巣穴の中は、静かだった。
出産のあと、時間がゆっくりと流れている。
火は小さく、必要な分だけ燃えている。
岩肌に残る熱と、重なった呼吸が、寒さを遠ざけていた。
エリアスは身体を起こし、背を壁に預けて座っていた。
腕の中には小さな重みがある。
生まれてから、まだ半日も経っていない。
それでも確かにここにいる命だった。
胸の上で、小さな身体が規則正しく上下している。
呼吸のたびに、エリアスの指が自然と背中をなぞる。
「……外に出てきたんだね」
言葉にして、ようやく実感が追いついた。
腹の内側にあった熱は、もうそこにはない。
代わりに、腕の中にある。
ギルバートは少し前に帰った。
必要な処置だけを済ませ、余計なことは言わなかった。
「体が落ち着いたら、これを読むといい」
そう言って、置いていったものがある。
巣穴の端、岩に立てかけられた一冊の絵本。
村長の書庫にあったという、古い話――
獣と王の話。
獣人の成り立ちが、子どもにも分かるように描かれた本だ。
今はまだ、読むつもりはなかった。
エリアスは、子を抱いたまま、ぼんやりとその表紙を見たそのときだった。
ぱらり、と絵本のページが、一枚、めくれた。
風はない。
巣穴の奥まで、外気が入り込むことはない。
エリアスは、一瞬だけ瞬きをする。
気のせいだろうか、と考えるより先に、
視線が、開いたページに吸い寄せられた。
そこには、挿絵とともに、ひとつの名前が記されていた。
『 』
最初の王。
獣と共に在った、獣人の祖。
(……あ)
声には出さない。
ただ、胸の奥で、何かが静かに重なった。
エリアスは、絵本から視線を外し、腕の中を見る。
小さな寝息。
世界の美しさも、残酷さもまだ何も知らない顔。
「……名前、決めてなかったね」
独り言のように言う。
「呼びたいな、って思う名前…」
名は、まだ口にしない。
決めるのは、もう少し先でいい。
ガレンの背中が、わずかに動いた。
入口を塞ぐ位置で、静かに体勢を整える。
以前より、動きが少ない。
だが、確かに変わっている。
見張る、というより――
ここに“根を下ろす”ような在り方だった。
エリアスは、小さく息を吐く。
「……思ってたより、成長、早いんだって」
誰に言うでもなく。
「そのうち、すぐ歩くかもね」
腕の中の命は、何も答えない。
ただ、生きている。
外の世界が、完全に静まっていないことをエリアスは知っている。
人間と獣人にまつわる悲しみが、まだ終わっていないことも。
それでも、今はここだ。
巣穴。
火。
ガレンの背中。
腕の中の重み。
名前は、まだ決めないが、呼びたい音は、もう胸にある。
エリアスは子を抱いたまま、ゆっくりと目を閉じた。
絵本のページは、そのまま開かれている。
まるで、「いつでも、ここにある」と言うように。