ヴィクトリア・フォン・ヘルデンは、紛れもなく優秀な領主だった。
齢二十歳にして亡父の跡を継ぎ、二百の民を抱える領地を一人で切り盛りしている。当初は周囲や民からも不安の目を向けられていたものの、彼女の才覚はすぐに知れ渡ることとなった。税の徴収から土地の配分、隣領との境界問題の仲裁まで、彼女の判断は常に冷徹だが、正確で公平だった。社交界では「氷の華」の異名で知られる、白金の長い巻き髪に宝石のような翠の瞳。その風貌は帝都の画家が描きたがり、求婚者も絶えなかったが、彼女は誰一人として受け入れることはなかった。
美貌に釣られただけの男たちでは、自分の労苦を共にするに値しない。誰にも弱みを見せず、誰にも寄りかからず、完璧であること。それだけが、孤独に領地を背負う二十歳の少女を支える、唯一の柱だった。
完璧であれ。隙を見せるな。全てを掌握せよ。
それが、父より受け継いだ領地を守るための、ヴィクトリアの信条だった。
領民は駒、商人は手段、使用人は道具。そして三年前に競売で入札した犬獣人の従者は――もっとも便利な道具だった。
リュカ。穏やかな琥珀の目をした、亜麻色の毛並みの犬獣人。背が高く、物静かで、与えられた仕事を忠実にこなす。帳簿の計算を任せれば数字に一つの誤りもなく、来客への応対を任せれば相手の身分に応じた適切な言葉遣いを過たない。
ヴィクトリアが唯一、業務の能力を認めている存在だった。だが、認めていることを口に出すことは一度もなかった。
「リュカ。客間の床に汚れがあるわ。綺麗にしなさい」
ある朝、ヴィクトリアはテラスの椅子から指先ひとつ動かさず、そう命じた。
リュカは一瞬だけ目を伏せ、「かしこまりました、お嬢様」と答えて膝をつき、大理石の床に顔を伏せた。長い舌が、令嬢の靴先の前で、冷たい石を舐める。
ヴィクトリアは紅茶を口に運び、目を向けることなく、思索に耽り続けた。
夕食はいつも対照的な光景だった。銀の食器を並べたテーブルの上座で、肉料理と葡萄酒を嗜む。リュカは調理場の隅に置かれた木の器から、四つん這いで食事を取る。
「口で食べなさい。手を使うのは人間の特権よ」
リュカは何も言わず、口だけで木の器から肉片を拾い上げ食事を取る。慣れたもので、食べ滓一つ残すことなく、器用に平らげる日々だった。
彼の寝床は少しばかり大きいとは言え、屋外の犬小屋としか表現できないものだった。獣人の体臭が屋敷内にあるのも憚られる、という事情もあり、雨風が強い日でも彼はそこで夜を明かしていた。
「北の砦が陥落したそうですわね」
ある夕食の席でヴィクトリアは不満そうに呟いた。
「獣人の蛮族どもが国境を越えてきたとか。……帝都の軍は何をしているのかしら」
「……お気をつけください、お嬢様。この領地にも、いつ影響が及ぶか……」
「そうなった時は、黙って私の盾になりなさい……まったく、何か対応を考えなければ……」
リュカは何も言わず、ただ静かに微笑んだ。
その微笑みの意味を、ヴィクトリアが理解するのは翌朝のことだった。
*****
夜明け前の薄闇。異様な物音で目を覚ました。
ガラスが割れる音。怒号。そして――獣の、低い唸り声。
寝室の扉を開けた瞬間、廊下に完全武装の獣人兵が十数名、狼、熊、豹。使用人たちは床に伏せられ身動きが取れないでいた。
「お目覚めですか、お嬢様」
聞き慣れた声。聞き慣れた口調。
しかし、いつもの従順な笑みの奥に、見たことのない冷たい光があった。獣人兵たちの中央に立つリュカの琥珀色の目が、真っ直ぐにヴィクトリアを見据えていた。
「リュ、リュカ……? あなた、何を……」
「申し訳ございません、お嬢様。私は元々獣人王国の工作員です。この屋敷は、たった今、王国の管理下に入りました」
いつもと同じ、穏やかな敬語。それが余計に背筋を凍らせた。
「ふ、ふざけないで……! 私を誰だと思って……ッ!」
「よく存じ上げておりますとも。三年間、すぐお傍で拝見しておりましたので」
リュカの手には、銀色に輝く首輪があった。
「お嬢様。いえ――ヴィクトリア様。あなたは素晴らしい領主でいらっしゃいました。決断が早く、判断に迷いはなく、誰にも弱みを見せない。三年間、私はずっと感服しておりました」
穏やかに、丁寧に。褒め言葉を並べながら、リュカはゆっくり歩み寄った。
「だからこそ、あなたを王国にお迎えしたいのです。――私の犬として」
その言葉の最後だけが、かすかに熱を帯びていた。
*****
「やめなさいっ……! 放しなさいっ――ンッ!?」
獣人兵に四肢を押さえつけられ、白い首に銀の首輪が嵌められた。カチリ。錠が閉じる。
首輪の冷たい金属が首に食い込む。それ以上にヴィクトリアの肌を刺したのは、首輪の内側からじわりと滲み出す生暖かい液体の感触だった。獣人の因子を含む銀色の液が内張りに染み込ませてあり、肌から絶え間なく吸収され続けるものだ。
「首が……熱い……っ」
「お身体が慣れるまで少しお辛いかもしれません。ですが、ご安心ください。首輪だけでは気の長い話になりますので――少々、お手伝いいたします」
リュカが獣人兵たちに目配せをすると、兵たちは部屋を出ていった。扉が閉まり、二人きりになる。
ヴィクトリアは絹の寝衣一枚だった。夜明け前に叩き起こされたままの姿。肩口と膝上で布が途切れる薄い白絹が、震える肌の上で頼りなく揺れている。首輪の熱が喉から鎖骨へ広がり、薄衣の下に隠した白い肌が微かに上気していた。
「お嬢様は三年間、私に床を舐めさせてくださいましたね」
穏やかな声。穏やかな笑み。
「ご存知の通り、犬というのは舐める生き物です。群れの仲間を舐めて、匂いをつけて、自分のものにする。――今度は私が、お教えいたします」
リュカが屈み込んだ。大きな手がヴィクトリアの顎を掴み、顔を上向かせる。
そして。
犬獣人の長い舌が、ヴィクトリアの首筋をゆっくりと舐め上げた。
「ひっ……!?」
熱い。
ざらりとした舌の表面が肌の上を這い、たっぷりと唾液を塗り広げていく。首輪の縁に沿って、鎖骨の窪みに溜まった汗を舐め取り、耳の裏の薄い皮膚を舐め、うなじの産毛を一本一本逆撫でするように舐めあげる。リュカの唾液によって、首輪の何倍もの因子が塗り込まれていく。
「やめてッ……! 汚いッ……獣の唾液なんて……ッ!」
顔を背けた。だがリュカの腕は鋼のように動かない。
頬を舐められた。こみかみを舐められた。鼻先を舐められた。
唾液が首筋から鎖骨を伝い、寝衣の襟元に染み込んでいく。白い絹が透けて、その下の白い肌が濡れたまま浮き上がった。
目尻に浮かんだ涙まで、長い舌が丁寧に掬い取った。
「お嬢様はいつも、泣かない方でしたね。三年間、一度も涙が浮かぶところすら拝見したことがございません」
舐めながら、リュカは穏やかに語った。
「強い方です。本当に。――だからこそ、その強さが溶けていくところを、私はこの目で見届けたいのです」
全身がリュカの匂いで上書きされていく。拭っても拭っても、肌に染み込んだ因子はもう取れない。
そして――異変は突然来た。
今まで「不快な獣の体臭」でしかなかったリュカの匂いが、突然、輪郭を持った。
毛並みの奥の温かさ。肌の下を流れる血の熱。そしてその更に奥にある、麝香に似た甘くて重い何か。
鼻腔を通り抜けるたびに、腹の底がきゅう、と小さく疼く。
(な、何……この匂い……リュカの匂いが、こんなに……はっきり……)
心臓が跳ねた。恐怖ではなかった。
身体が、この匂いを「いい匂い」だと判定し始めていた。
太腿の奥がじわりと熱い。寝衣の裾の下で、ぴたりと閉じていたはずの膝がかすかに……ほんのかすかに、開きかけた。
(……っ!?)
慌てて締め直す。だが一瞬の緩みを、リュカが見逃すはずがなかった。
「こ、こんなもので……っ、私の身体が、こんなもので……ッ」
声が震えていた。さっきまでの侮蔑の語調はもうなかった。
リュカの親指がヴィクトリアの唇の端を拭い、自分の指先を見つめた。かつて命令を受ける側だった手。それが今、主人の涙を拭っている。
「ご安心ください。ゆっくり参りましょう。お嬢様のお世話は、三年間ずっと私の仕事でしたから」
微笑みは変わらない。声は優しい。
だからこそ、逃げ場がなかった。
*****
目を覚ましたのは、床の上だった。
ベッドは使用を禁じられ、部屋から取り除かれてしまった。代わりに敷かれていたのは犬用の毛布。ヴィクトリアが三年間リュカに使わせていたものと同じような、薄くて硬い毛布だった。
身体を起こそうとして、頭に違和感を覚えた。
耳が大きくなっている。耳の端が自重に耐えられず、折れ曲がりかけている。
(まさか……)
同時に尾骨。触れると、先端が明らかに数センチ伸びている。皮膚の下で骨が成長している。布地を内側から押し広げるように。
「嫌……っ」
声が出た。小さく、掠れて。昨日までの領主の口調ではなかった。
ヴィクトリアは部屋を見回した。壁の肖像画。革装丁の蔵書。しかし今この部屋にあるのは犬の毛布と、床に置かれた木の器だけ。
リュカに使わせていたものと同じ器。
ヴィクトリアはそれを蹴り飛ばした。
*****
リュカが来たのは、空腹が限界に達した頃だった。
扉が開く前に分かった。匂いで。廊下の向こうからリュカの体臭が漂い、ヴィクトリアの鼻腔を鮮やかに貫いた。昨日よりも、はるかにくっきりと。
そして、匂いを嗅いだ瞬間――太腿の奥がずくりと疼いた。昨夜から断続的に襲ってくる、この身に覚えのない「疼き」。匂いに連動して、身体の芯が熱くなる。
(また……リュカの匂いで、身体が……ッ)
リュカの手には皿はなかった。温かい肉の塊が剥き出しの掌の上に直接乗っていた。
「朝のお食事、お召し上がりにならなかったと伺いました。お身体が変わり始めていらっしゃるのに、お食事を抜くのはお辛いかと」
「……うるさい……あなたの手から、食べるわけが……」
「無理にとは申しません。ただ、次のお食事は明日の朝になります。よろしいですか?」
穏やかに。丁寧に。選択肢を与えているように見せて、逃げ道を塞ぐ。
空腹だった。首輪の因子が体力を奪い続けている。肉の匂いが鋭敏になった嗅覚を直撃し、唾液が込み上げてくるのを止められない。
十秒。三十秒。一分。
ヴィクトリアの膝が、ゆっくりと折れた。
震える唇がリュカの掌に近づき、肉片に触れ――かぶりついた。
温かった。
リュカの掌の温度が唇に伝わる。肉の旨味が舌に広がる。
メキメキ。
耳から頭頂部にかけて軋む音がする。耳がさらに変形し、亜麻色の被毛に覆われた垂れ耳が、ずるりと左右に押し出された。
同時に背中の下端。尾骨がメリメリと伸長し、寝衣の裾を内側から突き破り、ふさふさの犬の尻尾が躍り出る。
「あ……いやッ……!! 耳がッ……尻尾が……ッ?!」
四つん這いになって部屋の隅まで後退する。新しい耳が恐怖でぺたりと伏せられ、尻尾は後ろ脚の間に巻き込まれていた。
寝衣は尻尾に裂かれ、背中から腰にかけて大きく開いている。白い肌と、そこにうっすらと生え始めた亜麻色の産毛が、破れた布地の隙間から覗いていた。
リュカがゆっくりと近づいた。
ヴィクトリアの前にしゃがみ込み、右手を伸ばす。
「触らないで……ッ!」
その手が、犬の耳の付け根に触れた。
――。
全身の力が抜けた。
指の腹が耳の根本をゆっくりと円を描くように撫でる。それだけで、背骨の芯から脳天にかけて、温かい痺れが瀑布のように溢れ出した。
「ぁ……」
甘い声が漏れた。自分の喉から出た音だと理解するのに、数秒かかった。
同時に、腰のあたりで寝衣の残骸がさらにずり落ちた。撫でられて身を捩った拍子に肩紐が外れ、薄衣が胸元から滑り落ちる。白い胸の頂で、乳首がつんと尖って硬くなっていた。冷えたからではない。撫でられただけで。
「な……やめ……っ」
口がそう言っている。
しかし尻尾は。
後ろ脚の間に巻き込まれていた尻尾が、ゆるゆるとほどけ始めていた。左に。右に。小さく、だが確かに。
(嫌……なんで……止まれ、とまれ……っ!)
頭が命じても尻尾は止まらない。リュカの指が耳を撫でるたびに振れ幅が大きくなる。
リュカの手が離れた瞬間、尻尾は止まった。
同時に、胸の奥を冷たい喪失感が貫いた。
撫でてほしい、もう一度。
(……違う……私は……)
「よくできました、ヴィクトリア様」
リュカの声が降ってきた。穏やかで、暖かくて、残酷なほど優しい声。
「三年間、誰にも褒められることがなかったのではないですか。お嬢様は完璧でいらしたから、周りの方は褒めるのではなく、畏れるばかりで」
心臓を掴まれた気がした。
「私はちゃんと、見ておりましたよ。あなたがどれほど頑張っていらしたか」
その言葉で涙が溢れたことが、何より恐ろしかった。
泣いたことなどなかった。三年どころではない。最後に泣いた瞬間など覚えていない。父が死んだときすら泣かなかった。領主の責務を完璧に果たすために。
その鎧を、こじ開けられた。
*****
それからの日々は、溶けるように過ぎた。
肩から腕にかけて、亜麻色の柔らかい産毛が広がった。滑らかで、温かい。ヴィクトリアは爪で必死に抜こうとした。抜いた端から新しい毛が生えてくる。やがて、自分の腕の毛並みを指で撫でていることに気づいたとき、全身の血が凍った。
(気持ちいいと思ってしまった……自分の毛並みを……っ)
破れた寝衣はもう身体を覆えていなかった。産毛が広がるにつれて布地が肌に引っかかって疼く。ヴィクトリアは自ら残りの布を引き裂いて脱ぎ捨てた。かつてフォン・ヘルデン家の家紋が刺繍されていた白絹が、床の上でくしゃくしゃの布切れになる。
裸だった。首輪と、薄い下穿き一枚だけ。その下穿きも、尻尾が突き破った穴から太腿の裏まで裂けている。
リュカは毎食、手から食べさせた。
最初は目を背けながら、唇だけで肉片を受け取っていた。しかし食事のたびに因子が流れ込み、嗅覚が鋭くなり、リュカの掌の匂いが「暖かくて安心する匂い」に変わっていく。
食事のたびに、下腹部の疼きがひどくなった。リュカの掌に口をつけるとき、太腿をぎゅっと閉じていないと、間から蜜が糸を引いてしまう。
(な……なんで、ごはん食べるだけで……こんな、とこが……っ)
頭の中の言葉が乱れ始めていた。「食事をいただく」が「ごはん食べる」に。完璧な令嬢の語彙が、少しずつ、崩れている。
ある夕食。リュカの掌から肉を受け取ったヴィクトリアの舌が、肉を超えて、指の腹にまで伸びた。
ちゅ……ちゅる……
指を、吸っていた。
関節の窪みに舌を這わせ、爪の際まで丁寧に舐め、一滴の汁も残すまいとしゃぶる。尻尾が千切れるほどの勢いで振れている。
太腿の間を閉じる力がもうない。下穿きの裂け目から、透明な蜜が内腿をつたって床に糸を引いた。
指から、手首へ。手首から、腕へ。
小さな犬の鼻先が、リュカの匂いを辿って少しずつ上へ、上へと移動していく。
腕の匂い。胸元の匂い。腹の匂い。そして――。
リュカの腰のあたりから、それまで何十倍も濃い匂いの層にぶつかった。
甘くて、重くて、脳の芯を痺れさせる、雄の匂い。嗅いだ瞬間、下腹部の奥がずくんと脈打った。子宮の底が疼き、秘裂から蜜がとろりと溢れて内腿を熱く濡らす。
(な……何、この匂い……ここから……こんなに……っ)
頭では分かっていた。これが何の匂いか。分かっていて、鼻先が離せなかった。
「……お嬢様」
リュカの声が、また上から降ってきた。穏やかな声。咎める調子は一切ない。
「よろしければ、もう少し近くで嗅いでいただいても構いませんよ」
腰布がゆっくりと下ろされた。
眼前に、犬獣人の雄器があった。人間のそれとは比較にならない太さと長さ。赤黒く脈打ち、先端から透明な液が糸を引く。表面に浮き出た血管の一本一本が鼓動に合わせて波打ち、根本の毛並みからはむせ返るような雄のフェロモンが立ち昇っていた。
そして根本のさらに奥には、まだ萎んだ状態の丸い膨らみが、皮膚の下で静かに存在を主張している。
(やめなさい……わたしは……こんな獣の……っ)
口が、開いた。
ちゅ……
最初は先端にそっと唇を触れさせただけだった。
熱い。唇が触れた瞬間に、金属を舐めたときのような痺れが口の中に走った。先走りの液が上唇に付着し、獣の因子が粘膜から染み込んでいく。
れろ……ちゅるっ……
舌が伸びた。自分の意思ではなかった。鋭くなった嗅覚が、濃厚な雄のフェロモンに反応して、勝手に動いた。先端をちろちろと舐め、亀頭の裂け目に舌先を入れると、リュカの腰がビクリと揺れた。
(ご主人様が、わたしの舌で、感じている)
その自覚が脳の奥で弾けた瞬間、秘裂から蜜がどろりと零れ落ちた。
ジュルッ……チュプ、チュプ……
舌の動きが変わった。先端だけではなく、根本まで舌を這わせ、血管の浮き出た表面を丹念に舐め上げる。涎が止まらない。顎を伝い、首輪を濡らし、鎖骨の窪みに溜まっていく。
舐めるたびに自分の身体が壊れていくのが分かる。秘裂がひくっ、ひくっと痙攣して蜜を零し、乳首が硬く尖って空気に触れているだけで疼く。誰にも触れられていない腰が、小さく、小さく、前後に揺れ始めていた。
舐めているだけなのに。ご主人様のものを、お口でご奉仕しているだけなのに。下穿きの裂け目の奥が、こんなに熱い。
(わたし……この人に、床を舐めさせた……っ。その、わたしが、今……っ)
自覚した瞬間、涙が溢れた。
恥辱の涙。それなのに、涙と一緒に快感がせり上がってくる。舌を動かすほどに獣の因子が流れ込み、舌を動かすほどに甘く蕩けていく。
「いい子です、ヴィクトリア様」
リュカの大きな手が頭を撫でた。犬の耳の付け根を、ゆっくりと。
「ふぁ……っ♥ ん、んんっ♥」
口に咥えたまま声が漏れた。
撫でられながら舐める。舐めながら撫でられる。頭と股間の両方から快楽が流れ込み、尻尾がちぎれるほどに振れる。
太腿はもう閉じられなかった。ぱっくりと開いた脚の間から、下穿きの裂け目を透かして、ぐしょぐしょに濡れた秘裂が晒されている。蜜が床を汚しているのが分かっていて、止められない。
リュカの手が、ゆっくりと頭の上から顎の下に移動した。犬の口吻へと変わりつつある下顎を、くい、と持ち上げられる。
雄器が口から離された。ぷはっ、と唾液の橋が切れる。
「あ……ご主人さま、なんで……っ」
「少し、お顔を見せてください」
涎まみれの顔を見上げさせられる。涙と唾液で光る翠の瞳が、リュカの琥珀色の目と合った。
「……きれいですよ、ヴィクトリア様」
その一言で、子宮がきゅぅぅと大きく痙攣した。
(だめ……それ言われたら……っ)
「もう少し、いただけますか?」
「……はい……っ♥ もっと、なめさせて、ください……♥♥」
自分から口を開いて、舌を伸ばした。今度は自分の意思で。
雄器に犬の舌を巻きつけ、根元から先端まで、ゆっくりと、ねっとりと舐め上げる。顎の下に溜まった涎がぽたぽたと落ちて首輪を濡らし、銀色の金属に唾液の筋が光った。
ンチュッ……ジュッルルッ……チュプ、チュプッ……
雄器の先端から銀色の液が脈打つように溢れ、舌の上を流れ落ちていく。因子の塊。それを一滴も零さず、ごくり、と飲み込んだ。
鼻先がむずむずと蠢く。
上唇が引き攣り、メキメキと骨が軋む音が頭蓋の内側から響いた。顔の下半分がゆっくりと前方にせり出し、人間の鼻と口が融合していく。数秒かけて、犬の口吻が形成された。
ぺろり、と。
新しい舌が、咥えたままの雄器を根元から先端までひと舐めした。犬の舌。長くて、広くて、ざらついていて、人間の舌とは比較にならない。表面の凹凸を余さず拾い上げ、亀頭を包み込むように巻きつけ、リュカの腰を大きく揺らした。
雄器から立ち上るご主人様の匂いが、犬の鼻腔を通じて何十倍にも増幅されて脳を焼く。
「……ふ、ぁ……ご主人さまぁ……おいしい……♥」
犬の口吻で、犬の舌で、ご主人様を舐めている。それが正しいと、身体の全てが言っていた。
翠の瞳から涙がこぼれた。
今度はもう、恐怖の涙ではないと分かっていた。
リュカの手が、涙で濡れた頬を親指で拭った。
「もう少しですよ。もう少しで、楽になれます」
完璧であれ。隙を見せるな。
心の中のどこかで、いつもの自分の声が聞こえた。
だが、もう何の力もない言葉だった。
*****
ヴィクトリアは鏡の前に立たなくなっていた。
休む時は四つん這いのほうが楽だった。手足の骨がミシミシと形を変え、重心が前に寄る角度になっている。全身を覆う亜麻色の柔らかい被毛。ぱたぱた動く垂れ耳。犬の口吻から垂れる舌。腰の後ろで揺れ続ける尻尾。衣服はとうに着られなくなり、毛並みの下に裸の身体が隠れている。
鏡に映るのは、もう「氷の華」ではなかった。
完璧な令嬢はどこにもいなかった。
だが、ヴィクトリアの中で最も決定的に壊れたもの――それは外見ではなかった。
リュカが部屋を離れると、胸が締め付けられる。息ができなくなる。匂いが薄れていくのが怖い。そして……身体の奥が、疼いて、疼いて、どうしようもなくなる。
(ご主人様がいない……さみしい……はやく……はやく帰ってきて……)
もう「リュカ」とは思えなかった。いつ切り替わったのかも覚えていない。思考の中の言葉遣いですら、とっくに令嬢のそれではなくなっていた。
匂い。足音より先に。ご主人様の匂い。暖かくて、世界で一番安心する匂い。
扉が開いた瞬間、身体が先に動いた。四つん這いで駆け寄り、脚に全身を擦り付ける。尻尾が狂ったように振れ、喉からくぅん、と甘い声が漏れた。
毛並みの下の身体が、リュカの脚に押し当てられるたびに熱を帯びる。乳房がリュカの膝に擦れて、乳首がつんと固くなるのを止められない。
「ぅ……ご主人様ぁ……帰ってきてくれた……っ♥」
リュカの大きな手が頭を撫で、完全に犬の口吻となった下顎をくすぐった。目が蕩け、尻尾が振れる。
「今日はご褒美を差し上げます。ついてきてください」
首輪にリードが取り付けられ、くい、と引かれた。四つん這いのまま廊下を歩く。かつて自分がリュカにそうさせたように。
「ご主人様……♥ どこに行くんですかっ……♥」
着いた場所は、庭の犬小屋だった。
リュカが三年間、雨の夜も寒い夜も寝かされた場所。
記憶が閃いた。雨の夜、リュカを押し込んだ自分。「小屋で寝なさい」と背を向けた自分。
「入れ」
短く低い。敬語ではない。
短い命令に、全身の毛が逆立った。恐怖ではなかった。
尻尾が、今日いちばん激しく振れた。
「……はいっ♥」
犬小屋は狭かった。
元々リュカが寝床にする事しか考慮されていない。リュカの大きな体が背後から入ってくると、ヴィクトリアの小さな身体は完全に包み込まれた。獣の体温。体臭。毛並み。四方から密着する。
狭い。暗い。けれど安心する場所。
リュカの体臭が密閉された空間に充満し、鼻腔に濃密な雄の匂いが叩き込まれる。脳が痺れ、腰の奥がずくずくと疼く。
「ここで三年間、お前のことを想っていた」
敬語が消えたご主人様の声。低くて、熱くて、少しだけ震えている。
「あの頃から、お前を俺のものにしたいと――ずっと」
大きな手が腰を掴んだ。
ヴィクトリアは自ら尻尾を高く掲げ、腰を持ち上げた。後ろ脚を開いて、毛並みの奥にある秘裂を晒す。
さっきからずっと濡れ続けていた。ご主人様の匂いを嗅ぐだけで蜜が溢れ、内腿の毛並みをぐっしょりと湿らせている。
かつてリュカに「地面に這いつくばりなさい」と命じた、あの姿勢。
「おねがいします……ご主人様……わたしを、ご主人様の犬にして……ください……♥♥」
熱い先端が秘裂に触れた。
それだけで全身がびくりと跳ね、秘裂がきゅっと収縮して先端を咥え込もうとした。ずっと濡れ続けていた蜜が潤滑になって、犬獣人の雄器がゆっくりと、しかし止まることなく膣口を押し広げていく。
ズプ……ズズッ……ズプジュゥゥッ……♥
「ぁ……あぁぁッ♥♥ はいって、くるぅッ……♥ おなかの、奥まで、ご主人様がぁっ……♥♥」
膣壁が雄器の形にぴったりと吸い付いた。太くて、熱くて、脈打っている。人間の男のものとは比較にならない質量が膣の奥を押し広げ、子宮口に先端がこつん、と当たった瞬間、背骨が弓なりにしなった。
そのまま、動かない。
奥まで入りきった状態で、リュカの腰が止まっている。
体内に埋まった雄器が、リュカの心拍に合わせてどくん、どくん、と脈打つのが膣壁越しにはっきりと伝わってくる。ヴィクトリアの鼓動が、その脈に合わせようとするように速まった。
根元の結合球が膣口の手前で硬い存在感を押し当てている。まだ膨らみきっていない。でもそこにある。
「ご主人様の……おちんぽ……あつい……なかで、どくどくしてる……♥」
動いてほしい。
この充填感のまま、もっと奥を。
「……うご、いて……ください……っ♥」
自分から腰を小さく揺すった。ずん、と、子宮口に先端が当たって、視界が白く飛ぶ。
「――いい子です」
リュカの腰が引かれ、押し込まれた。最初の一突き。
パァンッ!
「ひぁっ♥♥」
犬小屋が軋んだ。
突き上げの衝撃が子宮口を叩き、背骨を伝って脳天まで駆け抜ける。膣の中がぐにゅりと雄器の形に締まり、引き抜かれるときに粘膜が吸い付いて離さない。引き抜かれる空虚と、突き入れる充填が、交互に膣壁を犯す。
同時に、手の甲を覆っていた産毛がざわりと逆立ち、波紋のように指先まで亜麻色の被毛が広がった。
二突き目。
パァンッ!
「あッ♥♥」
背中の毛並みが一気に肩甲骨から腰まで拡大する。そして膣の内側も変わり始めていた。粘膜のひだが獣のそれに再構築され、雄器を絡め取る力が跳ね上がる。さっきまでと同じ一突きが、全く違う快感として身体を貫いた。
(な……っ、さっきより……っ、きもちいい……っ♥)
三突き目、四突き目。リュカの腰が加速した。
パァンッ! パァンッ! パァンッ! パァンッ!
「あッ♥ あッ♥ ひぁッ♥ んッ♥ ご主人様ッ、もっとッ、もっとぉぉ♥♥」
ズチュ、ヌプッ、ズチュッ、ヌプッ――犬小屋の中が水音と肉を打ち合う音で満たされる。狭い空間に互いの汗と体液が混ざった甘く粘着く匂いが充満し、犬の鼻に何十倍にも増幅されて脳を灼く。
ヴィクトリアの腰が、突かれるリズムに合わせて自分から押し返し始めていた。引かれるときに追いかけ、突かれるときに迎え入れる。本能だった。犬の交尾の本能が、骨盤を動かしている。
指先の爪がミシリと軋み、丸みを帯びた犬の爪に変形した。犬小屋の木板に四本線の引っかき傷が刻まれる。
太腿の筋肉がメリメリと形を変え、犬の後ろ脚に近い、獣人のものに組み替えられていく。もはや、ヴィクトリアは産まれながらの犬獣人との違いがなくなっていた。
子宮の奥が甘く絞られるたびに、もうすぐ何かが来る、と分かる。
もうすぐ。もうすぐ。あと少しで。
「ご主人様ッ……わたし、もう……っ、もう、イッちゃ……っ♥♥」
ぴたり、とリュカの腰が止まった。
「……っ!? な、なんで、とめ……っ」
奥まで入ったまま、動かない。膣壁がきゅうきゅうと雄器を締め付けて「動いて」と訴えるが、リュカは動かない。頂上の一歩手前で引き止められた身体が、熱い疼きで狂いそうになる。
「ご主人様っ……おねがい、うごいてっ……やめないで……♥ もう、だめっ、おなかのおくが、こわれちゃうっ……♥♥」
自分から腰を揺すった。ずん、ずん、と子宮口に先端をぶつけるように。でもリュカが腰を使ってくれないと、あの場所に、あの角度では届かない。
涙がぼろぼろこぼれた。犬の口吻からだらしなく舌が垂れ、涎が木板に落ちる。
「……おねがい……します……ご主人様の、犬として……おりこうにしますっ……からっ、だから、つづけて……ください……♥♥♥」
犬が主人に、交尾の続きをおねだりしている。
「――よく言えました」
再開。一気に加速される。
パァンッ!! パァンッ!! パァンッ!! パァンッ!!
「あああッ♥♥♥ あッ♥ あッ♥ ご主人様ッ♥♥ きもちいいッ!! きもちいいッ!! きもちいいのがとまらないィィっっ!♥♥♥」
突かれるたびにさっきよりずっと深い。ずっと強い。一度止められて焦らされた分だけ、再開の快感が何倍にも膨れ上がっている。獣の膣壁が雄器を絞り上げ、子宮口が先端に吸い付き、突かれるたびに白い光が弾ける。
また来る。もうすぐ。今度こそ。
リュカの腰のリズムが乱れた。
結合球が膨張していた。膣口を内側からぐいぐいと押し広げ始める。突くたびに結合球の最も太い部分が膣口の縁を擦り、入りかけては抜ける。入りかけては、抜ける。
「ッ……あ、ぐ……ッ♥ おっきい……♥ おっきくなってきてるぅ……ッ♥」
膣口が限界まで押し広げられる圧迫感。
痛いのに身体が逃げない。
膣口がひくひくと痙攣しながら、結合球を咥え込もうとしている。もっと奥に。もっと深くに。全部、全部欲しい。全部入れて欲しい。ご主人様と、全部で繋がりたい。
ヴィクトリアは自分の手で尻肉を掴み、左右に開いた。膣口を少しでも広く。
「いれてッ……♥ ぜんぶ……ッ♥ ご主人様のおっきいの、ぜんぶわたしのなかにッ……♥♥ ぬけなくなっても、いいから……ぬけなく、なりたいからっ……♥♥♥」
リュカの腰が、深く沈んだ。
ズプッ……ズププ……ッ……ズブッ!!
結合球が、膣口を越えた。
「あああああぁぁぁッ♥♥♥♥」
入った。全部入った。膣口が結合球の根元でぎゅぅぅと締まり、もう抜けない。リュカの雄器がヴィクトリアの中に完全に嵌まり込み、先端が子宮口を押し開き、根元は膣口に栓をしている。
一つになった。
犬になった。犬の交尾で、犬の雄と、繋がった。
「ヴィクトリア」
名前だけ。初めて、ただの名前で呼ばれた。
耳がぺたんと伏せられ、尻尾がぶるぶると震える。
「――全部、もらうぞ」
ドビュルルルルルッ!! ドプゥッッ!! ドクドクドクドクドクッッ!!!
銀色の獣の種が子宮の奥底に叩き込まれた。
結合球の栓により、一滴も漏れない。すべてがヴィクトリアの中に閉じ込められる。熱い。焼けるように熱い液体が子宮を満たし、粘膜の隅々から身体に吸い込まれていく。
「アアアァァァッ♥♥♥ おなかッ、おなかのなかッ、ご主人様のたねがいっぱいッ♥♥♥♥ あつい、あついのが、ぜんぶわたしのなかに、はいってくるぅぅぅッ!!♥♥♥♥」
ビクンッ。ビクンッ。ビクンッ。
絶頂。しかし終わらなかった。
結合球が繋がったまま、リュカの雄器はまだ脈打ち続けている。射精が止まらない。波のように、ドクッ、ドクッと子宮に精が注がれるたびに、ヴィクトリアの身体を小さな絶頂が駆け抜ける。
「ひぁっ♥ ……あ……また、くる……っ♥ ……ん、んんッ♥ またッ……♥♥」
膣が雄器を絞り続けている。こくこくと子宮が精を飲み込むたびに甘い痙攣が走り、痙攣が膣壁を締め、締まった膣壁からさらに精を絞り出す。終わらない循環。ずっと繋がったまま、ずっとイッたまま、ずっと注がれたまま。
犬小屋の中で、丸くなる。
リュカの大きな身体が背中から包んでいる。心臓の音が背中越しに伝わってくる。膣壁越しにも鼓動が伝わってくる。ヴィクトリアの心臓が、その鼓動に、ゆっくりと重なっていった。
翠の瞳が涙で潤む。犬の口吻からだらしなく舌が垂れる。幸福に蕩けきった顔で、尻尾だけがぱたぱたと揺れ続けている。
あつい。あまい。こわいくらい、あんしんする。
完璧でなくていい。もう何も握りこまなくていい。
ご主人様がいる。ご主人様がなでてくれる。ご主人様がなまえを呼んでくれる。
ずっとこのままが、いい。
*****
朝の光が、寝室のカーテンの隙間から差し込んでいた。
かつてヴィクトリア・フォン・ヘルデンが一人で眠っていた豪奢な寝台。今そこには二つの体温がある。リュカの広い胸板に頬を押しつけ、亜麻色の毛並みに包まれるようにして丸くなっていた犬耳の少女が――温もりの中で、小さく身じろぎした。
「んぅ……♥」
リュカの腕が、眠ったまま少女の身体を引き寄せる。大きな手が丸く膨らんだ腹にそっと添えられ、掌で優しく円を描いた。膨らみの下で、小さな命が脈打っている。
「……おはようございます、ヴィクトリア」
低い声が耳の上から降ってきた。犬の垂れ耳がぴくりと動き、少女はぱちりと目を開けた。
「ご主人さまっ♥ おはようございますっ♥♥」
リュカの首筋に鼻を押し付け、くんくんと匂いを嗅ぐ。ご主人様の匂い。世界でいちばん安心する匂い。尻尾がぱたぱたとシーツの上を叩いた。
「身体の具合はどうですか。お腹は張っていませんか」
「んーん♥ きょうもげんきですっ。おなかの仔たちも、いっぱいうごいてます♥」
リュカの手が、膨らんだ腹を撫でる指先に力を込めた。その目が――三年間従者として仕えていた頃には決して見せなかった、剥き出しの感情を湛えていた。
三年間、犬小屋で眠り、木の器で食事を取り、床を舐めろと命じられても従った。その全てを耐えたのは、このためだった。ヴィクトリアを自分のものにするために。
「ヴィクトリア。寝床から出なくていい。今日は私がお茶を持ってきます」
「えっ……♥ ご主人様が? わたしがやりますっ♥」
「お腹が大きいのですから、あなたは暖かくしていなさい」
垂れ耳がぺたんと伏せられ、頬がほんのりと赤く染まった。ご主人様に甘やかされる幸せに、尻尾の動きが一層速くなる。
リュカが身支度を整えて窓際に立つと、屋敷の庭の向こうに領地の朝が広がっていた。
変わっていたのは旗だけではなかった。
屋敷の門には獣人王国の紋章が掲げられ、かつてヘルデンの家紋が刻まれていた石柱には蔦が絡んでいる。ヴィクトリアの統治は厳しくも悪くはなかった。若くして領地を切り盛りし、秩序を保ち、富を増やし、民を飢えさせなかった手腕は紛れもなく本物だった。だが、王国が加わったことでその基盤の上に豊かさが積み上がった。交易路が広がり、獣人となった民たちによって農法が改良され、収穫は前年の倍に達しつつあった。
村の朝市に目を向ければ、もう人間の姿はなかった。
毛並みに覆われた太い腕で籠を抱え、マズルを綻ばせて笑う犬獣人の女。露店では灰色の狼獣人が肉球のある指先でも器用に焼き立てのパンを並べ、その向かいでは縞模様の毛皮をまとった猫獣人の少女が、長い尻尾を揺らしながら、毛糸を紡いでいる。肉屋の親父は熊獣人に変わり、巨大な手で荷物を軽々と持ち上げていた。すべて、人間だった者たちだ。
通りの裏手に目を移すと、牧草地の柵に寄りかかるようにして、若い狐獣人の番いが身体を重ねていた。雌の尻尾が快楽に揺れ、雄が喉を鳴らしながら腰を使っている。通りすがりの者は誰も気にしていない。朝の光の下で交わる事を恥じることもない。発情期が来れば番い、陽が射す草の上で睦み合い、満足すれば毛繕いをして生活へと戻る。それが、この地の日常になっていた。
屋敷に出入りする獣人たちは、リュカに寄り添う犬獣人の少女を「奥方様」だと思っている。
「今日はお客様がいらっしゃいます」
寝床に戻り、温かい茶を手渡しながらリュカが言った。
「東の街から、貴族の令嬢がお見えだそうですよ。併合の交渉に」
「わぁ……♥ あたらしいひとですかっ?」
「ええ。お茶会の席を整えますから――ヴィクトリアも、ご一緒しますか?」
「はいっ♥ わたし、ご主人様のおとなりにいますっ♥♥」
ぱたぱたぱた。尻尾がシーツを叩く。
リュカは寝床の上の少女を見下ろした。翠の瞳は変わらず美しい。だがその奥にあった氷のような鋭さは、今はもうない。代わりに満ちているのは、信頼と歓喜と、膨らんだ腹への無邪気な慈愛。
テーブルの上に、銀の食器が並んでいた。家紋入りの、かつて自分が使っていた食器。
リュカがそれを手に取り、ヴィクトリアの前に差し出した。
「こちらで召し上がってください。あなたはもう、私の隣で食事をする人です」
「……♥」
かつてリュカに木の器で食事を取らせていた令嬢は、銀の食器を両手で受け取り、ご主人様の隣に座った。
もうどちらが主人でどちらが従者だったのかも、よく思い出せない。ただ、ご主人様がくれるものは全部うれしい。
首輪の銀色の光沢が、午前の日差しにきらりと反射していた。