恋を、してみたい。
初めにそう思ったのはいつだっただろうか。
気が付かないうちに、思い出せなくなるほどに時間が経ってしまったようで。
森で出会う友達は私によく言う。
「あなたも恋をしてみたらいいのに」
恋は、それはそんなに楽しくて、世界が輝くような魅力的なものなんだろうか。
とはいえ私にだって楽しくて心躍るような素敵な経験はたくさんある。
友達が言うには、この胸の高鳴りと恋は別物らしいけれど。
恋ってなんだろう。
どうやったらできるんだろう。
お母さんに聞いても、おばあちゃんに聞いても、友達に聞いても、みんな口を揃えてこう言った。
「経験したら分かるものよ」
「しようと思ってするものじゃないのよ」
そんなことを言われたって、気になるものは気になるし。
興味を持たせたのはあなた達なのに、そんな不安定な説明で納得出来るわけが無いのに。
私の疑念は燻るばかりだった。
───あの日までは。
忘れもしない、あの秋の日。
暖かい朝陽で目が覚めた私は、いつも通りに布団から抜け出して、軽快な音を奏でるキッチンのお母さんの元へ向かった。
いつも通りに朝の挨拶をして、ご飯を食べて、歯を磨いて。
普段と何も変わらない一日の始まり。
今日も森へ出かけて、みんなと花でもつんで遊ぼう。
そう思っていた。
だけれど、そうはいかなかった。
久しぶりにお母さんからお使いを頼まれたから。
おばあちゃんのお家にワインとパンを届けてきて、と。
私は喜んで引き受けた。
おばあちゃんのことは大好きだし、おばあちゃんの家に遊びに行くのも久しぶりだった。
途中で花をつんで、冠を作っておばあちゃんに渡そう。
そろそろシロツメクサが綺麗に咲き揃う時期だ。
私はそんなことを考えながらお下がりの赤い頭巾を身にまとい、秋の光を受け明るくたなびく野原へと駆け出して行った。
あの日、私は気がつくべきだった。
いつもは賑やかなはずの森の野原に、その日は異常な程に人影が無かったことに。
きっと私は、久々におばあちゃんに会えるという事実に浮かれていたのだろう。
早く花冠を作って、おばあちゃんに届けないと。
綺麗に作れたら、この前みたいに褒めてくれるかな。
嬉しそうな顔で微笑んだあとに私の頭を撫でて、寝室の枕元に飾ってくれるかな。
そんなことばかり考えていたから、いつもは山の奥の奥で暮らしているはずの狼が、まさか山の麓の村の野原までおりてきているなんて、思いもしなかった。
おばあちゃんの為に花冠を作ろうと思った私は、いつもみんなと遊ぶシロツメクサの咲く平原へと向かった。
普段と変わらない平原の青々とした景色に少しの安心感を覚えつつ、シロツメクサは何本くらい必要になるか考えていた、その時に。
微かに香る、血の匂いに気がついた。
───もしかして、誰かが怪我をしたのかな。
それなら手当をしてあげなくちゃと、そう思った私は匂いの元へと近づいていった。
平原に流れる小川の近くの、大きな林檎の木の後ろ。
匂いをたどった私は、そこに匂いの原因があると気がついた。
「…ねえ、怪我をしているの?」
血の匂いの原因は、私の声を聞いてビクリと肩をふるわせた。
ゆらりと揺れた、銀色の尾。
背景の紅葉に赤い血と銀色が映えるなあ、なんて。
「あなたはだあれ? 大丈夫、私、手当をしに来たの」
銀色の彼がこちらを振り向いて、その金色の視線と私の視線が交わった瞬間に。
私の世界は、輝いた
私にはすぐに分かった。
これが、きっとこの気持ちが。
友達やお母さんが、おばあちゃんが言っていた、恋というものなんだろう。
そう自覚した瞬間に、私の鼓動が一際大きく飛び跳ねた。
ああ、口から心臓が飛び出てしまいそう。
恋、それも初恋が一目惚れになるだなんて思いもしなかった。
まるで彼の金色の目に吸い込まれたように、私は彼から視線を逸らせずに固まっていた。
しばらくして、ようやく私が世界の輝きに順応してきた頃。
私は、彼を見たまま固まってしまっていたことに気がついた。
「ええと、血の匂いがしたから、少し気になって。驚かせてしまってごめんなさい。怪我は大丈夫?」
ああ、私今、変なこと言ってなかったかな。
急に現れた知らない感覚に目が回ってしまう。
そういえば、まだ名前も聞いていなかった。
「あなたの名前はなんて言うの?あまり見かけない顔だけど」
ふわふわ揺れる銀色の尾。
ここら一帯の村は小さいから村中のみんなが知り合いで、見たことの無い顔を見るのは久しぶりだった。
私は狼が答えるのを、その声が聞けることを楽しみに待っていた。
なのに、
「…ねえ、本当に大丈夫?」
しばらくの沈黙が続いたけれど、彼は何も答えなかった。
もしかして、怪我の痛みが酷くて声も出せない程なのかな。
本格的に心配が強くなってきた頃、私は、彼は怪我をしているのでは無いということに気がついた。
確かに彼は血の匂いの原因だけど、匂いの原因である血は、多分彼のものじゃない。
私の傍の木の根元に転がる、小さな赤い塊。
赤くて、鮮やかで、だけどそれは林檎じゃない。
ぐちゃぐちゃしていて、所々白い部分があったそれ。
多分、さっきまで野原の草を食んでいた野ウサギだ。
きっと彼はこれを食べたんだろう。
よく見る彼の口の周りだけが不自然に赤かった。
どれだけ綺麗な金色の瞳を持っていたとしても、たとえそれが好きな人であったとしても、狼は紛れもなく狼だ。
童話に出てくる狼は皆、嫌われ者で意地悪だった。
だから小さい頃に読んだ絵本の狼は凄く怖くて、もし狼が村におりてきて私が本物を目にしたら、怖さで震えが止まらなくなるんじゃないかって思っていた。
物語の中では、七匹の子山羊も、羊飼いの嘘つきの男の子も、皆狼に食べられてしまったから。
私ももしかすると狼に食べられてしまうのではないかと。
小さい頃に読んだ絵本のことを思い出していると、目の前にいる彼のことが怖くなって、少し足がすくんできた。
お願いだから私を食べないで欲しい。
だって、みんなの言う恋の楽しさを経験してみるまでで良いから、私はまだ生きていたい。
貴方を見つけられたから、やっとその願いを叶えられると思ったのに。
まだここでは死にたくないから、どうか。
私は意を決して目を固く閉じた。
だけど、その心配は全くの杞憂だった。
野ウサギだったものを食べたであろう彼に気がついてしまった私は、ふるえることも無く、自分でも驚くほど冷静だった。
そして、冷静なのは彼も同じだった。
私は恐る恐る、薄らと目を開けた。
彼は私を襲う素振りは一切見せないまま、静かに林檎の木の根元に座っている。
その姿は私の思い描いていた獰猛な狼とはかけ離れており、いくらか憔悴しているようにも見えた。
そうか、彼は食糧が見つからなくて、麓の村までおりてきたんだ。
よく考えてみれば、平原がいつもより静かな気がする。
皆家に帰ったんだ。
さっきまでの私と同じように、狼が怖かったから。
その時、どこからかくぐもった音が聞こえた。
威嚇より威圧感は無いけれど、人が発したとわかる音。
彼のお腹がなったんだと気づくまでには、あまり時間はかからなかった。
「もしかして、お腹がすいてるの?」
私は籠に入っていたパンを1斤手渡した。
幸いにもパンは2斤入っていたから、籠の中にパンが入っていないことでおばあちゃんに怪しまれたりはしないだろう。
彼はそれを受け取るか迷う素振りを見せたあと、私と目線を合わせながら口を開いた。
「…お前は、俺が怖くないの?」
その声は、自分が思っていたよりも低くて柔らかかった。
聞いた途端に一瞬にして心臓が速くなったから、やっぱりこれが恋なんだろう。
「お腹、空いてるんでしょう」
彼の質問の答えにはなっていないなと思いつつ、私はもう一度パンを彼に差し出した。
ああ、やっぱり私、彼のことが好きだ。
ようやく狼が私の手からパンを受け取って、少し申し訳なさそうに口に入れようとした時。
──パァン!!!!!
どこからか銃声が鳴り響いた。
「……!」
彼が過剰に反応したから、この狼は狩人のおじさんにおわれている最中なんだと私はすぐに分かった。
「あなた、追われてるの?」
狼は、焦りの隠しきれない顔でこちらを見て言った。
「…そうだよ、俺は家畜を襲う嫌われ者だから」
家畜を襲う、嫌われ者。
あなたが嫌われるだなんて、きっと何かの間違いだ。
あなたは自分が生きるために行動しているだけであって、本当はこんなにも素敵で眩しい人なのに。
ああそうか、村のみんなは気が付かないんだわ。
彼はきっと、私だけの光なんだ。
「パン、ありがとう。もう行くよ」
彼は私が手渡したパンを、いつの間にか食べ終えていた。
未だに焦った素振りを見せている彼は、すぐにでもここから逃げおおせるためにと伺うように辺りを見回した。
──待って、お願い、あと少しだけ。
ここで別れてしまったら、私は彼ともう二度会えない気がした。
「ねえ待って、私、あなたにまた会いたい!」
今にも駆け出してしまいそうな彼をどうにか引き留めようとしていたら、つい彼を呼ぶ声が大きくなってしまった。
私の声に気がついてこちらを振り返った狼は、少し驚いた顔をして言った。
「……俺に?また?」
意味がわからないというふうな怪訝そうな顔をして、彼は私にそう聞いた。
「そう、私、あなたにまた会いたいの!」
もちろんあなたを捕まえるためなんかじゃない、もっとあなたと話がしてみたいだけ。
そう付け加えると、狼はまた驚いて、だけど少しはにかみながら答えた。
「…もちろん、君がそう望むのなら。パンのお礼もしたいから、また明後日のこの時間に、次は人気の少ない森のほら穴で」
そう言うと彼はもう一度辺りを見回して、周囲の音を拾うためにぴんと耳を立てた。
「…狩人が来た、もう逃げないと。パンをありがとう。それじゃあまたね、赤い頭巾のお嬢さん」
狼は姿勢を低くすると、私の目に止まらない速さで森の奥へと帰って行った。
私は、私の顔に熱が集まっていくのを感じた。
好きな人と約束をしてしまった。
明後日、彼にまた会えるんだ。
次は昼間でも人に見つからないように、森のほら穴で。
心が弾む、まるで踊り出したくなるような気分。
みんなの言う恋の素敵なところって、きっとこの楽しさのことなのね。
私が1人で舞い上がっていると、後ろの茂みから誰かの足音が聞こえた。
「…こんにちは、狩人のおじさん」
振り向くと、狩人が私のすこし後ろにたっていた。
「こんにちは、赤ずきんちゃん。おばあさんへのお使いの途中かい?」
人当たりのいい笑みを浮かべた彼は私に微笑んだ。
狩猟銃から煙が立ち昇っているから、さっきの音はやっぱり銃声だったんだ。
「そうです。パンとワインを届けに行くの。今、シロツメクサで花冠を作って、おばあちゃんにあげようと思っていたところなんです」
それを聞くと、狩人は少し驚いた顔をして私の頭を撫でた。
「赤ずきんちゃんは本当におばあさん思いだね、きっとおばあさんも喜ぶよ。……ところで、ここら辺で狼を見なかったかい?実はさっき、狼が森から村におりてきたと聞いてね。1度見つけたのはいいものの、逃げられてしまったから探しているんだ」
きっと、さっきの狼のことだろう。
「…えっと、」
もし私がここで狼を見たなんて言ったら、私に怪我はないのかとみんなに余計な心配をかけてしまうだろう。
それに、先程逃げたばかりの狼が遠くに逃げられるまで、少しでも時間を稼いであげたい。
彼は憔悴していたから、追われた先で仕留められることだって有り得るかもしれない。
やっと出会えた私の光が撃たれたりしたら私はきっと立ち直れない。
だから私は、狼を見ていないと嘘をついてこの場を誤魔化すことに決めた。
「…見てないですよ。私、血の匂いがすると思ってここへ来たけれど、もうここには誰もいなかったから」
私の嘘を聞いた狩人は、安堵のため息をついた後もう一度私の頭を撫でた。
「良かった、何事もなくて。怪我もしていないね?」
私が肯定の意を込めて頷くと、狩人は私の頭を撫でる手を止めて優しく微笑んだ。
「それなら早くおばあさんの所へ行って、暗くなる前にうちに帰った方がいい。もし君が狼に襲われるようなことがあっては、村のみんなが悲しむからね。…シロツメクサの冠も、作るのは今度にするといい。秋の陽は短い。時間がかかって夜になってしまうといけないから」
狩人は、私の嘘を信じてくれた。
「分かったわ、おじさん。それじゃあ私、おばあちゃんのところに行ってきます。ばいばい」
歩き出しながら手を振ると、彼も手を振り返してくれた。
「おばあちゃん、いる?」
平原の外れにあるおばあちゃんの家の戸を開けながら、私は中にいるであろうおばあちゃんに尋ねた。
「あら、赤ずきんちゃん、いらっしゃい」
おばあちゃんはいつもと変わらない服と眼鏡をしてベッドの上から私を出迎えた。
「こんにちは、おばあちゃん。今日はお母さんの作ったパンと、それからワインを持ってきたの」
扉の中に入りながら来訪の目的を伝えた私に、おばあちゃんは優しく微笑んだ。
「まあ嬉しいわ、ありがとう。ここに来るまで長かったでしょう。戸棚にクッキーがあるから、良ければ家に持って帰って、紅茶でもいれて食べてちょうだい」
私はおばあちゃんのベッドのサイドテーブルにパンとワインの入った籠を置いて、言われた通り戸棚の中のクッキーの箱を取りだした。
「ありがとう、おばあちゃん。お母さんと一緒に食べるね」
そう言うとおばあちゃんは嬉しそうに微笑んだ。
「喜んでくれて良かったわ。そのクッキー、狩人さんが戸棚に入れて置いてくださったの。…ああ、そういえば!狼が出たらしいじゃないの、大丈夫だった?遭遇したり、怪我をしたりはしていない?」
私は驚いた。
まさかもうおばあちゃんのところにまで情報が回っているなんて。
そして、同時に悲しかった。
やっぱりおばあちゃんも狼が嫌いなのね。
これじゃあ誰にもこの恋を相談できそうにない。
おばあちゃんならもしかしてって、少しだけ期待していたのだけれど。
「大丈夫よ、おばあちゃん。会っていないし怪我もないわ」
私がそう答えると、おばあちゃんも狩人のおじさんと同じように心底安心したという顔で大きく息を吐いた。
「ああ良かった。かわいい赤ずきんちゃんに何かあったらと思うと、夜も眠れないわ」
あのね、違うの、おばあちゃん。
彼は私を襲わないし、狼は悪い人じゃない。
どうしてたった6文字、“彼は怖くない”と、それだけの事が言えないんだろう。
喉に言葉が引っかかったようで、なんだかすごくもどかしい。
どうしたらこの気持ちを誰かに分かってもらえるの。
「そうだわ、赤ずきんちゃん。久しぶりにチェスの相手をして貰えないかしら。まだ狼が森に帰っていないかもしれないし、今すぐ帰るのは危険だと思って」
狼はもう帰ったの、だから大丈夫だよなんておばあちゃんに言えるはずもなく。
久しぶりにチェスをしたくなったというのもあって、私はおばあちゃんとチェスをすることにした。
2人で夢中になってチェスを続けていると、いつの間にか空が赤くなり始めていた。
「あら、もうこんな時間。草原にも人影が見えているし、狼はもう森へ帰ったみたいね」
おばあちゃんの言う通り、草原にはいつもの活気が戻っていた。
「随分長く引き止めちゃったわね。そろそろ帰った方がいいわ、夜の森は危険だから」
おばあちゃんはそう言うと、慣れた手つきでチェスを片付け始めた。
「本当だ、もうこんな時間。今日はありがとう、おばあちゃん。すごく楽しかった」
私もチェスの片付けを手伝ったあと、おばあちゃんに貰ったクッキーの箱を籠に入れてドアへ向かった。
「次はシロツメクサの冠を作ってくるね。またね、おばあちゃん」
私が手を振ると、おばあちゃんも手を振って私を見送ってくれた。
家に着いた頃にはもうあたりは薄暗くなっていたから、あと少しでもおばあちゃんの家を出る時間が遅かったら本格的に夜になっていたと思う。
お母さん心配してたかな。
「ただいま」
ドアを開けると、夜ご飯のいい匂いが私の鼻をくすぐった。
今日の晩御飯は焼き魚かな。
そういえば、この間村の人がおすそ分けに来てくれたような。
「おかえりなさい、遅かったわね」
「うん。おばあちゃんと遊んでたら、遅くなっちゃった」
私がそう言うと、お母さんは嬉しそうに笑った。
「楽しそうでよかった、おばあちゃんもきっと喜んでるわ。
そういえば、午後すぎに狩人さんがうちに来てね。お昼頃狼が出たそうなんだけど、村の誰にも会わずに帰っていったからしばらくは安心して外に出ていいって言ってたわ」
良かった、狼は無事に森に戻れたのね。
「そうだったの、誰も怪我しなくてよかった。そうだ、お母さん。これ、クッキーを貰ったの」
私はお母さんに、おばあちゃんに貰ったクッキーを手渡した。
「あら、今度お礼を言わなくちゃね」
お母さんがクッキーを戸棚にしまったのを見て、私は食卓に並んでいる夜ご飯を食べ始めた。
翌日は、彼に会えることへの期待からかまるで春の風のように過ぎ去り、気づくと既に彼に会う約束をしていた期日となっていた。
朝、目覚めたその瞬間から、私の心臓は落ち着きを知らなかった。
今日の昼、もう一度彼に会えるなんて夢みたい。
昨日の夜に焼いたパンを籠に入れて私は準備をし始めた。
お母さんには友達とピクニックをしてくると伝えてある。
あながち間違いでは無いし、村のみんなと遊ぶのはいつものことだからお母さんが私を探しに来ることなんてないだろう。
いつもより丁寧に髪をとかして、いつもより丁寧に頭巾を被った午前10時。
私、以前よりも随分可愛くなったなあ、なんて自賛しながら私は鏡に向かって微笑んだ。
時計の鳩が飛び出してきて私に時間を告げたから、彼に会えることにこれまでにない喜びを感じつつ家の扉を勢いよく開けていつもの森へと駆け出した。
「行ってきます!」
しばらく歩いてほら穴についたその先に、まだ狼は居なかった。
家を出たときは10時だったし、今はおそらく11時前後だろう。
少し早く来すぎたかな。
楽しみで、彼に会う時間を1秒でも伸ばしたくてお昼前についてしまったけれど、果たして何時頃に会えるのだろうか。
彼も今日を楽しみにしていたといいな、と思いつつ彼のことを待っていると、まるで魔法のようにその時間も楽しくなって。
「あれ、早いねお嬢さん。待たせちゃったかな」
しばらくすると、私の何より心待ちにしていた声がほら穴に響いた。
期待をしつつ振り返ると、そこにはずっと考えていた彼の姿。
「本当は迎えにでも行けたら良かったんだけど。改めて、一昨日は本当にありがとう。あれが無かったら、空腹で動けず撃たれてたかも」
そう言って笑って照れながら話しだした彼を見ていると、私の心臓がすごくどきどきしてきて。
───ああ、本当に好き!
私の光は自分が焦がれていたよりももっと眩しかった。
「ううん、気にしないで。今日わざわざ会ってくれて、お礼を言うのは私の方だよ。あなたが撃たれなくてよかった」
私ってば本当に、どうしてこんなに落ち着いて話せるのかしら。
心の中の凄まじいこの喜びも、彼には欠片も伝わってはいないのだろう。
「俺が撃たれなくてよかったなんて、お嬢さんは本当変わってるね。…村の人達はみんな、俺が早くいなくなるようにって願うのに」
段々と彼の語尾が消えていく。
ねえ、あなたがいなくなるなんて、そんなことを私が望むわけが無いのに。
なのに、何でそんなに悲しそうな顔をするの。
「そんなこと私は思わないし、今も思ってないよ。確かに最初は私も少し怖かったの、だけど、あなたと話したらそんなこと思わなくなっちゃった」
狼が驚いたようにこっちを見た。
「だから、あなたがいなくなるなんて悲しいこと言わないで。…そうだ、私またパンを持ってきたの。良かったら、2人で一緒にピクニックしない?」
私はどうにかして話を逸らしたくて、彼にこれ以上悲しい顔をさせたくなくて、今日のために焼いたパンを狼にみせた。
…よく考えたら、ただのパンよりも肉を挟んだサンドイッチとかの方が喜ばれたかもしれないけれど。
「…いいの?俺なんかとやるより、村のみんなとピクニックした方が楽しくない?」
恐る恐るそう聞いた彼に、私は信じられないというような顔をしてみせた。
「もしそうだったら私、今頃村でピクニックしてるわ。それに今日あなたを誘ったのは私なんだから。私は他でもない貴方と一緒にピクニックがしたかったの」
そう言って私が微笑むと、彼はすごく嬉しそうな顔をして。
「……うん、ありがとう、お嬢さん。今日は、今までの中で1番幸せな日かもしれない。こんなにたくさん誰かと話せるなんて夢みたいだ」
彼の頬が甘く染った。
ああ、私と話して幸せだなんて言ってくれるなんて、私こそ夢をみているんじゃないだろうか。
「私でよければいつでも話すよ。…だから、あなたの幸せな日、これからもっと沢山増やそうね!」
私がまた会いに来たいという意味を込めてそう言うと、彼の瞳が心做しか潤んできたような気がする。
「うん、ありがとう、お嬢さん……ところで、俺、ピクニックなんてやったことなくて。…普通は何をするものなの?」
───驚いた。
ピクニックをしたことが無いなんて。
「ううんと、ごはんを食べて、その後はいろんな話をしたり…あ、私はよく花冠を作るかな。上手なのよ、今度持ってくるね」
狼はまた、嬉しそうに笑った。
──そういえば、彼に家族はいないのかしら。
ピクニックを始めて彼としばらく話したあと、急に疑問が降りてきた。
一匹狼とはよく言うけれど、もしも彼が1人ぼっちなんだとしたら、寂しいものではないのかな。
聞いてみたいけれど、彼にとって嫌な質問だったらどうしよう。
でも、今聞かないとこれからもずっと気になってしまうと思ったから。
私は意を決して彼に問うた。
「…ねえ、答えづらかったら構わないんだけど。あなたに、家族はいないの?」
彼の返答が返ってくるまでの数秒が、とても重たく長いものに感じられた。
…ああ駄目だ、私、選択肢を間違えたかもしれない。
彼の顔は私から見ても十分にわかるほどに暗くなっていた。
嫌われてしまったらどうしよう、もしも今の質問で気を悪くした彼が帰ってしまったら?まだ次に会う約束も取り付けていないから、もしかしたらこの先ずっと会えなくなってしまうか──「家族は、いないよ」
……やってしまった。
家族がいないかもしれない事なんて想定できていたはずなのに、返答も考えていた筈なのに。
実際にそれを言葉にされるとどうしていいのか分からなくなってしまう。
私はどうしたらいいの、励ますべき?同情すべき?今できる最善は、嫌われないための方法は何?どうしよう、どうしたら、えっと
「でも、寂しくは無いしそこまで気にしてないよ。今まで食べた動物たちは、俺の体の中で生きてる。俺は、何百の命と一緒に生きてるんだ。だからべつに、1人でも寂しくない。…あ、えっと、今まで食べた動物たちが生きてるっていうのは、丸呑みしたから腹の中で生きてるとかそんなんじゃなくて、俺の一部として一緒に生きてるって意味で……」
そういった彼の雰囲気は、先程よりも和らいだ気がした。
良かった、嫌な質問では無かったみたいだ。
「そっかあ、1人じゃないんだね。それなら良かった、寂しくないね」
私は嫌われていなかったことに対する安堵でため息をついた。
対称に、彼は少し楽しそうにしていて
「…ふふ、心配してくれてたんだ」
そう言って笑ったから。ああ、わたし、
「わたし、貴方の笑った顔、好きだなあ」
私は思わず声に出してしまったようで。
「…………ぇ、すき、って、ぁ、はじめて、いわれたかも、」
彼の顔は、まるで林檎の様だった。
「……あれ、もうこんな時間」
気づけば辺りは紅葉のように染まり、冷たくなった風は4時頃を示していた。
「そろそろ帰った方がいいかな。夜の森は危ないから」
そうして、速すぎる秋の陽に若干の恨みを噛ませながら、私たちの初めてのピクニックは幕を下ろした。
「送っていこうか、って言いたいところだけど…俺は村に降りられないから、ここら辺でお暇するよ」
パンを綺麗に食べきって、敷いていたマットは畳む。
いよいよ彼とのお別れが近づいてきた。
だけど私には、最後にひとつだけ言いたいことがあって。
「ねえ、また会える?」
初めてあったあの時と同じように、私は彼に聞いた。
これを逃したら今度こそ、一生会えなくなってしまうような気がしたから。
すると彼は照れたように笑って。
「…ふふ、うん、もちろん。ああでも待って、実はそろそろ冬眠の時期なんだ。だから、すごく寂しいんだけど…次に会えるのは春になると思う」
冬眠……そうか、私すっかり忘れてた。
「そっか、忘れてた、冬眠があるんだ。それじゃあ、春になるまで待っててもいいかな?ふふ、ねえ、今度は2人で花冠、作ろうよ」
「待っててくれるんだ…ありがとう。それじゃあ、次は春があける日…んーと、そうだな、毎年村で冬明けの祭が催されるだろう?だから、その3日前でどうかな」
私たちの村では毎年、冬明けに豊作を願う祈祷が行われる。
彼と会えなくなるのは少しさみしいけれど、冬眠明けの彼に初めて会えるのは紛れもない私だと思うと少し嬉しくなってしまう。
「うん、分かった。楽しみにしてるね!」
また会えたその時には、笑った顔だけじゃなくてあなたの全てが大好きなんだよって、そう伝えられるかな。
「ねえ、今度会った時…言いたいことがあるんだ」
彼の声に引き寄せられるようにそちらを見やると、彼の耳は少し赤かった。
まるで照れているような仕草に、少しだけ期待してしまう。
これは、もしかして、もしかしてだけど、私と同じことを考えてくれてると思っていいのかな。
「うん、私も……次会った時に、言いたいことがあるの」
私の世界はより一層輝いたような気がした。
きっと2人とも言いたいことなんて同じで。
だけどそれをまだ言わないの、次に合う時に取っておくの。
私、恋の楽しさが、やっとわかったような気がする。
「ふふ、それじゃあまたね。……っあ、そうだ、1つ言いたいことがあったんだ」
そういった彼のまろい肌は、ほんのり夕暮れを帯びていて。
「……俺も、君の笑った顔、好きだよ」
とうとう、冬になってしまった。
草原からも秋の面影は消え、あんなに赤く生えていた草花は冷気から身を守るようにしてすっかり縮こまっている。
そして、彼も冬眠に入った。
しばらくの間会えなくなるのは寂しいけれど、この冬が明けたら次はもっと長い時間一緒にいられる。
だから、冬眠してしまう前の彼に1目会えただけでも十分だった。
そうだ、美味しいと彼が褒めてくれたパンを沢山焼いておこう。
春になったら私が1番に彼に会いに行って、寝起きの彼の瞳に私が1番映るの。
そして、パンを食べてたくさん話してピクニックをするの。
どうしよう、考え出したら春が待ち遠しくなってしまった。
まだ冬に入ったばかりなのに。
今まで生きてきた中で、こんなにも早くすぎてほしいと思った冬があっただろうか。
私は冬が明けるのを、誰よりも、何よりも楽しみにしていた。
もちろん彼に褒めてもらった笑顔の練習も、毎日欠かさず行った。
彼のことばかりを考えていた冬は、まるで狩猟の銃弾のように、信じられないほどの速さで目まぐるしく過ぎ去っていった。
冬が明けて春が来て、私が彼の為にパンを焼いていたとある春の日の午後2時30分。
私はようやく彼に会えるのを楽しみに、鼻歌を歌いながらオーブンの針をセットしていた。
これが焼けたら、明日彼に会いに行こう。
明日の朝、鏡の前で準備をするのがすごく楽しみだ。
私の心は今までにないほどに大きく波打っていた。
コンコン
丁度オーブンをセットし終わった時、誰かが扉を叩く音が聞こえてきた。
誰だろう?
村の誰かが遊びに誘いに来たのかな。
残念だけど、今日は明日に備えてパンを焼く日だから、遊びの誘いなら断らなくちゃ。
私がそんなことを考えていると、お母さんが返事をして、叩かれていたドアを開けた。
キッチンからドアを見てみると、そこにいたのは私の友達ではなく狩人のおじさんだった。
森の動物を捕まえたとかで、おすそ分けにでも来たのかな。
だけれど、どうやらそうでは無いようだった。
彼は仕留めた動物をその手に持ってはいなかったから。
それならなんの用だろう?
少し目を凝らして玄関を覗くと、何となく彼は焦っているような顔をしていた。
顔色はいつもよりも良くなくて、目を開いて、何かを懸命に私たちに伝えようとしている…ような、気がする。
でも、彼の声はわたしのところまでは届かないから、話の内容は聞こえない。
私はパンを作るために使った食器を洗うため、具材を混ぜるために使ったボウルを手に取った。
すると、彼が話している声が少し大きくなって、私のいるキッチンにも少しだけ聞こえるようになってきた。
「───たんだ、あいつが腹を空かせて───を、俺が撃って仕留めたんだ」
え、何、よく聞こえない。
狩人のおじさんはすごく息が切れていて、どうやらここまで走ってきたみたいだった。
「麓の──おばあさん───のところで、重体なんだ」
おばあちゃん?おばあちゃんになにかあったの?
内容はすごく気になるのに、大事なところが呼吸にかき消されていて聞こえない。
なんだか嫌な予感がしてきた。
「──狼が、───おばあさんを食べ──で撃って仕留めた」
狼が?おばあちゃんを?
撃って仕留めたって、食べたって、誰が?
何を言ってるの?2人は今日、どこかで出会ったの?
あれ、じゃあ、彼の冬眠後に一番に目に映ったのは
意味がわからない、だけど、彼の言葉を繋ぎ合わせた時、私の脳裏に浮かんだのは、今起こりうる最悪のシナリオ。
───そんなこと、あるはずないよね?
そうだよ、きっとこれは杞憂で私の考えすぎでしかない。
だってそうでないと、もしそれが本当なら私は
「───冬眠から目覚めた狼が、山の麓のおばあさんの家を襲ったんだ。おばあさんが丸呑みにされていて、助けたあと、病院に搬送されたが未だ重体だ。狼は極度の飢餓状態で、膨らんだ腹のせいで動きが鈍っていたから、後ろから近づいて俺が猟銃で撃って仕留めた」
私は
え?
……え、ねえ、まさか、そんなのじょうだんでしょ
やめてよ、なんでそんなこというの?
ううん、だって、そんなはずないの
やくそくしたの、またあうって
だって、もし本当なら、私、私まだ彼に
彼も、わたしに言いたいことって
「どういうことですか、狩人さん」
お母さんの、焦ったような、困惑したような声が響く。
狩人のおじさんは、もう何も言わなかった。
私は、手に持っていたボウルをいつの間にか落としていた。
狩人のおじさんが家を訪ねてきてからどのくらい経ったのかも分からなくなった頃、お母さんが、顔を両手でおおって泣き始めた。
ショックでしばらく何も考えられていなかった私は、その時やっと世界を取り戻した。
おじさんが言っていたことはきっとほんとうだ。
そんなこと分かってる。
だって彼は嘘をつくような人じゃないし、私が嘘をつかれたことも、誰かに嘘をついているのを見たこともない。
だけど、本当だと認識することと、現実だと受け止めることは、全く別のことで。
だって、もし現実なら、私、私まだ彼に
大好きだって、言ってない
───私の焦がれた彼は、もういない。
彼は、おばあちゃんを食べてすぐのところを、狩人のおじさんに見つかって撃たれたらしい。
私の初恋は、叶わずに終わった。
そう理解したとたんに、輝いていた世界からは光が消えた。
おばあちゃんは今村の病院に運ばれいてて未だ意識不明の重体らしいけれど、彼女がその瞳に光をおとす瞬間はもう訪れないのだと思う。
大切な人を同時に2人失った。
その喪失感は形容しがたく、私には重すぎるものだった。
きっと、私はもうパンを焼くこともないし、冬の雪解けを楽しみに待つこともないんだろう。
狼がおばあちゃんを食べたから、なんでおばあちゃんを狙ったの、なんてことは思わなかった。
べつに彼が誰を食べようと、正直私は構わなかった。
ただただ、2人がいなくなってしまったことが悲しかった。
村の人達は、おばあちゃんが被害にあった悲しさと狼が居なくなった安堵が半分で、なんとも言えない顔をしている。
みんなは私に沢山声をかけてくれた。
おばあちゃんが重体で、悲しいね、元気だしてねって。
だけど、誰も死んだ狼のことを気にかけてはくれなかった。
私の誰よりも大切な人なのに。
どうしてみんなは彼のことを悔やんでくれないの。
狩人のおじさんは正しいことをした。
それは分かっているけれど、何も殺さなくても良かったのに。
私のせっかくの光を奪うなんて。
いなくなった彼がもう戻らないのなら、せめて最後に、その姿だけでもこの目に留めておきたい。
私は村の人達の慰めを一通り受けたあと、狼の遺体が腐敗してしまう前に、村の人に回収されてしまう前に一目でもその姿を見ておこうと、事件の現場であろうおばあちゃんの家へと向かった。
おばあちゃんの荷物を病院に持っていくために、おばあちゃんの家にある服を準備してくると嘘をついて。
私は、おばあちゃんの家へ行くための道を歩き出した。
彼はどこにいるの。
少し探すと、道の途中で血の匂いが私の鼻を擽った。
───彼の、血の匂いだ。
なんの根拠もないままそう確信して匂いを辿っていくと、そこには確かに狼がいた。
彼は初めて出会ったあの日と同じように、平原の林檎の下に静かに座っていた。
あの日と1つ違うのは、香る血の匂いの原因が野うさぎのものでは無いということ。
紛れもなく、その血は彼のものだということ。
撃たれてそのまま放置されていた無惨な姿の彼に、私は安堵と喪失感を覚えた。
彼に食べられたおばあちゃんを取り出すために裂かれた腹は黒く赤く染まっていて、まるでそこだけ別の世界のよう。
彼の腹には、誰がやったのか、無数の石が詰め込まれていた。
まるで童話の狼になぞらえるように、彼の死を嘲笑うように。
誰がどうして、こんなに酷いことをしたの。
私は急な現実を受け止めきれていなかった。
あの日と同じようで、何もかもが違う現実を。
「……ねえ、怪我を、しているの?」
答えなんてひと目でわかる。
あの日とは違って、彼はもう私と目線を交わすことは無かった。
私が恋したあの瞳は、黄色くにごっていて。
輝くような銀色の毛並みも、赤く黒く染まっていた。
だけど私はまだ彼が好きだった。
死んでしまってもなお、愛おしいと思えるの。
彼を形作るその瞳はもちろん、脚も腕も、その細胞全てが。
だから、これから先も、大好きな彼とずっと一緒にいられると、そう思っていたのに。
信じて疑ったことなんて無かったのに。
どうして急にいなくなってしまうの。
これからは毎年、冬の開ける頃にはパンを焼いて、あなたの眠る森に持っていって、寝起きのあなたの眩しい瞳に、私の姿を一番に映すって。
そんな幸せを、私は何より楽しみにしていたのに。
私はあなたが誰よりも大好きで大切だから、あなたがいれば、他には何も要らなかったのに。
何度考えても、その気持ちは変わらない。
私は、やっぱり彼のことが大好きなんだ。
彼が死してなお、彼の存在を恋しく思うほどに。
私はまだ現実を受け入れられていない。
彼がこの世界からいなくなるなんて耐えられない。
この世で一番大切な、嫌われ者の彼。
私の好きな、大好きな人。
どこかで、どんな形でもいいから生きていて欲しい。
私は彼に、もう一度会いたい。
生きていて欲しい。
私は彼を亡くしたくない。
どんな手を使ってでも、それだけは嫌だ。
それなら、私が生かせばいい。
私が、彼のことを
───私の一部として、生かせばいいの
そうだ、どうして今まで気が付かなかったんだろう。
私も狼と同じように、彼を食べてしまえばいい。
体内に取り込んでしまえばいい。
彼は、前に言っていたじゃないか。
『今まで食べた動物たちは、俺の体の中で生きてる。
俺は、何百人の命と一緒に生きてるんだ。
だからべつに、1人でも寂しくない。』
それなら、私も、かれとおなじように。
ひとりぼっちで、さみしくならないように。
彼のことを支えた、彼と共に生きた何百の動物たちと、一緒に生きればいい。
彼のことを取り込んで、私も彼と共に生きればいい。
グチャッ
私は彼の死体に手を触れた。
石のつめこまれた彼の体はもう暖かくはなくて、まるで彼自身も石になったみたいだった。
虫がたかる前に、彼が誰かに取られる前に早く食べてしまわないと。
初めて会った時の彼みたいに。
彼が野うさぎを食べたみたいに。
私は赤く染った彼の腹に食らいついた。
…ごくん。
ああ、これでもう、大丈夫。
私は、私たちはずっといっしょ。
私の恋が叶うことはなくなってしまったけれど、私と彼の永遠は約束された。
誰かに、この1口目を取られなくてよかった。
彼が村の人達に運ばれて火葬される前に、彼の元に来れてよかった。
私の光は、私の中でだけ輝いていればいい。
だれも彼の輝きに気が付かなくていい。
彼の死に関与しなくていい。
その光を纏わなくていい。
私だけでいい、私だけがいい。
もしも他の誰かがそれを纏ってしまったら、彼という光に気がついてしまったら。
私はきっとおかしくなって、この村とみんなを焼き尽くして、そして私もその炎の中に飛び込んで死ぬだろう。
それほどまでに、ほかの全てをなんの躊躇いもなく犠牲にできるほどに、私は彼が好きだった。
恋は、私が思っていたよりも、綺麗なものじゃなかった。
私の恋は叶わないまま、スポットライトを当てられることの無いまま、光り輝く舞台の裏に捨てられた。
恋をしている間の楽しさの何倍も、恋が終わった悲しみの方が大きかった。
割が合わなさすぎる。
だけれど、恋をしているあいだは、その期間だけは、私の世界は確かに輝いていた。
自分で言うのもどうかとは思うけれど、私の人生の中で一番可愛らしい私が、あのときそこにいた。
恋をしていた私は、私が恋をしてしまいそうなくらいには可愛かった。
出来ることなら、鏡の中の私に会いたいと思うくらいに。
毎朝鏡の前でお気に入りのずきんを被って心を躍らせていた私は。
恋を叶えるために一所懸命に努力していた頃の私は。
何よりもとびきり可愛くて輝いていた。
あの頃の私は、彼と同じくらい眩しかったから。
あれ
彼と同じくらい?
まぶしいものが、この世にあるなら
私が唯一だとおもっていたものは
無二じゃなくて
眩しいひかりは
唯一なのは
もしかして
ああ、きっと私
私はあの頃の自分が本当に大好きだったのね。
きっと、この世の誰よりも、何よりも。
もう一度私に会いたい。
鏡の中で私に微笑む、とびきり輝く女の子に。
どうやったら、あの子は私に会いに来てくれるの。
───ああそうだ、可愛い私に会うためには、恋をすればいいんだった。
それならすぐに、次の恋を探さなくちゃ。
恋がまた叶わずに終わったとしても、たとえ好きな人がこの世界からいなくなっても。
恋をすれば、私は大好きなかわいい私に会える。
その恋の結末がどうなろうと、私が相手を食べさえすれば、その人と一生一緒に生きることができる。
考えれば考えるほど、いい事ばかりじゃない。
ああ、なんてこと、恋ってなんて素晴らしいの!
恋の楽しさって、きっとこういうことなのね!
───ねえ、私、何処かの誰かに恋をしていた、可愛い可愛い鏡の中の私。
今すぐに会いに行くから、もう少しだけそこで待っててね。
可哀想で、可愛くて、私ではない誰かに恋をしている私。
健気に鏡に微笑んで、その笑顔を私だけに向けてくれる私は、
なんて
ああ、なんてかわいいのかしら!
恋に恋した赤ずきんのお話
Fin.