巣穴の奥で、熊は目を覚ました。
夜と朝の境が、まだほどけきらない時間だった。
外の雪の気配が、岩肌を通して、じわりと骨に染みてくる。
熊――ガレンは、すぐには動かなかった。
目を開けた瞬間から、知っている。
確かめなくても分かっている。
それでも、確かめずにはいられなかった。
ゆっくりと鼻先を動かし、空気を吸い込む。
冷えた岩、湿った毛皮、残った火の匂い。
そして――そこにある、命の匂い。
血ではない。
恐怖でも、痛みでもない。
眠っている人間の、温度のある匂いだ。
熊の喉が、低く鳴った。
安堵とも、祈りともつかない音だった。
だが――
昨日までと、少し違う。
言葉にはならない違和感が、胸の奥に引っかかる。
熊は眉に相当する筋肉を、わずかに動かした。
何が違うのかは、分からない。
分からないまま、無視できない。
重い身体を慎重にずらし、エリアスのほうへ寄る。
眠りは浅いが、呼吸は途切れていない。
それを確認して、ようやく息を吐く。
――違うのは、匂いだ。
危険ではない。
衰弱でも、病でもない。
むしろ、満ち始めている匂い。
熊の喉が、もう一度鳴った。
理解できないものを前にしたとき、
獣が発する、戸惑いの音だ。
熊は、鼻先をエリアスの腹のあたりへ近づける。
触れない。触れられない。
だが、距離は、これ以上ないほど詰める。
そこに――重なりがある。
まだ形を持たない。
名も、意味も、定義もない。
それでも、存在だけは、否定できなかった。
熊の胸の奥で、何かが強く脈打つ。
守らなければならない。
理由は、ない。
考えた末の結論でもない。
ただ、そう決めてしまった。
その瞬間――
身体の奥で、軋む音がした。
骨の位置が、わずかにずれる感覚。
重さが、ほんの少し、変わる。
熊は、思わず前脚に力を込めた。
――また、だ。
最近、この感覚が増えている。
立ち上がろうとしたとき。
何かを守ろうと強く思ったとき。
人の記憶が、輪郭を持って浮かぶ。
言葉。
手の感触。
誰かを抱いたときの、確かな重さ。
だが、それはいつも、途中で溶ける。
人の身体には戻らない。
戻れないのか、戻らないのか――
熊自身にも、もう分からない。
熊は、静かに息を吐いた。
恐怖は、なかった。
あるのは、選び続けることの重さだけだ。
守るために、獣になった。
それは、間違いではなかった。
だが今は――
守るために、人であろうとしている。
矛盾している。
だが、どちらも、嘘ではない。
熊は、もう一度、エリアスの匂いを確かめる。
まだ知らないはずの存在。
だが、身体は、先に受け取ってしまっている。
――離せない。
この先、どんな姿になろうとも。
人であろうと、獣であろうと。
熊は、ゆっくりと身体を横たえ、
エリアスを包む位置へ戻った。
逃げ道を塞がぬように。
それでも、風は入らぬように。
外では、雪が降っている。
季節は進み、
境界は揺れ、
時間は、待ってはくれない。
それでも熊は、目を閉じなかった。
今はただ――
この命を守ることだけが、すべてだった。