龍神をその身に宿す巫女のお話【改】

  龍神神社。

  小さな本殿と倉庫代わりの宝物庫、そして社務所のみという質素な神社で、古くからこの地域に根付いている。

  市街地から遠く離れた場所にあるせいか、参拝者はほとんどなく地元の人間すら滅多に足を運ばない。

  寂れた神社といえばそれまでだが、無意識に近づこうとは思わせない何ともいえない神聖さがあった。

  特に深夜ともなれば、明かりのない境内は、ある種の異界じみた雰囲気すらある。

  そんな境内の一角に佇む小さな社務所。

  月明かりがそっと差し込み、薄暗い空間を照らす一室で、一人の少女が布団に横たわり苦しげな表情を浮かべていた。

  「うぐっ!」

  彼女の額からは、流れ落ちるほどの汗が滴り落ち、まるで悪夢に取り憑かれたかのように、苦しい呻き声が漏れている。

  「うっ! あああああっ!」

  少女は大声を上げ、一気に布団から飛び上がった。

  そして、周囲を見回すように視線を走らせる。

  そこに映るのは、彼女がよく知る自分の部屋の風景。

  「はぁ…… はぁ……」

  悪夢から解放されたように肩で息をしながら、白い和服姿の寝間着の袖で額の汗を拭う。

  そして自分の姿を見下ろし、手の平をじっと見つめるとホッとした安堵のため息を漏らした。

  「大丈夫…… 今日は……」

  両手をグッと握り、胸の前で抱え込みながら自分に言い聞かせるようにそう呟いた。

  彼女の瞳から一筋の涙が頬を伝う。

  その涙は恐怖や悲しさなどの感情を押し殺して、やっと流しているように見えた───

  ◇◇◇

  緑深い山間にある小さな村。

  その一角にある小さな神社が、私の住む場所だ。

  [[rb:龍神 > りゅうじん]]神社。

  日本で最も古い神域だと言われているが、詳細な社歴はよく分からない普通のお社だ。

  私はこの[[rb:社 > やしろ]]の一人娘として生まれ、それ以来ずっとここで生活をしている。

  「よっ、みぃ子! 朝から掃除大変だな」

  箒で境内を掃いていた私に声を掛けてきたのは、この村に住む[[rb:継野 > つぐの]][[rb:光太郎 > こうたろう]]。

  この村から10駅ほど離れた先にある高校に通っている。

  “みぃ子” というのは、私のあだ名らしい。

  [[rb:竜神 > りゅうしん]][[rb:御子 > みこ]]、それが私の本名。

  大層立派な名前ではあるが、どこにでもいる普通の女の子… だった。

  あの忌々しい出来事が起こる前までは……

  「光太郎も早いね。 もしかして朝の部活?」

  私は、箒を動かす手を止めて光太郎にそう尋ねる。

  まだ朝の5時過ぎという事もあり、彼以外の人影はどこにも見えない。

  「そう。 朝練とかマジだりぃよ」

  光太郎は、肩を竦めてそう呟く。

  そんな彼の溜め息に合わせるかのように、木々がザワついた感じを受け、私はその視線を本殿に向けた。

  「……」

  「みぃ子?」

  私の顔が本殿に向けられ無言になったことに、光太郎が不思議そうに首を傾げた。

  そして、彼の視線も私の見つめる方向へと向けられる。

  何の変哲もない、どこの神社にでもある普通の本殿。

  神様を祀る場所。

  彼はそこにに祀られている神を知らない。

  知る必要もない。

  だから、その言葉だって彼には他意もなかったのだろう。

  「お告げ…… でもあったか?」

  「っ!」

  その言葉に、私はハッとして光太郎へ顔を戻す。

  私の鋭い視線に、光太郎がビクリと肩を震わせた。

  「ど、どうしたんだ?」

  「え? あっ! ご、ごめんね。 私、朝ご飯の準備しないと。 光太郎も部活頑張ってね」

  そう言って、私は逃げるように本殿へと走っていく。

  光太郎は、おう…… と歯切れ悪く応えると、私をしばらく見つめていたが深く追求はせずにそのまま境内を後にした。

  ◇

  龍神神社には、代々受け継がれた秘密の御神体がある。

  その存在を知る者は少ない。

  何故なら、それは龍神様に選ばれた者のみにしか見る事が出来ないからだ。

  私の両親も、祖父母も、曾祖父母も…… それは見えなかった。

  しかし、私には見えた。

  禍々しい空気を放つ[[rb:靄 > もや]]が、私には見えてしまった。

  その御神体は…… 私の中に存在し、靄は私の中から放たれている。

  これが何なのか、何を意味するのかを私は知っている。

  私の中に龍神様が宿っている事を。

  私は龍神様に選ばれた…… いや、選ばれてしまった。

  そのことに気付いた日、私は龍神様の巫女として生きることになった。

  その数日後、私の両親は亡くなった。

  私が───

  「神に仇なす酬いを受くる者を見つけき。 今宵神罰を下す。 心せよ」

  本殿前立ちすくんでいた私は、突拍子もなくそう自分の口で呟いた。

  私の意思など関係ないと言わんばかりに、その言葉は勝手に紡がれる。

  そして、その言葉の意味を知る私は身震いした。

  “神罰”

  それは、人に与える罰の中でも最も重いとされる神が直接手を下す罰。

  龍神様の力によって、その者の命を奪うということ。

  “心せよ”

  それは、私に向けられた言葉。

  私が龍神様の代わりとして、その罰を下すための依代になること。

  今夜、私は人を殺す。

  この身に龍神様の力を宿して……

  「[[rb:御子 > みこ]]、気分でも悪いのですか?」

  私の背後で、若い男性の声が聞こえた。

  どこからともなく現れた人影。

  私は顔を横に動かし、目線だけを後ろに向けると、そこには全身黒ずくめの[[rb:直衣 > のうし]]を纏った男性らしき姿があった。

  顔の部分に不思議な模様の描かれた半紙が垂れ下がっており、顔は勿論その表情すら窺い知ることはできない。

  「[[rb:始源 > しげん]]……」

  彼の名は[[rb:始源 > しげん]]。

  私がこの身に龍神様を宿した時に現れた[[rb:神使 > しんし]]と名乗る存在。

  「あまり人の子と関わるのはお止めください。 御身に危険が及ぶ───」

  「うるさい! 私に意見をするな!! 無礼者!」

  始源の言葉を遮って、私は声を張り上げた。

  彼は深く頭を垂れ、無言で私に謝罪の意思を示す。

  私はしばらく始源を睨み付けていたが、やがて溜め息を漏らし彼に背を向けた。

  「時間まで私の前に姿を現さないでください……」

  「[[rb:御意 > ぎょい]]」

  始源は短く応えると、スゥと姿を消し去った。

  直後、私は力なくその場に崩れ落ちる。

  普段着を着ていたはずの私の格好が、いつの間にか巫女装束に変わっている事にその時気付いた。

  私は……

  もう、戻れない。

  普通の生活に───

  ◇◇◇

  私はその日一日何も口にせず、境内に立つ社務所内の自室で一人膝を抱えていた。

  どのくらいの時間が経ったのだろうか。

  部屋に差し込む光りが月明かりへと変わり、その淡い光が部屋を薄暗く照らしていた。

  私は、覚悟を決めるとゆっくりと立ち上がり、鏡の前に自分の姿を映し出す。

  そこに映るのは、巫女装束を身に纏う私の姿。

  目元に紅が施され、そのせいか見た目が鋭い目つきへと変わっている。

  「御子」

  背後から始源の声が掛かる。

  鏡には私以外の姿は映っていない。

  「時間です。 本殿へ」

  始源の言葉を無視し、私はゆっくりとした足取りで社務所を出て本殿へと向かう。

  そして、本殿の扉の前で立ち止り右手を[[rb:翳 > かざ]]した。

  扉が私の…… 龍神様の意思により観音開きに開門する。

  そして、その扉の向こう側へと歩を進めた。

  古びた祭殿の前に黒い靄を纏った球体がふわふわと浮かんでいる。

  そして、その靄の中心には人のような姿をした何かが佇んでいた。

  あれが、神罰を下す相手……

  「彼に神罰を下します。 始源、私を彼の元へ」

  「御意」

  次の瞬間、私は薄暗い森の中で彼の前に浮かんでいた。

  周囲を確認すると、小さな洞穴の中に居るようだ。

  私は知っている。

  ここが神社の裏に広がる禁足地の森の中である事を。

  私は地面に降り立ち、彼の方に向き直る。

  「うわっー! な、何だよお前! どっから現れた!! って言うか、どこだよここ! 何で俺はこんな所に!?」

  突然目の前に現れた私に、彼は驚き尻餅をついた。

  神罰を受けるためにここへ転送された事すら知らずに。

  「ち、近づくな!! ぶっ殺すぞ!」

  彼はポケットからナイフを取り出して、私にそれを向けた。

  しかし、私はその行為に何の恐怖も、躊躇いすら感じる事無く彼へ手を伸ばす。

  直後、彼のナイフが私の手を刺して血が滴り落ちた。

  私はその手を戻し、呆然とする男に不敵な笑みを向け、流れ落ちる血を舌で舐め取る。

  「龍神の巫女で有り、その[[rb:依代 > よりしろ]]たる私に傷を付けるとは…… [[rb:赦 > ゆる]]せぬ所業。 その行為、神罰以上の万死に値する!!」

  私の身体から、禍々しい気が解き放たれた。

  黒い靄を体中から噴き出す私を前に、彼は怯えた様子で後ずさりをしている。

  しかし、逃げることは出来ない。

  いや、不可能だ。

  すでに私の体は龍神へと変身を始めたのだから。

  「ぐフッ…… グルルッ…… グオォォォオオオ!!!」

  私の口から、獣のような声が発せられる。

  ゴキゴキと骨が軋む音が体の中から鳴り響き、私の身体が大きく膨張を始めた。

  身体の筋肉が盛り上がり、巫女装束が内側から破裂したように弾け飛ぶと、露わになった皮膚を突き破って漆黒の[[rb:鱗 > うろこ]]が体の表面を覆っていく。

  その鱗は肩から腕、脚まで全身を覆い、身体の構造を次々と人から龍神に相応しい物へと変化させる。

  人間の持つ5本の指が3本指の形へと姿を変え、その先端から鋭く尖った漆黒の鉤爪が伸びた。

  足の形も人間の構造とはかけ離れた形状へと変わり、その指先が鉤爪と一体化し踵からも太く鋭い爪が伸びる。

  龍神へと変化を遂げていく私を凝視していた彼の表情が、恐怖から絶望へと変化していく。

  「な、何だよこれ…… 嘘だろ……」

  彼は、恐怖に顔を引きつらせながら、私に向かってそう呟いた。

  その声に私は男へ視線を合わせ、体の変化を見せつけるように自らの顔の形を変えていく。

  私の目が赤く染まり、瞳が縦に割れ爬虫類のような鋭い眼光へと変わった。

  「グフッ…… グルルッ…… グガガガァァア!」

  私の口が大きく裂け、メキメキと音を上げながら前方へ突き出ていくと、無数の鋭い牙が生え揃う。

  腰から長い尾がズルリと生え、ドスン! と地面へと叩きつけると、その振動で周囲の木々が激しく揺れ動く。

  そして、こめかみを突き破り二本の角が天高く伸びると、私は完全な龍神へと変身を遂げた。

  全身に人が持ち合わすことの出来ない、強大な力 “神力” が漲り、凄まじい高揚感に襲われる。

  「グガァアーッ!」

  私は大きく体を反らし、天を仰ぎながら涎を周囲に撒き散らして咆哮を上げた。

  鋭い眼光を放つ双眼。

  人の頭を簡単に収めるほどの大きい口と、骨すらも噛み砕く幾重にも重なった無数の鋭い牙。

  強靱な漆黒の鱗に覆われる巨体に、大地を揺らす巨大な足。

  そして、その体躯に匹敵するほどの長く太い尻尾……

  それは、この世の頂点に立つ存在、絶対的な神 “龍神”。

  私は、その龍神として今、この地に降臨した。

  神の怒りに触れた愚かな人間に罰を下すために。

  私は、恐怖に身を震わせる彼に向かって殺意を込めた視線を送る。

  「うわー! 助けてくれー!! 化物だぁー!!」

  這いずりながら逃げようとする男に、私の尻尾が風を切る音とともに振り下ろされる。

  次の瞬間、男はその巨大な尾に薙ぎ払われ、数メートル先の地面へと叩き付けられた。

  口から大量の血を吐く男に、私は ドシンッ ドシンッ と地面を揺らしながら彼の前に歩み寄っていく。

  そして、男の首を乱暴に掴み持ち上げた。

  「900年前、お前は前世で神の怒りを買った。 よってキサマに神罰を下す。 その報いを受けよ」

  「な、何のことだ…… 900年前っ───」

  ボトッ……

  男の言葉を最後まで聞く事無く、私は彼の首を握り潰した。

  ブシャー! と鮮血が飛び散り、私の体を赤く染め上げていく。

  男の胴体が地面へ転がり、真っ赤な鮮血が広がっていく光景を眺めながら、私は涎で糸を引いた口を大きく開いて彼の頭部を口の中に放り込んだ。

  バリッ! ボリッ!! と、男の頭部を噛み砕く音が響き渡る。

  そして、粉砕された頭部を ゴクッ と飲み込み、太く長い舌で血に濡れた口周りを舐め取った。

  「グルルルッ……」

  唸りながら、私は龍神へと姿を変えた自分の身体を見下ろした。

  人間…… いや、神とすらも思えないような禍々しい化物。

  全身を血の色に染め上げた龍人の姿。

  これが、今の私……

  私は今、人ではなく神として存在している。

  足下に転がる首のない無残な死体は、私が神としてこの手で殺めた人間……

  彼だけではない、これまでに多くの命を奪ってきた。

  神罰という大義名分を掲げ、この体で命を奪うことに何の罪悪感も感じることなく、私は無慈悲に命を摘み取ってきたのだ。

  そして私は、これからも変わることはなく残虐な行為を繰り返す。

  それが私、龍神様の巫女でありその依代 “竜神御子”、いやこの身に龍神を宿した “龍神” そのものなのだから……

  「ご苦労様でした龍神様。 今宵の神罰、真事見事な御業でした」

  私の背後から、始源の声が聞こえ振り返る。

  彼は膝をつき私の前に頭を垂れていた。

  私は、そんな始源の頬に爪を立て、その顔を上げさせた。

  「この半紙はいつ取れるのだ?」

  「……」

  私の問いに、始源は無言で応える。

  彼の頬に爪が刺さり黒い血が滴るその最中も、彼は微動だにせず私の問いへ答えようとはしなかった。

  「この垂れはお前の肉体の一部であろう? 脳みそごと引き剥がしてやっても良いのだぞ?」

  「……。 龍神様がお望みであらば」

  私は興ざめし、彼の頬から乱暴に爪を退かすと地面に転がっている男の体を踏み潰した。

  ビシャー! と鮮血と肉片が周囲に飛び散り、私の身体へ赤い雨と肉片が降り注ぐ。

  「我を本殿へ戻せ。この使いっ走りの無能神使が!!」

  「御意」

  始源の声と共に、私は本殿へと戻される。

  真っ赤に染まった異形の体に、肉片と臓物を身に纏ったまま。

  そして……

  目の前に信じられないモノを見てしまった。

  「!? 光太郎……」

  ◇◇◇

  ──

  ──

  ─────

  俺は昔、森の中で命を救って貰ったことがある。

  禁足地とされる龍神神社の裏手、その森の中へみぃ子が一人で入っていくのを見たのが発端だ。

  その姿を見て、俺は彼女を追い森の中へ足を踏み入れてしまった。

  みぃ子を見失った俺は、彼女の名を呼びながら薄暗い森の中をどんどん奥へと進んでいった。

  そして、物陰から何かが出てくるのに気付いて振り返ると……

  男がナイフを突き出しながら、俺に飛び込んでくる姿が見えた。

  恐怖に顔引き攣らせ、半狂乱の状態で俺に体当たりをしてきたその男は、俺の腹にナイフを突き刺しながら転倒した。

  「がぁ!!」

  男に刺された場所から激痛が走り、俺は堪らず声を上げ倒れ込んだ。

  腹から血が溢れ、汗と吐き気と悪寒が全身を襲い、体から力が抜けていくのが分かった。

  「来るな! 来るなぁ!!」

  男は俺にナイフを刺した事すら認識出来ていないのか、絶叫を上げながら半狂乱で森の中を見つめていた。

  意識が朦朧とする中、男の視線の先を追うと……

  そこには信じられないモノがいた。

  漆黒の鱗に覆われた巨大な体躯、長く太い尻尾、そして、頭部に2本の角を生やした化物の姿。

  ダラリと下がった腕の先には、10センチはありそうな鋭い爪が伸び、その先から血が地面へポタポタと垂れている。

  それはこの世界に存在する人間や動物、そのどれにも当てはまらない異形の生物だった。

  そして、その姿を見たら絶対に助かることは出来ないと思わせる程の、恐怖と絶望に満ちた威圧感……

  そんな異様の化物が、目に前に現れたのだ。

  俺は死を覚悟するしかなかった。

  しかし、その化物はその場から動く事はなく、それどころか何故か震えている様にさえ見えた気がした。

  俺の目が、化物の視線と重なる。

  直後、化物から人間の俺でも分かる程の凄まじい殺意が放たれ、目が鮮血を思わせる様な鮮紅の光を放った。

  そして───

  「グアァアアアア!!!」

  化物が天を仰ぎ、前に突き出た巨大な口を全開まで開いて鼓膜が破れるかと思うくらいの大絶叫を上げた。

  直後、グシャッ!! と何かが潰されたような不快な音が耳に届く。

  隣で這いつくばっていた男の身体から、血と臓物が飛び散ったのが視界に入った。

  化物の足が、男の腹部を押し潰すように踏み付けられている。

  両手、両足…… 次々と男の体が潰され、鮮血と肉片が地面へ跳ね飛ぶ。

  そして、最後に男の頭部を踏み潰すと、化物は天を仰ぐように再び咆哮を放った。

  俺は薄れ行く意識の中、その光景に恐怖を覚えながらも化物の姿を目に焼き付けていた。

  そして、その化物の鋭い爪が俺に向かってくる光景を最後に…… 意識が切れた。

  ◇

  「─── っかりしろ!」

  バタバタバタバタ という轟音と共に俺を呼びかけるような声が耳に届き、俺はゆっくりと目を開いた。

  視界に必死な形相で俺に向かって叫ぶ男性の顔が目に映り込む。

  「もう少しで病院に着く。 ドクターヘリで病院まで向かっている途中だ! 頑張れ!」

  彼の呼び掛けに、俺はコクッと返事をした。

  救急隊と思われるその男性の隣には、血で赤く染まった巫女服を着たみぃ子の姿が見えた。

  彼女は顔を両手で覆い、泣きじゃくって震えていた。

  そんな、みぃ子の姿を目にした俺は彼女の手を取ろうと手を伸ばし……

  俺の意識が再び途切れた。

  ◇

  次に目覚めた時には病院のベッドの上だった。

  その時に見たみぃ子の顔は、今でも忘れられない。

  「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

  みぃ子は泣きじゃくりながら、何度も何度も俺に謝り続けた。

  ただひたすら、ごめんなさい、と……

  俺はあの日の出来事を全て心に封印した。

  何も見なかったし、何も覚えていない。

  それが、みぃ子を傷付けずに済む方法だと直感的に思ったから。

  そして、時間と共にその時の記憶が薄れていく中、俺はあの日の出来事を誰にも話すこと無く生きてきた。

  しかし……

  俺はまた同じ過ちを犯してしまった。

  夜、ジョギングがてら龍神神社の前を通った俺は、本殿の中に入るみぃ子の姿を見た。

  中から眩い光りが放たれる光景を見て…… 俺は彼女を追い扉を開けてしまった。

  そこには、真っ赤な返り血を全身に浴びた化物の姿があった。

  そして、その化物が放った言葉を聞いてしまった。

  『光太郎……』

  それは、みぃ子の声だった。

  あの黒い鱗に覆われた化物がみぃ子……

  あの時、俺を刺した男を血塗れの足で踏み潰し肉片にしたのは……

  嘘だ……

  嘘だ!嘘だ! みぃ子が化物!?

  「嘘だ! 嘘だ!嘘だ! 嘘だ!!」

  ─────

  ──

  ──

  「嘘だぁ! はぁ… はぁ… はぁ……」

  俺は、バッと勢いよく布団から飛び起きた。

  全身から嫌な汗が吹き出し、心臓がバクバクと高鳴っている。

  見慣れない部屋で、俺は布団に寝かされていた。

  「安心して。 ここは私の部屋だから」

  突然、背後から声を掛けられて俺はビクッ! と体を硬直させた。

  ゆっくり振り向くと、そこにはみぃ子が畳の上に座っていた。

  「みぃ…… 子……」

  彼女は巫女服姿で、目元を化粧しているのか普段より鋭い目つきをしている。

  それだけで、みぃ子がいつもと別人に見えてしまうほど、彼女の表情や雰囲気には優しさや穏やかさが消え失せていた。

  俺はそんな彼女の顔を見て体が震えだす。

  脳裏で、みぃ子と化物の姿が重なり合い、おぞましい光景が甦ってくる。

  違う!

  みぃ子があんな化物の姿であるはずがない!

  人をあんな風に踏み潰すような化物が、みぃ子であるはずがない!!

  心の中で、俺は必死に自分に言い聞かせる。

  「光太郎、あなたはもう気付いているはずよね?」

  俺の心を見透かすように、みぃ子が問い掛けてくる。

  俺は口を閉ざし、何も応えることが出来なかった。

  「あなたが本殿で見た怪物は…… 私。 私は───」

  「違う! 俺は何も見てないし何も覚えていない!!」

  俺はみぃ子の話を遮るように大声を上げた。

  大丈夫、また心の奥に封印さえすれば、いつも通りの日常に戻れる。

  そう、いつものように……

  しかし、その夢は砕け散った。

  「あれは、私です」

  みぃ子の目が、赤く光りを放ち輝きだした。

  その瞳は、まるで猛獣のように縦に割れ、獰猛な視線で俺を見つめている。

  顔の至る所に鱗のような模様が浮かび、袖から見える彼女の手にも鱗模様が浮かんでいた。

  「これで分かったでしょ? 私は…… 人間じゃない」

  そういう彼女の口から除く歯はギザギザした尖ったものに変わっている。

  俺は何も言葉を発せず、みぃ子を見つめる事しか出来なかった。

  「警告します。 今後この社への立ち入りを禁じ、私と接触しないと誓いなさい」

  みぃ子は普段彼女が使う口調とは異なる、無機質で冷たい声で命令するようにそう告げた。

  俺は一度視線を落とし、意を決すると再び彼女へ顔を上げ、みぃ子へ言葉を返す。

  「嫌だ。 みぃ子は俺の命の恩人だ。 そんな約束、俺には出来ない」

  俺は、彼女の目を見ながらはっきりそう告げた。

  みぃ子はその言葉を聞き、その場でゆっくりと立ち上る。

  彼女の目が、俺を見つめていたそれから、明らかに目元を吊り上げた鋭く尖ったものへと変わった。

  そして、みぃ子の体に浮かんでいた鱗のような模様が、その形をハッキリとさせた鱗となり、その顔を漆黒に染めていく。

  「グフッ…… グォアァァアアァァ」

  みぃ子が獣のような唸りを上げ、鼻下から口、顎が前方へゆっくりと伸びていく。

  大きく突き出てくる口は剥き出しになった歯茎と、何重にも重なる鋭い牙が隙間なくびっしりと生えた凶悪な形状へと変貌する。

  体が膨らみを増し、彼女が着ていた巫女服がビリビリと音を立て裂けていくと、中から真っ黒な鱗に覆われた屈強な体格が露になった。

  「グギャァァアア!!」

  俺の目の前で、みぃ子だった物が口を大きく開き咆哮をあげる。

  口から涎を撒き散らし、その目は血のように真っ赤に輝いていた。

  漆黒の鱗に覆われた、人で非ざるその異形の姿……

  それは、さっき本殿で見た化物と同じ化物。

  昔、俺の目の前で男を惨たらしく殺したあの化物とも同じ姿だった。

  「うぉえっっ!」

  強烈な吐き気が襲い、俺はその場で嘔吐する。

  みぃ子はそんな俺を、鮮血のように染まった目で見下ろしていた。

  四つん這いになって吐瀉物を全て出し切り、顔を正面に上げると目の前に金属のような鱗に覆われた彼女の異形の手が見えた。

  一振りしただけで人間など簡単に真っ二つに切断できそうな鋭利な爪を生やしたその手が、ピクピクと不気味に動いている。

  俺は恐怖のあまり声を出すことも出来ず、ただ身体を震わせていた。

  そんな俺に向かって、彼女は言葉を告げる。

  「二度言わすな。 神の警告を無視した時はお前を食い殺す。 体を切り刻み、頭を潰し、その肉片すら残さぬまでにな。 分かったら我の前から消えよ!!」

  言い終わると同時に、みぃ子の尻尾が俺の体を吹き飛ばした。

  俺は部屋の壁に激しくぶつかり、そのまま地面へ倒れ込む。

  薄れゆく意識の中、みぃ子が震えながら両手を握りしめ、目から一筋の涙が伝っているのを見た気がした───

  ◇

  それからどのくらいの時間が経っのだろうか。

  気付くと俺は、神社から少し離れたバス停のベンチに座っていた。

  夢ではない。 記憶はハッキリと残っている。

  現に体のあちこちには、彼女の強烈な一撃を食らった時の痛みの余韻が残っていた。

  俺は、自分の肩を抱くようにして震える体を落ち着かせると、ゆっくりと立ち上がり足を引きずる様にして家に帰った。

  ◇◇◇

  薄暗い部屋の中、私は壁にもたれ掛かり立ち尽くしていた。

  全身を強靱な鱗で覆い、尻尾が生えた龍神の姿で……

  私は垂れ下がっていた自分の右手を、ゆっくりと目の前へ持ってくる。

  3本しかない太い指の先には、鋭い爪が生えていた。

  指先へ軽く神力を流すと、その爪が伸び30センチはある異形の刃に姿を変える。

  同時に足からも直接突き出た太い鉤爪が長く伸び畳を深く抉っていく。

  化物だ……

  私は、その爪を壁に突き立てた。

  鋭い切っ先が壁を易々と貫き、大きな亀裂を生み出すとそのまま振り下ろし壁を破壊する。

  そして、部屋の物を手当たり次第に破壊し暴れ回った。

  光太郎の目の前で、私は龍神に変身した。

  躊躇う事なく人を殺す怪物の体を彼の目に晒してしまった。

  光太郎が私の姿を見て、あまりのおぞましさに恐怖し、嘔吐までした……

  「光太郎…… 私……」

  私は両膝をつき、その場に座り込んだ。

  目から大粒の涙が零れ出し、凶暴な自分の両手を見つめ嗚咽する。

  そして、何度も繰り返した謝罪の言葉を口にしながら、私は泣きじゃくった。

  「ごめんなさい…… ごめんなさい……」

  私は光太郎を傷付けた。

  もう彼には会えない。

  私は、彼に酷く惨い事を言ってしまった。

  もう、彼の顔を正面から見ることは出来ない……

  私が彼を拒絶したのだから……

  「御子、私は言いました。 これ以上人間に関るなと。 何度同じ事を繰り返せば───」

  「黙れ! ゴミが!!」

  私は突然話しかけてきた始源の言葉を最後まで聞かず、彼の頭を鷲掴みにして握りつぶした。

  グシャッと音を立てて、鮮血… いや真っ黒な液体が飛び散った。

  「下等な虫けら如き存在が私に意見などするな! 我は龍神ぞ!! 身の程を弁えよ!!!」

  私は、頭部が潰れ横たわる始源の体を原型がなくなるまで踏み付け続けた。

  「はぁ、はぁ…… グルルル……」

  どす黒い肉片と変わり果てた始源だったものを見下ろし、肩で息をする私は我を取り戻して畳へ腰を下ろす。

  それだけでズドンッと畳が陥没する。

  隣では、黒い肉片がボコボコと蠢きながら形を成していた。

  「それでこそ御子、龍神様であるあなたに相応しい振る舞いです。 残忍で冷酷なその本性が、あなたの真のお姿なのですから」

  始源は、何事もなかったかのように元の姿に戻っていた。

  私は彼を睨み付けると、ゆっくりと立ち上がる。

  もう、どうでも良い……

  私は人ではなく龍神なのだ……

  そして、その意をくみ取ったかのように、新たに神罰を下す者が禁足地に転送された気配を感じ取った。

  「始源、すぐに準備をしろ。 我に背きし人間に新たな神罰を下す時間だ」

  「御意」

  始源は、深くお辞儀をするとそのまま姿を消した。

  今回の獲物は運が悪い。

  人の身では耐えがたい苦痛を味合い、恐怖と絶望の中で生きたまま食らわれながら、生まれてきた事を後悔するのだから。

  私は自分の指から伸びる鋭い刃を見つめると、口元から涎を垂らし舌舐めずりをする。

  自分が御子なのか龍神なのかさえ分からないほど、私の心は狂気に満ちていた。

  ◇◇◇

  「うっ! あああああっ!」

  私は大きな声を上げ、布団から跳ね起きた。

  そして周囲を確認するように視線を彷徨わせる。

  物が散乱し、壁が砕け、畳に穴が空いている。

  酷い状況だ……

  しかし、そこは見慣れた自分の部屋。

  「はぁ、はぁ……」

  私は悪夢から解放されたように肩で息をしながら、袖で額の汗を拭った。

  自分の姿を見下ろし手の平を見つめる。

  人間の手……

  しかし、その両手は血でべったりと濡れていた。

  「……」

  頭の中に、昨日神罰を執行した光景がフラッシュバックする。

  泣き叫ぶ女性の指を一本一本食いちぎり、皮を剥ぎ、骨を砕き、肉を咀嚼する自分の姿……

  彼女の腹に足を乗せ、苦痛を与えるかのようにじわじわと踏み潰していく自分の姿。

  そして、最後に彼女の顔を掴み、ゆっくりと力を加え─── グチャッ!

  「うっ! おえっ!!」

  胃に入っていたものが、全て逆流し口から飛び出した。

  ビチャッ!と音を立てて赤黒い肉片や、引き千切られた指など、明らかに人間の一部が布団の上に飛び散る。

  「うぉえっ! うえっ! おえっ!!」

  私はその光景に何度も嘔吐を繰り返した。

  胃の中が空になり、胃液しか出てこなくなると、私は畳に両手を付き何度も深く息を吸う。

  「龍神様、昨日の罪人はお口に合いませんでしたでしょうか」

  目の前に、始源が姿を現す。

  私は、その言葉に目を見開き、怒りで頭に血が上るのを感じた。

  「そんな名で呼ぶな! 私は龍神ではない! 私は…… 私は竜神御子だ!!」

  私は、始源に対して怒鳴り声をあげていた。

  しかし気付いていた。

  袖から覗く私の肌は、怒りによって漆黒の鱗で覆われていた事を。

  そして、口から歯茎が剥き出しになり、舌が触れる歯が鋭利に尖っている事を……

  「……。 あの少年と会ってからあなたの精神は不安定になっています。 もう光太郎のことは───」

  ゴトッ

  始源の首が畳へ転がり落ちた。

  私の右手は、凶暴な鉤爪が生えた龍神のそれになっており、始源の首があった場所を通過していた。

  「今日は我の前に姿を晒すな」

  私の命令に答えるように、始源の体と床に転がった頭部が黒い靄となり、その場から姿を消した……

  ◇◇◇

  翌日、俺は朝練に向かうためバス停のベンチに腰を下ろしていた。

  昨日の夜、化物に変わったみぃ子に襲われた後で意識を取り戻した場所。

  全身の痛みは治っておらず、それが夢でなかった事を物語る。

  しばらくすると、バスが到着し乗降用のステップに足を乗せ……

  「すみません、忘れ物したんで戻ります。 行って下さい」

  俺は、運転手にそう伝えバスを降りた。

  そして、その足を龍神神社へと向ける。

  御子は俺に神社へ来るなと言った。

  来たら殺すと。

  しかし、意識を失う直前に見た化物…… みぃ子の目から流れ落ちた一筋の涙が頭から離れない。

  だから俺は、彼女に直接聞きたかった。

  みぃ子の本心を……

  例え引き換えに命を落としたとしても。

  この命は彼女に救ってもらった物だから。

  あの事件の元凶が彼女で、俺が巻き添いをくらった物だったとしても……

  俺は覚悟を決めていた。

  竜神御子という初恋の相手と、命を賭けて向き合う覚悟を。

  ◇

  神社へと戻って来た俺は、境内へ繋がる鳥居の前で足を止めた。

  目の前に、平安貴族のような格好をしたモノが立っている。

  それは真っ黒な装束に身を包み、顔に不思議な模様の描かれた半紙を垂らした異様な姿。

  顔は見えず、その表情すらも伺えない半紙の向こうから、若い男性と思われる声が俺に届く。

  「昨日、あなたはここへの立ち入りを禁止されたはずです」

  俺は、謎の人物を睨みつけた。

  この神社で、こんな格好をした人を見たことがない。

  神社関係の人か……?

  いや、彼は間違いなく人間ではない事だけは理解できる。

  黒い靄を体に纏った人間など、いるはずがないから。

  「あんた、誰だ……?」

  「私は龍神様の神使・始源。 唯一、龍神様の隣で手足となり道具として仕える事が許された存在です」

  始源と名乗った相手の声が、淡々とした口調でそう告げた。

  俺は、始源の言葉を頭の中で反芻する。

  龍神に仕える…… 神使?

  「龍神っていうのは、みぃ子の事を言っているのか?」

  「人間である貴様が、気安く龍神様の事を呼び捨てるなど、不敬にも程があると知り給え」

  始源と名乗る男性は落ち着いた声でそう話すが、彼を包み込む黒い靄はまるで炎のように沸き立ち、俺を威嚇するかのようだった。

  その得体の知れない力に気圧されるも、俺は拳を握りしめて口を開いた。

  「みぃ子に会いたい」

  「……。 無理です。 人間如き分際が、今まであのお方と関わりを保っていただけでも私には不快なのです。 これ以上足を踏み入れるような事があれば、龍神様に代わり私があなたを殺す」

  始源は、そう言い放つとゆっくり俺に歩み寄る。

  俺はその圧に後退りし、背中に鳥居が触れた。

  もう後がない……

  彼は俺の目の前まで来ると立ち止まり、半紙の垂れた顔を俺に近づける。

  「御子と初めて会ったのはいつですか?」

  「は?」

  彼は突然そんな質問をぶつけてきた。

  意図が分からず、俺は眉をひそめながら記憶を引き出す。

  御子と初めて会ったのは……

  「お、覚えてないけど…… みぃ子とは幼馴染みだ」

  「中学は同じクラスでしたか? 別のクラスでしたか?」

  みぃ子は確か……

  「誕生日は? この神社以外で御子に会った事は? 御子の家族構成は?」

  始源は、矢継ぎ早に質問を重ねる。

  俺は、みぃ子との記憶を遡りながら首を横に振った。

  おかしい、思い出せない。

  みぃ子の事……

  何だこれ、思い出される記憶が全てこの神社にいるみぃ子だけだ。

  境内を箒で掃除し、俺に微笑むみぃ子の姿……

  他の記憶は、靄がかかったように不鮮明ではっきりとしない……

  俺は、そこで違和感に気付いた。

  みぃ子の事を知っているようで、何も知らない自分への違和感に……

  混乱し頭を抱える俺に、彼は信じられない事を言い放った。

  「彼女はこの神域から1200年以上出ていません」

  「え?」

  始源の言葉に、俺はさらに混乱した。

  みぃ子が……

  1200年以上ここから出ていない?

  そんな馬鹿な話があるか!?

  それじゃまるで……

  「御子の生まれは794年、平安時代です。 14歳の時に龍神様として覚醒し、それを最後にこの神域からは一歩も外に出ていません」

  俺は、始源の言葉に愕然とした。

  そんなの……

  信じられない……

  「な、何を言ってるんだ…?」

  「言った通りです。 彼女は人である事を捨て、神と一体になった龍神様であり、愚かな人間に神罰を下す殺戮神。 あなたも見たはずです、彼女の本当の姿と力を」

  俺の記憶と、始源の言葉が重なる。

  鱗のような皮膚に覆われ、口元には牙が生え、爪は鋭く尖っていたみぃ子の姿。

  人外の化物へと変貌したみぃ子の姿。

  そして、御子の目から溢れた涙………

  「だから何だ。 みぃ子がどんな存在であったとしても、俺にとってはみぃ子だ! そこをどけ!」

  「分かりました。 あなたは殺したくありませんでしたが、龍神様の神使としてあなたをこの手で殺───」

  ブシャー!!

  始源が言葉を言い終わる前に、彼の胸から黒い血が噴き出した。

  漆黒の鱗に包まれた手が彼の胸元を貫き、その手には心臓と思われる物が握られている。

  そして、俺の目の前でグシャッと音を立てて握り潰されると、その手が引き抜かれた。

  その直後、今度は始源の首が斬り飛ばされ頭部が宙を舞う。

  「え?」

  首がなくなった彼の体がドサリと地面に倒れると、その後ろからみぃ子の姿が現れた。

  彼女の口は歯茎を剥き出しにして、頬を破り大きく裂けた口にすら収まらないほどの牙が突き出ていた。

  巫女装束を纏っているが、そこから除く腕は鱗に覆われ、その手の先から始源の身体を貫き、首を跳ね落とした鋭い鉤爪が伸びている。

  人間と龍神を混ぜたような中途半端な姿。

  それが疑いようのない、みぃ子である事を物語っていた。

  「誰がお前のような無能に殺害の許可を与えた!! 勝手な真似をするな!!」

  みぃ子は、怒気を含んだ声でそう叫ぶと、始源の体を足で強く踏み付けた。

  足袋の先を突き破って飛び出している鉤爪が、何度も何度も始源の体に突き刺さり肉を抉り取る。

  そして、ベキベキッ! と、不快な音と共に始源の体が真っ二つに割かれた。

  俺は、そのおぞましい光景を目にし尻餅をつきながら、ただ呆然と眺めていた……

  あまりにも現実離れした光景に、思考が追い付かない……

  そんな俺をチラリと見たみぃ子は、もはや肉片と化した始源の体から足をどかし、俺の方へ向き直った。

  「み、みぃ子……」

  「貴様ぁ、何故我の…… 龍神である我の命に背いたのだ。 この愚か者めが! 神に背きし大罪、死を持って償え!!」

  みぃ子は俺に鋭い眼光を放ち激昂して怒鳴り声を上げた。

  彼女の言葉が重くのしかかる……

  その怒りに満ちた声には、俺に対する明確な殺意が感じられた。

  彼女の右腕が大きく振り上げられる。

  そして、その腕から伸びた鋭利な鉤爪が、俺の首を切断しようと迫ってきた。

  「みぃ子に会いたかったんだ! どんな姿でもみぃ子はみぃ子!! 俺の命の恩人で初恋の相手から!!」

  俺は、目を瞑りそう叫んだ。

  振り下ろされる死の鉤爪に、俺は一切抵抗せずみぃ子に首を……

  が、何時まで経ってもその瞬間は訪れる事はなかった。

  俺は、ゆっくり目を開く。

  みぃ子の鉤爪が俺の首に触れる直前で静止しているのが見えた。

  そして、真っ赤に光っていた彼女の目が瞳を取り戻し、その目からポロポロと涙がこぼ落ちている姿が俺の目に映った。

  みぃ子は涙を流しながら、ゆっくりと腕を下ろすと、俺は彼女を抱きしめた。

  彼女の体は、まるで石のように硬く、その事に俺は驚きよりも悲しみを感じる。

  「俺は、みぃ子が好きだ。 みぃ子との思い出が例え作られた物だったとしても、俺の命を救ってくれたみぃ子は本物だ…… だから、俺はみぃ子の側にいたい」

  「光太郎……」

  みぃ子は、俺の腕の中で俺の名を優しく呟いてくれた。

  そして、俺は彼女に向かって手を差し出す。

  俺の手を彼女の手が握ろうとするも、みぃ子は凶暴な鉤爪が映えた自分の手を見て引っ込めてしまう。

  しかし、俺は構わずその手を掴み無理やり握りしめた。

  そして、その手を自分の頬に当てる。

  人の肌とは思えない感触と彼女の爪が触れた場所から血が流れ出るが、俺は手を離さなかった。

  そして、みぃ子の目をじっと見つめた。

  しかし、そんな俺たちを邪魔するかのように、背後から始源の声が届く。

  「御子、本当に良いのですか? どんなに人間を愛しても、神と人は絶対に結ばれる事は出来ない」

  「黙れ」

  肉片となっていたはずの始源の体が徐々に復元され、元の姿に戻って行く。

  彼の口調はとても優しく、本気でみぃ子を心配している事が伝わってくる。

  「……。 私を捨て、彼を選ぶ事が御子に出来ますか? 龍神としての永遠の時を、たかが人間風情と過ごすつもりですか? 」

  「黙れと言ったはずだ。 それ以上の口を開けば、お前を殺す」

  始源の言葉に、みぃ子は感情のない声でそう呟いた。

  彼は、みぃ子の表情を見据えてしばらく沈黙し……

  そして再び口を開いた。

  「所詮、人の記憶など時間と共に消えて行く。彼も…… いえ、あなたも同じです。 それに耐えられるのですか?」

  「黙れと言ったのが聞こえなかったのかぁぁああ! グアアアーッ!!」

  みぃ子の体から赤黒い炎のような靄が噴き出し、俺はその神力によって弾き飛ばされた。

  彼女の体が巫女装束をビリビリに引き裂き、尻尾が飛び出すと鱗に覆われた屈強の肉体へ顕現していく。

  背骨に沿って鋭利な突起が突き出し、口が前方に伸びると夥しい数の牙が顔を覗かせ、頭部には何本もの角が形成されていった。

  全身を包み込む鱗が、以前の龍神の黒い物とは違い、真っ赤に染まった鱗に変わっており、体の至る所から鋭く長い棘が突き出している。

  その姿は、今までの龍神の姿よりも禍々しく、より恐ろしい存在へと変貌していた。

  「グガァアアアアアッ!!」

  龍神は雄叫びを上げ、その口を大きく開いた。

  そして、飛びかかる様に始源の体に食らい付き、肉を臓物を骨を食いちぎり、その体をズタズタに引き裂いて行く。

  まるで飢えた獣のように……

  バラバラになりはてた始源の部位が次々と地面に転がり落ちる。

  そして龍神は、後頭部が抉り取られ黒い脳が露出する始源の頭部を鷲掴み、彼の顔に垂れ下がっていた半紙を一気に引き剥がした。

  彼の顔から剥がされた半紙の上部には、まるで額から生えていたかのように、肉片や脳みそのような物がこびりついている。

  「グルルッ…… 消えろ、ゴミが!」

  みぃ子の言葉に従うように、始源の頭部と地面に転がる体から シューッ と漆黒の煙が上がり崩れていく。

  頭部だったものが、龍神の手をすり抜け地面にサラサラと砂のように流れ落ち、垂れ下がる彼女の右手には、始源の顔を隠していた半紙だけが風に揺れ残されていた。

  俺はその時、ほんの一瞬ではあるが始源の素顔を目にした。

  彼はまだ若く自分と同じ位の年齢に見え、そして……

  自分が何をすべきかを理解した。

  「みぃ子…… いや、龍神様。 俺を龍神様の神使にしてください」

  俺は、目の前のいる龍神様に頭を下げそう告げた。

  龍神様は一瞬戸惑ったような素振りを見せたが、すぐに顔を引き締め直し俺へと向き直った。

  そして、ゆっくりと俺の前へ歩み寄り、体を優しく抱きしめると消え入りそうな声で呟いた。

  「光太郎を、我が神使として迎え入れる……」

  俺は、龍神様の手から半紙をそっと取ると、それを自分の額へ押し当てた。

  ベチョと額に肉の感触と、生温い物が付着する。

  直後、半紙から赤黒い靄が噴き出し俺の体を包み込むと、着ていた服がその靄の色と同じ赤黒い狩衣へとその形を変えていく。

  頭に立烏帽子が被さり、額に貼り付けた半紙が頭の中に根を張り俺の体の一部となった。

  そして、半紙に付着していた始源の残骸が、俺の体に染み込んでくる。

  始源の記憶と共に……

  ─────

  ──

  ──

  ───

  平安時代

  「ひっく…… うっ、うっ……」

  まだあどけなさが残る巫女服を纏った一人の少女が、桜の木の下で蹲り泣いている。

  全身を返り血に染めた少女の隣には、バラバラになった死体が転がっていた。

  「大丈夫か、御子?」

  公家装束姿の少年が、少女に歩み寄り手を差し出す。

  だが、少女は差し伸べられた手をはらった。

  「だめです始源殿。 わたしは人間ではないのですから。 あなたの手を汚してしまう!」

  「御子、何度も言うが私達は夫婦になるんだ。 妾と其方は二人で一つ。 決して一人になどさせん」

  始源は、優しい笑みを浮かべながら少女の頭を優しく撫でた。

  少女は少し照れたように下を向くと、やがて再び泣き始めてしまった……

  それから数日後───

  龍神と化した御子の前に、二人の死体が転がっていた。

  頭部は跡形もなく吹き飛び、血溜まりの中でまるで枯れた花のように千切れている。

  少女…… いや、龍人はその死体の側に立ち、その肉塊を冷たく見下ろしていた。

  彼女が放つ覇気はあまりにも凄まじく、とても人間だったモノとは思えない。

  しかし、その目からはボロボロと涙が流れ落ちていた。

  「御子!!」

  彼女がいる部屋の扉が勢い良く開かれ、血相を変えた始源が飛び込んできた。

  「うっ!」

  二人の死体を見るや口に手を当て、思わず顔を背ける。

  そして、涙を流して膝から崩れ落ちてしまった。

  「始源殿…… 私、母様と父様をこの手で殺めてしまいました。 このおぞましき龍神の体で、頭を踏み潰してっ! 肉を喰らった!! 」

  龍人姿の少女は、体を震わせながらそう叫んだ。

  彼女の叫び声が部屋中に響き渡る中、始源は唇を噛みながら人とは思えない姿に変わり果てた少女を真っ直ぐに見据え抱きしめる。

  「御子、其方は龍神の神力を宿す神だ。 お前の母様と父様は罪を犯した。 御子が背負う責任はない」

  「離れて! でないと私、始源殿まで殺して…… ううっ……ぐすっ」

  御子の体がゆっくりと人の姿へと戻り始める。

  上手く制御できていないのか、中途半端に龍神の鱗が残った体……

  そして、体からは黒い靄が漏れ出していた。

  「 御子、妾は其方と一生を共にすると決めた。 御子が何者であろうと、その心に変わりは無かろう」

  「いけません。 私は最早人ではなく異形の龍神そのものなのです。 おぞましき殺戮神、人と共に歩むなど……」

  龍神の少女は泣きじゃくりながら、自分の想いを胸の奥に仕舞い込もうとしていた。

  しかし、始源は少女を抱きしめる腕に力を込める。

  「妾も人を捨てる」

  「え?」

  始源の突然の告白に、少女は戸惑いを隠せなかった。

  そして、彼は少女を真剣な眼差しで見つめながら口を開いた。

  「御子の口から、神の口から妾に命じてくれ。 神使として迎え入れると」

  彼の目は、真剣そのものだった。

  しかし、少女は首を横に振る。

  始源はそんな彼女の頬を優しく撫でながら続けた。

  「好きだ御子、其方の傍らに居させて欲しい」

  始源の告白に、龍神の少女は涙を流しながらコクっと頷く。

  そして始源を真っ直ぐ見据え、震える声で言った。

  「始源を…… 我が神使として迎え入れる……」

  直後、始源の体が黒い靄に包まれる。

  彼が着ていた狩衣がその色を浅葱色から漆黒へと染め上げ、顔を隠すかのように半紙が垂れ下がった。

  半紙の表面に神の下僕である印が刻まれ、額に根を張り彼の体の一部となる。

  神の下僕となった始源は、その場に膝をつきゆっくりと頭を垂れた。

  「龍神様の下僕、神使の始源にございます。 我が全てを龍神様に捧げることを此処にお誓い申し上げます」

  御子は、そんな始源の姿に戸惑いの表情を見せた。

  しかし、その目が始源の半紙に書かれた印を捉えると、その表情が変貌していく。

  目の色が真っ赤に染まり鋭い眼光へと変わり、下僕の神使を見下ろしながら口を開いた。

  「良かろう。 精々我に殺されぬよう尽くすが良い」

  御子の中で、始源は人間の恋人から、神の下僕へと変わった瞬間だった。

  同時に、人としての始源は死んだ……

  ─

  ──

  ────

  俺は、そんな始源の記憶を垣間見て、自分の成すことを理解した。

  そして……

  「龍神様の下僕、神使の光太郎にございます。 我が全てを龍神様に捧げることを此処にお誓い申し上げます」

  膝をつき頭を垂れる俺の前には、鮮血のように真っ赤な目で見下ろすみぃ子の姿があった。

  感情のない冷たい目を俺に向けている。

  まるでゴミでも見るかのように……

  「良かろう。 我に殺されぬよう精々尽すが良い。 龍神の下僕の名に恥じぬよう残酷で冷徹な神使になる事だな」

  それは、愛する人に向けられる言葉ではなかった。

  だが、俺はそれでも良かった。

  彼女の近くへ立てるのならば、どんな存在でも……

  みぃ子…… いや、龍神様は俺と過ごした記憶を思い出す事はないだろう。

  俺は人間の恋人から、神の下僕へと変わったのだから。

  これから、俺は自分に与えられた役割を全うするだけ。

  神に背く人間へ神罰を下す殺戮神・龍神様の神使として。

  だから……

  「龍神様、神に仇なし酬いを受くる者を見つけ[[rb:奉 > まつ]]りき。 神の御姿にて神罰を下し賜え」

  俺は、龍神様に向かって深々と頭を下げた。

  そして、頭をゆっくりと上げる。

  口から涎を垂らし、凶暴な笑みを浮かべている龍神様のお姿が目に飛び込んできた。

  そして、その口がゆっくりと開かれる。

  「生まれてきたことを後悔するほどに無慈悲な神罰をくれてやる。 我が神使として我のおぞましさをその目にしっかりと焼き付けよ」

  目の前の龍神様は、俺がこれまで見た事も無いほどに残忍で悍ましい笑みを浮かべていた。

  今、俺の目の前にいるのは紛れも無く神だ。

  圧倒的なまでの存在感と殺気を放つ殺戮神。

  「御意」

  俺は、静かにそう呟き再び頭を垂れた。

  神の言葉は絶対であり、その一字一句に背く事は許されない。

  例え、それが龍神様の神使であってもだ。

  御子は龍神として長い時を経て、その心に乱れが生じてしまった。

  それは俺の存在が原因だ。

  何故なら、俺の顔は始源と瓜二つと言って良いほどに似ていたのだから……

  龍神となり、人である始源のことなど忘れていたはずの彼女の心に、ほんの一瞬だが俺の存在が入り込んでしまったのだ。

  それは、ほんの僅かな感情の揺らぎ。

  しかし、その揺らぎは確実に御子の心を大きく揺さぶり変えたことだろう。

  始源は迷った。

  そして、神使としての理を捨て自らの使命を俺に託した。

  御子を再び神として、龍神として生かす為に。

  それが、長い時を経て龍神の神使として染まってしまった始源の、歪んだ愛情だったのかもしれない。

  ならば、俺はその歪んだ愛情に報いよう。

  この命尽きるまで……

  俺も、龍神様の神使としてこの心を赤黒く染め上げ、愛する殺戮神の色に染まりきってやろう。

  それが俺が自ら選んだ道であり、始源から俺に託された使命なのだから。

  龍神様として更なる進化を遂げた御子の姿を、俺はその目に焼き付ける。

  御子…… いや龍神様の名に恥じぬ凶悪な目が俺を見下ろしていた。

  更なるおぞましき殺戮の神と化した今の彼女には、自分へ向けるその目が、かつて愛した男の生まれ変わりだなんて分かるはずも無かった。

  「目障りだ。 時間まで我の前に姿を出すな。 消えろ」

  「御意」

  俺は、龍神様に深く一礼するとその場から姿を消した。

  それが、俺に与えられた役割であり使命という名の呪い。

  1200年後、忌まわしい少年が彼女の目の前に現れるまで、それは続く───

  完