季節はめぐり数年が経った。
山の家のまわりは、すっかり森に馴染み、人が住んでいることも、受け入れられているようだった。
土は柔らかく、風は穏やかで、
火を起こす音も、子どもの笑い声も、日常だった。
移り住んで季節が幾度巡っても、ガレンは熊の姿のままだった。
「ぱぱ!」
軽い足音。
小さな身体が、迷いなく熊の背中へ突進する。
「こら、待って!」
エリアスはすっかり母親の役割が板についていた。
走り迫る小さな存在にガレンは自然に身を低くする。
子はいつものように毛皮を掴み、よじ登り、背中に座る。
「たかい!」
弾む笑い声。
エリアスは、胸の奥がきゅっと締まるのを感じた。
この光景が、当たり前になるまでの時間を、自分たちは確かに生き抜いてきた。
ガレンはゆっくり歩き出す。
揺れは小さく、一定で、何よりも慎重だ。
その背中は、いつしか種族を超えて、ひとりの父親となっていた。
――
昼下がり。
家の中には、木と火の匂いが混じっている。
床に差し込む光が、ゆっくりと移動していく。
エリアスは腰を下ろし、膝の上に絵本を広げていた。
「…読む?」
「うん、これすき!ままと、よむ!」
ギルバートが差し入れしてくれたものだ。
「……むかしむかし」
子はまだ拙い声で、読み始めた。
「ひとは、ひとりではなくて……
けものと、ともに、いきていました」
挿絵には、王と、巨大な熊がいた。
同じ火を囲み、同じ空を見上げている姿。
「このおうさま、やさしいね」
子は、ページを指でなぞる。
「うん。争うより、守ることを選んだ王様だよ、助け合ってたんだよ」
「……じゃあ、このくまは?」
「王を守った。……王の大事なものも、ぜんぶ」
子は少し考え、顔を上げる。
「……ぱぱと、まま、みたいだね!」
その言葉に、エリアスの胸がきゅっと詰まる。
「うん、」
照れたように笑うが、目は少し潤んでいた。
そのときだった。
家の奥で、低く、深い音がした。
――ぐう……ん……
ガレンの喉鳴りだった。
それは、いつもの音ではない。
警戒でも、威嚇でもない。
重く、揺れ、途中で迷うように沈み、そして、また深く息を吸う音。
長い時間、抑え込まれてきたものが、内側で、ゆっくりとほどけ始めている。
ガレン自身が、何かを“選び直そうとしている”。
守らなければならないという覚悟。
外へ向け続けていた意識。
この場所を失わないために張り詰めていた力。
それらが、今この瞬間だけ、不思議なほど静まっている。
背中に乗って笑う重み。
火のそばで聞こえる声。
名を呼ばれる、ただそれだけの時間。
獣として構えなくても、この場所は崩れない。
――もう大丈夫だ。
ガレンは、深く息を吸った。
長いあいだ、身体の奥に沈めていた呼吸だった。
吐き出すと同時に、熊の輪郭が、ゆっくりと曖昧になっていく。
毛並みは剥がれ落ちるのではなく、
夜明けの霧のように薄れていった。
骨が軋む音はない。
痛みも、衝撃もない。
ただ、選ばなかったはずの形が、静かに、戻ってくる。
守るために選んだ獣の身体が、その役目を終えることを、世界が許したようだった。
変化が止んだあと、そこに立っていたのは、人の姿だった。
「……」
ガレンは、すぐには動かなかった。
自分の手を見る。
指を曲げ、伸ばす。
距離が違う。
重さが違う。
――戻っている。
その事実を、言葉より先に、身体が理解していく。
「……ガレン、」
エリアスの小さな声。
その一言で、世界が、完全に戻ってきた。
ガレンは、ゆっくり声の方向を見た。
少しだけ視線を下げ、戸惑いながらも確かに笑った。
それは懐かしい、愛しい笑顔だった。
「ああ、」
久しぶりに人として発した声は、少し掠れていた。
次の瞬間、エリアスは泣きながらガレンの胸に飛び込んだ。
「ガレン…!ガレン!!!!!」
しがみつき、離れない。
ガレンは、腕を回し、その重みを確かめるように抱きしめる。
「……エリ、」
愛おしい名を呼ぶ。
ずっと呼べなかった、呼びたかった愛おしい音。
エリアスの堪えていたものが、すべてほどけた。
「やっと、呼んでくれた…」
エリアスにとってもそれは、長く願ったことだった。
しかし、叶わないならそれでもいいとも思っていた。
「……戻らないかと、思った……
ずっと……熊のまま…ガレンが決めたなら、それでもいいって…でも…」
抱きつき、額をすり寄せ離れない。
声が震え、言葉が途切れる。
ガレンは、震えるエリアスの身体を静かに強く抱きしめた。
「……長い間、心配をかけたな」
低く、静かな声。
久しぶりに聞く、ひどく心地よい音だった。
エリアスの髪に額を寄せ、そして、もう一度ゆっくり、噛みしめるように名を呼ぶ。
「……エリ、」
エリアスは再び瞳を潤ませ、ガレンの胸に顔を寄せた。
ガレンは、続けてもう一つの名を呼ぶ。
「……アベル」
子は一瞬きょとんとしてから、ぱっと笑顔になる。
「ぼくのなまえ!」
三人が、自然と寄り添う。
床に落ちていた絵本が、風もないのにめくれた。
王と、獣。
かつて獣と共にあった王の名は――アベル
エリアスが、涙を拭いながら笑う。
アベルは、ガレンとエリアスの手を握った。
外では森がざわめく。
この先も世界はまだ、優しくないだろう。
それでも、この家にはぬくもりとかけがえのない存在がある。
ガレンは、再び口を開く。
「ただいま」
エリアスは涙を浮かべ、微笑んだ。
「……おかえり、ガレン」
エリアスはそう言って、まだ離れようとしなかった。
腕の中にある確かな重みが、夢ではないと何度も確かめる。
ガレンは、小さく息を吐き、微笑んだ。
「帰る場所が、ここだと分かった」
その言葉に、エリアスはまた泣き笑いになる。
アベルは、二人を見上げて、胸を張った。
「ぱぱも、ままも……ぼくも!」
小さな手で、二人の手を同時に掴む。
「みんな、いっしょ!」
火のそばで、三つの呼吸が重なった。
外の世界がどうあれ、この家には、今、確かなぬくもりがある。
名を呼び合い、触れ合い、戻ってきたものを、もう二度と手放さないと知っている時間。
ひだまりの中で、それ以上の言葉は、もう必要なかった。
完