狡猾そうで、ひとを見下したような目つき。自分以外に信じられる存在がいない。
それがその男を見たときに真っ先に抱いた印象だった。
自分という存在に違和感を持っているから仕方ないよな。俺のように自分の居場所を見失ってしまったからだろうなという勝手な理由を付けてその男を肯定していた。
俺のように違和感を持っているのだから、きっと、俺のことも理解してもらえるという淡い気持ちを抱いていたんだと思う。
俺は、その男に気に入られるようにと、常にそばにいるようになった。俺は平気でひとを傷付けることもした。ひとから盗むこともした。他人なんてどうでもいい存在だ。自分さえこのひとに認めてもらえばいい。余りにも自己中心的で歪んだ考えに俺は支配されていた。
ところが、その日常はある日簡単に崩れ去った。その男の頬に何かで引っ掻かれた・・・いや、引き裂かれたかのような傷を作って俺の目の前に現れた日からだ。
「やっぱ、おかしいよな・・・人間様に動物ごときが楯突くなんてよ・・・」
俺は背すじが凍り付くような気がした。
まるで憎悪に憑りつかれたかのような瞳に。それは酷く濁っているかのように見えた。
「お前・・・動物のくせに、この人間の世界に普通に生活していることに何の違和感を持たねえのか?」
「お、俺は・・・」
「気にいらねえ。人間と同じように振る舞いやがって。人間のように喋りやがって。人間のように考えやがって・・・どうなってんだよ、この世界はよ・・・!」
「・・・」
「何だよ、その目。その目・・・あいつにそっくりだな・・・」
それから間もなくのことだった。一緒にいる奴らの俺を見る目つきが変わっていくのを俺は感じ取るようになっていた。気持ちが悪くて、居たたまれなくて、俺はそこから去らざるを得なかった。
またしても俺は居場所を失ったんだ。
俺は逃げるように地元から離れて日雇い暮らしを始めた。俺は「牛」だから力仕事では十分に力を発揮することが出来た。そのうちに、とある工事現場で働きぶりが認められてアルバイトだけどきちんとした働く場所を見つけた。仕事内容は各地を点々と回る仕事だったけれど苦ではなかった。俺は一つのところに留まれば煩わしいことも多いと思っていたからだ。親方や仲間たちにも可愛がられて過ごしていくうちに俺は再び「居場所」を見つけることが出来た。
だけど、俺の心の穴を埋めることは出来なかった。
居場所が出来ても、良いひとに囲まれて過ごしても、何故か酷く気持ちが沈んでいく時があった。俺のことを理解してくれるひとなんていない。そんな考えに支配されることもあった。
そして、何も変わらないまま、あっという間に数年が経ってしまっていた。
そんなある日、親方がとある旅館に連れて行ってくれた。普段から頑張っている俺のためだと言って連れてきてくれた旅館。
それは、まさしく、今の俺の働いている旅館だった。
俺は旅館に到着するなり興奮して「すごい、すごい」としか言えなかった。荒れた生活を続けていて、工事現場の仕事しかしてこなかった俺にとっては何もかもが新鮮に見えた。そんな俺の様子を親方は嬉しそうに、そして、感慨深そうに見つめていた。
美味い料理、立派な温泉・・・俺はその余韻に浸りながら夢心地で布団の中に入った。
「どうだった・・・?」
「え・・・?」
俺は隣にいる親方の顔を見ながら笑顔で答えた。
「最高っすよ。マジ、最高っす」
「そうか・・・お前、俺のとこに来て何年になる?」
「・・・へっ?何すか、いきなり・・・。えっと、そうっすね、2、3年くらいじゃないすかね。やべえ、記憶が曖昧だ。はは、学校にろくに行ってないから頭悪いだけじゃなくて、俺は記憶力も悪いっすね!」
思いもよらない親方からの質問に一瞬頭の中に「?」の文字が浮かんだが、俺は軽口を叩くように答えた。だけど、親方は表情を変えずに俺の顔を見つめていた。俺は何か怒られるようなことを言ったのかと心臓が高鳴った。
「・・・お前はまだ、若い。可能性だって十分にある。俺は大工仕事を教えてやることしかお前に出来ない」
「へ・・・?何の話すか?お。親方・・・何を言って・・・」
「ずっと、考えていたんだ。お前は俺から離れて暮らした方がいいってな」
「は、離れて・・・!?」
突然の親方の提案に俺は耳を疑った。
「じょ、冗談すよね・・・?俺は・・・」
「真面目な話だ」
「お、俺、自分で言うのもアレだけど、さぼらないし、失敗だって・・・こないだ、間違えて資材を折っちゃったけど、それだって、きちん謝ったし、それに、俺・・・俺・・・他に何かやらかしたっすか?俺、これからは、もっと真面目に、真面目に働くから・・・」
「そうじゃない。そうじゃないんだ。いいか、クロウシ。落ち着いて聞け。お前、時々、寂しそうな表情をするよな。そう、世界に自分しかいないような、まるで『留守番をして不安になっている幼い子どものような表情』をしている時があるんだ・・・」
「そ、そんなことないっすよ。不安になんか、寂しくなんか・・・。俺、親方にも・・・皆にも良くしてもらっているし・・・お、俺が・・・い、いらない存在すか?俺が・・・牛だから・・・!?」
俺は起き上がって歯を食いしばりながら親方の顔をじっと見つめた。いや、睨んでいたのかもしれない。悔しさか、それとも、悲しさからか俺の目には涙が浮かんでいた。
涙を見られたくない。
俺は蹄で目を覆った。それでも、涙が零れ落ちてくる。
「俺・・・自分が・・・分からない・・・俺は・・・何なんすか・・・うう・・・」
「クロウシ・・・」
親方が背中を擦ってくれた。傷だらけで武骨な手だったけど、俺にとってはとても暖かくて、とても優しかった。
「俺はな、お前がやってきた時にその目を見て思ったことがある。こいつは、きっと何か大きなものを抱えているってな。まずは、居場所を作ってやろうと思った。安心してお前がいられる場所を作ってやろうってな。随分と時間はかかっちまったが、お前の荒んだ顔が柔らかくなっていくのを見て俺はホッとしたよ」
「親方・・・」
「だけどな、お前の心は満たされてないんだ。それが、何なのかは俺には分からねえ。お前とずっと一緒だったのによ、分からなかったんだ。だけどな・・・きっと、それはお前自身が自分の力で埋めていくしかないんだって思い始めたんだ」
「自分の力で・・・親方・・・でも、離れるって・・・俺はどこに行けば・・・どうしたらいいんすか・・・」
「突然、そんなことを言われたら混乱するよな。すまん、言葉が足りなかったな。ここの女将は俺の元女房でな。ここの経営者でもある。最近になって、お前に必要なのは他者と触れ合うことだと思い始めたんだ。きっと、お前はその経験に欠けている。今の仕事よりもここで働いた方が色々な「ひと」と触れ合うことが出来るだろうってことで女房に連絡をしてここに連れてきたんだよ」
「ひとと・・・触れる・・・」
「ちと強引だったよな、でも、俺はお前に・・・若いお前に世界を広げてもらいたいと思ってな」
「世界を広げる・・・」
「でもよ、お前の意見も聞かないとな。お前はどうしたい?いきなりは答えは出ないだろうけどよ・・・」
「い、いえ・・・。俺は・・・いきなり、そんなことを言われてびっくりしたけど、話を聞いていて親方は俺のことを見てくれていたんだって・・・嬉しかったっすよ」
俺は、親方の言葉に救われたような気がする。こんなにも俺のことを考えてくれていただなんて・・・。いや、両親だって・・・俺が目を背けていただけかもしれない・・・。
自分のことを深く見つめ直す機会にしたい、自分を変えたい、俺は親方の言葉に従って、住み込みで働くことを決心した。
「まだ、現場の仕事もあるし、それをきちんと終えてからでも大丈夫すか?それに・・・もう少し、親方と・・・皆と一緒に・・・いたいですから・・・」
「・・・たく、甘えん坊のガキんちょだな」
そう言いながらも、親方は俺のことを抱きしめてくれた。俺も強く抱きしめて、俺はうれし涙を流していた。
それから、しばらくして俺は親方の元から離れて旅館で働くことになった。
言葉遣い、礼儀作法、一般常識・・・社会の中で生きるのに必要なことを叩き込んでもらった。女将さんは非常に厳しい方で、俺は不安に押しつぶされそうになることも何度もあったけど、その厳しさの裏にある優しさを感じ取ることが出来たから頑張り続けられた。
その優しさは親方と同じものだったから・・・。
旅館には色々な宿泊客が訪れてきた。人間、もちろん、動物もやってきた。ここに来れば「人間」も「動物」も関係ない「お客様」だ。俺は、最初は案内などさせてもらえなかったけど、お客様と話をする機会はたくさん作ってもらうことが出来た。
俺にはない「経験」「境遇」「視点」をお客様は持っていた。
そして、それを布団に入って自分に置き換えたらどうだろう、どう感じただろうと考える時間が増えた。今までとは違って、考える「材料」が増えたことで俺の中にとある「結論」が出ようとしていた。
俺は何にこだわっていたんだろう。
理解されない苦しみ。勝手に抱いていたその「小さな苦しみ」に俺は今までずっと囚われていた。親方はそんな俺の苦しみに気付いてくれようとしてくれた。理解をしようとしてくれた。そして、女将さんは考える材料を用意してくれた。考えるだけの素地を作ってくれた。
俺が「牛」だろうが「動物」だろうが関係ないんだ。俺のことをきちんと見てくれる人がいる。俺と一緒に喜んでくれる人がいる。俺のことを真っ直ぐに考えてくれる人がいる。
俺は自分から相手に「壁」を作っていた。俺は相手が自分と違う立場だからと自分から「差別」をしていたんだ。
俺は、そんなつまらないことで、どれだけの時間を無駄にしてきたんだろう。どれだけのひとを傷付けてきたんだろう。
俺は決意をした。
もう、ひとは傷付けないと。
もう、腐ってはならないと。
今までの自分は捨てよう。俺は俺でいいんだ。
それから、俺は直ぐに家族に連絡をした。中学の後半から寄り付かなくなり、今の今まで連絡を一切してこなかった。俺は現状と心情を伝え、今までのことを全て謝罪した。謝っても謝り切れない。勘当されても仕方ないと思ったが、父さんと母さんから出たのは無事で良かったという安堵の言葉だった。でも、過去のことはいずれきちんと自分で落とし前をつけろとのことだった。俺は「必ず」と伝えて電話を切った。
親方にも連絡をした。親方は「大人になったな」と喜んでくれた。そして、中卒だった俺は通信制の高校に通うことになった。年齢的にも少し遅れてしまったが、もっと学びたい、もっと出会いたいと思ったからだ。
そんな中、出会ったのは今となっては常連客であり、恥ずかしいけど、友達のオオカミさんだった。
最初は旅館に来るような友達がいていいな、という印象しか抱かなかった。でも、ここの旅館を気に入ってくれたようで、頻繁に来るようになってから少し親近感を持つようになった。年齢が近いというのもあったけど、お友達のトラさんが俺に積極的に話しかけてきてくれたというのもある。話をさせてもらう中で、オオカミさんの表情が気になった。楽しそうなのに、どこか寂しそうな表情を浮かべることがあって、いつしか俺はオオカミさんと自分と重ね合わせていた。
本来ならば、お客様と従業員だ。連絡先の交換などしてはいけないけど、俺は「クロウシ」と「オオカミさん」という個人的な関係ならばということで、本来ならばルール違反だけど連絡先の交換をした。こう言えば聞こえはいいかもしれないけど、友達がいなかったオオカミさんが提案してくれた時は嬉しくて溜まらなかったんだ。
最初は雑談を中心にメールをしていたけど、その内に名産を送ったり、悩みを相談したりするようになっていった。
オオカミさんは、自分の悩みに関しては具体的には書きはしなかったけど、俺に意見を求めてくれたりして、俺でも役に立てているのかなと嬉しく思った。オオカミさんのような良いひとにも悩みはあるんだなと思った。オオカミさんと話をすることで自分の世界がまた広がったような気がした。
一度、オオカミさんに聞いてみたことがある。
「オオカミさんは自分という存在に疑問を持ったことはありますか」と。
「僕は、君には少し話したけど悩んでいた時期がある。その時期は自分に自信が持てなくて、このままでいいのかなって自分が分からなくなりそうだったんだ。でも、それを理解しようとしてくれるひとがいた。支えてくれるひとがいたんだ。誰もが自分という存在に絶対という自身を持っている訳じゃないと思うよ。クロウシくん、もし、君が悩みを、大きな悩みを抱えているなら僕に話をしてほしいな。偉そうなことを言ってごめんね。僕は、みんなに支えられて生きている。これからも、きっとそうだと思う。でも、僕はひとから色々なものを貰った分、それをまた分けていきたいんだ。だから、僕は君の力になれるなら、なりたい。だって僕は君の友達だから、尚更だよ」
俺はその言葉を聞いて震えるくらい感動した。
俺のたどり着いた答えを彼も持っていたからだ。
そして、ある日、オオカミさんはいつもとは違うお友達を連れてきてくれた。個性的で楽しそうな方ばかりだった。この中にオオカミさんを救ってくれた方がいるのかなと思うと同時に、俺もこんな友達が出来たらいいな、支えてあげられる友達を作りたいと思った。
そんなある日、インターネットのとあるサイトでオオカミさんの姿を見つけた。一緒に旅館に泊まったお友達の姿もあった。その時は、面白い発見をしたなと画像を保存して、後でオオカミさんにその画像を送ってみようかなと思うくらいだった。
だけど、その画像はネット上にある程度拡散されていて、あの事件の引き金を引くものだった。
ある雨の日のことだった。俺は二度と会わないであろう人物と思わぬ再会することになった。玄関先で掃き掃除をしているところに聞き覚えのある声がした。
「動物のことは動物に聞くのが一番じゃね?」
「!」
「久しぶりだなぁ、クロウシちゃん・・・やっぱ、いいところで働いているなぁ・・・」
嫌悪感よりも先にどうして、この男は俺のことを知ったのかと真っ先に感じた。答えは単純だった。有名な老舗旅館で働く黒牛という書き込みが丁寧にも写真付きで紹介されていたらしい。俺は心臓を鷲掴みにされたかのような恐怖を感じた。ネットにも、そして、目の前のこの男にも。
「こいつ、知らねえ?この熊だよ」
「・・・!」
見せられた1枚の紙。それは、まさしく俺が保存をしたオオカミさんたちが写った画像だった。
「誰っすか・・・?見たこともないですが・・・」
「嘘、だろ。その、反応。ああ、俺、ショック過ぎて倒れそうだわ・・・泊まるとこ、探さねえと」
「・・・し、知らないっすよ!ほ、本当に・・・!」
「ここ、いい旅館だな、破壊したいくらいになぁ・・・」
「俺・・・俺は・・・」
「もう一度、聞こうかな・・・この、灰色熊を知ってるんだろ」
「は・・・はい・・・」
俺は最低だ。
俺はその男に屈してしまったのだった・・・。