34

  巣穴の奥で、熊は目を覚ました。

  夜と朝の境が、まだほどけきらない時間だった。

  外の雪の気配が、岩肌を通して、じわりと骨に染みてくる。

  熊――ガレンは、すぐには動かなかった。

  目を開けた瞬間から、知っている。

  確かめなくても分かっている。

  それでも、確かめずにはいられなかった。

  ゆっくりと鼻先を動かし、空気を吸い込む。

  冷えた岩、湿った毛皮、残った火の匂い。

  そして――そこにある、命の匂い。

  血ではない。

  恐怖でも、痛みでもない。

  眠っている人間の、温度のある匂いだ。

  熊の喉が、低く鳴った。

  安堵とも、祈りともつかない音だった。

  だが――

  昨日までと、少し違う。

  言葉にはならない違和感が、胸の奥に引っかかる。

  熊は眉に相当する筋肉を、わずかに動かした。

  何が違うのかは、分からない。

  分からないまま、無視できない。

  重い身体を慎重にずらし、エリアスのほうへ寄る。

  眠りは浅いが、呼吸は途切れていない。

  それを確認して、ようやく息を吐く。

  ――違うのは、匂いだ。

  危険ではない。

  衰弱でも、病でもない。

  むしろ、満ち始めている匂い。

  熊の喉が、もう一度鳴った。

  理解できないものを前にしたとき、

  獣が発する、戸惑いの音だ。

  熊は、鼻先をエリアスの腹のあたりへ近づける。

  触れない。触れられない。

  だが、距離は、これ以上ないほど詰める。

  そこに――重なりがある。

  まだ形を持たない。

  名も、意味も、定義もない。

  それでも、存在だけは、否定できなかった。

  熊の胸の奥で、何かが強く脈打つ。

  守らなければならない。

  理由は、ない。

  考えた末の結論でもない。

  ただ、そう決めてしまった。

  その瞬間――

  身体の奥で、軋む音がした。

  骨の位置が、わずかにずれる感覚。

  重さが、ほんの少し、変わる。

  熊は、思わず前脚に力を込めた。

  ――また、だ。

  最近、この感覚が増えている。

  立ち上がろうとしたとき。

  何かを守ろうと強く思ったとき。

  人の記憶が、輪郭を持って浮かぶ。

  言葉。

  手の感触。

  誰かを抱いたときの、確かな重さ。

  だが、それはいつも、途中で溶ける。

  人の身体には戻らない。

  戻れないのか、戻らないのか――

  熊自身にも、もう分からない。

  熊は、静かに息を吐いた。

  恐怖は、なかった。

  あるのは、選び続けることの重さだけだ。

  守るために、獣になった。

  それは、間違いではなかった。

  だが今は――

  守るために、人であろうとしている。

  矛盾している。

  だが、どちらも、嘘ではない。

  熊は、もう一度、エリアスの匂いを確かめる。

  まだ知らないはずの存在。

  だが、身体は、先に受け取ってしまっている。

  ――離せない。

  この先、どんな姿になろうとも。

  人であろうと、獣であろうと。

  熊は、ゆっくりと身体を横たえ、

  エリアスを包む位置へ戻った。

  逃げ道を塞がぬように。

  それでも、風は入らぬように。

  外では、雪が降っている。

  季節は進み、

  境界は揺れ、

  時間は、待ってはくれない。

  それでも熊は、目を閉じなかった。

  今はただ――

  この命を守ることだけが、すべてだった。