僕のスマホの画面に表示されたのは『マスター』の文字だった。
まずは冷静になるんだ。
そうだ、そう、落ち着くんだ。
マスターの声を聞いたら頭の中が真っ白になるだろうな・・・。
そう、僕がしっかりしないと・・・。
おそらく、シロクマさんの身に起きたことを知っているのは僕を含めて5人。笹子さん、パンダ君、ペンギンさん、そして、クロウシ君だ。マスターは恐らくこの件については何も知らないはずだ。
ただ、何かの用事が僕に電話を掛けてきただけかもしれない。でも、そんな安易な考えは直ぐに吹き飛んだ。きっと・・・いや、確実に、マスターはシロクマさんの件で僕に電話を掛けてきているはずだ。
僕は電話には出ずに、そのままスマホを握り締めたまま外に出ようと病院の出口に向かっていた。階段を下りようとした時に綺麗な桃色のリボンをした女性とすれ違った。
その姿に驚きを隠せずに思わず彼女の姿を見つめてしまったけど、僕はそれどころじゃないと、そのまま急いで病院の外へと向かった。
スマホの不在着信が数件表示されている。
僕は深呼吸をすると、マスターに電話を掛けた。着信音が鳴ると同時にマスターの焦り声がスマホの向こう側から聞こえた。
「オオカミ!無事か?無事なのか!?」
「えっ、あっ、はい。僕は大丈夫です」
この言葉が出たということは、マスターはシロクマさんの身に起きたことを知っているのだろうか。僕はそのまま、マスターの次の言葉を待った。
「しろくまは・・・あいつはどうした!あいつ、ずっと電話に出ねえんだよ。なあ、オオカミ知らねえか!?なあ、オオカミ!」
「シロクマさんは・・・その・・・」
どういうことだろう。僕に電話で聞いてきたということは、シロクマさんの安否については知らないけど、僕が関わっているということは知っている・・・?
「今、しろくまと話せるか!?火傷とかしてねえか!?」
火傷・・・?
「マスター、火傷って・・・」
「オオカミ、お前、どこにいるんだ!?家にいなかったのか?お前の住むマンションが火事になったんだよ!しかもよ、お前らが住む階を中心に燃えていてよ・・・なあ、しろくまは無事なのか・・・なあ・・・オオカミ・・・教えてくれよ・・・」
マスターの声が震えている。今、この状態のマスターに事実を話していいのだろうか。僕の胸も苦しくなる。そして、同時に恐ろしくなってきた。
僕の住むマンションが火事になった。
その事実を聞いただけで、気が遠くなりそうだ。
相手はグリズリーさんの友好関係を調べ尽くしているんじゃないか・・・。トラくんやライオンくんが狙われる可能性だって0じゃない。
そう、僕が先ほど立てた仮説。
マスターと縁(ゆかり)のある『ひと』を傷付け、マスターを苦しませることが狙いではないだろうか。
シロクマさん。そして、僕とシロクマさんのマンション・・・。そいつの次の狙いは誰だ・・・何になるんだ・・・?
「・・・マスター。シ、シロクマさんは無事です。安心してください・・・。ただ、色々と話したいことがあるので、今から言う病院に来て頂けませんか?はい、お願いします。はい・・・」
一度、僕は電話を切った。
そう、今、マスターは独りでいるはずだ。それなら、病院に来た方が安全だ。僕も直接話すのであれば、まだ落ち着いて話が出来るはずだ。
僕は病室に戻る前にトラくんに電話を掛けようと履歴を表示した。
「あの・・・」
「はい?」
急に声を掛けられて顔を上げると目深に帽子を被って、絆創膏を貼った若い男の人が立っていた。
ここの患者さんかな・・・。
「すみません、道に迷っている方がいるんですが、僕、この辺り詳しくないので代わりに教えてあげることは出来ませんか?」
「えっ?あっ、はい。どこですか?」
「そこの車が止まっている脇です。すみません、お手数をお掛けします・・・」
病院の門の外を見ると一台のワゴン車が止まっていた。僕は駆け足で行って辺りを見渡したけど、そこには誰もいなかった。
「あれ、どこにも・・・うあっ!!」
「悪いね。嘘」
鋭い痛みと衝撃が僕の身体に走った。思考がまとまらないまま、僕はその場に崩れ落ちた。その男の顔を見ると歪んだ笑みを浮かべながらその場に倒れていく僕の様子を冷徹な目で見ていた。
「もう捕まるのも時間の問題だと思うんだよね。悪いけど、人質。いや、犬質?狼質?まあ、どちらでもいいけど」
その声は何の抑揚もなくて不気味だった。ひょいと僕は抱えられるとワゴン車に乗せられ、そのまま縄で自由を奪われた。扉が閉められ、車内は真っ暗になる。その暗闇は僕を絶望に追いやった。
「・・・しばらく身体は動かせない。そういう改造をしてあるから」
「あなたは、もしかして・・・」
「白熊を襲った張本人。お前らのマンションを燃やした犯人。黒牛を脅した人間。さて、どれでしょう」
「・・・」
ふざけている訳でもなく、僕をからかっている訳でもない。何の感情も抱かずに淡々と吐き出される言葉に僕は震えが止まらなかった。
殺される・・・?僕はどうなる?
人質と言っていた。僕にその価値がある間は大丈夫?でも、なくなったら、僕はどうなるんだ・・・。
「今、どんな気分?怖い?」
「・・・」
「ああ・・・気持ちが悪い・・・腹が立つ・・・人間の言葉を喋る動物なんて・・・反吐が出る・・・ぶっ殺してぇ・・・」
僕の背すじが冷たいものが走った。何だろう、こいつは・・・。いきなり口調が変わって、喋っている内容も滅茶苦茶だ・・・。
「・・・あんたは、疑問を抱かないの?自分の存在に、周りの動物に、人間に」
「何を言って・・・」
「答えて。早く。殺すよ?」
「疑問って、特には・・・」
「・・・ふうん。あんたはこちら側じゃないってことね」
急に関心がなくなったように男は運転を始めた。どこに移動するんだ・・・?
『こちら側』?何を言っているんだ・・・?
「まあ、いいや、スマホ借りるから。ロック画面解除するから番号、教えて」
僕は従わざるを得なかった。きっと、この男は躊躇いもなく僕に危害を加えるだろうから。
僕は何て情けないんだ・・・。
「今から、あいつ。グリズリーに電話をして来てもらうんだ。それで、あいつを殺してお終いだね。ああ、残念。もっと苦しませたかった」
「・・・」
「運転中だから、ハンズフリーにしておくね。あんたにも聞かせてあげるよ」
「・・・」
僕のスマホを置くと、そこから聞こえてきたのはマスターの声だった。
『どうした、オオカミ?』
「・・・」
『何だ、どうかしたのか?』
「覚えているかい?おれのこと」
『誰だ?オオカミじゃねえな・・・』
「うん、狼は今、おれが預かっている。まあ、抵抗出来ないように縛られているけど」
『誰だ・・・てめえ』
「お前の大事な友人を角材で意識不明に追い込んだ男」
『・・・てめえ、何言って・・・角材だぁ・・・?』
「狼くん、教えてやって。早く」
「・・・マスター、オオカミです・・・その男の言っていることは本当です・・・シロクマさんは角材で殴られて・・・病院に・・・すみません、本当のことを言えなくて・・・」
『ど、どうなっているんだよ!!オオカミ、お前は無事なのか!?』
「無事です・・・今のところは・・・」
『どこのどいつだよ、こんなことをしたのはよ』
「お、おそらく・・・うわぁあぁあっ・・・!!」
『オオカミ、オオカミ!?』
「さて、問題です。おれは誰でしょう?お前の大事な友人は余計なことを言う前に電流を浴びせられました」
『てめえ、ふざけるのもいい加減にしろよ?』
「人間様にそんな口を利くんじゃねえよ。標本にしてやろうか?」
『・・・お前、ま、まさか・・・』
「・・・んっ、凶暴凶悪の灰色熊さんは気が付きましたか?」
「高校の時の・・・」
「大正解。今から言う住所に来い。直ぐにだ。狼を生きて返して欲しかったらな」
「・・・マスター、僕は・・・」
「何だよ、しぶといなあ。もう一発浴びる?」
『止めろ!!分かった、お前の言う通りにする。だから、もう、止めてくれ・・・』
「よし、場所は・・・」
「・・・」
男は満足したように電話を切ると、スマホを僕に投げつけた。
「・・・さて、最終幕だな」
「・・・」
車が加速する。エンジン音がだんだん小さくなっていく。視界が狭まっていく。
マスター、ごめんなさい・・・。
僕は・・・弱い・・・まま・・・で・・・・。
僕の世界が暗闇に包まれた。