家令に渡された手紙の中に、例のものが紛れ込んでいた。家令が何か言いたげだったのもその手紙があったせいだろう。私はその手紙を取り置くと、他の急ぎのものだけ目を通して書類箱に投げ込んだ。
侯爵家の家長としての仕事は果てしない。亡き父上が社交を除けば、家に居る時は常に書斎に篭っている姿しか思い出せないのも、今自分もまたそうである事を考えると苦い笑いが浮かんでくる。
特に姉上が落馬で亡くなってから、元々大人しく儚げだった母上が神経症一歩手前になって寝込みがちになってしまったのは、父上にとっても大きな誤算だったのでは無いだろうか。
父上は随分母上に冷淡だと子供心に感じていたけれど、今父上と同じ立場になってみると、父上なりに精一杯、加えて言えば母上の分も侯爵家の表の顔として務めを果たしていただけだと分かる。
大人になってみれば、どちらかと言うと母上は愛娘を亡くした自分を憐れんで、まだ子供だったもう一人の息子である私を顧みる事が無かった事実が浮き彫りになってくる。
たまたま十三歳と言う学齢期だった事もあって、私はそこまで母上の愛情を必要としていなかった。世話を焼いてくれる侍女や従者には困らなかったし、学友達との交流もあって寂しくは無かった。
とは言え、今振り返ってみれば城に居る時は酷く孤独を感じていたのは間違いなかった。亡くなった姉は私にとっても侯爵家の子供という同じ運命を背負った、何も言わずとも心が通い合う仲間の様なものだった。
父上は元々感情面を見せない人で、忙しさで私の気持ちを顧みる余裕はなかった。一方母上も自分のことで精一杯で、私のことなどすっかり忘れてしまっていたのだから。…私は母上を恨んでいるのだろうか。
机の上の手紙を手に取って、私は寝室へ向かった。社交場ですっかり呑み過ぎていたから、早く湯浴みをしてベッドに飛び込みたかった。
いつもなら後回しにするこの手紙を、読んでから眠ろうと考える様な心境の変化は、やはりクレアの影響なのだろうか。彼女の言葉のひとつひとつが、私に新しい視点を教えてくれる。
『…悲しみに暮れていられるのは、ある意味とても贅沢な事なんですわ。』
乗馬の遠乗りで彼女が言った言葉は、私の母上を思い出させた。母上は弱過ぎたのかも知れない。侯爵夫人という立場も、私の母親であるということも、父上の妻である事も全て投げ出して悲しみに暮れていたのだから。
そしてそれが許されるほど恵まれてもいたのだ。
私は湯浴みしてガウンを羽織ると、ベッドに寄り掛かって手紙の封を切った。ほのかに香る甘い匂いは母上の愛用している香水のものだ。春に新しいものを領地へ送る様に家令に命じてあった。
手紙には領地の美しい自然の様子や、最近の体調の事、私への[[rb:労 > イタワ]]りが簡単に書かれていた。それは父上が亡くなってから、私から逃げる様に領地へ引きこもってしまった母上からの、変わり映えしない手紙の内容だった。
いつもどう返事をして良いのかわからないので、時制の挨拶と元気な事を簡単にしたためて送り返していたけれど、この手紙もクレアが読めばまた視点が違うのだろうかと、そんな事を考えてしまって苦笑した。
最近は何かとクレアの事を考えてしまう。それは一種の癖の様なものになっていて、契約相手に随分私も気を許したものだと、何か落ち着かない気分になる。
実際あの遠乗りの時に、失ってしまった人生より、より良いもう一つの人生を探す同盟を結んだも同然だった。その上、クレアが自分を秘密の小箱にしても良いのだと悪戯っぽい眼差しで淡い空色の瞳を光らせたあの瞬間から、私はすっかりクレアに気を許してしまった。
母親の神経症を見ていて、女性に自分が気を許すことなど一生無いと思っていたのに、実際は簡単にそうしてしまった。それは良いことなのか、悪いことなのかはまだ判断出来ない。
…それにグラント伯爵夫人に慰められて、感情が高ぶったクレアを夜の庭園に連れ出して慰めたあの夜、あの口づけをふとした瞬間に思い出すのをやめられない。
口づけなど若い頃から色々な令嬢や貴婦人達と繰り返してきたけれど、あの性愛にも届かない様な口づけで身体が昂ってしまった自分にもショックを受けたのは事実だ。
よっぽど欲求不満が溜まっているのかと、社交場に出掛けたものの、食指が動かなくて結局呑むだけで帰ってきてしまった。
それもあってしばらく夜会や社交は取りやめて、クレアと距離を取るべく、こうして仕事に勤しんでいるのだった。実際私にしてはマメに夜会に出過ぎていた。あれはクレアの楽しげな顔を見たかったからだったのかと思ったりもする。
私は社交に慣れていないクレアを一人前の淑女にするべく行動する、保護者の様な気分なのは確かかも知れない。実際年齢差もある。クレアに纏わりつく若い貴族達を見ていると、私もすっかり落ち着いてしまったとイライラする時もある。
早く歳を取りたいと思っていた時期もあるのだから、無いものねだりという事なのだろうか。
私はベッドに横になってチラリとサイドテーブルの上の封筒を見つめて目を閉じた。近いうちに、この手紙をクレアに読ませよう。何と言ってもクレアは私の秘密の小箱なのだから。私は良い気分で今夜は眠れそうだと口元を緩めた。
思い立ったらこの屋敷に来てしまっている。王宮での貴族会議の後、古参の頭の硬い貴族達との不毛なやり取りにクサクサしていた私は、従者にクレアの屋敷に行く様に命じていた。
普通、令嬢の家に訪れるには事前の連絡が必要なのは百も承知だったが、なぜかクレアは顔を顰めながらも許してくれる気がして押しかけてしまう。彼女を軽んじているわけでは無いが、私達の秘密の取り決めのせいで、クレアに甘えているのかも知れない。
そう考えると妙に居心地の悪さを感じて、取りやめて侯爵家に戻ろうかと迷っているうちに屋敷の前に到着してしまった。
いつもと違って、動揺した様子で家令が取り次ぎするので、どうした事かと眉を顰めた。馬車留めにはもうひとつこの屋敷のもので無い豪奢な馬車が乗り付けられていた。
「…客人か?私も突然来てしまったから、改めて出直そう。」
すると家令が慌てて首を振って声を潜めて言った。
「実は最近あるお方が、執拗にクレアお嬢様に付き纏って居るのです。お嬢様はお優しい方ですから無碍にも出来ずに対応なさるので、そのお方も空気を読まずに…。今日はとうとう家にまで押しかけてしまって、私共もどうして良いか。」
私は一体誰がクレアに付き纏っているのかと眉をひそめた。でも一方で、これはクレアにとっては夫候補の一人であることには間違いなかった。付き纏うと言い方は、見方を変えれば求婚と同等だ。
そうは言っても家令の言い方では、本人も望んでいるわけではない様子に、私が隣の部屋から様子を見ようと家令に提案してみた。
家令は少し迷った様子だったが、頷いて私の提案を承諾した。
家令に案内されながら、私は応接のひとつ手前のこぢんまりした、質素ながら手入れの行き届いた部屋に通された。ここは隣の部屋とテラスを通じて繋がっている。窓が開け放たれているのか、何を言っているのかは分からないが、微かにクレアと来客の声の調子は聞こえてくる。
私はソファに座って運ばれてきたお茶を口にしながら、耳をそばだてた。自ら言い出した事ながら、私はまるで間男を捕まえる男の気持ちになっている事に気がついて、思わず苦笑していた。本当に一体何をしているんだ、私は。