季節は、さらに進んでいた。
朝の空気は冷え、巣穴の奥まで澄んだ匂いが入り込む。雪がちらつく季節になった。
いつもの時間に、ガレンは目を覚ました。
獣のままの身体を起こし、まず確かめるのは隣だ。
エリアスは、起きていた。
だが、動いていない。
火はついている。
水も汲んできた形跡がある。
それなのに、エリアスは岩に背を預け、膝を抱えたまま、じっとしていた。
ガレンは近づき、鼻先で匂いを確かめる。
怪我の匂いではない。
高熱でもない。
だが、身体が困惑している匂いだった。
ガレンは、静かに咥えた水袋をエリアスの口元へ押しやる。
だが、エリアスはそれを見て、小さく首を振った。
「……ごめん」
声が弱い。
「飲めそう、なんだけど……」
言葉の途中で、視線が揺れる。
手が、無意識に腹のあたりに触れた。
ガレンは、その動きを見逃さなかった。
今度は、魚を焼いたものを差し出す。
匂いは、きつくないはずだ。
エリアスのために、いつもより火を弱めた。
しかし――
エリアスは、口元を押さえ、顔を背けた。
「……だめ、みたい」
無理に笑おうとする。
「ちょっと……体調が、変で…風邪?かも、
最近寒かったし、」
ガレンは、考えを巡らせた。
見た目には、出さなかった。
ただ、身体を低くして、距離を詰める。
頭を、そっと押し付ける。
大丈夫だ、と言う代わりに。
エリアスは、その毛に顔を埋めた。
「……うん、平気だから」
だが、声は平気ではなかった。
その日、エリアスはほとんど食べなかった。
水も、ほんの少ししか口にしていない。
時折吐いてしまい、吐くものがなくなると胃液が出た。
夜が来ても、状況は変わらなかった。
ガレンは、巣穴の奥で横になったまま、眠らなかった。
獣の目は、暗闇でも開いている。
――知らない変化だ。
――だが、危険な匂いではない。
――それでも、このままではいけない。
ガレンは、静かに決めた。
――
ギルバートが顔を上げたのは、風の流れが、不自然に途切れた瞬間だった。
重い。
だが、乱暴ではない足音。
次の瞬間、闇の中から現れた影に。息を止めた。
熊だった。
人の輪郭は、どこにも残っていない。
だが――その匂い、仕草、瞳を見て、分かってしまう。
「……ガレン、」
声に驚きはなかった。
驚いてしまえば、裏切りのようで。
ただ、会えるとは思わなかった。
そういう意味で、息を止めた。
熊は、低く喉を鳴らした。
それは威嚇でも、拒絶でもない。
存在を告げるだけの音だった。
ギルバートは、ゆっくりと息を吐く。
「……生きていたんだな」
その言葉に、熊は反応しない。
ただ、じっとこちらを見ている。
ギルバートは、自然と一歩引いた。
近づきすぎない距離を、無意識に選ぶ。
「ガレン、」
低い声。
「お前が村を去って…もう、会えないと思っていた」
谷。
血。
崖。
語られなかった噂が、頭をよぎる。
「もうここには何も、ないから…」
拳を、ぎゅっと握る。
「……すまなかった」
謝罪は短い。
だが、誤魔化しはない。
「俺は…守れなかった、止められなかった」
熊は、動かない。
だが、耳がわずかに伏せられる。
聞いている。
それだけで、ギルバートは十分だった。
「……ありがとう、」
――
なぜガレンは自分のところへ来たのか。
ガレン自身に怪我はない。
危険を冒して旧友に会いに?
傍観者の、村長の息子に。
違うと思った。
『助けてくれ』
かつて、エリアスに傷が付いたとき、すがった瞳。
今のガレンの瞳はそれに似ていた。
熊の視線が、はっきりと揺れる。
巣穴のある方角へ。
「何かあったか」
ギルバートは、確信までは至らない。
エリアス絡みだったとして、斬りつけられた背中は、きっともう治っている。
季節が巡っても、ガレンの姿が熊のままであることも、引っかかってはいる。
(力を使いすぎて、戻れないのか…でも、自分のことを優先する男ではない、な)
胸の奥で何かが繋がり始めているのを感じていた。
「…エリアスのことで、…俺のところへ来たんだな」
熊は、低く喉を鳴らす。
肯定のようだった。
背を向け、身を屈める。
ギルバートは、少しだけ目を伏せた。
「……?」
問いは、口に出たが、本当の疑問は、胸の内にあった。
(俺に、獣化の力を使わせないためか?)
森へ行くなら獅子の姿が早い。
しかし、それを――
この熊は、避けようとしている。
ギルバートは悟った。
人の形に戻ろうとする兆しはない。
力を抑えているのではない。
(ガレンはもう、戻れない場所に立っている)
熊は、もう一度、ゆっくりと身を低くした。
ギルバートは、少し迷ってから、背に手を置く。
毛は温かく、脈打つ命の重さが、はっきりと伝わる。
「……感謝する」
小さく、だが真剣に言った。
熊は、答えない。
だが、立ち上がる動きは、驚くほど慎重だった。
背に乗せたギルバートを、決して振り落とさぬように。
その姿を見て、ギルバートは胸の奥が痛んだ。
(……相変わらずだな)
誰よりも強く、誰よりも不器用で、誰よりも――守ることを選ぶ。
熊は、旧友を背に乗せて森を進み始めた。
――
夜明け前、森はまだ深く息を潜めていた。
雪が薄っすら地面を覆う。
熊は、巣穴の前で足を止め、背に乗せてきたギルバートを静かに地へ降ろした。
言葉はない。
だが、心配は伝わった。
新しい巣穴の奥から、微かな音が聞こえる。
呼吸だ。
浅く、途切れがちで、それでも確かに生きている。
ギルバートは、一瞬だけ目を閉じた。
(……間に合った、か)
熊――ガレンは、音を立てないように身を低くし、入口へ近づく。
巣穴の中には、火の残り香と、薬草の乾いた匂いが残っていた。
エリアスは、横になっている。
眠ってはいるが、深い眠りではない。
眉がわずかに寄り、呼吸は浅い。
衰弱、というほどではない。
だが、ただの疲れとも違う。
ギルバートは、その顔を見て、説明のつかない違和感を覚えた。
(……これは、病じゃない)
それなのに、身体の奥が、休まっていないように見える。
ギルバートが一歩踏み込んだ、その気配で、空気が揺れた。
エリアスのまぶたが、ゆっくり動く。
「……」
小さな息。
やがて、目が開いた。
焦点が合うまで、少し時間がかかる。
天井を見て、火の跡を見て、それから――
「……ガレン……?」
掠れた声。
熊は、低く喉を鳴らした。
それだけで、エリアスの表情が、ふっと緩む。
「……おかえり」
その言葉に、ギルバートは胸の奥が静かに痛んだ。
エリアスは、視線をずらし、側に立つ人影に気づく。
「あ……」
一瞬の驚き。
だが、身を引く様子はない。
「……久しぶりだね、ギルバート」
声の調子は、以前と変わらない。
警戒も、距離もない。
ギルバートは、思わず息を吐いた。
「……すまない、目を覚ましてしまったか」
「ううん」
エリアスは、ゆっくり首を振る。
「もともと、あんまり眠れてなかったから」
そう言ってから、少し困ったように口元を緩める。
「……最近、なんだか変で、」
言葉は軽い。
「寝ても、あんまりすっきりしないし、もやもやして」
ガレンが、すぐに反応する。
鼻先を近づけ、慎重に匂いを確かめる。
エリアスは、その毛に手を伸ばした。
「大丈夫だよ」
撫でる手つきは、もう慣れている。
「ほら、熱もないし」
そう言いながら、無意識に――腹のあたりに、指が触れる。
ただ、落ち着かない場所を押さえるような仕草。
ギルバートの視線が、わずかに留まる。
(……今のは)
だが、エリアス自身は気づいていない。
「……水は?」
ギルバートが尋ねる。
「少しだけ飲めた」
「食事は、」
エリアスは、首を振る。
「匂いだけで、ちょっと……」
言い淀む。
「気持ち悪くなる」
その言葉に、熊の耳がわずかに伏せた。
エリアスは、すぐに続けた。
「あ、でも、食べれるときに食べようとはしてて、」
ギルバートは、その様子を見て、はっとした。
そして、深く頭を下げる。
「……すまない」
唐突な謝罪だった。
エリアスが、きょとんとする。
「……え?」
「私が、守れなかったから」
ギルバートの声は、低く、硬い。
「村でも、森でも……結果として、お前をここまで追い込んだ」
エリアスは、少し考えてから言った。
「……それ、私に言うこと?」
責めるでも、皮肉でもない。
本当に、不思議そうな顔。
「ガレンも私も…生きてるよ」
淡々とした事実。
「ここにいて、眠って、起きて……」
ちらりと隣を見る。
「ガレンもいる」
ギルバートは、言葉に詰まった。
「……それでも」
ギルバートは続ける。
「俺は、無力だった、」
エリアスは、しばらく黙ってから言う。
「……そんな、」
少しだけ、声を緩めて。
「また会えたから、いい」
理由は問わない。
未来も想像しない。
今を、肯定するだけ。
ギルバートは、その言葉に、何も返せなかった。
(……この症状、いや、そんなことが)
「……身体のことで」
慎重に切り出す。
「少し、様子を見たい。また来させてもらう。
もちろん、居場所は、誰にも漏らさない」
断定せず、慎重に。
まだ、決めつけない。
(父に報告を、しなければ…)
エリアスは、素直に頷く。
「うん」
疑わない。
「じゃあ、少し寝るね」
そう言って、また目を閉じる。
ガレンが、そっと身体を寄せる。
囲うように。
エリアスは、その胸に身を預けた。
「……うん、大丈夫だよ」
小さな声。
誰に言ったのかも、分からないまま。
ガレンは、低く喉を鳴らす。
ギルバートは、巣穴の入口へ下がった。
まだ、何も分からない。
だが――確かめなければならない。
分からないままでは、済まない何かが、確かに始まっている。
そう思わずにはいられなかった。