顔>どうがん]]いっぱいに笑みを浮かべ、わたしの所へと駆け寄ってきた。

  「遂にやったぜ! すっげーだろ!!」

  ドヤ顔でプラスチックのカードを見せ付けてくる。うん、証明写真の目つきがひどいね。

  「そっちじゃねぇよ!」

  カードに書かれた文字を読む。なんか難しい資格だっけ。

  「そうそう! [[rb:嗅覚判定士>きゅーかくはんてーし]]!!」

  まだ持っていなかったのか。汗の匂いから表面的な感情や嘘すら正確に嗅ぎ分けるこの男が、今日まで取得できていなかったことの方が、わたしにとって驚きだった。

  「今まで筆記がダメで……なんだよー! 笑うなー!」

  実技で受かって筆記で落ちるのは、過去に例がないとすら言われる試験である。そっちで落ちるとは……。

  「匂いとか嗅ぐぞコノヤロー!!」

  つい噴き出したわたしは、柴本に揉みくちゃにされた。

  夕飯が済むと、柴本は早々に自分の部屋へと引き返していった。

  昼間の試験で疲れた? リビングのソファに座ってテレビのリモコンを操作しながら問うと

  「いんや。ちょっと用事を思い出してな」

  そんなことを言いながら階段を上っていった。合格の話、家主の[[rb:眞壁 > まかべ]]さんにも連絡しなきゃ。長期出張から帰れない家主に日々の暮らしをメールで伝えるのが、この家で暮らし始めて以来のわたしの役目だ。ちょっと急ごう。ひとまず、お風呂に入りながら文面を考えようかな。

  風呂から上がり、髪をタオルで拭いながら階段を上る。用事がどうとか言っていたけれど、疲れているだろうから早めに休んだほうが良いだろう。冷めたお湯を追い[[rb:焚>だ]]きするガス代もバカにならない。

  お風呂あいたよー。部屋の扉をノックしながら声をかけるが、返事がない。食事のときに調子に乗ってしこたま飲んでいたから、酔いつぶれて寝ているのかもしれない。

  寝ちゃった? ふたたび扉越しに声をかけると、少しだけ間を置いて

  『来てくれよ。聞きたいことがあるんだ』[[rb:洟>はな]]をすする音とともに声が返ってきた。

  ドアを開けて入ると、部屋の主は泣き腫らしたように真っ赤な目をこちらに向けた。端末で映画かドラマでも見ていたのかと思ったが、そうではないようだった。

  この男の涙腺が大洪水を起こしやすいことは、今までの生活でよく分かっている。

  『全米が泣いた』というキャッチコピーで、けれども一体どこに泣き所があるのか分からない映画でも、横を向くとボロボロ泣いていたりする。映画そのものより同居人を観察するほうが面白いことは割とよくあるので困る。

  ひとまず話を聞くために隣に座る。いつもならば当然の権利のように赤茶の毛並みに覆われた頭をわたしの膝の上に乗せにくる筈だ。けれども、今回はその[[rb:素振>そぶ]]りすらない。

  どうしたの? と、わたしが問うと、柴本は目の前にあるローテーブルに顔を向けた。紙製の箱が置かれている。中には、メラミンスポンジを小さく切ったような白い立方体が二五個。夕食のとき、話に出て来た臭紋キューブか。

  これは? わたしの質問に、柴本は[[rb:洟>はな]]をすすりながら話し始めた。

  テーブルの上に乗っているのは、実技試験の六問目、麻薬探知を想定した問題のものだという。今はもういない想い人について、出題者が匂いで刻んだ記憶。出会い/愛を育み/すれ違い/転落するような生活の中で麻薬に溺れ/やがて命を失うまで。その細密な情報が、二五個のキューブに分割されて収められていたと同居人は読み取り――もとい、嗅ぎ取ったのだという。

  「そういう悲しい話かなと思ったんだけどよ。一緒にこんなモンが入ってたんだ」

  『事実のみを嗅ぎ分けよ』手にしたメモ紙には、クセの強い走り書きで記されていた。

  

  「これ、どう思う?」

  人間であるわたしは、嗅覚に関しては同居人とは比較にならないレベルで[[rb:鈍>にぶ]]い。だから、彼が言うところの感情の匂いがどんなものなのか分からない。ただ、それでも走り書きが意図することは見当がついた。

  もしかしたら、これは警告や注意の[[rb:類>たぐい]]じゃないかな。憶測を口にすると、柴本は目を見開いてこちらを向いた。

  「警告だって?」わたしは頷いてから、考えていた質問の一つ目を切り出す。二五個のキューブから何を嗅ぎ取った?

  「それは――」新米の嗅覚判定士はもう一度、匂いとして込められた悲劇について繰り返した。わたしはそれを最後まで聞いてから、二つ目の質問をした。試験問題の六問目は、どういう問題だった?

  

  「大麻を持っているヤツを探し当てろって問題だったぜ」

  そうだね。と、わたしは頷く。今回の問題では他のことは問われていない。なのに、分かるからと余計な情報を読み取ろうとしてしまった。

  それ自体は嗅覚判定士としての資質や適正を、非常に高いレベルで持ち合わせていることを示すものだ。

  けれども、一度に沢山の情報を得られることが良いとは限らない。情報を精査するためには、時間や精度のどちらかをあきらめなければならない事態もあるだろう。そうなれば、嘘の情報が混ぜられていても、気付かず騙されてしまうことも充分に考えられる。

  そして、獣人に対する恐れや憎しみから、嗅覚を介して思考や感情を限定的ながらコントロールする技術を確立した人々がいることを、わたしは知っている。

  「嘘ってことはさぁ、苦しんだヤツはいなかったって事だよな」

  わたしの膝に頭を乗せてくる柴本に、本当のことは分からないけどね、と付け足すと

  「だといいなー。けど、だまされたってのは悔しいなー」

  安らいだような表情で、けれどもまだ不満があるのか口を尖らせた。

  他人の不幸を悲しみ、それが嘘だと知ればひとまず安堵する彼の人柄を、わたしはとても好ましく思っている。ということも、おそらくは匂いで筒抜けになっているのだろう。ちょっと腹が立ってきたぞ。

  お湯が冷める前にお風呂に入って来なよ。赤茶の毛並みに指先で触れながら――おい待て! わたしの服で鼻水を拭くんじゃない!!

  (了)