「葦名弦一郎」という男

  「噂、本当らしいわよ……彼、次期社長なんだって。ああ、私振り向かれたいわ……!」

  「駄目よ、抜け駆けしちゃ! 私だって狙ってるんだから」

  「でも、今まで社内の誰にも手を出したことないんでしょ? 誠実な人だし、もう彼女いるんじゃな~い?」

  「でも、女の人がいるなんて聞いたことなくない?」

  「まだお若いし、これからなのよ、きっと」

  トイレの前で女子社員がああだのこうだの言っている横を狼は通り過ぎ……誰のことを話ているのか明確に分かってしまった。いつものこととスルーもしたが、それでも甲高い声が耳に入ってくるのは止めようもなかった。

  「意外に奥手なのかもしれないわよ。酔わせて、迫ってみたら?」

  「やだ-! なんか、ヤバい人みたいじゃん」

  「でも、他に関わる方法が分かんないよね」

  あの御方は酒に相当強い。酔って迫るなど無駄な行為だ。止めておけ。

  言いもしない言葉が狼の頭に浮かび、一つため息を付いてそれを脳内から追い払った。男子トイレに入りがてら、しかし聞こえの良い耳だけは、自然と彼女たちの会話を追ってしまったらしい。

  「今度の飲み会、弦一郎部長が参加するなら絶対私も参加する!」

  

  「今度の合同飲み会、参加する人居ますか」

  新人が幹事として、机を回って参加人数の集計をし始めた。元々この会社の技術部は急に業務が発生するため、飲み会に行くことは多くない。手に職があり、個性的でもあるメンバーは、人付き合いはほどほどにしておきたいという人間も多かった。聞いた新人も、自分の他に数人集まればいいだろうと深く考えてはいなかった。

  だから、思わず目を見開いてしまったのだ。

  「はい」

  そう、確かに薄井さん──『狼』と呼ばれるその人が、手を挙げている。

  新人は大いに驚いたが、新人以上に驚いたのは、彼と長い間角突き合わせて仕事をしてきたメンバーたちだった。ここが営業部であれば、女子社員から驚嘆の叫びが聞けたかもしれない。

  彼は、いつの間にか表れてはサポートに徹し、いつの間にか自分の仕事を終え、いつの間にか姿を消しているという、まさに孤高にして高い能力を持っている『狼』そのものだった。今まで自分から、どこそこの飲み会に参加するなどという、積極的な姿勢を見せたことは欠片もない。だからこそ、真っ直ぐ上がった彼の手、その「参加」の意思に、皆すっかり気が動転したのだ。

  「では、薄井さんと俺で行ってきますね」

  そう新人が言うと、興味が沸いたのか、他にも何人か参加の意思を伝えた。その飲み会に関して言えば、技術部創立以来、最大の参加人数だったらしい。

  そんなことを知るはずもなく、狼はメールをチェックしながら、自分の道具を丁寧に修繕していた。

  だから当日、弦一郎も大いに驚くことになった。まさか、あの男と無理に参加させられた飲みの場で鉢合わせるとは、露ほども思っていなかったのだから。

  「……この間は、助かった」

  「それは、良かったです」

  「……」

  会話が終わった。弦一郎はハア、と一つため息を付いて髪を掻き上げた。額にうっすらと横に走る、鋭利な何かで斬られた傷跡。女性たちはその傷跡に男性としての野性味を感じ、更に熱を上げた。

  「部長、その傷、子どもの時のものですか~?」

  「……いや、生まれたときからあったらしい」

  「なにそれぇ、凄い!」

  「そんなことってあるんですね」

  「そうだな」

  「なんだか、不思議な感じですね……」

  一人の女性が、不意に手を伸ばした。弦一郎の傷跡に触れてみたくなったのだ。

  自分の仕事のみならず、他の進みが悪い仕事も手伝い、サポートもしてきた弦一郎はそれなりに疲れていて、制止するのも億劫で放っておいた。触りたいのなら、そうすればいいと思った。しかし、そう思わなかった男がいた。

  ドンッ! 勢いよく黒いテーブルにビール瓶を置き、その音で周囲の人間の動きが止まった。弦一郎に伸ばされた手も、動きを止めて引っ込むほどだった。音の原因は、普段何処かから表れて、何処かへ消えていく掴み所のない男からだ。

  「……三浦部長、俺と」顔を上げ、真摯な瞳で狼は続けた。

  「勝負、しませんか」

  「……勝負だと?」

  何故かその言葉に己の血が昂ぶるのを感じた。弦一郎は勝負の子細が知りたくなり、狼の向かいに座る。

  「どちらが多く酒を飲めるか、です」

  「ほう」

  まさか、この男からそんな面白く、挑戦的な提案が出てくるとは思いもしなかった。

  「何を賭けるんだ」

  「……何でも、いいです。貴方の望むままに」

  望むままに。

  その返答に、何故か胸がざわついた。狼の顔をまじまじと見る。こんなに見つめるのは、あの日以来だ。本当に、存外整っていて、子犬のような愛くるしさすら感じる。一体どうして、四十路近い男にこうも引き寄せられるのか。

  「いいだろう……」

  興が乗った弦一郎は、狼からグラスを受け取る。狼の方へ差し出すと、意図を察したのか、狼も小さく頷いてコン、とグラスを合わせた──乾杯という名の、『開戦』の合図。

  狼と同部署の人間が、遠巻きからかなり心配そうに様子を見ていた。いつも影の薄い、素朴な人柄の彼が、まさかそんなに大胆な行為に及ぶなど思ってもみなかった。会社で一番目立つ、しかも殆ど絡むこともできそうにない人物に、アルコールで勝負を挑むなど。

  そうこうしている内に、瓶がどんどん開けられていく。最初は周りから感嘆やら黄色い声が上がっていたが、四人掛けのテーブルに収まりきらないほど瓶が置かれると、周囲は固唾を飲んで見守り始めた。「すげえ……」と、誰かが驚嘆の声を出した。狼は頬を真っ赤に火照らせ、弦一郎は表情に出ないまでも、目が徐々に据わってきた。

  まさに真剣勝負。男と男の、互いの意地の張り合い。

  二人とも、酒など見ていない。ギャラリーも目に入っていない。ただただ、相手がいつ音を上げるか、どうすれば屈服できるかしか考えていない。

  そんな緊迫した状況をひっくり返したのは、飲み放題の制限時間まであと十分ですという店員の声かけだった。それを聞いた途端、二人がほぼ同時に勢いよく立ち上がったのだから、その場にいた全員がビクッ! となった。

  「おい……他の店に行くぞ」

  「……御意」

  それだけ言葉を交わすと、二人は無言でそのまま店を出て行ってしまった。振り返ることすらしなかった。

  後に残された面々は、暫し呆然とし、帰り支度を始めるまで置かれたビール瓶の束を見つめていた。

  「げんいちろ、どのぉ……」

  うっとりした調子で、狼は弦一郎の股座に顔を埋める。狼の声と行為に、弦一郎は己の中で燃え始める何かを感じ始めた。いつの間にか、じいぃ……とスーツの下──ズボンのジッパーが下がる音がする。狼が口で金具を咥え、そのまま下げたのだ。

  「あ……!」

  娼婦でもしないそんな淫らな仕草に、弦一郎は堪らず声が出た。黒のボクサーパンツは窮屈そうに膨らみ、大きすぎるテントを張っている。狼は瞳に熱を浮かべ、その膨らみを扱きながら頬を寄せた。

  「あつくて……おお、きいです……」

  「……っ、おおか、み」

  「んんっ」

  そう呼ばれると狼は嬉しそうに目を閉じ、肉棒を取り出し、喉全体を使ってぐぽぐぽと弦一郎の尖りの先端を犬のように舐めた。先走りも美味しそうに舐め取って、まさしく発情期の雌犬だった。

  あまりに卑猥なその光景に、弦一郎は鈍く痛む頭を抑えて考えた。

  ホテルのバーに行こう、と声を掛けたのは自分だった。純粋に、先程の勝負の続きをするつもりだった。

  向こうもそうだったのだろう。コクりと一つ頷くと、そのまま付いてきて共にバーのカウンター席に座った。高めの座席だったからか、座る瞬間、僅かに狼がよろめいた。

  「限界か? 無理するなよ」

  「……」

  悔しかったのか無言で座り直し、二人して今度はアルコール度数の高いショットを頼んだ。腹が限界まで膨れていたからこの選択肢は当然だったが、火を放てば燃える程の酒だ。それに、事前にかなりの量の酒を飲んでいる。数杯も飲めば、もう限界だった。

  「……こうさん、しろ……」

  「……ざれごと、を……」

  酩酊し、ひんやりとして気持ちのいいカウンターに突っ伏しそうになりながら、その後幾つか言葉を交わした気がするが、もう覚えていない。マスターが親切な口調で上に部屋を取りますよと言ったので、そうしてくれと頼んだ気がする。急なご用意で一室しか取れませんでしたが、ダブルですとかなんとか言っていて、ならそれでいいと言った気がする。

  つまり、明確なことは何も覚えていない。気がついたら、狼が己のペニスを美味そうにしゃぶっていたとしか弦一郎には言えなかった。

  いつも何も知らないというおぼこな顔をしていて、この所業。

  じゅぽん……と名残惜しそうに狼は口を離した。銀糸が自分と、巨竿を扱くことでふくりと紅くなった唇とを繋いでいる。

  我慢が効かなくなるのも、道理というものだった。

  「おっ、ご!?」

  その小さな口に己の砲身を無理矢理突き入れて、狼の頬を冬眠前のリスの如く膨らませた。喉を捉え、息苦しそうな声を無視してそのまま捻り込む。

  狭い喉奥を堪能し、褒美とばかりに鬱憤を射精した。ぐぽぐぽと、凡そ人間の喉からは出ないような音が更に興奮を煽った。

  狼は苦しさに顔を歪め、涙を流しながらそれを受け取った、「ん、ぐ……」弦一郎が驚くほどの懸命さで、喉を鳴らして白濁を綺麗に飲み下す。まるでとびきり甘い果汁を味わうような恍惚の表情で。ごくんと飲み終えた後、今だ硬く聳えているそこをぺろぺろ……と子犬のように舐めた。舌を細くして鈴口の窪みを熱心に舐め、更なる蜜を求める。

  酷くしたと思ったのに、なんと逆手に取られている。弦一郎は回らぬ頭で歯がゆさに近い感情を抱いたが、狼が身体を起こして自分の上に跨がったのを黙って見ていた。

  「弦一郎ろのは、寝ててくだされ」

  「は……」

  「おれが、なんとかします、から」

  呂律の回らない舌でそう言って、狼は尻の奥に弦一郎を迎え入れた。いつの間に準備をしたのかそこは女のように濡れ、男を求めてヒクついていた。先端が挿入るまで狼は苦悶の表情を浮かべ、目をぎゅっ、と閉じて痛みに耐えていたようだったが、挿入ってしまえば後は重力に任せてズンッ! と身体の奥の奥まで受け入れるだけだった。

  「んあ、あ゛あああーーー……!」

  おおきいっ、ふとい、こわれるぅ。

  その声に翻弄されながら、行き場のない思いに苛立ちを覚えたのも事実だった。何処でこうも男を煽る台詞を覚えたのか。

  「淫乱め……!」

  そう罵ると、狼は心外だったのか、恍惚に閉じていた目を弦一郎に向けた。

  「あなたがっ、ああッ! 悪い、うぉ……! んおぉ……!」

  良いところを擦ったのか、狼は腰を震わせて犬のように全身で悦楽を享受した。

  「ああ~~~~~……!」

  「う、お……!」

  急な締め付けに、弦一郎も腰に力を込めた。搾り取られてしまいそうで、なんとか堪えた。こんな状況だからこそ、狼より先に達したくはなかった。狼はぴゅ、と小さく数度先走りを漏らしたが、まだ極めないよう我慢したらしい。先走りは弦一郎の割れた腹筋を汚した。

  「お、れが……悪いだと?」

  再びそろりそろりと腰を動かし始めた狼が頷く。

  「貴方が俺を、こんな、身体にした」

  「は……」

  まるで覚えのない話に、弦一郎は大きく目を開いた。三白眼が狼の肢体を睨め付ける。しかし真相を問い詰めるもなにも、あの堅物の狼が、受け入れる部分ではない後ろの孔を拡げ、大きすぎて女に泣かれることもある自分のペニスを、緩みきった顔で最上の喜びとばかりに受け止めている。その光景があまりにも現実離れしていて、冷静な判断はできそうになかった。そんなことよりも、この男を更にぐちゃぐちゃになるまで犯したいという欲でおかしくなりそうだった。

  「でも……それがきもち、いい……です……」

  「!」

  ぐんっ、と狼の中のモノが急に膨れた。

  「ん゛ぁ!?」

  狼は自分の腹が更に膨れ、嬉しさと快感と壊されるかもしれない恐怖とで声を上げた。

  「す……ごぃ……」

  「くそ……!」

  額に青筋立てた弦一郎は、この淫乱な雌犬に一方的にやられている状況に納得がいかなかった。

  「あ、ああ゛!?」

  下から突き上げられ、狼は舌が飛び出してしまう。両手首を掴まれて引っ張られ、身体ごと弦一郎に串刺しにされる。衝撃に、届いてはいけない部分に男の尖先がぐりっ、と挿入いった。

  「あんっ、ん゛あ゛~~~……!!」

  雷に打たれたようにぶるぶると背を反って極めた狼は、獣のように叫びながら達した。ふるふると震える陰茎から、びゅっ……、と一筋の白濁が噴き出した。男泣きしながら、狼は懇願した。髪留めは衝撃で弾け飛んだのか、肩に届く髪が汗で肌や首に張り付いている。ホテルの照明によって、更に卑猥に輝いて見えた。

  その光景に、弦一郎は限界を感じた。

  「なか、くださ……げんいちろっ、ろのお……!」

  「下さい」と懇願されたら、応えてやるのが男というものではないか。

  びゅる、びゅるるるる……!

  熱い、溶岩のような本流が、勢いよく狼の胎内に噴き上げるように放たれる。

  想う男に身体を満たされながら、彼はふと、先日弦一郎を酔わせて絆そうとした女たちのことを思い出した。あの時はなんという短絡的な行為を考えるものだと思ったが、そういう自分が、むしろ身体で此の方を制御しようとしている。

  浅ましいと思った。しかし、そんな考えも吹き飛ぶほど気持ちが良い。

  「ハア……は……」

  受け止めた狼は柔らかい身体でぺたりと女のように膝を付いた。弦一郎に腹の中をまだ占領されており、愛しげに腹を触ってその硬さを感じながら、はー、はー……と艶を含んだ荒い呼吸を繰り返した。

  すると、ぐいと力任せに腕の中程を掴まれた。

  「!?」

  抵抗する間もなく、ぐりん、と身体をベッドに転がされた。尻を抱え上げられ、そのまま遠慮なしに挿入される。

  「ん、ああ!?」

  獣の交尾そのままの姿勢に、狼は慌てて懇願する。両腕は既に、弦一郎によって背中の辺りで一つに纏められている。まるで罪人を罰するような格好に、流石の狼も青ざめた。

  「げんいちろうどのっ、おれ、まだイッ……いぃ~~~~!!?」

  「あれだけ煽っておいて、一度で済むと思うな……!」

  額の青筋をそのままに、弦一郎は容赦なく音がするほど狼に腰を打ち付けた。腕を引っ張ると、奥をごりごりされる快感と激悦で、狼の背が雌のように反る。堪らず、男としての矜持をかなぐり捨てて狼は本能のまま叫んだ。

  「イッて、る、のにぃ゛~~~!」

  以前、蓄えた知識と技能で窮地を救ったのはこの男だった。しかし、あの時の甘い飲み物を嬉しそうに飲んでいた男に、こんな一面があったとは。

  「イグぅ~~~~! ま、またいぐぅ゛!!」

  「……!」

  泣き叫んでベッドに精子を尿のように漏らす狼に、更に腰を重くさせられる。砲身は狼の用意した潤滑油でぬるぬると鈍く光り、暴力的なまでの快楽を叩き込んだ。その度にぎゅうぎゅうと甘やかに締め付けられ、搾り取られる。

  「ふあああ゛~~~~~~~~~……!!」

  狂ったように身体を捩るが、手は取られているので狼には逃げ場がなかった。

  「狼……!」

  「ふあうっ!?」

  折檻するように己の子種を叩き込む男の漏らした呼び声に、狼はビクンッ! と大きく魚のように跳ねて、とうとう出さないまま極めた。

  「げん、いちろ、どのおおぉ……!」

  そのまま容赦などなく、孕んだのかと思われるほど中に遠慮なく出され、狼の目はぐりんと上を向いた。弦一郎と繋がったまま、狼は遂に意識を手放した。

  “なあ、狼”

  常とは違う、穏やかな顔の弦一郎殿。長い髪で髷を結って、身軽な着物を着ている。

  “死して尚生き返るおまえなら、此れからも永い年月を生きていけるのか”

  “あまり興味はありません”

  “何故だ。誰もが不老不死に焦がれるものだろう”

  言われても、納得しかねた。だから、素直に返事をすることにした。

  “一人で生き存えても、虚しいだけです”

  若い御方は目を丸くした。存外表情豊かな方だ、といつも思う。

  “そうか”

  そう言う弦一郎殿の顔は、何故かとても満足げだった。

  “ならば、その時は付き合ってやらねばな。一人が寂しいというのであれば”

  “寂しい、などとは”

  言っておりません。

  否定しようとしたが、弦一郎殿があまりに嬉しそうに口の端を上げているから、否定するのは止めておいた。そして、確かに「寂しい」のかもしれないと思わされた。

  暖かく、桜が撓わに咲いた春の日のことだった。

  「起きたか」

  弦一郎はまだ裸で、隣で寝煙草に興じていた。絵になる姿に見とれそうになったが「危ないですよ」と言うと、「まあな。すまん」と直ぐに火を消した。

  目を擦ってから、気付くと身体の彼方此方に痛みを感じ、狼はゆっくり自分の身体を見遣る。下半身はまだ鈍く重い感じがするが、肌は綺麗で汗も汚れも全て拭われていた。

  「なんだ」

  じい、と狼は弦一郎を見る。彼は何でもないような顔をしていたが、丁寧に自分の世話を焼いてくれた張本人であることを狼は察した。そういった部分が「以前」と変わらないので、なんだか嬉しく思ってしまった。葦名弦一郎とは、生まれ変わってもそういう男なのだ。

  「ありがとう……ございます」

  「いい」

  短く答えると、彼はベッドから降りた。もう行ってしまうのだろうか。

  そう考えると、分かっていても何処か寂しく感じてしまって狼は項垂れた。酒に酔った勢いで、あまりにも大胆なことをしてしまって詫びようもない。あの時の自分が、自分でも信じられなかった。先の世での彼との情の重ね合いを思い返してしまい、最早自分でも踏み留まることができなかった。謝って済む問題なのか、甚だ疑問ですらある。

  しかし、目の前に水の入ったペットボトルが差し出され、狼は顔を上げた。

  「これしかなかった。飲め」

  「はっ……ありがとうございます」

  あまりにもありがたかったので、狼は頷きながらごくごくと飲んだ。水の美味しさと冷たさが心地好く、一気に全て飲んでしまった。その無邪気な顔を、弦一郎はじー……と見ていた。そして、出し抜けに切り出した。

  「おまえ、賭けを覚えているか」

  「賭け」

  一瞬呆けたようか顔をし、暫く思案した後、狼はハッ、と思いだし顔になった。

  「覚えております」

  「嘘つけ。忘れてただろ」

  「あれは引き分けではないですか」

  「引き分けだと!? こんな姑息な手を使っておいてよく言う!」

  「弦一郎殿も興が乗っていらっしゃったのでは?」

  「それはおまえ、あんなにされたら誰だって」

  「俺の身体を見て興奮してました」

  「男の性だ、それはっ」

  「普通、誰も俺のような男に欲情しません」

  小首を傾げ、同意を求める仕草をする狼。小悪魔的なその態度に、弦一郎は苛立った。こいつ、今度こそ足腰立たなくなるまで抱き潰してやろうか。

  「じゃあ、一つだけ答えろ」

  「ものに寄ります」

  「何故俺を『弦一郎殿』と呼ぶ」

  一瞬、狼はまたきょとん、とした顔をする。自分では当たり前のことなので、さして気にしていなかったからこその表情。弦一郎の悪い部分をまたしても刺激した。

  そしてまたハッ!と気付いた顔をする。話し出すのかと弦一郎が期待した瞬間、狼はとびきりの笑みを浮かべた。あまりの変化に、笑顔を向けられた弦一郎は度肝を抜かれた。今までの人生、こんなにも何かに驚かされたことはなかった。眉間に皺を寄せて過ごしている男が、歯を見せる程笑った、だと。

  それは、先程の痴態を凌駕するほどの驚きでもあった。

  「内緒、です」

  狼はそう言って、シー、と弦一郎の唇に自分の人差し指を押し当てた。

  押し当てられた方は、一瞬何が起こったか分からなかった。数秒、魂が抜かれたような顔をしていたが、少しずつわなわなと震えだした。そして、突如叫んだ。

  「ふ……ざけるなあああああ!」

  弦一郎はベッドが波打つ程大きく動き、狼の口を割らせようとし……欲望をそのままに彼の顔を押さえ込み、唇をキスで塞いで激しく接吻した。

  キスをされながら、やはりどんな手段を使っても此の方を誰かに譲りたくないと、狼は気持ちを新たにするのだった。