35

  巣穴の中は静まり返っていた。

  火はすでに落ち、残り香だけが岩肌に染みついている。

  外では雪が降っているはずだが、その音はここまでは届かない。

  ガレンは起きていた。

  眠ってはいない。

  だが、起きているとも言い切れない。

  獣の身体は横たわったまま、

  意識だけが浅い水面に浮かんでいる。

  胸元には、エリアスがいる。

  人の体温。

  それが、最近やけに重く、そして――温かい。

  守るべきものの重さだ。

  ガレンは、鼻先をわずかに動かした。

  匂いを確かめる。

  ……やはり、違う。

  恐怖でも、傷でもない。

  だが、確実に“増えている”。

  まだ形を持たない、

  だが、確かにそこにあるもの。

  そのとき、巣穴の入口で雪を踏む音がした。

  ガレンの耳が動く。

  警戒ではない。

  知っている足音だった。

  「……入るぞ」

  低く抑えた声。

  ギルバートだ。

  ガレンは身を起こさなかった。

  ただ、低く喉を鳴らす。

  許可の音。

  ギルバートは静かに中へ入る。

  視線はまず熊に、次にその胸に寄り添う人へ。

  一目で分かった。

  隠す段階は、もう終わっている。

  「……エリアス」

  呼ばれて、エリアスが目を開ける。

  「ギル……?」

  眠りの底から引き上げられた声。

  だが、その奥には、言葉にできない予感が滲んでいた。

  「少し、話がある」

  ギルバートは膝をつき、距離を保つ。

  医師としての距離だ。

  エリアスは身を起こそうとして――

  ふと、腹に手を当てた。

  無意識だった。

  それを見て、ギルバートの呼吸が一拍遅れる。

  ガレンの視線も、そこに落ちる。

  「エリアス」

  ギルバートは、言葉を選ばなかった。

  選べば、遅れる。

  「はっきり言う」

  静かな声だった。

  「……妊娠している」

  巣穴の中の空気が、止まった。

  エリアスは、すぐには理解しなかった。

  「……え?」

  短い声。

  意味が、まだ身体に届いていない。

  「……言っておく」

  ギルバートは、目を逸らさなかった。

  「人の理屈で考えれば、お前は“産む側”じゃない。

  だが――」

  一拍。

  「獣人は、性で命を分けない」

  断定だった。

  「番が成立すれば、

  どちらの身体に宿るかは問題じゃない」

  医師としてではなく、

  知ってしまった者としての声。

  「それに……」

  ここで、ほんのわずか言葉を選ぶ。

  「お前は、王の血を引いている」

  エリアスの瞳が、揺れる。

  「起源の話で出てきた番は、例外じゃなかった。

  王家の血は、境界に近い」

  静かに、しかしはっきりと。

  「だからこれは、不自然じゃない。

  むしろ……」

  言い切らず、しかし伝わるように。

  「“戻ってきただけ”だ」

  エリアスは、息を詰めたまま、腹に手を当てる。

  小さな声。

  「私の中に、命が…」

  ギルバートは、頷いた。

  「ああ、その身体が選ばれた」

  否定も、ためらいもなかった。

  「獣人の妊娠期間は短い。

  熊の血が強いなら、なおさらだ」

  ガレンの身体が、はっきりと揺れた。

  骨格が軋み、重さが変わる。

  前脚に力が入り、“立ち上がろうとする形”が一瞬だけ浮かぶ。

  獣でもなく、人でもない。

  エリアスは、その揺れを見て――

  理解した。

  「……あ」

  小さな声。

  「だから……」

  視線が、腹へ落ちる。

  「だから、最近……」

  言葉が震える。

  「昔、読んだ話を……思い出してた」

  誰に言うでもなく。

  「人と獣が一緒に暮らしてた頃の……

  王様と、熊の守り手の話」

  子どもの頃、おとぎ話として聞かされた話。

  途中の獣になってしまう場面が怖かった。

  しかし、物語は最後に必ず、こう結ばれていた。

  ――子は、人でも獣でもあり、境界を越えて生きた。

  作り話だと思っていた。

  「それと最近……ふと考える時間が増えて、」

  雪の向こうに見えた、寄り添う影。

  夢の中の、人の姿のガレン。

  「……この子が、教えてくれたんだね」

  ガレンは、低く息を吐いた。

  迷いではない。

  決意の音だ。

  熊はゆっくりと身体を伏せ、エリアスを包む位置へ戻る。

  逃げ道を塞がない。

  だが、離れない。

  ギルバートは、その様子を見てから、静かに続けた。

  「獣人は、出産のとき……本来、誰の手も借りない」

  エリアスが、顔を上げる。

  「動物と同じだ。本能で産み、守る」

  視線が、熊へ向く。

  「……だが」

  ギルバートは、はっきりと言った。

  「お前は、人間だ。人間の身体は、介助を必要とする」

  医師としての声。

  「だから――

  俺は、ここにいる」

  それは宣言だった。

  「産むのは、エリアスだ。

  だが、支える役は、俺が引き受ける」

  ガレンの耳が、ぴくりと動く。

  拒絶ではない。

  受け取った合図だ。

  「怖がらなくていい」

  誰に向けた言葉かは、分からない。

  「これは、異端でも、罰でもない」

  村長の声が、記憶の底で重なる。

  ――祝福だ。

  奇跡と呼ぶには、まだ早い。

  だが、確かに――

  境界は、今、命によって揺れている。

  エリアスは、そっと息を吐いた。

  「……うん」

  まだ、不安はある。

  だが、拒まなかった。

  ガレンの毛に、手を置く。

  熊は、低く喉を鳴らした。

  それだけで、十分だった。

  ――

  夜は、まだ明けきっていなかった。

  雪の光が巣穴の入口を淡く照らし、

  中の影をやわらかく滲ませている。

  エリアスは、ガレンの身体に寄り添ったまま、

  しばらく何も言えずにいた。

  妊娠――

  その言葉は、頭よりも先に、胸の奥へ落ちている。

  ギルバートは、二人から少し距離を取った場所に腰を下ろしていた。

  火は小さく燃えている。

  今は、熱よりも静けさが必要だった。

  「……なあ、エリアス」

  ややあって、ギルバートが口を開く。

  「さっき言っていた話」

  エリアスが、顔を上げる。

  「おとぎ話…?」

  「ああ」

  ギルバートは、頷いた。

  「それって、人と獣が一緒にいた時代の話だと思う」

  少しだけ、視線を落とす。

  「実は……

  あれは、完全な作り話じゃない」

  エリアスの指先が、ぴくりと動く。

  「……え?」

  「誇張もあるし、歪められてもいる」

  医師の声ではない。

  だが、嘘を言わない声。

  「ただ、核になっている出来事は、確かにあった」

  ギルバートは、ゆっくりと言葉を選んだ。

  「獣人の起源だ」

  ガレンの耳が、静かにこちらを向く。

  聞いている。

  「昔……

  人と獣の境界が、今ほど明確でなかった頃。

  人は弱く、獣は強かった。

  だからこそ、互いを必要とした」

  エリアスは、息を潜める。

  「その中で、王家と、特別に強い獣の血筋が結びついた。

  権力や反映のためじゃない、支え合ううちに惹かれた、自然な結果だった」

  「番、って……」

  「そうだ」

  ギルバートは、はっきり頷いた。

  「王の傍に立ったのが、熊だった」

  ガレンの身体が、わずかに反応する。

  「守る力が強く、理性もあった。

  だから、人の側に立ち続けられた」

  「……でも」

  エリアスが、そっと口を挟む。

  「それ、どうして……今は、誰も知らないの?」

  ギルバートは、少しだけ苦く笑った。

  「怖くなったんだ」

  短い言葉。

  「人は、自分より強いものを恐れる。

  同時に獣も歪められるのはたくさんだった」

  「獣は、人を傷つける力を持っていた。

  意図せず、な」

  「それを見て、

  “共に在る”という選択を、放棄した」

  巣穴の中に、静かな沈黙が落ちる。

  「獣人は、管理される存在になった。

  神話は、都合のいい部分だけ残された」

  ギルバートは続けた。

  「――番は消され、

  “獰猛な獣”だけが語られた」

  エリアスは、胸の奥が締めつけられるのを感じた。

  「……じゃあ」

  小さな声。

  「私たちが……今、ここにいるのは……」

  ギルバートは、エリアスを見る。

  その目は、医師のものではない。

  「歴史の“例外”じゃない。

  偶然かもしれない」

  静かだが、強い声。

  「でも、忘れられていた本来の形なんだと思う」

  ガレンが、低く喉を鳴らす。

  エリアスは、無意識に腹に手を当てた。

  「……ガレンは、」

  エリアスは、ゆっくりと言った。

  「近頃"戻りそう"にしてる…」

  ギルバートは、否定もしなかった。

  その代わり村長からの言葉を反芻する。

  「命を育むという行為は、

  獣人にとって“境界を揺り戻す”ことでもある。

  守るために獣へ寄る者もいれば、迎えるために人へ戻る者もいる」

  「ガレンは……恐らく、その途中だ」

  エリアスは、ガレンの毛に顔を埋める。

  「……人に戻れなかったら?」

  問いは、怖さよりも、確かめるようだった。

  ギルバートは、少し考えてから答えた。

  「戻れない、という言い方はしない」

  「ただ……どちらに留まるかは、本人と、宿った命が決める」

  エリアスは、息を吐いた。

  「……そっか」

  怖くない、と言えば嘘になる。

  だが、拒絶はなかった。

  「ねえ、ギルバート」

  「ん?」

  「私……

  ちゃんと産めるかな」

  その問いに、ギルバートは少しだけ笑った。

  「それは、俺の仕事だ」

  医師として。

  「獣人の出産は、確かに“一人でやるもの”だ」

  「だが――

  お前は、人間だ。

  だから、人のやり方で支える」

  ガレンの視線が、まっすぐギルバートに向く。

  感謝と、警戒と、信頼が混じった目。

  「奪わない、大丈夫」

  ギルバートは、はっきり言った。

  「俺は、手を貸すだけだ」

  巣穴の中で、静かに時間が流れた。

  雪は降り続いている。

  だが、寒さは感じない。

  エリアスは、そっと目を閉じた。

  おとぎ話だと思っていた物語が、今、自分の身体の中で続きを描こうとしている。

  そう思うと、不思議と、涙は出なかった。

  代わりに、胸の奥が、じんわりと温かくなった。