純血のポルシェ・カレラ[第一部:バビロン・イグニッション]

  「……ガク、話がある」

  新宿税務署でのテストランから十数日後。夕食の席で、鉄朗がやけに真剣な面持ちで語り出した。

  ガレージに設置された簡易的な折りたたみ式の食卓には、テレビから流れる『あなたの家庭に、熱を届ける。日本石油産業機構』という白々しいCMの音声が、ガランとした空間に反響していた。

  「……トーキョー・ラリーのエントリーが、今晩から始まるらしい」

  その言葉に、俺は思わず箸を落とした。

  すぐさま立ち上がり、背後に停めてあるワインレッドのスープラへと駆け寄る。その低いシルエットを目にするだけで、俺の胸の鼓動はエンジンのピストンのように激しく跳ね上がった。

  「おい、落ち着け。ちゃんと飯は食ってけ」

  バン、と食卓を叩く鉄朗。しかし、その表情は決して険しいものではなかった。

  「……逸る気持ちはわかるけどな。とうとう、この日が来たんだ」

  俺はスープラの冷たいドアハンドルに手をかけたまま、鉄朗の方を見る。無意識のうちに、俺の半垂れの耳がピンと立ち、尻尾が左右に大きく振れてしまっているのが自分でもわかった。

  鉄朗はニヤリと不敵に口角を上げながら、茶碗の米を頬張る。

  「でも、ちゃんと飯は食え。腹が減ってる奴は、まともに闘えないからな。ハル、悪いがもう一杯米をくれ」

  そう言って空の茶碗を差し出す彼だったが、ハルは無情にも首を横に振った。

  「鉄朗さん、食べ過ぎ。うちの配給には限りがあるんだから、今日はもう終わり!」

  ハルはピシャリと言うと、炊飯器の蓋をカチリと閉じた。行き場を失った茶碗を、恨めしそうに自身の席へと降ろす巨大な熊獣人。

  「ガク、君も早く食べちゃって。僕も一緒に行きたいから。でも、ちょっと食後の片付けとか洗い物があるから、出発するのは……20時過ぎくらいで良い?」

  ハルは時計を見ながら、並んでいた空き缶を回収していく。あの狂気的なナビゲーターと同一人物とは思えないほど家庭的な手つきだ。俺は急いで食卓に戻ると、残っていた米と冷めかけた味噌汁を無理やり口の中に詰め込んだ。

  「そういや、肝心な場所を伝えてなかったな」

  鉄朗はテレビのチャンネルを、ニュース番組からバラエティへと切り替える。

  「ハル、お前なら分かるよな? 大黒(だいこく)だ」

  部屋の奥の流し台へ引っ込んだハルに向かって、鉄朗は大声で尋ねる。すると、食器を洗う水音に紛れて、

  「大黒って、あの『日石』が買い上げてるエリアー?」

  という、少し間延びした声が聞こえてきた。

  「……場所は分かるってよ。じゃ、ハルに道案内してもらえ」

  鉄朗はそう言うと、テレビに向き直った。画面には、最近1000m展望台が開放されたという、巨大な電波塔が映っている。

  「うわ。俺はあんな高いところ、絶対に登りたくねぇな……」

  心底嫌そうに呟く鉄朗の言葉をBGMに聞き流しながら。

  俺は胸の奥で燻る高揚感を抑えつけ、ハルが家事を終えるのをただじっと待っていた。

  ——数十分後。俺たちはガレージを出て、首都高中央環状線を抜け、夜の湾岸線を走っていた。

  少しだけ開けた窓の隙間から、ひんやりとした心地よい潮風が車内に流れ込んでくる。ガソリンとオイルの匂いに混じって、鼻腔をくすぐる微かな潮の香りに、俺の耳が微かに震えた。

  スープラは横浜方面を目指し、闇を切り裂いて進んでいく。崩れ落ちた防音壁の向こう側には、かつては不夜城であったであろう品川の街並みが、月光に照らされて浮かび上がっていた。

  窓ガラスはことごとく割られ、基礎から無惨に崩落した高層ビル。そのどれもが、死に絶えた東京の巨大な墓標のように整然と並んでいた。

  「えっと、ガクはこっちの方に来るの、初めて?」

  ハルが穏やかな口調で尋ねる。俺は、薄暗いアスファルトに放置されている廃車や瓦礫の残骸を、ヘッドライトの灯りだけを頼りに、右へ左へ避けながら、慎重にアクセルを踏み込んだ。

  「まぁな。俺、新宿とか池袋の辺りを這いずる生活しかしてこなかったからな。……海を見るのだって、今日が初めてだ」

  俺は、助手席の窓の外に広がる、黒々とした重たい水面を横目で流し見て言った。海というものは青いと、どこかで聞いた気がする。だが、今の俺の目に映るのは、底知れない深淵を湛えた巨大な水たまりでしかなかった。

  「海っていうのは、しょっぱい水でできた巨大な水たまり……って認識で、間違いないんだな?」

  ふと思い出した記憶があった。昔、池袋駅の地下道で、破れた絵本を蒐集していた奇特な爺さんがいた。まだ幼かった頃の俺に、彼は海に関する物語を読み聞かせてくれたのだ。当時の俺は、そんなに広い場所があるなんて信じられなくて、『しょっぱいお水って、どれくらいしょっぱいの?』なんて馬鹿な質問をして、彼を困らせてしまったことを思い出した。

  「……絵本の中だけの存在だと思ってたけど、こうして実物を見てみると……なんか、凄く……良いな」

  思わず口角を上げて、ハルに言う。その言葉に、ハルは一瞬だけ面を食らったような顔をしたが、すぐにこの夜の闇を照らすような明るい声を上げた。

  「初めてのことって、なんか良いよね! 僕もさ、東名高速を歩いて東京まで来た日のこと、今でも鮮明に覚えてるよ!」

  そうして、ハルは自身の過去を語りだす。本来であればそれは、俺が本当に毛嫌いするであろう類の話であった。だが、今回ばかりはどうしてか、聞いてやろうという気持ちが湧いたのだ。黙っていると、彼はポツリと呟くように言った。

  「僕さ、元は名古屋で暮らしてたって話、したことあったっけ? 多分、なかったよね。僕の実家、名古屋の高層マンションだったんだ。両親は公務員で、金銭的には何一つ不自由のない生活をしてたんだけどさ……」

  ゆっくりと、噛み締めるようにハルは話す。

  「家では毎日、『勉強勉強』ってお母さんに怒鳴られてて、いつも弟と比較されてた。こう言ったらなんだけど、僕の弟って、何にもできない子だったんだよね。でも、愛嬌はあるし、なにより末っ子だったから周りにすごい可愛がられてて。僕も、努力はしてたんだけどさ。でも、認められなくて……正直、かなり苦しかった」

  ハルは、今まで見せたこともないような顔をした。そこに宿っている感情を、今の俺には推し量ることはできなかった。

  「日に日に、自分が死んでいく感情、みたいなものも覚えたんだ。周りからの反応を見て、最適な返しをして……ある意味、精神の自殺だよね! そんなだから、もう何もかも嫌になっててさ。……でもね、ある日、知ったんだ。弟がテレビで見てた違法配信で、このトーキョー・ラリーのことを」

  ハルは懐かしそうに目を閉じると、一つ一つの記憶をなぞるように語る。

  「あの時、初めて『心惹かれる』って感覚を味わったんだ。それから、このラリーのこと徹底的に調べ上げた」

  へへ、と笑ってハルは言った。

  「ネットで調べられることはネットで調べて、足りない情報は足で稼いで。勉強の合間に、あれだけの情報を集めるのは本当に大変だったけど、それでも頑張ったんだ。初めて僕の心を奪った、トーキョー・ラリーを間近で感じるために」

  そこまで楽しそうに語っていたハルであったが、しかし。不意にその表情が曇った。

  「それで、気がついたら財布だけ持って、家を飛び出していた。……だけど、お金だけあってもどうにもならないって、崩壊した東名高速の旅で思い知らされたんだ。……怖いことも、ガクには言えないような酷いことも、されたりね」

  視線を横にやり、ハルの顔を見る。その黄金色の被毛は、少しだけ震えていた。彼にとってそれは、思い出したくない過去のようだった。言葉に詰まり、だんだん声の勢いを失っていくハル。だが。

  「……それでも! 鉄朗さんに拾われてからは、毎日が楽しいんだ! 確かに、名古屋に帰りたいと思ったことは一度や二度じゃない。配給の物資が物足りないと感じたことも、たくさんあった。……でも、こっちでの生活では、生きているって実感がある」

  ハルは自分自身に確信を持たせるように、強く頷いて言う。そんなハルに、俺は言葉を投げた。

  「……俺は、東京のスラムで、都民が出すゴミを漁って生きてきた」

  彼の話を聞いて、どうしても感化されてしまい、気がつけば俺も語り出していたのだ。

  「東京は、警視庁の徹底的な管理・監視下にある。だから、俺みたいなあぶれ者には、まともな生活なんて送る権利はなかった」

  鉄朗が換装した、バックスキンの小径ステアリングを強く握り、歯を食いしばる。

  「汚いこともたくさんしてきた。お前が言えないように、俺にも言えない秘密はある」

  言葉を選び、紡ぎながら、俺は一言一言、発音していく。

  「だから、誰かに助けられなくても、俺は一人で生きていける。……この前までは、本気でそう考えて生きてきた。だけど、今度ばかりは……鉄朗や、ハル。お前らがいなければ……一人じゃ、どうにもならねぇみたいだ、と思う」

  その言葉に、ハルの瞳が見開かれる。シートと腰の間で、尻尾が勢いよく擦れている音がした。

  「うん……うん! そうだね! 僕たちは、生まれは違っても、互いに必要なんだ!」

  その発言に、俺はただ頷いた。

  やがて車は鶴見つばさ橋の長い直線を抜け、明々と輝く、俺たちの始まりの地――大黒パーキングエリアへと咆哮を上げて滑り込んだ。

  ──大黒埠頭、大黒パーキングエリア。

  そこは、濃密なガソリンの匂いと異様な熱気に包まれていた。

  大勢の獣人が、さまざまな車で乗り付けている。まさか、ここにいる全員が、ラリーの参加者なのか? 少しばかり、俺の心に緊張の念が生まれた。

  「凄い……凄いね! こんなに、こんなに沢山の、生きた車がいるなんて!」

  ハルはキョロキョロと並んだ車を見ては、一台一台に称賛の言葉をかけていく。

  「このパジェロ、凄い重装備! あ、あの涙目インプレッサもいいねぇ! まさにレーサーって感じ……え、うそ!? あのシルビアS15、もしかしてSpec Rじゃない!?」

  興奮して人混みを縫うように進んでいくハルを、俺は置いていかれないように必死に追いかけた。周りの獣人たちは、ハルを疎んだり、愛車を褒められて満更でもなさそうにしたり、反応はまちまちであった。

  十数分後。一通り駐車場を見て回ると、息を切らす俺を見て、ハルは申し訳なさそうな顔を浮かべた。

  「あ……ごめんね。付き合わせちゃった。こんなに色々なガソリン車を目にする機会なんて、滅多になかったから……」

  「はぁ、はぁ……いや、いい。それより、早く手続きを済ませよう。ここにきた目的を忘れるな……」

  少し睨みをきかせながら言うと、ハルはシャキッと背筋を伸ばした。その様子が少しおかしくて、俺は思わず笑みをこぼす。

  「ぶふっ……そんなに畏まらなくてもいいだろ。で、エントリー受付はどこだ?」

  その笑いで、一瞬で砕けた態度をとるハル。

  「はは。こっちだよ! さっき、駐車場回ってる時に見たんだ!」

  ハルは、俺の手首を掴むと、勢いよく駆け出した。俺は足がもつれる感覚を覚えながらも、荒れたアスファルトの地面をしっかりと踏み抜いてついて行った。

  長い待ち時間の末に、俺たちは殺気立った長蛇の列をなんとか耐え抜き、とうとうトーキョー・ラリーへの参加権を入手した。

  「……なんかさ、長い列の割には、手続きはあっさりしてたね」

  ハルがどこか物足りなさそうに言うが、俺は印字されたラリーの参加証明パスを眺めながら言った。

  「それだけ人がいるってことだろ。……さ、目的は果たした。さっさと帰ろう」

  車に戻る頃には、時刻は22時を過ぎようとするところであった。が、いざ車に乗り込もうとした時、ハルは「あっ」と声を上げた。

  「ねぇねぇ、ガク。せっかくここまできたんだしさ、ちょっと『悪いこと』、しない?」

  悪戯っ子のような笑顔を浮かべて、ハルは声を潜めて言う。

  「悪いこと?」

  俺が聞き返すと、ハルはにひひ、と笑った。

  「夜だけど、冷たくて甘〜いもの、食べちゃいまーす! 鉄朗さんには内緒ね!『俺だけ省かれた』ってうるさいだろうから!」

  そう言うと、ハルは小走りでスープラから離れていく。

  「あ、おい!」

  俺の制止も無視して、ハルは振り返って手を振った。

  「すぐ戻るから、待っててー!」

  喧騒の人混みに紛れていく彼の背中を眺めながら、俺は深い溜め息をついた。

  「……全く。相棒なら、少しは俺の都合も考えやがれ」

  不貞腐れた独り言をこぼしながら、仕方なく俺も車を降りて、スープラのボンネットに腰を下ろした。俺の体重で強化サスペンションがわずかに沈み込む感触が、尻に伝わってくる。

  (しかし、本当に沢山の車がいるな……)

  そんなふうに考えながら周囲を見渡していると、不意に重厚なエンジン音が近づいてくることに気がついた。

  その車は俺の車の横、一つだけ空いていた駐車スペースに滑り込むように停まると、鋭いヘッドライトを落とした。夜の闇に溶けてしまいそうな、漆黒の流線型ボディ。ポルシェ911カレラだ。

  いかにもな金持ちの道楽車。初め、俺はそれを見て心の中で蔑んでいた。(日石の金で着飾った成金が、こんな泥臭いレースで勝てるわけがない)と。

  しかし、重厚な金属音と共にドアが開いた瞬間。そこから降りてきた二人の姿を見て、俺は肌が粟立つような『異質なもの』を感じた。

  無駄のないしなやかな筋肉と、ピンと立った耳を持つ純血のドーベルマン。そして、氷のように冷たい瞳をした漆黒の羽を持つカラスの鳥人。

  こいつらは、他の有象無象とは何かが違う。俺の中の野良犬としての本能が、警鐘を鳴らしていた。

  「……ネロ、エントリー手続きは俺が済ませてくる。長旅で疲弊してるだろう。お前はここで休んでろ」

  カラスの鳥人の男が、抑揚のない声で言う。

  「あぁ、頼んだ、エリアス」

  ネロと呼ばれたドーベルマンは、俺の視線になんて目もくれず、懐からタバコを取り出し火をつけた。

  そして、口に咥えて紫煙を吐き出すと、ようやくこちらに話しかけてきた。

  「何見てんだよ、雑種」

  その言葉に、俺の憎悪の炎が一気に燃え上がった。

  ネロは吸っていた途中のソレをアスファルトに投げ捨てると、高価な靴底で無造作に躙り消す。

  「そんな古い車で、よくこのラリーに参加しようと思ったな、雑種。頑張って金貯めても、それしか買えなかった、ってところか?」

  初対面の相手に対する、敬意を欠いた発言。そして純血エリート特有の、傲慢なセリフ。あぁ、俺はこれだから純血は嫌いなんだ。俺は、気がついたら彼の言葉に噛みついていた。

  「……こいつは、俺が実力で勝ち取ったもんだ。お前こそ、若いのによくもまぁそんな車に乗れたもんだな。親の金で買ってもらったのか? そんで、カスタムは『日石』の金で? はっ、典型的な成金坊ちゃんじゃねぇか」

  売り言葉に買い言葉。俺の挑発に、怒りを抑えきれなかったネロは、舌打ちひとつするとこちらに近づいてきた。

  「野良犬風情が調子に乗るなよ? 都民証はどうした? どうせないんだろ。お前みたいな雑種は、捨てられて当然だからな」

  それに、俺もだんだんと怒りが募っていく。

  「都民証なんて、隷属の証だ。ンなもん、誰が貰ってやるもんか。それに、どっちが野良犬だよ。……札幌からわざわざ出向いてきた、放蕩野郎が。純血のエリート様のくせに、実家の暖かい犬小屋に居場所がなかったのか?」

  俺はポルシェ911のノーズに取り付けられたナンバープレートを見て、鼻で笑う。札幌ナンバー。こいつはわざわざ、北の大地からやってきたらしい。

  「チッ、てめ……!」

  ネロは、そこまで言いかけると、不意に言葉を失った。俺の後ろの方を見つめて、口を開けたまま黙り込む。

  なんだ? そう思い振り返ると、遠くからこちらにかけてくる黄金色の存在があった。

  「ガクー! お待たせ!」

  肩で息をしながら、ハルは両手に何かを持って俺を覗き込む。

  「急いで買ってきちゃった! ん、と……言葉で言ってわかるかな? これ、ソフトクリーム! こっちの白いのが、バニラミルク味……まぁ、美味しい脱脂粉乳味? で、こっちの茶色いのがチョコレート味! どっちがいい……って、あれ?」

  ハルは、ソフトクリームを俺の手に押し付けると、ネロの顔をまじまじと見た。

  「……ドーベルマン! 君、ドーベルマン系なんだね! スマートでカッコ……」

  ハルは、ネロに柔和な笑みを浮かべて言う。だが、それを最後まで言い切る前に、ネロが動いた。

  「……綺麗だ!」

  黒い瞳を熱っぽく輝かせて、ハルの両肩を強く掴む。

  「俺、ネロって言うんだ。君の名前を、教えてくれないか?」

  ネロは、俺と対峙した時とはあからさまに態度を変えて、ハルに尋ねる。

  「僕はハル! そこのガクの、コ・ドライバーを担当させてもらってます!」

  自信満々に言うハル。それに、ネロは目を細めた。

  「そうか、ハルっていうのか。いい名前だね……」

  そして、ハルの頬に触れると、心底愛おしそうに言い放った。

  「こんな街に、そしてあんな奴に君はふさわしくない。どうだろう? 札幌の、僕の家に……」

  しかし、ハルは。

  「ごめん。僕、確かに君のことはスマートでかっこいいとは言ったけど、そういうのはちょっと……」

  呆気ないほど冷淡に手を払いのける。そして、俺の方を向き直ると、尻尾を振りながらソフトクリームの話をし始める。

  「さ、車で食べよー。チョコレートって、知ってる? 配給でも滅多に出回らないし、人気だから食べたことあるかな? って思って、買ってみたんだけど……」

  ネロに向けていた顔とは明らかに違う……なんと形容すれば良いのかわからないが、同じ笑みだが、全く違う表情(相棒への無防備な顔)を見せていた。

  それに対し、ネロはギリ、と歯軋りをすると、突然俺に拳を振るってきた。突然のことに、避けられないことを悟る。俺が硬直していると、その拳は何かに遮られ、止まった。

  「……ガクに、何しようとしてんの?」

  冷たい声が、ズシン、とそこにいた全員の鼓膜を揺らした。

  いつの間にか俺の前に割り込んだハルが、空いた片手で、ネロの渾身の拳をいとも容易く受け止めていたのだ。一切の感情が抜け落ちたダークブラウンの瞳。それにネロが完全に怖気付くと、ハルはまた、笑顔で俺に言った。

  「……ソフトクリームは、帰りながら食べよっか」

  そういうと、スタスタと助手席の方へ向かうハル。俺は呆気にとられながらも、小指と薬指を引っ掛けてスープラのドアを開けると、そのまま乗り込んだ。

  そして、ハルに両手に持っていたものを預けると、シートベルトをつけ、キーを回してエンジンをかける。

  キュルキュル、ドォォォォンッ!

  重厚なエキゾーストノートと共に、スープラのリトラクタブルヘッドライトがパカッと開き、アスファルトの路面を煌々と照らし上げた。

  バックミラー越しに、俺たちの乗ったスープラのテールランプを見つめ続けるネロの姿が、嫌に脳裏にこびりついてたまらなかった。

  大黒パーキングエリアを出て、車を東京方面へと走らせていると、ハルが手に持っていたソフトクリームを差し出してくる。

  「さっきはごめんね。なにか、話してたんでしょ?」

  先ほど、ネロ相手に見せていた気迫はどこへやら。ハルはおずおずと俺の機嫌を伺う様に声をあげる。

  「ん、いや。ちょっとした世間話だ」

  俺は白い方のソフトクリームを受け取ると、再び視線を真っ暗な前方の道へと移した。

  「……世間話で、殴りかかられること、ある?」

  心配そうな声音で、ハルは尋ねてきた。しかし、俺はそれを鼻で笑い飛ばす。

  「そう言う野蛮人もいるってことだ。でも、その……助けてくれて、ありがとな」

  俺が感謝を述べると、ハルははにかみながらソフトクリームを口にする。俺も、片手に持った白いそれを口に含む。

  「……冷た……それに、甘いな。『美味しい脱脂粉乳味』っていう表現はよくわかんないけど、これは美味い……と思う」

  言うと、ハルはバスバスとバケットシートを尻尾で叩いた。

  「それについてはそんなに考えないで! 君にわかりやすい説明、何かなって考えた時にそれしか思いつかなかったの! ……でも、美味しいでしょ? 東京じゃ、警視庁からの配給のものしか食べられないしね」

  ハルは昔を懐かしむ様に、舌先で茶色い塊を舐めとる。その美味そうな匂いと仕草に釣られ、俺は思わず口を開いていた。

  「な、なぁハル。その、チョコレート味ってのも、気になるんだけど……」

  「ん? ふふ、いいよ。分けっこしよっか」

  首都高湾岸線。朽ちたコンテナ群や瓦礫の間を走りながら、二匹の犬は巣へと戻る。甘い余韻とともに夜は更けていく。

  ──トーキョー・ラリーの開催は、思っていたよりもずっと早く行われることとなった。