シロクマパパのダイエット

  「「お誕生日おめでとう、陽介!」」

  白熊獣人の男の子がバースデーケーキの5本のロウソクを吹き消す瞬間をカメラに収めつつ、お父さんとお母さんは笑顔でパチパチ手を叩いてお祝いする。

  「ありがとう、お父さんお母さん。」

  熊の子らしくプクプクと太ったふくよかなほっぺたを綻ばせてパーティーの主役の陽介は嬉しそうに笑った。

  お料理上手のお母さんが腕によりをかけて作ったご馳走とケーキを目の前にして口の端から涎が溢れそうだ。

  お母さんが切り分けてくれたケーキをそれぞれのお皿に取り分けると親子3人は揃って手を合わせた。

  「「「いただきます。」」」

  陽介はもう待ちきれないと言わんばかりに、お父さん顔負けに口を大きく開けてガブリとチキンにかぶりついた。

  「んー、おいひい。」

  幸せそうにチキンを頬張りながら、コップに波なみと注いだコーラでゴクゴクと流しこんでいく。

  「お、陽介はコーラが飲めるようになったのか。口の中がパチパチするだろ?」

  「うん、でもそれがおいしいんだ。」

  「すごいじゃないか。でもあんまり急いで飲んじゃだめだぞ。」

  「平気平気、このくらいなら一気に飲めるから、見ててね…グビグビグビ…

  う、ぐ、ぐぷっ…げーーーーっぷ!!ゲホっゲホっ…」

  「ほら、そうやって調子に乗るから…」

  涙目になりながら咳き込む陽介の背中をお母さんがさすってあげるのを見ながら、お父さん熊…夕太(ゆうた)は可笑しそうにはははと笑い、大きなイチゴを乗せたケーキをパクリと頬張った。

  「うーん、やっぱり朝妃(あさひ)の作るケーキは最高だね。」

  「けほっ…うん、お母さんのケーキはお店のよりおいしいよ。それに他のお料理も。」

  「うふふ、そう言ってもらえると頑張った甲斐があるわ。たくさんあるからどんどん食べてね。」

  お母さん熊…朝妃は手料理を褒められてご機嫌になり、スパゲティー、から揚げ、オムレツ、ハンバーグなどなど、二人の大好物を取り皿にこんもりと乗せていった。

  白熊親子の食欲は凄まじく、楽しくおしゃべりしながらも食器を動かす手は止まらず、テーブルに並んだ料理の山はみるみるうちに3人のお腹の中に収まっていった。

  「はぁ…おいしかった、ごちそうさま。がおーーーっぷ!」

  陽介は大好物をお腹いっぱい食べてコーラを一気飲みした時くらいのゲップを吐いて余韻に浸っていた。

  食後はリビングのソファに陽介を真ん中に挟むように3人で腰掛け、テレビで映画を見る。夕太と陽介の親子が並んでぽっこりと膨れたお腹を撫でるそっくりな仕草を見ながら朝妃は満足そうに笑う。

  ちょうどこの日から陽介のお気に入りの特撮ヒーロー『ビーソルジャー』の劇場版の配信が始まっていた。映画館で上映していた時期には陽介を連れて見に行ったが、陽介はもう一度観たいと言ってこの日を楽しみにしていた。

  陽介が見ているのを横目で眺めているので夕太もだいたいの設定は知っている。

  地球征服を企む悪の軍団の一員だった2人の改造獣人が正義の心に目覚めて平和のため組織に反旗を翻す…というちょっと渋めのストーリーである。夕太の父親世代の子供の頃に流行ったらしいいわゆるダークヒーローが現代っ子に受けるのかは少し疑問だったが、陽介が日曜の朝テレビに齧り付いて離れない様子を見る限りリバイバル戦略は成果を上げているようだ。

  『かかってこい、マクダナール帝国の犬どもめ。』

  赤いコスチュームに身を包んだスマートな狼のヒーロー「バルカンウルフ」がゾンビのように群がってくる雑兵たちを薙ぎ払っていく。見た目どおりのスピードタイプの狼は疾風のエフェクトを纏ったダイナミックなアクションを決めていく。敵が次々吹っ飛んでいく戦闘シーンは大人の目から見てもなかなか爽快感があるものだった。

  だが戦闘に集中しているバルカンウルフの背後に敵軍のリーダーと思われる巨漢の猪獣人が投げつけた大岩が迫る。

  『ウルフ、危ない!』

  大きな青い影が飛び出し、飛んできた岩をがっぷり受け止める。もう一人の主人公である青いコスチュームの白熊獣人「イージスベア」は受け止めた岩を両腕で掲げると猪獣人に向かって投げ返す。

  相棒である狼と正反対のズングリ体型の白熊はもちろん力自慢のパワータイプだが、前のめりに攻めまくる性格の狼とは対照的で一歩下がって脇を固める役回りになることが多かった。時には大きな体を肉壁として仲間や一般市民を守る姿は、剛健と優しさを兼ね備えたヒーロー…というのが同じ白熊である夕太のちょっと贔屓目の印象である。

  「陽介はウルフとベアどっちが好きなんだ?」

  夕太としては、同族のイージスベアという答えをちょっと期待しての質問だったが…

  「うーん…バルカンウルフかな…?」

  「え、そうなの?でもイージスベアも強いだろう。力も強いし体も頑丈だぞ。」

  「それはそうだよ。バルカンは戦闘用改造獣人のプロトタイプ、イージスは帝国軍幹部クラス専用フルカスタムだもん。」

  (さすがにこういうことは子供の方が詳しいな…)「じゃあなんでウルフなんだ?」

  陽介は少し恥ずかしそうに口籠る。

  「えーっと…それは……狼だし、か、カッコイイから…」

  (そうか…陽介はスマートなヒーローの方が好きなのか…ちょっと複雑な気分だな。)

  うっすら頬を赤らめる陽介に、(別に男の子がヒーローに憧れることなんて恥ずかしがることでもないのに?)と夕太は小首を傾げる。

  「お母さんは青い白熊さん推しだなあ。俳優の氷山(ひやま)くんかわいいから。」

  「そ、そうなんだ…」

  初めて聞く妻の若い雄の趣味に内心モヤっとした軽いジェラシーを感じている間に、ウルフとベアの合体攻撃が炸裂し敵の猪獣人は地平線の向こうまで吹っ飛んでいった。勝利の雄叫びを上げる二人のヒーローに、映画館で一度観ているのに陽介は手にぐっと力が入っているのがわかった。

  戦闘シーンが終わり、場面は悪の帝国の幹部たちの会議場面に移る。全体的に画面が暗く、会話ばかりで派手なアクションシーンもないため子供にとっては退屈だったのか、陽介は目をとろんとさせながらこくりこくりと首を揺らしはじめ、数分後には夕太のお腹に寄りかかって眠ってしまった。

  柔らかくて温かいお父さんの大きなお腹は陽介にとって最高のクッションだったようで、ぎゅうっと抱きつきながら寝顔に笑みを浮かべていた。

  そんな父子の様子を朝妃は微笑ましく思いながらカメラに収める。

  夕太はしばらく白いふわふわの頭を愛しそうに撫でていたが、やがて小さな体を抱き抱えた。

  「陽介、また重たくなったなあ。」

  両親に似て食いしん坊の陽介は同年代の大型獣人の子供に比べても発育がよかったが、幼稚園に通うようになってさらにムチムチと肉付きがよくなったようで、抱き抱える手にずっしりと体重が伝わってくる。夕太は息子の成長を両腕で感じながら子供部屋のベッドに運んでやった。

  朝妃と二人でパーティーの後片付けを済ませ、彼女の淹れてくれたコーヒーを飲みながら一息つく。

  「夕太君、お疲れさま。」

  「ああ、朝妃も今日はお疲れ。ご馳走おいしかったよ。陽介も喜んでたな。」

  「うん、いい誕生日になったね。

  ところで、明日のことだけど…」

  朝妃は陽介の通っている幼稚園からのお知らせのプリントを夕太に手渡す。

  「ああ、親子水泳教室だっけ。市民プールだったよな。」

  「うん、幼稚園の友達も来るみたいで陽介も楽しみにしてるの。私泳げないし、明日は同窓会でいっしょに行けないから、あなたに任せちゃうけど。」

  「俺は泳ぐの得意だし任せてくれよ。同窓会楽しんでおいで。」

  「ありがとう。水着は用意しておくから。」

  [newpage]

  翌日の日曜日…

  夕太と陽介は親子水泳教室に参加するため市民プールにやってきた。男子更衣室に入るとすでに大小様々な種族の親子が水着に着替え始めていた。

  「陽介は一人でお着替えできるかな。」

  「うん、水着のひもも自分結べるよ。」

  得意そうに胸を張る陽介に水着を渡して、夕太も自分の着替えを始める。ところが去年買ったばかりの競泳用のスパッツに足を通した時、違和感を感じる。

  (あ、あれ、水着がキツい?しばらく履いてなかったから縮んだ…のか?)

  だが、予備の水着は持っていないし今更引き下がるわけにもいかないので、キツいのは分かっていたが無理矢理引っ張り上げる。ところが、今度は大きなお尻が引っ掛かって持ち上がらなくなってしまう。

  「ふん、ぐぐぐ、ぐぬぬ、よっと…ふぅ…」

  息を吐いてお尻を引っ込めながら少しずつズリズリと引き上げていきなんとか履くことができた。夕太は気づいていなかったがパツパツになった水着はちょっと動くだけで縫い目からミチミチ音を立ていた。

  水着の紐を結ぼうとするとお腹が邪魔をして手元が見えなかった。

  (え…俺の腹、こんなに出っ張ってたっけ…)

  そういえば半裸になって自分のお腹をまじまじ見てみることなんて久しくなかった。もしかしたら無意識に避けていたのかもしれない。

  ボールのような丸いお腹を両手で軽く持ち上げてみるといつの間にか溜め込んでしまった脂肪の重みがズッシリと伝わり、手を離すと白い毛皮に覆われた肉がタプンと水着に乗っかった。

  更衣室の隅に大型獣人にも対応したジム用体重計が備え付けられているのが目に入る。夕太は周りの目を気にしながら、恐る恐る乗ってみる…

  「ひゃ!?」

  出てきた数字に思わず変な声が漏れてしまい慌てて口を塞いだ。

  130

  体重計には確かにそう表示されていた。

  (嘘だろ?去年の健康診断の時は110kgくらいだったのに…)

  夕太は水着の隙間に指を差し込んでみる。伸縮性に優れた繊維だが、伸び切ってパツパツになり今にもはち切れてしまいそうなのが分かった。

  20kgも太れば当然である。

  だがよくよく思い返してみれば太り始めたのは今に始まってことではない。

  学生時代は水泳をしていたため熊種にしてはスラリとした体型で筋肉もあり、社会人になってからも結婚前までは70kgくらいを維持できていた。

  結婚後、朝妃と暮らすようになると、彼女の手料理が美味すぎてつい食べすぎてしまい少し余計な贅肉が付いてきたが、食べた分を走ったり自宅でトレーニングをしたりして帳尻を合わせてなんとか80kg前後で踏みとどまっていた。

  しかし長男の陽介が生まれてからというもの、育児と仕事の忙しさでだんだん運動が疎かになっていった。にも関わらず、妻の愛の込もったご飯の誘惑には勝てず、食べる量はむしろ増えていき…その結果体重は右肩上がりに増えて100kgの大台を突破してもなお止まるところを知らずいつの間か立派なドスコイ体型の白熊が出来上がってしまったのだ。

  (そういえば今年は幼稚園の入園とか祝い事が重なって、そのたびにけっこう派手に飲み食いしたような…

  それに最近、陽介が朝妃の手伝いをするようになって、ご褒美とか理由つけてお菓子を買って帰ることが増えたっけ…

  でも、まさか20kgも増えてるなんて…)

  夕太がショックで固まっていると…

  「こんにちは、陽介君のお父さんですよね。」

  後ろから声を掛けられビクっとして振り返ると、声の主はグレーの毛並みの狼獣人だった。

  「はい、そうですが、えーっと…」

  「ああ、やっぱり。幼稚園の入園式以来ですね。深夜(しんや)の父です。陽介君にはいつも息子が仲良くしてもらっています。」

  夕太はそう言われてようやく思い出す。陽介の仲のいい友達の狼の男の子がたまに家に遊びにきていて何度か挨拶したことがあった。たしかあの子が深夜君だったはずだ。

  「ああ、深夜君の。こちらこそ陽介がお世話になっています。」

  軽く会釈しながら狼の顔をよく見てみる。年は夕太と同年代で三十路前後だと思われるが、大学生と言われても違和感のないくらい若々しく、タレントかと思うほど顔立ちが整っていて笑顔が爽やかだった。

  そっと目線を下げてみると、狼種の理想を体現したようなスマートな体付きがそこにあった。余分な脂肪など一切なく程よく引き締まった筋肉質で、雄らしい逞しい胸板ときれいに六つに割れた腹筋は、狼種のみならず雌なら誰でも魅了されることだろう。

  グレーの毛並みに映える黒いブーメランパンツはスタイルに対する自信の現れと見てとれるが、その自信を裏付けるように見事に狼の肉体美を引き立たせており、女性向け雑誌の水着のグラビア写真にでも載っていそうだ。ついでに股間のもっこり具合もなかなか立派である。

  「今日は家内が仕事に行ってるんです。それで私が深夜を連れてくることになりまして。」

  「うちのはクラス会ですよ。お互い休日に大変ですね。」

  「休日くらい家でゆっくりしたいものですよね。先週なんかもうちの深夜が急に水族館に行きたいと言い出して……」

  深夜の父と雑談しながらチラッと横を見ると大きな鏡が目に入った。

  (うわっ、俺すげえデブじゃん。)

  映っていた白熊と狼…その体型は正反対と言えるもので、スリムな狼が隣にいることで夕太の太さが余計に目立っていた。水着にでーんと乗っかる夕太の太鼓腹も狼の引き締まったシックスパックと対比されると一段と大きく見えてしまう。

  「お父さん、着替え終わった?もうみんな行っちゃったよ。」

  陽介に声を掛けられて周りを見ると、話し込んでいるうちにみんなプールに移動しており、更衣室には自分たちの他には誰もが残っていないことに気づく。

  「早く行こうぜ父ちゃん、置いてっちゃうよ。」

  陽介といっしょにいる狼の男の子…深夜はまだ幼稚園児だがお父さんに似て将来美形に成長しそうな目鼻のくっきりした顔立ちをしていた。

  「ああ、お待たせ。行こうか。」

  子供たちに促されプールに向かうと、20組くらいの様々な種の獣人の親子がプールサイドに集まっていた。

  「みんな、こんにちは。」

  雌の猫獣人の先生が元気に挨拶すると、子供達も元気に「こんにちはー!」と返す。

  「親子水泳教室に来てくれてありがとう。今日はお父さんやお母さんといっしょにプールで楽しく遊んでみよう。」

  簡単な注意事項の説明のあとで、全員で円になって柔軟体操を始める。陽介親子の隣は深夜親子だ。

  先生が円の真ん中でお手本の動きをしているのだが、若いお母さんたちの視線が深夜の父に集まっているのが夕太にもはっきり分かった。

  夕太はさっき鏡に映ったツーショットを思い出す。きっとみんなイケメン狼と太っちょ白熊を見比べているんだろうと思うと、何だが彼の自分が引き立て役になっているような情けない気持ちになってきてしまった。

  (…いやいや考えすぎだ。)

  横目で深夜の父を見てみる。しなやかな長い手足や尻尾の動きは演舞でも見ているようで注目の的になるのも頷けた。一方夕太は水泳経験から柔軟体操は慣れていたものの、出っ張ったお腹がつっかえて前屈でよろけてしまう有様だった。

  体操が終わると子供用の浅いプールにみんなで入っていく。水に慣れない種族で怖がる子もいたが、陽介は白熊だけあって水は得意で我先にと嬉しそうに水の中に入っていった。

  子供用のプログラムだけあって最初は水に慣れるところから始めるために、先生の指示で最初は顔をつけたり水に潜ったりしていく。余裕の陽介に「何秒潜ってられるか数えてて。」と頼まれ、数を数えながら白い頭が揺れるのを眺めていた。

  「ぷはっ、何秒?」

  「30秒、すごいじゃないか。」

  「お父さんは何秒できる?」

  「お父さんなら5分はいけるぞ。」

  「5分て…何秒?」

  「300秒。」

  「すっごーい、僕もできるようになるかな?」

  「もちろん、練習すればどんどん長く息を止められるようになるよ。」

  「ほんと?もう一回やってみる。」

  陽介は息を思い切り吸い込むともう一度水にもぐった。

  最初は水を怖がっていた子も慣れてきたところで、ビート板を使って水に浮いたり、親に支えてもらってバタ足の練習をしたりと、少しずつ泳ぎの練習もしていく。途中で水掛けっこなどの遊びもおり混ぜ子供が飽きないようにする工夫にちょっと感心する。

  お父さんたちに思い切り水をぶっ掛けていいと言われた子供たちはみんな大はしゃぎだったが、体のデカい夕太は陽介にとって特にいい的だった。

  「くらえ、バルカン砲!バババババ!」

  「ははは、やったなー。」

  水遊びをしている陽介の楽しそうな顔を見ていると、さっきまで感じていた体型のコンプレックスを忘れることができた。

  隣で遊んでいる小型犬種の女の子が不思議そうに夕太のお腹を眺めていた。

  「ねえママ、陽介くんのパパもお腹に赤ちゃんいるの?」

  「こ、コラ、そんなこと言っちゃだめ。」

  「えー、だってあんなにお腹がおっきいんだもん、きっと3人くらい赤ちゃんが入ってるよ。おっぱいだって…」

  慌てて娘の口を塞いで「すみません…」と謝る犬のお母さんに、夕太は「ははは…」と愛想笑いを浮かべるしかなかった。

  (悪気はないんだろうな。でも子供は思ったことズバズバ言ってくるなあ…)

  と心の中でため息をつきながら、妊婦みたいと言われたお腹をそっと撫でた。

  水遊びを取り入れつつ泳ぎの練習もしっかり進んでおり、プログラムが一通り終わる頃には早い子はビート板を使って少し泳げるようになっていた。

  水から上がると先生が大人を集めた。

  「少し時間が余ったので、保護者の皆さんも泳げる方は泳いでみませんか?」

  先生に提案され、何人かの保護者が大人用のプールに移動していく。

  (俺も陽介にかっこいい所を見せてやろうかな。)

  夕太も大人用プールのコースに並ぶ。隣のコースには深夜の父がエントリーしており、見学組のお母さんたちはそちらを熱い視線を注いでいた。

  「お父さん、がんばれー!」

  「父ちゃん、がんばれー!」

  子供達の声援を受けて夕太たちは手も振って応える。全員の用意ができると猫先生が手を挙げて合図をした。

  「では…5秒前、よーい…ピッ!」

  ホイッスルとともに夕太は水飛沫を上げてプールに飛び込んだ。泳ぐのは久しぶりだったが元水泳部の白熊の強靭な手足は水中で本領を発揮する。息継ぎなしでコースの反対の端まで到達すると、ザバーンと大きな波を立ててクイックターンを決め、再び魚雷のような勢いで泳ぎ出す。後続をぐいぐい引き離し、真っ先にコースの壁にタッチする。

  「ぷはっ。」

  二番手の深夜の父にコース半分以上の差をつけゴールしたのを見るて「やったーお父さんが1番だ。」と陽介の嬉しそうな声が聞こえてきた。

  「すごい、陽介くんのパパあんなに太ってるのにはやーい。」

  「鯨さんみたい。」

  子供たちの声に、(鯨って…)と複雑な面持ちをしていると、ストップウォッチを持った先生が驚いた顔をして覗き込んでいた。

  「すごいですよ霧ヶ峰さん、海洋獣人並みのタイムです。」

  「はは、白熊ですから。」

  先生に褒められて、いつの間にか心の中で勝手にライバル視していた深夜の父にやっと一つ勝つことができたような気になる。

  照れ笑いを浮かべながら水から上がった夕太を見て、一人の狐の男の子が指差した。

  「あ、陽介のお父さん、お尻破れてる!」

  「えっ!」

  驚いて後ろを確認すると、確かに水着が破れて大きな白いお尻が見えていた。泳ぎに夢中になって気付かなかったが、ターンの瞬間にパツンパツンの水着の縫い目が限界を迎え、バツンと弾けていたのだ。

  誇らしい気持ちが一転、恥ずかしさでその場から消えてしまいたくなる。無邪気に笑う子供を止めようとする大人たちさえ笑いを堪えているよな気がして、夕太は顔を真っ赤にして、

  「し…し、失礼します。」

  とお尻を抑えながらその場から逃げるように走り去った。

  「あ、お父さんプールサイド走っちゃだめだよ。

  先生、ありがとうございました。深夜君、バイバーイ。」

  陽介は深夜に手を振りながら夕太を追いかけた。

  ***

  その夜…

  たくさん体を動かして疲れた陽介は早めにベッドに入りぐっすり眠っていた。

  夫婦の寝室で、夕太はベッドに腰掛けてゴムの口をきゅっと縛りながら「はぁ…」とため息を漏らした。

  「どうしたの夕太君?」

  情事の後の虚無感を感じているのとは様子が違い、何か悩んでいるような夫の様子に朝妃は心配そうな顔を浮かべる。

  「実はさ…」

  夕太は今日水泳教室であった出来事を朝妃に話した。

  「そうだったの。ごめんなさい、私が水着のサイズちゃんと確認してなかったせいで。」

  「ううん、俺も久しぶりだったし前日に履いて確かめておけばよかったんだ。

  いや、問題の本質はそこじゃないんだ。…俺、太りすぎかな。」

  夕太は出っ張ったお腹に両手を当てた。昼間犬の女の子に言われた「赤ちゃん入ってそう」という言葉が頭をよぎる。

  「今日は水泳教室に来てた子供達にいろいろ言われたよ。夕太も友達に対して父親がこんなデブじゃ恥ずかしかったんじゃないかな。それに…」

  夕太は朝妃のほうに向き直ってお腹の肉を持ち上げて股間を見せる。

  「ほら、最近肉に埋もれて小さくなった気がしないか?こんなんじゃ…本当は君も満足してないんじゃないか?」

  「そ、そんなことないよ。今日だって十分満足してるよ。」

  朝妃は慌てて否定するが、夕太にはそれが気を遣ってくれているように思えてならなかった。それどころか、寛容な朝妃に甘えてブクブクと太り続けてきた体がとたんに情けなく感じてくる。

  ついに昼間から夕太の中で燻っていた感情がはっきりとした意志になる。

  「決めた。俺ダイエットするよ。」

  「本気なの?」

  「ああ、君のためにも陽介のためにも痩せてかっこいい父親になってみせるよ。目標はマイナス50kgだ。」

  昼間見た深夜の父狼の引き締まった筋肉質の体を思い出しながら夕太は力強く宣言した。

  「わかった。あなたがそこまで決心したなら私も協力するよ。」

  「ありがとう。君が協力してくれるなら心強いよ。」

  陽介は感謝を伝えるように朝妃にキスをすると、大きな体で彼女をもう一度ぎゅうっと包み込むように抱いた。

  [newpage]

  翌日、朝の食卓は昨日までとガラっと変わっていた。

  いつもなら朝から元気が出るようにと大盛りご飯に肉や卵をふんだんに使ったボリューム満点の朝ごはんが出てくるのだが、それが夕太の分だけ緑の野菜をたっぷり使ったサラダとゴロゴロ野菜の入ったスープに変わっていた。

  「どうしてお父さんだけお野菜ばっかりなの?」

  「お父さんダイエットするんだって。お肉やご飯は太りやすいから、お野菜でお腹をいっぱいにするの。」

  「ああ、お父さん陽介のためにもがんばるぞ。」

  「え、僕のため?よくわからないけど、がんばってね。僕はハンバーグ食べるけど。」

  朝妃と陽介のお皿に乗った美味しそうなハンバーグとふわふわのオムレツに思わず涎が込み上げてくるが、ぐっと堪えてサラダを野菜スープで流し込んだ。

  (やっぱり野菜だけじゃ物足りないなあ…)

  仕事中も食べ物のことが頭を離れなかったが、砂糖ミルク抜きのコーヒーを飲んで堪えた。

  そうして待ちに待った昼食のお弁当を開けてみると、ご飯が入っているはずのところに大量のプチトマトが…

  (これは流石に…)

  ぐうぐう鳴るお腹を抱えながらなんとか午後の仕事を乗り切って帰宅し、朝妃に相談する。

  「自分から言い出しておいてなんだけど、野菜だけってのはちょっとやり過ぎじゃないか。腹が減って仕事にならないんだ。」

  「ごめんなさい、私もダイエット食なんて初めてだから勝手がわからなくって。でも今日は本とネットで少し勉強したから。」

  恐る恐る夕食の席に着くと、野菜サラダの他に鶏の胸肉を使ったハムと魚肉のツミレの入ったスープが並んでいた。ご飯は少なめだが、サラダにも解したササミが入っていて食べ応えがありそうだった。

  「調べてみたらダイエット中もタンパク質をしっかり摂ったほうがいいんだって。余分な脂質をカットすればお肉を食べても大丈夫だよ。」

  一日中お腹をぐうぐう言わせていた夕太はもうたまらず、早口で「いただきます。」と言って鶏肉ハムに齧り付いた。

  「うん美味しい。これなら続けられそうだよ。」

  「よかった。デザートに寒天ゼリーもあるよ。低カロリーで食物繊維が豊富なのよ。」

  デザートまで食べられるなんて。少し知識を付ければ応用できる朝妃の腕に感心しながら、夕太はやっと食事楽しむことができた。

  食後、夕太は昼休みに調べたスポーツジムのホームページをスマホで朝妃に見せる。

  「食事だけじゃなくて、運動もした方がいいと思うんだ。ジムに通ってもいいかな。会社の近く新しくできたんだけど、通い放題で月額もそんなに高くないから。」

  「そうね…陽介も最近手がかからなくなってきたし、いいんんじゃないかな。」

  「本当?ありがとう。」

  夕太はさっそくスマホで入会手続きを行い、トレーニングウェアを引っ張り出して準備を始めた。水泳教室の二の舞にならないよう試しに着てみると110kgの頃にはぴったりのサイズだったが、20kg太った今ではやっぱり丈が足りず、白く丸いお腹が隠しきれていなかった。

  (明日会社帰りに新しいの買ってそのままジムに向かうか。)

  翌日…

  会社帰りにスポーツ用品店で新しいトレーニングウェアとシューズを購入すると、夕太はスポーツジムに向かった。更衣室で買ったばかりのウェアに着替えてみると不思議とやる気が湧いてきた。

  こういう所は筋肉バキバキのマッチョだらけで近寄りがたいイメージがあったが、意外にも会社帰りのサラリーマンが多く、夕太と同じようにダイエット目的と思われるお腹の出た獣人がけっこういることに気づいた。

  新しくできたばかりだけあって施設は綺麗で雰囲気が明るく、マシンも充実しているようだ。

  さて何から試そうかときょろきょろしながら見て回っていると、ぬーっと大柄な虎獣人が声を掛けてきた。

  「こんばんは、ジムは初めてですか?」

  タンクトップから覗く盛り上がった分厚い胸筋や太く筋肉の形が浮き出た太い手足を見ただけで、トレーニングの上級者であることはジム初体験の夕太にもすぐに分かった。自分からは絶対声を掛けたくない強面だが、虎は牙をニイッと見せて爽やかに笑いかけてくれている。

  「そうなんですよ。体を引き締めたくて始めたんですけど、何から始めていいのか分からなくて。」

  「よかったらマシンの使い方教えましょうか。」

  「いいんですか、助かります。ジムのスタッフさんですか?」

  「いいえ、私も会員ですよ。大河(たいが)と申します。」

  「霧ヶ峰です。よろしくお願いします。」

  夕太は虎獣人…大河に初心者向けのお勧めのメニューを考えてもらうことにした。

  「運動経験はありますか?」

  「学生時代は水泳をやっていました。」

  「それならすぐに慣れますよ。霧ヶ峰さんは熊種で体重もあるから最初から少し重いウエイトも扱えると思います。せっかくだから絞るのと並行して筋肉も付けていきましょう。」

  大河の組んでくれたメニューに沿ってマシンを試していく。大河はウエイトの調整のしかたや基本的な動作を実演付きで解説し、バーの握り方や呼吸の仕方などの細かいコツまで丁寧に指導してくれた。

  メニューを一通り終えて、買ったばかりのトレーニングウェアを汗びっしょりにしながらも、心地よい疲労感に浸りながらクールダウンのストレッチをする。

  「ありがとうございます。まるでパーソナルトレーナーみたいでしたよ。」

  「そんな大したものじゃないですよ。私も会社勤めですし。最近この辺りに転勤してきてこのジムにも入会したばかりで、ジム友が欲しかったんです。」

  「私みたいな初心者でよかったら、仲良くしてください。」

  大河は大きくてゴツい手を差し出して夕太とがっちり握手をした。

  この年で新しく趣味の友達ができるなんて思ってもみなかったので、ジム通いを始めてよかったとうきうきした気持ちになっていた。

  [newpage]

  朝妃は試行錯誤しながらも夕太のために高タンパク低カロリーでお腹の膨れる料理を研究し、ダイエット食のレパートリーを増やしていった。おかげで空腹感を感じることもあまりなく、比較的薄味の料理が多くても飽きずに食事制限を続けることができた。

  ジムでのトレーニングも最初の頃は翌日歩くのが辛いほどの筋肉痛に襲われていたが、鍛え続けるうちに筋肉痛がだんだん軽くなっていった。ジム友の大河の励ましてもあり、怠けることもなく通い続けた。

  ジムの日は夕太の帰りが遅くなってしまうため、お父さんといっしょに夕飯を食べられないと陽介は寂しがることもあったが、「お父さんがんばってるから、陽介も応援してあげて。」と朝妃に宥められて陽介はぐっと堪えた。

  そうして夕太がダイエットを始めて3ヶ月が経った。

  日曜日の朝、いつものようにソファに座って陽介と一緒にビーソルジャーを見ながらスマホでニュースチェックをしていた。

  番組が終わると陽介がいつもの癖でコロンと夕太のお腹にクッションのように寄り掛かった。

  「あれ?」

  「ん、どうした?」

  「お父さんのお腹、ちょっと小さくなった?」

  「そ、そうか。」

  実際、夕太はダイエットを始めてから10kgの減量に成功しておりお腹周りもベルトの穴も3つ分小さくなっていた。おかげで最近、きつかったズボンのウエストがゆるゆるになりつつあり、そろそろ服を買い替えないといけないと考えていた。

  陽介は不思議そうに夕太のお腹を突いた。

  「それに、プニプニのお肉の奥に何かゴツゴツした硬いものがあるよ。」

  「それは腹筋、お腹の筋肉だよ。」

  「え、腹筋ってバルカンウルフみたいなボコボコのお腹でしょ。お父さんにも腹筋ってあるの?」

  「腹筋は誰にでもあるんだよ。お母さんにも陽介にもあるんだぞ。たくさん運動して腹筋を鍛えるとバルカンウルフみたいにボコボコのお腹になるんだ。」

  「そうなんだ。お父さん、最近運動がんばってるもんね。」

  「ああ、それに腹筋だけじゃないぞ。ほら…ふんっ。」

  夕太が腕を曲げて力を込めると力こぶが大きく盛り上がった。陽介は面白そうに筋肉の塊をペタペタ触る。

  「すごい、硬ーい。」

  「力も付いてきたんだ。片腕で陽介も持ち上げられるぞ。」

  「ほんと?」

  夕太が立ち上がると陽介は太い腕に鉄棒のようにぶら下がった。成長期の陽介も日々重くなっているのだが、夕太はがっしりと体重を支えその場でそのままグルグル回ってみせた。

  「あはは、メリーゴーランドだ。」

  夕太たちがクルクル回って遊んでいると、朝妃がクスクス笑いながら声を掛けてきた。

  「ねえ、今日はみんなでお買い物に行かない?夕太君の服ブカブカしてきちゃったし、陽介の服は小さくなってきちゃったから。」

  「ああ、もうすぐ衣替えの季節だし、ちょうどいいかもな。」

  「僕、深夜君とお揃いで色ちがいの服がいいな。」

  夕太の運転で近所のショッピングモールに出掛けた。新しい服を買って陽介も朝妃もご機嫌で、夕太も服のサイズが下がってきたことでダイエットの成果を実感できていた。

  3人分の服を買い終える頃、時刻はちょうど12時になっていた。

  「そろそろお昼ね。陽介は何食べたい?」

  「僕ハンバーガーがいい。」

  「ハンバーガーか…」

  夕太は少し浮かない顔をしていたが、陽介に引っ張られるようにフードコートに着く。

  「僕、ビッグバーガーのLセットにする。飲み物はコーラ。」

  「じゃあ私も陽介と同じのにしようかな。」

  「ねえ、隣のお店のクレープも食べていい?僕チョコバナナがいい。」

  「ふふ、陽介は食いしん坊ね。私はイチゴのクレープにしようかな。あなたはどうする?」

  朝妃に聞かれて夕太は「うーん…」と唸ってしまった。ハンバーガーとクレープのメニューを見ながらゴクンと唾を飲み込んだが、へこんできたお腹に手を当てた。

  「お父さん、どれにするか迷ってるの?」

  「いや…俺はいいや。俺はあとでサラダチキンでも買って食べるから、二人で好きなもの食べて。」

  「えー、お父さんもいっしょに食べようよ。みんなで食べた方がおいしいよ。」

  「あなた最近ダイエット順調だし、お出かけの時くらい好きな物食べてもいいんじゃない?」

  「いや、こういう時こそ気を引き締めないと逆戻りしちゃう気がするんだ。悪いけど、二人で食べて。」

  陽介は不満そうだったが、夕太は頑として食べようとせず、結局朝妃と陽介の二人だけでハンバーガーとクレープを食べることになった。

  大きなハンバーガーを頬張る陽介を少し羨ましそうに見つめながら、湧いてくる涎を誤魔化すように夕太は一人グビグビとブラックコーヒーを飲んだ。

  [newpage]

  夕太がダイエットを始めてから半年が過ぎた。

  夕太は会社帰りのジムでのトレーニングを終えて、着替えるために更衣室に向かう。汗びっしょりになったウェアを脱ぐと、他に誰もいないことを確認してスマホを取り出し、鏡に映った半裸の自分を撮影した。

  これが夕太のトレーニング後の習慣になっていた。

  (今日もしっかり追い込むことができたし、また少し腕も太くなったかな。)

  トレーニングでパンプアップした腕をぐっと曲げると一段と逞しくなった力こぶができ、思わず口元に笑みが浮かんでしまう。

  「よ、霧ちゃんおつかれ。」

  後ろからポンと肩を叩かれて一瞬ビクっとするが、鏡に映った筋肉質の虎にほっと息を漏らす。

  「なんだ大河さんか。お疲れさん。」

  半年の間にだいぶ気安い口調で話せるようになった大河は夕太の肩に置いた手を二の腕のほうに動かし、腕の周りの筋肉の形をチェックするようにモミモミと揉んできた。

  「お、いい感じじゃん。」

  大河のような上級者にこうして屈託なく褒めて貰えるのは成果を実感できて嬉しかった。

  大河は手を腕の方から、白い胸やお腹のほうに動かしてきた。虎のゴツい手でムニムニ揉まれるとちょっとくすぐったくて夕太が力を入れると脂肪の下で胸筋や腹筋がブクっと膨れる。

  「おお、硬え。だいぶ絞れてきたねえ。今体重いくつなん?」

  「よく聞いてくれた。さっき測ったらやっと100kg切って99kgになったんだ。」

  「半年で30kgマイナスか、すげえなあ。もう少しで腹割れてくるんじゃねえの?」

  半年前は山のように丸く突き出ていた腹は内臓脂肪がなくなって平たくなり、大河の手の中でプヨプヨ弾む皮下脂肪も激しいトレーニングで筋肉を動かす燃料にされ日に日に薄くなっていた。

  まだウエストに括れては見えてこないものの、胸や背中の筋肉が発達したおかげでガッチリしたレスラーのような体型になってきている。

  「大河さんのおかげだよ。いろいろ教えてくれてありがとう。」

  「霧ちゃん頑張り屋だから教え甲斐があるよ。根性ない奴はすぐ来なくなっちまうからなあ。

  ところでさ、俺このあと風俗行くんだけど、霧ちゃんもいっしょにどうだ?」

  「え…風俗?いや…うちは嫁さんが…」

  「霧ちゃんの奥さん、そんなにおっかないの?」

  「いや、そうじゃないけど。俺嫁さんのこと愛してるし、裏切りたくないって言うか…」

  「お堅いなあ。別に浮気するわけじゃないんだし、そこまで気にすることないだろ。俺だって女房は愛してるし夫婦生活も順調だよ。」

  「それなら風俗なんか行かなくても。」

  「甘いモンは別腹ってな。ほら、筋肉付いて体型に自信が出てくるとセックスが楽しくなるだろ?」

  「ああ、それはちょっと分かるかも。」

  「そうなってくるとたまには女房以外の雌も抱いてみたくなるもんさ。それに若い女の子に体を褒められるとトレーニングのモチベーションブチ上がるぞ。」

  「そうかな…でも…やっぱり…」

  「まあ無理には誘わないさ。今日は俺一人で楽しんでくるよ。また気が向いたら声掛けてくれよ、俺の行きつけの筋肉好きの娘がたくさんいる店紹介するから。霧ちゃんなら絶対モテるぞ。」

  「はは…考えておくよ。」

  気のない返事をしつつ、若い雌に「すごい胸筋、逞しくて素敵…」なんて言われたらと想像すると…腹の奥から込み上げてくるものを感じてしまう。

  ***

  翌日、会社でコーヒーを飲もうと給湯室に向かうと、中から同じチームにいる部下の女の子たちの話声が聞こえてきたので、つい足を止めて立ち聞きしてしまった。

  『最近、霧ヶ峰係長痩せたよね。』

  『ね、ちょっと前はお腹の出っ張ったオッサン体型だったのに。胸板とか筋肉で厚くなってきてて、ちょっと雄の色気が出てきたよね。』

  『うんうん、顔もシュッとしてちょっとかっこよくなった。』

  『いいよね、ああいう優しそうだけどちょっとワイルドな感じ。奥さんいなかったら狙ってたかも。』

  若い猫獣人の女の子たちの話を聞きながら、夕太は足元からフワフワと浮き足立つような感覚を覚えていた。昨日大河に言われた「絶対モテるぞ」という言葉が脳内でリフレインする。

  (もしかして…俺本当にモテ始めてる?)

  こんな感覚は結婚して以来すっかり忘れていた。学生時代モテたくて必死でバイトして貯めたお金でオシャレしていた時のことを思い出す。努力が報われて女の子にかっこいいと言われるのがこの年になってもこんなに嬉しいことだなんて。

  コーヒーを淹れるのも忘れて自席に戻ると、部下の犬獣人が怪訝な顔で覗き込んできた。

  「係長なんかいいことあったんすか?」

  「え、な、なんで?」

  「めっちゃ鼻の下伸びてますよ。」

  [newpage]

  夕太がダイエットを始めて9か月が経った。

  更衣室で体重を測ってみると90kgになっていた。体重の減り方がやや鈍感しているが、大河いわく、だんだん燃やす脂肪が無くなってきているのと比重の重い筋肉が増量してきているため体重は落ちにくくなっているが、脂肪は確実に筋肉に置き換わっているという。

  鏡で体型をチェックすると、厚い毛皮の上からでもわかるくらいに腹にうっすらとした筋が入ってきていて、脇腹の肉が減りウエストも括れ始めていた。

  (もう少しで腹筋が割れそうだぞ。脂肪が落ち切ったら学生時代よりいい体ができそうだ。)

  足取りも軽く帰宅すると、時間は夜8時を回っていた。玄関を開けると陽介がニコニコしながら待っていた。

  「お父さんお帰りなさい。」

  「ただいま。どうしたんだ?何だか嬉しそうじゃないか。」

  「えへへ、来て来て。」

  カバンを持ってくれる陽介に手を引かれてリビングに入っていくと、テーブルの上に豪華なご馳走と大きなケーキが並んでいた。壁は陽介が色紙で作った輪かざりで飾りつけられている。

  「お父さん、お誕生日おめでとう。」

  「ああ、そういば今日俺の誕生日だっけ。すっかり忘れてた。」

  陽介と朝妃にプレゼントを渡され、夕太はちょっと照れたように笑って「ありがとう」と受け取った。

  陽介は夕太をテーブルへ引っ張っていく。

  「お父さん見て、今日のご馳走、僕も手伝ったんだよ。ほら、このオムレツ僕が焼いたんだ。」

  陽介が初めて作ったオムレツは形がいびつで少し焦げていたけれど、ケチャップで笑った熊の顔が描かれていた。

  「上手にできたじゃないか。すごいぞ。」

  「えへへ、さあ食べて食べて。」

  「あ、ああ…いただきます。」

  陽介の期待に満ちた目に見つめられながら、夕太はオムレツをゆっくり口に運んだ。甘いバターの香りが鼻腔をくすぐるが、夕太がまず考えていたのは味のことよりも、このオムレツのカロリーがどのくらいかということだった。パクッ

  見た目のわりに中は卵がいい感じにトロトロの半熟で子供が作ったにしてはなかなかの出来だった。

  「…うん、うまい。陽介は将来コックさんになれるぞ。」

  「ほんと?今度深夜君にも作ってあげよう。

  他にもたくさん作ったから、どんどん食べてね。お父さんの分お皿に取ってあげる。」

  「え…?ちょ、ちょっと待って…」

  唐揚げ、フライドポテト、グラタン、スパゲッティ……陽介はお皿に次々料理を盛り付けていき、夕太の前にどんと置いた。

  (この一皿だけで1日分の目標カロリーの2倍はあるぞ…)

  朝妃と陽介もそれぞれのお皿に取り分けた分を食べ始める。

  「今日のお料理、陽介が手伝ってくれたおかげですごく美味しくできたわね。」

  美味しそうに食べながら笑顔で褒めてくれるお母さんに対して、お父さんが一人険しい顔をしてチビチビ食べている様子を見て、陽介の表情が曇る。

  「もしかして、おいしくなかった?」

  「いや、そんなことないって。すごく美味しいけど、今あまりお腹が空いてなくって…」

  ぐううううううう

  ジムでのトレーニングでたっぷりカロリーを消費した体は栄養補給を催促するように正直に腹を鳴らした。

  「ほら、本当はお腹空いてるんでしょ。」

  「あ…いや…」

  陽介に詰められて夕太が困っていると、朝妃が助け舟を出してくれた。

  「あー、何だかお母さんすごくお腹すいてきちゃったな。お父さんがお腹いっぱいなら、お母さんが食べちゃおうかな。」

  朝妃は突然野生のクマのような勢いでバクバクとテーブルの上の料理を食べ始め、夕太の皿に半分以上残った料理も夕太の分のケーキも全部ペロリと平らげてしまった。

  「あー、せっかくお父さんに食べてもらおうと思ったのに。」

  「また今度作ってあげるわよ。

  さあ子供はもう寝る時間よ、おやすみなさい。」

  少々強引に陽介をベッドに行かせると、朝妃はどかっとソファーに腰を下ろした。ほとんど一家族分の料理とケーキを収めたお腹は妊娠したようにまん丸に膨れていた。

  「ケプッ…満腹でちょっと苦しい。」

  「ありがとう朝妃、助かったよ。」

  夕太は労るように膨れた妻のお腹を優しく撫でる。

  「本当はもう少しカロリーを抑えた料理にしようと思ったんだけど、陽介がどうしても手伝いたいって。」

  「気持ちは嬉しいんだけどなあ。」

  「ねえ夕太君、私から見てあなたはもう十分スマートだと思うし、あなたの体を見てデブだって言う人はもういないと思うよ。

  このあたりでダイエットは一区切りにしてもいいんじゃないかな。」

  「ううん、もう少しで目標のマイナス50kgを達成できるんだ。ここで諦めるわけにはいかないよ。」

  「陽介も家族の中でお父さんだけ別のもの食べてるのが寂しいって言ってるよ。」

  「仕方ないさ、かっこよくなったお父さんを陽介に見せてやるためだから。…そうだ、君や陽介も俺と同じダイエットメニューを食べたらいいんじゃないか?」

  「…もういいわ。」

  朝妃は軽くため息を吐くと、大きなお腹を抱えてテーブルの片付けを始めた。

  [newpage]

  夕太がダイエットを始めて1年が経った。

  ジムの更衣室の鏡にには1年前とは別人となった白熊が映っていた。

  妊婦と間違われるほどたっぷりと抱えていた脂肪はすっかり燃え尽きて、あとに残ったのは見事に六つに割れた腹筋とシャープな腹斜筋で形作られた細く括れたウエストだった。

  脂肪ではなく筋肉で谷間ができるくらい育った分厚い胸は力を込めればブルンブルンと自由自在に揺らすこともできるようになり、山のように盛り上がった背中の広背筋も合間って上半身が立体的な逆三角形を形成している。

  腕をぐっと曲げれば上腕二頭筋がダイナミックに隆起し、血管の浮き出た小ぶりのメロンのような力こぶが出来上がる。

  元々脂肪が巻き付いて丸太のような太さだった足は柔らかな贅肉が削ぎ落とされたにも関わらずさらに太くなり、大きな筋肉の束が張った筋肉質の足に生まれ変わっていた。

  体重は目標だった80kgに到達し、水泳で鍛えたスリム体型の学生時代よりもっと雄らしく逞しいマッチョな雄熊へと肉体改造が完了したのだ。

  「まさか霧ちゃんがここまで頑張るとは、恐れ入ったぜ。」

  ボディビルのポーズを教えた大河が感慨深そうに頷く。

  「みんな大河さんのおかげだよ。俺が独学でやってたら絶対挫折してたよ。」

  「謙遜するなよ、霧ちゃんめっちゃストイックに頑張ってたじゃんか。いやホントここまでの体はなかなかできないぞ。あと3kg絞って今度いっしょに大会出ねえ?」

  「いや、そういうのはちょっと…」

  「冗談だって。まあでも、目標達成のお祝いにせめてソープくらい奢らせてくれよ。」

  「………………………………………………奢りかぁ。」

  ***

  次の日曜日、自宅で陽介の6歳の誕生日パーティーが開かれていた。

  「「お誕生日、おめでとう陽介!」」

  ケーキに立てられた6本のロウソクを吹き消す陽介を夕太と朝妃は拍手と笑顔で祝った。

  陽介の大好物の並んだテーブルも大きなケーキも去年と同じ風景だけど、陽介はちょっと背が伸びて、お父さんはすっかり痩せていたことだけが違っていた。

  お母さんがお皿にケーキを取り分けてくれる。陽介はずっと楽しみにしていたお母さん手作りのケーキに目を輝かせる。

  「いただきまーす。」

  元気に手をお合わせて陽介はケーキの塊を口いっぱい頬張った。

  「んー、おいしい。やっぱりお母さんのケーキは世界一だよ。」

  食べている時に一番の笑顔になる陽介を写真に収め、朝妃も満足そうに笑う。

  「甘さ控えめにして材料も工夫してカロリーを3分の1カットしたの。あなたも安心して食べてね。」

  「…うん、いただきます。」

  夕太は表情を変えずケーキをフォークで小さくカットして口に運ぶ。

  「どう、おいしいでしょお父さん。」

  陽介は同じ気持ちを分かち合いたくて、目を輝かせながら夕太の顔を覗き込んだ。

  しかし、夕太の顔は美味しいものを食べた時の喜びに満ちた顔とは明らかに違う険しいものだった。

  「…甘い、甘すぎる。」

  「え…。」

  夕太の表情を見て、陽介の顔から笑顔が消える。

  「カロリーが3分の1減ったって言っても、ケーキは元が糖質と脂質の塊だからな。やっぱりこんなもの食べてたら太って当然だよ。」

  夕太の口調はいつも陽介に話しかけるような柔らかいものではなく、まるで仕事中に部下をたしなめるようなどこか事務的なものだった。

  「え…こんな…もの…」

  「陽介も来年は小学校なんだ。少しは甘いものを控えて痩せないと女の子にモテないぞ。」

  夕太の言葉を聞いて陽介はぐっと唇を噛み締める。目からポロポロ涙が溢れていた。

  「よ、陽介…?」

  声も上げずに静かに泣き出した息子に夕太はおたおた動揺する。

  バンッ

  「いいかげんにしてよ!」

  陽介は両手でテーブルを叩くと、椅子から飛び降りて部屋を出ていってしまった。夕太はどうしていいかわからず、縋るように妻の顔を伺った。

  「俺はただ…」

  朝妃もすっと席を立つ。

  「あなたが悪い。」

  そう冷たく言い残すと朝妃もリビングを出ていってしまった。

  一人取り残された夕太はしばらく呆然とテーブルの上のケーキを眺めていたがやがてスマホを取り出し、何かを確かめるように写真画像フォルダを開く。

  日付を遡っていくと、記録写真の中の自分が逆再生のビデオのようにだんだん膨れて太っていく。

  そして日付は1年前の陽介の誕生日にまで辿り着く。

  ロウソクを元気に吹き消す陽介、ケーキを囲んで笑う家族3人、美味しそうに料理を頬張る陽介と自分、鼻からコーラを吹き出した陽介の背中をさする朝妃…そして、自分の大きなお腹に身を任せ安心しきった顔で眠る陽介。

  去年の同じ日は笑顔と幸せに満ちた誕生日だったはずなのに。

  「一体、何が変わっちゃったんだろう…」

  がらんとしたリビングで夕太は自分の子供の頃の誕生日を思い出してみる。プレゼントが何だったのかも、ご馳走は何だったのかももう思い出せなかったけど、体が大きくて怒ると怖い白熊の父親もその日はたくさん笑って祝ってくれて、それだけでとても嬉しかったことだけは思い出せた。

  父親は以前の自分…いやもしかしたらそれ以上に太っていたかもしれない。でもそんなことで父親を嫌いになったことはなかったはずだ。

  夕太はもう一度スマホを手に取る。

  「…もしもし父さん、俺夕太だけど……」

  [newpage]

  夕太は陽介の部屋の前に来て小さく息を整えると、ドアをノックした。

  「陽介、お父さんが悪かったよ。今日は陽介の大切な日だったのに嫌な気分にさせてしまって。」

  少しの沈黙のあとドアの奥で震えた声が返ってくる。

  「先にお母さんに謝って。」

  「ああ、そうだな。全くその通りだ。

  朝妃、ごめん。俺は君への感謝をすっかり忘れてせっかく頑張って作ってくれた君の料理にひどいことを言った。許してくれ。」

  また少しの沈黙のあと部屋ドアが開き、陽介が真っ赤な目を擦りながら出てきた。夕太は床に膝をついて陽介をぎゅっと抱きしめる。

  「ごめん、陽介。馬鹿なお父さんを許してくれるなら、もう一度パーティーをやり直させてくれないか。」

  「…うん。」

  「仲直りできたみたいね。それじゃ、お料理温め直しましょうか。」

  子供部屋から出てきた朝妃は子供に抱きつく夕太を見てほんの少しだけ口元に笑みを浮かべていた。

  夕太と陽介も手伝って料理を温め直すと、3人はテーブルに着いて手を合わせた。

  「「「いただきます。」」」

  夕太は今度はケーキを大きくカットして、上に乗せた苺ごと思い切り頬張った。

  「う、うまい…」

  同じケーキを食べているのに、さっきとは全く違った特別な美味しさが口いっぱいに広がって脳内に幸福が溢れる。カロリーを気にせず食べる甘いものがこんなに美味しかったなんて、1年ぶりに思い出した気がする。

  陽介も朝妃も負けないくらい大きなケーキの塊を蕩けそうな笑顔で頬張っているのを見て、同じものを食べて笑いあうことができる家族がいることがどんなに有り難く素晴らしいことか、夕太は噛み締めながらゆっくりケーキを味わった。

  (うまい、うますぎる。もっと…もっと食べたい…)

  ダイエットしている間ずっと忘れようと心の奥底に閉じ込めていた食いしん坊の白熊の本能が、夕太の中でとうとう目を覚ました。

  ハンバーグもオムレツもフライドチキンも焼きそばも、ガツガツと口の中に掻き込んでいき、コーラで一気に流し込んでいった。

  「げえええええっぷ!」

  夕太のゲップを聞いた陽介と朝妃も真似してコーラを一気飲みすると

  「げっぷ!」

  「がおおおおおおおおおおおおっぷ!!!」

  豪快なゲップに3人で大笑いした。

  やがて、テーブルの上の料理はすっかり親子のお腹に納まり、ソファーに3人でどかっと腰を下ろした。

  夕太のスマートなお腹も詰め込まれた大量の料理でポッコリと膨れており、心地よい満腹感に浸りながらそれを満足そうに撫でた。

  そのままテレビを付けると「ビーソルジャー」の劇場版第二弾の配信を揃って見始める。

  今作は2人のヒーローの帝国軍時代の過去を掘り下げていくストーリーらしい。かつての上官である豚獣人フィーダー公爵が張り巡らせた卑怯な罠に白熊ヒーローのイージスベアは捕われてしまう。

  体の自由を奪われたイージスベアは口に管を繋がれて、洗脳と肥育の効果のある薬液を注がれてズングリ体型の体がさらに太っていく…

  「特殊メイクにしてはリアルな太り方だなあ。」

  「このシーンのためだけに俳優の氷山くん、本当に30kgも太ったんだって。ニュースでやってた。」

  「それでシーズン2の最初の頃太ってたのか…

  陽介はやっぱり太っちょのイージスベアはかっこ悪いと思うのか?」

  「そんなことないよ。イージスもバルカンと同じくらいカッコいいよ。」

  「でも前にバルカンウルフの方が好きだって言っていただろう。お父さんもスマートな方が陽介が喜ぶと思ってダイエット頑張ったんだぞ。」

  「え、そうだったの?僕は太ってても痩せててもお父さんのこと好きだよ。

  でも痩せてからのお父さんちょっとおかしかったよ。前みたいにいっしょにおやつ食べてくれないし、お風呂上がりに鏡の前で変なポーズ取ってるのちょっと気持ち悪かった。」

  「うぐっ…」(そんな風に思われてたのか…)

  夕太は心の中でガクッと膝をついた。

  「…それならどうしてバルカンウルフの方が好きなんだ?」

  「え、えーっと…それは…バルカンが、し…深夜君に似てるから…」

  陽介は恥ずかしそうに顔を赤らめる。

  朝妃が笑いを堪えながら夕太にそっと耳打ちする。

  『陽介、深夜君のことが好きなんだって。』

  「ええっ?」

  つい出てしまった夕太の驚いた声に陽介は耳まで真っ赤にして怒る。

  「あー、お母さん、言っちゃだめ。」

  「いいじゃない。お母さんもお父さんも陽介を応援するわよ。」

  「お、おう…お父さんも深夜君かっこいいと思うぞ。」

  (そういう理由でバルカンウルフが好きだったのか。まだ幼稚園児なのにませてるなあ…)

  陽介が恥ずかしさで身悶えている間に、洗脳薬の影響で帝国への忠誠心を植え付けられ豚熊獣人に改造されたイージスベアが、救出に来たバルカンウルフと対峙していた。相棒を正気に戻そうとウルフが素早い動きで攻撃するが、分厚い毛皮と脂肪に弾かれてしまう。

  ウルフ対ベアのバトルシーンにいつの間にか陽介は怒りも恥ずかしさ忘れ食い入るように見ていた。

  その後いろいろあってイージスベアは正気に戻り、フィーダー公爵は爆発四散し映画は終劇となった。エンドロールを眺めているうちに陽介はうとうとし始め、数分もするとコロンと朝妃のほうに寄りかかり、お母さんの柔らかい膝を枕にくうくう寝息を立て始めた。

  陽介の寝顔を見ながら夕太が少し気まずそうに頭を掻きながら朝妃に話しかける。

  「朝妃、さっきはありがとう。部屋に籠ってた陽介を宥めててくれたんだろ。」

  「うん、夕太君なら自分から陽介に謝りに来てくれると信じてた。」

  「実は俺、陽介を泣かせてしまって、どうしていいかわからなくなって…情けないことだけど、俺の親父に電話したんだ。」

  「お義父さんに?」

  「ああ、そうしたら『今すぐ朝妃さんと陽介に謝ってこい』って怒鳴られたよ。当然だよな。でも俺、そんな当たり前のことにさえ一人では気付けなくなってたんだ。」

  夕太は面目なさそうに項垂れる。

  「『今のおまえは体は痩せたのかもしれないが、自分本位(エゴ)という贅肉で心が膨れ上がって、足元の大事なことが見えなくなっている。誰のため何のために減量を始めたのか思い出してみろ』って親父に説教された。…本当にその通りだよ。君や陽介を幸せにできなきゃ痩せたって何の意味もないのに。

  で、そのあと『今度帰省したらその弛んだ根性叩き直してやる。』って…」

  「お義父さん、柔道三段だっけ。」

  「五段だよ。俺本当にぶっ飛ばされるかも。」

  「私が庇ってあげるわよ。

  そういえば、私の所にもお義父さんからメッセージ届いたんだけど。」

  朝妃はスマホを取り出すと、義父からのメッセージを読み始めた。

  「朝妃さん、夕太があなたの心づくしの料理に対し失礼なことを言ったそうで父として申し訳ない。私から厳しく言って聞かせるからどうか不出来な息子を見捨てないでやってほしい。

  追伸、陽介に誕生日おめでとうと伝えてください。丸々太った鮭送ったから陽介と食べてね。馬鹿息子には食べさせる必要なし。…だそうよ。」

  「え、鮭?父さんそりゃないよ。」

  「何作ろうかな、ムニエルにグラタン、石狩鍋もいいわね。」

  「ゴクン…あの、朝妃さん…」

  「ふふふ、もちろんあなたの分も用意するわよ。」

  「本当?さすが、俺の嫁さんだ。

  …なあ、俺、食事制限やめようかと思うんだけど。」

  「うん、私もそれがいいと思う。」

  「その代わりジム通いは続けるよ。体を動かすのが楽しくなってきたし、ジム友もいるんだ。」

  「ジム通いはいいけど、風俗通いはほどほどになさってね。」

  「え…。し、知ってたの?」

  「当然。」

  「と、友達に無理矢理連れて行かれたんだ。一回だけだよ。」

  「はいはい。…最近電気消させてくれないのと、やたら胸とか腕を触らせようとしてくるのはなぜかしらね。」

  「う、ご、ゴメンナサイ。」

  畳み掛けるような朝妃の言葉に、夕太はただ小さくなるしかなかった。当分は朝妃に頭が上がらないだろう。

  何も知らない陽介だけが膝の上で幸せそうに笑顔を浮かべていた。

  [newpage]

  1年後…

  陽介は小学校に入学し夏休みを迎えていた。同じ小学校に入学した深夜とは今では家族ぐるみの付き合いをしており、この日、陽介一家は深夜を誘って海へ遊びに来ていた。深夜の両親も夕太たちを信頼しており、安心して息子を預けている。

  「「海だーーーー!」」

  水着になった陽介と深夜は手を繋いで大はしゃぎで波打ち際まで走って行った。

  「おーい、沖の方まで行くんじゃないぞ。」

  巨漢の白熊が二人に向かって叫ぶ。

  夕太が食事制限止めると宣言してから1年…ダイエット中に好物を我慢してきた反動なのか、もともと旺盛だった食欲は以前より増してしまっていた。そして妻の愛情たっぷりの手料理を思う存分楽しんだ結果、お腹周りは日に日に脂肪と大きさを取り戻していき、現在その体はダイエット前の130kgをあっさり超えてなんと180kgにまで増量していた。新調した熊用10Lのアロハシャツとサーフパンツがドンと突き出た大きなお腹とでっぷりしたお尻によく似合っている。

  夕太が浜辺にビーチテントを張り終えた頃、陽介が大きく手を振った。

  「お父さんも早くおいでよー。」

  「あなた、子供たちが呼んでるわよ、いってらっしゃい。」

  白熊にしては珍しく泳ぎが苦手な朝妃はテントから眺めていることにして、夕太はシャツを脱ぐと子供たちの方へ駆け寄っていった。

  「「くらえー!」」

  夕太が水に入っていくと、陽介と深夜はさっそく左右から大きなお腹を的にしてバシャバシャと思い切り水を掛けてきた。

  「ははは、やったな。そーれお返しだ。」

  夕太はその場で大きくジャンプすると、お尻から水面に落下した。夕太の体重を乗せた大きなお尻は水面を大きくへこませたかと思うと、次の瞬間大きな水柱とともにザバーンっと津波のように水面を波打たせ、陽介と深夜は同時に大量の水をひっ被った。

  「「ぶわーーっ」」

  夕太の起こした波のあまりの勢いに二人はすっ転んで水の底に尻餅をついてしまう。一瞬何が起きたか分からず二人はきょとんとしていたがすぐに顔を見合わせて面白そうに大笑いした。

  「すっげー!もう一回、もう一回やって!」

  「よーし、いくぞ。」

  夕太はさっきよりも高く飛び上がって、特大の津波を引き起こす。

  「ふふふ、夕太君ったら大人気ないんだから…」

  夫と子供が楽しそうに遊んでいる様子を朝妃はテントから微笑んで眺めていた。

  水遊びをしたり、夕太が教えて泳ぎの練習をしたりしているうちに、時刻はお昼近くになった。

  「そろそろお昼にしますよー。」

  朝妃に呼ばれて3人は水から上がった。夕太は「飲み物買ってくるから先に食べてて」と言って、海の家へ向かっていった。

  朝妃が広げたレジャーシートの上には、いくつもの重箱に詰められたオニギリや唐揚げ、卵焼き、ウインナーなどなど、とても一家族で食べられるとは思えないほどの量が並べられていた。

  「うまそー、これ全部おばさんが作ったの?」

  「陽介も手伝ってくれたのよ。深夜君も遠慮せずたくさん食べてね。」

  「「いただきまーす。」」

  たっぷり泳いでお腹がぺこぺこの深夜はご馳走の山を目を輝かせながら見ていた。

  「深夜君、この卵焼き僕が焼いたんだ。食べてみて。」

  自分の作った料理を食べる深夜を見守るように見つめる陽介の顔には母親の面影があった。朝妃は夕太と付き合い始めた頃を思い出しながら心の中で息子を応援する。

  「んー、うんめえ!陽介もお料理上手だな。こっちの唐揚げもうまいぞ、食べてみろよ。」

  陽介と深夜が仲良くおかずの食べさせっこをしていると、海の家に行っていた夕太が両手に大きな袋をいくつも下げて戻ってきた。

  「お待たせ。」

  夕太はレジャーシートの上にジュースだけでなく、パックに詰められた焼きそばやたこ焼き、焼きとうもろこし、おでん、フライドポテトなど、大量の食べ物を並べていく。大きなシートは食べ物で埋め尽くされ座る場所もなくなってしまった。

  「あなた、飲み物を買いに行ったんじゃないの?」

  「いやぁそのつもりだったんだけど、美味しそうな匂いに釣られてついいろいろ買ってきちゃったよ。陽介も深夜君も好きなだけ食べて。」

  「こ、こんなにたくさん…食べ切れるの?」

  あまりの量に狼の深夜はびっくりしていたが、白熊親子3人は獣のように目をギラつかせ、大きな口を開けて飛びつくように食べ始めた。

  「…モグモグ、天気のいい日に外で食べるオニギリ、卵焼き、ウインナーの組み合わせは最高だな。」

  「…ムシャムシャ、海で食べる焼きそばってなんでこんなに美味しいのかしらね。」

  「…バクバク、何だかお祭りみたいだね。あとでかき氷も食べたいなあ。」

  みるみる消えていく食べ物と白熊親子の膨れていくお腹を深夜は呆気に取られたように眺めていたが、陽介たちがすごく美味しそうに食べるのを見ていると、釣られてつい手が伸びてしまうのだった。

  気がつけば、レジャーシートに敷き詰められていた食べ物はすっかりなくなっていた。

  「ふぅー食った食った。」

  その半分以上は夕太のお腹に収まっており、ただでさえ大きなお腹がボールみたいにパンパンに膨れ上がっていた。軽く叩くとポンっといい音が鳴る。

  深夜も食べ過ぎてちょっ苦しそうだった。

  「ゲプッ、もう食べられない。ちょっと休みたいな…そうだ。」

  深夜は浮き輪を持ってもう一度海へ向かうと、浮かべた浮き輪に乗ってぷかぷかと漂い始めた。

  「はぁ、気持ちいい。」

  膨れたお腹を撫でて、のんびりと海水浴楽しむ。

  穏やかな波のリズムに深夜が少しうとうとしだすと、遠くから「おーい、深夜くーん。」と陽介が呼ぶ声が聞こえてきた。目を開けてみると、白いボートに乗った陽介が深夜に向かって手を振っている。

  (ん?なんかボートが動いてるような?)

  眠い目をこすってよく見てみると、ボートだと思っていたのは大きな白熊だった。

  両腕に浮き輪を巻いた夕太が仰向けになり、陽介をお腹の上に乗せてぷかぷか波に揺られながらゆっくり深夜にほうに向かっていく。食べ物詰め込んで丸く膨れ上がったお腹に跨った陽介は、遠目に見ればバナナボートに乗っているみたいだ。

  (陽介乗っけても全然沈まない。すごいな180kgの体脂肪。)

  夕太自身、今までで一番太った状態の脂肪の浮力に驚いていた。深夜も目を丸くしている。

  「びっくりした。でもそれいいなあ。」

  「よかったら深夜君も乗ってみるかい?」

  「え、いいの?」

  陽介がお腹から降り、交代で深夜がお腹によじ登る。夕太の太ったお腹はたっぷりついた皮下脂肪でプヨプヨとした手触りだっけが、その下にはしっかりとした筋肉の土台とパンパンに膨れた胃袋があるため深夜が乗っかっても丸い形を維持している。

  足を動かしてゆっくりと波の上を進んでいくと深夜は興奮して声を上げる。

  「すごい、本当に船みたいだ。」

  夕太のまん丸なお腹はちょうどバランスボールに跨っているような乗り心地で、バランスを崩せば海にドボン…というちょっとしたスリルが遊び盛りの子供心をくすぐるらしい

  「落ちないようにお腹の毛皮にしっかり掴まってね。」

  「うん。おじさんのお腹、柔らかくて気持ちいいね。」

  水に濡れても乾きやすい白熊種の毛皮はふかふかの質感を取り戻していた。深夜を乗せて遊覧船のように近くをぐるりと一周回ってやがて陽介の所に戻ってくる。

  「楽しかった!おじさんありがとう。」

  「喜んでもらえてよかった。」

  「陽介いいなあ、こんなでっかくて面白い父ちゃんで。」

  「えへへ、いいでしょ、お父さんは僕の自慢なんだ。でももし僕と深夜君が大人になって家族になったら僕のお父さんは深夜君のお父さんにもなるんだよ。」

  「おお、最高だなそれ。俺も陽介と家族になりたい。」

  (深夜君、意味分かってるのか?)

  [newpage]

  ジムの更衣室…

  会社帰りに一汗流した夕太は着替えようと汗びっしょりのトレーニングウェアを脱いで半裸になる。

  「霧ヶ峰ェ…なんだこの腹肉は?」

  突然後ろから抱きつかれるように腕を腰に回され、分厚い腹の贅肉をムギュっと掴まれた。

  「なんだ大河さんか、びっくりしたよ。」

  「おまえ、まーた太っただろ?今何キロよ?」

  「さっき測ったら185kgだった。」

  「一年で50kg痩せた時は驚いたけど、そこから一年で100kg…いや105kgリバウンドってどういうことだよ。」

  「ははは…嫁さんの飯が美味くて。」

  「ここまでいくともはや立派な才能だよ。いくら脂肪を溜め込みやすい白熊種だからってなあ。」

  大河は両手でムニムニと腹肉を揉みしだくと、柔らかい腹肉の感触に一瞬女の子の胸のような心地よさを覚えてしまう。

  (しかし…一見ただの巨デブだけど、筋肉量も相当エグいぞ。完全に力士の肉体じゃねえかこれ。)

  脂肪の奥の筋肉と大柄な虎種の大河が揺すってもビクともしない強靭な体幹は紛れもなく夕太がこれまで積み上げてきた努力の成果である。贅肉の奥深くに隠れて表に見えなくなったからといってそれが消えてなくなったわけではない。

  この体を作り上げるための並々ならぬ努力を知る大河は、夕太が減量に成功した時と同じくらい彼を褒めてやりたいと密かに思っていた。

  「大河さんにはちょっと申し訳ないと思ってるんだ。せっかく減量用のトレーニングメニュー組んでくれたのに。」

  「まあ、減量だけがボディメイクじゃねえさ。大事なのは自分の体型に納得してるかってことだ。霧ちゃんは今の体でハッピーかい?」

  「ああ、それは自信を持って言える。この腹には家族との幸せがいっぱい詰まってるんだ。誰に馬鹿にされたって、俺には自慢の腹だよ。」

  「なら俺が言うことは何もないさ。」

  「ありがとう。

  …ところで、さっきから聞こうか迷ってたんだけど、その顔どうしたの?」

  大河の顔には猫に引っ掻かれたような傷が何本も走っていた。

  「ああ…俺としたことが、ソープでおみやげに貰った嬢の下着が女房に見つかってな。」

  「あらら…何やってんのさ。」

  「いや、マジで殺されるかと思ったわ。当分風俗通いは控えなきゃなあ…

  いいよな霧ちゃんとこは奥さん優しくて。」

  「ははは、でも俺も風俗は当分行けそうにないよ。」

  「小遣いピンチなのか?」

  「いや、そうじゃないけど、嫁さんが…」

  ***

  月は雲間に隠れたし雨戸も閉めたしガキも寝た…

  夕太たち夫婦の寝室で、ランプシェード越しの淡い光が下着姿の白い雌熊を照らす。火照った体から吐き出される吐息は早く熱く、どうしようもない本能のまま番いの雄を見つめる潤んだ瞳はキャンドルの灯ように揺れていた。

  「夕太君、愛してる。」

  部屋の隅っこの暗闇に溶け消えてしまうほどの静かな囁きと裏腹に、雌熊はたわわな胸をムギュっと押し当てて抱きしめながら、内に秘めたケダモノの雄叫びのように静かにしかし激しく雄熊の唇をねぶる。

  「最近、ずいぶん積極的だね。」

  「私だって雌熊だもの。脂肪も筋肉もたっぷり蓄えたこんなに大きくて逞しい雄熊がいたら…体の奥が疼いて…欲しくなっちゃうよ。」

  まるで新婚当初に戻ったようにこうやって毎晩のように求められて搾り取られていたら、他所で発散している余裕なんてないだろう。

  朝妃の抱擁に応えるように、夕太は力強く抱き返す。手に触れる大きな胸、お尻…最近ますます肉付きが良くなった。

  「俺もだけど、君も…太ったね。」

  「…とうとう100kg超えちゃった。私もダイエットした方がいいかな?」

  「必要ないよ。すごく俺好みだ。」

  二人の白く、大きく、柔らかな肉体。

  …海の底のように深く甘い嬌声と贅肉がタプタプと揺れる音が室内に静かに響く。

  たまらず臨戦体制になった夕太は下着を脱ぎ捨て、避妊具の入ったベッド脇のテーブルに手を伸ばす。

  朝妃はその手を包むように制した。

  「え?」

  「私、陽介さえいれば…家族3人でいられれば十分だとずっと考えてた。でも最近のあの子を見てたら…もう一人欲しくなっちゃった。あなたさえよかったら…」

  夕太は答える代わりに妻を優しく押し倒し、大きな体で包み込むように抱きしめた。

  終わり