湾岸アンダードッグ・アイドリング[第二部:バビロン・オーバーレブ]

  ──2037年、3月27日。例えるならこの日は、俺たちの人生が加速し始めた日であった。

  『トーキョー・ラリー』開催の話が、昨夜、鉄朗のガレージへと飛び込んできた。つい先日エントリーを済ませてからというもの、俺は、はやる気持ちを抑えて、ガレージに敷かれた硬いマットレスの上で横になる日々を過ごしていた。

  そして、今日。とうとう俺たちは、朝食もそこそこに急いでスープラに乗り込んで、新宿を発った。目的地は、エントリー会場としての役割も果たしていた、大黒埠頭の大黒パーキングエリアだった。

  「いやぁ、とうとうこの日が来たんだね!」

  助手席でハルは、分厚いモニターを操作しながら話す。そして、時折それを抱き締めては、「うわー、緊張するなぁ!」と、声をあげている。

  「……この闘いで勝てば、俺はこのクソッタレな生活から抜け出すことができる」

  俺は真っ直ぐ前を見据えると、小さく息を吐いた。それに、先程まではしゃいでいたハルは急に静かになる。

  「三日間。トーキョー・ラリーでの三日間で、俺の未来は変わるんだ」

  スープラのステアリングを握り、俺は言う。ハルは、息を呑んで俺の方をじっと見ていた。

  「俺にとって、このチャンスはもう二度と訪れないかもしれない、絶対に負けられない闘いなんだ。ハル、絶対に勝とうな」

  車は、道路上に放置された数多の放置車両をすり抜けながら、トンネルを進んでいく。照明が落ち真っ暗なその場所は、ハルの選んだライトによって煌々と照らされ、視界の不自由など何一つもなかった。

  「うん、そうだね、ガク!」

  ハルは頷くと、再びモニターに目を落とす。

  「いやぁ、でも流石日石だね。こんな古臭いモニターでも、比較的最新の情報が載ってる。多分ネットに繋がれば、随時情報が更新されると思うんだけど……」

  そんなことを言いながら、ハルはスイスイとそのモニターの表面をなぞっていく。

  「そう言えば、それこの前からずっと車に繋がってるけど、なんなんだ?」

  俺が尋ねると、ハルは急にグイ、と顔を近づけてきた。

  「知りたい?! これね、昔日石が開発した『リアルタイム・ロードコンディション・モニタリング・システム』っていう、独自のナビゲーション装置でね……」

  ハルは早口で捲し立てるように、俺に次々と言葉を投げかけてくる。

  あぁ、藪蛇だったか……俺は少し後悔しながら、湾岸方面へと車を走らせ続けた。

  東海ジャンクションを抜けたあたりで、不意に聞き馴染みのない機械音が車内に響く。直後聞こえてきたのは、酷く音割れした鉄朗の声だった。

  『あ、あー。テストテスト。おーい、聞こえてるか?』

  ハルは慣れた手つきでダッシュボードから、いつの間にやら取り付けられていた無線機を取り、応答する。

  「こちらハルです! 鉄朗さん、聞こえてますよ!」

  ハルはマイクに口を近づけ、声を張り上げて答えた。

  『うるさ……いや、もう少し声のトーンを落としてくれ、ハル』

  そう言われると、少ししょげた様子でマイクを離すハル。無線越しで、鉄朗は俺に声をかけてきた。

  『ガク、今日のステージはかなり分が悪い。コーナーも何もない、ほぼ直線のコースだ』

  その言葉に、俺は疑問をぶつける。

  「……待て、このレースって事前にコースは教えられてないはずだろ? なんでわかるんだ?」

  『それはだ……』

  「それはね!」

  俺と鉄朗の会話に、ハルが意気揚々と割り込んでくる。

  「それはね、ガク。トーキョー・ラリーは、スタート地点が大黒パーキングエリアの時、かなりの確率で首都高湾岸線か、横羽線を通って東京方面に戻ることが多いんだ!」

  ふふん、と得意げに鼻を鳴らして言うハルに、無線越しの鉄朗はため息を一つ吐いて言った。

  『まぁ、そういうことだ。だから、お前のナイトロに手を加えた。車重は増えるが、まぁ仕方ないだろう』

  鉄朗の言葉に、ハルはバッと後ろを振り返り、声を上げる。

  「……待って。いくらなんでも、この量のナイトロはおかしいでしょ!」

  それが気になって、俺もルームミラーを覗き込んでみる。すると、つい先日まで一本だったはずのナイトロのボンベが、後部座席のスペースに三本へと増設されていた。

  『いや、まぁ、直線勝負になるだろうと思ってな。なるべく長時間最高速を維持できたほうがいいと思って……』

  無線越しでも、ぼりぼりと頭を掻いているのが目に浮かぶほど、バツの悪そうな声だった。

  「でも、こんなに積んだら逆に車重が……」

  『まぁまぁ、そんなに気にするな! ハル、お前よりかは軽いんだから……』

  デリカシーのない発言。たとえ男相手でも、気にする奴は気にするぞ……。

  「ぼ、僕、確かに重いけど……こんなナイトロよりかは……」

  ほらな、酷くショックを受けたように、ハルの声は徐々に小さくなっていく。

  「鉄朗、テメェ……」

  『あ、いや、ハル。別にお前がお荷物だとかそんな話はだな……!』

  鉄朗は慌てて釈明をするが、ハルはしょんぼりと黄金色の尻尾を垂らした。

  車内ではそんなやりとりが繰り広げられ、これから命懸けのレースだと言うのに、やけに和やかな雰囲気が漂っていた。羽田空港ターミナルの前を抜け、車は多摩川トンネルへと入っていく。

  その時だった。

  『――緊急地震速報です。強い揺れに警戒してください』

  短いチャイムの音と共に、機械的な警告音声が無線から飛び込んできた。

  「ガク! ブレーキッ!」

  言われるがまま、俺は強くブレーキペダルを踏み込んだ。トンネルの中腹。タイヤが悲鳴を上げて停まってから一秒と経たないうちに、激しい横揺れがトンネル全体を襲った。

  『ま、まず……*ノイズの音*……』

  「鉄朗さん? 鉄朗さん?!」

  「ハル! 落ち着け!」

  車内は阿鼻叫喚に包まれた。周囲のアスファルトに取り残された放置車両や瓦礫が音を立てて揺れ、中にはバランスを崩して倒れ込むものもある。

  そして、コン、コン、と。不気味に天井を叩く音が響き始めた。

  「マズいッ! ガク、車出してッ!」

  「こ、こんなに揺れてるのにかよッ?!」

  強烈な揺れの中で困惑する俺に、ハルは声を荒げる。

  「いいからッ!!」

  俺がアクセルを踏み込むと、スープラは猛然と駆け出した。だが、地面自体が波打つような不安定な揺れに、危うくステアリングを取られそうになる。

  と、その時だった。

  ガシャアンッ! と凄まじい音を立てて、トンネルの天板が後ろから次々と落下してくるのが、バックミラー越しにはっきりと見えた。

  「ナイトロッ! ナイトロを使ってッ!」

  死が背後から迫る状況下で、ハルは異常なまでに冷静に叫んだ。

  「で、でもこんな路面で使ったら制御を……ッ!」

  反射的に反論する俺。しかし。

  「ここで死にたいのッ?!」

  ハルの心からの叫びに、俺はほんの一瞬の迷いを捨て、ステアリングのスイッチを押し込んだ。増設されたナイトロが火を噴く。

  グォァアッ!!

  車は獣のような唸り声を響かせながら、ひび割れた路面を蹴り、目の前に見える出口の光に向かって弾丸のように駆けていく。

  揺れがようやく収まる頃、俺たちは土煙を上げて崩れゆくトンネルをギリギリで抜け出していた。

  「……流石に、死ぬかと思った……」

  俺が肩で息をしながら言うが、ハルは至って冷静だった。

  「……これで、このルートは使えない。湾岸線方面のコースが選ばれてたとしたら、必然的に大師の方へ迂回する必要が出てくるね……」

  ハルは落ち着いて、呟くように言う。

  「でもこれは、チャンスかも」

  そう言うと、俺の肩をガッと掴んだ。

  「横羽線での戦いなら、大黒線の方に出た直後で少しだけナイトロを使って、タイムを縮めよう。その後は……絶対とは言い切れないけど、ほぼ確実に横羽線を走らせるコースを取るだろうから、そこでナイトロを一気に噴射。一本使い切って、残りは不測の事態用に温存。湾岸線の戦いなら……」

  冷たい目をして、早口で捲し立てるハルに、俺はただ頷くことしかできない。言っていることはほとんど理解できていないが、要は『直線でナイトロを使え』ということだ──そんなことを考えていた時。

  『……い、おーい! 大丈夫だったか?!』

  無線から、酷く焦った鉄朗の声が聞こえてきた。その響きは、本気で俺たちの安否を心配してくれているものだった。

  「あ、鉄朗さん! そっちは大丈夫だった?!」

  ハルはその声に、いつものふんわりとした調子で返す。こいつはレースのこととなると本当に人が変わるようで、見ていて正直心臓に悪い。

  俺はステアリングにもたれかかると、ふーっと深く息を吐いた。

  「……うん、わかった。じゃあ、また後でね」

  俺が一息ついている間にハルは通信を終え、こちらに声をかけてきた。

  「鉄朗さんのガレージ、被害はほとんどないって。でも、だいぶ散らかったから、帰ってきたら片付け手伝えってさー……ガク、大丈夫?」

  いつもの調子に戻ったハルは、俺の顔を覗き込んで心配そうに声をかける。

  「いや、その……大丈夫だ。早く大黒に行こう」

  俺は姿勢を整えると、再び前を向いた。

  バックミラーには、もうもうと土埃が舞う首都高多摩川トンネルの崩れた姿が映っていた。

  ──大黒パーキングエリア。

  つい先日、エントリーのために訪れた時は数多の改造車でごった返していたが、今日この場所に停まっている車は、あの時の半分ほどに減っていた。

  日和って尻尾を巻いて逃げたか、道中で警察に捕まったか、あるいは単純に車が壊れて来れなくなったか。いずれにせよ、この命懸けの舞台から降りた連中は、ただの勝手な奴らだと思った。

  「あの日に比べたら、随分と人が少ないね」

  助手席から降り立ったハルの言葉に、俺は短く頷く。

  「あぁ。本当に勝手な奴らだ」

  俺は冷え切った夜風の中で軽く首を鳴らし、スープラから離れてトイレへと向かった。

  「あ、トイレ? じゃあ、僕も行こうかな……」

  小走りで後を追いかけてきたハルが、少しだけバツが悪そうな、申し訳なさそうな顔で俺を見上げる。

  「……ごめん、ちょっと大きい方だから、先に出て待っててもらえる?」

  その声は、少しだけ上擦っていた。

  あぁ、さっきの極限のドライブからずっと我慢していたんだな……。先程まで冷徹にルート計算を弾き出していたコ・ドライバーの、ひどく人間らしい(いや、獣らしいと言うべきか)一面を再認識し、俺はほんの少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。

  「わかった。俺はションベンだから、出てすぐのところで待ってる」

  そんなことを言い合いながら、俺たちは並んで公衆トイレへと入っていった。

  いかに東京が荒廃しているとはいえ、日石の強固な管理下にある大黒埠頭の施設は、どれも異常なほど綺麗な状態で保たれていた。清掃の行き届いた無機質なタイル張りの床を歩き、いそいそと個室の奥へと入っていくハルを尻目に、俺は小便器の前に立った。

  ファスナーを下ろし、溜まっていたものを解放する。極限のレースを前にしては、こういう生理的な休息すらも、神経をすり減らすレース前の重要な儀式だった。

  静かに響き渡る水音を聞きながら、俺は目を閉じ、これから始まる戦いへ向けてゆっくりと息を吐き出した。

  ……だが、その静寂は長くは続かなかった。

  カツン、カツン。

  背後の入り口から、硬い靴底がタイルを叩く、ひどく傲慢な足音が近づいてくる。

  「野良犬。こんな所でマーキング中か?」

  鼓膜を撫でるような、底冷えのする低い声。振り返らなくともわかった。

  「……あぁ。ここらにお前の居場所なんてねぇからな、えーっと……」

  俺は余韻を振り払うように雫を切り、ファスナーを上げながら声の主を正面から睨みつけた。

  そこにいたドーベルマンは、自分の名が呼ばれるのを今か今かと待ち構えているような、不遜な笑みを浮かべていた。

  「わりぃな、名前……忘れたわ。いちいち放蕩野郎の面を覚えておくほど、俺のメモリには余裕がねぇんだ」

  「チッ、テメェ……!」

  その時だった。トイレの個室から、ガラガラとトイレットペーパーを急いで引き出す音が響いた。焦燥に駆られたようなその音の主に、俺はあえて平静を装って声をかける。

  「大丈夫だ、ハル。ゆっくりしてろ」

  その言葉を放った瞬間、個室の音はぴたりと止んだ。

  「ハル……? あのゴールデンレトリバーも、そこにいるのか」

  ネロはそわ、と俺の背後にある個室を覗こうとする。俺は反射的に、まだ洗っていない手でその胸ぐらを掴んだ。

  「純潔同士、仲良くつるむのは結構だがな……あいつは、俺の……」

  啖呵を切ったはいいが、俺はそこで言葉を詰まらせた。ハル、あいつは俺の……何だ?

  答えを探して思考が揺らいだ隙を、ネロは見逃さなかった。俺の手は強引に掴み取られ、そのまま悲鳴を上げるほどに捻り上げられる。

  「汚ねぇ手で触れるな、雑種。ここは野良犬の臭いがきつすぎて、もう限界だ。続きは外でつけてやる」

  ネロは俺の腕を掴んだまま、強引に引き摺っていく。ドーベルマンの長い脚が生み出す歩幅に、俺は悔しさを噛み締めながら、着いていくだけで精一杯だった。

  「……いい加減、離せよッ!」

  駐車場を無理やり歩かされ、いい加減嫌気が差してきた頃。俺はあの札幌ナンバーのポルシェ・911が落とす、漆黒の影へと連れ込まれていた。

  「ここなら、邪魔も入らないだろ」

  ネロは辺りを見渡して周囲に誰もいないことを確認すると、俺の胸ぐらを掴み、ドン、と冷たい車体に背中を叩きつけた。

  「目障りなんだよ。今すぐこの場から消え失せるか、あるいは……少し、痛い目を見てみるか?」

  ニヤリと歪んだ笑みを浮かべ、彼はパッと手を離した。俺はアスファルトに叩きつけられ、肺から無理やり押し出された空気の代わりに、焦燥と冷気を吸い込んで咽せた。だが、悪夢は始まったばかりだった。

  「野良犬の『やり方』で、格の違いってものを分からせてやるよ」

  俺の服の襟元に太い指が潜り込み、次の瞬間、首筋に鋭い痛みが走った。

  ぷつ、と皮が破れ、温かい血がとく、と溢れ出す感覚。首筋を噛みちぎるようなその行為は、捕食者の傲慢そのものだった。

  「や、やめろッ! 気色悪いッ……!」

  必死に抵抗し、拳を叩き込む。だが、大型種と中型種の力の差は、糠に釘のような徒労感しか生まない。

  「フン。一丁前に、汚れるのがそんなに嫌か? 色々な血が混ざり合った、混ざり物の雑種のくせに」

  ネロは、俺の腰のあたりに硬い質量を擦り付けてきた。それが何を意味するのか、理解できないほど俺は子供じゃない。

  ヤバい。

  経験が全くないわけではない。だが、この状況下で押し付けられるそれは、激しい吐き気と底知れない絶望を伴っていた。こんな無秩序な闇の中で、助けを呼んだところで誰も――。

  「ぁ、あ……」

  喉が萎縮する感覚を、俺は初めて知った。

  恐怖で声が出なくなる、心臓の音が耳元で爆音を奏でる、あの最悪の感覚。

  「怖いか? ……ようやく、俺に屈する気に――」

  ネロが勝ち誇ったように喉を鳴らした、その時だった。

  パタパタパタ。

  遠くから、アスファルトを激しく蹴るスニーカーの音が響いた。

  「……ふーっ……ふーっ……何してやがる、テメェ」

  地に響くような、心底どすの効いた声。

  そこに立っていたのは、今まで一度だって見たことがないほど、形相を鬼のように変えてネロを睨みつけるハルだった。

  「ハ、ハルッ……これは、その……」

  彼の姿を見たことで、凍りついていた俺の思考にわずかな熱が戻る。同時に、見せたくなかった醜態を晒している自分への、無益な自尊心が頭をもたげた。

  だが、ハルは俺の動揺など眼中にない。彼は迷いなく拳を振り上げ、黒い毛皮を纏った駄獣へと殴りかかった。

  俺はその光景から目を背けたくて、固く目を瞑る。だが、肉が弾ける鈍い音は、いつまで経っても響かなかった。

  「……ゴールデンレトリバーのお兄さん。その拳を、どうか収めていただけませんか?」

  恐る恐る目を開けると、そこにはハルの必殺の拳を、両手で優しく包み込むように受け止めているカラスの鳥人がいた。

  「……エリアス」

  ネロは、カラスの鳥人を見てそう言った。エリアス。確かに、エントリーのあの日もネロは彼をそう呼んでいた。

  「……離してください。僕はこいつを徹底的に……」

  ハルはグッと腕を動かそうとするが、エリアスは涼しい顔でそれを抑え込んでいる。

  「ハルさん、でしたよね? この度は、私のドライバーが貴方の相棒に粗暴な振る舞いを働き、本当に申し訳ありませんでした。ですが、どうかその拳を下ろしていただけませんか?」

  丁寧な声音で、エリアスはハルを落ち着けようとする。そして、視線を鋭く落とした。

  「ネロ。すぐに彼から離れろ。レース前に無用な問題を起こしてどうする」

  ネロを見下ろし、絶対零度の冷ややかな視線を向けた。それにネロは忌々しげに舌打ちを一つすると、ようやく俺を拘束していた手を離した。

  直後、ハルがすぐに駆け寄ってきて、俺の体を庇うように優しく抱きしめる。

  「ごめん……君の言うことなんて、聞かなければよかった。あのドーベルマン、顔も名前も覚えたから」

  優しい動作とは裏腹に、極めて物騒なことを静かに呟くハル。それが聞こえたのか、ネロがわずかに後ずさりをした。

  その瞬間、パンッ、と乾いた音が弾けた。

  見れば、エリアスがネロの頬を容赦なく張り倒したのだ。

  「お前は感情的になりすぎるきらいがある。私が完璧に描く走りに、お前のそれはただのノイズだ」

  ……こいつもこいつで、底知れずヤバい奴なのかもしれない。ハルの大きな肩越しに見えたその異常な光景を、俺は黄金色の獣には伝えなかった。

  数分後。俺たちはネロを除いた三人で、休憩所のベンチに腰掛けていた。

  お詫びと称してエリアスから差し出されたフライドポテトを無心で詰め込んでいるうちに、そのジャンクな塩気と温かさで、先ほどの極限の恐怖が少しずつ上書きされていく。野良犬の悲しい性か、腹に食べ物が入ると、どうしたって落ち着いてしまうのだ。

  「はい。鉄朗さんというメカニックと、ドライバーのガク。そして、コ・ドライバーの僕、ハルの三人組でチームを回しています」

  ハルとエリアスの間には、奇妙なほど穏やかな空気が漂っている。俺は目の前の食事を胃に流し込むのに必死で、コ・ドライバー同士の高度な会話の詳細までは頭に入ってこなかった。

  「ガクってば、本当に食べるのが好きなんだから」

  ハルがふふ、と笑って言うと、エリアスも穏やかな笑みを浮かべる。

  「本来であれば、この程度で済む話ではありませんがね。まさか、私のドライバーがあのような真似をするなんて、思ってもみなかったもので」

  エリアスが再び深々と頭を下げると、ハルは苦い顔をした。

  「僕としては、ネロさんがきちんとガクに謝って欲しいところなのですが」

  そう言って、ハルはぎゅっ、と俺を大きなぬいぐるみか何かのように抱きしめる。俺はそばにあったジュースを飲みつつ、強がって言った。

  「俺は別に、そこまで、気にしてないぞ」

  ゴクゴクと音を立てながら減っていくオレンジジュース。エリアスは、そんな俺を見て改めて謝罪の言葉を述べた。

  「本当に、怖い思いをされたでしょう。ネロは運転の腕は確かなのですが、出会った当初から他者には暴力的で。言ってはなんですが、私も手を焼いているのです」

  はぁ、とため息を吐き、首を垂れるエリアス。

  「いやいや、ほんとに大丈夫ですって。こんなに美味しいもの、たくさん食べさせてもらって……」

  ズゾゾッ、と最後の一滴までしっかり吸い取ると、俺はストローから口を離した。

  「……そういえば、そろそろコース発表の時間じゃないのか? ハル、今何時だ?」

  俺が言うと、ハルは慌てて時計を見る。

  「やばっ、もう五分前だ。早く行かなきゃ。エリアスさんも、一緒に行きましょう!」

  ハルはいそいそと机の上を片付けると、俺の手を引いた。

  「ほら、急ごっか」

  引っ張られたその肉球は柔らかく、先ほどのネロの暴力的な手とは違い、酷く温かいような気がした。

  大黒パーキングエリアの駐車場の一角。そこにはすでに、二人組や、単独でパイプ椅子に腰を下ろしている者たちの姿があった。並べられたパイプ椅子はどれも赤茶色に錆び付いており、誰かが身じろぎするたびに、どこからともなくギシギシと不快な音が鳴り続けている。

  到着がギリギリだった俺たちは空席を見つけることができず、最後尾で立ち見をする羽目になっていた。

  「危なかったね。結構ギリギリだ」

  ハルが苦笑いしながら言うと、隣に立つエリアスも静かに同調した。

  「座れないのは少々残念ですが、致し方ありません。話と言っても、簡単なルール説明と、今日のレースに関わる指定ルートを端的に言うだけでしょう。そこまで長引きませんよ」

  そんなことを言っていると、薄暗い駐車場の奥から、マイクを持ったスーツ姿の虎獣人が歩いてくるのが見えた。この荒廃した世界で、仕立ての良いスーツを着こなしているという事実だけで、彼が日石側の、あるいはそれと同等の権力を持つ運営側の人間であることが嫌でも理解できた。

  「始まるみたい」

  ハルの言葉とほぼ同時に、鋭いマイクのハウリング音が夜気に響き渡った。

  「どうも、皆様こんばんは。本日は『トーキョー・ラリー』へのエントリー、誠にありがとうございます」

  前置きもそこそこに、虎獣人は抑揚のない声で本題を話し始めた。

  「本部から指定するルールは、以下の通りになります。

  一、順位はチェックポイント通過時の累積タイムで決定される。

  二、指定したチェックポイントさえ通れば、コースの選択は自由。

  三、ラリーは全部で三日間。その日のレース開始までのカスタムや修理は原則自由とするが、レース中に登録車両が走行不能になった時点で、その選手は即失格となる。

  ……以上、本部からのルール説明でした」

  あまりに淡々とした口ぶりに、何か裏に隠された本当に重要な罠があるのではないかと勘繰ってしまうが、そんな俺の疑念を他所に、虎獣人は手元のバインダーへ目を落とした。

  「……それでは、第一レースのチェックポイントを発表します。今から読み上げる箇所は『通過必須』となりますので、可能な方はメモをお取りください」

  会場中に、紙がパラパラと捲られる音が響く。ハルもエリアスも、どこから出したのか、手元にノートとペンを構えていた。

  「スタート地点はここ、大黒パーキングエリアです。

  第一チェックポイントは、川崎浮島ジャンクション。

  そして第二チェックポイントは、東海ジャンクション――」

  そこまで言ったところで、ハルが鋭く声を上げた。

  「運営さん! 発言よろしいでしょうか?」

  ハルのその声に、虎獣人はぴたりと口を噤む。そして、感情の読めない金の双眸をこちらへ向け、静かに言った。

  「発言を許可します」

  その言葉に、ハルは臆することなく声を張り上げた。

  「先ほど地震があったことはご存知かと思いますが、その際、首都高湾岸線の『多摩川トンネル』で大規模な落盤事故があったことはご存知ですか?!」

  その言葉に、パイプ椅子に座っていた参加者たちが一斉にざわついた。中には独自のネットワークで知っていた奴もいたのかもしれないが、ここにいる大半の連中は、気合を入れて早朝からこの大黒埠頭に留まっていたに違いない。

  しかし、運営の虎獣人は表情一つ変えず、冷徹に告げた。

  「無論、存じ上げております」

  そのひと言で、場にさらなる動揺が広がった。

  「それでは、チェックポイントを変更して、安全な横羽線を通るルートを推奨するべきではありませんか?!」

  ハルが必死に畳み掛ける。だが、運営が下した決断は、この世界を象徴するような非情なものだった。

  「……第一チェックポイントの川崎浮島ジャンクションから、第二の東海ジャンクションまでは、大師方面を経由して迂回することが可能です。その為、チェックポイントの変更は一切ございません。他に質問が無いようでしたら、お静かに願います」

  口元に人差し指を立て、ハルの方を見据える虎獣人。その威圧的な態度に、参加者たちのざわめきは恐怖と混乱を含んだものへと変わっていった。

  「迂回しろって……じゃあ湾岸線自体が、崩落の危険があるってことかよ?」

  「ふざけんな! こっちは直線番長なカスタムで来てるのに、大師のコーナーをどうしろってんだ……!」

  「や、やっぱり俺、参加やめようかな……」

  ざわざわと、参加者たちの後悔や疑念の思いがどす黒く渦巻く中。

  運営の男はそれらを完全に無視し、ゴールの品川駅前までの残りのチェックポイントを、ただ淡々と、機械のように読み上げていくのみであった。