ケモナーおっさん転生記(1)

  第1話:その「極振り」、現実につき

  深夜二時。安アパートの一室を照らしているのは、デスクの上に置かれたモニターの無機質な光だけだ。

  大山 岳(おおやま たける)、三十五歳。

  昼間は愛想笑いと謝罪に明け暮れ、週末の夜はこうして唯一の趣味であるゲームに没入する、どこにでもいるくたびれた中年男性だ。

  画面に映っているのは、早期アクセスのオープンワールドRPG『アフターエンディングストーリー』。

  このゲームは、ある意味で伝説的な作品だった。

  最新のゲームエンジンを使っているものの、個人制作ゆえに背景や建物はありふれたアセットが使われている。だが、こと「獣人」のグラフィックに関しては、大手AAAタイトルすら凌駕する異常な執念が注ぎ込まれていた。

  開発者の性癖なのだろう。毛並み一本一本の揺らぎから、肉球の湿り気までが狂気的なクオリティで再現されているのだ。

  だが、リソースを獣人のビジュアルに全振りした代償か、ゲームシステムは驚くほど大味だった。

  まず、『レベルアップ』という概念が存在しない。

  キャラクターの強さは、初期作成時のステータス割り振りと、後は地道な熟練度上げ、あるいは装備品で決まる。

  公式サイトにある「魔王討伐後の種族間対立」というストーリーも未実装で、実際はただ広大な世界を獣人として練り歩くだけのサンドボックスゲーム。

  それでも、獣人を愛好する岳にとって、このモフモフした住人たちが暮らす世界は、息苦しい現実から逃避できる唯一の楽園だった。

  (……さて、今回はどんなビルドで遊ぶかな)

  岳は心の中で呟きながら、コントローラーを手に取った。

  このゲームは既に何周もクリアしている。最強の剣士も、殲滅特化の魔導師もやり尽くした。正直なところ、ただ強いだけの普通のプレイにはもう飽きている。

  メニュー画面を開き、インベントリの貴重品枠にある『転生の宝珠』にカーソルを合わせた。

  それは、現在のデータをリセットする代わりに、蓄積した実績ポイントを引き継いで最初からやり直せるというレアアイテム。

  いわゆる『強くてニューゲーム』を行うためのキーアイテムだ。

  アイテムを使用すると、画面にはこれまでの狂気的なやり込みによって解除された、膨大な数の実績トロフィーが表示されていく。

  それらの報酬として与えられる大量の『ボーナスポイント』が、画面右上に輝いていた。

  (今回は『素手攻撃ビルド』にしてみよう。それなら種族は……『熊獣人』だな)

  岳は迷わずカーソルを合わせた。

  今回作りたいのは、圧倒的な質量と腕力に特化したキャラクターだ。全種族の中で『筋力』と『体格』の基礎値が最も高い熊獣人以外に選択肢はない。

  種族が決まれば、次はステータス配分だ。

  岳はありったけのボーナスポイントを投入した。

  (ポイントは当然、『筋力』と『体力』、そして『体格』に極振り。器用さや知性は最低値にして、その分をさらに振り直して…)

  通常プレイなら、ここでポイントが尽きる。だが、今の岳には実績解除で得た膨大なリソースがある。

  ここからが本番だ。

  彼は『特性』の選択タブを開いた。

  そこには、通常のポイントではとても取得できない、高コストかつ極端な性能を持つ『隠し特性』が並んでいる。

  ゲームバランスを崩壊させかねないほど効果は絶大だが、取得に必要なポイントは桁違いに多く、さらに強烈なデメリットも付随する。

  (まずは、基礎ステータスを底上げする特性をあらかた取って……)

  さらにカーソルを動かす。

  (そしてこれだ。『拳闘士(グラップラー)』)

  それは、『一切の武器を装備できなくなる』という重い制約と引き換えに、素手攻撃力に異常な倍率補正がかかるというロマン特性だ。

  武器や魔法を使ったほうが遥かに強いこのゲームにおいて、あえて素手を選ぶ者はいない。ポイントの無駄遣いと言われる地雷スキル。

  (さらに、回復魔法の効果をスタミナ消費でブーストする『献身(サクリファイス)』も取得。……よし、完成だ)

  画面上のパラメータが、いびつな形に伸びていく。

  筋力などの数値は生物の限界を超越しているが、その代償として、器用さや知性は幼児並みまで低下した。

  名前は、『ガク』。

  出来上がったのは、過去の周回実績という莫大な遺産をすべて筋肉と回復に注ぎ込んだ、理論上最強のネタビルド。

  そして、ゲームの難易度を選択する画面が表示された時――その異変は起きた。

  通常なら【イージー】【ノーマル】【ハード】の三つが並んでいるはずの場所に、見慣れない項目が追加されていたのだ。

  ――【難易度:REAL】

  (……なんだこれ。アプデで追加されたのか?)

  説明文はない。ただ、黒い帯に白文字で、その四文字だけが異質に浮かび上がっている。

  最近のゲームによくある、一度死んだらデータが消えるような高難易度モードだろうか。あるいは、空腹や疲労の概念がよりシビアになるサバイバルモードか。

  (……まあ、いいか。普通の攻略にも飽きたし、多少の縛りがあったほうが面白い)

  岳は軽い気持ちで、その選択肢にカーソルを合わせた。

  少しだけ、好奇心が勝った。日常の延長線上にある、ちょっとした刺激のつもりだった。

  決定ボタンを押す。システムメッセージが流れる。

  『難易度【REAL】を開始します。準備はよろしいですか?』

  (はいはい、YES、と……)

  クリック。

  乾いた音が、静かな部屋に響く。

  その瞬間、ディスプレイから溢れ出した光が、部屋を、机を、そして岳の身体を飲み込んでいく。

  強烈な目眩。平衡感覚が消失し、椅子から転げ落ちる感覚。

  いや、落ちた先は、安アパートのフローリングではなかった。

  ***

  「……ッ、ゲホッ! ア、ガ……っ」

  呼吸が苦しい。肺が、自分のものとは思えないほど巨大な空気を吸い込もうとして、激しく軋む。

  岳は必死に目を開けた。

  そこには、六畳一間の天井はなかった。

  天を突くほど巨大な樹木の天蓋。その隙間から、見たこともないほど毒々しく、美しい二つの太陽が彼を見下ろしていた。

  「…………ハ?」

  自分の声が、地響きのような重低音となって鼓膜を震わせる。

  地面を掴もうとした視界に、太い剛毛に覆われた、丸太のような「腕」が映り込んだ。

  開発者が執念で作り込んだという、あの「熊獣人」の毛並みそのもの。いや、それ以上の解像度(リアル)がそこにあった。

  (……体が、重い……)

  起き上がろうと地面に手をついた瞬間、「バリバリッ!」と凄まじい音が静寂を切り裂く。

  見れば、地面の岩盤がまるで発泡スチロールのように粉砕され、岳の手が深々とめり込んでいた。

  「……ア?」

  岳は呆然としながら、埋まった「それ」を引き抜いた。

  パラパラと土塊が落ちる。

  目の前にあるのは、丸太のように太く、剛毛に覆われた黒褐色の腕。

  指先には、黒曜石のナイフのような鋭利な鉤爪が備わっている。

  (なんだこれ。きぐるみ……いや、リアルすぎる)

  ごわごわとした毛の質感。分厚い肉球の感触。そして視界の高さ。

  脳裏に、ついさっきモニター越しに見ていた映像がフラッシュバックする。

  筋力極振りのステータス。圧倒的な巨躯。

  (まて。これ、さっき俺が作ったキャラか? あの『熊獣人』そのものなのか?)

  混乱する頭で状況を整理しようとする。思考そのものは、「大山岳」として冷静に機能している。だが、いざその思考を体の隅々に伝えようとすると、まるで重い泥の中を通しているような、奇妙な「動かしにくさ」があった。

  (とにかく、まずは立ち上がって……)

  その時、甲高い叫び声が森に響いた。

  「誰か! 誰か助けてー!」

  悲鳴だ。

  岳はビクリと肩を震わせ、その場に立ちすくんだ。

  (な、なんだ今の……子供か?)

  心臓が早鐘を打つ。

  関わるべきか? いや、そもそも今の自分に何ができる? ここは見知らぬ森で、状況すら飲み込めていないのだ。不用意に動けば自分が危険かもしれない。

  だが、その声はあまりにも切迫していて、無視するには耳に残りすぎた。

  (……と、とりあえず、見るだけ。確認だけ……)

  逃げるにしても、状況がわからないままでは動けない。岳は恐る恐る、声のした方へ体を向けようとした。

  しかし、その瞬間、岳はこの肉体の「不自由さ」を思い知らされた。

  右足を出そうとしただけなのに、意識と筋肉の連動が致命的に噛み合わない。支えを失った巨躯が、どうしようもない重量感とともに地面へ崩れ落ちる。

  ズシンッ!!

  腹の底に響くような鈍い音が周囲に広がり、近くの草木がビリビリと震えた。

  舞い上がった土埃が、視界を茶色く染める。

  (……痛っ、くはない。けど、なんだこの重さは)

  自分の体が、まるで鉛の塊になったようだ。起き上がろうとするだけで、全身の筋肉が軋むような感覚がある。

  岳は鼻先についた土を払い落とす余裕もなく、のっそりと重たい首を持ち上げた。

  先ほどまで聞こえていた「助けて」という声が、ピタリと止んでいる。

  (……声が、止まった?)

  一瞬の静寂。嫌な予感が、分厚い毛皮の下を走る。

  岳は霞む目を必死に凝らした。

  土煙が風に流され、徐々に視界が開けていく。

  その先――折れかけた若木の向こう側に、小さく震える影があった。

  息を呑んだ。

  そこには、茶色と白の毛並みを持つ、犬の耳と尻尾を生やした少年がいた。

  それだけではない。彼を組み伏せているのは、巨大な牙を持つ蔦のような植物状の魔物だ。

  (あれは、アイビースネーク……!?)

  ゲームの中で何度も見た、序盤の雑魚モンスター。

  だが、目の前にいるそれは、ポリゴンの作り物などではない。

  脈打つ蔦の繊維、滴り落ちる粘液、そして生物的な悪意。

  少年の短い足から流れているのも、紛れもない本物の「血」だった。

  (ゲームの世界……なのか? こんな、生々しい……!)

  思考が白く染まるほどの衝撃。

  だが、魔物が鎌首をもたげ、少年の喉元に牙を向けた瞬間、岳の迷いは吹き飛んだ。

  (――考えるのは後だ。今は!)

  その轟音に驚いた魔物が、獲物を変えてこちらへ飛びかかってくる。

  咄嗟に、迫りくる牙を払いのけようと腕を振り回した。技術も型もない、ただの「拒絶」の動作に過ぎなかった。

  ――ズガアアアアン!!

  丸太のような腕が、魔物に接触する。

  衝撃は表面を叩くだけでは終わらない。魔物の内部を一瞬で駆け巡り、細胞レベルで結合を破壊した。

  魔物は「弾け飛ぶ」ことすら許されなかった。一瞬で赤い霧と肉片へと変わり、その余波だけで背後の大木数本が「バキバキッ」とへし折れ、吹き飛んでいく。

  訪れる静寂。

  「ひっ……え……?」

  腰を抜かした犬獣人の少年が、震えながら岳を見上げていた。

  (……え?)

  岳は自分の拳を見つめ、それから視線を下ろした。

  そこには、怯えきった少年の姿がある。

  ウェルシュ・コーギーのような大きな耳と、ふさふさとした尻尾。愛らしいはずのその姿は、泥と血で汚れていた。

  目が釘付けになったのは、その足元だ。

  魔物に噛みつかれていた箇所はズボンが裂け、肉が深く抉れている。流れ出る血の赤さが、森の緑の中で酷く鮮明だった。

  痛みと恐怖で痙攣する少年の肢体。

  その痛々しさが、岳の胸を締め付けた。

  (うわ、酷い……。これは放っておけない)

  さっきまでの混乱が一瞬だけ遠のく。

  目の前に、痛みに苦しむ子供がいる。それだけで十分だった。

  (……怪我、治さなきゃ)

  そう思ったものの、岳の手が止まる。

  (でも、どうやって? コントローラーもなければ、スキル選択のウィンドウもない)

  (とりあえず、手をかざせばいいのか?)

  岳は恐る恐る、丸太のような指先を少年の足首へ向けた。

  祈るように、強く念じる。

  (頼む、治ってくれ――!)

  「――ナオレ!」

  その瞬間、岳の体を奇妙な感覚が襲った。

  心臓の奥から、熱い『何か』がごっそりと引き抜かれていくような、現実世界では一度も味わったことのない喪失感と高揚感。

  (うおっ、なんだこれ!?)

  制御などできるはずもなかった。

  指先という蛇口に対し、送り込まれた水圧があまりに強すぎたのだ。

  ゴォォォォ!!

  森の天蓋を突き破るような、神々しいまでの光の柱が立ち昇った。

  少年の傷は一瞬で塞がり、それどころか過剰な生命力供給によって、彼の毛並みは極上の輝きを放ち始めた。あまりの活力に、少年は「ワフッ!?」と驚いて飛び起きる。

  (……よし、なんとかなったか……?)

  安堵したのも束の間、岳を絶望的な虚脱感が襲った。

  胃袋が内側から自分を食い破るのではないかという、前世では一度も経験したことのない、生物としての危機的な飢餓感。

  (あ、だめだ……。意識が、保てない……)

  視界が急速に狭まっていく。

  自分の身に何が起きているのか。その代償に気づく間もなく、岳は身長270cmを超える巨躯を支えきれず、巨木が切り倒されたような音を立てて意識を失った。

  目の前で倒れた「謎の巨大グマ」を見て、少年が何かを叫んで駆け寄ってくるのが見えた。

  だが、その声はもう岳の耳には届かなかった。

  ***

  【補足資料:キャラクターデータ】

  名前:ガク

  種族:熊獣人

  ■ 基礎ステータス

  STR(筋力):26(18+8) …… 生物の限界を超越。指先一つで岩を砕く。

  CON(体力):18…… 常人なら即死する衝撃にも耐えうる生命力。

  SIZ(体格):24(22+2) …… 推定身長270cm超。

  POW(精神力):18…… 膨大な魔力を内包している。

  DEX(器用さ):04(6-2) …… 指先での細かい作業は絶望的。

  AGI(素早さ):04(6-2) …… 回避行動は不可。移動は常に徒歩(遅)。

  APP(外見):06…… 愛嬌よりも野生の獰猛さが勝る。

  INT(知性):04(6-2) …… 複雑な思考を放棄。

  EDU(教養):04(6-2) …… 文明的な知識や言語の運用が困難。

  CHA(カリスマ):04 (6-2) …… 交渉不能。ただそこにいるだけで怖い。

  ■ 固有特性

  【重戦車】STR+2, SIZ+2 / DEX-2, AGI-2

  【脳筋】STR+2 / INT-2

  【肉体言語】STR+2 / EDU-2

  【狂戦士】STR+2 / CHA-2

  【拳闘士】素手攻撃時、STR補正+100%。武器の装備不可。

  【献身】回復魔法の発動時、POW補正に加え、CON補正を上乗せして回復量を算出する。消費MPと同量の『スタミナ』を即座に消費する。

  [newpage]

  第2話:重すぎる英雄

  巨大な質量が倒れた衝撃で、舞い上がった土埃がまだ漂っている。

  森は再び、不気味なほどの静寂に包まれていた。

  「あの……熊さん? 起きてください」

  ウィルは恐る恐る、目の前に横たわる巨体に声をかけた。

  返事はない。

  先ほどまで圧倒的な暴力で魔物を粉砕し、そして神々しい光で僕の足を治してくれた「彼」は、今はただの巨大な毛皮の塊となって沈黙している。

  (……息はしてる。でも、ピクリとも動かない)

  さっきの光景を思い出す。

  彼は魔物を一撃で倒した後、すぐに僕の治療をしてくれた。

  そして魔法を使った直後、まるで糸が切れたように倒れてしまったのだ。

  「……すごいや。傷跡一つ残ってない」

  ウィルは自分の足首をさすった。

  噛み砕かれていたはずの肉は元通りになり、痛みどころか、以前より力がみなぎるような感覚さえある。

  彼は命の恩人だ。

  それなのに、僕を助けるために力を使い果たしてしまったのかもしれない。

  「ここで寝ていたら危ないです。まだ他の魔物が来るかもしれない」

  ウィルは彼の肩――丸太のように太い腕の付け根あたり――を両手で押し、揺さぶろうとした。

  「んぐぐ……っ!」

  ビクともしない。

  分厚い毛皮と弾力のある肉の下に、巨大な岩盤が埋まっているような手応えだ。

  ウィルの腕力では、肉に指が沈むだけで、彼の体の向きを変えることすらできなかった。

  (どうしよう。僕一人じゃ、絶対に運べない)

  ウィルは森の奥と、村のある方角を交互に見つめた。

  このまま彼をここに置いていくのは心配だ。無防備な状態で、またアイビースネークのような魔物が現れたら、今度は彼が危ないかもしれない。

  でも、ここに二人でいても、僕には彼を守る力がない。

  (……急ごう。大人たちを呼んでくるしかない)

  ウィルは決意を固め、踵を返した。

  種族特有の短い足だが、その脚力とスタミナには自信がある。

  ウィルは恩人が目覚めることを祈りつつ、森の小道を全速力で駆け抜けた。

  ***

  「ハァ……ハァ……! ガントさん! ガントさん!」

  村の入り口に滑り込むと、槍を持って立っていた顔馴染みの門番、ガントが驚いた顔で駆け寄ってきた。

  引き締まった黒い体に、茶色の模様が入った鋭い顔つきの犬獣人だ。彼はその鋭敏な聴覚で、ウィルの荒い足音にいち早く気づいていたらしい。

  「ウィル!? どうした、そんなに慌てて! 森で何かあったのか!?」

  「魔物が……アイビースネークが出たんです! でも、助けてくれた人が……!」

  ウィルは乱れた呼吸を整えながら、努めて冷静に状況を説明した。

  森でアイビースネークに襲われかけたこと。

  もう駄目だと思った瞬間、見知らぬ熊の獣人が現れたこと。

  彼が魔物を一撃で倒し、すごい魔法で僕の怪我を治してくれたこと。

  そして、魔法を使った直後に気を失ってしまったこと。

  「熊の獣人……だと?」

  ガントはピンと立った耳を動かし、眉をひそめた。

  この辺りは犬獣人の集落だ。熊獣人は珍しい。それに、森の魔物を一撃で倒すほどの腕利きとなれば、どこかの傭兵か冒険者だろうか。

  ウィルの足には血の跡こそあれど、傷一つない。それが何よりの証拠だった。これだけの血が出る事態がありながら無傷だということは、強力な治癒の力が行使されたとしか考えられない。

  「……わかった。お前が嘘をつくような子じゃないことは知ってる」

  ガントはすぐに、近くにいた数人の男たちに声をかけた。

  みんなウィルもよく知っている、村でも一、二を争う力自慢のおじさんたちである。

  「みんな、すまんが手を貸してくれ! 念のため武器もだ。それと、一番大きな荷車を用意してくれ。怪我人を運ぶ……いや、ウィルの話を聞く限りじゃ『とんでもない大男』らしい」

  大人たちは大急ぎで準備を整え、ウィルの案内で森へと向かった。

  ***

  現場に到着した大人たちは、まずその惨状に息を呑んだ。

  へし折られた大木。粉砕された岩盤。そして、あたりに散らばる植物片と肉片。

  「おいおい……こりゃあ、アイビースネークなんてレベルか? 何かの爆発跡じゃないのか?」

  「見てくれ、あっち」

  一人の男が指差した先に、その「巨大な山」はあった。

  うつ伏せに倒れている熊獣人。

  遠目に見ても規格外の大きさだが、近づくとその異常さが際立つ。分厚い脂肪と筋肉に覆われた背中は、それだけで一種の城壁のようだった。

  「ひえぇ……。こいつが、ウィルを助けたのか?」

  「……ああ。寝息をかいてる。どうやら本当に気絶してるだけみたいだが」

  集まった中で一番大柄な男が、ゴクリと喉を鳴らして近づいた。

  見慣れないよそ者への警戒心はある。だが、ウィルの恩人をこのまま森に放置するわけにもいかない。

  男は意を決して、その太い腕を掴んで持ち上げようとした。

  「……っ、ぬおおおお!? お、重ぇッ!!」

  「どうした? お前なら一人で担げるだろ」

  「馬鹿言え! 肉が詰まりすぎだ! 掴むと指が沈むのに、芯が鉄みたいに硬くて持ち上がらねぇ!」

  結局、大人四人がかりでようやく持ち上がった。

  まるで巨大な銅像を運搬しているかのような光景だ。

  慎重に荷車へと乗せる。

  ――メキメキメキッ……バキィッ!

  「うわっ!?」

  「おい、車輪が悲鳴上げてるぞ! 補強しろ!」

  頑丈さが売りの荷車が、彼の重みでたわんでいる。

  大人たちは慌てて予備の板を敷き、なんとか体勢を安定させた。それでも、彼の手足は荷車からはみ出し、だらりと地面に向かって垂れ下がっている。

  「……よし、行くぞ。揺らすなよ」

  帰りの道中は、行きよりも遥かに困難だった。

  男たちが顔を真っ赤にして荷車を引く。ウィルは荷車の横につき、はみ出した熊さんの手が車輪に巻き込まれないよう、一生懸命支えて歩いた。

  その手のひらは、ウィルの頭よりも大きかった。

  分厚くて、硬い。でも、この手が魔物を砕き、僕を救ってくれたのだ。

  (重い……。本当に、すごい体だ)

  ウィルは改めて、彼への畏敬の念を抱いた。

  この圧倒的な力で魔物を追い払い、そして僕を助けるために、自分の体力が切れるまで魔力を注いでくれたのだ。

  きっと、見た目は怖いけれど、とても優しい人に違いない。

  村に到着する頃には、日は傾きかけていた。

  荷車から降ろすのも一苦労で、結局、空いていた資材用の倉庫に藁を敷き詰め、そこに彼を寝かせることになった。

  村人たちが遠巻きに「なんだあのデカさは」「魔物みたいなサイズだな」と囁き合っている。

  ウィルは彼の枕元に座り、心配そうにその寝顔を見つめた。

  「……熊さん。ありがとうございました」

  小さな声でお礼を言う。

  その時、巨大な熊の鼻がピクリと動いた気がした。

  腹の虫のような、雷のような低い音が、倉庫の中に響き渡った。

  [newpage]

  第3話:腹ペコ魔獣の食卓

  意識の底からガクを引き戻したのは、暴力的なまでに食欲をそそる「匂い」だった。

  香ばしい肉の脂が焼ける匂い。そして、穀物が焦げる甘い香り。

  それが鼻腔をくすぐった瞬間、ガクの胃袋が再び雷鳴のような音を立てた。

  ――グゥゥゥゥゥゥ!!

  「……ッ、ハッ!?」

  ガクは跳ね起きるように目を見開いた。

  いや、気持ちだけは跳ね起きたのだが、実際には鉛のように重い体がズズズと数センチ動いただけだ。

  視界に映ったのは、知らない木造の天井だった。

  「あ、目が覚めた?」

  身体を起こして声の方に視線を向けると、そこには大きな耳と短い尻尾を生やした犬獣人の少年の後ろ姿があった。

  ピンと立った大きな耳に、茶色と白のふかふかした毛並み。

  短い手足でちょこんと立っているその姿は、前世で癒やし動画として見ていたウェルシュ・コーギーそのものだ。

  嬉しそうに揺れる短い尻尾が、プリプリと動いている。

  (……かわいいな)

  限界の空腹状態だというのに、ガクの思考の片隅がその愛らしさに反応した。獣人好きのサガである。

  少年は、ガクの方に振り返り。

  「僕はウィル。さっきは森で助けてくれてありがとうございました。……熊さんがいなかったら、僕は死んでいたでしょう。」

  ウィルと名乗った少年は、ペコリと礼儀正しく頭を下げた。

  子供の高い声にしては妙に落ち着いた、大人びた口調だ。

  ガクが何か返そうと口を開きかけた時、再び腹の虫が盛大に鳴いた。

  ――グゥゥゥゥゥゥン!!

  ウィルは一瞬きょとんとして、それから「ふふっ」と小さく笑った。

  「……お礼や自己紹介は後回しですね。それより熊さん、まずはそのお腹をなんとかしないと」

  ウィルが背後に置いてあった大皿を、一生懸命に持ち上げて差し出してきた。

  皿の上には、こんがりと焼けた骨付き肉と、平たいパンのようなものが山盛りにされている。

  「さっきもお腹からすごい音が鳴ってたから、村のみんなに頼んで分けてもらったんです。熊さんの体格じゃ足りないと思うけど、とりあえずの繋ぎにはなるかな」

  ガクの喉がゴクリと鳴った。

  三十五年の人生で、これほど食い物を渇望したことがあっただろうか。

  今のガクは、ガス欠寸前のダンプカーだ。理屈も遠慮も吹き飛んでいた。

  (も、貰っていいのか……?)

  ガクは震える手で――丸太のような腕をのっそりと動かし――皿の上の肉を掴んだ。

  巨大な手のひらに収まると、大ぶりの骨付き肉がまるで焼き鳥のサイズに見える。

  そのまま、一息に齧り付いた。

  ――美味い!!

  濃いめの塩味と、溢れ出す肉汁。

  付け合わせのクレープみたいな食べ物も、もちもちとした食感で、噛むほどに穀物の甘みが広がる。

  枯渇していた五臓六腑に、生命力が染み渡っていくようだ。

  ガクは無心で咀嚼し、飲み込んだ。

  「……ウマイ」

  ガクが一言漏らすと、ウィルが嬉しそうに尻尾を振った。

  だが、皿はすでに空だ。

  ウィルが持ってきてくれたその量は、常人なら三人前はあっただろう。しかし、身長270cmを超える巨躯と、枯渇したカロリーを埋めるには、スプーン一杯の試食にも満たなかった。

  足りない。

  もっとだ。もっと燃料を入れないと、思考すらまともに回らない。

  ガクは皿を舐めるように見つめ、それからウィルと背後にいる大人たち――槍を持って遠巻きに警戒しているガントたち――に視線を向けた。

  もっと食べたい。おかわりをくれないか。

  そう丁寧に頼むつもりだった。

  (えっと……『すまない、全然足りないんだ。もっと肉を食わせてくれ』)

  「……タリナイ」

  ドスの効いた重低音が、倉庫の空気をビリビリと震わせる。

  ガントたちが「ヒッ」と肩を跳ねさせた。

  「……ニク。……モット、クワセロ」

  ガクとしては切実なお願いだった。

  だが、その場の空気は凍りついた。

  巨大な熊の化け物が、山盛りの肉を一瞬で飲み込み、さらに低い声で「肉を食わせろ」と要求する。それは、この場の誰かを捕食するという宣告にも聞こえかねない。

  「き、貴様……! まさかウィルを助けたのは、後で食うため……!」

  門番のガントが青ざめた顔で槍を構える。

  だが、その殺伐とした空気を、ウィルの冷静な声が遮った。

  「落ち着いてよ、ガントさん」

  ウィルは恐怖する様子もなく、やれやれと肩をすくめた。

  そして呆れたようにガントたちを振り返る。

  「もっと持ってきてくれませんか? 見ての通りこの体格です。今の量じゃ、足りなかったみたいです」

  「お、おいウィル! 離れろ、そいつは危険だぞ!」

  「大丈夫ですよ。ご飯を食べてる時の顔、すごく幸せそうだったじゃないですか。悪い人には見えません」

  ウィルのあまりに理路整然とした口調に、ガントたちは毒気を抜かれたように顔を見合わせた。

  しばらくして、彼らは渋々といった様子で武器を下ろした。

  「……わかった。とりあえず、ありったけの食料を持ってこさせよう。このまま腹を空かせて暴れられても困るしな」

  ***

  そこからは、村人たちが目を疑うような光景が繰り広げられた。

  次々と運び込まれる料理。

  肉の塔が、数秒で消える。

  骨付き肉の塊が、骨だけになって積み上がる。

  ガクの胃袋は、まるで底の抜けたバケツだった。

  「お、おい……まだ食うのか?」

  「村の備蓄庫から、予備の干し肉も持ってこい!」

  「こいつ、一人でこの村の備蓄をを食い尽くす気か……!?」

  村人たちが呆れ、やがて戦慄し始めた。

  だがガクの手は止まらない。食えば食うほど、鉛のようだった体に力が戻ってくる。

  最終的に、荷車一台分ほどの食料を平らげたところで、ようやくガクは大きく息を吐いた。

  「……フゥ」

  満腹だ。

  この巨大な肉体を維持するためのエネルギーが、ようやく充填された感覚がある。

  ガクは満足げに腹をさすり、それからウィルと、食事を運んでくれた村人たちに向き直った。

  まずは感謝を伝えなければ。

  (本当に助かった。ありがとう)

  ガクは精一杯の感謝と、親愛の情を込めて――ニカッと笑った。

  瞬間。

  ガントが悲鳴のような声を上げて腰を抜かした。

  「ひぃっ!? わ、笑った……! 食後の『デザート』を楽しむつもりか!?」

  他の村人たちも一斉に青ざめ、出口へ逃げようと殺到する。

  ガクの笑顔。

  それは【APP:06】の補正と、熊獣人特有の分厚い顔面筋肉によって、「獰猛な肉食獣が、鋭利な牙を剥き出しにして獲物を威嚇する表情」として出力されていたのだ。

  (えっ? なんで逃げるの?)

  困惑するガクの横で、ウィルだけがクスクスと笑っていた。

  「あはは。ダメだよみんな、早とちりしすぎ。熊さんは『ごちそうさま、ありがとう』って言ってるだけでしょ?」

  「う、嘘をつけ! どう見ても今から殺戮を楽しむ顔だったぞ!?」

  「違うってば。よく見てよ、目が笑ってるから。……ねっ、熊さん?」

  ウィルに同意を求められ、ガクはコクコクと首を縦に振った。

  その巨大な頭が動くたびに風が巻き起こる。

  村人たちは、この規格外の客人をどう扱うべきか悩みながら、それでも「とりあえず、今は襲ってこないらしい」ということだけは理解したようだった。

  場が少し落ち着いたところで、ガクは冷静さを取り戻していた。

  腹は満たされ、思考がクリアになっていく。

  そこでふと、先ほどの自分の言動に違和感を覚えた。

  (……待てよ。俺、さっきからまともに喋れてないな)

  『足りないので、もっとください』という言葉は、野性味溢れる『……モット、クワセロ』に変換されてしまった。

  頭の中では流暢な日本語……いや、この世界の言語が浮かんでいるのに、それを舌に乗せようとすると、まるで分厚いフィルターを通したように、修飾語や敬語がこそぎ落とされてしまうのだ。

  (なんでだ……? 口の構造の問題か? いや、違う)

  ガクは自分の体を見下ろし、そしてキャラ作成時の記憶を手繰り寄せた。

  縛りプレイのために極端に偏らせたステータス配分。

  ――【INT(知性):04】、【EDU(教養):04】。

  (……ああ、そうか。それだ)

  ゲーム画面では、単に「攻撃魔法の威力が低い」程度のデメリットだった。

  だが、現実となってしまったこの世界において、知性と教養の欠如はもっと直接的な欠陥として現れる。

  脳内の思考を、この野性的な肉体が受け付けないのだ。

  丁寧な前置きや謙遜といった繊細な概念は、喉を通る過程で勝手に削ぎ落とされてしまうらしい。

  (参ったな……。これじゃあ、込み入った事情説明なんて不可能じゃないか)

  ガクは頭を抱えたくなった。

  だが、悩みはそれだけではなかった。

  ふと視線を横に向けると、そこには空になった皿や樽が山のように積まれている。

  村の備蓄を、一人で食い尽くさんばかりの量だ。

  (……これ、タダじゃないよな?)

  青ざめる。

  今のガクの所持金はゼロ。初期装備の腰布以外、何も持っていない。

  これだけの食事代を請求されても、支払うことはできない。

  (まずい。金を払えないことを伝えて、何か代わりの労働をさせてくれと頼まないと)

  ガクは焦りながら、ガントに向かって口を開いた。

  『お金がありません。その代わり、力仕事ならなんでもします』。

  そう伝えようとして――

  「……カネ。……ナイ」

  ガントが目を剥いた。

  まるで「食い逃げ宣言か!?」と言わんばかりの表情だ。

  ガクは慌てて、自分の太い腕をポンと叩いて付け加えた。

  「……ハタラク。……カラダ、ツカウ」

  その言葉に、ガントと村人たちが再び顔を見合わせる。

  彼らの目には、恐怖ではなく、別の種類の感情――「この巨体で働いてくれるなら、あるいは……?」という計算高い光が宿り始めていた。

  [newpage]

  第4話:借金返済と暴走機関車

  翌朝。

  ガクはガントとウィルに連れられ、村の中心部にある屋敷を訪れていた。

  村長の家だ。

  「よく来てくれたのう。わしがこの村の長じゃ」

  執務机の向こうでそう言ったのは、小柄な老犬だった。

  長い眉毛と立派な口髭を蓄えたその姿は、前世の記憶にあるミニチュア・シュナウザーによく似ている。

  知性と、年輪を重ねた穏やかさを感じさせるおじいちゃんだ。

  (まずは自己紹介だな。礼儀正しく……)

  ガクは緊張しながら、挨拶を試みた。

  『初めまして。俺の名前はガクと言います』。

  そう言おうとして――

  「……ガク」

  やはり、名詞しか出てこない。

  だが、村長は気にした様子もなく、長い眉毛を揺らして頷いた。

  「ふむ、ガク殿か。強そうな良い響きじゃのう」

  「……」

  ガクが頭を下げると、その横に立っていた大柄な女性が一歩前に出た。

  「あたしはマーサ。この村で孤児院の院長をやってる」

  白と茶色のブチ模様が入った、セント・バーナードのような獣人だ。

  垂れた大きな耳と、女性にしては大柄な体格。エプロン姿で腕組みをしてガクを見上げるその姿は、隣の小柄な村長とは対照的に、どっしりとした岩のような安定感がある。

  優しげな顔立ちだが、怒らせたら村の誰よりも怖そうな「肝っ玉母ちゃん」のオーラを放っていた。

  「ウィルの保護者として、あたしからも礼を言うよ。ありがとね、ガクさん」

  「……」

  ガクが恐縮して頷くと、再びシュナウザー村長が口を開いた。

  「うむ。ウィルを……村の大事な子供を救ってくれたこと、心から感謝するぞい」

  村長は深々と頭を下げた。

  その言葉に嘘はないようだった。

  村長はゆっくりと顔を上げると、長い眉毛を揺らして「ホッホッホ」と笑った。

  「――しかし、アレじゃのう。若いもんはよう食べるのう。魔法のように食料が消えたと報告があってびっくりしたわい」

  「……」

  ガクは冷や汗を流して直立不動になった。

  怒鳴られるわけではない。だが、村長は遠くを見るような目で、まるで孫の成長を喜ぶような、それでいて困り果てたような口調で続ける。

  「いやあ、見事なもんじゃ。昨日の夜まで満杯だった備蓄庫がね、今朝見たらスッカラカンでのう。虫一匹入る隙間もないくらいギチギチだったのが、風通しが良くなって……掃除の手間が省けたわい」

  「……」

  悪意はない。本当に感心している口ぶりだ。

  だが、その「惚けたような事実の提示」が、ガクの良心をチクリと刺す。

  「さてさて、困ったのう。備蓄がなくなってしもうた。このままだと、冬には村のみんなが霞でも食って生きねばならなくなる。わしもこれ以上痩せたら、干からびて風に飛ばされてしまうわい……。どうしたものかのぅ?」

  村長は困ったように首を傾げ、チラリとガクを見た。

  その瞳は優しかったが、「まさか、このまま知らんぷりはしないじゃろう?」という無言の圧力が漂っていた。

  「……カエス。……ハタラク」

  ガクが即座に答えると、横にいたマーサが「物分かりが良くて助かるよ」と笑った。

  「で、どうするんだい? うちの孤児院の修繕を手伝ってもらうつもりだったけど、食料を現物で返すアテはあるのかい?」

  ガクは少し考え、昨日の肉の味を思い出した。

  あれだけの量を消費する体だ。ちまちま働いて賃金をもらうより、自分で獲物を狩ってきた方が早いし、村としても助かるはずだ。

  「……カリ。……ニク、トル」

  ガクがそう提案すると、ガントが顎に手を当てて考え込んだ。

  「狩りか……。確かに、今の時期なら獲物はいるが……そこらの小粒な獲物じゃ、お前のその巨体を維持するだけで精一杯だぞ?」

  「村長、アレはどうですか? 最近、東の草原にいるあの……」

  村人の言葉に、村長が髭を撫でた。

  「ふむ。『グラスホーン』かの。確かにあれなら一頭で村全員が数日は食えるが……」

  グラスホーン。

  その名を聞いて、ガントが渋い顔で説明する。

  「グラスホーンは、巨大な角と盾のような頭を持つ草食獣だ。見た目は大人しいが、縄張りに踏み込むと狂ったように突進してくる。皮膚が岩みたいに硬くて、俺たちの槍も通らないんだよ」

  「討伐隊を組むにしても、準備に三日はかかるのう。十数人で囲んで、落とし穴に誘導して……いや、村人だけで対処するのは危険すぎるのう……」

  村長が難色を示す。

  だが、ガクの頭の中では、別の情報が検索されていた。

  (グラスホーン……。トリケラトプスみたいな見た目のモンスターか)

  ゲームにおける、いわゆるザコ敵だ。

  特徴は「高い防御力」と「直線的な突進攻撃」。

  確かに硬い。だが、攻撃パターンは単調だ。プレイヤーを見つけると一直線に突っ込んでくるだけ。

  つまり――

  (向こうから来てくれるなら、素早さ(DEX)が低い俺でも攻撃を当てられる)

  今のガクは【DEX:04】。動く標的を追いかけて捕まえるのは苦手だ。

  だが、向かってくる相手にカウンターを合わせるだけなら、造作もない。しかも今の筋力(STR)なら、硬い皮膚ごとかち割れる。

  「……オレ、イク」

  ガクが短く告げると、その場の全員が目を剥いた。

  「はあ!? 正気か!? 討伐隊もなしで、お前一人で行くつもりか!?」

  「……ヒトリ。……モンダイ、ナイ」

  ガクは力こぶを作って見せた。

  村長とマーサは顔を見合わせ、やがて村長が「やれやれ」といった様子で髭を揺らした。

  「若い者は威勢がいいのう。……わかった。そこまで言うなら任せてみよう。ただし、怪我をしてマーサの仕事を増やさんようにな」

  ***

  三十分後。

  ガクは村の入り口で、巨大な荷車のハンドルを握っていた。

  獲物がデカイと言うなら、運搬車が必要だろう。

  「……イクゾ」

  気合を入れ、荷車を引こうとした時だ。

  「待ってー! 僕も行く!」

  ドタドタと走ってきたウィルが、慣れた様子で荷車の荷台に飛び乗った。

  「ウィル!? お前、何しに来たんだ!」

  「案内だよ! 熊さん、草原の場所わからないでしょ?」

  ウィルは荷台の縁に座り、ニコニコと尻尾を振っている。

  だが、ガクは首を横に振った。

  「……ダメ。……アブナイ」

  狩りの現場に子供を連れて行くわけにはいかない。それに、もし戦闘になれば、ウィルを守りながら戦う余裕があるかわからない。

  ガクは荷台から降りるように手で促した。

  しかし、ウィルはむぅっと頬を膨らませた。

  「大丈夫だよ! 僕、逃げ足と隠れるのには自信あるし。それにね……」

  「……?」

  「熊さん一人で行ったら、他の冒険者や村の人に『魔物が出た!』って間違われて、攻撃されちゃうかもしれないでしょ?」

  ズキン。

  ガクの胸に、見えない矢が突き刺さった。

  (……そ、そうか。俺、魔物に見えるのか……)

  自覚はあった。あったが、純粋な子供の口から言われるとダメージがでかい。

  確かに、言葉も通じない巨獣がのっしのっしと歩いていたら、討伐対象にされても文句は言えないかもしれない。

  「だから僕が一緒に行って、『この熊さんは、魔物じゃないですよ!』って言わないと!」

  「……」

  反論できなかった。

  ぐうの音も出ない正論であり、同時に、ガクの心は少し泣いていた。

  「……ワカッタ。……シッカリ、ツカマレ」

  「うん! 出発進行!」

  ガクは太い腕に力を込め、巨大な荷車を軽々と引き始めた。

  車輪がゴロゴロと重い音を立てる。

  村人たちが「本当に二人だけで大丈夫なのか?」「いや、あの熊ならあるいは……」と囁く中、傷ついた心を抱えた巨獣と元気な少年の凸凹コンビは、東の草原へと向かった。

  ***

  村から東へ数キロ。

  背の高い草が生い茂る平原に、その影はあった。

  「あそこ! 熊さん、いたよ!」

  ウィルが指差す先、草むらの中に、岩のような灰色の背中が見える。

  グラスホーンだ。

  三本の鋭利な角と、襟巻きのような硬い頭骨を持つ、サイとトリケラトプスを足して割ったような巨獣。

  サイズは軽自動車ほどもある。

  荷車とウィルを離れた場所に置いて、ガクは一人近づくと、一頭がゆっくりと振り返った。

  さらに、その奥の草むらからもう一頭、ぬっと顔を出す。どうやらつがいのようだ。

  「に、二頭もいる……!」

  ウィルは荷車の陰に隠れて身を縮める。

  ガクは荷車を置き、のっそりと前に出た。

  (二頭か。……好都合だ)

  ガクの腹が小さく鳴った。

  一頭では借金返済で消えてしまう。自分の腹を満たす分も必要だと思っていたところだ。

  グラスホーンたちが一斉に頭を下げ、角を槍のように構える。

  そして――

  ドゴォォォォォッ!

  爆発的な加速。

  数トンの質量を持つ二つの砲弾が、左右から挟み込むように突っ込んでくる。

  地面が揺れるほどの迫力だ。普通の冒険者なら、絶望するしかない状況だろう。

  (……来るな。真正面から)

  ガクは逃げなかった。

  足を広げ、腰を落とし、両手を大きく広げて待ち構える。

  突進が直撃する直前、ウィルが悲鳴を上げた。

  だが、次の瞬間。

  ――ズドォォォォンッ!!

  凄まじい激突音と共に、突進が止まった。

  一頭目の角の根元を左手で。

  二頭目の角の根元を右手で。

  ガクは二頭同時の突進を、その太い腕だけで「受け止めて」いた。足の裏が地面を削り、土埃が舞い上がるが、ガクの巨体は揺るがない。

  「……フンッ!」

  ガクは鼻から息を吐き、腕の筋肉を極限まで隆起させた。

  この世界における生物の限界を超えた筋力が炸裂する。

  「……ヌオオオオオッ!!」

  咆哮と共に、ガクは両手のグラスホーンを強引に持ち上げた。

  そして――

  ドガァッ!!

  二頭の頭同士を、フルスイングで激突させた。

  硬い頭骨同士がぶつかり合い、脳震盪どころか、脳みそをシェイクにされた二頭の巨獣が、白目を剥いてその場に崩れ落ちる。

  一撃必殺。

  単純にして、絶対的な暴力の勝利だった。

  「す、すごい……! 二頭いっぺんに倒しちゃった……」

  ウィルが腰を抜かしている横で、ガクは満足げに獲物を見下ろした。

  (よし。これなら足りる)

  ***

  村では、ガントやマーサ、そしてシュナウザー村長が、村の入り口で不安そうに待っていた。

  出発してから、まだ半日も経っていない。

  もし失敗して怪我をして戻ってくるようなら、すぐに治療しなければならないからだ。

  「おい、戻ってきたぞ!」

  見張りの叫び声に、全員が視線を向ける。

  道の向こうから、ガクが歩いてくるのが見えた。

  だが、その姿を見た瞬間、村人たちの目が点になった。

  「な……なんだあれは!?」

  ガクが引いている荷車には、荷台からはみ出すほどの巨大なグラスホーンが積まれている。

  それだけではない。

  ガクの右肩には、もう一頭の巨大なグラスホーンが、まるで丸太か何かのように担がれていたのだ。

  ズシン、ズシン。

  地響きのような足音と共に、ガクが戻ってくる。

  合計数トンはあろうかという荷物を、彼は涼しい顔で運んでいた。

  ガクは村人たちの前まで来ると、まず荷車のハンドルを下ろした。

  そして荷台の獲物を親指で指差す。

  「……カエシタ」

  次に、肩に担いでいたもう一頭を、ドスンと地面に下ろした。

  凄まじい重量感に、地面が揺れる。

  ガクはその獲物の上にポンと手を置き、自分の胸を叩いた。

  「……コレ。……オレ、ノ」

  つまり、一頭は借金の返済。もう一頭は自分の飯だ、という主張だ。

  一瞬の静寂の後、村中が爆発的な歓声に包まれた。

  「す、すげぇぇぇぇ! 二頭だぞ!?」

  「しかも無傷だ! 一番いい状態で肉が取れる!」

  「こいつ、一人で軍隊並みの戦果を上げやがった……!」

  マーサが目を丸くした後、腹を抱えて笑い出した。

  「あはは! こりゃたまげたねぇ! 一頭でも御の字だと思ってたのに、まさかお代わりまで持ってくるなんて!」

  「ふぉっふぉっふぉ。こりゃあ、わしの計算違いじゃったわい」

  シュナウザー村長も嬉しそうに髭を揺らす。

  ウィルが誇らしげにガクの足元に抱きついた。

  「熊さんすごかったんだから!」

  村人たちの視線が変わっていた。

  そこにあるのは、もはや恐怖や警戒ではない。

  驚嘆と、尊敬。そして「とんでもなく頼もしい仲間ができた」という歓迎の光だった。

  ガクは安堵の息を吐き、自分の取り分である獲物を見つめた。

  今夜は、腹一杯の焼肉にありつけそうだ。

  [newpage]

  第5話:破壊神ガクの観察録

  この『木漏れ日の家』に、巨大な熊の獣人――ガクさんが来てから、一ヶ月が経った。

  僕はウィル。ここでは最年長で、もうすぐ成人として扱われる年齢だ。だから、マーサ院長の手伝いや、年下の子供たちの面倒を見るのが僕の役割になっている。

  ガクさんは、今や村のちょっとした有名人だ。

  あんなに大きくて強そうなのに、性格は穏やかで、いつもニコニコしている。……もっとも、僕以外の村の人たちには、恐ろしい魔物が牙を剥いて笑っているようにしか見えないらしいけれど。

  ……でも、困ったことが一つだけある。

  ガクさんは、僕らの常識が通用しない「破壊神」だということだ。

  ある晴れた日のことだ。僕とマーサ院長で、孤児院全員分のシーツを洗濯していた時のこと。

  「ガク、手伝っておくれ。脱水係を頼むよ」

  「……オウ」

  マーサ院長に頼まれ、ガクさんは快く濡れたシーツを手に取った。

  「いいかい? 水が垂れないように、しっかり絞るんだよ」

  院長の言葉に、ガクさんはコクンと頷き、丸太のような腕でシーツを雑巾のように束ねた。そして、キュッ、とひねった。

  ――ブチブチブチブチィッ!!

  耳を疑うような音が響いた。水が絞れる音じゃない。何かが悲鳴を上げて引きちぎれる音だ。

  ガクさんがパッと手を開くと、そこには繊維レベルでズタズタになり、二つに分断されたシーツの成れの果てがあった。

  「……ア」

  ガクさんが「やってしまった」という顔で固まる。

  「あんたは破壊神かい!! しっかり絞れとは言ったけど、原子レベルで分解しろとは言ってないよ!」

  マーサ院長の雷が落ちた。ガクさんはしょんぼりと肩を落としていたけど、丈夫な麻の布を紙屑みたいにちぎってしまうなんて、僕は唖然とするしかなかった。

  ガクさんの活躍は、孤児院の中だけにとどまらない。最近じゃ、村の人たちも困ったことがあると「ガクを呼んでくれ」と頼ってくるようになった。

  先週も、農家さんが畑の真ん中にある巨岩が邪魔で困っていたときのことだ。

  村の男たちが十人がかりでテコを使ってもびくともしなかったその岩を、ガクさんは「……ジャマ」と一言つぶやいて、軽々と抱え上げた。そのまま、ゴミでも捨てるような仕草で「よっこいしょ」と遠くの森の方まで放り投げてしまったんだ。

  空飛ぶ巨岩を見送りながら、農家さんは「ガクさんさえいれば農地が無限に広がる」なんて呆然と呟いていた。正直、あの岩が落ちた場所の地形が変わってないか、僕はちょっと心配している。

  そして、孤児院にとって一番の事件は先週の「たかいたかい」だった。

  ガクさんは、よく年下の子供たちの相手をしてくれる。

  その日は、小さな男の子を「たかいたかい」してあげていたんだけど、ガクさんのパワーは加減を知らない。

  「……ホイ」

  ガクさんが軽く持ち上げた……つもりの男の子は、そのまま雲まで届きそうな勢いで空高く放り出された。

  「うわあぁぁぁぁ!?」

  真っ逆さまに落ちてくる男の子を、ガクさんは慌ててキャッチした。けれど、その腕に伝わった衝撃が凄まじかったのか、それともガクさんの握力が強すぎたのか、受け止めた瞬間に「ガコッ!」という嫌な音がして、男の子の肩が外れてしまったんだ。

  「うわーん! 痛いよー!」

  脱臼して泣き叫ぶ男の子を見て、ガクさんはこの世の終わりみたいな顔をして真っ青になった。

  「……!! ……イマ、ナオス!」

  ガクさんが慌てて男の子の肩に手をかざすと、その手がカッ! と眩しく光った。

  そして、ガクさんは倒れた。

  外れた肩は一瞬で元の位置に戻り、痛みも腫れもピカピカに治っていた。傷跡どころか、古傷まできれいに消えて、そこだけ毛皮が発光するくらいツヤツヤになっている。

  すごい。やっぱりガクさんの魔法は規格外だ。

  詳しいことは分からないけど、マーサ院長が呆れ果てた声でこう言っていた。

  「発動しているのは、ただの初級の回復魔法のはずなんだよ。なのに出力がおかしい。なんであんなことになるのか見当もつかないね……」

  結局、意識を取り戻したガクさんは飢餓状態の暴走モードに陥り、孤児院の夕飯のシチューを寸胴鍋ごと全部たいらげてしまった。さらに、明日のおやつのクッキーまで。

  「ああっ! 僕たちのシチューが!」

  「おやつまでないよー!」

  泣き叫ぶ小さい子たちをなだめながら、僕は頭を抱えた。ガクさんの燃費の悪さは、孤児院の財政に直結する。ガクさんの狩りはすごいが、いつでも都合の良い獲物がいるわけでもないのだ。

  その夜、僕ら子供たちは、備蓄の干し肉をかじりながら、鉄の掟を定めた。

  『ガクさんの前では、絶対に怪我をしてはいけない』

  誰か一人が怪我をして治してもらうと、その代償として全員の夕飯が消えるからだ。それ以来、みんなガクさんに遊んでもらう時は必死だ。ガクさんの大きな手が伸びてくると、夕飯を守るために、みんな死に物狂いで安全を確保するようになった。

  そして今日、僕が薪運びで肩を回していたら、ガクさんが背後にのっそりと立った。

  「……ウィル。……ツカレタカ」

  「あ、ガクさん。ちょっとね。肩が凝っちゃって……」

  「……モム。……オレ, ヤル」

  ガクさんが大きな手を僕の肩に置いた。

  その瞬間、僕は自分の体が地面にめり込んだかと思った。

  ミシミシ、という嫌な音が自分の鎖骨あたりから聞こえる。

  ガクさんは僕の背骨を粉砕しないよう、彼なりに全力で加減して、指先だけで「揉んで」くれている。……はずなのだが、僕にとっては巨大な岩に押し潰されているようなものだった。

  「あ、あがが, が, ガクさん……! じゅ, 十分……十分だよ……!」

  必死で絞り出した僕の声に、ガクさんは「……ソウカ」と満足げに手を離した。

  正直、肩こりが治ったかどうかは怪しい。揉まれた場所がジンジンとする。

  でも、一生懸命「優しく」しようとしてくれたガクさんの不器用な気持ちだけは、痛いほど伝わってきた。

  バキッ。

  あ、また音がした。

  どうやらガクさんが、食堂のドアノブを回そうとして、握りつぶしてしまったみたいだ。

  奥からマーサ院長の「ガクー!!」という雷が落ちる。

  やれやれ。今日も『木漏れ日の家』は平和とは程遠い。

  でも、退屈しないこの毎日が、僕は結構気に入っているんだ。

  [newpage]

  第5.5話:清流と、縛られた巨獣

  その日は、朝からじりじりとした日差しが降り注いでいた。

  風は止まり、孤児院の裏庭には熱気が澱んでいる。まだ暑い時期が続くのか、僕は額に滲む汗を拭いながら、積み上げた薪の束を縛っていた。

  「……フゥ」

  近くで、重苦しい吐息が聞こえた。

  見上げると、熊獣人のガクさんが、日陰の大木に背中を預けて座り込んでいた。

  身長270センチを超える巨体は、座っていても僕の背丈と同じくらいの高さがある。

  全身を分厚い筋肉と脂肪、黒褐色の密な毛皮に覆われた彼は、この暑さが誰よりも堪えるはずだ。

  「ガクさん、大丈夫ですか? 水、飲みますか?」

  僕が声をかけると、ガクさんは気怠げにまぶたを持ち上げ、のっそりと首を横に振った。

  「……ダイジョブ。……アツイ、ダケ」

  その時、ふわりと風が動いた。

  熱気と共に漂ってきた「匂い」に、僕は思わず顔をしかめ、呼吸を止めた。

  「……うっ」

  鼻を突く、強烈な獣臭だ。

  土や埃の匂いに混じって、脂と古い汗が毛皮の中で蒸れたような、むせ返るような匂い。

  ガクさんは元々、獣人特有の体臭が強い方だ。けれど、ここ数日の暑さと重労働で、その匂いは限界を超えていた。分厚い毛皮の奥に、汚れが完全に籠もってしまっているのだろう。

  正直に言って、臭い。

  鼻が曲がりそうな強烈さだ。

  このままだと、食事の時に子供たちが鼻をおさえて逃げ出してしまうかもしれない。

  (ガクさんも、自分でも気にしてるみたいだな)

  彼は時折、自分の腕の匂いを嗅いでは、バツが悪そうに眉を寄せている。

  だが、この大きさだ。孤児院の小さなタライや桶では、体を拭うことすらままならない。

  「ガクさん」

  僕は作業の手を止め、彼に提案した。

  「川、行きませんか? 村外れの川なら水浴びにちょうどいいし、誰にも気兼ねなく身体が洗えますよ」

  「……カワ?」

  「うん。僕が背中を流します。1人できれいに洗うのは大変でしょう?」

  ガクさんの目が、パッと明るくなったように見えた。

  彼は大きな手をついて立ち上がると、救われたと言わんばかりに深く頷いた。

  「……イク。……タノム」

  ***

  森の中を流れる川は、木々に遮られて薄暗く、ひんやりとした空気が漂っていた。

  水面は澄んでいて、底の石が見えるほど綺麗だ。

  ガクさんは服を脱ぐと、躊躇いなく川へと足を踏み入れた。

  ザブザブと重たい水音が響く。

  「……ウー。……イイ」

  ガクさんが川の中央にある平らな岩に腰を下ろし、極楽のような表情で水に浸かった。

  火照った体が冷やされていくのが気持ち良いのだろう。

  濡れた毛皮は黒く重く体に張り付き、丸太のような腕や、岩盤のように盛り上がった肩の筋肉を、普段よりも生々しく浮き彫りにしていた。

  「お邪魔しますね」

  僕は服を脱いで、孤児院から持ってきた石鹸を手に取ると、川に入った。

  水は冷たくて気持ちいい。

  ガクさんの背後に回り込むと、そこには黒い壁のような背中がそびえ立っていた。

  「洗いますよ」

  僕は石鹸を水で濡らして泡立て、その広い背中に手を這わせた。

  ズシリ、と指に重い感触が伝わる。

  水を含んだ熊の毛皮は、想像以上に分厚くて重い。その奥にある皮膚に指を届かせようとすると、かなりの力がいる。

  (硬いなぁ……。本当に岩みたいだ)

  僕は指先に力を込め、ゴシゴシと洗い始めた。

  ガクさんの筋肉は、僕がどれだけ力を入れてもびくともしない。けれど、その奥からは驚くほどの体温が伝わってくる。冷たい川の中にいるのに、僕の手のひらだけは熱いくらいだ。

  「……ン……、ッ……」

  背中を半分ほど洗ったあたりで、ガクさんの様子が少しずつ変わってきた。

  最初は気持ちよさそうに脱力していた背中が、次第に強張り始めている。

  僕が背骨に沿って指を滑らせるたび、岩のような筋肉がビクンと跳ね、喉の奥から苦しげな唸り声が漏れるようになった。

  (あれ? 力が強すぎたかな?)

  僕は指を止め、心配になって声をかけた。

  「ガクさん? 痛いですか?」

  「……チガウ。……ヘイキ」

  返ってきた声は、絞り出すように低く、少し震えていた。

  呼吸も荒い。ハァ、ハァ、と熱い息を吐くたびに、広い背中が大きく波打つ。

  ただ背中を流しているだけなのに、まるで何かに耐えているような緊張感が、ガクさんの全身から漂っていた。

  (なんだろう。具合でも悪いのかな……)

  僕は手早く残りの泡を洗い流し、最後に川の水をバシャッとかけて仕上げた。

  「はい、終わりましたよ。綺麗になりました!」

  僕はパンと手を叩いて、ガクさんの背中から離れた。

  これで「ありがとう」と言って立ち上がるはずだ。

  けれど――ガクさんは動かなかった。

  川の中に腰を下ろしたまま、うつ伏せになるように背中を丸め、石のように固まっている。

  「……ガクさん?」

  「……」

  「あの、もう終わりましたよ? 上がらないんですか?」

  返事がない。

  心配になった僕は、パシャパシャと水をかき分けて、ガクさんの顔を見るために前に回り込もうとした。

  「ガクさん、どうかしたの? 顔色が――」

  僕が覗き込もうとした瞬間、ガクさんがビクリと肩を震わせ、慌てて顔を背けた。

  けれど、僕は見てしまった。

  川の水面から、隠しきれない「それ」が突き出しているのを。

  「……ウィル、ミル、ナ……! ……ダメ、ダ」

  ガクさんは真っ赤な顔で、太い腕を股間に押し当てて隠そうとしている。

  けれど、その腕の隙間から、隠しきれない異様な存在感が主張していた。

  熊獣人の、それも規格外の巨躯を持つ彼だ。そのサイズは僕の常識を遥かに超えている。赤黒く充血し、脈打つそれは、冷たい川の水に浸かっているにも関わらず、熱い湯気を上げているようにさえ見えた。

  (……こんなになるまで、溜め込んでたんだ)

  見てはいけないものを見た、という背徳感よりも先に、好奇心と妙な使命感が湧き上がってきた。

  僕は水音を立てて、ガクさんに近づいた。

  「ガクさん」

  「……クルナ。……アッチ、イケ」

  ガクさんが呻くように拒絶する。

  けれど、僕は構わず、水の中に投げ出されたガクさんの太い両足の間へと体を割り込ませた。

  そして、くるりと背中を向ける。

  「ッ!? ……ウィル、ナニ、ヲ……!?」

  ガクさんが驚愕の声を上げる中、僕はそのまま腰を落とし――ガクさんの太い腰の上に、背中を預けるようにして座り込んだ。

  トスン、と僕の背中が、ガクさんの分厚い腹筋にぶつかる。

  まるで岩壁に寄りかかったような安定感だ。

  そして、僕の太ももの間から、隠しきれない熱い塊が、猛々しく突き上げているのが分かった。

  「そんなに辛そうなら、出したほうがいいですよ」

  「……ダメ、ダ! ……オリロ、ウィル!」

  ガクさんが慌てて僕の肩や腰を掴み、引き剥がそうとする。

  背後から伸びてきた巨大な手が、僕の体をすっぽりと包み込んだ。

  本気で力を入れれば、僕の体なんて木の枝のように放り投げられるはずだ。

  ――けれど、ガクさんの手は、そこで止まった。

  「……ッ、……グゥ……ッ!」

  頭上から、苦悶に満ちた唸り声が降ってくる。

  力が入れられないのだ。

  興奮して理性が飛びかけている今、下手に力を込めれば、加減ができずに僕の骨を砕いてしまうかもしれない。

  その恐怖が、ガクさんの動きを封じていた。

  (……やっぱり。ガクさんは、僕を傷つけない)

  背中越しに伝わる、ガクさんの心臓の早鐘。

  抵抗できない巨獣。その事実に気づいた瞬間、僕の中で何かが吹っ切れた。

  「大丈夫。ガクさんはじっとしてて」

  僕は背後の胸板に体重を完全に預け、自分の股間あたりに突き出している「それ」へと手を伸ばした。

  両手で包み込む。

  太い。僕の手では到底握りきれない丸太のような質量。表面には血管が浮き上がり、ドクン、ドクンと暴れるような脈動が掌を叩く。

  「ッ……! ……ヤメ、ロ……ッ!」

  ガクさんがのけぞり、僕の体を抱きすくめる腕に力が入りかける――が、すぐにビクリと震えて力が抜ける。

  拒絶したいのに、突き飛ばせない。

  そのジレンマに喘ぐガクさんの体温を背中に感じながら、僕はゆっくりと手を動かし始めた。

  キュッ、と皮を擦り上げる。

  石鹸のぬめりが残っていて、動きは滑らかだ。

  「あぐッ……! ……ァアアッ……!」

  ガクさんの喉から、獣の咆哮に近い声が漏れる。

  熱い吐息が僕のうなじにかかり、背中合わせに伝わる筋肉の痙攣が、僕の体まで揺さぶった。

  「……ハァ、……ダメ、ダ……! コワレル……ッ!」

  「壊れませんよ。ほら、こんなに硬くなってる」

  僕はさらに体重をかけ、ガクさんの懐に深く沈み込みながら、その長大な楔を扱き上げた。

  根本から先端へ。そしてまた根本へ。

  僕が動くたびに、背後の巨体が大きく跳ね、川の水がバシャバシャと激しく波打つ。

  圧倒的な力を持つガクさんが、今は僕の掌の上で翻弄されている。

  恐怖で動きを封じられ、快楽に喘いでいる。

  「……イク、……ウィル、ハナレ……ッ!」

  ガクさんの呼吸が止まり、僕を抱く腕がワナワナと震え、全身が鋼鉄のように硬直した。

  限界だ。

  「いいですよ。出しちゃってください」

  僕は逃げなかった。むしろ、さらに強く根本を締め付け、一気に先端まで擦り上げた。

  ――ビクンッ!!

  背後のガクさんが大きくのけぞり、音にならない絶叫を上げた。

  次の瞬間、僕の手の中で爆発的な解放が起きた。

  ドクドクドクッ……!

  大量の白濁した液体が、間欠泉のように噴き出し、僕の手やお腹、そして川の水へと降り注ぐ。

  一度では終わらない。

  ガクさんの体は何度も大きく痙攣し、そのたびに熱い飛沫が飛び散った。

  凄まじい量だ。生命力の塊のような放出に、僕はただ圧倒されて動きを止めた。

  「……ハァ……ッ、……ハァ……」

  ガクさんはガクリと力を失い、僕の頭に重たい顎を乗せるようにして脱力した。

  荒い呼吸が頭頂部にかかり、背中越しにドクンドクンと激しい動悸が伝わってくる。

  しばらくの間、僕たちはそのまま動かなかった。

  川のせせらぎの音だけが戻ってくる。

  僕はガクさんの腕の中に閉じ込められたまま、自分の手についた粘液と、川面に広がる白濁を眺めていた。

  「……スマン」

  やがて、呼吸を整えたガクさんが、バツが悪そうに顔を上げた。

  その表情は見えないけれど、声には欲望を発散した安堵と、それを僕にさせてしまった気まずさが入り混じっている。

  「……いえ。スッキリしましたか?」

  僕が尋ねると、ガクさんは僕の肩に額を押し付け、小さく、しかし深く頷いた。

  「……アア」

  それ以上の言葉はいらなかった。

  僕は川の水で手を洗い流し、ガクさんの腕を解いて立ち上がった。

  ガクさんはまだ少し放心した様子で、水面を見つめていた。