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男は荷車を押しながら広場を歩いていた。
朝の市場は活気に満ちている。
焼きたてのパンの香り。
野菜を並べる商人。
井戸端で話し込む主婦たち。
いつも通りの朝だった。
だから気付くのが遅れた。
広場の影から、それは現れた。
黒い霧をまとった獣。
四足で地面を蹴り、一直線に飛びかかる。
「うわっ――!」
男は悲鳴を上げた。
だが周囲の人々は振り返らない。
誰も見ていない。
誰も気付かない。
獣の牙が男の身体へ食い込んだ。
世界が白く染まる。
荷車が倒れ、果物が石畳に転がった。
しかしそれを拾う者はいない。
そこに誰もいなかったかのように。
男の姿は消えた。
記憶ごと。
---
「やっと、か」
転職の神殿は静かだった。
中央の祭壇の前で、リュミエは小さく息を吐いた。
隣ではユリシアが微笑んでいる。
神官が厳かに告げた。
「初級職、全職のパッシブスキル習得を確認いたしました。これより中級職への転職を執り行います」
リュミエは隣のユリシアと目を見合わせた。
「長かったな」
「楽しかったけどね」
神官が祭壇へ手をかざす。
白い光が広間を満たした。
「神谷陸のアバター、リュミエ。希望の中級職を」
リュミエは迷わなかった。
「騎士」
光が全身を包み込む。
重さではなく、厚みが増すような不思議な感覚。
やがて光が収まると、騎士の鎧がその身を包んでいた。
頑丈な板金鎧。
肩当て。
腰には長剣。
初期装備とは比べ物にならない存在感だった。
「似合ってる」
ユリシアが笑う。
「そうか?」
「うん。ちゃんと騎士って感じ」
続いてユリシアの番になる。
「白石結衣のアバター、ユリシア。希望の中級職を」
「ハイプリースト」
柔らかな金色の光が広がった。
光が消えると、白い法衣をまとったユリシアが立っていた。
腰には聖印。
どこか神聖さを感じる姿だった。
「ありがとう。リュミエも、見た目がずいぶん変わったね」
二人は顔を見合わせる。
騎士とハイプリースト。
これから歩む新たな姿だった。
神官はさらに続けた。
「転職に伴い、新機能のご案内がございます。本日よりファンクションドレスシステムが実装されました」
「ファンクションドレス?」
神官が手を振ると、半透明のパネルが現れる。
「装備能力を維持したまま、外見のみ変更できる機能です。略称はファンドレ」
ユリシアの目が輝いた。
「じゃあ、コラボ衣装も?」
「設定可能です」
二人は顔を見合わせた。
以前、そんな話をしたことがあった。
「コーデ機能が来たら普段使いしたい」
その願いが叶ったのだ。
ユリシアは白を基調とした法衣を選ぶ。
リュミエは騎士の正装鎧を選んだ。
光が走る。
見た目だけが変わる。
だがステータスはそのまま。
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「便利だな」
「うん」
ユリシアは満足そうに頷いた。
神殿の奥には大きな扉があった。
六つの紋章が刻まれている。
月。
火。
水。
木。
金。
そして、もう一つ。
「六つあるね」
ユリシアが言った。
「伝承だと五つじゃなかったか?」
違和感はあった。
だが今は先へ進む方が先だった。
扉へ手を触れる。
光が漏れ出した。
やがて扉は静かに開く。
向こう側には青白い光が広がっていた。
「行こう」
リュミエが一歩踏み出す。
ユリシアも続いた。
世界が変わった。
最初に感じたのは空気だった。
風の音が違う。
空の色も違う。
街並みもどこか現実感が薄い。
石畳の広場。
噴水。
行き交う人々。
一見すれば平和な街だった。
リュミエは近くの行商人へ声をかけた。
「すみません」
返事はない。
もう一度呼びかけようとした。
その瞬間。
行商人がリュミエの身体をすり抜けた。
「……今、すり抜けた?」
「うん」
ユリシアも見ていた。
別の住民へ声をかける。
反応はない。
老夫婦も。
子供たちも。
誰一人として二人を認識していなかった。
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「存在はしてる」
ユリシアが言う。
「でも認識されてない」
その時だった。
広場の反対側から悲鳴が響く。
黒い霧をまとった獣。
広場を駆け抜ける。
だが周囲の住民は誰も気付いていない。
獣は若い女性へ飛びかかった。
「まずい!」
リュミエが駆け出す。
剣を抜く。
騎士の剣が霧を裂いた。
ユリシアの支援魔法が飛ぶ。
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戦闘は短かった。
獣は光となって消滅した。
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だが女性は混乱した様子で辺りを見回していた。
「私……何をしていたんだっけ……?」
そして。
誰も彼女を見ていなかった。
誰も話しかけない。
誰も気付かない。
まるで最初から存在しなかったかのように。
「まさか……」
ユリシアが呟く。
女性もまた。
見えない存在になっていた。
「その人たちには、あなたたちが見えていないんです」
静かな声が響いた。
二人が振り返る。
石段の上に、小さな少女が立っていた。
年齢だけ見れば小学校低学年ほど。
リュミエの胸元ほどしかない背丈だった。
だが、その瞳だけは不思議なほど落ち着いていた。
少女はゆっくりと石段を降りてくる。
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「その人も、あなたたちと同じになりました」
見えなくなった女性を見ながら言った。
「見えるのか?」
リュミエが尋ねる。
少女は小さく頷く。
「はい」
そして二人を見上げた。
「アキラエルに来た人が見えるのは、わたしだけなんです」
少女は静かに名乗った。
「はじめまして」
「わたしはセラです」
「あなたたちを待っていました」
――第1話 了
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