【けもケット16】群々「大原の鷹獣人」【K-34(委託)】

  鷹の話を聞いたのは、何もこれが初めてではなかったが、僕としてはそのとき、なんとも不思議な印象を抱いたのだった。

  何と言えばいいだろうか、おとぎ話の登場人物だとばかり思っていた人が、現に実在するということを知ったときのような。あるいは、何気なくSNSで目にした投稿を、初めは何となくそんなものだと思っていたことが、あとになってデマであったのに気づくような、気まずさというか、何に対してかはわからない申し訳のなさだろうか。

  初め鷹のことを知ったのは、作家であり画廊主である洲之内徹の美術エッセイのなかで、である。しかしながら、いまとなっては洲之内徹という名前にピンとくる人は少ないだろうから、あらかじめ説明しておかなければならないだろう。といっても、自分の言葉で説明するのを億劫に思うために、手元にある新潮文庫の著者紹介の抜書きとなってしまうが——「1913年松山市生まれ。左翼運動に参加して東京美術学校建築科中退。郷里で運動を続けるも、検挙。1938年、中国へ赴き軍の諜報活動に関わる。戦後、田村泰次郎の尽力で小説を発表、芥川賞候補三回。60年に田村の現代画廊を引き継ぎ、73年『絵のなかの散歩』を上梓。74年より死の直前まで『芸術新潮』に『気まぐれ美術館』を連載、その鋭い作品理解と独特の文体で、多くの読者を獲得し続けた」——

  補足すれば、洲之内徹のコレクションは没後、洲之内コレクションとして宮城県美術館に寄贈されている。まだ足を運んだことはないけれど、いつか行きたいとは思っている館である。現代画廊というのは銀座6丁目にあった雑居ビルに構えた画廊であるが、僕が上京してきた2010年代の初めには既に解体されてしまったらしく、いまではバスやタクシーの停留所となっている。ただ、画廊のことや、洲之内自身の人生、彼にまつわる画家とのエピソードは、「気まぐれ美術館」を始めとするエッセイのなかで率直かつ味わい深い文体で綴られている。文庫本は多くが絶版になっているが、古本屋を探せば見つけ出すことはさほど難しくない。ともかく僕も、そのようにして偶然に洲之内徹のことを知り、著作を読み漁っていたのである。

  そのなかに『倉敷の宿』というエッセイがある。倉敷の歴史文化地区にある「くらしき」という旅館にまつわる思い出を綴った一編である。「くらしき」は、民芸館の真向かいの古い砂糖問屋を改装して旅館にしたところで、この地の名士であり、かの大原美術館を創設した大原総一郎氏の勧めがあったと、エッセイにはある。洲之内徹は倉敷を訪ねるといつもこの「くらしき」で一泊し、翌朝に大原美術館を巡っていたという。なぜ、この宿を使うようになったのか、という話もすっとぼけたところがあって面白いのだが、あまり書きすぎると肝心の鷹の話から遠ざかってしまうから、細かいところは『絵のなかの散歩』という題の新潮文庫を買って読んでほしいのである。

  僕の印象に焼きついたのは、エッセイの最後に、旅館の女将さんが敬愛していた大原総一郎氏の葬儀について回想しているくだりである。少々長くなるが、そのまま引用してみよう。

  

  あのとき、私はおかみさんから、大原さんの思い出をいろいろ聞かされたが、なかでも大原さんの葬儀の模様は、私に深い印象を残した。

  大原総一郎氏の葬儀は、どのような宗教的な形式も採らず、砂を敷きつめた陶器館の中庭を式場にして、正面のなまこ壁の上に大きな写真の遺影を飾り、あとは傍にお茶の野立に使う赤い唐傘が一本立ててあるだけで、その傘の下に、氏の遺愛の鷹が一羽止らせてあったが、焼香の代りに、大勢の参列者が順々に遺影の前に進んで、一輪ずつの白菊を供え終るまでの長い時間のあいだ、その鷹は終始、止り木の上で、身じろぎ一つしなかった。

  「こう言っては申訳ないのですが、ほんとうに酔うようでございました」

  そこまで話してきて、おかみさんは声を詰らせた。生前のその人を私は識らないが、こういう佳人に、こんなにも心から慕われる大原さんという人は、きっと立派な人だったにちがいないという気が、そのとき私は、したのだった。(洲之内徹『絵のなかの散歩』新潮文庫より)

  

  僕は倉敷へ旅行して、大原美術館を訪れていたことがあり、土蔵を改装した陶器館に囲まれた砂を敷き詰めた中庭や、土蔵の壁面を覆うなまこ壁のことをよく覚えていたので、大原総一郎氏の葬儀の様子がありありと目に浮かんだのだったが、とりわけ赤い唐傘の下に佇む鷹の姿が、洲之内徹が女将の話を聞いたのと同様に、僕の印象に深く焼き付けられたのである。ちなみに洲之内の文を読む限り「くらしき」は随分安い宿のように感じるが、いま調べたら随分と高級な旅館になっていた。歴史文化地区のど真ん中、大原美術館とさし向かいにあるのだから無理もないことだった。

  大原氏の業績を考えれば、葬儀には相当な数の参列者が来ただろう。そう思って、グーグルで簡単に調べてみたところ、倉敷駅のあたりから美術館まで喪服を来た人の列が綿々と続いていたという証言があったから、具体的に何人とまでは断言できないものの、会社の従業員や美術関係者を含めて、葬儀は長時間にわたっただろう。そのあいだ、ずっと身じろぎすることなく、葬儀の模様をキリッとした目つきで、見つめ続けた鷹の凛とした顔が思い浮かんで、僕はまるで実際に大原氏の葬儀に足を運んだかのように錯覚さえするのだった。

  あとで調べたところ、大原氏は大の鷹の愛好家であったらしく、鷹狩技術の保存とワシタカ類の保護を目的とする日本鷹狩クラブの創立に尽力し、現在は日本ワシタカ研究センターと名を変えて、活動が続けられている。また、大原氏自身の翻訳によると思われる『イヌワシの生態』という本も上梓されている。大原氏とあの鷹の関わりは、郷土の史料を紐解けばさらに知ることができたかもしれないが、生憎、岡山の図書館まで出向かなければ閲覧はできないようである。興味こそ抱けど、あまり活動熱心でもない僕の調査は、結局そこまでで止んでしまった。鷹のそのあとも、結局はわからずじまいであった。

  あくまでも初めに鷹の話を知ったときは、葬儀を見守る鷹の姿が深く僕の印象に焼きついたという、それだけのことだったのである。その時々に、誰しも印象深い出来事に遭遇するけれども、大概は時の流れとともに忘れてしまう。

  だから、再びその鷹のことを見聞することになったのは、まったく偶然のことだったのだ。

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