【新春けもケット11】大人の青春を笑うな! 第二話【B-07】
[[rb:春風穂高 > はるかぜほだか]]の最後の恋は傷にまみれていた。
穂高は兎の獣人で、[[rb:同性愛者 > ゲイ]]の男である。したがって最後の相手も男だった。仕事で知りあった、脚本家の若い男の子。
彼との関係は十日と続かなかった。突如として別れを告げられ、姿を消した。振られた理由が穂高は今でもわからない。そんな理由が生じるにしても、二人の交際期間はあまりにも短すぎた。お互いを十分に理解するための時間すらなかったと思っている。
三十も半ばを過ぎ、「ぼくにはもう本気の恋愛なんて無理かもしれない」という諦念を自認しはじめていた。だからこそ歳下のボーイフレンドに心が踊った。少なくとも穂高の側には、久しぶりの恋愛に対する真剣さがあった。まだまだ盛り返してゆけるという気概を持てそうだった。しかし膨らみかけた熱は呆気なく萎んで消えた。
穂高の傷は深かった。希望を持たせてから叩き落とすのは、なによりも残酷だと思う。
仕事に打ちこむしかなかった。
転んでもただでは起きない。穂高はJMTテレビのドラマプロデューサーである。今のポジションを獲得してからというもの、喜怒哀楽のすべてはドラマのネタにするのが穂高の習性だった。いつまでも、終わった関係に傷いているだけではいられない。その種の繊細さや打たれ弱さなんか、おれはもうとっくに通りすぎているんだから。
そう思っていた。
だから、こんなに胸がざわざわするなんて思わなかったんだよ。おれは……
――一緒に寝よう。ずっと抱いててあげるから。
[[rb:軸丸履生 > じくまるりせい]]。
バーで出会った微笑みの竜人。夏の空のように明るいブルーの鱗を持ち、癖の強い黒髪にパーマをさらに当て、ワイルドな顎髭をたくわえている。
鎌倉で購入する家を見た帰りだった。バーにやってきた履生に、穂高は声をかけられたのだ。そのときのお喋りが思いがけず楽しかった。履生は穂高の着ている服をVivienne Westwoodと見抜き、褒めてくれた。鎌倉においでよと誘う履生の微笑みは、穂高が東京から鎌倉への転居を決めたことに少なからず関与していた。またここで彼と会えたらいいな、そのために引っ越すのも悪くない――と少しは考えていたのだ。たまには楽しいことが起こりそうな方向へ舵を切ってみようじゃないか……転居に対する穂高の気概といったら、そのくらいものだった。
傷だらけの失恋と対決するほどの覚悟など、持っているわけがなかった。そんなつもりで鎌倉に来たわけじゃない。いつもは平気な顔をしていても、あるいはそう見えるよう努力していても、傷は傷だ。かさぶたを剥がせば傷は開き、痛くて血が流れる。穂高にとって、履生はまさにそれだった。
軸丸履生。歳下の素敵な男の子。穂高自身も気づいていなかったが、それは数ある中でも特大の地雷だった。
「馬鹿に……してる?」
最初に口をついて出たのはそんな言葉だった。
ねずみに驚いて穂高が放りだしたコンビニ袋は、履生によってソファーに運ばれていた。その履生はテーブルに置きっぱなしにしていたドラマの台本をめくって眺め、「へえ、こうなってるんだ」などと呟いていた。
穂高の言葉に、履生は目を丸くした。各自の無言が瞬時、行き交った。
「そんなんじゃないよ」
履生は台本から手を離して微笑む。
会話の成立が、履生の理解の早さの証だった。なるほど、と穂高は思った。この子は、疑念を向けられることに慣れている。年齢に不相応な場数を感じた。そして歳下ながら、履生は穂高の持ちえない種類の包容力も具えている。持たざる者にとっては妬ましいほどのあらゆる魅力を持ち、理解しながら自然体で放つことのできる……そういう子だ。
穂高は内心、その笑顔に絆されるのもいいんじゃないか――という気がしていた。こんなイケメンにアプローチをかけられれば、嬉しくないはずがない。どんな理由があったにせよ。
遊ばれているのか――穂高はそれを勘案できないほどの盲目ではない。愛や、それに類するものを囁かれても無防備に信じられるほど幼くもない。履生が本気でないことはわかっていた。そんなことを疑っているのではない。
複雑に渦巻く胸の中のものを、穂高はそのまま履生にぶつけた。
「いや、そうでしょ? 一人で寂しいゲイのおじさんだから、こんなふうにしてやれば喜ぶだろうって、そういうことでじゃん」
「あ、いや……」
履生の笑みが消える。彼の言い淀みに、穂高は図星の手応えを感じた。思ったとおり、履生の側にも打算があったのだ。そりゃそうだ。そうに決まってる。
それにしても、そんなときにだけ発揮される自分の洞察力に穂高は呆れた。経験や直感が思いやりを生むなら少しはよかったが、こんなのはまったく嬉しくない。なぜなら、穂高には「おれの考えが外れていればいい」という期待がなくはなかった。
しかし放った言葉が自分を勢いづける。返答に窮する履生に、穂高は畳みかけたのだった。
「きみはさ、そりゃあ格好いいし……悪い人なんかじゃないのもわかるよ。でも、なんなの、これは。ああ、[[rb:ボ > 丶]][[rb:ラ > 丶]][[rb:ン > 丶]][[rb:テ > 丶]][[rb:ィ > 丶]][[rb:ア > 丶]]か!」
人を傷つけるための的確な言葉だけは、つるつるといくらでも出てくるものだ。そしてそれが履生を致命的なほど追い詰めていることが、穂高にはわかる。
「違うよ……」
履生は言った。その悲しそうな顔といったら! やめてくれよ。おれがいじめてるみたいじゃないか。
「違わない」と、穂高は言った。「一人でも生きていくって決めたから、ここに来たんだよぼくは……だから、馬鹿にしないでね。嫌いになりたくないんだから、中途半端なことしないでね」
履生がうつむく。なにか言いたげではあった。それがもし穂高の言葉を否定してくれるなら、なんだって言ってほしいと思う。
もうよせ、と理性の囁きがあった。今ならまだ引き返せる。それでも、これを覆せるならたいしたものじゃないか? そうしておれをぶちのめして、きみとの恋にまんまと引きずりこめるなら、ぜひともそうしてくれ。
だって、きみが言ったんだよ。おいでよって。そうしたら楽しいじゃんって。
穂高は決定的なことを履生に尋ねた。
「きみは、おれと、おじいちゃんになるまでいっしょにいてくれる?」
「ごめん、それは無理」
履生はずっと悲しげだった。しかし即答だった。まるで、こう言われればこう返すとあらかじめ決まっていたかのように。なにか言いたそうにしていたものも、最後の問いですべて手放したと穂高には見えた。
「――でしょ」
当然だ。
穂高は、履生の答えを聞く前から自分に言い聞かせていたにも関わらず、思いのほか傷ついてしまっていた。だけどそんなのは、どうということもない。三十八にもなれば、こういう傷つき方も一度や二度じゃない。だって、そうじゃないか? おれが傷ついたかどうかなんて、どうでもいいよ――
「じゃあ、帰るね」
「うん。そうだね」
履生は笑った。悲しい顔をするのをやめて笑った。だから穂高も笑った。お愛想にしろ、笑うことができた。
リビングを出てゆく履生は、最後にこう言った。
「ボランティアが必要なときは、いつでも言って」
穂高は感嘆した。タフな子だ。好意を断られても、履生の態度は変わらないのだ。
玄関のドアが閉まる音が聞こえてからも、穂高はしばらく立ち尽くしていた。履生の笑顔について考えるのが忙しかった。
履生は最後まで笑顔だった。穂高が笑えたのは大人だからだ。成功と失敗をさまざまと経験し、傷つくことにも慣れきった三十八歳だからだ。では履生の笑顔の理由はなんだろう? どんな恋の百戦錬磨なら、十五も歳下の男の子があんなふうに振る舞えるだろう?
彼は、本当はそれなりに本気でおれを好きになってくれていたのでは――そんなことも考えた。あくまで可能性のひとつとして。なぜなら履生は、家族の前ですら穂高にアプローチをかけてきていた。彼の行動は生半可ではない。でもそれは、ないんだったら。ボランティアなんだって、彼自身も認めたんだし……
そうしてようやくソファーに腰を下ろしたとき、穂高が思ったのは、「おれって意外と傷ついてたんだな」ということだった。履生の返事に傷ついたことではなく、穂高の最後の恋についてのことを。なぜって、そうでなきゃ断る理由がない。なんであれ履生の事情ごと飲みこんで、一晩寝るくらいしてもよかったじゃないか。
歳下の男っていう、それ自体がおれにとっては地雷だったんだ。自分でも気づかなかったけど。
典型的な[[rb:心的外傷 > トラウマ]]じゃん……ソファーにもたれながら呆然とした。その理解は、あまりにも遅すぎた。穂高は、履生とバーではじめて会ったときも、お隣さんのカフェで思いがけず再会したときも、まるで警戒などしなかった。それどころか、彼と仲良くなりたいと浮かれてさえいた。なのに、いざとなると今さらのように過去を思い出すのだった。
しっかりしろよ、と自己批判の声が聞こえてくる。もう三十八だろ。自分の情けなさに溜め息が出るのも、自己認識を覚えた大人だからか? おれも少しは賢くなったっていう証拠か? 穂高にはとてもそうは思えなかった。
「バカじゃねーの」
「そうだよ。なに考えてんだよ」
飲み会で履生との一件を話すと、穂高は友人の[[rb:水野翔悟 > みずのしょうご]]と[[rb:一条類 > いちじょうるい]]にメッタ打ちにされた。ゲイ同士の飲み仲間として、そろそろ付きあいも長い。この二人ならぼくの気持ちもわかってくれるだろう――と軽い気分で打ち明けた穂高は、かなり驚いた。
「だってさあ」
「だってじゃねえだろ」翔悟はとりつく島もなく穂高を黙らせようとする。「いい男なんだろ? 若いんだろ? ワイルドで癒し系なんだろ? それがしようって言ってんだろ? じゃあなんでしないんだよ?」
詰問に付随する疑問符の数が、そのまま翔悟の呆れ具合だった。掴みかかるような剣幕の翔悟は、虎の獣人の形相もあいまってかなり迫力がある。有り体に言えば、怖い。しかしそれは真剣に話を聞いてくれる友人の顔とわかっているので、穂高も怯まずやり返す。
「だってさあ! お隣さんなんだよ。ずっと顔合わせるんだよ! 後腐れありすぎじゃん……ぼくね、有り金はたいてあの家買っちゃったんだからね。ずっとあそこにいるしかないんだよね。それ、きみらのせいでもあるんだからね」
「それとこれとは別問題。家の話と体の話はぜんぜん違う」
一方、狼の類は冷静なものである。わかりやすく怒鳴りはしないが、それはそれで翔悟とは別の圧力がある。
「おまえね」と、翔悟が言った。完全に話のイニシアティブを掴んでいる。「そんなことで怯むようなヤツじゃないだろ。その男目当てに引っ越したんじゃねえのかよ。結婚とか子どもとか、そんなの端(ハナ)から諦めてんだろ?」
穂高は苦笑してうなずく。「ないね。今さら女とかないない」
「一人でも生きていくつもりで鎌倉に家買ったんじゃねえか。男に食わしてもらおうとかも思ってねえんだろ。だったらそんな都合のいい男いねえよ。ボランティアしてくれるって言ってんだろ?」
「なんか言ってんすよね」
「だったらありがたくいただくんだよ。人生であと何回エッチできるかわかんねえんだぞ。ゼロかもしれねえんだぞ。それでいいわけ」
「う、うーん……」
ブーメラン男の言うことがいつも的確なのは、そのまま自分自身に降りかかることだからだ。穂高も、自分のようなタイプはある時期を過ぎるとガタンと老けこんで一気にジジイになるといつも恐怖している。そこを突かれると、やはり恋や体を諦めたくない気持ちが強い。
「四十前にもなったらな、据え膳食わぬは男の恥なんだよ。草食系男子なんざクソ喰らえ! わかったな?」
そんなことで怯むようなヤツじゃない――翔悟の言葉が思いがけず胸に響いた。
なにかやたらと深刻ぶって考えそうになっていたが、自分の状況を第三者の口から改めて聞かされると、まったくその通りだと思えた。なんだか闘志が湧いてくる。おれはいったいなにをビビってたんだ。傷がなんだ、失恋がなんだ。ええい、ままよ! だんだん酒も回ってきていた穂高は、翔悟の説得に敬礼で応じた。
「わかった……わかりました!」
「翔悟さ」ずっと様子を伺うように静かだった類が、隙を突くようにして割りこんだ。「もしかして別れた?」
穂高は驚いて翔悟を見た。正直者の虎は、誤魔化すための言語を弄ぶ代わりに手のひらで両目を覆っている。
「うそ、はやっ! いっしょに住むって言ってたじゃん。なのに別れたの? なんで?」
音楽業界で働く翔悟が、なにかと面倒を見ていた新人バンドの男の子である。最近では「おとん」と呼ばれるなどと翔悟は自虐ネタにしていたが、話で聞く限りそれなりに慕われているようだった。だから破局するにしても早すぎる。
が、穂高はピンときた。
「ねえ、まさか、逃げられた?」
自分と同じようなことが起きたのではと思ったのだ。
「言わねえ……言いたくねえ」
翔悟は頭を抱えて、額をテーブルにつけるようにしている。
「そっか……」
穂高は友だちが可哀想になり、自分の間の悪さのことを思った。翔悟もキツいことがあったんだ。翔悟が我が事のように穂高を奮いたたせようとしたのは、本当に我が事だったからなのだ。そんなときに、目の前を泳ぐ特大の魚をみすみすリリースしようとしている穂高の話など、さぞじれったかっただろう。
「あ、じゃあ翔悟くん、今からでも鎌倉おいでよ。一人でいるより楽しいよ。ね」
元々、この三人でルームシェアするつもりで探した家だった。穂高一人が住むには広すぎる。
「やだ。あれがオレの人生最後の恋とか思いたくねえもん……だから、まだ、行かねえ」
断られて、穂高はまたちょっと傷ついた。ちぇっ。寂しいやつ。
とはいえ、今は翔悟の気持ちに寄り添うことを優先したい気分だった。そして同時に、そういう振る舞いこそ[[rb:ボ > 丶]][[rb:ラ > 丶]][[rb:ン > 丶]][[rb:テ > 丶]][[rb:ィ > 丶]][[rb:ア > 丶]]の態度なのではないか、という気づきを得た。落ちこんでいる翔悟をなんとか元気づけられないか……そのおれの気持ちを思いきり強化すると、軸丸履生になるのかもしれない、と。それは軸丸履生の解釈として、かなりしっくりときた。
「人生最後の恋か……俺ももう終わってんのかな」
類のつぶやきに、そんなことないじゃん、と穂高は言いたかった。類は今でも恋人が欲しいと思っていた。だから自由な恋愛が難しくなるのを嫌い、ルームシェアに反対したのだ。それなのに、まだまだ恋をしたいと思っているのに、悲観的になることないってば――だって通常にいって、一女に比べれば男はまだしもチャンスに恵まれているじゃないか。四十路の女が若い男と恋愛するのはかなり無理があるが、この立場を男女逆にすると、若い女の子がずっと歳上の男を好きになることは、ざらにある。
しかし、この三人はゲイである。出会いはごく限られており、若かったときとは違い相応の年齢の相手はどんどんしょぼくれて見えてくる。ということは、ぼくたちだって世間から見ればしょぼくれた四十路のおっさんなんだよ。一歳でも若く見られようと必死に取り繕ったところで、その自覚はいつだって容赦なくやってくる。そのために穂高は類の悲観に対し、感情以外の根拠ある反論などできはしない。
愛を持たない者からは、友だちを勇気づけるための言葉さえ出てこない。それって、いかにもじゃないかと思った。翔悟はあんなにも言葉を持っていて、それを穂高に分け与えてもくれたのに。今の穂高は紛れもなく、一人で寂しい四十路のゲイだった。