王都は、奇妙な静けさに包まれていた。
喪に服しているわけではない。
鐘も鳴らず、旗も下げられていない。
それでも、人々は声を潜めて歩いていた。
王が、いない。
それは突然の空白ではなかった。
予感は、ずっと前からあった。
玉座の間は閉ざされていない。
だが、誰もそこに足を踏み入れようとしなかった。
空席が、あまりにもはっきりと“在る”からだ。
ある日、宰相府から布告が出た。
王《《不在》》につき、政務は宰相府が代行する。
秩序維持および国境管理のため、暫定的措置を講ずる。
文章は簡潔だった。
追放とも言われずに、名前は、どこにも書かれていない。
王の名も。
次の王の名も。
誰も「新王」とは呼ばなかった。
宰相自身も、そう名乗らなかった。
だが、決定権は常に彼の手にあり、命令は彼の言葉で下された。
王権代行。
それは、責任を負わない権力だった。
――
議会は、形だけ続いていた。
出席者は減り、発言は短くなり、反論は、ほとんど出なくなった。
「王が不在の今、秩序を乱すことはできない」
その一言で、ほとんどの議論は終わる。
獣人に関する法案も、そうだった。
もともと、獣人は人間の法の“外側”にいた。
保護されているとも、排除されているとも言い切れない、曖昧な位置。
その曖昧さが、長く保たれてきた。
なぜなら、エリアスがいたからだ。
だが、それは常に拒絶だったわけではない。
エリアスの机には、日々、無数の書類が積まれていた。
税制、徴兵、交易、処罰。
その多くに、エリアスは署名した。
内容をすべて理解しきれないまま、異を唱える術を持たないまま。
「必要だ」と言われれば、「秩序のためだ」と説明されれば、彼は、疑問を持たずに署名をした。
止められなかった法もある。
守れなかった者もいる。
エリアスは、王として在り続けるために、いくつもの“見ないふり”を選んできた。
しかし本当に必要な場面では、エリアスは震えながらも必ず手を止めた。
——それは、本当に法か?
——それは、人を守るのか?
エリアスなりに考えてはいた。
だからこそ、最後の書類に、彼の名はなかった。
獣人を「獣」と定義し、
人間の法を適用しないとする勅令。
それは、彼の机に置かれ、
署名されないまま、回収された。
否認された、と公式には記録されていない。
ただ、何らかの事情で署名が得られなかった。
それだけだった。
――
宰相は、署名を求めなかった。
代わりに、別の形を取った。
王不在期間における暫定的整理として、獣人は人間の法体系から除外される。
言葉は柔らかい。
だが、意味は明確だった。
守られない、ということだ。
裁かれもしない。
だが、訴えることもできない。
人間ではない。
だが、獣でもない。
——法の影に落とされる。
誰も「迫害」とは呼ばなかった。
それは、
「管理」
「整理」
「合理化」
そういう言葉の類で包まれた。
王都の人々は、安堵した。
少なくとも、今の生活は変わらない。
少なくとも、騒ぎは起きない。
遠くの知らない村で、《《獣のようなもの》》が困るだけだ。
――
宰相は、窓辺に立って王都を見下ろした。
夕暮れの街は、美しい。
秩序があり、静かで、よく整っている。
「……王は、優しすぎた」
独り言のように呟く。
優しさは、遅延を生む。
遅延は、混乱を呼ぶ。
——彼はそう信じていた。
王を名乗らない理由も、そこにあった。
象徴はいらない。
感情はいらない。
必要なのは、止まらない仕組みだけだ。
エリアスという存在は、その仕組みにとって、あまりにも“人間的”だった。
だから、排除された。
処刑でも、追放でもない。
ただ、歴史から外されただけだ。
それが、いちばん静かで綺麗なやり方だった。
――
同じ頃。
王都から遠く離れた獣人の村では、まだ誰もその布告を知らなかった。
だが、空気は、確かに変わり始めていた。
風向きが、少しずつ、エリアスにも届くかのようだった。
まだ、誰もそれを「嵐」とは呼んでいなかった。