夏は、獣人にとって危険な季節だった。
それは昔から変わらない、理だった。
太陽が高く昇り、空気が乾き、匂いが強くなる。
身体が、理屈よりも先に「繋がること」を思い出す時期だ。
だが同時に、夏は祝福の季節でもある。
子が生まれる機会に恵まれ、結果群れが増え、村に活気が戻る。
怪我が癒え、狩りの成果が上がり、冬に向けた備えが進む。
危険と祝福は、獣人にとって切り離せないものだった。
忌むべきものではない。
ただ、力の扱いを誤れば、すべてを壊しかねないだけだ。
とりわけ熊の力を持つガレンは、そのことを誰よりも知っていた。
だから毎年、夏が近づくと生活を変えた。
見回りは最低限に抑え、狩りも短時間で切り上げる。
村の中心には、ほとんど近づかない。
理由を問われれば、ただ一言で済ませてきた。
「夏だからだ」
それで十分だった。
誰も深入りしない。
誰も、無理に踏み込まない。
それが、これまでの夏だった。
——だが、今年は違った。
身体の奥にある熱が、引かなかった。
発情期の熱は、本来、波のようなものだ。
強くなる日もあれば、落ち着く日もある。
抑えれば治まり、時間が経てば抜ける。
それが、獣人としての常識だった。
だが今年は、熱が留まり続けている。
下がらない。
薄まらない。
静かに、だが確実に、身体の内側で膨張し続けている。
理由は、分かっていた。
エリアスの匂いだ。
交わったあとも、それは消えなかった。
洗っても、時間を置いても、身体の内側に残る。
欲を煽る匂いではない。
発情を刺激するだけのものでもない。
むしろ、それは安心に近かった。
——もう、ここにいる。
——逃げない。
——受け入れられている。
そう囁くような匂い。
だからこそ、余計に厄介だった。
守りたいものがある発情期ほど、獣人にとって危険なものはない。
衝動を抑える理由が、同時に衝動を強めてしまう。
ガレンは、その矛盾を身をもって知ることになった。
――
エリアスは、すぐに異変に気づいた。
「……ガレン、最近、寝てない?」
問いかけは、何気ないものだった。
責めるでも、疑うでもない。
火を起こす背中。
ほんの少し遅れる返事。
夜更けまで消えない気配。
積み重なった違和感。
「…問題ない」
返ってくる答えは、いつも同じだった。
だが、エリアスはもう、以前のエリアスではなかった。
体を重ねたからか、一緒にいる時間が増えていったからなのか。
触れた身体。
重なった呼吸。
耐えるときの沈黙。
それらを知ってしまったあとの「問題ない」は、
大抵ガレンにとって問題があるときにしか使われない言葉だと、分かってしまった。
「……身体、つらい?熱い?」
慎重に選ばれた言葉。
ガレンは、一瞬だけ手を止めた。
「……ああ」
それだけだった。
エリアスは、それ以上追及しなかった。
だが、視線は離さなかった。
「……前は、こんなじゃなかった」
責める調子ではない。
ただ、確かめるように。
ガレンは、しばらく黙ってから言った。
「……ああ、今年は、少し、長い」
嘘ではない。
だが、それがすべてでもない。
エリアスは、その言葉を受け取って、少しだけ考えた。
「……我慢、しすぎてない?」
その一言で、空気がわずかに張った。
ガレンは、ゆっくりと息を吐いた。
「……我慢しているのは、いつものことだ」
「でも、今回は……」
言葉を探す間。
「……違う、感じがする」
それはエリアスの勘だった。
だが、当たっている。
ガレンは、答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
――
夜が深くなるころ。
ガレンは、ひとり洞穴の奥にいた。
エリアスは眠っている。
規則正しい呼吸が、背後から聞こえる。
その音だけで、胸の奥がざわつく。
——近づくな。
——触れるな。
理性が命じる。
だが、身体は別のことを知っている。
距離を取るほど、匂いは濃くなる。
抑えれば抑えるほど、意識は一点に集まる。
矛盾だった。
逃げれば追ってくる。
抑えれば溜まる。
ガレンは、壁に手をついた。
次の瞬間、歯が自分の腕に食い込んだ。
反射だった。
熱を、別の痛みで上書きするための。
「……っ」
短い息。
血の匂いが、わずかに広がる。
だが、それでいい。
この痛みは制御できる。
誰も傷つけない。
噛み跡は深い。
フェロモンが邪魔して、きっと治るのに時間がかかるだろう。
——だが、それでいい。
エリアスを守れるなら。
――
翌朝。
エリアスは、ガレンの腕を見て、すぐに分かった。
「……噛んだ?」
問いではなかった。
ガレンは、視線を逸らす。
「…問題ない」
同じ言葉。
だが、今度は通じなかった。
「……それ、治りにくい、深そうだ、」
指先が、そっと触れる。
熱を持った皮膚。
ガレンの身体が、わずかに強張る。
「……エリ、」
「……だめ」
短い制止。
「……私のために、傷つくのは」
一拍。
「……それは、違う」
ガレンは、何も言えなかった。
「……交尾したら、楽になるんだろう」
声は震えていない。
「……発情期だから、じゃなくて、」
視線が合う。
「……ガレンに求められるなら、私は、いつでも嬉しい」
それは差し出す言葉ではなかった。
選ぶ言葉だった。
ガレンの喉が鳴る。
「……エリ、それは……」
「わかってないから、じゃない」
即座に被せる。
「……一緒に選んだって、言ったから」
その一言で、ガレンは完全に黙った。
今回の発情期は歪んでいる。
それは事実だ。
だが、その歪みの中心にあるのは、もはや衝動だけではなかった。
——関係。
——選択。
——責任。
そして、ひとつの確信。
愛は隠せても、存在は隠せない。
匂いも、熱も、傷も、沈黙も。
すべてが、今までと違い誤魔化せない。
ガレンは、ゆっくりと目を閉じた。
「……考える」
それだけ言った。
エリアスは、頷いた。
この時点で、二人はまだ知らない。
この歪みが、村の外からも、王都の外からも、
別の視線と気配を引き寄せ始めていることを。
洞穴の外。風の向こうで、
別の獣の匂いが、ほんの一瞬、立ち止まったことを。
世界はもう、「秘密」を見逃す段階を、過ぎつつあった。