17/28 混乱と恐怖

  私はそそくさと立ち去るダミアンの背中を呆然と見送った。さっきまで、私を慰めて腕の中で甘やかしてくれたダミアンが居なくなると、妙に寂しさを感じた。

  絶対的に守られていると感じたあの安心感と胸の騒めきは、ダミアンが現実に戻ってしまったせいで、呆気なく私の手の中から砂の様にこぼれ落ちてしまった。

  馬鹿ね、何を期待していたのかしら。私が自分で言ったのに。私達は契約の間柄だって。私はやっぱり一人で頑張らないといけないんだわ。貧乏伯爵の娘はお荷物にしかならないのだから。

  私がぼんやりそんな事を考えながら温室を見回していると、心配そうな表情でメアリがやって来た。

  「先ほど慌てて侯爵がお帰りになられましたが、何かありましたか?」

  私は一人苦笑して、首を振った。

  「いいえ、何も。急ぎの用があると言って慌てて帰ってしまわれたわ。」

  メアリのお寂しいですわねという声かけに、素直にうなずくことさえ出来なかった。彼は私と契約の間柄だと言ってしまいたい。けれどもそれは許されないのだから、私は妙に心細くなって俯いた。

  「すっかりクレア様は侯爵に心を預ける事をお覚えになられて。私は本当に嬉しく思いますわ。本来お嬢様は守られるべき淑女ですもの。…その顔ではしばらく外出もままなりませんわね。」

  私は少しおどけて言った。

  「私が男なら、不名誉な打撲って事になるのかしら。…あの人、今になって我に返って青ざめているかもしれないわね。」

  実際ヴィクシー閣下を敵に回してしまったのだ。彼の今後はあまり良い物では無いだろう。結局のところ、彼もまた恋の虜になって、過剰に思い詰めただけなのだ。

  耳に残るダミアンの優しい言葉が、今になって切れ切れに思い出された。彼は私のクレアを誰にも傷つけさせたくなかったって。それは言葉のあやではあるものの、ドクンと胸を高鳴らせた。

  ああ、まずいわ。私はダミアンに恋してはいけないのだから。恋をしてしまえば、きっとこの契約は破綻する。

  今まで私を甘やかしてくれた殿方が居なかったのだから、恋をした事のない私が揺らいでもしょうがないのね。私はそう思えば、色々解決する気がして、心配そうに私を見つめるメアリに頬が痛まない程度に薄く微笑んだ。

  「しばらく私は屋敷に引き篭もるわ。こんな顔ですもの。だから領地への手紙や、溜まってた花籠の礼状を書きましょう。夜会で出掛けてばかりで 疎かになっていたものね?」

  

  次の日は朝からお返しの手紙を書くと、私はガラスペンをそっとトレーに置いた。流石にぶっ続けに何通も書くと、丁寧に書こうと気を張るせいで疲れてしまう。

  その時部屋に顔を覗かせたメアリが、私にイタズラっぽい表情を向けた。

  「お嬢様、ヴィクシー閣下から大きな花籠が送られてきましたよ。美しい花瓶つきです!お嬢様の瞳と同じ、柔らかな春の空色ですわ。本当にヴォクシー閣下はお嬢様を愛してらっしゃるのですね。」

  メアリにそう言われて、私はギクリと身体を強張らせた。ダミアンが私を愛してる?あり得ないわ。けれどもその美しい花瓶を見て、私は胸の奥が飛び上がる気がした。

  凝った装飾の、美しい金でトリミングしている青い美しい花瓶には、まるであの天使の庭で摘んできた様な、柔らかな色合いの薔薇や小花がふんわりと可愛らしく生けてあった。

  きっとダミアンが命じて本当にそうしたに違いない。私があの天使の庭を気に入っていた事を覚えていたんだわ。

  いつからダミアンはそう言った気遣いを私に見せる様になったのかしら。私は契約時のダミアンを思い出した。あの時は仕事の片手間に、いかにも面倒くさいと言う気持ちを隠さなかったわ。

  私もまた後家に行かなくて済むのならばと必死で、ダミアンの話に勢いよく乗ったのだもの。今更契約を不満に思う事など出来るはずもない。

  とは言え、私は他の若い貴族の方にあんな風に甘える事など出来るかしら。私の心の奥の傷を開示出来たのは、ダミアンもまたそうしたからだわ。

  私は花瓶を自分の部屋に運ぶ様にメアリに指示すると、気遣わしげな家令から一通の手紙を受け取った。それはビクター伯爵家のジョバンニ様からのものだった。

  「昨日の今日で、こんな手紙をお嬢様に寄越すのはどんな厚かましさかと思うのですが、相手は我が家より格上の伯爵家で、後継です。読んで返事をしないといけません。…ただ、直ぐに返事を出さなくても許される事を彼方がしでかしたのですから、急ぐ必要はありません。私が代わりに読みましょうか。」

  私は首を振って手紙を受け取ると、部屋に戻った。窓の下の花台の上に、ダミアンから貰った美しい花瓶と花が目に飛び込んできて、私は思わず微笑んだ。

  そうは言っても、自分を殴りつけた恐ろしい男からの手紙を開いて読む勇気は湧いてこなかった。私はため息をつくと、暖炉の上に手紙を放って、ベッドに横になった。

  手紙からも距離を取りたくなっているというのに、読む勇気などいつ湧いてくるのかしら。今までもっと恐ろしい事も経験してきたと言うのに、随分自分は甘やかされてダメになってしまったわ。

  私はガバリとベッドから起き上がると、ツカツカとマントルピースの上に手を伸ばして手紙を掴んだ。勇気が萎まない様にその場で封を切ると、中に入ったカードを取り出した。

  そこには形式ばった表現で、私へのお詫びの文面が書かれていた。もっとも私を殴った事など一言も書かれてはいない。証拠を残す様なことはしないくらい相手も冷静だと言うことなのだろうか。

  私は何故あんなに怖がったのかと、カードを手のひらに立ててクルクル回した。

  ふと残像がある気がして、もう一度カードを眺めていると私はある事に気づいて、恐怖で手から放り出してしまった。やはりあの男は頭がおかしいのだわ。

  「メアリ!メアリ、来てちょうだい!」

  慌てて駆けつけた心配そうなメアリの顔を見て、私は心を鎮めるとカードを封筒に仕舞うように頼んだ。さすがに二度と触れたくはない。

  それから直ぐにヴォクシー閣下に取り次いで貰えるように家令に事付けた。

  「…出来れば今日中にお会いしたいの。例の貴族の件と伝えてちょうだい。」

  それから私は気を休める為に温室でお気に入りの詩集を眺めた。けれどもいつも心が浮き立つその言葉も、先ほどの醜悪な言葉遊びと入れ替わる気がして、ため息と共に本を閉じてしまった。

  私は他人に向けられる直接の悪意と言うものに、あまり免疫が無いのだわ。あの貴婦人の揶揄いさえいっそ可愛く思えるのだから、ジョバンニ様に出会ってしまったのは不幸そのものなのだろう。

  その時、温室のドアが開いて家令が顔を覗かせた。

  「お嬢様、ヴォクシー閣下が手を離せないので、出来れば屋敷の方に来て頂けないかと言う事だったのですが。いかが致しますか。」

  私は椅子から立ち上がると、詩集を手にして歩き出した。

  「伺うわ。私一人ではもはやどうして良いか分からないの。ヴォクシー閣下に相談しなくては。支度をするので、馬車を用意しておいて頂戴ね。」