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  エリアス王は、よく整った姿をしていた。

  それは生まれつきの資質というより、そう在るように仕立てられた結果だった。

  白い肌に、傷のない身体。

  風に晒されたことのない髪と、鍛えられていない四肢。

  衣と宝石が彼の代わりに重みを語り、

  王冠が彼の代わりに権威を示す。

  人々はそれを見て、「美しい王だ」と囁いた。

  その声に、値踏みするような熱が混じっていたことに、当時の彼は気づかなかった。

  その美しさは、剣でも、言葉でも、決断でもなく、何も知らないことによって保たれている美しさだったから。

  エリアスは、人生の厚みを知らなかった。

  血の匂いを嗅いだことがない。

  誰かが殴られる音を、すぐそばで聞いたこともない。

  寒さに震えながら夜を越えた経験も、腹を空かせて朝を迎えたこともない。

  それらはすべて、王に必要のないものだと教えられてきた。

  世界の仕組みも同じだった。

  国がどう動いているのか。

  誰が犠牲になっているのか。

  何が壊され、何が奪われているのか。

  エリアスは、知らされなかった。

  それは優しさではなく、管理だった。

  ――

  王国は長いあいだ、静かだった。

  街道は整えられ、穀倉は満ち、兵は規律正しく並ぶ。

  民はそれを「秩序」と呼んだ。

  会議の席で語られる言葉は、いつも整っている。

  〈開拓〉

  〈治安維持〉

  〈境界の整理〉

  柔らかな言葉の裏で、村が消え、狩場が奪われ、名もなき存在が、帳簿の外へ押し流されていく。

  その話題の多くは、獣人に関するものだった。

  「危険な存在です」

  「理性に欠けています」

  「放置すれば、必ず争いになります」

  恐怖は丁寧に語られると正義の顔をする。

  エリアスはそれを聞き、頷いた。

  異論は唱えなかった。

  唱える理由も、材料も、与えられていなかったからだ。

  それに――

  彼は恐怖に弱かった。

  国が揺らぐことが。

  民の不満が、自分へ向くことが。

  王としての立場が、実はひどく脆いものだと気づいてしまうことが。

  だから彼は、署名をした。

  書類に。決裁に。

  自分の知らない場所で起きている、すべてに。

  ――

  最後の勅令が上がってきた日、エリアスは、なぜかペンを取れなかった。

  窓の外では、季節外れの冷たい風が吹いていた。

  王国に冬はない。

  だがその日、城の中にも、かすかな寒さが入り込んでいた。

  紙は厚く、文言は簡潔だった。

  ——獣人を、法の上で「獣」と定義する。

  ——人の法の保護対象から外す。

  理屈は整っていた。

  これで境界は明確になり、管理は容易になる。

  だが、その一文を目で追った瞬間、胸の奥に、湿った違和感が広がった。

  なぜ、ここまで言い切る必要があるのか。

  なぜ、名を奪う必要があるのか。

  問いは、言葉にならなかった。

  エリアスには、論じる力がなかった。

  「線引きは、秩序の基本です」

  宰相は、迷いなくそう言った。

  エリアスは、何も返せなかった。

  ただ、ペンを置いた。

  ――

  その夜、エリアスは夢を見た。

  人の形をした影が、いつの間にか獣と呼ばれ、名前を失い、声を奪われていく夢。

  目を覚ましたとき、彼の手のひらは、汗で濡れていた。

  理解してしまったのだ。

  この言葉を書けば、戻れなくなる。

  それだけは、分かった。

  ――

  翌朝、エリアスは署名を拒んだ。

  理由は述べなかった。改革案も示さなかった。

  ただ、書かなかった。

  沈黙は、すぐに意味を持たされた。

  「王は獣に情を移した」

  「王は秩序を壊そうとしている」

  「王は、国を危険に晒した」

  プロパガンダは広がった。

  恐怖は、王から民へ流れ、やがて再び、王へと戻ってきた。

  今度は、敵として。

  ――

  追放は、夜にひっそりと実行された。

  正式な裁きはない。そんなもの、必要がないからだ。

  城門の外に立たされた瞬間、冷たい風が、衣の隙間から身体に入り込んだ。

  エリアスは、ほとんど何も持たされなかった。

  剣も、金も、着替えもない。

  息を吸うと、空気が冷たく、肺が痛んだ。

  そのとき、彼は初めて気づく。

  城の廊下は、歩くための場所ではなかった。

  見せるための場所だ。

  夜は暗く、冬の湿気を含んだ空気が、どこまでも続いている。

  「……歩く、のか」

  独り言は、すぐに風に散った。

  足を出す。

  もう一歩。

  地面は硬く、靴はすぐに冷え、足首が鈍く痛み始める。

  どれほど歩いたのか、分からない。

  呼吸は浅くなり、白い息が、視界を遮る。

  膝が、地面に落ちた。

  凍えた土の冷たさが、初めて、彼の身体に触れる。

  白かった手のひらが汚れ、感覚がなくなっていく。

  エリアスは、倒れた。

  寒さと、恐怖と、初めて知る「自分の弱さ」に、

  身体が耐えられなかった。

  意識が薄れていく中で、

  彼は理解する。

  (これは、雪というものか…昔絵本で読んだ、)

  冷たいはずなのに、どこか柔らかく、指の感覚を奪っていく白。

  「あぁ、そうか…」

  自分は、慕われてなどいなかった。

  ずっと、好奇の目で見られていたのだ。

  飾られ、守られ、何も知らされないまま。

  ——守られていたのではない。

  ——閉じ込められていたのだ。

  この無知と恐怖が、やがて冬を生きる獣の温度に触れるための入口になることを、エリアスはまだ知らない。