ギルバートは、洞穴の前で立ち止まった。
足を止めたのは、意識してのことではなかった。
風向きが変わった、その一瞬だった。
薬草の匂い。
血の匂い。
それに――人間の匂い。
しかも、近い。
ただ通り過ぎるだけのものではない。
ここに「在る」匂いだ。
「……これは……」
独り言は、喉の奥で消えた。
ここが誰の縄張りかを、ギルバートは知っている。
知らないはずがなかった。
この洞穴は、ガレンのテリトリーだ。
若い頃から変わらない。
誰も近づかず、誰も踏み込まず、必要な者だけが立ち入る場所。
大熊は、そういう生き方を選んだ。
往診の帰りだった。
村長の息子としてではなく、医師として、森を回るいつもの道。
発情期の獣人に不用意に近づかないことも、同じ獣人として心得ている。
ましてや、ガレンの巣穴だ。
本来なら、踵を返す一択だった。
発情期の匂いは、私事だ。
誰かの事情に、踏み込む理由はない。
――だが。
匂いが、異質だった。
獣人のものではない。
人間のものだ。
しかも、恐怖や拒絶の匂いではない。
一時的に触れただけの匂いでもない。
近くに長く留まり、囲われ、守られ、身体が馴染んだ匂いだった。
(少なくとも冬辺りか…)
そう判断するまで、時間はかからなかった。
獅子の血は、嘘と真を嗅ぎ分ける。
それは誇りであり、時に辛いことだった。
ギルバートは、洞穴の奥を見やった。
中の様子は、見えない。
だが、分かる。
熱がある。
呼吸が近い。
理性より先に、身体が相手を選んだあとの空気だ。
そして、その中心にいるのは――
「……やはり、ガレンか」
低く、確信をもって呟く。
毎年、この時期になると、誰よりも距離を取る熊。
見回りを減らし、村から離れ、
自分を制御することに、すべてを費やす男。
そのガレンの縄張りから、こんな匂いが溢れている。
変化する獣の種類が違うためなんとか耐えられるが、嗅いだことのない甘美な匂い。
異常だった。
ギルバートは、さらに一歩踏み出しかけて、止まった。
踏み込めば、壊れる。
踏み込まなければ、いずれ表に出る。
どちらも、分かっている。
医師としての判断と、獣人としての直感が、同時に警鐘を鳴らしていた。
――これは、秘密では済まない。
こんな匂いを撒き散らして、ただじゃ済まない。
保険をかける意味でギルバートは獣化し、獅子の姿となった。
目を細めるとガレンの肩越しに見開かれる瞳。
(恐怖というよりも、焦燥か?)
そのとき、洞穴の奥から声がした。
低く、短く、圧を含んだ声。
「……見るな。帰れ」
ガレンの声だ。
振り返らず、背を向けたまま。
それでも、はっきりとした拒絶。
旧友にさえ獣化を厭わない圧を隠さない、テリトリーの主としての声だった。
ギルバートは、苦笑に近い息を吐いた。
(……やはりな。力をためらいなく使おうとするか。
先に獣化してるのはこちらではあるが…)
問いは、もう不要だった。
血の匂い。
発情期の歪み。
人間の存在。
全部、繋がっている。
(……厄介なことを選んだな、ガレン)
責める気はなかった。
むしろ、理解のほうが先に来た。
守るために選んだのだろう。
衝動ではなく、選択として。
だからこそ、危うい。
ギルバートは、声を張らずに言った。
「……名前はいい、」
(冬に拾った人間ならば、捨てられた王、か…)
それが、境界だった。
旧友としての、最後の配慮。
「だが、その匂いは隠せない。
もう、村の誰かが気づいてもおかしくない」
返事はない。
だが、否定もない。
それで、十分だった。
「……守る、か」
低く呟く。
守るために壊れた獣を、医師として、何人も見てきた。
無限ではない獣化、力の仕組みは永遠の謎のまま。
ガレンの両親も、そうだった。
力が大きいほど早いのか、わからない。
一瞬だけ、記憶が胸を掠める。
だから、ギルバートはそれ以上踏み込まなかった。
踏み込めば、
今はまだ保たれている均衡を壊す。
「……今は、立ち去る」
それが、最善だった。
洞穴に背を向け、歩き出す。
だが、完全に離れる前に、ひとつだけ言葉を残す。
「次に会うときは、医師として来たい」
忠告であり、予告だった。
そして、裏切らないという意思表示でもある。
森の中へ戻りながら、ギルバートは思う。
あの匂いは、もう“個人の問題”ではない。
村が気づく。
世界が気づく。
それでも、あの熊は選んだのだ。
ならば――獅子は獅子として、医師として。
できることを考えるしかない。
ギルバートは、歩みを止めず、森の奥へ消えていった。