開放的な雰囲気の漂うパーカス殿の屋敷に足を踏み入れると、何処かしら誰かの気配が感じられた。廊下の突き当たりの扉が少し開いていて、そこが寝室なのだろう。誰もいない抜け殻の毛布がベッドの上に転がっているのが見える。
噂の幼な子がさっきまでそこで眠っていたのだろう。けれども当の本人はそこには見当たらなかった。
一方的に騎士団参謀長の座を降りてしまったパーカス殿は、竜人の王が統治するガリバー王国の軍部の頭脳とでも呼べる方だった。500歳になろう年齢ではあれど、寿命が7~800歳ある竜人とすれば決して年寄りでは無い筈だ。
王は渋い顔をして我々にこう言った。
「あやつはまことに老竜人のフリが上手い男よ。我とそう歳も変わらぬのに、一線を退くとは怠慢であろう?番いを亡くしたから悲しみが癒えるまでと大目に見ていたが、そろそろこちらの願いを聞いてくれても良い頃合いじゃ。
一度あやつの住む辺境へ行ってせっついて来てはくれまいか。騎士団長にもしつこく言われていて、我も板挟みなのじゃよ。」
そうため息混じりに王に頼まれて、我々は王都から2日掛けてこの辺境の地まで飛んで来た。昨日の夜到着した街はこぢんまりとしながらも活気のある様子が見て取れたが、王国騎士団の格好をした我々を見て獣人らが目を丸くしていた。
噂通り、この地にはパーカス殿以外に竜人が居ない様だった。それでも我々を見て緊張より好奇心を目に浮かべる住民を見ると、なるほどパーカス殿にとって居心地の良い街なのだと分かった。
この竜の国は、王国を形成する獣人との人口比率を比べれば2:8で竜人の数こそ少ないものの、圧倒的な力の差で庶民の獣人らからは距離を取られる事の方が多い。仕方がないとはいえ、こちらからすれば何とも歯がゆい事ではあった。
酒場で旅の疲れを解いていると、気の良い熊獣人らが気さくに我々に話し掛けてきた。
「あー、あんたら見掛けない顔だな。もしかして隠者様の知り合いか?」
我々が顔を見合わせて、パーカス殿の通り名を面白く思って口元を緩めていると、熊獣人は話しを続けた。
「あんたら知ってるかい?隠者様は最近幼な子を養ってるって。これがまたちっせぇ可愛子ちゃんでさぁ。隠者様も目の中に入れても痛くないってほどの溺愛ぶりでさぁ。まぁあの子じゃ誰でもそうなろうってもんだが。ガハハ。」
一緒に来ていた赤髪のブランは、誰にでも愛想の良い竜人にしては気さくな男だが、熊獣人やその場に居た他の獣人と酒を酌み交わしながら、最近のパーカス殿の様子を上手く聞き込んで居た。
宿に戻る道すがら私達はこの意外な話に、明日パーカス殿に王からの話をしても、王都へ呼ぶのは難しいのではと意見が一致した。
「全くパーカス殿も酔狂な事だ。訳のわからぬ獣人の子供を養うなどと。人型の幼な子といえ、もう一人前だろう。誰かに預ける事も可能ではないのか。」
そう私が眉を顰めて呟くと、ブランが明るい二つの並んだ月を見上げながら腕を伸ばした。
「あー、急に酔いが回ってきた…。そうは言ってもな、パーカス殿は番いを亡くされた。それはショックだったに違いないだろう?その空っぽな心の中にその幼な子が入り込んだとしてもおかしくは無いんじゃないか?
頭で考えて割り切れる様なものでは無いと思うぜ。まぁ、俺たちは番いに出会っていないし、番いそのものに出会える竜人の方が最近は少ない事を思えば、想像することしか出来ないけどなぁ。」
私も釣られる様に、闇夜にぽっかりと浮かぶ月が二つ寄り添っているのを見上げた。運命の番いなど私はまるで信じていなかった。あれは結婚相手を長い時間繋ぎ止めるための、お互いに都合の良い契約に思えた。
しかも我々竜人の長い竜生を思えば、自分の逆鱗を飲ませて共に長く添い遂げるより、次々に相手を変えていく方が理にかなっている様に思える。
「…遊び歩いているブランがそんな運命の愛を夢見てるとは思わなかったな。」
私がそう揶揄うと、ブランはニヤリと笑ってもう一度並ぶ月を見上げて呟いた。
「私は愛の探究者なのだよ。バルトの様にロマンスの欠片も信じていない無粋な竜人と違ってな?」
そう当て擦りを言われて私は苦笑いする事しか出来なかった。確かに私は性愛はあっても、情愛は感じたことが無かった。自分の両親は建前では番いと言うことになっていたものの、逆鱗を飲ませた番いでは無かった。青龍の血筋を重視したその婚姻は、まるで計画された面白みのないもので、屋敷の中は常に取り繕った空気が流れていた。
そして父上も母上も、それぞれに何人もの性愛の相手を得ていると知ってしまった時、私は番いなどまやかしであると分かってしまった。お互いを愛という建前で縛りつけるための言い訳に過ぎないと。それを思えば、両親は逆鱗で番わなかっただけ、お互いに誠実だったと言えるのではないだろうか。
昨夜そんな自分らしくない事を考えていたせいか、パーカス殿の『あの子が魔物でも誰にも渡さない』と愛情を感じる強い口調で言われた時に、妙な反発心を抱いたのは確かだった。
だから見たことの無い儚げな人型の幼な子が、転がった籠の中からのそのそと這い出てたのには度肝を抜かれて冷静さを欠いてしまった。そしてサラリとした黒髪を揺らして、透き通る様な美しい緑色の瞳で私を見上げた時に、何故か私だけはこの魔物の様な、目を離せない存在に心を掴まれるものかと口を滑らしたのだ。
『一体この子は何者ですか。こんな虚弱な生き物は見たことがない。明らかに獣人ではないでしょう?パーカス殿は魔物だったとしても手放さないと仰ったが、仰る様に魔物かも知れませんよ?…誰かに託した方が良いのではないで…。」
私が言葉を終える前に、目の前の幼な子の瞳には悲しみと苦しみの色が交差して、小さな柔らかな唇をグッとかみしめた。それから声も出さずに大きな瞳からポタポタと涙を溢した。
直ぐにパーカス殿が幼な子を抱き上げて胸に抱えると、私に冷たく言い放った。
「テディは幼いが賢い子供だ。お前の容赦無い悪意を受けてどんなに傷ついたか。もう帰ってくれ。…なるほど、青龍は家柄こそ良いが、血族を重んじるあまり温かみのある心は失ったのかの。」
ブランがピリついた空気を何とかしようと取り繕って何か二人に話しをしていたけれど、私は心臓がヒリヒリと痛んで、後ろも見ずに家の外へ足早に出た。自分があの幼な子を傷つけたのは明らかだったし、あの悲しみに満ちた緑色の瞳が私の心の奥に永遠に刻みつけられてしまった事に気づいていた。
私はもう二度とあの幼な子に笑い掛けては貰えないだろう。そしてパーカス殿の言う通り青龍の一族は温かい心を失ったのかもしれない。私は目の前に広がる風光明媚な景色を見つめながら、自分の心がじわじわと凍りついていく気がした。
…私は最低な竜人だ。紛れもなく。