17

  王都は、奇妙な静けさに包まれていた。

  喪に服しているわけではない。

  鐘も鳴らず、旗も下げられていない。

  それでも、人々は声を潜めて歩いていた。

  王が、いない。

  それは突然の空白ではなかった。

  予感は、ずっと前からあった。

  玉座の間は閉ざされていない。

  だが、誰もそこに足を踏み入れようとしなかった。

  空席が、あまりにもはっきりと“在る”からだ。

  ある日、宰相府から布告が出た。

  王《《不在》》につき、政務は宰相府が代行する。

  秩序維持および国境管理のため、暫定的措置を講ずる。

  文章は簡潔だった。

  追放とも言われずに、名前は、どこにも書かれていない。

  王の名も。

  次の王の名も。

  誰も「新王」とは呼ばなかった。

  宰相自身も、そう名乗らなかった。

  だが、決定権は常に彼の手にあり、命令は彼の言葉で下された。

  王権代行。

  それは、責任を負わない権力だった。

  ――

  議会は、形だけ続いていた。

  出席者は減り、発言は短くなり、反論は、ほとんど出なくなった。

  「王が不在の今、秩序を乱すことはできない」

  その一言で、ほとんどの議論は終わる。

  獣人に関する法案も、そうだった。

  もともと、獣人は人間の法の“外側”にいた。

  保護されているとも、排除されているとも言い切れない、曖昧な位置。

  その曖昧さが、長く保たれてきた。

  なぜなら、エリアスがいたからだ。

  だが、それは常に拒絶だったわけではない。

  エリアスの机には、日々、無数の書類が積まれていた。

  税制、徴兵、交易、処罰。

  その多くに、エリアスは署名した。

  内容をすべて理解しきれないまま、異を唱える術を持たないまま。

  「必要だ」と言われれば、「秩序のためだ」と説明されれば、彼は、疑問を持たずに署名をした。

  止められなかった法もある。

  守れなかった者もいる。

  エリアスは、王として在り続けるために、いくつもの“見ないふり”を選んできた。

  しかし本当に必要な場面では、エリアスは震えながらも必ず手を止めた。

  ——それは、本当に法か?

  ——それは、人を守るのか?

  エリアスなりに考えてはいた。

  だからこそ、最後の書類に、彼の名はなかった。

  獣人を「獣」と定義し、

  人間の法を適用しないとする勅令。

  それは、彼の机に置かれ、

  署名されないまま、回収された。

  否認された、と公式には記録されていない。

  ただ、何らかの事情で署名が得られなかった。

  それだけだった。

  ――

  宰相は、署名を求めなかった。

  代わりに、別の形を取った。

  王不在期間における暫定的整理として、獣人は人間の法体系から除外される。

  言葉は柔らかい。

  だが、意味は明確だった。

  守られない、ということだ。

  裁かれもしない。

  だが、訴えることもできない。

  人間ではない。

  だが、獣でもない。

  ——法の影に落とされる。

  誰も「迫害」とは呼ばなかった。

  それは、

  「管理」

  「整理」

  「合理化」

  そういう言葉の類で包まれた。

  王都の人々は、安堵した。

  少なくとも、今の生活は変わらない。

  少なくとも、騒ぎは起きない。

  遠くの知らない村で、《《獣のようなもの》》が困るだけだ。

  ――

  宰相は、窓辺に立って王都を見下ろした。

  夕暮れの街は、美しい。

  秩序があり、静かで、よく整っている。

  「……王は、優しすぎた」

  独り言のように呟く。

  優しさは、遅延を生む。

  遅延は、混乱を呼ぶ。

  ——彼はそう信じていた。

  王を名乗らない理由も、そこにあった。

  象徴はいらない。

  感情はいらない。

  必要なのは、止まらない仕組みだけだ。

  エリアスという存在は、その仕組みにとって、あまりにも“人間的”だった。

  だから、排除された。

  処刑でも、追放でもない。

  ただ、歴史から外されただけだ。

  それが、いちばん静かで綺麗なやり方だった。

  ――

  同じ頃。

  王都から遠く離れた獣人の村では、まだ誰もその布告を知らなかった。

  だが、空気は、確かに変わり始めていた。

  風向きが、少しずつ、エリアスにも届くかのようだった。

  まだ、誰もそれを「嵐」とは呼んでいなかった。