19.5

  ギルバートは、洞穴の前で立ち止まった。

  足を止めたのは、意識してのことではなかった。

  風向きが変わった、その一瞬だった。

  薬草の匂い。

  血の匂い。

  それに――人間の匂い。

  しかも、近い。

  ただ通り過ぎるだけのものではない。

  ここに「在る」匂いだ。

  「……これは……」

  独り言は、喉の奥で消えた。

  ここが誰の縄張りかを、ギルバートは知っている。

  知らないはずがなかった。

  この洞穴は、ガレンのテリトリーだ。

  若い頃から変わらない。

  誰も近づかず、誰も踏み込まず、必要な者だけが立ち入る場所。

  大熊は、そういう生き方を選んだ。

  往診の帰りだった。

  村長の息子としてではなく、医師として、森を回るいつもの道。

  発情期の獣人に不用意に近づかないことも、同じ獣人として心得ている。

  ましてや、ガレンの巣穴だ。

  本来なら、踵を返す一択だった。

  発情期の匂いは、私事だ。

  誰かの事情に、踏み込む理由はない。

  ――だが。

  匂いが、異質だった。

  獣人のものではない。

  人間のものだ。

  しかも、恐怖や拒絶の匂いではない。

  一時的に触れただけの匂いでもない。

  近くに長く留まり、囲われ、守られ、身体が馴染んだ匂いだった。

  (少なくとも冬辺りか…)

  そう判断するまで、時間はかからなかった。

  獅子の血は、嘘と真を嗅ぎ分ける。

  それは誇りであり、時に辛いことだった。

  ギルバートは、洞穴の奥を見やった。

  中の様子は、見えない。

  だが、分かる。

  熱がある。

  呼吸が近い。

  理性より先に、身体が相手を選んだあとの空気だ。

  そして、その中心にいるのは――

  「……やはり、ガレンか」

  低く、確信をもって呟く。

  毎年、この時期になると、誰よりも距離を取る熊。

  見回りを減らし、村から離れ、

  自分を制御することに、すべてを費やす男。

  そのガレンの縄張りから、こんな匂いが溢れている。

  変化する獣の種類が違うためなんとか耐えられるが、嗅いだことのない甘美な匂い。

  異常だった。

  ギルバートは、さらに一歩踏み出しかけて、止まった。

  踏み込めば、壊れる。

  踏み込まなければ、いずれ表に出る。

  どちらも、分かっている。

  医師としての判断と、獣人としての直感が、同時に警鐘を鳴らしていた。

  ――これは、秘密では済まない。

  こんな匂いを撒き散らして、ただじゃ済まない。

  保険をかける意味でギルバートは獣化し、獅子の姿となった。

  目を細めるとガレンの肩越しに見開かれる瞳。

  (恐怖というよりも、焦燥か?)

  そのとき、洞穴の奥から声がした。

  低く、短く、圧を含んだ声。

  「……見るな。帰れ」

  ガレンの声だ。

  振り返らず、背を向けたまま。

  それでも、はっきりとした拒絶。

  旧友にさえ獣化を厭わない圧を隠さない、テリトリーの主としての声だった。

  ギルバートは、苦笑に近い息を吐いた。

  (……やはりな。力をためらいなく使おうとするか。

  先に獣化してるのはこちらではあるが…)

  問いは、もう不要だった。

  血の匂い。

  発情期の歪み。

  人間の存在。

  全部、繋がっている。

  (……厄介なことを選んだな、ガレン)

  責める気はなかった。

  むしろ、理解のほうが先に来た。

  守るために選んだのだろう。

  衝動ではなく、選択として。

  だからこそ、危うい。

  ギルバートは、声を張らずに言った。

  「……名前はいい、」

  (冬に拾った人間ならば、捨てられた王、か…)

  それが、境界だった。

  旧友としての、最後の配慮。

  「だが、その匂いは隠せない。

  もう、村の誰かが気づいてもおかしくない」

  返事はない。

  だが、否定もない。

  それで、十分だった。

  「……守る、か」

  低く呟く。

  守るために壊れた獣を、医師として、何人も見てきた。

  無限ではない獣化、力の仕組みは永遠の謎のまま。

  ガレンの両親も、そうだった。

  力が大きいほど早いのか、わからない。

  一瞬だけ、記憶が胸を掠める。

  だから、ギルバートはそれ以上踏み込まなかった。

  踏み込めば、

  今はまだ保たれている均衡を壊す。

  「……今は、立ち去る」

  それが、最善だった。

  洞穴に背を向け、歩き出す。

  だが、完全に離れる前に、ひとつだけ言葉を残す。

  「次に会うときは、医師として来たい」

  忠告であり、予告だった。

  そして、裏切らないという意思表示でもある。

  森の中へ戻りながら、ギルバートは思う。

  あの匂いは、もう“個人の問題”ではない。

  村が気づく。

  世界が気づく。

  それでも、あの熊は選んだのだ。

  ならば――獅子は獅子として、医師として。

  できることを考えるしかない。

  ギルバートは、歩みを止めず、森の奥へ消えていった。