ケモナーおっさん転生記(4)

  第16話:白銀の来訪者と、懐かしい匂い

  季節は巡り、辺境の村にも厳しい冬が訪れていた。

  外は一面の銀世界。膝まで埋まるほどの積雪が、村の景色を白一色に塗り替えている。

  そんな中、孤児院『木漏れ日の家』の談話室は、暖かな熱気に包まれていた。

  「ガクのおじちゃーん! こっち向いてー!」

  「あったかーい! ここ、僕の場所!」

  「ずるい! 次はあたしが背中に乗るの!」

  子供たちが群がっているのは、部屋の中央でドカッと胡座をかいて座っている俺――熊獣人のガクだ。

  頭についた丸い耳と、冬毛に生え変わった俺の毛皮は、夏よりもさらに密度が増し、極上のモフモフ具合になっている。

  今の俺は、子供たちにとって「巨大な生体暖房器具(コタツ)」そのものだった。

  「……ウゴケナイ」

  俺がぼやくと、膝の上に乗っていた一番小さな女の子が、俺の腕にしがみついて言った。

  「ダメー! ガクおじちゃんは動いちゃダメなの! じっとしてて!」

  「……ハイハイ」

  俺は諦めて、されるがままになった。

  右腕には男の子がぶら下がり、背中には二人がよじ登り、膝の上では女の子が丸まっている。総重量はなかなかのものだが、今の俺の筋力なら羽毛みたいなものだ。

  俺は子供たちの遊具になりながら、意識を自分の内側へと向けた。

  ただボーっとしているわけではない。訓練だ。

  グランキースの鍛冶屋で言われた、『魔力を常時、微量に放出し続ける』という制御訓練を試みているのだ。

  (……魔力を流す。栓を緩めるイメージ……)

  俺は左腕のバングルに意識を集中した。

  店主は「蛇口をひねるように」と言っていた。だが、俺の感覚では、その蛇口自体が存在しない。

  体の中にあるはずの魔力というエネルギーが、どこをどう流れているのか、さっぱり感じ取れないのだ。

  かれこれ一ヶ月は続けているが、手応えは皆無。相変わらずバングルは沈黙したままだ。

  俺が小さく溜息をついた、その時だった。

  カン、カン、カン!

  外から、乾いた金属音が響いてきた。

  村の入り口にある見張り台の半鐘だ。

  (……なにかあったのか?)

  俺が身構えた、その時。

  近くで縫い物をしていたウィルが、ハッとして顔を上げた。

  「……大丈夫だよ、ガクさん。魔物じゃない」

  「……チガウ?」

  「うん。魔物の時はもっと激しく鳴らすから。このリズムは……誰か、お客さんが来た合図だね」

  ウィルは手元の布を置くと、ウェルシュコーギー特有の大きな立ち耳をピクリと動かし、窓の外の雪景色を覗き込んだ。

  茶色と白の鮮やかな毛並みが、白い雪明かりに照らされてよく映える。

  「こんな大雪の日に、誰だろう? 行商の人にしては時期外れだし……」

  「……オレ、イクカ?」

  「ううん、ガクさんはここにいて。外は寒いし、ただの迷い人かもしれないから。僕がちょっと様子を見てくるよ」

  ウィルは「子供たちをお願いね」と言い残し、厚手のコートを羽織ると、短い足を精一杯動かしてタタタッと出て行った。

  俺は再び「コタツ」の役目に戻り、子供たちの相手を続けた。

  だが、胸のざわつきは収まらない。

  野生の勘というやつだろうか。あの鐘の音が、ただの来訪者ではない何か厄介なものを連れてきた気がしてならなかった。

  ***

  しばらく経った後。

  バタン! と勢いよく扉が開いた。

  「ハァ……ハァ……! ガクさん!」

  飛び込んできたウィルは、肩で息をしていた。

  その顔色は、寒さのせいだけではなく、明らかに青ざめていた。

  「……ドウシタ?」

  「り、領主様の……領主様の使いで、騎士様たちが来たんだ!」

  「……キシ?」

  「うん。それですぐに、ガクさんを呼んでこいって……!」

  室内の空気が一瞬で凍りついた。

  マーサ院長が奥から顔を出し、驚いたように目を見開く。

  子供たちも、ウィルの切迫した様子を感じ取り、不安そうに俺を見上げてくる。

  「……オレ、ヲ?」

  「うん。村長さんの家に集まってる。……急ごう、ガクさん」

  ウィルの瞳には、焦りと不安が渦巻いていた。

  ただ事ではない。

  俺は膝の上の女の子をそっと床に下ろし、ゆっくりと立ち上がった。

  「……ワカッタ。……イク」

  俺は壁にかけてあった特注の上着を羽織った。

  俺はウィルと共に外へ出た。

  雪を踏みしめ、村の中心へと向かう。

  村長の家の前には、すでに多くの村人が集まり、不安そうに中を伺っていた。

  入り口を守る兵士たちは、槍を垂直に立て、彫像のように微動だにしない。だが、俺たちの姿を認めると、無言で道を空け、軽く顎を引いて敬意を示した。

  どうやら、俺は「捕縛される罪人」として呼ばれたわけではないらしい。

  「ガクさん、僕はここで待ってるね」

  村長の家の玄関先で、ウィルが足を止めた。

  「……ハイラナイノカ?」

  「うん。呼ばれているのはガクさんだけだから。……僕みたいな子供が、許可なく騎士様の前には出られないよ」

  ウィルは気丈に笑ったが、その手は不安そうにコートの裾を握りしめている。

  「……ワカッタ。スグ、モドル」

  俺はウィルを安心させるように一度だけ頷くと、一人で家の中へと足を踏み入れた。

  通されたのは、村長の家の客間だ。

  暖炉には赤々と火が入り、部屋は十分に暖かいはずなのだが、空気はピンと張り詰めていた。

  「……お待たせしました。ガク殿をお連れしました」

  村長が、緊張で声を震わせながら案内してくれた。

  部屋の中央、上座にあたる椅子には、黒い鎧を纏った巨漢の騎士が座っていた。

  短く刈り揃えられた黒と褐色の毛並みを持つ、ロットワイラーの獣人だ。

  その背後には、白い布地のブリガンダインを着た若い騎士が直立不動で控えている。

  俺が入室すると、黒鎧の騎士は、即座に椅子から立ち上がった。

  顔が怖い。ロットワイラー特有の太いマズルに、深い眉間の皺。そして鋭い眼光。どう見ても歴戦の処刑人だ。

  (……俺、なんかまずい事したっけ?)

  俺が身構えた、その時だった。

  黒鎧の騎士は、その凶悪な面相を少し引きつらせながら――おそらく笑顔を作ろうとしたらしい――深く頭を下げたのだ。

  「……初にお目にかかる。アイゼンベルク騎士団長、グスタフ・フォン・ベルガーだ」

  地底から響くような低音だが、その口調は驚くほど丁寧だった。

  (……待て。今、騎士団長と言ったか?)

  俺は内心で首を傾げた。

  騎士団長といえば、領主の軍事力を統括するトップのはずだ。そんな雲の上の存在が、なぜこの村に?

  ただの村人(に見える俺)への用事なら、下っ端の兵士を寄越せば済む話だ。

  わざわざトップ自らが、この雪道を越えて足を運ぶなんて、尋常じゃない。

  「急な来訪、さらにこのような雪深い時期に足労をかけ、申し訳ない。貴殿の貴重な時間を割いていただいたこと、感謝する」

  「……ア、イヤ。……オレ、ガク」

  あまりに重厚な挨拶と、相手の肩書きの重さに、俺は面食らいながら頭を下げ返した。

  グスタフ団長は顔を上げると、俺の巨体と顔をじっと観察し、納得したように頷いた。

  「噂以上の偉丈夫だ。……単刀直入に申し上げよう。我が主、ゲオルグ・フォン・アイゼンベルク辺境伯より、貴殿への招待状を預かって参った」

  「……ショウタイ?」

  「左様。決して『召喚』ではない。あくまで『賓客』としての招待だ」

  グスタフ団長は、後ろに控えていた白い騎士に目配せをした。

  白い騎士が一歩進み出て、恭しく羊皮紙を差し出す。

  「我が領においても、熊族の戦士は稀有な存在だ。……聞き及んでいるぞ。凶暴な草喰角竜(グラス・ホーン)二頭を、武器も持たずに『素手』で討ち取ったとな」

  (……あ、そっちか)

  俺は心の中でほっと息を吐いた。

  ワイバーンの一件はバレていないようだ。話題になっているのは、以前狩ったグラスホーンのことらしい。

  「角竜の突進を受け止め、殴殺する膂力……。それは決して、ただの村人や野盗にできる芸当ではない」

  グスタフ団長はそこで言葉を区切り、探るような、しかし敬意を含んだ眼差しで俺を見た。

  「しかし、貴殿の名はギルドの登録にもない。……辺境伯閣下はこう推察しておられる。『おそらくは遠方、熊族の国より、武者修行か、あるいはのっぴきならぬ事情で流れ着いた高貴な戦士であろう』と」

  (……亡命貴族? 高貴な戦士? 俺が?)

  とんでもない誤解だ。

  だが、否定するにしたって何と言えばいい?

  「実は日本という異世界から、ゲームのキャラに転生してきちゃいました」なんて、口が裂けても言えない。

  かといって、何か適当な作り話で誤魔化せるかといえば、それも無理だ。

  今の俺は「……ハラヘッタ」「……ネムイ」くらいしか喋れない、語彙力皆無の熊なのだ。

  この体で、整合性の取れた嘘八百を並べ立てる高度な話術なんて、逆立ちしたってできっこない。

  (どうする? どう言い訳すればいい……!?)

  思考の沼にはまった俺は、答えに窮して、思わず俯いて黙り込んでしまった。

  巨体を丸め、眉間に皺を寄せ(ているように見える)、重苦しい沈黙を守る俺。

  すると、グスタフ団長がハッとしたように目を見開いた。

  彼は慌てた様子で、俺に向けて片手を上げた。

  「……すまない。失礼なことを言った」

  「……ン?」

  「決して、貴殿の秘めたる過去を暴こうなどという意図はないのだ。……事情があることは、その沈黙が何より雄弁に語っている」

  グスタフ団長は、俺の「困って黙っていただけ」という態度を、「触れられたくない過去への沈痛な沈黙」と、あまりにも好意的に解釈してくれたらしい。

  彼はバツが悪そうに視線を逸らすと、深く頷いた。

  「祖国を捨てざるを得なかった無念、あるいは語れぬ誓い……。男には、墓場まで持っていくべき秘密の一つや二つあるものだ。……私が無粋だった。忘れてくれ」

  (……すげぇ。勝手にストーリーが出来上がっていく)

  俺は何も言っていないのに、いつの間にか「悲劇の亡命騎士」という設定が確定してしまったようだ。

  だが、これは好都合だ。下手に弁解するより、このまま誤解させておいた方が身の安全が守られる。

  「……どうか、辺境伯の顔を立ててはもらえんだろうか」

  強面の団長が、ここまで下手に出ているのだ。

  それに部屋の隅では、村長が強張った顔で成り行きを見守っている。

  騎士とは、絶対的な権力者である領主(辺境伯)の代行者だ。もし俺が断れば、村にどのような不利益があるかわからない。

  俺は、この村に拾われ、世話になった身だ。俺のワガママで、これ以上、村の人たちに迷惑をかけるわけにはいかない。

  (……選択肢なんて、最初からないよな)

  俺は小さく息を吐くと、覚悟を決めて顔を上げた。

  「……ワカッタ。……イク」

  俺が承諾すると、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。

  村長が大きく息を吐き出し、安堵の表情を浮かべるのが見えた。グスタフ団長も、肩の力を抜いた。

  「感謝する。……では、出発は明朝とする」

  グスタフ団長は、今後の予定を告げた。

  「この雪だ。明朝、我が軍の橇を宿舎まで回させる。二頭の地竜が引く、頑丈なものだ。貴殿の巨体でも快適に過ごせるだろう」

  「……ソリ。……タスカル」

  「礼には及ばない。賓客への当然の待遇だ」

  グスタフ団長は後ろに控えていた白い騎士――ハンスを手で示した。

  「道中は、このハンス従騎士を貴殿の世話係として付けよう。何かあれば、遠慮なくコヤツに申し付けてくれ」

  「はっ! 誠心誠意、お仕えいたします!」

  ハンスが一歩前に出て、カチリと音を立てて敬礼した。

  近くで見ると、その体格は犬獣人の中でも頭一つ抜けて巨大だった。身長は二メートルに届きそうで、グレートピレニーズ特有の純白で豊かな毛並みが、その巨躯をさらに大きく見せている。

  白い布地に銀の鋲打ちが整然と並んだブリガンダインがよく似合っているが、その顔色は悪く、自分よりも大きい俺の巨体を前にして小刻みに震えているのが見て取れた。

  どうやら、俺に「捕食される」とでも思っているような怯えようだ。

  そんな部下の様子を見て、グスタフ団長は呆れたように嘆息すると、彼に言い聞かせるように言葉を継いだ。

  「私は一足先に戻り、辺境伯閣下へ貴殿の承諾を報告せねばならない。……ハンス、ガク殿は招待に応じてくださったゆえ、貴殿の身の安全は私が保証しよう。だが、万が一にも粗相のないよう頼んだぞ」

  「はいっ! 心得ております!」

  グスタフ団長は満足げに頷くと、俺に向き直り、胸に拳を当てて深々と一礼した。

  「では、領都アイゼンベルクにてお待ちしている。……重ね重ね、突然の無礼を許していただきたい」

  グスタフ団長は重厚な足音と共に、部屋を出て行った。

  部屋に残されたのは、俺と村長、そして直立不動のハンスの三人だけだ。

  重苦しい沈黙が流れる。

  ハンスは俺の方を見ようともせず、視線を宙に固定している。「高貴な亡命騎士(という設定の俺)」に対して、粗相があってはならないと身構えているようだ。

  その時、ドアが恐る恐る開いた。

  「……あ、あの……ガクさん?」

  顔を覗かせたのはウィルだった。

  黒い鎧の団長が出て行ったのを見て、話が終わったと思って入ってきたのだろう。

  だが、部屋の中にまだ白い騎士が残っているのを見て、ウィルは「ひっ」と息を呑んだ。

  「す、すみません! 僕、てっきり皆いなくなったと思って……!」

  ウィルが慌てて頭を下げようとした、その時だ。

  ウィルの視線が、白い騎士の顔に釘付けになった。

  「……え? ……ハンス、兄ちゃん?」

  「ッ!?」

  名前を呼ばれたハンスの肩がビクリと跳ねた。

  彼はギギギと首を動かしてウィルを見ると、焦ったように小声で早口に言った。

  「ウィル……! 今は拙い。静かにしてろ」

  その態度は、かつての「兄貴分」のものではない。

  ハンスはチラチラと俺の顔色を伺っている。どうやら、「貴人であるガク殿の前で、馴れ馴れしい態度は取れない」と焦っているらしい。

  「……シリアイ、カ?」

  俺が尋ねると、ハンスは居住まいを正し、あくまで「騎士として」丁寧に答えた。

  「は、はい。……お見苦しいところを失礼いたしました。私はこの村の孤児院の出身でして……そこのウィルとは、兄弟のように育った仲なのです」

  「……」

  なるほど。公私混同を避けているわけか。真面目なやつだ。

  ハンスが冷や汗をかいているのを見て、ウィルが助け舟を出すように言った。

  「だ、大丈夫だよハンス兄ちゃん! あのね、ガクさんは今、僕たちと一緒に孤児院に住んでるんだよ!」

  「……は?」

  ハンスの目が点になった。

  ポカンと口を開け、まじまじと俺を見る。

  「こ、このガク殿が? あのボロ……いや、孤児院に? 住んでいる?」

  「うん! すっごく優しいんだよ」

  ウィルの言葉に、ハンスの顔から少しだけ緊張が解けた。だが、まだ表情は硬い。「高貴な戦士がなぜ孤児院に?」という新たな謎が増えただけのようだ。

  俺はウィルに向き直り、決定事項を伝えた。

  「……ウィル。……オレ、リョウト、イク」

  「えっ、領都アイゼンベルクに?」

  「……アア。……リョウシュ、アウ」

  俺の言葉に、ウィルは目を輝かせた。

  「すごい! 領主様に招待されるなんて、やっぱりガクさんはすごいね!」

  ウィルは無邪気に喜んでくれたが、すぐにその眉がハの字に下がった。

  「でも……領都に行くなら、しばらくは帰って来れないね……」

  「……ソウ、ナル」

  寂しげに俯くウィル。

  俺も胸が痛んだ。この数ヶ月、片時も離れずに過ごしてきたのだ。

  俺にとっても、ウィルは唯一の「言葉の通じる相棒」であり、精神安定剤だった。

  しんみりとした空気が流れる中、突然、村長が口を開いた。

  「ハンスや。……ウィルも、一緒に連れて行ってはくれんかのう?」

  「えっ?」

  「は?」

  ウィルとハンスの声が重なった。

  村長は髭を撫でながら、もっともらしく続けた。

  「見ての通り、ガク殿は言葉が不自由じゃ。細かい意思疎通には、慣れ親しんだウィルの手助けが必要じゃろうて」

  だが、ハンスは困ったように眉を寄せた。

  「いえ村長、お言葉ですが……旅の支援は、私が務めます。ガク殿の身の回りのお世話をするのが、今回の私の任務ですので」

  ハンスはチラリとウィルを見て、少し口調を崩して言った。

  「それに、今回の旅は遊びじゃないんだ。まだ子供のウィルには、この雪山越えは厳しい」

  それは正論だった。

  だが、村長は引かなかった。彼は真剣な眼差しで、ハンスを見据えた。

  「わかっておる。……じゃがな、ハンス。わしはウィルに、外の世界を見せてやりたいのじゃ」

  「……え?」

  「この子は賢い。物覚えも早く、本質を見抜く目を持っておる。ずっとこの村に閉じ込めておくには、惜しい才じゃ。……お主自身も、そう思ったから村を出たんじゃろう?」

  ハンスが言葉に詰まる。

  村長はウィルに向き直り、優しく言った。

  「ウィルよ。お前はずっと外の世界に憧れておったろう? 伝え聞いた景色を、その目で見てみたいとは思わんか?」

  「そ、それは……」

  ウィルが動揺したように瞳を揺らした。

  行きたい。その気持ちは痛いほど伝わってくる。

  だが、ウィルは俺とハンスを交互に見ると、弱々しく首を振った。

  「で、でも……僕、足手まといになっちゃうし……。ハンス兄ちゃんの仕事の邪魔もできないよ……」

  自分の願望よりも、他への迷惑を優先してしまう。それがウィルの優しさであり、弱さだ。

  このままでは、彼は一生この村から出られないかもしれない。

  (……ここで引くわけにはいかないな)

  俺はウィルの前に膝をつき、その小さな肩に手を置いた。

  「……ウィル」

  「ガク、さん……?」

  俺は彼の瞳をまっすぐに見つめ、不器用な言葉で頼んだ。

  「……ツイテキテ、クレ」

  「えっ……?」

  「……オレ、ウィル、ヒツヨウ」

  それは嘘偽りのない本音だった。

  だがそれ以上に、この賢くて優しい相棒に、この村の中だけじゃなく、もっと広くて鮮やかな世界を見てほしかった。

  俺のこの『不自由さ』こそが、責任感の強い彼を外の世界へ連れ出すための、唯一の『理由』になると思ったからだ。

  「……僕で、いいの?」

  「……オマエ、ガ、イイ」

  俺が付け加えると、ウィルの目からポロリと涙がこぼれた。

  彼は袖で乱暴に涙を拭うと、力強く頷き返した。

  「……うん! 行く! 僕、ガクさんの役に立ちたい!」

  感動的な場面だ。村長も満足げに頷いている。

  だが、一人だけ頭を抱えている男がいた。

  「あーもう! 勝手に話が進んでるし!」

  ハンスだ。

  彼はガシガシと頭をかきむしると、騎士の仮面をかなぐり捨てて叫んだ。

  「わかった! わかりましたよ! 連れてきゃいいんでしょ!」

  「ハンス兄ちゃん……!」

  「勘違いするなよ! 俺は認めたわけじゃないからな!」

  ハンスは俺に向き直り、懇願するように言った。

  「いいですか、ガク殿。団長には『ガク殿がどうしてもと希望された』ってことにしてくださいよ!? 『どうしてもウィルがいないと夜も眠れない』くらいの勢いで頼まれたことにしてください!」

  どうやら、団長への言い訳を俺に押し付けることで、自分を納得させることにしたらしい。

  俺は苦笑いを堪えながら、重々しく頷いた。

  「……ワカッタ」

  こうして、俺とハンス、そしてウィル。

  奇妙な三人組による、領都アイゼンベルクへの旅が決まったのだった。

  [newpage]

  第17話:密室のソリと、騎士の受難

  翌朝。

  張り詰めた冷気が肌を刺す中、俺――アイゼンベルク騎士団従騎士、ハンス・フォン・ベルガーは、孤児院『木漏れ日の家』の前に立っていた。

  吐く息は白く、ブーツの底からは雪を踏みしめる乾いた音がする。

  だが、俺の心臓を締め付けているのは寒さではない。これから護衛を務めることになる「賓客」の存在だ。

  (……落ち着け。俺は騎士だ。父上が……グスタフ団長から頂いたこの「ベルガー」の名に恥じぬ働きをするんだ)

  俺は犬獣人の中でも、特に大柄な体格だ。

  全身を覆う厚い白毛と、身長二メートル近い巨躯。

  孤児としてこの院で育った俺は、騎士団に一兵卒として入団した。

  そして、この体格と武の才をグスタフ団長に見出され、養子として引き立てられた。

  以来、騎士団の中でも力比べで負けたことなど数えるほどしかない。自他ともに認める剛の者だと自負していた。

  だが――あの御仁、ガク殿の前に立つと、自分がただの「仔犬」になったかのような錯覚に陥る。

  あの圧倒的な質量。丸太のような腕。そして、深淵を覗き込むような底知れぬ沈黙。

  義父でもある団長は言っていた。

  『あれは、ただの熊族ではない。おそらくは遠方の熊人の国より流れてきた、高貴な身分の戦士だ。決して失礼があってはならんぞ』と。

  俺の直感も告げている。あれは、絶対に敵に回してはいけない存在だと。

  俺は覚悟を決めて、孤児院の扉を開けようとした。

  だが、その手前で動きを止めた。

  「ガクのおじちゃーん! 行かないでー!」

  「うわーん! もっと遊んでよー!」

  「ずるいぞウィル兄ちゃん! 俺も行く!」

  中庭から、子供たちの泣き叫ぶ声が聞こえてきたのだ。

  何事かと思い、俺は門の隙間から中を覗き込んだ。そして――我が目を疑った。

  「……なっ!?」

  そこには、あの「畏怖すべき巨獣」ガク殿がいた。

  だが、その姿は俺の想像を絶していた。

  全身に子供たちが張り付いているのだ。

  太い右腕に男の子がぶら下がり、背中には女の子がよじ登り、さらに足元には一番小さな子がしがみついている。

  ガク殿の巨体にまとわりつくその姿は、まるで大木に群がる蝉のようだ。

  「……ウゴケナイ。……ヒッパルナ」

  ガク殿が低く唸るが、子供たちは離れようとしない。

  それどころか、よじ登った女の子がガク殿の鼻先をペチペチと叩きながら泣いている。

  (……正気か!?)

  俺は背筋が凍る思いだった。

  あれは巨大な角竜を一撃で殴り殺す腕だぞ? その気になれば、子供など小枝のようにへし折れるはずだ。

  なぜ、平気な顔で触れられる?

  なぜ、あそこまで無防備に懐けるというのだ?

  俺たち騎士ですら、あの巨体を前にすれば、伝説の「エンシェント・ドラゴン」と対峙したかのような本能的な恐怖で足がすくむというのに。この子供たちは、恐怖という感情が欠落しているのか?

  それとも――ガク殿が、それほどまでに自らの「殺気」を完全に消し去っているというのか。

  (……わからん。あの御仁の器が、俺の理解を超えているということか……)

  呆然と立ち尽くす俺に、子供たちの奥から一人の女性が歩み寄ってくるのが見えた。

  白と茶色のブチ模様と、垂れた耳を持つ大柄な犬獣人、マーサ院長だ。

  「こらこら、お前たち! いい加減におし! ガクもウィルも困ってるじゃないか」

  マーサ院長がパンパンと手を叩くと、子供たちは渋々とガク殿から離れた。

  その光景を見て、俺の胸に懐かしい痛みが走った。

  俺もかつては、あの子供たちの一人だった。この『木漏れ日の家』で育ち、マーサ院長に叱られながら大きくなったのだ。

  (……挨拶、くらいはすべきか?)

  だが、今の俺は任務中の騎士だ。

  それに、今は「ベルガー家」の人間として振る舞わねばならない。私情を挟み、賓客を待たせてまで旧交を温めるなど、許されることではない。

  俺は唇を引き結び、あくまで「従騎士ハンス」として振る舞おうとした。

  その時だ。

  子供たちから解放されたガク殿が、のっそりと顔を上げ、俺の方を見た。

  その黒く深い瞳が、俺の迷いを見透かすように細められた。

  「……ハンス」

  「っ、は、はい!」

  名を呼ばれ、俺は直立不動になる。

  ガク殿は視線をマーサ院長に向け、それから俺に顎をしゃくった。

  「……ハナシテ、コイ」

  「え……?」

  「……オレ、キニシナイ」

  短い言葉だった。だが、その意味を理解した瞬間、俺は胸が熱くなるのを感じた。

  この御仁は、昨日聞いた俺の出自を覚えていてくれたのだ。

  その上で、俺が任務と家名のために遠慮していることまで見抜き、あえて「許可」を与えてくれたのだ。

  (なんて……なんて懐の深い方なんだ……!)

  俺は震える声で答えた。

  「……感謝、致します」

  俺はガク殿に深々と一礼し、マーサ院長のもとへ歩み寄った。

  「よう、ハンス。立派になったねぇ」

  「……ご無沙汰しております、院長。お元気そうで」

  マーサ院長は、俺の胸当てをゴンと拳で叩き、豪快に笑った。

  「あたしはいつだって元気さ。あんたこそ、ちゃんと食べてるのかい? 少し痩せたんじゃないか?」

  「いえ、軍の食事は量だけは多いので……。あの、院長。ウィルのこと、必ず守りますから」

  「ああ、頼んだよ。あの子と、あのデカイ熊さんをね」

  短い会話だった。だが、それだけで十分だった。

  俺は再びガク殿に向き直り、今度こそ騎士の顔で告げた。

  「お待たせいたしました。……出発しましょう」

  ***

  名残惜しそうにする子供たちとマーサ院長に見送られ、俺たちは村の外れにある騎士団の駐屯宿舎へと向かった。

  そこにはすでに、出発の準備が整えられていた。

  「……オォ。……デカイ」

  ガク殿が感嘆の声を漏らす。

  宿舎の前に待機していたのは、二頭の巨大な地竜が繋がれた、軍用の大型橇だ。

  青白い硬質な鱗に覆われた、丸太のように太い四本の脚。

  大地をしっかりと踏みしめるための筋肉が異常なほど発達している。長い尻尾が、雪面を苛ただしげに叩いていた。

  「ご説明します、ガク殿。これは要人輸送用に特別に設えられた装甲橇です」

  俺は努めて冷静に、ガイド役としての務めを果たそうとした。

  「牽引するのは地竜種の中でも寒冷地に特化した『氷雪地竜(フロスト・ドレイク)』。一般的な騎竜や荷駄竜では進めない深い雪道でも、彼らの強靭な四肢と鉤爪ならば突き進むことができます」

  橇自体も、通常のものとは一線を画している。

  分厚い強化木材で組まれた箱のような形状で、外装は鉄板で補強されているが、その塗装や作りは丁寧だ。

  前方の御者席には、厚手の防寒着を纏った専任の兵士が手綱を握って待機していた。

  客室には屋根があり、内部には寒さを防ぐための高性能な暖房魔道具と、革張りの座席が備え付けられている。

  「ここから領都アイゼンベルクまでは、険しい道のりになります。通常、雪のない季節に『早駆けの騎竜』を使えば二日ほどの距離ですが……現在は冬季。街道は雪に閉ざされています」

  「……フム」

  「そのため、今回は『白の回廊』と呼ばれる山岳ルートを抜けます。到着までは順調にいって四日かかる見込みです」

  四日。

  その間、俺はこの規格外の御仁と、狭い橇の中で過ごさなければならない。

  胃がキリキリと痛むのを感じたが、俺はそれを悟られないよう、ハキハキと続けた。

  「中継砦はあくまで軍事施設ですので、寝床は質素なものになりますが……ご容赦ください」

  「……カマワナイ。……ヤネ、アル。……ジュウブン」

  ガク殿は鷹揚に頷いてくれた。

  やはり、亡命生活で過酷な環境には慣れておられるのだろう。

  「では、乗り込みましょう」

  俺が扉を開けると、ウィルがぴょんと身軽に飛び乗った。

  続いてガク殿が、その巨体を屈めながら、のっそりと中へ入る。

  ――ミシッ、ギシシッ……。

  頑丈さが売りの軍用橇が、ギシギシと苦しげな音を立てて大きく沈み込んだ。

  繋がれた二頭の氷雪地竜たちが、背後にかかった異常な負荷に鼻を鳴らし、警戒するように鱗を逆立てて四本の脚を踏ん張る。

  気性の荒い竜種ですら、ガク殿の放つ底知れぬ気配と質量に、本能的な畏れを抱いているようだった。

  (……おいおい、底が抜けないだろうな?)

  俺は冷や汗をかきながら、最後に乗り込み、扉を閉めた。

  密室。

  外の寒気は遮断されたが、代わりに圧倒的なプレッシャーが充満する空間。

  俺たちの、領都への旅が始まった。

  ***

  地竜たちが雪原を蹴り、ソリが滑り出した。

  ゴウン、ゴウンと低い振動が床から伝わってくるが、要人輸送用というだけあって、乗り心地は想像以上に安定している。

  だが、音はなかった。

  ソリの中は、鉛を流し込んだような沈黙に包まれていた。

  向かいの座席には、ガク殿が腕組みをして座っている。

  ただ座っているだけだ。それなのに、この狭い空間では、まるで巨大な岩山と対峙しているような圧迫感がある。

  隣に座るウィルも、さすがに空気を読んでいるのか、俺の様子をチラチラと伺いながらも、口を噤んで小さくなっている。

  (……頼む、ウィル。何か喋ってくれ……!)

  俺は内心で悲鳴を上げていた。

  普段のお前なら、もっと無邪気に話しかけるだろう? 「すごいね!」とか「速いね!」とか。

  この窒息しそうな空気を、お前のその明るさで切り裂いてくれ!

  俺の願いも虚しく、沈黙は続いた。

  ガク殿の視線が、ふと俺に向けられた。

  「……ナゼ、イマ、ナンダ?」

  低く、重い問いかけだった。

  俺の心臓が早鐘を打つ。

  やはり、聞かれたか。

  「……と、おっしゃいますと?」

  「……タダノ、アイサツ……ハル、デ、イイ」

  ガク殿の言葉はたどたどしいが、核心を突いていた。

  その通りだ。

  ここは豪雪地帯。冬の旅は、いかに高性能なソリといえども命がけだ。

  単に「珍しい武人を賓客として招きたい」というだけの理由なら、雪解けを待つのが道理だろう。わざわざリスクを冒してまで、この厳冬期に呼び寄せるには、それ相応の理由があるはずだ。

  (……父上は、真意までは教えてくれなかった)

  出発の際、グスタフ団長は俺にだけ、ある密命を下した。

  『道中、ガク殿の“人となり”を見極めろ。彼が力だけの獣か、それとも真に信頼に足る人物か』

  理由は明かされなかった。だが、団長のあの真剣な眼差しは、ただの賓客に対する評価を求めているようには見えなかった。

  

  俺には一つだけ、嫌な予感があった。

  辺境伯領の東方は、常に『魔境』の脅威に晒されている。

  だが、深い雪に閉ざされるこの時期は、魔物たちも活動を潜め、一年で最も平穏な季節になるはずなのだ。

  それなのに、ここ最近の騎士団上層部は妙に慌ただしい。まるで、見えない敵に備えているかのようなピリピリとした空気が漂っている。

  もしかすると、この時期には現れないはずの『厄介なナニカ』が出現し、それに対抗するための戦力として見極めようとしているのか……?

  (……いや、まさか。そんなことを考えていると知れたら、それこそ失礼にあたる)

  俺は自分の憶測を喉の奥に押し込み、あくまで騎士として、申し訳なさそうに頭を下げた。

  「……申し訳ありません。私のような下っ端には、上層部の深いお考えまでは……」

  「……ソウカ」

  「ただ、辺境伯閣下がガク殿にお会いしたいと強く望まれていたのは事実です。この季節をおしてでも、貴殿の武勇を一目見たいと思われたのかもしれません」

  苦しい言い訳だ。

  だが、ガク殿はそれ以上追求することなく、静かに目を閉じた。

  「……キニスルナ」

  「は……恐れ入ります」

  再び、重苦しい沈黙が降りてくる。

  俺の胃壁が限界を迎えそうになった、その時だった。

  「わあ……っ! すごい!」

  突然、ウィルが声を上げた。

  彼は壁に設けられた小さな覗き窓――分厚い水晶の板がはめ込まれた小窓に張り付き、目を輝かせていた。

  「ガクさん、見て! 真っ白だよ! 木が氷の彫刻みたいになってる!」

  ウィルが興奮してガク殿の袖を引く。

  すると、彫像のように固まっていたガク殿の表情が、ふっと緩んだ。

  「……アア。……キレイダナ」

  「でしょ? 村の周りの森とは全然違うね。キラキラしてて、宝石箱の中みたい!」

  ガク殿が巨体を傾け、ウィルと一緒に小窓を覗き込む。

  そこには、先ほどまでの張り詰めた「武人」の空気はなく、孫の喜ぶ顔を見て目を細める好々爺のような、穏やかな空気が流れていた。

  (……助かった……!)

  俺は肺の中の空気をすべて吐き出す勢いで、安堵の息を漏らした。

  ありがとう、ウィル。お前は俺の救世主だ。

  ウィルがはしゃぎ、ガク殿がそれに短く相槌を打つ。

  その光景を見ていると、先ほどまでの胃の痛みも少し和らいだ気がした。

  俺は座席の背もたれに体を預け、窓の外へと視線をやった。

  透明度の高い水晶越しに見える景色は、白一色の荒野だ。

  これから向かう領都アイゼンベルク。そこには、俺たちを待ち受ける父上や辺境伯、そして例年とは違う不穏な冬の気配が待っているのかもしれない。

  この旅が、ただの招待で終わればいいのだが。

  (……まあ、今は考えまい)

  今はただ、この奇妙で頼もしい、そして少し怖い賓客を、無事に送り届けることだけを考えよう。

  氷雪地竜の足音が、雪原に響き渡る。

  領都への道のりは、まだ始まったばかりだ。

  [newpage]

  第18話:氷の奇襲と、雪解けの時間

  ゴウン、ゴウンと、腹に響く音が続いている。

  俺たちは今、二日目の旅路にあった。

  昨夜は「中継砦」とかいう、石造りの頑丈な建物に泊まった。

  俺の体にはベッドが小さすぎて、結局、床に毛皮を敷いて寝ることになったが、屋根と壁があるだけで随分とマシだった。

  そして今、俺たちは再び雪原を走るソリの中にいる。

  相変わらず、外は一面の銀世界だ。

  「…………」

  車内は静かだ。

  向かいの席にはハンスが座っている。背筋を伸ばし、剣の柄に手を添え、窓の外を油断なく監視している。その姿は「騎士」そのものだ。

  俺の隣にはウィルがいる。彼は時折、チラチラとハンスの方を見ている。話しかけたい、という顔だ。

  昨日の夜、ウィルから聞いた。ハンスとウィルは同じ孤児院で育った、本当の兄弟のような仲なのだと。

  久しぶりの再会だ。積もる話もあるだろう。

  だが、ハンスはあくまで「護衛騎士」としての立場を崩そうとしない。ウィルの視線に気づいているはずなのに、あえて気づかない振りをしているように見える。

  (……もったいないな)

  俺はぼんやりと思う。

  立場とか、任務とか、俺にはよくわからない。でも、せっかく会えたのに、他人行儀なまま別れることになったら、きっと後悔する。

  ハンスも、本当はウィルと話したいんじゃないのか。あんなにウィルを見る目が優しいのに。

  (……俺に、何かできることはないか)

  そんなことを考えていた、その時だった。

  ――ガクンッ!

  唐突にソリが減速し、強い衝撃とともに停止した。

  外から、地竜たちの低い唸り声と、御者兵の鋭い声が聞こえる。

  「な、なに!?」

  ウィルが驚いて声を上げる。

  ハンスは弾かれたように立ち上がった。

  「ここにいてください! 外には出ないように!」

  それだけ言い残し、ハンスは扉を開けて雪の中へと飛び出していった。

  「……マモノ、カ?」

  「えっ、魔物!?」

  ウィルが青ざめる。

  俺は少し考え、ウィルの頭をポンと撫でた。

  「……ダイジョウブ。……ハンス、ツヨイ」

  俺は立ち上がり、扉の方へ向かう。

  「ガクさん!? 出ちゃダメだよ!」

  「……ミル、ダケ」

  俺は少しだけ扉を開け、隙間から外の様子を覗き込んだ。

  冷たい風が吹き込んでくる。

  ソリの前方、少し離れた場所に、白い影が蠢いていた。

  全長三メートルほどだろうか。白い鱗に覆われた、巨大なトカゲだ。雪に紛れる保護色で見づらいが、太い尻尾と鋭い爪が確認できる。

  (……あいつは確か、『雪原蜥蜴(スノー・リザード)』か)

  俺の脳裏に、かつてやり込んだゲームの記憶が蘇る。

  北方の雪原エリアに出現する、小型の恐竜『雪走竜(スノー・ラプター)』の群れと並んでポピュラーな雑魚敵だ。

  特徴は高い敏捷性と、雪に隠れる隠密性。その代わり、防御力は低い。

  (……だが、モニター越しに見るのとは、存在感がまるで違う。獣の臭い、殺気……。これが、本物の『戦闘』の空気か)

  対峙するのは、剣を抜いたハンスだ。

  二メートルの巨躯を持つハンスだが、四つん這いのトカゲと比べると小さく見える。

  だが、ハンスに怯えはなかった。

  ハンスは音もなく左手を前に突き出した。

  何かを唱えるわけでも、叫ぶわけでもない。ただ、鋭い視線を魔物に向けているだけだ。

  だが、次の瞬間。

  ハンスの周囲に、キラキラと輝く褐色の光の粒子が舞い始めた。

  それらは磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、急速に三箇所へと集束していく。

  ザリッ、ザリザリッ……という硬質な音と共に、集まった粒子が凝縮され、みるみるうちに鋭く尖った「岩の棘」へと姿を変えていく。

  (……おお、すげぇ)

  俺は思わず、心の中で声を上げた。

  魔法だ。本物の、攻撃魔法だ。

  CGでもトリックでもない。物理法則を無視して、何もないところから物質が生まれる瞬間。

  男の子なら一度は憧れる「ファンタジー」そのものが、今、目の前で繰り広げられている。

  (……いいもの見たな)

  俺が密かに感動している間に、ハンスが指揮棒を振るうように、短く左手を払った。

  ヒュンッ!

  風を切る音だけを残し、岩の棘が矢のような速度でトカゲに殺到した。

  ギャアアッ!?

  トカゲが悲鳴を上げる。

  岩の棘は正確にトカゲの四肢と尾を貫き、雪面へと縫い止めた。

  磔にされ、身動きが取れなくなるトカゲ。

  「ふっ!」

  ハンスが雪を蹴って疾走する。

  一瞬で距離を詰め、銀色の剣閃が走った。

  トカゲの首が飛び、雪の上にドサリと落ちる。鮮やかな手際だった。

  (……凄い。……本当に、一瞬だった)

  俺は思わず息を呑んだ。

  一切の迷いがない。流れるような所作で、命を断ち切った。

  ハンスが剣についた血を払い、油断なく周囲を見回してから、鞘に納めようとした。

  その時だ。

  ズボォォォッ!!

  ハンスの足元の雪が、突然爆発した。

  「――ぐぅ……ッ!?」

  不意を突かれ、ハンスの体が宙に浮かぶ。

  雪煙の中から現れたのは、巨大な「ハサミ」だった。

  岩のようなゴツゴツとした甲羅を持つ、巨大な蟹だ。

  そいつが雪の下に擬態して潜んでいたのだ。

  右手の巨大なハサミが、ハンスの胴体をがっちりと掴んで持ち上げていた。

  「くっ、この……ッ!」

  ハンスが脱出しようともがくが、ハサミはびくともしない。

  それどころか、ミシミシと嫌な音を立てて、締め付ける力を強めていく。

  鋼鉄の鎧が悲鳴を上げ、ハンスの顔が苦痛に歪む。

  (……あのシルエット、まさか!)

  俺は瞬時にその魔物の正体を思い出す。

  『氷岩蟹(アイス・クラブ)』。

  雪原エリアにおける「初見殺し」のモンスターだ。

  普段は岩に擬態して、近づいた者をその巨大なハサミで締め上げる。

  全身を覆う甲羅は鋼鉄よりも硬く、物理攻撃への耐性が極めて高い。生半可な剣撃では刃が通らない上に、ハサミの握力は、岩ですら粉々に砕く。

  (……まずい、あのままじゃハンスが潰される!)

  ハンスは両手でハサミをこじ開けようとしているが、足が地についていない状態では力が入らない。

  剣を振ろうにも、腕ごと拘束されかけていて動きが取れない。

  「ハンス兄ちゃん!」

  背後でウィルが叫ぶ。

  俺の体は、思考よりも先に動いていた。

  ドンッ、とソリの床を蹴る。

  俺は雪の上へと飛び出した。

  「ガク殿……ッ! 手出し無用です! 下がって……ッ!」

  宙吊りのハンスが、苦痛に耐えながら叫ぶ。

  俺は走った。

  雪など関係ない。深く積もった新雪を、強引に蹴散らし、踏み砕いて加速する。

  一歩、二歩、三歩。

  トップスピードに乗る。

  【AGI:04】の歩みは遅いが、【SIZ:24】の歩幅がそれを補ってくれる。

  魔物はハンスを締め上げることに夢中で、俺の接近に全く気づいていない。

  ハンスを高く持ち上げているせいで、その懐――甲羅に覆われた胴体は、無防備にさらされている。

  ゲームの知識通りなら、あいつの防御力は高い。斬撃や刺突は弾かれる。

  だが、その硬い甲羅の内側には、柔らかい中身が詰まっているはずだ。

  外から割れないなら――衝撃を叩き込んで、中身ごと粉砕すればいい!

  俺は右腕を真横に突き出した。

  丸太のような腕に、全身のバネと、走ってきた勢いをすべて乗せる。

  狙うは、ガラ空きの胴体。

  (唸れ……!俺の右腕!……ランニング・ラリアット!)

  「……フンッ!!」

  ドォォォォォォォンッ!!

  衝突の瞬間、爆発音が轟いた。

  肉を打つ音ではない。巨大なハンマーで岩盤を叩き割ったような音だ。

  魔物の自慢の硬い甲羅に、蜘蛛の巣状の亀裂が走る。

  その衝撃は甲羅を突き抜け、内部へと浸透した。

  魔物の巨体が浮き上がり、次の瞬間――内側からの圧力に耐えきれず、背中側から甲羅が爆ぜた。

  グシャアァァッ!

  甲羅が砕け散り、魔物は体液を吹き出しながらその場に倒れ伏した。

  力を失ったハサミが開き、ハンスが雪の上にドサリと落ちる。

  魔物は数回ピクピクと脚を痙攣させた後、動かなくなった。

  辺りに静寂が戻る。

  「……ふぅ」

  俺は一つ息を吐き、ハンスの方を見た。

  ハンスは、雪の上に座り込んだまま、粉砕された魔物の残骸を見つめて呆然としていた。

  「……ハンス。……ケガ、ナイカ?」

  ***

  再び、ソリが動き出した。

  地竜の足音が、規則正しく響いている。

  車内の空気は、先ほどよりも重かった。

  ハンスは向かいの席に座り、眉間に深い皺を寄せて俯いている。その手は、膝の上で強く握りしめられていた。

  「……申し訳、ありません」

  ハンスが絞り出すように言った。

  「油断しました……。護衛にあるまじき不覚……。あまつさえ、賓客であるガク殿の手を煩わせるとは……」

  「……キニスルナ」

  「いいえ、そういうわけには……!」

  「ハンス兄ちゃん、怪我はない?」

  ウィルがおずおずと声をかける。だが、ハンスはウィルの方を見ようともせず、硬い声で答えた。

  「問題ない。……それよりウィル、席に戻っていなさい。揺れると危ない」

  「う、うん……」

  ウィルが悲しげに眉を下げ、小さくなる。

  その姿を見て、俺の中で何かがカチリと音を立てた。

  (……ああ、もう。じれったいな)

  ハンスの気持ちもわかる。

  自分の不甲斐なさが許せないのだろう。仕事に徹しようとする責任感も立派だ。

  だが、その「立派さ」が、今は一番大切なものを傷つけている。

  俺は深く息を吸い込み、口を開いた。

  「……ハンス」

  「はっ。何でしょうか」

  「……ソノ、ハナシカタ、ヤメロ」

  ハンスが怪訝そうに顔を上げる。

  「え……?」

  「……カタクルシイ」

  ハンスが絶句する。俺は構わず続けた。

  「……ココニハ、オレト、ウィル、ダケ。……ホカニ、イナイ」

  「ですが、私は任務中の騎士で、貴方様は賓客です。ケジメをつけねば……」

  「ソノ『ケジメ』、デ、ウィル、ナカセルカ?」

  俺は隣でしょげているウィルを見る。

  ハンスの視線がウィルに向く。ウィルは泣きそうな顔で、それでもハンスを見つめ返していた。

  「……アトデ、コウカイ、スルゾ」

  俺は静かに、けれど強く告げた。

  「……オマエ、キシ。……スムトコロ、チガウ」

  「…………」

  「……アウコト、モウナイ」

  騎士団の規律は厳しいだろう。

  俺たちのような余所者と、任務中の騎士が、そう簡単に会えるとは思えない。

  このソリの中での時間は、彼らにとって最初で最後の「兄弟の時間」になるかもしれないのだ。

  「……アエルトキ、ハナシテオケ。……オマエノ、コトバ、デ」

  俺の言葉に、ハンスが息を呑んだ。

  彼は迷うように視線を彷徨わせ、それからウィルの顔をじっと見た。

  ウィルの瞳には、純粋な憧れと、寂しさが浮かんでいる。

  ハンスの肩から、ふっと力が抜けた。

  彼は長い溜息をつき、ガシガシと乱暴に自分の頭をかいた。

  「……ああ、もう。……あなたには敵わないですね」

  その声色は、先ほどまでの張り詰めたものではなかった。

  ハンスは苦笑いを浮かべ、ウィルに向き直った。

  「……悪かったな、ウィル。怖がらせて」

  「ハンス兄ちゃん……?」

  「久しぶりに会えたのに、格好つけてばかりじゃ、兄貴失格だよな」

  その瞬間、ウィルの顔がパァッと輝いた。

  「ううん! そんなことない! 兄ちゃん、すっごく格好良かったよ! 魔法、ズドンって!」

  「はは、最後はあんな無様だったのにな。……背、伸びたか?」

  「うん! 最近は薪割りだって手伝ってるんだよ! 筋肉ついたかな?」

  ハンスが手を伸ばし、ウィルの頭をくしゃくしゃと撫でる。

  そこにはもう、堅苦しい騎士と少年の姿はなく、どこにでもいる仲の良い兄弟の姿があった。

  (……それでいい)

  俺は腕組みをして目を閉じ、背もたれに体を預け、窓の外へと視線をやった。

  透明度の高い水晶越しに見える景色は、白一色の荒野だ。

  車内に、楽しげな話し声が満ちていく。

  外の寒さは厳しいが、ここだけは春のような暖かさがあった。

  ソリは雪原を駆け抜ける。

  目指すアイゼンベルクまで、あと半分。

  俺たちの旅は、もう少しだけ続く。

  [newpage]

  第18.5話:湯気と、兄弟の温もり

  中継砦の分厚い石壁に囲まれた宿舎に入り、俺は、ようやく肩の力を抜いた。

  魔物の奇襲から、数刻。

  俺は身体に纏った鎧の留め具を外しながら、部屋の中央にドカリと腰を下ろした巨躯の熊獣人――ガク殿を盗み見た。

  (……やはり、規格外だ)

  部屋に備え付けられた椅子は、ガク殿にとっては子供用の玩具のようなものだ。彼は床に直に座り、荷物を整理している。

  先ほどの戦闘。ガク殿の介入は俺の想定を遥かに超えていた。

  俺が拘束を抜け出す暇すら与えぬ、圧倒的な武勇。

  俺は拳を握りしめた。もっと上手く立ち回らねばならない。……護衛として、そしてウィルの兄貴分として。

  「……ふぅ。あったかいね、ここ」

  ウィルがコートを脱ぎながら、ホッとした声を上げる。

  その顔を見て、俺はふと、この砦の設備を思い出した。ここは古い軍事施設だが、兵士の療養のために作られた、ある設備があったはずだ。

  「そういえば……ガク殿、ウィル。この砦には『蒸し風呂』があるんです」

  俺の言葉に、ガク殿がのっそりと顔を上げた。

  「……ムシブロ?」

  「はい。水が貴重な高地ですので湯船はありませんが、焼いた石に水をかけ、その蒸気で体を清めるのです。先ほどの戦闘で汗もかきましたし、旅の疲れも取れるかと」

  ガク殿は興味深そうに鼻をひくつかせ、ウィルを見た。

  「……ウィル。……イキタイカ?」

  「うん! 入りたい! 体が冷えちゃったし、サッパリしたいな」

  ウィルの短めの尻尾が、嬉しそうにパタパタと揺れるのを見て、ガク殿は口元を緩めた。

  「……ヨシ。……イクカ」

  ***

  俺は二人を先導し、砦の地下へと続く螺旋階段を降りた。

  地下に近づくにつれ、空気は湿り気を帯び、石造りの冷たい廊下に温かい湯気が漂ってくる。

  「ここです」

  突き当たりにある、鉄で補強された重厚な木の扉の前で足を止める。

  俺は扉に手をかけようとして――ふと、背後のガク殿を見上げ、凍りついた。

  (……あっ)

  狭い地下通路いっぱいに広がる、ガク殿の巨体。

  身長二メートルを優に超える質量。丸太のような腕、岩盤のような胸板。

  俺は慌てて扉を開け、中の石室を確認した。

  そこにあるのは、定員三名ほどのこじんまりとした空間だ。天井も低く、熱を逃がさないために狭く作られている。

  俺は脂汗を流しながら、ガク殿に向き直った。

  「……申し訳、ありません。ガク殿」

  「……?」

  「ガク殿のその……雄大な体格を、考慮しておりませんでした」

  俺は情けなさで消え入りそうな声で説明した。

  「部屋が……狭すぎます。ガク殿が入られると、それだけで部屋が埋まってしまい……身動きが取れなくなるかと」

  俺たち三人で入れば、間違いなく窒息する。いや、そもそもガク殿が座れるスペースがあるかどうかも怪しい。

  ガク殿は扉から中を覗き込み、自身の肩幅と入り口を見比べ、残念そうに短く鼻を鳴らした。

  「……セマイ」

  「面目次第もございません……。私の配慮が足りず……」

  俺が頭を下げると、ガク殿は大きな手をそっと俺の肩に置いた。

  ポン、と優しい重みが伝わる。

  「……キニスルナ」

  「ですが……」

  「……オレ、アトデ、イイ。……ヒトリ、ハイル」

  ガク殿はそう言うと、俺とウィルを交互に指差した。

  「……サキ、イケ」

  「えっ? でもガクさん……」

  「……キョウダイ。……ハナシ、シテコイ」

  その言葉に、俺は息を呑んだ。

  ソリの中で、ガク殿は俺に言った。『会える時に話しておけ』と。

  これは、その続きを用意してくれたのだ。兄と弟として向き合う時間を。

  (……どこまで、懐の深い方なんだ)

  俺は目頭が熱くなるのを堪え、背筋を伸ばした。

  「……承知いたしました。では、お言葉に甘えさせていただきます」

  「……ウィル。……ヨク、アタタマレ」

  「うん! わかった!」

  ガク殿に見送られ、俺とウィルは脱衣所で服を脱いだ。

  俺は身につけていた騎士団の制服を脱ぎ捨てた。

  露わになったのは、全身を覆う豊かな純白の毛並みだ。雪のように白く、分厚いの被毛。身長二メートル近い巨躯と相まって、我ながら威圧感のある見た目だと思っていた。だが――ガク殿の横に並ぶと流石に自信を失ってしまうな……。

  隣ではウィルも旅装を解いていた。

  現れたのは、茶色と白の鮮やかなコントラストを持つ毛並みだ。

  ピンと立った大きな三角耳に、愛らしい短めの手足。

  俺の真っ白で巨大な体とは対照的な、小柄で愛嬌のある姿だ。

  久しぶりに見るその姿は、孤児院にいた頃よりもしっかりとしていたが、やはり俺やガク殿に比べれば小さく、守るべきものの象徴のように思えた。

  「行こうか、ウィル」

  「うん、ハンス兄ちゃん」

  重い木の扉を開ける。

  もわり、と濃厚な白い蒸気が顔に吹き付けた。

  視界が白く染まる中、俺たちは二人、熱気の籠もる石造りの小部屋へと足を踏み入れた。

  ***

  「……熱っ! うわ、なにこれ!?」

  石造りの狭い部屋に入った瞬間、ウィルが目を白黒させて驚いた声を上げた。

  視界を埋め尽くす白い湯気と、肌にまとわりつく熱気。ウィルにとっては初めての体験だ。

  「口を開けてると熱気が入って苦しくなるぞ。……ほら、こっちに座れ」

  俺はウィルをベンチに座らせると、水に浸しておいた白樺の枝束を手に取った。

  「なに、それ? 葉っぱ?」

  「ああ。こいつで体を叩くんだ。血行が良くなって、疲れが吹き飛ぶぞ」

  「叩くの? お仕置きみたいだね」

  「バカ言え。……ほら、背中貸せ」

  俺はウィルの背中に、バシッ、バサッ、と濡れた枝束を打ち付けた。

  茶色い背中の毛並みが濡れてしっとりと沈み、葉の爽やかな香りが弾けて、熱せられた空気に広がる。

  「わっ、冷たい! ……あ、でも、なんか気持ちいいかも」

  「だろ? じっとしてろよ」

  最初は大きな耳をピクピクさせてくすぐったがっていたウィルも、次第に力が抜け、「ふあぁ……」と気持ちよさそうな声を漏らし始めた。

  しばらく叩いてやると、ウィルの顔色が薄っすらと赤く染まっていく。

  「よし、こんなもんだろう」

  「はぁ……すごいサッパリした。ありがとう、ハンス兄ちゃん」

  ウィルが振り返り、今度は俺の手から枝束を受け取った。

  「次は僕がやってあげる! 貸して!」

  「お、気が利くな。頼むわ」

  俺はベンチにあぐらをかき、ウィルに広い背中を向けた。

  ウィルの小さな手で、ペチッ、ペチッ、と枝束が叩きつけられる。

  俺の分厚い白毛の上からでは衝撃も柔らかく、弟分に世話を焼かれるというのは悪くない気分だ。

  「……ハンス兄ちゃん、すごいね」

  背中から、ウィルの感心したような声が聞こえた。

  叩く手が止まり、代わりに小さな指先が、俺の真っ白な背筋の溝をなぞるように触れてくる。

  「服と毛皮でわからなかったけど……中身、すごい筋肉だね。岩みたいにゴツゴツしてる」

  「そりゃあな。騎士やってりゃ、嫌でも鍛えられるさ」

  俺は得意げに鼻を鳴らし、くるりとウィルの方へ向き直った。

  そして、わざとらしく胸に力を入れ、白い胸毛の下にある筋肉を誇示してみせる。

  「背中だけじゃないぞ。ほら、触ってみろ。鋼鉄の鎧より硬ぇぞ」

  「うわぁ……! 本当だ、カッチカチだね!」

  ウィルが目を輝かせて、俺の大胸筋や割れた腹筋をペタペタと触る。

  白い巨体に、茶色い小さな手が埋もれるような光景だ。

  無邪気な憧れの眼差しを向けられ、俺はまんざらでもなかった。

  「僕も頑張ったら、もっと筋肉つくかなぁ」

  「お前はそこまでデカくはならんだろうが……ま、いい戦士にはなれるさ」

  ウィルが自分の腕を見比べて苦笑いする。

  俺が笑って、その大きな立ち耳の間をワシャワシャと撫でてやると、ウィルの視線がふと下へ――俺のあぐらの間へと落ちた。

  「……そっちも、大きいね」

  ウィルがまじまじと見つめているのは、熱気で弛緩し、だらりと横たわっている俺の逸物だ。

  白毛に埋もれかけてはいるが、それでもサイズの違いは歴然としている。

  だが、俺は隠すこともなく、ふんぞり返って言い放った。

  「当たり前だろ。大人だからな!」

  「むぅ。自慢げに……」

  「ははは! お前もそういうのが気になる年になったか?」

  ウィルが少し拗ねたように唇を尖らせる。その生意気で可愛らしい顔を見ていたら、ふと悪戯心が芽生えた。

  「……おし。なら、俺がそっちの『成長』も見てやろう」

  「えっ、わっ!?」

  俺はウィルの脇を抱えると、ひょいと持ち上げ、自分の左太ももの上に跨らせるようにして座らせた。

  密着した太ももから、ウィルの体温が伝わってくる。

  「な、何するのさ!」

  「じっとしてろ。……どれ」

  俺は逃げようとするウィルの腰を片腕で抑え込み、空いた手でウィルの股間へと手を伸ばした。

  白い腹毛とお揃いの、白っぽい下腹部。

  「ひゃっ!?」

  「ほう……。見た目は可愛らしいが、意外と元気そうじゃないか」

  「ちょ、やめっ……! くすぐったいよ!」

  俺が指先で弄ぶと、ウィルは身をよじって抵抗した。

  だが、この熱気と密室のせいだろうか。ウィルのモノは、俺の刺激に素直に反応し、みるみるうちに硬く、熱くなっていく。

  「おーおー、すぐに大きくなりやがって。素直な体だな」

  「んっ……、はぁ……っ! ハンス、兄ちゃん……っ!」

  最初は抵抗していたウィルだが、俺が根本を握り、リズミカルに擦り上げてやると、次第に力が抜け、俺の腕にしがみついてきた。

  ピンと立っていた大きな耳が、快感に耐えるようにペタンと伏せられる。

  「あんっ、……だめ、そんなっ……!」

  「どうした? 気持ちいいんだろ?」

  「んあぁっ! ……でるっ、でちゃうっ……!」

  ウィルの体がビクンと跳ねる。

  俺は構わず、最後の一押しとばかりに強く扱いた。

  「あっ、ぁぁぁーーっ!!」

  ウィルが甲高い声を上げ、白濁した熱を俺の手の中に吐き出した。

  ハァハァと荒い息をつくウィル。

  俺は手のひらを汚した粘液を見せつけ、ニヤリと笑った。

  「へぇ……。結構な量だ。お前も一丁前になったな」

  「……っ、ひどいよ……!」

  ウィルが涙目で俺を睨む。顔は真っ赤だ。

  からかい過ぎたかと思ったが、ウィルは不服そうに鼻を鳴らすと、俺の太ももから下りた。

  「……今度は、僕の番だ」

  「あん?」

  ウィルは俺の足の間に割り込むようにして座り込むと、まだ熱の冷めやらぬ小さな手で、俺のモノを掴んだ。

  「お、おい! やめろっ」

  俺は慌てて腰を引こうとした。

  だが、ウィルの手についたウィル自身の粘液がローション代わりになり、ぬるりと俺の敏感な部分を擦り上げた。

  「ッ……!」

  背筋に電流が走る。

  やばい。

  ウィルの手は小さいが、その熱さと感触がダイレクトに脳に響く。

  (そういえば……最近は任務続きで、ろくに抜いてなかったな……)

  禁欲していた体に、この刺激は強すぎた。

  俺のモノは瞬く間に血液を集め、鋼鉄のように硬く勃ち上がった。

  「わぁ、すごい。ピクピクしてる」

  「ウィル、離せ……!!」

  「やだ。さっきのお返しだもん」

  ウィルは悪戯っぽく笑うと、両手を使って俺の剛直を扱き始めた。

  根本から先端へ、そして鈴口を指先で弄る。

  子供の遊びの延長? いや、こいつ、どこでこんな手つきを覚えたんだ。

  「うっ、……ぉぉッ!」

  俺はウィルの頭を掴んで引き剥がそうとしたが、指が毛並みに絡まるだけで、力が入らない。

  限界は、あっけなく訪れた。

  「――ぅあっ、でるッ!!」

  ドクンッ!

  俺の腰が大きく跳ねた。

  ウィルの手の中だけでなく、茶色と白の胸毛にまで、大量の白濁が勢いよく飛び散った。

  「はぁッ、……はぁ、はぁ……ッ!」

  俺は天井を仰ぎ、脱力した。

  頭の中が真っ白だ。弟分相手に、しかもこんな短時間で果てるなんて。

  「……うわぁ、すごい量……」

  ウィルが俺の放出したモノまみれになりながら、目を丸くしている。

  そして、ニシシと勝ち誇ったように笑った。

  「それにさ。ハンス兄ちゃんって、イクとき可愛い声出すんだね」

  「…………」

  カアアッ、と顔が熱くなるのがわかった。

  こいつ、聞きやがったな。

  「……うるせぇ!」

  俺は照れ隠しに、ウィルの頭をポカッと軽く拳で小突いた。

  ウィルは「いったぁ」と大袈裟に頭をさすりながらも、楽しそうにケラケラと笑っている。

  もう一度、俺は大きく息を吐き出し、乱れた呼吸を整えた。

  まったく、とんだ蒸し風呂になったもんだ。

  だが、気まずさはなかった。

  湯気の中に響く二人の笑い声が、以前よりも少しだけ近くなった距離を教えてくれていた。

  ***

  その後、俺たちは体を流し、サッパリとした顔で部屋に戻った。

  部屋ではガク殿が待ちくたびれた様子で、しかし温かい目をして俺たちを迎えてくれた。

  俺たちの肌はまだ少し火照っている。

  それは湯気の熱のせいだけではないことを、俺とウィルだけが知っていた。

  [newpage]

  第19話:鉄の都と、騎士の報告

  「……見えてきました。あれが、我らの本拠地です」

  俺は窓の外を指差しながら、二人に告げた。

  視線の先、雪原の地平線に、黒く巨大な影が浮かび上がっていた。

  領都アイゼンベルク。

  東の魔境に睨みをきかせる、北辺の守護要塞。

  通常ならば四日かかる道のりだが、今回は地竜たちが健闘してくれたおかげで、予定よりも半日早く到着できそうだ。

  だが、俺がこの旅路を「早い」と感じたのは、単に時間のせいだけではないだろう。

  (……良い旅だった、な)

  俺はチラリと隣を見た。

  ウィルが窓に張り付いて、目を輝かせている。

  あの魔物の襲撃の後、ガク殿に諭された俺は、騎士の仮面を少しだけ外し、一人の兄としてウィルと接した。

  孤児院での思い出話、俺の訓練の話、ウィルの将来の夢。

  他愛のない話ばかりだったが、それは俺にとって、何年分もの空白を埋めるような、温かく貴重な時間だった。

  それもこれも、向かいで腕を組んで眠っている(ように見える)、この規格外の御仁のおかげだ。

  俺はガク殿の寝顔に、心の中で深く感謝を捧げた。

  「うわぁ……! 大きい……! 山みたいだ!」

  ウィルが歓声を上げる。

  ソリが近づくにつれ、その威容が明らかになってきた。

  アイゼンベルクは、自然の岩山を削り出し、その周囲を鋼鉄と黒曜岩の城壁で囲った城塞都市だ。

  城壁の高さは二十メートルを超え、所々に設置された監視塔からは、対空迎撃用のバリスタが空を睨んでいる。

  街全体から立ち昇る蒸気と煤煙は、この都市が巨大な工場であり、兵器庫であることを如実に物語っていた。

  「……オォ。……リッパダ」

  いつの間にか目を覚ましていたガク殿が、低く唸った。

  その言葉に、俺は誇らしい気持ちになった。

  華やかさはない。だが、この無骨さこそがアイゼンベルクの誇りだ。

  「これより城門を通過し、市街地へと入ります」

  俺は居住まいを正し、二人にこれからの予定を伝えた。

  「まずは、騎士団が用意した『迎賓館』へご案内します。そこでお旅の疲れを癒やしてください。謁見の日取りについては、また改めてご連絡いたします」

  「……ワカッタ」

  「ウィルも、ガク殿と一緒の部屋を用意してあるからな」

  「本当? やったぁ!」

  ソリは巨大な鉄の門をくぐり抜けた。

  門番たちが直立不動で敬礼する中、地竜たちは石畳の大通りを滑るように進んでいく。

  活気ある市場、整然と並ぶ石造りの家々、そして通りを行き交う武装した兵士たち。

  初めて見る大都市の光景に、ウィルは首が痛くなるほどキョロキョロと辺りを見回していた。

  ***

  迎賓館は、領主の城のすぐ近く、貴族街の一角にあった。

  華美な装飾は少ないが、堅牢で広々とした造りの建物だ。ここなら、ガク殿の巨体でも多少は窮屈さを感じずに済むだろう。

  「ここが、お二人の部屋です」

  案内された一室に入り、俺は荷物を置いた。

  暖炉にはすでに火が入っており、部屋は十分に暖かい。

  「食事や湯の準備は、ここの使用人たちに任せてあります。何かあれば、遠慮なく申し付けてください」

  「……アリガトウ。……ハンス、ハ?」

  「私はこれより、騎士団本部へ戻り、グスタフ隊長へ到着の報告をせねばなりません」

  俺は少し残念な気持ちを抑え込み、騎士の顔で告げた。

  本当なら、もっとゆっくりと街を案内してやりたいが、任務はまだ終わっていない。

  「ウィル。ガク殿のことを頼んだぞ。いい子にしているんだぞ」

  「うん! ハンス兄ちゃんも、お仕事がんばってね!」

  「……ああ」

  俺はガク殿に一礼し、ウィルの頭をポンと撫でてから、部屋を後にした。

  扉を閉めた瞬間、俺の表情は引き締まったものに変わった。

  ここからは、仕事の時間だ。

  ***

  騎士団本部は、領主城に隣接する巨大な軍事施設だ。

  その最奥にある騎士団長室。

  重厚な木の扉の前で、俺は一度深呼吸をしてからノックをした。

  「入れ」

  中から響いたのは、地響きのような野太い声だった。

  俺は扉を開け、入室すると同時に最敬礼を行った。

  「従騎士ハンス・フォン・ベルガー、ただいま帰還いたしました!」

  執務机の奥に座っていたのは、黒と褐色の毛並みの古強者だ。

  鋭い眼光に、歴戦の証である古傷が走る顔。

  アイゼンベルク騎士団長にして、俺の養父でもある、グスタフ・フォン・ベルガーその人だ。

  純粋な体格だけで言えば、このベルガー家の中でも俺が一番大きい。

  だが、こうして対峙すると、まるで巨大な岩壁を見上げているような錯覚に陥る。

  グスタフ隊長が放つ歴戦の覇気と重圧は、物理的なサイズ差など容易く覆すのだ。

  隊長は書類から顔を上げ、俺をジロリと見やった。

  「……ハンスか。予定より早い到着だ」

  「はっ。天候と地竜の調子が良く、順調に進むことができました」

  「……して、『賓客』の様子はどうだ? 粗相はなかったか?」

  隊長の目が鋭くなる。

  俺は背筋を伸ばし、道中の出来事を報告した。

  「ガク殿は……非常に理知的で、温厚な方でした。こちらの不手際や、設備の不備に対しても、不満一つ漏らさず、むしろ感謝の言葉を口にされるほどです」

  「ほう。あの体格で、人格者か。……道中の襲撃はどうだった?」

  この季節、アイゼンベルクへ向かう道中で魔物に遭遇しないことの方が珍しい。

  「……はい。白の回廊にて、雪原蜥蜴と、氷岩蟹の奇襲を受けました」

  「……して、『仕掛け』の結果は?」

  「予定通り、不意を突かれたふりをして拘束されましたが……脱出の必要はありませんでした」

  俺は畏怖を込めて告げた。

  「私が魔法を発動するよりも早く、ガク殿が動きました。武器も持たず、素手で……ただの一撃で、氷岩蟹の甲羅を粉砕しました」

  俺の報告を聞き、グスタフ隊長は太い腕を組み、喉の奥で低く唸った。

  それは怒りではなく、純粋な武人としての、重々しい感嘆の響きだった。

  「……そうか。噂は、伊達ではなかったか」

  団長は椅子から立ち上がり、窓の外――雪に閉ざされた東の空を見上げた。

  「ハンスよ。私がなぜ、わざわざあの村へ赴いたかわかるか?」

  「それは……ガク殿への礼を尽くすため、では?」

  「それもある。だが一番の理由は、私の目で見極めるためだ」

  団長が窓ガラスに映る自分の顔を睨みつける。

  「あの男と対峙した瞬間、肌が粟立ったのを覚えている。……私はな、久々に震えたよ。魔力ではない。殺気でもない。ただそこに立っているだけで、周囲の空気を歪めるような圧倒的な気配」

  団長は振り返り、その鋭い双眸にギラリと剣呑な光を宿した。

  「私の直感は間違っていなかったようだな。……氷岩蟹ごときでは、あの御仁の実力を測る物差しにすらならんか」

  「……はい。ガク殿の力は、我々の常識を遥かに超えています」

  団長は満足げに頷き、そして表情を引き締めた。

  「……ならば、賭ける価値はある」

  その言葉は、確信というよりは、すがるような響きを含んでいた。

  俺はゴクリと喉を鳴らし、恐る恐る尋ねた。

  「団長……。やはり、ガク殿を招いたのには、別の理由があったのでしょうか?」

  グスタフ団長はゆっくりと振り返り、重々しく告げた。

  「ああ。先行偵察部隊が『氷山龍(アイスバーグ・ドラゴン)』を観測した。……八十年ぶりだ。『凍嶺の災厄』が目を覚ましたのだ。」

  氷山龍。

  それは吟遊詩人が歌うような、英雄譚の敵ではない。

  アイゼンベルクの公文書に記された、過去二度にわたり北方の防衛線を壊滅させた、正真正銘の『戦略級脅威』だ。

  奴は、圧倒的な質量と火力で全てを蹂躙しながら進軍してくる『歩く氷山』だ。

  かつて一つの都市が地図から消えたのは、魔法の力ではない。奴がただ通り過ぎただけで、都市機能が凍結し、鋼鉄の防壁が飴細工のように踏み砕かれたという、物理的かつ凄惨な破壊活動によるものだ。

  「奴の戦法は単純にして、最悪だ。城壁の前まで堂々と歩いてきて、そのまま全てを瓦礫に変えて歩み去って行く。単純にして、防ぎようのない暴力だ」

  団長が苦々しげに拳を握りしめる。

  俺は震える声で尋ねた。

  

  「ですが団長! それほどの脅威ならば、なぜ国に……王都へ使者を出し、正規軍の応援を要請しないのですか!? 騎士団だけでは……!」

  「できんのだ、ハンス。外を見ろ」

  団長が顎で窓の外をしゃくった。

  そこには、世界を白く塗りつぶす猛吹雪が吹き荒れている。

  

  「奴が目覚めたのは、本格的な冬が到来した直後だった。……最悪のタイミングだ」

  団長は吐き捨てるように言った。

  

  「この豪雪だ。仮に連絡がついたとして、数万の正規軍がこの雪山を越えて来られると思うか?」

  「あっ……」

  「輜重部隊は雪に埋もれ、兵は行軍だけで消耗し、到着する頃には春になっているだろう。……その頃には、アイゼンベルクはすでに瓦礫の山だ」

  俺は言葉を失った。

  冬。この季節そのものが、我々を外界から隔絶する檻となっていたのだ。

  救援は来ない。孤立無援。

  団長が苦々しげに拳を握りしめる。

  「ドラゴンの分厚い鱗と巨体は、我々の攻撃を豆鉄砲のように弾き返す。……奴の進撃を少しでも遅らせるには、真正面からぶつかり合い、その巨体を物理的に押し留める『力』が必要なのだ」

  「そのための……ガク殿、ですか」

  「そうだ。……正直に言おう、ハンス。あの御仁の一人の力で、あのドラゴンを止められるとは思っていない」

  団長は苦渋の表情で吐き捨てた。

  「相手は伝説級の怪物だ。いくら怪力の熊人とはいえ、所詮は生身。踏み潰されて終わるかもしれん。……分が悪すぎる賭けだ」

  「では、なぜ……」

  「他に手がないからだ……座して全滅を待つか、それとも勝率一割にも満たぬ『未知』に賭けるか。……指導者として選べる道は、後者しかなかった」

  団長は静かに言った。

  視線を落とし、卓上に広げられたアイゼンベルク周辺の地図を、太い指でなぞる。

  「我々の持つ武器が、奴には通じないことは歴史が証明している。……このまま定石通りに戦えば、領都は確実に瓦礫の山と化すだろう。

  それに……この季節だ。全ての領民を逃すことなど不可能だ。雪原に放り出せば、ドラゴンに殺される前に凍え死ぬ」

  団長の声は、恐ろしいほどに凪いでいた。

  まるで、自軍の全滅という結末を、単なる戦況予測の一つとして受け入れているかのような冷静さだった。

  「逃げ場はない。我々は、この都市を死守するしかないのだ。……感情論ではない。これは、確定した未来だ」

  「……」

  俺は拳を握りしめた。

  理屈はわかる。溺れる者は藁をも掴む。今の騎士団にとって、ガク殿はその「藁」なのだ。

  例えそれが、何の罪もない恩人を死地に送り込む行為だとしても。

  「……団長。ガク殿には、まだ何も伝えておりません。ただの『招待』だと信じておられます」

  「わかっている。明日、領主立ち会いのもと、正式に依頼するつもりだ」

  「もし……断られたら、どうなさるおつもりですか?」

  俺の問いに、グスタフ団長は顔色一つ変えずに答えた。

  「……その時は、あらゆる手段を使う」

  冷徹な声だった。

  「金積んで済むならよし。地位や名誉を望むなら与えよう。……だが、それでも首を縦に振らぬなら」

  団長の視線が、俺を射抜いた。

  「……お前が連れてきた『人質』が役に立つだろう」

  「ッ!?」

  「ウィルと言ったな。あの子の安全と引き換えにすれば、あの『人格者』の男は断れまい」

  俺は愕然とした。

  団長がそこまで考えていたとは。俺がウィルを連れてきたことすら、計算の内だったというのか。

  俺は思わず声を荒らげた。

  「そ、そんな……! あんまりです! ガク殿は……彼らは私を信じてついて来てくれたんですよ!? ウィルは、私にとって弟のような存在なんです!」

  「甘えるな、ハンス!」

  一喝。

  執務室の空気がビリビリと震えた。

  「我々は騎士だ! 数万の領民の命を背負っているのだ! そのためなら、泥を被り、外道に堕ちる覚悟を持て!」

  団長の怒声に、俺は言葉を失った。

  団長の瞳の奥に、深い苦渋の色が見えた気がした。

  この人もまた、楽しみでやっているわけではない。誰かがやらねばならない汚れ役を、一人で背負おうとしているのだ。

  「……だが、これは最悪の手段だ」

  団長は声を和らげ、椅子に座り直した。

  「まずは誠心誠意、頼むつもりだ。……あの男が、我々の願いを聞き入れてくれることを祈るしかない」

  「……」

  俺は唇を噛み締め、俯いた。

  ガク殿の、あの穏やかな笑顔が脳裏に浮かぶ。

  俺とウィルの再会を喜んでくれた、温かい言葉が蘇る。

  (……俺は、なんてことをしてしまったんだ)

  恩人を騙し、死地へと誘い込んでしまった。

  明日、真実を知ったガク殿は、どんな顔をするだろうか。

  ましてや、ウィルを人質に取るなどという話になれば……。

  「……今日はもう下がって休め。……ご苦労だった」

  「……はっ。失礼いたします」

  俺は機械的に敬礼し、執務室を出た。

  廊下を歩く足取りは、来る時よりも遥かに重かった。

  窓の外では、雪が激しく降り始めていた。まるで、俺の心を覆い尽くすように。

  [newpage]

  第20話:失くした過去と、熊の誓い

  翌朝。

  迎賓館の食堂は、冷え切った石造りの壁に囲まれていたが、暖炉の火が赤々と燃え、室内は十分に暖かかった。

  卓上に並んでいるのは、この地方特有の質実剛健な朝食だ。

  ずっしりと重いライ麦の黒パン。

  塩気の効いた厚切りの塩漬け豚。

  そして、レンズ豆と根菜をくたくたになるまで煮込んだポタージュ。

  飲み物は、湯気を立てるハーブティーだ。

  洗練された味ではないが、冷えた体には脂と塩気が何よりの馳走だ。

  いかにも騎士団の食事、といった趣がある。

  「おいしいね、ガクさん! このお豆のスープ、すごく体が温まるよ」

  「……ウマイ、ナ」

  向かいの席で、ウィルが木のスプーンを使って器用に豆を掬っている。

  それを見ながら、硬い黒パンを引きちぎり、塩漬け肉と一緒に口へ放り込む。

  (……悪くない時間だな)

  俺はパンを咀嚼しながら、ここまでの旅路を振り返る。

  地竜のソリに揺られ、初めて見る景色を楽しんだ。ウィルも久しぶりにあった兄弟との時間を楽しんでいた。

  それは、この世界に来てから一番平穏で、贅沢な時間だったかもしれない。

  窓の外からは、カン、カン、という規則的な金属音が響いてくる。

  今朝、少しだけ外を見たが、この街の雰囲気は以前訪れた『交易都市グランキース』とはまるで違っていた。

  あそこが商人の熱気に満ちた街なら、ここは職人と戦士の街だ。

  街のいたるところから響く金槌の音。あれは剣や鎧を打つ音だろう。

  街全体が巨大な工房であり、要塞のような重々しさがある。そういえば、ハンスも道中でそんなことを言っていた気がする。

  グランキースの時にも思ったが、この圧倒的な「生活の音」と「熱気」には気圧される。

  ゲームの画面越しではない。ここは、本物の人間たちが生き、鉄を打ち、飯を食らう現実の世界なのだ。

  (……でも、平和な観光旅行というわけにはいかないだろうな)

  わざわざ騎士団長自らが村まで足を運び、こんな真冬の時期に移動を強行した。

  向こうは俺のことを「他国の訳あり貴族」と誤解していると言っていたが、それにしても待遇が良すぎる。

  冷静に考えれば、俺は身元不明の不法滞在者だ。本来なら牢屋に入れられても文句は言えない立場なのだ。

  (……なんだか、陰謀の予感がするな)

  タダより高いものはない。この厚遇の裏に、何か厄介な事情が隠されているのは間違いないだろう。

  俺一人ならどうとでもなるが……隣で無邪気にスープを飲んでいるウィルの横顔を見て、俺の胸にチクリとした痛みが走った。

  ウィルを連れてきてしまったのは、失敗だっただろうか。

  ――ガチャリ。

  重厚な扉が開く音がした。

  入ってきたのは、ハンスだ。

  だが、彼はいつものようにウィルに笑顔を向けることもなく、扉の前でカカトを鳴らして直立不動の姿勢を取った。

  「……ガク殿。お食事中、失礼いたします」

  「……ドウシタ? カオ、コワイゾ」

  ハンスの顔色は、磨き上げられた鎧のように蒼白く、冷たい。

  目の下には隈ができている。一睡もしていないのだろう。

  腰に下げた剣の柄を握る指に力が入っている。

  何かあったな、と直感した。

  「……急ぎ、お伝えせねばならぬことがございます」

  「……イイ。……ナニカ、アッタカ?」

  「……はっ。騎士団長、グスタフ・フォン・ベルガー閣下が、ガク殿との面会を希望されています。……今すぐに、内密に」

  ハンスの声は低く、張り詰めていた。

  ウィルが不安そうにスプーンを止める。

  「ハンス兄ちゃん……? 僕も行くの?」

  「……いや。ウィルはここで待機だ。……これは、大人の話だ」

  ハンスは、頑なにウィルと目を合わせようとしなかった。

  その態度が全てを物語っている。

  ……なるほど。そういうことか。

  「……ワカッタ。イク」

  俺は立ち上がり、最後の一切れの黒パンを口に放り込んだ。

  咀嚼し、飲み込む。腹に重いものが落ちた。

  「ガクさん……?」

  「ウィル。……マッテロ。スグ、モドル」

  俺はウィルの頭を、慎重にその大きな掌でポンと一度だけ撫でた。

  そしてハンスに連れられ、食堂を出た。

  ***

  案内されたのは、騎士団本部の奥にある一室だった。

  飾り気のない、石と鉄で作られた無骨な部屋だ。

  壁には古びた地図が張り出され、部屋の中央には巨大なオーク材の机が置かれている。

  その奥に、一人の巨漢が待っていた。

  短く刈り揃えられた黒と褐色の毛並みを持つ、ロットワイラーの獣人だ。

  かつて村で会った時と同じ、威圧感のある黒い鎧こそ纏っていないが、軍服の上からでもわかる岩のような筋肉の盛り上がりは健在だ。

  太いマズルに刻まれた深い眉間の皺。その強面は相変わらずだが、村で見た時よりも幾分か、瞳の奥に沈殿した疲労の色が濃く見えた。

  グスタフ団長は、机の上に広げられた地図に両手をついて俯いていたが、俺が入るとゆっくりと顔を上げた。

  「……来てくれたか、ガク殿。旅の疲れもあるだろうに、すまない」

  その声は、村の村長宅で聞いた時と同じ、地底から響くような重低音だった。

  グスタフ団長は椅子から立ち上がると、俺に向かって深々と頭を下げた。

  「改めて礼を言う。遠路はるばる、よく来ていただいた」

  「……ヒサシブリ、ダナ。……ダンチョウ」

  「ああ。村では世話になったな。……だが、再会を祝う前に、私は貴殿に詫びねばならん」

  グスタフ団長は顔を上げ、苦渋に満ちた表情で告げた。

  「『招待』というのは、方便だ。貴殿をこの街へ招いたのには、軍事的な思惑がある。……ハンスを使い、貴殿らの善意を利用した」

  隣に立つハンスが、耐えきれないように俯く。

  騙して連れてきたことへの謝罪。やはりそうか。

  村で会った時の彼は、強面ながらも礼節を重んじる男だった。その彼がここまで強引な手を使ったのだ。よほどの事情があるに違いない。

  「……ダロウナ」

  「……気づいていたのか?」

  「……ゴエイ、ソリ、オオゲサ。……タダノ、ショウタイ、チガウ」

  騎士団長自らの訪問、護衛に騎士をつけ、軍用の地竜を手配し、国賓級の厚遇をする。

  身元の怪しい熊と、その付き添いの少年にするには、あまりにコストが見合わない。

  何らかの「対価」を求められていることは、最初から予期していた。

  「……ホントウノ、ヨウジ、ナンダ?」

  俺が尋ねると、グスタフ団長は机上に広げられた地図――その一点に置かれた『駒』を、太い指でコンと叩いた。

  アイゼンベルクの北方。等高線が描かれた雪山の只中に、血のように赤い駒が置かれていた。

  「……『氷山龍(アイスバーグ・ドラゴン)』。……恥を承知で頼みたい。こやつの討伐に、貴殿の力を貸してはもらえんだろうか」

  (……!)

  その名前を聞いた瞬間、俺の脳内で記憶の引き出しが開いた。

  そんな気はしていたんだ。

  この雪、この場所、そしてこのピリピリとした空気。

  (氷山龍……)

  ゲーム時代、北方の雪山エリアに出現したフィールドボスだ。

  奴は……まさに歩く『氷山』だ。

  全長は五十メートルを超え、その全身は鋼鉄よりも硬い氷の甲殻で覆われている。

  非常に高い体力と防御力を持ち、自らの縄張りを定期的に巡回する習性がある。

  奴が歩くだけで大地は揺れ、進行ルート上にあるものは、それが木々であろうと建造物であろうと、無慈悲に粉砕されていく。

  だが、動きは鈍重で、基本的には自発的な攻撃を行わない。ただひたすらに、重くて硬い災害だ。

  (……このモンスターだったら、俺のステータスでもなんとかなるかもしれない)

  まともに戦えば、騎士団の剣やバリスタなど、爪楊枝にもならないだろう。

  だが、俺の【STR:26】(筋力)と、硬い甲殻に有効な打撃(素手)特化のスキル構成なら、相性は悪くない。

  「……マチ、クル、ノカ?」

  俺が地図を指差すと、グスタフ団長は重々しく頷いた。

  「その通りだ。奴の進行方向の先に、このアイゼンベルクがある。

  奴にとって、我々の防壁など小石に過ぎん。このままでは都市は踏み潰され、壊滅するだろう」

  「……ヒナン、ハ?」

  「この冬の嵐の中だ。数万の市民を野外へ逃せば、ドラゴンに殺される前に凍え死ぬ。……我々は、ここで迎え撃つしかないのだ」

  逃げ場はない、ということか。

  「……ワカッタ。ヤル」

  即答だった。

  あまりの早さに、グスタフ団長とハンスが目を見開く。

  「……なっ!? か、考える時間もなしか? 相手は伝説級のドラゴンだぞ!? 命の保証はない! それに、まだ交渉も……」

  「……イラナイ」

  「いらない!?」

  グスタフ団長が絶句する。

  俺は静かに説明した。

  「……ココ、コワレル。……ムラ、アブナイ」

  「……!」

  「……ムラ、アブナイ。……ウィル、アブナイ」

  言葉足らずだが、理屈は繋がるはずだ。

  ここから村までは距離がある。この「歩く氷山」が、そこまで到達しない可能性だってあるだろう。

  だが、絶対という確証はどこにもない。この砦が抜かれれば、北方の防衛線は崩壊する。そうなれば、背後にある村だってただでは済まない。

  それに、ここで都市を見捨てて逃げれば、俺はずっと「見殺しにした」という負い目を感じて生きることになる。

  ……それに、ウィルだ。優しく、正義感の強いあの少年に、そんな重荷を背負わせたくはない。

  打算的なことを言えば、嘘をついてまで俺をここに呼び寄せたのだ。俺が拒否したところで、素直に解放してくれるとも思えない。

  俺の平穏な寝床も、美味い飯も、そしてウィルの笑顔も。

  守るためには、戦うしかないのだ。

  領都の危機は、そのまま俺の大事なものの危機に直結している。

  この世界で目を覚ましてから、数ヶ月。

  前世の俺なら、仕事に忙殺されて瞬きする間に過ぎ去っていたような、短い時間だ。

  だが、あの村での日々は、灰色の記憶しかなかった俺の人生において、何よりも温かく、色鮮やかだった。

  それら全てが、今、脅かされている。

  この砦を見捨てれば、俺一人だけならどこへでも逃げられるかもしれない。

  だが、俺の大事な「居場所」は、冷たい氷の下に永遠に閉ざされることになる。

  ……ありえない。

  そんな未来を許容できるほど、俺は物分かりが良くない。

  俺の平穏を脅かす奴は、例え伝説のドラゴンだろうが、ぶん殴って叩き出す。

  それだけの話だ。

  「……オレ、ウィル、マモル。……ダカラ、タタカウ」

  単純明快な理屈だ。

  そう口に出して、俺は必死に己の心臓を叩いた。

  ――正直に言えば、膝が笑い出しそうなくらい怖い。

  相手は全長五十メートルを超える、生きた災害だ。

  ゲームならともかく、現実で倒せるところを想像できない。

  逃げ出せるなら、今すぐにでもウィルを抱えて逃げ出したい。

  だが、逃げた先に何がある?

  雪山での遭難か、一生続く後悔か。

  ここで戦わなければ全て失われる。

  (……大丈夫だ。俺には、今の俺には『この身体』がある)

  俺は自分自身に言い聞かせる。

  俺は強い。あのドラゴンとも渡り合えるはずだ。そう信じ込まなければ、一歩も動けなくなりそうだった。

  恐怖を、ハッタリと覚悟で塗りつぶす。

  やるしかないんだ。

  「しかし……命を懸けてもらうのだぞ? 相応の報いがなくては、私は騎士として……いや、人として顔向けができん」

  食い下がる団長に、俺は一つだけ条件を出した。

  「……ナラ、ヒトツ、タノム。……モシ、オレ、シッパイ、シテモ」

  俺は団長を真っ直ぐ見た。

  「……ウィル、ニガセ。……ゼッタイ、タスケロ」

  ハンスが息を呑む音が聞こえた。

  グスタフ団長の目が大きく見開かれる。

  「……アト、ウィルニ、イウナ。……オレ、ドラゴン、イク」

  「……なぜだ?」

  「……ウィル……シンパイ、サセル、ダメダ」

  ウィルには、ただの「ちょっとした仕事」だと思って、待っていてほしい。

  あの子には、不安な顔よりも、美味しいものを食べた時の笑顔が一番似合うから。

  部屋に沈黙が落ちた。

  グスタフ団長は、何かを堪えるように奥歯を噛み締め、それから深く溜息をついた。

  「……それは、報酬とは言わん。……ただの願いだ」

  「……ソウカ?」

  「ああ。……なぜだ。なぜ、そこまであの子を気にかける?」

  団長の真剣な問いかけに、俺は思案した。

  その言葉は、単なる好奇心ではなかった。

  死地へ向かう者への、せめてもの手向けのような、静かで重い問いだった。

  (……なぜ、か)

  適当な言葉で誤魔化すこともできただろう。

  だが、これから命を懸けて一緒に戦う相手に、嘘をつくのは違う気がした。

  俺は、少しだけ本当のことを話そうと思った。

  俺が異世界――日本という別の国から来たこと。

  本当の身体は人間で、こんな熊の姿ではなかったこと。

  言葉も流暢に話せたのに、今はうまく話せなくなってしまったこと。

  一人、この世界に放り出されて、仕事も、家族も、友人も、何もかも失ってしまったこと。

  もう二度と、元の場所へは帰れないこと。

  絶望的な孤独の中で、ウィルが俺を見つけてくれた。

  言葉の通じない俺に、笑顔と居場所をくれた。

  あの小さな温もりだけが、今、俺の中にある全てなのだと。

  俺は、拙い言葉を一つずつ、レンガを積むように並べた。

  「……オレ、ベツノクニ、カラ、キタ」

  「……」

  「……ジコ、アッタ。……カラダ、カワッタ。……コトバ、ナクシタ」

  俺は自分の毛皮に覆われた腕を強く握りしめた。

  かつての俺は、こんな剛毛でも、鉤爪でもなかった。

  「……オレ、ヒトリ。……スベテ、ナクシタ」

  「……」

  「……カエルバショ、モウ、ナイ」

  帰る家はない。

  俺を知る人は、この世界には一人もいない。

  「……デモ。……ウィル、イバショ、クレタ」

  俺は脳裏に浮かぶ、ウィルの屈託のない笑顔を思い浮かべた。

  「……ウィル、ダケ。……オレノ、イマ、スベテ」

  それが、俺の嘘偽らざる本心だった。

  俺が戦う理由は、世界のためでも、国のためでもない。

  ただ、俺の全てであるあの場所を守りたい。それだけだ。

  俺が話し終えると、部屋には重苦しい沈黙が流れた。

  グスタフ団長は腕を組み、深く目を閉じていた。その眉間には、深い皺が刻まれている。

  やがて、彼は重々しく口を開いた。

  「……そうか。貴殿は、すべてを失ったか」

  その声には、深い悲哀と、同情の色が滲んでいた。

  「遠い異国の地で、戦禍か、あるいは不慮の事故か……。心身を変貌させるほどの凄惨な地獄を味わい、祖国すらも失ったというのだな」

  (……ん?)

  団長がゆっくりと目を開き、俺を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、戦士としての敬意が宿っていた。

  「言葉を失うほどの傷……。どれほどの苦痛であったか、想像を絶する」

  隣にいたハンスが、鼻をすすりながら涙ぐんでいる。

  「ガク殿……。なんと過酷な運命を……。故郷を追われ、帰る場所もなく彷徨っていた時に、ウィルと出会ったのですね……」

  「……そして、全てを失った貴殿にとって、あの子が唯一の主となり、生きる希望となったわけか」

  グスタフ団長が、独りごちるように頷いた。

  「……亡国の騎士、か。国破れて山河あり、とは言うが……。貴殿は新たな忠誠を誓うべき相手を、あの少年に見出したのだな」

  (……ものすごい壮大な話になってるな)

  俺は心の中で苦笑した。

  「転生」や「ゲームキャラ」なんて概念がない彼らにとって、俺の話は「戦いで傷つき、国を失った悲劇の騎士」として脳内変換されたらしい。

  「身体が変わった」というのは、ひどい傷跡や呪いの類だと思われたのだろうか。

  だが、訂正する必要はない。

  「全てを失い、ウィルが生きる希望になった」という点においては、あながち間違ってはいないのだから。

  「……事情は理解した。貴殿のその忠義、騎士として感服した」

  グスタフ団長は、俺に対して最敬礼を行った。

  それは、一人の傭兵に対するものではなく、高潔な騎士に対する礼儀だった。

  「では、すぐに謁見の間へ向かおう。領主立ち会いのもと、改めて正式に討伐を依頼したい。貴殿には、それだけの礼を尽くす価値がある」

  団長が扉を示したが、俺は首を横に振った。

  「……イラナイ。……ジカン、ナイ」

  「なに? だが……」

  「……イソグ」

  俺は窓の外、鉛色の冬空を見上げた。

  悠長に儀式をやっている時間はない。俺の記憶が正しければ、あの「歩く氷山」はとんでもなくタフな相手だ。

  (……氷山龍。あいつは正真正銘のHPお化けだ)

  ゲーム時代、まともなビルドと最強装備で固めた状態ですら、HPを削り切るのに一時間はかかったのだ。

  今の俺のステータスは、周回特典で強化されている。素手での攻撃力なら、当時の武器にも劣らないかもしれない。

  だが、問題は装備だ。今の俺にあるのは、頑丈な肉体と、街で買った私服だけ。

  (現実となったこの世界で、あいつの体力がどうなっているかわからない。もしゲーム以上の耐久力を持っていたら……)

  数時間どころか、数日単位で殴り続けても削り切れるかどうかわからない。

  最悪、討伐できなくても、ダメージを与えて進路を変えさせるか、撤退させることができれば御の字だが……。

  どちらにせよ、一刻も早く接触し、削り始めなければ間に合わない。

  「……スグ、デル」

  俺が告げると、団長は険しい顔で頷き、地図の一点を指差した。

  「わかった。現在、我々騎士団の主力部隊は、この都市の手前にある『凍てつく峡谷』に展開し、迎撃陣地を構築している」

  団長の指が、山と山の間にある細い谷をなぞる。

  「ドラゴンは現在、ここよりさらに北を南下中だ。奴の鈍重な進行速度ならば、この峡谷に到達するまで、まだ数日ほどの猶予があるだろう。

  貴殿も準備が整い次第現地へ向かい、本隊と合流してくれ。地形を利用し、峡谷の出口で奴を食い止める作戦だ」

  なるほど、セオリー通りの防衛戦だ。

  狭い地形で相手の動きを制限し、集中砲火を浴びせる。

  だが――俺は首を振った。

  「……ダメダ」

  「なっ? 地形効果を活かせる絶好のポイントだぞ?」

  「……ソコ、キタラ、オワリ」

  俺は地図上の峡谷と、ドラゴンの現在位置の「中間」を指差した。

  「……オレ、ココ、イク」

  「そこは……峡谷の手前、何もない雪原の真ん中ではないか! そんな場所で戦えば、奴の巨体に押し切られるぞ!?」

  「……ソレデ、イイ」

  氷山龍は「歩く災害」だ。

  その圧倒的な質量で防衛線を強引に突破されたら、その背後にはもう都市まで遮るものがない。

  「最終防衛ライン」での決戦は、抜かれた時点でゲームオーバーなのだ。

  それに、俺が懸念しているのは奴の「体力」だ。

  峡谷に来るのを待っていては、削り切る時間が足りない可能性がある。

  「……オレ、マエ、イク。……オマエラ、タニ、マモレ」

  俺が、その手前で「防波堤」になる。

  数日かけて雪原を南下してくる奴を、俺が迎え撃ち、足止めし、削る。

  もし俺が失敗し、突破された時のために、騎士団は峡谷で万全の構えをとっておくべきだ。二段構えの布陣だ。

  「……待て。では、貴殿はたった一人で、雪原で奴を迎え撃つというのか? 援護もなしに?」

  「……キシ、イラナイ」

  「無茶だ! 相手は軍隊で挑んでも勝てぬ相手だぞ!? いくら貴殿でも……」

  「……ムダ、ダ」

  俺は冷たく言い放った。

  「……ハンパ、キカナイ。……ムダジニ、スル」

  「……ッ」

  団長が言葉を詰まらせる。

  突き放したわけではない。事実だ。

  あの氷の甲殻は、生半可な攻撃をすべて無効化する。有効打を与えられない兵士を連れて行っても、奴の踏みつけ攻撃で潰され、戦力が摩耗していくだけだ。

  そんな無意味な消耗をするくらいなら、彼らには万が一の時のために、峡谷で力を温存しておいてもらいたい。

  「……オレ、ヒトリ、イイ。……オマエラ、ウシロ、カタメロ」

  「ガク殿……。我々に、最後の砦となれと言うのか」

  「……ソウダ。……オレ、ダメ、ナラ……オマエラ、ヤレ」

  俺の意図を汲み取ったのか、グスタフ団長は悔しげに、しかし納得したように奥歯を噛み締めた。

  「……わかった。前線は貴殿に任せる。我々は全戦力をもって、峡谷の防衛ラインを固めよう」

  団長が承諾したのを見て、俺は改めて地図を指差した。

  「……オマエラ、オクル、ダケ」

  「送る、とは……?」

  「……ソリ、デ、オクル。……オレ、ドラゴン、アシモト、マデ」

  俺は拳を握りしめた。

  「……オレ、アシ、トリツク。……ノボル」

  「取り付く……? まさか、ドラゴンの体によじ登って戦うつもりか!?」

  「……アア。……オレ、オリタラ、カエレ」

  俺が飛び移ったら、騎士たちは即座に撤退しろ。

  そう告げると、団長は戦慄したように目を見開いた。

  巨大なドラゴンの体に張り付き、振り落とされそうになりながら、至近距離で殴り続ける。それは正気の沙汰ではない作戦だ。だが、空を飛ばないあのドラゴン相手なら、それが最も有効な戦法だ。

  そして、俺はもう一つ、重要なことを伝えねばならなかった。

  もし、俺の火力が足りず、押し切られた場合のことだ。

  「……ソレト、ヒトツ」

  俺は地図上の『峡谷』を指差した。

  「……モシ、ココ、マデ、クル。……タオセテ、ナイ」

  「……」

  「……カマワズ、ウテ」

  ハンスが息を呑んだ。

  「う、撃てとは……一斉射撃のことですか!? ガク殿がまだ、ドラゴンの上にいるのに!?」

  「……アア。……オレ、キニスルナ」

  もし俺が止められず、奴が峡谷に到達してしまったら、俺ごとドラゴンをバリスタや魔法で攻撃しろ。

  街を守るためだ。俺一人の命に構って、好機を逃すな。

  俺の覚悟を聞いたグスタフ団長は、しばらくの間、拳を震わせて黙り込んでいたが、やがて顔を上げ、悲壮な決意を込めて頷いた。

  「……承知した」

  その声は重かった。

  「貴殿の覚悟、受け取った。……もしもの時は、心を鬼にして引き金を引かせよう」

  「……タノム」

  「ウィル少年の安全は、このグスタフの命にかけて保証する。……どうか、ご武運を」

  それは死地へ向かう者への、重く、悲壮な祈りだった。

  だが、俺は訂正しなかった。

  話はまとまった。

  「……アト、ボウカング。……ホシイ」

  「防寒具、か?」

  「……アア。……ナガク、ナル」

  相手は氷の塊だ。その上で数時間、あるいは数日過ごすことになるかもしれない。

  凍えて動けなくなっては元も子もないのだ。

  「……わかった。我々が持つ、最高級の雪山装備を用意させよう」

  団長はハンスに向き直り、鋭く命じた。

  「ハンス! ガク殿を装備室へ案内しろ!武器庫からは好きなものを持って行かせろ!」

  「はっ!!」

  ハンスが弾かれたように敬礼する。

  「……ブキ、イラナイ。……フク、ダケ」

  俺はそう付け加え、ハンスと共に部屋を出た。

  背後で、団長が地図を睨みつけながら、峡谷の部隊へ伝令を飛ばす怒号が聞こえた。

  賽は投げられた。

  あとは、俺がやるだけだ。