42.5

  巣穴の中は、静かだった。

  出産のあと、時間がゆっくりと流れている。

  火は小さく、必要な分だけ燃えている。

  岩肌に残る熱と、重なった呼吸が、寒さを遠ざけていた。

  エリアスは身体を起こし、背を壁に預けて座っていた。

  腕の中には小さな重みがある。

  生まれてから、まだ半日も経っていない。

  それでも確かにここにいる命だった。

  胸の上で、小さな身体が規則正しく上下している。

  呼吸のたびに、エリアスの指が自然と背中をなぞる。

  「……外に出てきたんだね」

  言葉にして、ようやく実感が追いついた。

  腹の内側にあった熱は、もうそこにはない。

  代わりに、腕の中にある。

  ギルバートは少し前に帰った。

  必要な処置だけを済ませ、余計なことは言わなかった。

  「体が落ち着いたら、これを読むといい」

  そう言って、置いていったものがある。

  巣穴の端、岩に立てかけられた一冊の絵本。

  村長の書庫にあったという、古い話――

  獣と王の話。

  獣人の成り立ちが、子どもにも分かるように描かれた本だ。

  今はまだ、読むつもりはなかった。

  エリアスは、子を抱いたまま、ぼんやりとその表紙を見たそのときだった。

  ぱらり、と絵本のページが、一枚、めくれた。

  風はない。

  巣穴の奥まで、外気が入り込むことはない。

  エリアスは、一瞬だけ瞬きをする。

  気のせいだろうか、と考えるより先に、

  視線が、開いたページに吸い寄せられた。

  そこには、挿絵とともに、ひとつの名前が記されていた。

  『   』

  最初の王。

  獣と共に在った、獣人の祖。

  (……あ)

  声には出さない。

  ただ、胸の奥で、何かが静かに重なった。

  エリアスは、絵本から視線を外し、腕の中を見る。

  小さな寝息。

  世界の美しさも、残酷さもまだ何も知らない顔。

  「……名前、決めてなかったね」

  独り言のように言う。

  「呼びたいな、って思う名前…」

  名は、まだ口にしない。

  決めるのは、もう少し先でいい。

  ガレンの背中が、わずかに動いた。

  入口を塞ぐ位置で、静かに体勢を整える。

  以前より、動きが少ない。

  だが、確かに変わっている。

  見張る、というより――

  ここに“根を下ろす”ような在り方だった。

  エリアスは、小さく息を吐く。

  「……思ってたより、成長、早いんだって」

  誰に言うでもなく。

  「そのうち、すぐ歩くかもね」

  腕の中の命は、何も答えない。

  ただ、生きている。

  外の世界が、完全に静まっていないことをエリアスは知っている。

  人間と獣人にまつわる悲しみが、まだ終わっていないことも。

  それでも、今はここだ。

  巣穴。

  火。

  ガレンの背中。

  腕の中の重み。

  名前は、まだ決めないが、呼びたい音は、もう胸にある。

  エリアスは子を抱いたまま、ゆっくりと目を閉じた。

  絵本のページは、そのまま開かれている。

  まるで、「いつでも、ここにある」と言うように。