あの男からの手紙を持って、私は待ちきれない思いでヴォクシー侯爵家へと乗り込んだ。家令に丁重に迎えられて、ダミアンが今来客中なので、別室で待つ様に案内された。
美しいけれど広過ぎない部屋は、品が良くて落ち着ける。私が強張った顔をしているのを見て、家令と侍女長は戸惑った様に顔を見合わせた。心がザワザワしてゆっくり座ってお茶など飲んでいられない気がする。
そんな私に侍女長が、待っている間に庭園の散策を勧めてくれた。
私はテラスから出ると、例の天使の庭目指して真っ直ぐ歩き始めた。なぜかあの庭の中でならゆっくり息ができる気がしたからだ。
以前は凝った真鍮の扉で締め切られていたけれど、やはり今日はあの扉は開け放たれていた。きっとあの時以来、ダミアンは鍵を掛けるのをやめたのかもしれない。
私は優しい色合いの薔薇や小花を眺めながら、騒めく心がゆっくり落ち着いて来るのを感じた。そしてこの特別な中庭を見渡しながら、ダミアンの言葉を思い出していた。
『…かつてはあったが、今はもう失われてしまった。私もここに入ったのは17年ぶりだ。13歳の時が最後だ。…』
ダミアンが13歳の時にお姉様が落馬して亡くなったのだったわ。ではここはお姉様のために作られた庭だったのかもしれない。ダミアンも小さな頃はここで一緒に過ごしたに違いないわ。
思い出の詰まった美しい庭を見るのが辛くて、ダミアンは鍵を掛けさせてしまった。でもあの時なぜここの鍵を持っていたのかしら。普段持ち歩くには大きな鍵だった…。
そんなことを考えていると、庭の入り口から声を掛けられた。
「君はここが随分と気に入ったのだな。部屋に居ないので、ここかと思ったら案の定だ。」
そう言って、私の元にゆっくりと歩いて来るダミアンは、私に探る様な視線を投げ掛けた。
「酷い顔色だ。勿論頬は昨日より青くなり始めているが…。一体どうしたと言うんだ、クレア。」
私は庭のベンチに座ると、目の前に立ったダミアンにジョバンニ様からの手紙を差し出した。彼は黙ってそれを受け取ると、カードを引き出して眺めた。
「私、最初はなんて事のない謝罪のカードだと思ったんですの。肝心なことに触れてないのは、抜け目のない男だと思いましたわ。でも、ホッとしてもう一度眺めたら、恐ろしい言葉が書かれていていても立ってもいられなかったのです!」
私はあの時の恐怖を思い出して立ち上がった。
眉を顰めてもう一度カードを見つめるダミアンの表情が、一気に怒りに染まっていくのを何処かホッとして見つめたのはどうしてかしら。
「…とても巧妙に書かれていますでしょう?私は領地で弟としょっちゅうこの手の言葉遊びをしていましたから、無意識に隠された言葉を探してしまいますの。でも、まさか“お前の血で怒りを鎮めんとす”と書いてあるなど、誰が予想したでしょう。
あの男は私を殴っただけでは気がすまなくて、命をも差し出せと言っているのでしょうか。」
私がそうダミアンに尋ねると、彼は疲れた様にドサリとベンチに座り込んだ。そして私の両手を握って話し出した。
「私のせいだ。あの男に私がこう言ったんだ。二度とクレアに近づくな、もしそうするなら考えがあるとね。実はビクター伯爵家の後継者には仄暗い噂が以前からあったんだ。
貴族間では変わり者で済んでいたが、最近では妙な生臭い話も聞こえてきていた。流石に後継がそれでは務まらないのではという話は、上位貴族の間でも大きな声になっていた。
だからあの時は最終警告の意味で言ったのだが、それが却って彼を刺激することになってしまった様だ。」
私は眉を顰めて恐る恐る尋ねた。
「ではこの、お前の血というのはやはり…。」
ダミアンは私をじっと見上げて言った。
「ああ、彼の嗜好は酷い残虐性だ。うら若い下級貴族の娘が数人酷い目に遭っている事が発覚した。でも彼は貴族令嬢の命までは取らなかった様だ。だがさっきまでの来客もその絡みだったのだが、彼が最後の橋を渡っていた事が明るみになった。
彼は貴族の後継ではあるが、所詮後継に過ぎない。父親のビクター伯爵も彼を庇うより、醜聞を恐れて他の子供を後継にするだろうね。私もクレアをここまで追い込んだ彼に、甘い処分はさせなないつもりだよ。方法など幾らでもあるからね。」
私は恐ろしい男に目をつけられた事に、今更ながら震えが止まらなくなっていた。そんな私をダミアンが膝に乗せて胸に抱き抱えた。広い胸板に身体を寄せると、暖かさと安心感に思わず目を閉じた。
「大丈夫。何も心配は要らない。私が全て問題ない様に取り計らうから。…クレア、何だか熱いな。クレア?…。」
私はホッとして、ぼんやりした意識の中、もう何も考える事を放棄してしまった。疲れたわ、本当に…。
「良かったですわ。お目覚めになられましたか?クレア様は少しお熱があった様です。お医者様曰く、熱自体は大した事はない様でしたけど、倒れたのは心労のせいではないかと言う話でしたわ。
今軽いものをお持ちしますから。侯爵様にもお伝えしませんと。随分とご心配の様子でしたから。」
そう、忙しそうに侍女が言うと、慌てて部屋を出て行ってしまった。いつの間にか着替えさせてくれたのか、柔らかなナイトドレスを着ていた。
「これでは帰れないわ…。」
するとダミアンがドアをノックしながら顔を覗かせた。それから私のベッドの側の椅子に座ると、ベッドのクッションに埋もれた私をじっと見つめた。
「急に意識を失ったので随分驚いた。君は頑丈だと思ってたからな。」
私はクスッと笑って呟いた。
「こんな恐ろしい目に遭ってしまっては、流石の私もショックを受けてしまったみたいですわ。私も強い人間だと思っていましたから、違った意味でショックです。」
不意にダミアンが手を伸ばして、私の手を握って言った。
「…君はいつもそうして笑うんだな。やっぱり君は強い人だ。」
そうダミアンに言われて、私は鼻の奥がツンとした。ああ、ダミアンは私をちゃんと認めてくれるんだわ。私が弱音を吐こうと、そうでなかろうと。そう思ってしまえば、ダミアンに握られている手が妙に意識された。
節ばった大きな手、形の良い長い指は、私のものとはまるで違った。なぜか鼓動まで速くなってきたわ。
その時侍女が軽い食事を持ってきてくれた。
「あとは私がやるから下がって良い。」
ダミアンがそう言うと、侍女は目を丸くして何か言いたげに部屋を出て行った。私は口を尖らせた。
「侍女が誤解しましたわ。まったくダミアン様が食べさせてくれるかの様な物言いをするんですもの。」
するとダミアンが銀のトレーを側に置くと、スープカップからスプーンで掬って私の唇の前に差し出した。
「もちろん食べさせてやるさ。さぁ、口を開いて。」
それから私たちはぎこちない仕草で食事を食べ、食べさせた。まったくどうなっているのかしら!何だか顔が赤くなってしまうわ。
しかし私も食べ始めれば食欲が出てきたのだろう。軽いものばかりとは言え、結局デザートまでしっかり食べてしまった。満足気な顔をしていたのだろう、ダミアンは面白そうな表情で、私を揶揄った。
「ショックを受けた君には、美味しい食事が一番効く様だな。…それに顔を赤くした君は、とても可愛い。」
そう言ってダミアンは私を濃い青い瞳でじっと見つめるので、私は息をするのも忘れてしまったの。