大黒テールエンド・ローンチ[第二部:バビロン・オーバーレブ]

  ──厳正なる抽選の結果、俺たちのスタート位置は最後尾に決定した。

  対するネロのポルシェは、三番手という絶好のポジション。出来レースを疑いたくなるような理不尽さに俺が舌打ちをした時、助手席のハルは、むしろ有利だとでも言いたげに無邪気に微笑んだ。

  「最後尾なんて、最高じゃない! だって、前の車がどんな走りで、どんなルートを通っていくか、特等席で全部見てられるんだよ?」

  そう言うと、ハルは場違いなほど軽快な鼻歌交じりに、日石の分厚いモニターを起動させた。俺はそれを横目で見ながら、出走車が集まるスタートグリッドへと重たいスープラを這わせた。

  スタートライン付近には、今か今かと開放の時を待ち望み、凶暴なアイドリング音を唸らせる数十台の車がひしめき合っていた。

  「あ、見て。エリアスさんだ!」

  ハルが遥か前方を指差して言う。彼が指し示した先、白昼の陽光を反射する車列の中に、漆黒のポルシェの艶やかなルーフが見えた。運転席のネロと、助手席で彼を冷徹にコントロールしているであろうエリアスの姿が、遠目にもはっきりとわかる。

  「……絶対に、勝とうな」

  俺は冷たい金属の感触が残るシフトノブを力強く握り締め、自分に言い聞かせるように呟いた。するとハルが、

  「もー、そんなの当たり前でしょ!」

  と、緊張感の欠片もない調子で俺の肩をポンッと叩いて返した。

  眼前に広がるのは、最新の電子制御で武装された高級外車や、俺たちのようなスラムの住人には一生縁のない純血種たちのスポーツカーばかり。それらが吐き出す、ハイオクガソリンのむせ返るような排気ガスをフロントガラス越しに浴びながら、俺はガリッ、と奥歯を軋ませた。

  バギャァアッ!!

  けたたましい爆音を立てて、先陣を切る車たちが次々とスタートラインを蹴り出していく。ネロたちが乗った911・カレラも、鼓膜を劈くようなエキゾーストノートを残し、シグナルと共に弾丸のように消えていった。

  「……すげぇ迫力だな」

  俺が思わず感嘆の声を漏らすと、ハルも同調するように頷いた。

  「ね! あぁ……なんだか、すごくドキドキしてきた。少しだけ足、震えてきちゃったよ」

  見れば、確かに彼の足は小刻みに震えている。しかも、どこか熱に浮かされたように呼吸まで少し荒い。あのハルがここまで緊張するなんて、相当なプレッシャーを感じているのか?

  俺がどう声をかけようかと思案していると、ハルは誤魔化すように慌てて言った。

  「こ、これは武者震いだから! ……大丈夫。僕たちは、絶対に勝てる」

  何度も首を縦に振りながら、ハルは自身に言い聞かせるように「大丈夫、大丈夫……」と繰り返していた。

  とはいえ俺も、少なからず焦燥感を覚えていた。

  あんな成金どもに負けるわけがないと信じてはいるが、圧倒的なマシンスペックの差は事実だ。ステアリングを握る手に、じっとりと汗が滲む。

  出走順が最後尾の俺たちは、それから二十分近く、排気ガスの充満する大黒で無為な時間を過ごすことになった。数分おきに先行車両が爆音を響かせて出発していくのを、ただ見送るしかない。

  イライラと指でステアリングを叩いていると、

  「あ、レースの様子、見られるよ! ほら、このモニターで!」

  ハルがやけに弾んだ声で、手元の画面をこちらへ向けてきた。覗き込むと、そこには日石の追尾ドローンが捉えたネロの911だけが、特別枠のように映し出されていた。

  『速い! 速いぞネロ選手! まさか二番目に出走した厚木選手を早くもオーバーテイク! 現在の区間記録、堂々のトップです!』

  無線の実況の声に、俺は息を呑んだ。オーバーテイク? 区間記録一位?

  どんなカスタムを施し、どんなイカれたライン取りをすれば、あんなタイムが叩き出せるんだ……?!

  モニターに表示されたタイムラインを見ると、先にスタートしていたネロの911は、まもなく川崎浮島ジャンクションに入るところだった。モニターのマップ上を走る赤い光点は、迷うことなく左へ弧を描く。大師方面を経由する迂回ルートだ。

  だが、恐ろしいのはそのコーナリングスピードだった。複雑なカーブの連続でも大して失速する様子もなく、エリアスの完璧なナビゲートによって一定の超高速を維持したまま、赤点はスルスルと進んでいく。

  「……これは、少しまずいかもしれないね」

  ハルはモニターを見つめながら呟いた。そして、続く二台目、三台目の車を示す光点を指で追っていく。そのどれもが、ネロに続くように迂回路を通るコースを選択していた。

  「……何言ってんだよ、ハル!」

  弱音とも取れるハルの言葉に、俺は思わず吠えていた。

  「俺たちにだって、武器はある! 鉄朗が積んでくれたこのナイトロで、直線をぶっちぎればいいんだ!」

  俺の言葉に、ハルは何かを案ずるような、それでいてどこか楽しげな仕草で目を伏せた。

  と、その時。

  「ガク選手、ハル選手! 次、出走の番です!」

  とうとう、俺たちに最後尾の出走順が回ってきた。俺は深く息を吐き、スープラをじりじりと前へ動かした。

  地面のガタつきなどなく、スムーズに極太のタイヤが回る。時折ガコッ、とジョイントを踏み、車が上下する硬い感触のみが伝わってくる。いかに東京が崩壊しようとも、日石がこの大黒周辺のインフラ維持にどれだけの血と大金を注ぎ込んでいるかが分かる。ステアリングから伝わるこの不気味なほどの平滑さだけで、それが嫌というほど理解できた。

  一つ一つの感触を脳裏に刻み込みながら、俺はスタートラインのスレスレに車をつけた。

  周囲の音が、スッと遠のいて消える。

  俺の耳に直接届くのは、自分の荒い呼吸音と、フロントに収まった『1G-GTE』――鉄朗が限界までチューンを施した2.0リッター直列6気筒エンジンが放つ、地鳴りのようなアイドリング音だけだった。

  プ、プ、プ、プアァァン!

  電子的なシグナル音が、俺の鼓膜を容赦なく揺らす。

  フロントガラスの向こう、赤く灯っていたランプが、網膜を灼くような青へと切り替わった。

  俺がクラッチを蹴り繋ぐと同時に、俺たちを乗せたスープラは狂ったような咆哮を上げて駆け出した。

  ドォォン! と背後から蹴り飛ばされたような凄まじい加速Gに、俺の身体は硬いバケットシートに深く押し付けられた。増設されたナイトロボンベ三本分の凶悪な質量が、車体全体を後ろへ引っ張ろうとする。だが、歴戦の相棒である1G-GTEのトルクが、その重さを強引にねじ伏せてアスファルトを蹴り飛ばしていく。

  だが、隣のハルは、その凄まじいGの中でも前に顔を向けず、ずっと手元のモニターに視線を落としたままだった。

  「おい、ハル! 他の車なんて見てないで、ちっとはレースをだな……!」

  俺が焦燥感から責めたてると、ハルは弾かれたように顔を上げた。

  「あ、ごめんごめん! 考え事しててさ……」

  俺が怒っているというのに、ハルは何かを誤魔化すように、どこか楽しげな笑みを浮かべてモニターを下ろした。

  俺たちは大黒パーキングエリアの崩れかけた料金所のゲートを抜け、本線へと続く巨大なループ線へと突っ込んだ。

  ここまでは日石によって不気味なほど丁寧に維持された舗装路だったが、ここから先は違う。無法地帯のリアルだ。鉄朗が組んだ硬いサスペンションですらいなしきれない、暴力的な突き上げと揺れが車内を容赦なく襲う。

  「うわ、っ、すっご! これ、さっきの地震のせいかな?!」

  ガタガタと揺れる車内で、ハルが途切れ途切れの声を上げた。

  スープラは重たい車体をきしませ、荒々しい直6の唸り声を上げながら、急カーブの続く細いループ路をねじ伏せるように登っていく。

  「この前帰った時とは違って、路面がかなり荒れてるみたい! 酷い段差は都度言っていくけど、ガクも気をつけて!」

  遠心力による強烈な横向きのGに身体を持っていかれそうになりながら、ハルは声を張り上げる。俺はそれに無言でうなずき、反発してくるステアリングを力ずくで切り込み続けた。

  増設したナイトロ三本分のハンデは確かに重いが、タイヤはまだ新品同様で一切摩耗していない。強引な荷重移動さえミスらなければ、グリップの力だけで十分に曲がり切れる。俺は額に滲む汗を拭う余裕もなく、ただ路面と車の限界値だけを身体で感じ取っていた。

  やがてカーブの曲率が次第に緩やかになり、俺たちはとうとう、東京へと続く大動脈――『首都高湾岸線』へと合流を果たした。

  だが、俺の視界に飛び込んできたのは、見慣れた直線のハイウェイではなかった。先ほどの強烈な地震の影響だろう。最高速を競うはずのフラットな三車線には、崩落した防音壁やひび割れたアスファルトの残骸が、まるで意地悪な障害物のように無数に散乱していたのだ。

  その光景に俺が舌打ちをした直後、ダッシュボードの無線機から、聞き覚えのあるノイズが車内に響いた。

  『……おい、俺だ。お前ら、コース教えろ。結局、横羽だったのか?』

  鉄朗の焦ったような声だった。ハルはそれに、少しだけトーンを落とした真剣な声で答えた。

  「……湾岸です。チェックポイントは……」

  ハルが、第一チェックポイントの川崎浮島から大師方面へ迂回し、東海ジャンクションに戻って品川へ向かうという、コーナーだらけの非情なルートを伝えると、無線越しの鉄朗は痛ましげな声を上げた。

  『……すまねぇ。今回ばかりは、完全に俺の思慮不足だった。まさかあの地震で、多摩川トンネルが崩壊して迂回させられるなんて、思いもしなかったもんで……』

  直線用の重たいナイトロを大量に積んでしまった己のセッティングを、鉄朗は心底悔やんでいるようだった。だが、ハルは特段責め立てることもなく、むしろ明るい声でこう返した。

  「ま、多少重りが乗ってたとしても、ガクなら多分、どうにかしてくれるからね! ね、ガク!」

  助手席からの無条件の信頼。その言葉を向けられ、俺は少し照れ臭いような、それでいて腹の底から熱いものが込み上げてくるのを感じた。

  「……バカ野郎、ハードル上げんな」

  悪態をつきながらも、俺の右手は自然と、ステアリング横に増設されたナイトロの点火スイッチへと伸びていた。

  「まぁ、ドベで終わるってことにはならないようにしてやる。……とりあえず、ハル。このナイトロはどうする?」

  俺が前方を見据えながら尋ねると、ハルは事も無げに答えた。

  「ん? あぁ、今、目の前の瓦礫のせいで道がシケインみたいになってるでしょ? これがあと二百メートルくらい続くから――それが終わった瞬間の直線で、一気に噴射して」

  ハルは悠々とそう言い放つと、再び手元のナビモニターへと視線を落とした。

  巨大なコンテナやひび割れたアスファルトが複雑に散乱しているシケイン区間は、まさに最悪の視界だった。巻き上がった土埃と排気ガスが、白日の太陽を遮り、周囲を淀んだ灰色に塗りつぶしている。十メートル先すら判別がつかない。

  しかし、助手席のハルは、まるですべてが透けて見えているかのように、迷いのない声で指示を飛ばし始めた。

  「右、三ショート。三十、左、一オープン三、五十……」

  

  呪文のような記号の羅列に、ステアリングと格闘するように回していた俺は混乱して叫んだ。

  「おい、そんな暗号みたいなこと言われてもわかんねぇよ! ハル、もう少し分かりやすく言え!」

  俺の悲鳴に近い抗議に、ハルはモニターから顔を上げ、不満げに鼻を鳴らした。フサフサの尻尾が、バスバスとバケットシートを叩く。

  「もー、せっかくラリーっぽいことして雰囲気出してるんだからさ、事前にこういうのくらい把握してきてよ!」

  ハルは子供のように頬を膨らませると、フン、とそっぽを向いた。

  「あー、悪かったよ! でも案内がないとマジで困るから、頼む、道を見てくれ!」

  俺が必必懇願すると、彼は口を尖らせながらも再びモニターへと向き直った。

  「でも、もうシケインは終わりだもん。これ以上言うことはないよ」

  画面をス、ス、と操作していたハルが、ふと声を上げた。

  「……ん?」

  「なんだよ」

  「二、三台前の選手が、全員まとめてリタイア扱いになってる」

  「情報のミスじゃねぇか? こんな場所、事故る要素なんてねぇだろ」

  俺はハンドルを切りながら、横目でハルを見た。彼は顎に手を当てて、首を傾げている。

  「まぁいいか。僕たちも注意しよう。あ、次のコンテナで障害物は最後。左車線、ナイトロ全開で走って!」

  ハルがモニターから目を離し、周囲の観察を始める。俺も、横転しているトレーラーと、倒れかけの防音壁の横を通り過ぎようとした。ここから直線なら、もうナイトロを噴射しても大丈夫だろう。

  その慢心が、命取りになるとも知らずに。

  グォァアッ!!

  火を噴くような勢いで加速するスープラ。予定通りシケインを通り過ぎたその先には――玉突き事故を起こし、道いっぱいにロードブロックのように広がった、無残な外車たちの群れがあった。

  「……ッ!!」

  距離にして、およそ百メートルほど先の事態。とてもじゃないが、ブレーキ程度では対応しきれないと悟る。車の時速は、すでに百五十キロを超えていたのだ。まずい。しかも、この路面状況でフルブレーキなんてしたら、なおのこと……。

  「やべ……ッ!」

  俺は慌ててギアを落とそうとした。しかし、それを阻むものが。

  「ハル?!」

  俺の左手を握り、意地でもギアを下げさせまいとするハル。俺は、その真意を知る前に次の行動を指示された。

  「ナイトロ噴射したまま、ステアリングを左に!」

  「はッ?!」

  「ぶつかるッ!! 早くッ!!」

  そんなこと言ったって、左側は大きく倒れかけた防音壁で……。

  しかし、ハルはまた、"あの声"で言った。

  ハルのダークブラウンの瞳が、モニターの光を反射して金色にぎらりと輝いた。

  「指示に従えッッ!!」

  俺は思わず、ステアリングを切る。

  ガォンッ! と音を立てて、左の車輪が路肩に乗り上げる。

  「もっとだッッ!!」

  そう言って、ハルは俺の操作するステアリングに手を伸ばし、グイ、と引いた。直後、チュィン! と天井が、無残に散っていった車の死体に擦れる音がする。

  「早く道路に戻ってッッ!!」

  左に曲がれと言ったり、今度は戻れと言ったり。本当にコイツは忙しい奴だ。しかし、そうも言っていられない状況なのは、自分でもよくわかっていた。

  今、俺たちは崩れかけの防音壁の上を走っていた。スープラの車重に耐えきれず、そこはどんどんバランスを崩していく。

  ギィィィ……と悲鳴を上げて、防音壁が沈んでいく。視界も徐々に下がり、このままでは崩落に巻き込まれると、俺は悟っていた。

  ガタン、ガタンッ!!

  ステアリングを右に切ると、車体は大きな着地音を立てて道路に戻る。

  『……おい、*なにかを啜る音*。なんか今、凄い音がしたが、何かあったのか?』

  無線の先では、呑気に何かを啜っている鉄朗の声がした。

  「……マジでこのラリー、命がいくつあっても足りねぇわ……」

  俺はそんなふうに呟きながら、背後で白昼の空へ立ち上る黒煙を眺める。

  「……こんなの序の口だよ」

  ハルは冷静に吐き捨てると、無線に向かって言った。

  「事故りかけたけど、ガクの運転スキルのおかげで無事突破。あと鉄朗さん、今すすってるヌードル、誰のだか後で教えてね」

  俺は改めて、ハルは頭のネジが飛んでいるのではないかと思った。あんなことがあったのに、鉄朗がつまみ食いしている配給のことを話題に出せるのだから。無線は直後、応答しなくなった。

  「ガク、勝負はこれからだよ。さ、運転に集中して」

  ハルは前を向くと、大きく息を吐いた。

  車は扇島を抜け、日差しに照らされた廃墟の海風を切り裂きながら進む。

  東扇島ジャンクションを過ぎる頃。ずっと沈黙を保っていたハルが、信じられないものを見たように「嘘……」と小さく呟いた。

  「どうかしたのか?」

  俺が声のトーンから異変を感じ取って尋ねると、ハルは少しの沈黙の後、震える声で口を開いた。

  「ネロさんたちのペアが……先行車両を全部追い抜いて、今、ゴールしたって……」

  「……は?」

  俺はその言葉に、ただ息を呑むことしかできなかった。

  大師方面への迂回路を選択して、なお、そのようなタイムでゴールしたというのか? それも、先頭車両までオーバーテイクして?

  1G-GTEの唸り声すら遠のき、ステアリングを握る俺の手が震えた。

  「この勝負……勝てるのかよ……!」

  俺はまた、歯軋りをする。マシンのスペックは、チューニングしてあるとはいえ、雲泥の差がある。その上、ドライビングスキルまで一流?

  俺が実家に居場所がなかった放蕩野郎と嘲笑した相手と、こんなに実力差があったなんて……。俺は、悔しさでステアリングをただ、殴った。

  しかしハルは、極めて冷静だった。

  すぅ、と深く息を吸い込むと、何やらモニターと睨めっこを始める。

  俺たちの乗るスープラは、辺りに吼え散らしながら川崎航路トンネルへと入っていく。

  目の前には、先行していた赤のスカイライン400Rが見えた。馬力では劣っているが、最高速では勝っているらしい。少しずつ距離が縮んでいくのが、見てわかった。

  「うん、こっちも数台はパスしてるし、上位陣には食い込めるんじゃないかな?」

  ハルはそんなことを言うと、俺の左手に、今度は優しく手を重ねてきた。

  「安心して。僕が導いてあげるから。君はただ、僕が示すルートに沿って、走ってくれればいいんだ」

  肉球の感触がくすぐったい。だが、なぜだかとても安心できる、そんな感覚を覚える。純血をあんなに毛嫌いしている俺でも、こいつだけは……ハルだけは、どうしても嫌いになることはできない。この数週間で、それは痛いほど思い知らされてきた。

  「ハル、あのさ……」

  俺が口を開こうとした時だった。前の400Rが左車線に入っていく。そうだ。迂回路へ入らなくては。俺は、ステアリングを切って、スカイラインに続こうとする。しかし、その時だった。

  「このまま真っ直ぐ」

  ハルは、いつもの調子で言う。

  「え、いや、この先は地震で崩落してたじゃないか。ほら、あのスカイラインに……」

  続こう、そう言おうとした時だった。

  「ステアリングを切るな。アクセルを踏め。僕たちならもっと上位を狙える」

  ハルは正気とは思えない発言をする。車は時速二百六十キロを超えたまま、ジャンクションを抜け、トンネルの出口へ……そして、首都高多摩川トンネル方面へと進んでいく。

  その時、無線が入った。

  『おい、お前ら! 早く車線を変えろ! 何してるんだ、その先は……ッ!』

  その時、ハルは無線の電源を強制的に落とした。そして、固まる俺の耳元で囁く。

  「命を捨てる覚悟、してるでしょ?」

  車はどんどん加速し、左車線へ逃げる400Rに完全に並んだ。運転手は、窓を開けて何かをこちらに叫んでいる。しかし、ステアリングを切ろうとしても、ギアを落とそうとしても、ハルはそれを拒否した。

  ……ブレーキなんて踏んだら、何されるかわかったものじゃない。

  ハルの指先が、俺の喉元を撫でる。

  「こんな傷作ったやつに、一矢報いたいとは思わない?」

  甘い囁き。その時、俺の心に憎悪と恐怖の念が同時に湧き上がった。

  「もしかしたら、この区間は一位を狙えるかもしれない。ね、このまま、進もう?」

  ハルは言うと、俺の肩に頭を乗せてきた。

  「僕の言うこと、聞いて?」

  車は、ジャンクションを直進する。

  白日の光が届かないその先。俺たちの目の前には、黒々とした死の口を広げた、多摩川トンネルの絶望的な暗闇が待ち構えていた。