第11話:朝の光と、甘い嘘
差し込む朝日の眩しさに、俺はゆっくりと瞼を持ち上げた。
視界に映ったのは、昨日見上げた高い天井と、重厚な梁だ。
(……そうか。結局、昨日は床で寝たんだったな)
高級宿『銀の蹄亭』の絨毯は、俺の巨体を沈み込ませるほど毛足が長く、硬い洞窟や荷台で寝るのに比べれば、寝心地は決して悪くなかった。
寝返りを打とうとして、脇腹のあたりに奇妙な重みを感じた。
視線を落とすと、そこにはふかふかのベッドで寝ているはずのウィルが、俺の腕を枕にするようにして丸まって眠っていた。
(……寂しかったのか?)
村ではいつも孤児院の仲間たちと身を寄せ合って寝ていたし、一人で広すぎるベッドに寝るのは落ち着かなかったのかもしれない。
俺は起こさないよう細心の注意を払いながら、大きな掌で彼の頭をそっと撫でた。
「……ん、……ふわぁ。……あ、ガクさん。おはよう」
ウィルが大きな耳をパタパタと動かし、目をこすりながら起き上がる。
「……オハヨウ。……ベッド、ヨカッタカ?」
「ちょっと広すぎて……。気づいたらガクさんの隣に来ちゃってました」
照れくさそうに笑うウィルの短い尻尾が、パタパタと絨毯を叩いた。
***
宿の食堂で出された朝食は、文句のつけようがないほど絶品だった。
香ばしく焼かれた厚切りパンに、新鮮な野菜のサラダ、そして具沢山のオムレツ。
だが、俺の目の前には大きな壁が立ちはだかっていた。
「ダメだよ、ガクさん。フォークは持たないで。銀のフォークなんて目玉が飛び出るほど高いんだから、握りつぶしたら大変だよ!」
ウィルが真剣な顔で、俺の手から銀色のフォークを回収した。
「……アーンして。僕が食べさせてあげるから」
「……ッ!?」
周りの客たちの視線が、一斉にこちらに集まるのを感じた。身長270センチを超える巨躯の熊獣人が、小さな犬獣人の少年に食事を口に運んでもらっている光景。周囲の、魔獣使いでも見ているような目には気づかない振りをすることにしたが、さすがに前世の記憶を持つ身としては、猛烈に恥ずかしかった。
***
食事を終え、俺たちは活気溢れる大通りへと繰り出した。
空は高く晴れ渡り、石畳の道には色とりどりの露店が並んでいる。
だが、ウィルの様子が少しおかしい。
「ガクさん、見て。あの可愛いリボン、銀貨三枚だって。……孤児院の夕飯が数日分は賄えちゃうよ」
ウィルが足を止めたのは、異国の珍しい玩具を並べた露店の前だった。
店主の背後にある棚には、装飾が施された立派な木箱が開いて置かれている。中には、ゼンマイ仕掛けで動く精巧な兵隊の人形が収められていた。
「あっちの木箱に入ったからくり人形も銀貨十枚……。マーサ院長の薬、何回分だろう……」
どの露店を覗いても、ウィルは値段を見ては溜息をつき、独り言のように村の生活費に換算してしまう。
(この子、健気すぎるだろ……)
せっかく手元には、俺が狩った獲物で得た金貨が山ほどあるというのに。ウィルにとっては、自分一人が贅沢をすることへの罪悪感が勝ってしまうのだろう。
なんとかこの子に、今日という日を楽しんでほしい。
そう思った時、甘く香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。
通りに面した菓子屋の店先で、蜂蜜をたっぷり塗って焼き上げられた『大樹の切り株ケーキ』が売られていた。
木の棒に生地を何層にも重ねて焼いた、手間のかかりそうな焼き菓子だ。
ウィルの視線が、吸い寄せられるようにその焼き菓子に釘付けになる。だが、看板の「銅貨八枚」という文字を見た瞬間、彼はすぐに視線を逸らした。
「……ウィル。……オレ、ソレ、クイタイ」
「えっ? ガクさんが?」
俺はお菓子の方を指差し、拙い言葉を繋いだ。
「……ヒトリ、ハズカシイ。……ウィル、イッショ、クエ」
「ええ……。でも、銅貨八枚だよ? これだけあれば、黒パンがたくさん買えるのに……」
「……カネ、アル。……タノム」
俺が少し強引に言うと、ウィルは「ガクさんがどうしてもって言うなら……」と、ようやく購入に踏み切った。
日当たりのいいベンチに座り、ウィルが恐る恐るケーキを口にする。
「……! 美味しい……! ガクさん、これ、すっごく甘くて美味しいよ!」
尻尾を激しく振りながら頬張る姿を見て、俺は胸を撫で下ろした。
そして、自分の分のケーキを一口だけ齧ると、大袈裟に顔をしかめて見せた。
「……ウッ。……コレ、アマ、スギル」
「えっ?」
「……ニガテ、ダ。……ウィル、クエ」
俺の分を差し出すと、ウィルは驚いたように目を丸くした。
「そんな……好き嫌いはダメだよ、ガクさん! こんなに美味しいのに、もったいないよ」
そう言いながらも、ウィルは俺が「苦手だ」と言った言葉を信じ、残りのケーキも幸せそうに平らげてしまった。
食べ終わった後。
ウィルは口の周りについた蜂蜜をペロリと舐めとると、ふと、俺の顔をじっと見上げた。
「……ガクさん。もしかして、わざと?」
「……ン?」
「ガクさん、村でマーサ院長のクッキーたくさん食べてたよね」
しまった。ガクとしての本能的な嗜好を、この鋭い少年に隠し通すのは難しかったらしい。
ウィルは少しの間、俺の大きな手を見つめていたが、やがて優しく笑った。
「……ありがとう、ガクさん。僕、もっと素直に楽しむことにするよ。」
そう言って笑うウィルの瞳は、朝の光を浴びてキラキラと輝いていた。
***
お土産選びに悩んでいたその時、大通りの先から悲鳴が上がった。
「危ない! どけぇ、どけぇッ!!」
前方から猛スピードで突っ込んできたのは、二頭立ての大型竜車だった。御者は振り落とされたのか姿がなく、パニックを起こした二頭の荷車竜が暴走している。その直線上には、呆然と立ち尽くす小さな子供の姿があった。
「ガクさん……っ!」
「……フンッ」
俺はウィルを背後に追いやり、一歩前へ出た。
数トンの質量が二つ、地響きと共に迫る。俺は逃げも隠れもしない。ただ足を広げ、腰を落とし、丸太のような両腕を左右に突き出した。
ドガァァァァァッ!!
凄まじい衝撃が両腕を叩く。左手で一頭目、右手で二頭目。俺は突進してくる荷車竜の眉間を、それぞれの手のひらで正面からガッチリと受け止めた。
足元の石畳が砕け、土煙が舞う。分厚い毛皮の下で鋼のような筋肉が躍動し、竜の勢いを完全に飲み込んだ。
「……トマレ」
静かに言い聞かせると、巨獣たちは恐怖に目を剥きながらも、一瞬で動きを止めて地面にへたり込んだ。
「あわわわ……! 助かった、ほんまに助かりましたわ……!」
しばらくして、駆け寄ってきたのは、上質な絹の服に身を包んだ狸獣人の商人だった。彼は俺を見上げると、手巾で額の汗を拭いながら深々と頭を下げた。
「見事な腕前や。おかげさんで、荷駄竜も商品も無傷で済みましたわ。おおきに、ほんまにおおきに! ……せやけど、ここやと野次馬も多うて落ち着いてお礼もできまへん。すぐそこにある手前どもの店まで、ちょっと足運んでもらえまへんやろか?」
***
案内されたのは、大通りから一本入った場所にある、立派な石造りの商館だった。
通された応接室は、俺たちの村の家が一軒まるごと入りそうな広さがあり、足元には靴が埋まるほど分厚い絨毯が敷かれている。
「改めまして。手前、この街で『大福商会』の会頭をさせてもらっとります。……いやぁ旦那、えげつない力ですな。惚れ惚れしますわ」
商人は、丸いお腹を揺らして愛想よく笑うと、革張りの机の上にずっしりと重い革袋を置いた。ジャラリ、と中身がぶつかり合う重厚な音が響く。
「これは今回のお礼。……それとな、旦那。単刀直入に言わせてもらいまっさ。もし良かったら、うちの商会の『専属護衛』になってくれはらへんか?」
「……ゴエイ?」
「ええ。旦那ほどの腕があれば、引く手あまたですわ。報酬は騎士団の隊長クラス……いや、それ以上弾ませてもらいまっせ。住むところも、旦那の巨体でものびのび暮らせるよう、床を補強した頑丈な一軒家を用意します」
商人は身を乗り出し、ガクの顔を覗き込んだ。
「それに、うちの従業員食堂、使い放題にしときます。毎日、肉でも魚でも好きなだけ食うてくれて構いまへん。食費は全部、経費で落としまっさかい」
商人の言葉は、まるで魔法のように甘美だった。
高給。頑丈な家。そして、食費を気にせず食べられる肉。
それは、今日の観光でウィルが値段を見ては諦めていた「お腹いっぱいの生活」そのものだ。
「もちろん、そっちの坊っちゃんも一緒で構いまへん。見込みがあるなら、読み書きそろばん仕込んで、将来はうちの手代として雇うてもええ。……どないです? 村でその日暮らしするより、ずっとええ話やと思いますが」
商人の提案は、驚くほど誠実で、かつ逃げ道がないほど魅力的だった。
俺の隣で、ウィルが膝の上で自分の服の裾をぎゅっと握りしめたのが分かった。
「……僕は」
ウィルが消え入りそうな声で呟いた。
「僕は……行けないよ。孤児院のみんなや、村のみんなを置いて行けない」
ウィルは村長やマーサ院長の手伝いをして、年下の子供たちの面倒を見ている。責任感の強い彼にとって、自分だけが村を捨てるという選択肢はあり得ないのだ。
だが、ウィルは顔を上げ、俺の方を見た。その瞳は揺れていた。
「でも……ガクさんにとっては、すごくいい条件じゃない?」
ウィルは寂しげに眉を下げ、それでも精一杯の笑顔を作ろうとしていた。
「ガクさんは、村にいちゃダメだ。こんなに強くてすごいのに、村にいたら、いつもお腹を空かせて、家具を壊さないように縮こまってなきゃいけない……。ここなら、ガクさんはもっと自由になれるよ」
ウィルは賢い。俺にとって、この提案を受けることがどれほど幸せなことかを、瞬時に理解してしまったのだ。
だからこそ、自分の寂しさを押し殺して、俺の背中を押そうとしている。
(……ガクさんなら、きっとここでお金持ちになれる。僕がわがままを言って、狭い村に縛り付けちゃいけないんだ……)
そんな声が聞こえてきそうなほど、切ない表情で俺を見上げていた。
だが、俺の返事は決まっていた。
商人が答えを待って身を乗り出した、その鼻先で。
俺は金貨の袋には目もくれず、隣で震える少年の、小さくて柔らかな頭に大きな掌を乗せた。
「……コトワル」
「……へ?」
商人が丸い目をぱちくりとさせ、ウィルが驚いて顔を上げた。
「お、おや、即答でっか? 条件が不満なら、もっと勉強させてもらいますけど……」
「……チガウ」
俺は首を横に振り、商人の目を真っ直ぐに見つめた。
言葉にするのは難しい。だから、俺は一番確かな事実だけを口にした。
「……ウィル、オレ、タスケタ。……オレ、ココ、イル」
化け物のような俺を見ても逃げずに笑ってくれた。
右も左も分からないこの世界で、最初に手を差し伸べてくれたのは誰だ。
金貨でも、屋敷でもない。この小さな手だ。
俺にとって、この手こそが、俺をこの世界に繋ぎ止めてくれる唯一の鎹なのだ。
「……ガクさん……」
ウィルが潤んだ目でこちらを見上げる。
商人はしばらく俺とウィルを交互に見ていたが、やがて「ふぅ」と大きく息を吐き、椅子の背もたれに体を預けた。
「ははは! まいりましたわ。……その坊っちゃんとの絆には、銭も敵いまへんか」
商人の顔からは、商売人のギラギラした色が消え、代わりに親戚の叔父のような温かい苦笑が浮かんでいた。
「打算抜きでそこまで言われたら、商人の出る幕やおまへんな」
商人は無理強いすることなく、ガハハと豪快に笑った。
「よろしい。諦めまひょ! ……その代わり坊っちゃん、その旦那を離したらあきまへんで。あんたさんは、金貨を何百枚積んでも買われへん、ほんまもんの宝物持ってるんやさかい」
商人は一息つくと、少し気を取り直したように俺たちを見た。
「ところで旦那、坊っちゃん。あんたさんら、この街には何しに来はったんです? このなりで、ただの観光っちゅうわけでもないでっしゃろ」
「あ、はい。実は村の行商で来たんです。村で採れた薬草や素材を売って、冬を越すための小麦や調味料を仕入れて帰るのが目的で……」
ウィルが懐のメモを取り出しながら説明すると、商人は「ほう、それはちょうどええ」と膝を打った。
「それなら、うちが力になりまひょ。うちはこれでも手広く卸しやってますさかい、街の店でちまちま買うより、うちの倉庫から直接回したほうがずっと安く済みますわ」
「えっ、本当ですか!? でも、そんなに甘えてもいいんでしょうか……」
「命拾いしたお礼に比べたら、安いもんですわ。……そや、もう原価……いや、もう一声まけときまひょ!」
そこからは、商人の独壇場だった。
商人の案内で倉庫へ向かうと、ウィルがリストアップしていた物資は、次々と信じられないような破格の値段で揃えられていった。
市場価格の半値以下。ウィルは驚きと喜びで目を輝かせ、「これなら村のみんなに、もっとたくさんのお土産が買えるね!」とホクホク顔だ。
一通りの仕入れを終え、商館の門を出たところで、ウィルが俺の腕を見上げて嬉しそうに呟いた。
「お使いも無事に終わったし、グラスホーンもあんなに高額で売れたし……。ガクさん、今回の旅は大成功だね!」
その言葉を聞いた商人が、目を丸くして立ち止まった。
「……ちょっと待ち。坊っちゃん、今、なんて言いました? グラスホーン?」
「あ、はい。商人ギルドで買い取ってもらったんですけど……」
「なんやて!? ギルドに傷一つない極上品を二頭分も持ち込んだんは、あんたさんらやったんでっか!」
商人は信じられないものを見る目で俺を見つめた。
「今、商人らの間ではその話でもちきりなんですわ。どこぞの騎士団か、高ランクの冒険者が極秘で狩ってきたんやないかって噂になってまして……。まさか、あんたさんらやったとは」
商人は呆れたように、でも心底楽しそうに笑った。
「旦那、あんたさんはほんまに『歩くお宝』ですな。……もし次、またええ獲物獲れたら、ギルドより先にうちに持ってきておくなはれ。どこよりも色付けて買い取らせてもらいますよってに!」
「……オウ。……ツギ、アルナラ」
俺が頷くと、商人は満足げに手を振り、自分の商売へと戻っていった。
賑わう市場の通りを、俺たちは肩を並べて歩き出した。
「お土産も、ガクさんの服も、魔道具も……全部楽しみだね」
「……アア。……タノシミダ」
夕暮れの空の下、家々の窓に暖かな明かりが灯り始めた。
明日はついに行商の集大成、約束の品を受け取る日だ。俺は隣で跳ねるように歩くウィルを見つめ、この世界での二日目の夜を心待ちにした。
[newpage]
第12話:紳士の服と、呪いの腕輪
翌朝。
高級宿『銀の蹄亭』の床で目覚めた俺は、これまでにないほど爽やかな気分だった。
ついに、この日が来た。
今日は待ちに待った「完成の日」だ。
俺の巨体に合わせて仕立てられた特注の服。
そして、このデタラメな怪力を抑え込んでくれる、制御の魔道具。
それらが手に入れば、俺はもう「歩く災害」ではなくなる。
ドアを開けようとしても取手を破壊せず、コップを持っても粉砕せず、そして何より――ウィルの頭を、この手で思い切り撫でてやることができるのだ。
「……イクゾ、ウィル」
「うん! まずは服屋さんだね!」
俺たちは期待に胸を躍らせ、朝の街へと繰り出した。
***
まずは衣料品店『大樹の装い亭』だ。
店に入ると、熊獣人の店主が「待ってたよ!」と満面の笑みで迎えてくれた。
「自信作だ。さあ、着てみな!」
渡されたのは、現代の量産品のようなペラペラな服とは違う、ずっしりとした重みのある衣装一式だった。
テント用の太い糸で縫製されたそれは、俺が全力で引っ張ってもびくともしない頑丈さを誇りながら、職人の丁寧な仕事が光っていた。
試着室(というか倉庫)で着替えて鏡の前に立つと、そこには別人のような俺がいた。
肌に直接纏うのは、最高級の亜麻で織られた生成りのシャツだ。肌触りが滑らかで、麻特有のごわつきなど微塵もない極上の着心地だ。
その上から羽織るのは、深緑色の厚手の生地で仕立てられた、シンプルな袖なしの上着だ。俺の分厚い胸板にも負けない頑丈な作りで、実用性を重視したデザインになっている。
下半身は、動きやすいゆったりとした膝丈のズボンを履き、腰には幅広の革ベルトをギュッと巻いて締める。
今までの「布を巻きつけただけの野生児」スタイルから一変。
機能的でありながら、どこか知性と品格を感じさせる、中世の「豪商」か「熟練の冒険者」のような姿がそこにあった。
「すごい……! ガクさん、すっごく格好いいよ! どこかの貴族様の護衛騎士みたい!」
ウィルが手を叩いて喜んでくれた。
俺は少し照れくさくなりながらも、鏡の中の自分に満足げに頷いた。
よし、形からは入れた。次は中身だ。
***
次に向かったのは、職人街にある鍛冶屋『鉄の爪』だ。
店に入ると、あのアナグマの店主がニヤリと笑ってカウンターに「それ」を置いた。
「へい、お待ちどう。特注の制御バングルだ」
そこにあったのは、黒銀色に鈍く輝く腕輪だった。
あの時の手錠をベースに、魔法銀や黒鉄を混ぜて加工したものらしい。武骨だが、重厚で美しいデザインだ。
「説明するぞ。こいつには特殊な術式が刻んである。装備者の体から微量の魔力を常に吸収し、それを動力源にして身体強化とは逆の『身体抑制』の魔法を自動発動させる仕組みだ」
店主が得意げに胸を張る。
だが、すぐにニヤリと口の端を吊り上げた。
「ま、よく言えばそうなるってだけの話だ。ぶっちゃけて言えば、本来は装備者を動けなくするための『呪い付きの拘束具』だがな」
「……ノロイ?」
「ああ。だがあんたのデタラメな怪力なら、その呪いでちょうどトントンってとこだろ。つまり、着けてるだけで勝手に筋力を抑えてくれる、手間いらずの代物ってわけだ。これなら不器用なあんたでも扱えるだろ?」
完璧だ。
呪いだろうが何だろうが、結果として力が抑えられるなら文句はない。
これさえあれば、もう扉を壊すことも、コップを握りつぶすこともない。あの不自由極まりない生活とも、ついにこれでおさらばできるのだ。
まさに、俺が待ち望んでいた救世主(アイテム)だ。
「……スゴイ。……カンシャスル」
俺は震える手で、左腕にバングルを通した。
カチリ、と留め具がはまる音がする。
ひんやりとした金属の感触。だが、それ以外には特に変化を感じない。
「……キイテル?」
「おうよ。自覚症状はねぇかもしれんが、効いてるはずだ。……ほら、試してみな」
店主がカウンターの下から、安っぽい陶器のコップを取り出して差し出した。
薄い茶色の、どこにでもあるコップだ。
だが、これまでの俺なら、触れた瞬間に陶器の欠片(ダスト)に変えていた代物だ。
(……頼む)
(今日からは、俺は「普通」の生活を送るんだ)
俺は息を止め、慎重に右手を伸ばした。
左腕のバングルを信じて。
指先がコップに触れる。掴む。
――パキンッ。
乾いた音が響いた。
俺の指先から、サラサラと茶色い粉がこぼれ落ちた。
かつてコップだったものは、見事なまでに粉砕され、カウンターの上に砂山を築いていた。
「…………ア」
「…………ああん?」
俺と店主の声が重なった。
沈黙が流れる。
俺は自分の手を見つめ、店主は砂山を見つめた。
「……オイ、兄ちゃん。今、手加減したか?」
「……シタ。……ツモリ」
「嘘つけ! 術式がまるで反応してなかったぞ!?」
店主が慌てて俺の腕を掴み、バングルを確認する。
「壊れてねぇ……術式は正常だ。なんでだ? なんで発動しねぇ!?」
「あの、僕にもつけさせて! 壊れてるかどうかわかるかも!」
ウィルが助け舟を出した。
俺はバングルを外し、ウィルに渡す。ウィルの細い腕にはブカブカだが、それに腕を通した瞬間だった。
「う、わっ……!?」
ドサッ!
ウィルがその場にへたり込んだ。まるで、見えない重石を背負わされたように。
「ウィル!?」
「へ、平気……! でも、すごく体が重いよ……。指一本動かすのも大変……」
「……ほら見ろ。正常じゃねぇか」
店主が腕組みをして唸った。
ウィルには効果覿面だ。つまり、道具は壊れていない。
では、なぜ俺だけ発動しないのか。
「……兄ちゃん、あんた、もしかして『魔力』がねぇのか?」
「……マリョク?」
店主の問いかけに、ウィルが慌てて首を振った。
「そんなはずはないよ! ガクさんはすごい回復魔法が使えるんだ! 大怪我だって一瞬で治しちゃうくらい!」
「回復魔法……? このなりでか?」
「うん。でも……使った後は、すぐにお腹が空いて倒れちゃうんだけど……」
「……ああん? 倒れる?」
店主の眉がピクリと動いた。彼は作業の手を止め、鋭い視線をウィルに向けた。
「坊主、詳しく聞かせな。その『回復魔法』ってのは、どんなもんだった? 傷口がじわじわ塞がる程度か?」
「一瞬だよ! こう、森の木よりも高い光の柱がドカーン! って立って、足の肉が抉れて骨が見えるくらいの酷い怪我が、あっという間に治っちゃったんだ。でもその直後、ガクさんは糸が切れたみたいに倒れて……」
「光の柱だぁ……? 上位の聖職者でも、そんな派手な真似はそうそうできねぇぞ」
店主は信じられないといった顔で俺を見た。
そして、油で汚れた手袋を外し、素手で俺の腕をガシッと掴んだ。
「……兄ちゃん、ちょっとじっとしてな」
店主が目を閉じ、俺の腕に神経を集中させる。
数十秒の沈黙。店内の炉の燃える音だけが響く。
やがて、店主は「……やっぱりか」と呟き、怪訝そうに俺の腕を離した。
「……マリョク、カンジルカ?」
「いや、逆だ。『何も感じねぇ』んだよ」
店主は顎に手を当て、ブツブツと独り言を呟き始めた。
「普通なら、それだけの魔法を使える奴の体は、触れただけで魔力がビリビリ伝わってくるもんだ。だが、あんたの腕からは魔力の奔流どころか、さざ波ひとつ感じねぇ。まるで石ころか鉄塊だ」
店主は俺と、カウンターの上の腕輪を交互に見比べ、仮説を立てていく。
「……とてつもない出力の魔法を行使できる魔力はある。だが、普段は体から一滴も漏れてこねぇ。……もしかしたら、だが」
店主は顔を上げ、確信めいた目で俺を指差した。
「兄ちゃん。あんた、魔力の『栓』が異常に硬ぇんじゃねぇか?」
「……セン?」
「ああ。通常、生き物ってのは蛇口を少し開けたみたいに、微量の魔力を常に体の外へ垂れ流してるもんなんだ。このバングルは、その『漏れ出た魔力』を吸って動く仕組みになってる」
店主が身振り手振りで説明する。
「だが、あんたの体は『栓』が錆びついたみたいにガッチガチに閉まってやがる。普段は一滴も魔力を漏らさねぇ完全密閉状態だ。だからバングルは燃料が無くて動かねぇ」
「……デモ、マホウ、ツカエル」
「そう、そこだ。あんたの場合、使う時はその錆びついた栓を無理やり全開放して、滝みたいに魔力をぶちまけてるんだろうよ。だから極端に魔力が減って倒れるんじゃないか?」
0か100か。
店主の言葉を聞いて、俺の中でゲームの仕様(システム)が脳裏をよぎった。
(……そういうことか)
転生元のゲーム『アフターエンディングストーリー』には、「魔力操作」なんて概念はなかった。
魔法はアクションを実行すれば、規定のMPが消費され、決まった効果が発動するだけのシステムだ。そこに「微調整」や「垂れ流し」といった、アナログな操作が介入する余地などなかったのだ。
俺の体は、あのゲームのデータのままここに来ている。だからこそ、この世界の住人が当たり前に持っている「生物としての魔力循環」が機能していないのかもしれない。
それに、この世界の「魔力操作」とやらが、どのステータスに依存しているのかも皆目見当がつかない。
絶望的に低い【INT(知性)】のせいなのか?
それとも、不器用すぎる【DEX(器用さ)】の影響なのか?
あるいは、他の未知のパラメータが関係しているのか……。
(くそ、なんだそれ……。そんなマニュアル操作モード、ゲームには実装されてなかったぞ……!)
「こんな極端な体質の奴、はじめて見たぜ……」
店主が呆れ果てたように頭をかいた。
「結論だ。このバングルを使いたきゃ、あんた自身が『魔力をチョロチョロ出し続ける』練習をするしかねぇ」
「……レンシュウ?」
「ああ。意識して魔力の栓を緩め、常にバングルにエサをやり続けるんだ。……ま、その不器用そうな面構えを見る限り、一朝一夕じゃ無理だろうがな」
俺は膝から崩れ落ちそうになった。
せっかくの紳士服も、今の俺にはただのコスプレだ。
中身は相変わらず、触れるもの全てを破壊するモンスターのまま。
「……オレ、ダメ、カ」
「ガクさん……」
肩を落とす俺の背中を、ウィルが優しくさすってくれた。
「大丈夫だよ。方法はわかったんだもん。これから練習すればいいんだよ」
「……アア」
ウィルの慰めが心に染みる。
だが、現実は非情だ。
俺がウィルの頭を思う存分モフれる日は、どうやらまだまだ遠いらしい。
「……申し訳ねぇが、俺にできるのはここまでだ。あとはあんたの努力次第だぜ」
店主の言葉を背に、俺たちは店を出た。
手首には、今はまだただの重りでしかない、高価な魔道具の腕輪。
俺は空を見上げ、深く、深くため息をついた。
スローライフへの道は、俺が思っていたよりも遥かにハードモードのようだ。
[newpage]
第13話:空の捕食者と、夏の日の記憶
『大福商会』の倉庫前には、山のような荷物が積まれた俺の荷車があった。
「……旦那、ほんまにこれ全部一人で引くんでっか?」
見送りに来た狸の商人が、呆れたように荷車を見上げている。
積まれているのは、小麦の袋が十数個、樽に入った塩や油、木箱に詰められた日用品。普通の馬車なら三台は必要な量だ。総重量はトン単位だろう。
「……ダイジョウブ」
「はぁ……。まあ、あの暴走竜車を止めた腕力なら、これくらい朝飯前でっか」
商人は苦笑いしつつ、俺の手を固く握った。
「毎度おおきに。また珍しい獲物が手に入ったら、真っ先にうちに持ってきておくなはれ!」
「……オウ。……セワニナッタ」
俺は商人に別れを告げ、荷車のハンドルを握った。
ズシリとした重みを感じるが、筋肉が悲鳴を上げるほどではない。
俺が歩き出すと、巨大な荷車は重力を忘れたかのように軽々と転がり始めた。
「お世話になりました!!」
隣を歩くウィルが元気に手を振る。
こうして俺たちは、実り多き交易都市グランキースを後にした。
***
街を出てしばらくは、街道も賑やかだった。
グランキースを目指す商人の竜車や、冒険者のパーティ、観光客などが行き交っている。
俺の巨体と山盛りの荷車は注目の的だが、新調した服のおかげか、以前ほど「化け物」を見るような目は向けられていない気がする。……たぶん。
だが、検問を抜けて数キロほど歩いた時だった。
周囲の空気が、ふっと変わった。
「……?」
ウィルが足を止め、空を見上げた。
耳をピクピクと動かしている。
「……変な音がする。……何か、来る?」
次の瞬間。
前方を歩いていた旅人の一人が、空を指差して絶叫した。
「わ、ワイバーンだぁぁぁッ!!」
その声に、街道はパニックに陥った。
悲鳴、怒号、荷駄竜のいななき。
人々が我先にと街の方へ逃げ出していく。
「ガクさん! あれ!」
ウィルの指差す先、雲の切れ間から急速に降下してくる影があった。
巨大な翼膜、長い首、そして鋭い鉤爪。
空の捕食者、ワイバーンだ。
「そんな……! なんでこんなところにワイバーンが……!」
ウィルが信じられないといった顔で叫んだ。
その表情には、恐怖以上に「ありえないことが起きている」という混乱が張り付いている。
(……デカイな)
俺は冷静に敵を観察した。
体色はくすんだ緑色。
ゲーム知識と照らし合わせるなら、あれは『レッサーワイバーン』だ。
ワイバーン種の中では最弱の部類。ゲームでは、雑魚敵として群れで出てくるレベルだが、この世界の一般人にとっては災害級の脅威なのだろう。
奴は一直線に、この街道の人混みを目指して来ている。
まだ距離はあるが、到達まで一分もかからないだろう。
「……ウィル。……ニゲロ」
「えっ?」
「……マチ、モドレ。……ハシレ」
俺は短く告げた。
ここから街の城壁までは、まだ目視できる距離だ。今すぐ全速力で走れば、検問の衛兵たちがいるエリアまで逃げ込めるかもしれない。
「ガ、ガクさんはどうするの!?」
「……オレ、オトリ。……アイツ、ヒキツケル」
「ダメだよ! ガクさんを置いていけないよ!」
ウィルが俺の腕にしがみつく。
だが、俺は首を横に振った。
俺一人ならどうとでもなる。だが、空からの攻撃に対し、ウィルを守りながら戦うのは不可能だ。
空を飛び回る相手を捕まえる手段がないし、ブレスを吐かれれば回避もできない。
「……ハヤク、イケ!!」
俺はウィルの背中を押しやると、道端に転がっていた手頃な――といっても、頭ほどある特大の岩を拾い上げた。
(……当たるか?)
相手は空を飛んでいる。しかも高速だ。
俺のノーコン(DEX:04)で、あの距離の標的を射抜くのは至難の業だ。
だが、やるしかない。
一発で当てようなんて思うな。
外してもいい。とにかく投げて投げて、威嚇して、奴の注意を俺に向けさせるんだ。
(……蘇れ!中学時代野球部の記憶!)
若かりし頃の記憶を思い起こす。
万年補欠だった野球部時代。コントロールは悪かったが、肩の強さだけは誰にも負けなかったあの夏を!
俺は足を上げ、体を捻った。
ワインドアップの構え。
全身のバネを使い、指先のリリースポイントに全ての力を集約する。
「……フンッ!!!」
剛腕が唸りを上げた。
【STR:26】から放たれた岩塊は、物理法則を無視した初速で射出された。
空気が破裂するような爆音が轟く。
狙いはアバウトだ。
「あの辺」という大雑把な感覚で投げた岩は、恐ろしいことに――吸い込まれるようにワイバーンの軌道と重なった。
奇跡が、起きた。
ズグシャアアァァァン!!!
上空で、肉と骨が同時に弾け飛ぶような、生々しく重たい音が響いた。
直撃だ。
岩塊はワイバーンの左翼の付け根にクリーンヒットし、そのまま翼そのものを消し飛ばした。
「ギョエエエエエエッ!?」
断末魔のような悲鳴。
片翼を失い、バランスを崩したワイバーンは、きりもみ回転しながら街道とは反対側の深い森の奥へと墜落していった。
ズズズーン……。
遠くで地響きが聞こえ、土煙が上がる。
「…………」
俺は投げ終わったフォロースルーの姿勢のまま、石像のように固まっていた。
(……嘘だろ?)
俺は自分の手と、煙が上がる森を交互に見比べた。
狙いは適当だった。
それが、直撃?
ましてや、一撃で撃墜?
俺の絶望的な【DEX:04】で、あんな高速飛行する標的を?
奇跡にも程がある。今の投擲、もう一度やれと言われても百億%不可能だ。
(……いや、待て。感動してる場合じゃない!)
一拍遅れて、背筋に冷たいものが走った。
やってしまった。完全にやりすぎた。
こんなデタラメな戦果、もし誰かに見られていたらどうなる?
『ワイバーン殺しの熊』? 『剛腕の英雄』?
そんな二つ名がついたら、俺が望む平穏なスローライフは木っ端微塵だ。グラスホーンであの騒ぎだったのだ。騎士団や貴族に追い回される、過労死寸前の未来しか見えない!
(頼む……! 誰も見てないでくれ……!)
俺はギギギ、と錆びついた扉のような動きで首を巡らせ、周囲を確認した。
周囲の人々は、まだパニックの真っ只中だった。
頭を抱えて逃げ惑う者、竜車の陰に隠れて震える者。誰も彼もが自分の身を守るのに必死で、空を見上げる余裕すらない。
ましてや、そのワイバーンを撃ち落としたのが、道端に立っている一匹の熊だなんて気づいている者は一人もいなかった。
(……よし。誰にも見られてないな)
俺は心の中でガッツポーズをした。
完全犯罪……いや、完全善行の成立だ。
「……ガクさん」
だが、唯一の目撃者が、俺の服の裾をクイクイと引っ張っていた。
「今の……当たった、よね?」
「……ン? ……ハズレタ」
「えっ?」
「……アイツ、コケタ。……カッテニ、オチタ」
俺は無表情を貫き、さも「俺は関係ない」という顔で荷車の持ち手を握り直した。
「……嘘だ」
ウィルがジト目で俺を見上げている。
「絶対当たってたよ。岩がドカーンってなって、翼が弾け飛んだの、僕ちゃんと見たもん」
「……キノセイダ」
「どうして……どうして誤魔化すの?」
ウィルの眉が悲しげに下がった。
俺が明らかに嘘をついている。それがショックだったのかもしれない。
その純粋な瞳に見つめられ、俺は秒で白旗を上げた。
(……はぁ。この子には敵わないな)
俺は観念して、小さく溜息をついた。
「……メダチタク、ナイ」
「え?」
「……オレ、メダツ、イヤダ。……シズカニ、クラシタイ」
正直に話した。
あんな化け物を一撃で倒したなんてバレれば、街は大騒ぎになる。
騎士団からの勧誘、冒険者ギルドからの呼び出し、あるいは貴族からの依頼。そんなものが殺到すれば、俺が望む「村でのスローライフ」は崩れ去ってしまう。
俺はただ、美味い飯を食って、ウィルと昼寝がしたいだけなのだ。
俺の言葉を聞いて、ウィルはぽかんとしていたが、やがて「ふふっ」と笑った。
「そっか……。ガクさんは、有名になるより、のんびり暮らしたいんだね」
「……オウ。……タノム」
俺が人差し指を口元に当てて「内緒」のポーズをすると、ウィルは嬉しそうに頷いた。
「わかった。ガクさんの平和のためだもんね。今のことは、二人だけの秘密にしよう」
「……タスカル」
ウィルは物分かりが良くて助かる。
周囲の喧騒はまだ続いているが、ワイバーンが去ったことに気づけばすぐに落ち着くだろう。
「さあ、行こうガクさん! 誰も気づいてないうちに!」
「……オウ」
俺たちは顔を見合わせ、共犯者の笑みを浮かべた。
そして、逃げるように……いや、あくまで「ただの通りすがりの行商」として、そそくさとその場を後にした。
こうして、街を出て早々に起きたトラブルは、俺の「まぐれ当たりの剛速球」と、ウィルとの「小さな秘密」によって幕を閉じたのだった。
[newpage]
第14話:雨音と、震える手のスープ
ワイバーン騒動があった翌日。
空は朝から、重たい灰色に覆われていた。
ポツポツと降り始めた雨は、昼を過ぎる頃には地面を叩きつけるような本降りになっていた。
荷車には油を塗った厚手の布を被せているから、小麦や衣類が濡れる心配はない。
でも、このまま歩き続けるのは危険だ。
「ガクさん、今日は早めに野営の準備をしよう。この雨じゃ、夜になっても止みそうにないよ」
「……オウ。……ソウダナ」
僕の提案に、ガクさんが雨除けのフードの下で頷く。
ガクさんは平気そうだけど、僕の体はさっきから少し重たい。
雨に打たれて体が冷えたせいかもしれない。早く火に当たって温まりたい。
運良く、街道から少し外れた崖下に、手頃な大きさの洞窟を見つけた。
入り口は狭いけれど、中は乾燥していて、ガクさんの巨体でも十分に横になれる広さがある。
「ここなら雨風もしのげるね。……よいしょ」
僕は荷車から鍋と干し肉を取り出し、野営の準備を始めた。
まずは火をおこさなきゃ。この辺りの薪は湿気っているだろうから、乾いた枝を探さないと。
「ガクさんはここで休んでて。僕、奥の方で薪になりそうなものを探して……」
立ち上がろうとした、その時だった。
世界がぐらりと傾いた。
「……ッ?」
視界が白く霞み、足に力が入らない。
ドサッ、という鈍い音がして、気づけば僕は冷たい地面に倒れ込んでいた。
「……ウィル!?」
ガクさんの焦った声が聞こえる。
大きな手が僕の額に触れた。ひんやりとしていて気持ちいい。
「……アツイ。……ネツ、アル」
「ごめん、ガクさん……。ちょっと、風邪ひいちゃったみたい……」
情けない。
ガクさんを案内する役目なのに、僕が足手まといになってどうするんだ。
ガクさんが、何やら深刻な顔で手をかざそうとしている。その構えは、回復魔法だ。
「……ナオス。……マホウ」
「だ、ダメだよ……!」
僕は慌ててガクさんの手を掴んで止めた。
「ここでガクさんが倒れちゃったら、もっと大変だよ……! ガクさん、魔法使うとすぐお腹空いて動けなくなるでしょ?」
こんな森の中で、ガクさんが動けなくなったら終わりだ。
それに、ただの風邪にあのものすごい光の柱みたいな魔法を使うなんて、もったいないにも程がある。
「……デモ」
「大丈夫……少し眠れば治るから……。だから、魔法はなし……」
僕が言うと、ガクさんは困ったように眉を下げたが、やがて力強く頷いた。
「……ワカッタ。……オレ、マカセロ」
ガクさんが、僕の体を軽々と抱き上げる。
その言葉は頼もしいけれど、同時にものすごい不安も襲ってきた。
不器用なガクさんに、野営の準備なんてできるの?
薪を拾うだけで木をへし折り、火をおこそうとして摩擦熱で爆発させたりしない?
「ガクさん、あのね、火をおこす時は……」
言いかけた言葉は、急激な眠気にかき消された。
意識が、深い闇へと沈んでいく。
***
……パチ、パチパチ。
薪が爆ぜる音と、香ばしい匂いで目が覚めた。
目を開けると、そこには揺らめく焚き火の明かりがあった。
「……ん」
体を起こそうとして、自分が温かい「何か」に包まれていることに気づいた。
背中には大きく分厚い胸板。周りには丸太のような腕。
僕はガクさんのあぐらの中にすっぽりと収まり、抱きかかえられるようにして寝ていたのだ。特大サイズの湯たんぽに包まれているみたいで、すごく温かい。
「……キガツイタカ?」
頭上から、ガクさんの低い声が降ってきた。
「ガクさん……。ごめんなさい、僕、寝ちゃって……」
「……キニスルナ。……キブン、ドウダ?」
「うん……だいぶ楽になったよ」
まだ少し頭はぼーっとするけれど、寒気はなくなっていた。
僕は改めて周囲を見渡した。
焚き火の上には鍋が吊るされ、湯気を立てている。
そして洞窟の隅には――無惨にひしゃげた手桶の残骸や、粉々になった薪の残骸、そして何故か半分地面に埋まった石などが散乱していた。
(……すごい、どうやったらこんなことに……)
僕はその光景に目を奪われた。
無数の犠牲(失敗作)の山。それはつまり、ガクさんが何度失敗しても諦めず、僕のために試行錯誤を繰り返した証だ。
あの不器用なガクさんが、これだけの道具を破壊しながらも、最後にはちゃんと火をおこし、スープを完成させたのだ。
(……あのガクさんが火を起こせるようになるなんて……!)
これだけの失敗を積み重ねても、決して投げ出さずにやり遂げたのだ。
その姿を想像すると、しみじみとした感動が胸に込み上げてきた。
「……メシ、クウカ?」
ガクさんが鍋からスープを木の皿によそい、差し出してくれた。
僕はそれを受け取ろうとして――息を呑んだ。
ガクさんの手が、小刻みに震えているのだ。
プルプル、プルプル……。
皿を割らないように。
中身をこぼさないように。
全身の筋肉を総動員して、力の加減を制御しているのがわかった。
ワイバーンと戦った時よりも、ずっと必死な顔だ。
「……アリガトウ」
僕はそっと皿を受け取った。
中身は、お湯に干し肉をちぎって入れただけの、味付けも適当なシンプルなスープだ。
でも、一口飲むと、体の芯まで染み渡るような味がした。
「……おいしい。すごく、おいしいよ」
「……ソウカ。……ヨカッタ」
ガクさんが、ほっとしたように大きく息を吐いた。
その笑顔を見たら、なんだか涙が出そうになった。
スープを飲み干すと、ガクさんは僕を腕の中に包み込み、二人で横になった。
外はまだ激しい雨が降っているけれど、この腕の中は静かで、温かい。
「……ナデテ、イイカ?」
「え?」
ガクさんが、おずおずと大きな掌を僕の頭上に掲げた。
さっきのスープの時と同じように、その手は微かに震えている。
「……レンシュウ。……ヤサシク」
「……うん。お願い」
僕が目を閉じると、大きな掌が、本当にそっと、壊れ物に触れるように頭に乗せられた。
ごつごつしていて、大きくて。
でも、すごく温かい手。
ポン、ポン。
不器用なリズムで、僕の頭が撫でられる。
(……こんなふうにされるのは、いつ以来だろう)
記憶にあるのは、まだ僕がもっと小さかった頃、孤児院に入る前の、おぼろげな温もりだけだ。
孤児院では、僕はいつも「しっかり者のお兄ちゃん」として、みんなの頭を撫でる側だったから。
なんだかすごく子供扱いされているみたいで、顔が熱くなるのを感じる。
正直、すごく恥ずかしい。
でも……。
その大きく温かい手の感触は、ちっとも悪い気分じゃなかった。
心地よい重みと温もりに包まれて、僕の意識は再び夢の中へと落ちていった。
雨音はもう、ちっとも怖くなかった。
[newpage]
第15話:帰還と、大人への入り口
見慣れた木の柵が見えてきたとき、僕は心の底からほっとした息を吐いた。
夕暮れ時の赤く染まった空の下、懐かしい村の入り口がそこにあった。
「……ツイタ。……カ?」
「うん、着いたよガクさん。僕たちの村だ」
僕の隣で、ガクさんが汗を拭いながら安堵の表情を見せる。
予定よりもだいぶ遅くなってしまった。
魔道具の完成待ちや、帰り道で降った大雨で足止めを食らったことが重なり、当初の予定より三日も遅れての帰還だ。
「おーい! あれ、ガクか!? ウィルも一緒か!?」
物見櫓の上にいたガントさんが、僕たちの姿を見つけて大声を上げた。
その声を聞きつけ、村の中からわらわらと人が集まってくる。
「ウィル! 無事だったか!」
「遅いから心配してたんだぞ!」
「……って、おいおい! なんだその荷物の量は!?」
駆け寄ってきた大人たちは、まず僕たちの無事を喜び、次にガクさんが引いている荷車――山のように積まれた木箱や麻袋の塔を見て、目を剥いた。
さらに、彼らの視線はガクさん自身にも釘付けになる。
「それにガク……お前、その格好どうしたんだ?」
「……フク。……カッタ」
ガクさんが、特注の上着の襟を正して胸を張る。
ボロボロの布切れを巻いただけだった野性児スタイルから一変、今のガクさんはシャツに深緑の上着、そして頑丈なズボンに身を包んでいる。
見た目だけなら、どこぞの貴族の護衛か、富豪の商人のようだ。
「すげぇ……。中身はともかく、見た目だけは立派な紳士に見えるぞ」
「中身はともかくって言わないであげてよ。……いろいろあって遅れちゃったけど、頼まれた物資は全部買ってきました! それと、お土産もたくさんあります!」
僕が報告すると、村人たちから歓声が上がった。
「ガクさん、悪いけど荷下ろしをお願いしていいかな? 僕は村長に報告に行ってくるから」
「……オウ。……マカセロ」
ガクさんは力強く頷くと、軽々と――それこそ小石でも拾うように――巨大な樽を抱え上げ、備蓄庫の方へと運び始めた。その背中を見送り、僕は村の中心にある村長の家へと走った。
***
「まずは無事の帰還、何よりじゃ」
執務室に入ると、いつものように村長が髭を撫でながら迎えてくれた。
僕は旅の経緯を報告した。
グランキースの街でのこと。
グラスホーンの素材が高く売れたこと。
そのお金で物資を安く、大量に仕入れられたこと。
ワイバーンのことは……ガクさんとの約束通り少しぼかして伝えた。
「それで、村長。これなんですが……」
僕は懐から、ずっしりと重い革袋を取り出し、机の上に置いた。
商人ギルドで受け取り、服や魔道具の代金を引いた残りのお金だ。それでも、まだ金貨二百枚以上が入っている。
「ガクさんが、このお金を村のために使って欲しいって。ガクさんは一人じゃ買い物ができないし、村にお世話になっているお礼だそうです」
「ふむ……」
村長は革袋を手に取り、その重さを確かめると、そのまま僕の方へ押し戻した。
「村長?」
「ウィルよ。その金は、村で預かるわけにはいかん。お主が持っていなさい」
「えっ、でも! これはガクさんが……それに、こんな大金、僕が持っていても……」
僕が慌てると、村長は穏やかな目で僕を見つめ、諭すように言った。
「ウィル。今回の旅で、お主も痛感したじゃろう? ガク殿という常識の物差しでは測れぬ御仁が生きるには、どれほど『金』がかかるかということを」
ドキリとした。
図星だった。
あの巨体を維持するための食費。
特注しなければならない服や道具。
そして、何かを壊してしまった時の弁償代。
ガクさんは、普通に生きているだけで、普通の人の何倍ものお金がかかるのだ。
「グラスホーンの素材が良い値で売れることは、わしも知っておった。じゃが、それを村の財産として没収してしまえば、ガク殿がいざという時に困ることになる。……ガク殿には、専用の蓄えが必要なんじゃよ」
村長は、最初から全て見通していたのだ。
ガクさんが稼ぐ力と、消費する力の両方を。
「もし、お主がこれからもガク殿の隣にいるつもりなら……その金の管理は、お主が責任を持ってやりなさい。それが、あの不器用な御仁に対する、一番の助けになるはずじゃ」
「僕が……管理を……」
その言葉の重みが、革袋の重みと重なって、僕の手にのしかかる。
「それにウィル。お主も次の春で、成人を迎える歳じゃろう?」
「あ、はい。そうです」
「もう子供ではない。自分の才覚で、誰かの助けとなり、生きる道を切り開く時期に来ておる。……この金の使い方を含め、これからどう生きていくか、しっかり考えなさい」
村長の言葉は、優しく、そして厳しかった。
僕は革袋を強く握りしめ、「はい」と深く頭を下げて部屋を出た。
***
報告を終え、孤児院『木漏れ日の家』に戻ると、そこはお祭り騒ぎになっていた。
「ウィル兄ちゃん! おかえりー!」
「ガクのおっちゃん、服かっこいいー!」
子供たちが僕とガクさんに飛びついてくる。
マーサ院長も、エプロンで手を拭きながら豪快に笑って出てきた。
「やれやれ、待ちくたびれたよ! あんたたちが帰ってこないから、みんな心配で夜も眠れなかったんだからね!」
「ごめんなさい、院長。はいこれ、リクエストの甘いお酒」
「おっ! 気が利くじゃないか、ウィル!」
僕が瓶を渡すと、院長は上機嫌でそれを受け取った。
子供たちには、街で買った焼き菓子や、色とりどりの飴玉を配った。
見たこともない綺麗なお菓子に、子供たちの目がキラキラと輝く。
「ねえねえウィル兄ちゃん、街ってどんなとこ?」
「すごい建物がいっぱいあるの?」
「ガクおっちゃん、強い魔物倒した!?」
夕食のテーブルでは、質問攻めにあった。
ガクさんは口いっぱいにシチューを頬張りながら、ニコニコと子供たちの話を聞いている。
いつもの騒がしくて、温かい食卓。
高級宿の静かな朝食も良かったけれど、やっぱり僕には、この賑やかさが一番落ち着く場所だ。
……そう、思っていたはずなのに。
***
その夜。
子供たちの寝息が聞こえる大部屋の隅で、僕は一人、天井を見上げていた。
隣では、ガクさんがいつものように丸くなって寝ている。
その寝顔を見ていると、村長の言葉が頭の中でリフレインした。
『これからどう生きていくか、しっかり考えなさい』
次の春になれば、村では成人の祭りがある。
それを越えれば、僕は一人前の「大人」として扱われる。
これまでは、漠然とこの村で生きていくことしか考えていなかった。
大人たちのように畑を耕し、狩りをして、いつかはこの孤児院を手伝って……それが僕の「当たり前」の未来だった。
でも。
ガクさんと旅をして、僕は知ってしまった。
大人たちの背中を追いかけ、荷台の隅から眺めていた景色とは、まるで違っていた。
自分の足で歩き、自分の言葉で商談をまとめ、あの広い世界と対等に渡り合えた手応え。
そして何より――この不器用で優しい熊の人には、だれかの「支え」が、どうしても必要だということを。
(……このお金があれば、ガクさんはどこでだって暮らしていける)
大福商会の商人は言っていた。『専属護衛になれば、一生食うには困らない』と。
ガクさんの力があれば、もっと大きな街や、もっと遠い国へ行くことだってできるだろう。
(僕の居場所は、ここなのかな。それとも……)
答えは、すぐには出そうになかった。
ただ一つ確かなのは、今の僕にとって、この「悩み」すらも、少し前にはなかった新しい宝物だということだ。
僕は寝返りを打ち、ガクさんの背中にそっと触れた。
温かい体温が伝わってくる。
「……おやすみなさい、ガクさん」
僕は小さく呟き、未来への不安と期待を胸に抱いたまま、ゆっくりと瞼を閉じた。
[newpage]
第15.5話:晩秋の冷たい水と、小さな熱
グランキースへの遠征から数週間が過ぎた。
村を包む空気は日ごとに冷たさを増し、森の木々も鮮やかな赤や黄色から、冬枯れの景色へと移ろい始めていた。
「……フゥ」
俺は孤児院の裏手で、冬支度のための薪割り(素手)を終え、切り株に腰掛けて一息ついていた。
額に滲んだ汗を腕で拭う。
【STR:26】と【CON:18】の恩恵で肉体的な疲労は皆無だが、体を動かせば熱は籠もる。分厚い毛皮の下は蒸し風呂状態だ。
「ガクさん、お疲れ様!」
そこへ、薪を運ぶ手伝いをしていたウィルが、タタタッと駆け寄ってきた。
「ガクさん、汗かいてるね。……どう? これから川へ水浴びに行かない?」
「……カワ?」
「うん。最近急に寒くなってきたから、川で水浴びできるのも、今日までになりそうだし。最後に体の汚れを全部落としちゃおう!」
ウィルの提案に、俺は少し考えてから頷いた。
確かに、これ以上気温が下がれば、さすがの熊毛皮でも冷水浴は厳しくなるかもしれない。冬本番を迎える前に、一度念入りに洗っておくのは悪くない。
「……ソウダナ。……イクカ」
***
村外れの川に到着すると、水面には冷たい風が吹き渡っていた。
「うぅ……やっぱり、流石にすこし寒いね」
ウィルがブルッと身震いし、自分の二の腕をさすっている。
俺は服を脱ぎ、ザブザブと川に入った。冷たい水が火照った体に染みて心地よい。
俺がいつもの大岩に腰掛けると、ウィルも服を脱いで、石鹸を持って入ってきた。
「じゃあガクさん、背中から洗うね」
「……タノム」
ウィルの小さな手が、たっぷりと泡立てた石鹸を纏って、俺の背中に触れる。
その感触に、俺の脳裏に『あの日』の出来事が鮮烈に蘇った。
初めて、自分の毛皮を他人に洗われるという感覚。
それに抗えず、あろうことか勃起してしまい、それどころか子供であるウィルに抜いてもらうという大失態を犯してしまった、あの日のことを。
(……思い出すだけで死にたくなる)
前世の俺は大山岳、三十五歳。
枯れかけたおっさんだった。現実世界では、性欲に振り回されることなんてとっくになくなっていた。仕事の疲れで、週末に一人でする気力すらないことだって珍しくなかったのだ。
なのに、どうだ。
この熊獣人の体に転生してからというもの、俺は異様なほどの性欲を感じることがある。
ちょっとした接触、匂い、摩擦。それだけで、下半身の怪物が暴れだそうとする。
(もしかして、この身体の肉体年齢は若いのか?)
そういえば、グランキースの服屋の熊店主も、俺のことを「兄ちゃん」と呼んでいた。
この身体は、人間で言えば十代後半から二十代前半くらいの、一番盛んな時期なのかもしれない。
だとしても、理性が本能に負けるなど、元社会人としてあってはならないことだ。
ウィルの指が、背中の筋肉の溝をなぞる。
ゾクリ、と背筋に電流が走る。
……危ない。また反応しそうだ。
(だが、今の俺はあの頃の俺とは違う……!)
俺は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
(精神統一……己の五感を、外界から切り離すんだ!)
イメージするのは、遠い昔、会社の研修で一回だけ体験した鎌倉での坐禅だ。
警策で叩かれる痛みすら無へと帰す、明鏡止水の心境。
色即是空、空即是色。
俺は熊ではない。俺は石だ。苔むした大岩だ。
ヌルリ。
ウィルの手が、背中から脇の下へと滑り込んできた。
敏感な部分を、泡まみれの指がくすぐるように這い回る。
(……ッ!! ぬぉおッ、そこはっ……!!)
脳内で警鐘が鳴り響くが、俺は歯を食いしばり、白目を剥いて耐え忍んだ。
初回の事件以降も、こうして水浴びをする機会は何回もあった。その度に俺は、この「虚無の坐禅モード」を発動して乗り越えてきたのだ。
今回も耐えてみせる!
「……ガクさん? またすごい顔になってるよ?」
背後から、ウィルの心配そうな声が聞こえた。
「大丈夫? なんか……森の奥にある、食べちゃいけない毒キノコを食べた人みたいになってるけど……」
ウィル曰く、このモードに入っている時の俺は、白目を剥いて口を半開きにした、世にも恐ろしい阿呆面を晒しているらしい。
だが、背に腹は変えられない。
社会的な尊厳(顔面)を捨ててでも、守らねばならない尊厳(理性)があるのだ。
「……(ヘイキダ、ツヅケロ)」
声にならない音を漏らすと、ウィルは「う、うん……」と戸惑いつつも、背中を洗い続けた。
(……無だ。俺は無だ。ここは宇宙。俺はただの素粒子……)
俺は外界の情報を遮断した。
視覚を閉じ、聴覚を遠ざけ、触覚を麻痺させる。
意識を銀河の彼方へと飛ばし、背中に触れるウィルの手の感触を、ただの「データのノイズ」として処理する。
よし、いいぞ。この調子なら耐えられる。
そうして俺が虚無の宇宙を漂っていた、その時だった。
ふと、背中にあった感触が消えた。
あれ? もう終わったのか?
そう安堵して意識を地球に戻そうとした直後――。
ヒヤリとした冷たい指先が、俺の分厚い胸板を這った。
(……ン?)
俺はギョッとして薄目を開けた。
そこには、いつの間にか俺の前に回り込んでいるウィルの姿があった。
(おい待て、いつの間に!?)
いつもなら、背中を流して終わりのはずだ。
だが、今日のウィルは違った。
俺が呆気に取られている間にも、小さな手は、脂肪に覆われた腹筋の起伏を丁寧に指でなぞり、そのまま躊躇いなく下へと滑っていく。
太ももの内側。一番熱が籠もる場所。
そこを、泡に塗れた指先が這う。
(……ッ!!)
俺は必死に般若心経を脳内で唱え続けた。
ウィルの手が際どい場所を掠めるたびに、俺の意識は涅槃の境地(という名の気絶寸前)へと旅立ちかけたが、なんとか踏みとどまった。
「……はい、終わったよガクさん!」
ウィルが俺の体に水をかけ、泡を洗い流してくれた。
その瞬間、俺の全身から力が抜けた。
「……フゥゥゥゥ……」
やっと解放された。
俺は大きく息を吐き、石化していた表情筋を戻した。
勝った。俺の理性は、若き肉体の暴走に打ち勝ったのだ。
「……アリガトウ。……ウィル」
「ううん、どういたしまして!」
ニコニコと笑うウィルにお礼を言う。
本当なら、ここでお返しに俺がウィルを洗ってあげたいところだ。
だが、それは不可能だ。
俺の【STR:26】と【DEX:04】の腕で、ウィルの小さな体を洗おうものなら、垢どころか全身の皮膚と毛皮を剥ぎ取って、生肉にしてしまう大惨事になりかねない。
俺にできるのは、ただ感謝して、大人しく洗われることだけなのだ。
「……ジャア、アガルカ」
俺が立ち上がろうとした、その時だった。
ふと視界に入ったウィルの様子がおかしい。
「……んっ……」
ウィルは俯き、両手で自分の股間を必死に隠すようにして、もじもじと立ち尽くしている。
寒さで震えているわけではない。その頬は、夕焼けのように赤く染まっている。
「……ウィル? ……ドウカシタノカ?」
俺が不思議に思って顔を覗き込むと、ウィルはビクリと肩を震わせ、観念したように股間を覆っていたその両手を、ゆっくりと外した。
じっとウィルを見る。
夕焼けのように染まった頬。
ピンと立った大きな三角耳は、羞恥に耐えるように小刻みに震えている。
潤んだ瞳でこちらを見上げる上目遣い。
そして、茶色と白の毛並みの間、無防備に晒された、あどけなくも雄々しい昂り。
背後に見える短い尻尾が、隠しきれない興奮でピクピクと跳ねていた。
呆然とする俺に向かって、ウィルは困ったように、でもどこか甘えるような熱っぽい声で告げた。
「……勃っちゃった」
「…………ハ?」
晩秋の冷たい川の中で、俺の思考はショートした。
(いや、待て。落ち着け俺)
俺は必死に理性をかき集めた。
ウィルはもうすぐ成人を迎える思春期真っ盛りの多感なお年頃だ。
理由もなく反応してしまうことだってあるだろう。寒暖差とか、摩擦とか、若さゆえの暴走とか。
だからこれは、生理現象だ。やましさなんて何もない。
……そう、自分に言い聞かせようとした。
だが、俺の本能(タマシイ)がそれを許さなかった。
じっとウィルを見る。
震える犬耳。濡れた毛皮。潤んだ瞳。
そして、恥ずかしげもなく晒された剛直。
(……くっ、無理だ!)
俺は元々、前世から筋金入りの「同性獣人愛好家」なのだ。
こんな、ウィルのエッチすぎる姿を見せつけられて、耐えられる精神力など持ち合わせているはずがない。
坐禅? 精神統一? そんなものは、目の前に広がる光景の前では塵に等しいかった。
ドクンッ。
下腹部が、暴力的なまでに熱く脈打った。
俺の股間が、瞬時にして限界まで膨れ上がり、制御を失った血液が奔流となって一点に集中する。
「あ……」
ウィルが目を見開いて、俺の股間を見つめる。
「ガクさんも、勃っちゃったね」
ウィルは嬉しそうに、悪戯っぽく微笑んだ。
そして、平然と言い放った。
「一緒に出しちゃおっか」
「…………」
俺の脳内ヒューズが完全に焼き切れた。
肯定も、否定も、言葉という形を成して出てこない。
ただパクパクと口を開閉させるだけの置物と化した俺を、ウィルは「沈黙は了承」と受け取ったようだ。
チャプン、と水音がした。
ウィルが俺に近づき、あの日――夏の川辺での出来事と同じように、俺の太い腰の上に跨った。
濡れた毛皮同士が擦れ合う感触。
ウィルの太ももが、俺の剛直を両側から挟み込む。
「……ガクさん、大きい」
ウィルが俺の巨根に手を伸ばし、しっかりと握りしめた。
まるで、操縦桿を握るパイロットのように。
あの日と同じ状況だ。
だが、決定的に違うことが一つある。
(……熱い)
俺のモノに密着しているウィルの下腹部に、硬く熱い「芯」がある。
俺の剛直の根本に、ウィルの昂った自身が擦り付けられているのだ。
「んっ……、ふぁ……っ」
ウィルが腰を揺らし始めた。
小さな手で俺のモノを扱き上げながら、自分自身の性器を、俺の剛直そのものに押し付け、擦り合わせている。
サイズ差がありすぎて、ウィルの手では俺のモノの半分も隠れない。
だが、その小さな掌の熱さと、根本で蠢くウィルの性器の硬さが、ダイレクトに脳髄を揺さぶる。
「ガクさんの……、すごく……硬い……っ」
ウィルの甘く掠れた煽情的な吐息が弾ける。
俺は、こみ上げる獣のような衝動を抑えつけるように、両手を川の底の石へと強く押し当てた。
力を入れれば、ウィルの小さな体を壊してしまう。
触れれば、この昂りを抑えきれずに、彼を砕いてしまうかもしれない。
その恐怖が、俺の指先を石に食い込ませ、周囲の水を激しく波立たせた。
「……ウィル……ッ!」
「あっ、ガクさんっ……! 僕も、一緒に……ッ!」
俺の腰が跳ねた。
限界を超えた圧力が解放される。
俺の陰茎から白濁した熱が勢いよく吹き上がり、ウィルの胸元とお腹を汚していく。
それと同時に、ウィルの身体もビクンと大きく震え、熱い飛沫を吐き出した。
二つの熱が混ざり合い、冷たい川の水へと溶けていく。
***
事後。
俺たちは川から上がり、平らな石の上で並んで座って毛皮を乾かしていた。
冷たい風が、濡れた身体を撫でていく。
(……また、同じ過ちを繰り返してしまった)
俺は膝を抱えてうなだれた。
一度ならず二度までも。しかも今回は、あちらからの誘いがあったとはいえ、大人の俺が歯止めをかけるべきだったんじゃないのか?
チラリと横を見ると、ウィルは平然と濡れた尻尾を絞って乾かしている。
あんなことがあった後なのに、ウィルは何食わぬ顔だ。
(……異世界の子供って、こんなに性に解放的なのか? それとも、俺が現代日本の倫理観で意識しすぎているだけなのか?)
獣人の貞操観念というものが分からない。
これが挨拶代わりのスキンシップだとしたら、俺の苦悩は滑稽極まりないことになる。
俺が一人で頭を混乱させていると、不意にウィルから声がかかった。
「ガクさん……」
「……ン?」
「次の春が来たらね、村で成人のお祭りがあるんだ」
ウィルが遠くの山を見つめながら言う。
「僕もそのお祭りに出るの。それを越えれば、僕も一人前の『大人』として認められるんだよ」
「……ソウカ。……メデタイ」
(もう成人、か……)
前世の感覚からすれば、まだ親に守られているべき子供の歳だ。
だが、魔物が存在するこの過酷な世界では、悠長に成長を待ってはくれないのだろう。
早すぎる気もする。けれど、ウィルの真剣な横顔は、彼がすでに立派な覚悟を持っていることを如実に物語っていた。
ウィルなら、きっと立派な大人になるだろう。
だが、ウィルはそこで言葉を切り、少し俯いた。
沈黙が流れる。
川のせせらぎだけが聞こえる中、ウィルが意を決したように小さな声で言った。
「それが終わったら……僕と……」
「……?」
俺はウィルの次の言葉を待った。
ウィルは唇を震わせ、何かを言いかけ――そして、ふっと力を抜いて笑った。
「……ううん。やっぱり、なんでもないや」
ウィルは立ち上がり、パンパンとズボンの土を払った。
「そろそろ乾いたし、孤児院に帰ろうか! マーサ院長に心配されちゃう」
「……オウ」
ウィルが歩き出す。
俺も慌てて服を着て、その小さな背中を追いかけた。
帰路につきながら、俺はさっきのウィルの言葉について考えていた。
『それが終わったら』。
その後に続く言葉は、何だったのだろう。
成人を迎えたら、ウィルは村を出るのだろうか。
広い世界を見てみたいと言っていた。商人としての才覚もある。
もしウィルが村を出ていくとしたら、その時、俺はどうするのだろう。
(……俺は、ウィルと一緒にいたい)
それが俺の本音だ。
この世界で最初に俺を見つけてくれた、大事な相棒。
ウィルが望んでくれる限り、俺はずっと隣にいたい。
でも――
(いや、これはウィルが考えることだ)
俺が口出しして、ウィルの未来を縛ってはいけない。
ウィルの人生は、ウィルのものなのだから。
ウィルがどんな道を選んでも、それを尊重しよう。
村に残るなら、俺もここで畑を耕そう。
外の世界へ行くなら、俺が最強の盾となって守り抜こう。
この先どんなことが起きても、俺がウィルの味方であることに変わりはないのだから。
俺は一人胸に誓って、愛しい相棒の背中を追いかけた。