32

  季節は、さらに進んでいた。

  朝の空気は冷え、巣穴の奥まで澄んだ匂いが入り込む。雪がちらつく季節になった。

  いつもの時間に、ガレンは目を覚ました。

  獣のままの身体を起こし、まず確かめるのは隣だ。

  エリアスは、起きていた。

  だが、動いていない。

  火はついている。

  水も汲んできた形跡がある。

  それなのに、エリアスは岩に背を預け、膝を抱えたまま、じっとしていた。

  ガレンは近づき、鼻先で匂いを確かめる。

  怪我の匂いではない。

  高熱でもない。

  だが、身体が困惑している匂いだった。

  ガレンは、静かに咥えた水袋をエリアスの口元へ押しやる。

  だが、エリアスはそれを見て、小さく首を振った。

  「……ごめん」

  声が弱い。

  「飲めそう、なんだけど……」

  言葉の途中で、視線が揺れる。

  手が、無意識に腹のあたりに触れた。

  ガレンは、その動きを見逃さなかった。

  今度は、魚を焼いたものを差し出す。

  匂いは、きつくないはずだ。

  エリアスのために、いつもより火を弱めた。

  しかし――

  エリアスは、口元を押さえ、顔を背けた。

  「……だめ、みたい」

  無理に笑おうとする。

  「ちょっと……体調が、変で…風邪?かも、

  最近寒かったし、」

  ガレンは、考えを巡らせた。

  見た目には、出さなかった。

  ただ、身体を低くして、距離を詰める。

  頭を、そっと押し付ける。

  大丈夫だ、と言う代わりに。

  エリアスは、その毛に顔を埋めた。

  「……うん、平気だから」

  だが、声は平気ではなかった。

  その日、エリアスはほとんど食べなかった。

  水も、ほんの少ししか口にしていない。

  時折吐いてしまい、吐くものがなくなると胃液が出た。

  夜が来ても、状況は変わらなかった。

  ガレンは、巣穴の奥で横になったまま、眠らなかった。

  獣の目は、暗闇でも開いている。

  ――知らない変化だ。

  ――だが、危険な匂いではない。

  ――それでも、このままではいけない。

  ガレンは、静かに決めた。

  ――

  ギルバートが顔を上げたのは、風の流れが、不自然に途切れた瞬間だった。

  重い。

  だが、乱暴ではない足音。

  次の瞬間、闇の中から現れた影に。息を止めた。

  熊だった。

  人の輪郭は、どこにも残っていない。

  だが――その匂い、仕草、瞳を見て、分かってしまう。

  「……ガレン、」

  声に驚きはなかった。

  驚いてしまえば、裏切りのようで。

  ただ、会えるとは思わなかった。

  そういう意味で、息を止めた。

  熊は、低く喉を鳴らした。

  それは威嚇でも、拒絶でもない。

  存在を告げるだけの音だった。

  ギルバートは、ゆっくりと息を吐く。

  「……生きていたんだな」

  その言葉に、熊は反応しない。

  ただ、じっとこちらを見ている。

  ギルバートは、自然と一歩引いた。

  近づきすぎない距離を、無意識に選ぶ。

  「ガレン、」

  低い声。

  「お前が村を去って…もう、会えないと思っていた」

  谷。

  血。

  崖。

  語られなかった噂が、頭をよぎる。

  「もうここには何も、ないから…」

  拳を、ぎゅっと握る。

  「……すまなかった」

  謝罪は短い。

  だが、誤魔化しはない。

  「俺は…守れなかった、止められなかった」

  熊は、動かない。

  だが、耳がわずかに伏せられる。

  聞いている。

  それだけで、ギルバートは十分だった。

  「……ありがとう、」

  ――

  なぜガレンは自分のところへ来たのか。

  ガレン自身に怪我はない。

  危険を冒して旧友に会いに?

  傍観者の、村長の息子に。

  違うと思った。

  『助けてくれ』

  かつて、エリアスに傷が付いたとき、すがった瞳。

  今のガレンの瞳はそれに似ていた。

  熊の視線が、はっきりと揺れる。

  巣穴のある方角へ。

  「何かあったか」

  ギルバートは、確信までは至らない。

  エリアス絡みだったとして、斬りつけられた背中は、きっともう治っている。

  季節が巡っても、ガレンの姿が熊のままであることも、引っかかってはいる。

  (力を使いすぎて、戻れないのか…でも、自分のことを優先する男ではない、な)

  胸の奥で何かが繋がり始めているのを感じていた。

  「…エリアスのことで、…俺のところへ来たんだな」

  熊は、低く喉を鳴らす。

  肯定のようだった。

  背を向け、身を屈める。

  ギルバートは、少しだけ目を伏せた。

  「……?」

  問いは、口に出たが、本当の疑問は、胸の内にあった。

  (俺に、獣化の力を使わせないためか?)

  森へ行くなら獅子の姿が早い。

  しかし、それを――

  この熊は、避けようとしている。

  ギルバートは悟った。

  人の形に戻ろうとする兆しはない。

  力を抑えているのではない。

  (ガレンはもう、戻れない場所に立っている)

  熊は、もう一度、ゆっくりと身を低くした。

  ギルバートは、少し迷ってから、背に手を置く。

  毛は温かく、脈打つ命の重さが、はっきりと伝わる。

  「……感謝する」

  小さく、だが真剣に言った。

  熊は、答えない。

  だが、立ち上がる動きは、驚くほど慎重だった。

  背に乗せたギルバートを、決して振り落とさぬように。

  その姿を見て、ギルバートは胸の奥が痛んだ。

  (……相変わらずだな)

  誰よりも強く、誰よりも不器用で、誰よりも――守ることを選ぶ。

  熊は、旧友を背に乗せて森を進み始めた。

  ――

  夜明け前、森はまだ深く息を潜めていた。

  雪が薄っすら地面を覆う。

  熊は、巣穴の前で足を止め、背に乗せてきたギルバートを静かに地へ降ろした。

  言葉はない。

  だが、心配は伝わった。

  新しい巣穴の奥から、微かな音が聞こえる。

  呼吸だ。

  浅く、途切れがちで、それでも確かに生きている。

  ギルバートは、一瞬だけ目を閉じた。

  (……間に合った、か)

  熊――ガレンは、音を立てないように身を低くし、入口へ近づく。

  巣穴の中には、火の残り香と、薬草の乾いた匂いが残っていた。

  エリアスは、横になっている。

  眠ってはいるが、深い眠りではない。

  眉がわずかに寄り、呼吸は浅い。

  衰弱、というほどではない。

  だが、ただの疲れとも違う。

  ギルバートは、その顔を見て、説明のつかない違和感を覚えた。

  (……これは、病じゃない)

  それなのに、身体の奥が、休まっていないように見える。

  ギルバートが一歩踏み込んだ、その気配で、空気が揺れた。

  エリアスのまぶたが、ゆっくり動く。

  「……」

  小さな息。

  やがて、目が開いた。

  焦点が合うまで、少し時間がかかる。

  天井を見て、火の跡を見て、それから――

  「……ガレン……?」

  掠れた声。

  熊は、低く喉を鳴らした。

  それだけで、エリアスの表情が、ふっと緩む。

  「……おかえり」

  その言葉に、ギルバートは胸の奥が静かに痛んだ。

  エリアスは、視線をずらし、側に立つ人影に気づく。

  「あ……」

  一瞬の驚き。

  だが、身を引く様子はない。

  「……久しぶりだね、ギルバート」

  声の調子は、以前と変わらない。

  警戒も、距離もない。

  ギルバートは、思わず息を吐いた。

  「……すまない、目を覚ましてしまったか」

  「ううん」

  エリアスは、ゆっくり首を振る。

  「もともと、あんまり眠れてなかったから」

  そう言ってから、少し困ったように口元を緩める。

  「……最近、なんだか変で、」

  言葉は軽い。

  「寝ても、あんまりすっきりしないし、もやもやして」

  ガレンが、すぐに反応する。

  鼻先を近づけ、慎重に匂いを確かめる。

  エリアスは、その毛に手を伸ばした。

  「大丈夫だよ」

  撫でる手つきは、もう慣れている。

  「ほら、熱もないし」

  そう言いながら、無意識に――腹のあたりに、指が触れる。

  ただ、落ち着かない場所を押さえるような仕草。

  ギルバートの視線が、わずかに留まる。

  (……今のは)

  だが、エリアス自身は気づいていない。

  「……水は?」

  ギルバートが尋ねる。

  「少しだけ飲めた」

  「食事は、」

  エリアスは、首を振る。

  「匂いだけで、ちょっと……」

  言い淀む。

  「気持ち悪くなる」

  その言葉に、熊の耳がわずかに伏せた。

  エリアスは、すぐに続けた。

  「あ、でも、食べれるときに食べようとはしてて、」

  ギルバートは、その様子を見て、はっとした。

  そして、深く頭を下げる。

  「……すまない」

  唐突な謝罪だった。

  エリアスが、きょとんとする。

  「……え?」

  「私が、守れなかったから」

  ギルバートの声は、低く、硬い。

  「村でも、森でも……結果として、お前をここまで追い込んだ」

  エリアスは、少し考えてから言った。

  「……それ、私に言うこと?」

  責めるでも、皮肉でもない。

  本当に、不思議そうな顔。

  「ガレンも私も…生きてるよ」

  淡々とした事実。

  「ここにいて、眠って、起きて……」

  ちらりと隣を見る。

  「ガレンもいる」

  ギルバートは、言葉に詰まった。

  「……それでも」

  ギルバートは続ける。

  「俺は、無力だった、」

  エリアスは、しばらく黙ってから言う。

  「……そんな、」

  少しだけ、声を緩めて。

  「また会えたから、いい」

  理由は問わない。

  未来も想像しない。

  今を、肯定するだけ。

  ギルバートは、その言葉に、何も返せなかった。

  (……この症状、いや、そんなことが)

  「……身体のことで」

  慎重に切り出す。

  「少し、様子を見たい。また来させてもらう。

  もちろん、居場所は、誰にも漏らさない」

  断定せず、慎重に。

  まだ、決めつけない。

  (父に報告を、しなければ…)

  エリアスは、素直に頷く。

  「うん」

  疑わない。

  「じゃあ、少し寝るね」

  そう言って、また目を閉じる。

  ガレンが、そっと身体を寄せる。

  囲うように。

  エリアスは、その胸に身を預けた。

  「……うん、大丈夫だよ」

  小さな声。

  誰に言ったのかも、分からないまま。

  ガレンは、低く喉を鳴らす。

  ギルバートは、巣穴の入口へ下がった。

  まだ、何も分からない。

  だが――確かめなければならない。

  分からないままでは、済まない何かが、確かに始まっている。

  そう思わずにはいられなかった。