Ad
濁流に呑まれた直後の意識は、暗闇に沈んでいた。
体がどこにあるのかもわからない。
息をすることさえ、遠い昔の記憶のようだった。
深い、暗い、底がない闇。
そこに、もう一人の俺がいる。
落ちているのか、沈んでいるのか、浮いているのか、もうわからない。
ただ、何かが胸の奥で燃えていた。
消えそうで、消えない。
断片が浮かぶ。
泥の上に転がった小さな手首。
まだ温かかった。
カイルの声が混じる。
行軍中、馬を並べながらいつも少し先を読んで報告してくる、
あの几帳面な声。
「閣下、静かすぎませんか。」
その喉を、矢が貫いた。
ハンス・カイテルの声が響く。
感情を欠いた、事務的な声。
「貴様に処刑命令が下された。」
父の声も、遠くから混じる。
訓練場で何度も聞いた、古い声。
「強くなれ。でなければ、守れぬ。」
――守れなかった。
友を。
家族を。
部下を。
全員。
冷たい。
重い。
肺が焼ける。
それでも、何かが燃えている。
消えるな。
まだ――終わっていない。
時間は二日前に遡る。
エディルリア神聖帝国辺境、東方入植拠点パルナーク城塞。
城塞の外壁に背を預けるようにして建つ娼館は、昼でも薄暗い。
獣脂の蝋燭が数本、油の煙を細く立ちのぼらせ、壁の染みを照らしている。
酒の匂いと、乾いた血と、明日をも知れぬ者たちの熱気が澱んでいた。
最前線の夜というのは、どこへ行ってもこういう匂いがする。
一室。
ベッドの縁に腰を下ろしたまま、シンは安酒を喉に流し込んだ。
陶器の杯が唇に冷たい。
「……シン。今度はどこに行くの?」
気だるい声が、暗がりから滑り出た。
視線だけでその女を見る。
ルナ。
将官相手の高級娼婦。
この埃っぽい最前線には不釣り合いなほど白い肌。
その白さには、言葉にできない品の良さが宿っていた。
視線が自然と吸い寄せられる。
その静かな美しさは、誰かに見せるためのものではなく、ただそこにあるだけで人の心を静かに虜にするような気配を纏っている。
笑みを作るたび、小さく整った唇がほんのわずかに艶めく。
その仕草は愛想のためのものなのに、見た者の心をそっと掬い取ってしまうようだった。
乱れたシーツに沈めた艶めかしい肢体の輪郭が、蝋燭の揺れに合わせてゆっくりと動く。
その瞳は常に、何かを測るような深さを持っていた。
その身体には、体温はあるのに輪郭の曖昧さを感じさせる。
彼女が笑う時、その笑みはいつも一拍だけ遅れて浮かぶ。
まるで、笑うという動作を内側で確認してから実行するように。
シンはそれに気づいていなかった。
「賊の討伐だ。開拓村を荒らしてる連中が増えたらしい。」
軍服を手に取る。
頭の中ではすでに、地形と敵の想定数と、生還させられる兵の数の計算が始まっていた。
「ふうん。……こんな魔族の領土の近くまで、人間が住みつくのも変な話だよね。」
シンの手が一瞬止まる。
核心だった。
この拠点の存在自体が魔族を刺激しているという、誰もが知っていて誰も口にしない事実。
「それは偉い連中に聞け。俺は命令に従うだけだ。」
「そっか。……まあ、私たちはそのおかげで生きてられるんだけど。」
ルナはゆっくりと起き上がり、背後からシンの肩に手を伸ばした。
指先が、軍服の肩をゆっくりとなぞる。
その触れ方は、慰めでも誘惑でもない。
確かめるような、静かな接触。
シンの呼吸が一瞬止まる。
――そして静寂。
「……ねえ。嫌な予感、するんだ。」
「それはいつもだろ。」
「…今度のは、違う。……ねえ、二人で逃げない?」
シンは振り返らなかった。
そんな選択肢は、軍人である彼には存在しない。
「できるわけないだろ。一応これでも責任者だ。」
「……そっか。」
「無理だ。」
短く切り捨てる。
ルナは小さく息をついて、それから少し間を置いてから、また笑った。
いつもより一拍、長く待ってから。
「うん。……シンは私にとって特別なお客様だし。心配しちゃう。」
「どうせ他の客にも言ってるんだろう。」
「言ってないよう。いつも言ってるじゃない。シンは特別。信じてないのー?」
「当たり前だろう。そのまま信じるほど、俺は坊やじゃないぞ。」
ルナはシンの首筋に顔を寄せ、何度か口づけをして、それから深く息を吸い込んだ。
記憶に刻むような、ゆっくりとした吸い込み方だった。
蝋燭の炎が、わずかに揺れた。
「……ほんとに、いい香り。美味しそう。」
独り言のような声だった。
「……何言ってんだお前は。俺は喰いもんじゃない。」
シンは顔をしかめたが、ルナはすでに身を引いて、いたずらっぽく笑っていた。
仮面を付け替えるような、滑らかさだった。
「ふふっ。何でもないよ。」
「……戻ってきたら、……また来る。」
言いかけて、シンは一瞬だけ口をつぐんだ。
扉の向こうで、風が鳴った。
「……また来たときも笑っていろよ。でないと俺が……困る。」
重い木製の扉を開ける。
冷たい夜気が流れ込んだ。
その背中に、ルナの消え入るような声が落ちた。
『……ねえ、シン。私のこと、ちゃんと覚えててね?』
シンには、聞こえなかった。
部屋に残されたルナは、しばらくの間、閉じた扉を見つめていた。
蝋燭の炎が揺れ、彼女の白い横顔に影を落とす。
その口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。
一拍、遅れて。
廊下に出ると、壁に背を預けて待っていた人影があった。
「……盗み聞きか、カイル。」
「立ち聞きです。盗み聞きではない。」
即座に返ってきた。
シンは鼻で笑う。
「どう違う。」
「盗み聞きは後ろめたさを伴います。閣下の御身を案じての立ち聞きに、後ろめたさは微塵もありません。」
「……相変わらず屁理屈が達者だな。」
「幼い頃から閣下に鍛えていただきましたので。」
カイルは表情を変えずに言ってから、少しだけ声を落とした。
「……明日の件ですが。嫌な予感がします。」
「ルナと同じことを言うな。」
「ルナ殿が言うなら、なおさらです。――あの方は、鋭い方ですから。」
シンは答えなかった。
石畳の廊下を、先に歩き出す。
「閣下。」
「わかっている。」
カイルの足音が、一歩遅れてついてくる。
いつもそうだった。
一歩だけ、後ろから。
二人分の足音が、石畳の廊下に響いて、消えた。
翌朝。
パルナーク城塞の重い門が、軋みながら開いた。
グレンツベルク辺境伯領軍、重装歩兵と騎兵合わせて約二百。
整然と隊列を組み、低く垂れ込めた空の下を進み始める。
蹄が泥を踏む音、鎧の擦れる音、それだけが続く。
兵たちの口は重かった。
見送る城塞の兵の顔にも笑みはない。
最前線の出撃というのは、いつもこういうものだった。
「閣下、肩紐がずれてます。……ほら、またです。」
カイルは呆れたように笑いながら、シンの装備を直した。
「あいかわらず、お前は本当に几帳面だな。」
「閣下が雑すぎるんですよ。」
二人のやり取りもいつもの通りだった。
シンは先頭で馬を進めながら、周囲の地形を読んでいた。
道幅、傾斜、視界の切れ目。
右手の丘陵、左手の湿地。
無意識のうちに、頭の中に地図が描かれていく。
「昨夜はよく眠れましたか。」
カイルが馬を寄せてきた。
「眠れると思うか。」
「思いません。だから聞きました。」
シンは横目でカイルを見た。
生真面目な顔が真正面を向いている。
こいつは昔からこうだ。
不必要なことは言わない。
必要なことは、必ず言う。
幼い頃から変わらない。
「お前こそどうだ。」
「三時間ほど。十分です。」
「嘘をつくな。目が死んでいる。」
「閣下の目も、似たようなものかと。」
短い沈黙。
それから、二人同時に小さく息をついた。
道が緩やかに下り始める。
両脇の木々が高くなり、空が狭くなっていく。
馬の息が白く濁り始めた。
「……一つ聞いていいですか。」
しばらく沈黙が続いた後、カイルが口を開いた。
「なんだ。」
「今回の件、閣下はどこまで読んでいますか。」
シンは答えなかった。
カイルは続けた。
「報告書の数字が、最初から合っていません。賊の規模、出没の頻度、被害の範囲――どれも、百人程度の野盗が起こせる規模を超えています。」
「気づいていたか。」
「閣下が気づいているなら、私が気づかないわけにはいきません。」
シンは短く笑った。
皮肉ではなく、本物の笑いだった。
こういう時だけ、カイルは少しだけ誇らしげな顔をする。
「読めているのは輪郭だけだ。誰が、何のために――そこまではまだわからん。」
「ならば。」
「ああ。現場を見るしかない。」
カイルは頷いた。
それ以上は言わなかった。
一時間ほど進んだところで、原生林の湿った空気が一行を包み始めた。
鳥の声が減る。
虫の音が消える。
蹄の音だけが、不自然なほど大きく響いた。
シンは片手を上げ、速度を落とさせた。
周囲を鋭く見渡す。
木々の陰、道の曲がり角、視界の端まで――何もない。
それが余計に、おかしかった。
「……閣下。」
カイルの声が、一段低くなった。
「ああ。気づいている。」
「静かすぎます。」
「鳥も虫も、とっくに逃げた後だ。」
シンは手綱を握り直した。
「報告では賊の規模は百人前後でしたが。」
「少なすぎる。」
シンは淡々と言った。
「百人も動けば、すぐ包囲される。それを承知で居座る奴はいない。逃げる必要がないか、最初から別の出口が用意されているかだ。」
「別の出口……。」
「略奪するには、このあたりは貧しすぎる。骨までしゃぶる価値もない場所に、わざわざ首を洗って突っ込む奴がどこにいる。」
カイルは黙って聞いていた。
反論しない。
ただ、その沈黙の中に、同じ結論に向かっている気配があった。
「……餌、ですか。」
「あるいは、誰かが用意した舞台だ。どちらにせよ――」
シンは腰の片手剣をわずかに抜き、刃の輝きを確認して鞘に戻した。
チャキン、という鋭い金属音が、静寂に染み渡る。
「胸糞悪い筋書きが待っている。」
「……全員に伝えます。」
「ああ。ここからは演習じゃない。兜の緒を締めろ。」
カイルが馬を返そうとした、その瞬間だった。
「カイル。」
呼び止めた。
カイルが振り返る。
シンは前を向いたまま、短く言った。
「生きて戻れ。」
カイルは一瞬だけ目を見開いた。
それから、いつもの生真面目な顔に戻って、深く頷いた。
「……閣下こそ。」
蹄の音が遠ざかる。
シンは前を向いたまま、その音を聞いていた。
道の先に、黒煙が見えた。
甘い腐臭が、風に乗って届き始めた。
黒煙は、近づくほどに重くなった。
焦げた木材の匂いに、鉄の匂いが混じる。
それから、もっと深いところにある甘い腐臭。
風向きが変わるたびに、それは濃くなったり薄くなったりしながら、確実に肺の奥まで染み込んでくる。
シンは片手を上げた。
隊列が止まる。
丘の稜線から、眼下を見下ろす。
開拓村は、すでに終わっていた。
家々は無惨に焼かれ、黒い骨格だけが空に向かって突き出している。
まだ燃え続けている梁から、赤い火の粉が舞い上がり、灰色の空に溶けていく。
広場の中央には、薪のように積み上げられた人間たちの山。
泥濘には、木彫りの人形が一つ、ちぎれた小さな手首のそばに転がっていた。
兵たちの間から、嗚咽が漏れた。
若い兵が馬上で顔を背ける。
古参の兵は、ただ黙って唇を噛んでいた。
シンは表情を消したまま、その光景を見ていた。
(賊の規模は百。だが、これだけの惨状を作るには時間がかかる。つまり連中は、俺たちが駆け付けることを知っていて、その上で『これ』をやっている。)
立ち込める死臭が、軍人としての本能に警鐘を鳴らす。
今すぐ駆け下りたい衝動を、シンは奥歯を噛んで押さえた。
伏兵の可能性。
罠の可能性。
全軍を慎重に進めざるを得なかったその小さな対応が集まって、決定的な手遅れを作った。
それでも、動かなければならない。
一方、広場では。
頭目ガザスが血に濡れた剣を肩に担ぎ、焼け落ちた家々を眺めていた。
急かず、騒がず、ただそこに立っている。
戦場の惨劇の中で、この男だけが妙に落ち着いていた。
嵐の目のような、静かな佇まい。
納屋の方から、鼻歌が聞こえてきた。
副官のローガンが上機嫌に歩いてくる。
その両手は、根元まで赤く染まっていた。
「ガザス、そろそろですかねえ。」
「ああ。」
ガザスは空を見上げた。
灰色の雲が低く垂れ込めている。
「お前、今なにしてたんだ。」
「素敵なゲームですよ。兄妹に互いを刺させて、生き残った方を助けてやるって。」
ローガンはうっとりと目を細めた。
「絶望って……いい匂いがするんですよ。人が壊れる瞬間だけが、本物だと思いませんか。」
ガザスは答えなかった。
ただ、横目でローガンを一瞥した。
もともと、ローガンは闇闘技場で人気のあった剣闘士だった男だ。
相手を必ず殺すことで知られ、しかもそれを楽しんでいた。
芝居めいた狂気を纏うその雰囲気が、観客を惹きつけていた。
ガザスはそこに興味を覚え、拾った。
使える狂人だ、と思った。
だが、長くは使えない。
こういう手合いは必ず、自分の狂気に足を取られる。
「道具をしまえ。そろそろ高貴なお客様がお見えになる。」
ガザスは剣を持ち直し、広場の中央へゆっくりと歩き出した。
「今日の本番はここからだ。」
シンが指示を出す。
「全軍、進め。」
広場に踏み込んだ瞬間、ガザスが振り返った。
その目が、シンを捉える。
品定めするような、静かな目だった。
怒りでも、殺意でも、狂気でもない。
ただ、値踏みしている。
まるで市場で馬の脚を確かめるような、冷静な眼差し。
その落ち着きが、ローガンの狂気よりも、よほど不気味だった。
「おっ。帝国の坊っちゃん、ようこそ。待ってたぜ。」
その声に呼応するように、納屋から賊兵どもが這い出してくる。
その動きが、シンの目を引いた。
(……整っている。)
槍の穂先が揃っている。
盾の合わせ方に無駄がない。
前へ出る者と退く者の呼吸が合っている。
烏合の衆の動きではない。
「カイル。」
「気づいています。こいつら、元帝国兵か、あるいは――」
「どちらにせよ、――いまから舞台だ。」
シンは背の大剣の柄に手をかけた。
そこへ、敵陣の前列が左右に割れた。
血を吸った細剣をだらりと提げた男が、まるで舞台へ上がる役者のように歩み出る。
頬の痩けた顔。
粘つく笑み。
眼窩の底で、濁った何かがぬめっている。
動きは優雅で、無駄がなく、そしてひどく場違いだった。
死臭の漂う戦場で、この男だけが別の空気を纏っていた。
腐った花の芳香のような、甘くて不快な異質さ。
「ひっひっひ。ようこそ、救済の、救いの時間です。」
うっとりと目を細める。
「もう助からないと悟ったときの絶望ってね、……とてもいい匂いがするんですよ。」
その恍惚は、戦場には似合わない、寝室の質感を持っていた。
「あなたには、たっぷりと味わっていただきましょう。」
「総員、突撃。」
シンは、それだけ言った。
背に吊っていた大剣を外し、重みを確かめるように握り直す。
剣戟の音が、焼け跡の村に乾いて響く。
刃が空を裂く。
血飛沫が弧を描く。
泥に落ちる音が重なる。
シンの大剣が唸る。
一人目の首が飛ぶ。
二人目の肩口から胸郭までが裂ける。
三人目は盾ごと叩き割られ、膝をついたところを踏み砕かれる。
重い。
だが、止まらない。
ローガンが踊るように細剣を構えた。
蛇のようにしなる一突き。
速い。
シンは半歩身を捻って躱し、大剣を薙ぐ。
ローガンは軽やかに退く。
返す刃が膝を狙い、二の太刀が脇腹へ伸びる。
軍服が裂けた。
浅く、血が滲む。
一合。
二合。
三合。
「ほら、痛いでしょう? 怖いでしょう?」
ローガンが囁く。
シンは答えない。
踏み込み、真正面から叩き斬る。
ローガンは横へ跳ぶ。
その着地点へ、もう一撃が来ていた。
受ければ折れる。
彼は泥を蹴って距離を取り、舌打ちする。
「っ……乱暴な。」
「喋りすぎだ。」
シンは重心の移動を読んでいた。
癖。
拍子。
退く方向。
生き延びるために選ぶ、無意識の最短経路。
ローガンが左へ流れる。
大剣が、斜め上へ跳ね上がった。
風を切る重低音。
肉が裂ける。
骨を砕く湿った音。
ローガンの右腕が、細剣を握ったまま宙を舞い、泥の中へ転がった。
「……あ。」
間の抜けた声だった。
愉悦が剥落する。
右腕が落ちたことを、まだ理解していない顔だった。
顔面が土気色に変わる。
眼窩の底のぬめりが、恐怖に変わる。
それはひどく滑稽で、そしてひどく人間的だった。
「い、いや……待っ……!」
シンは歩み寄る。
泥を踏む。
一歩。
また一歩。
大剣の切っ先から、誰のものとも知れぬ血が糸を引いて落ちた。
「どうだ。絶望は旨いか。」
ローガンの唇が震える。
言葉にならない。
その瞳だけが、ようやく理解していた。
――自分はもう助からない、と。
「これが――救済だ。」
刃が落ちた。
世界から、ひとつの声が消えた。
ガザスが、口笛を吹いた。
「あーあ。死に急ぎやがって。馬鹿が。」
呟きには、惜しむような色があった。
惜しむのは、ローガンではない。
その狂気を使い切れなかった、自分の采配に対してだ。
だが、感傷はそこまでだった。
ガザスは不敵な笑みを浮かべる。
「しかしやるねえ、坊ちゃん。こりゃ、おじさんも本気出さないといけないかな。」
そして瞬時に表情を変える。
「総員!防御陣形!壁を作れ!守りを固めろ!」
賊兵どもが一斉に盾を寄せ合う。
奇妙なほど迅速に、円陣を組む。
妙だ。
シンは血塗れの大剣を下げたまま、敵陣を睨んだ。
勝ち筋を失った賊の顔ではない。
ガザスは怯えていない。
むしろ、余裕がある。
何かを、待っている。
その直後だった。
地鳴りのような蹄の音が、辺境伯軍の背後から押し寄せてきたのは。
白地に金と青の紋章。
白銀の甲冑。
純白の外套。
整然と並んだその騎兵隊は、朝の灰色の光の中で、奇妙なほど美しかった。
その数、およそ千。
「援軍だ!」
「神聖騎士団の旗!」
兵たちの顔に、安堵が走る。
歓声が上がりかけた。
だがシンは、その布陣を見た瞬間に理解した。
そもそも神聖騎士団は帝国教会教父直属の軍事修道会。
精鋭の暴力的な異端審問集団だ。
諸侯軍の援軍に駆け付けるような軍じゃない。
(……退路を、――潰している。)
救援ならば賊兵を挟撃する位置を取るはずだ。
だが連中はまず、こちらの後ろを塞いでいる。
ガザスが盾の隙間から、口角を上げた。
「袋の鼠、だな。坊っちゃん。」
その声には、勝ち誇る色がなかった。
ただ、事実を確認する乾いた満足だけがあった。
神聖騎士団の中央から、一騎が進み出た。
白銀の甲冑の上に法衣を重ねた男。
白髪を後ろで束ね、痩せた顔に深い皺。
その青い瞳は冷徹で、澄んでいて、そして完全に空っぽだった。
人を裁くことへの、何のためらいもない目。
神官将ハンス・カイテル。
彼は馬上から羊皮紙を広げ、高く掲げた。
感情を欠いた声が、静寂に染み渡る。
「軍内部での符牒、影の核(Schatten im Nexus)こと、グレンツベルク辺境伯嫡子、ヴィンツェンツ・フォン・グレンツベルク。貴殿に教会の裁定を言い渡す。」
兵たちが息を呑む。
「第一に――貴様が魔族の血を引く穢れた子であること。」
兵たちの間にざわめきが広がる。
「第二に――グレンツベルク辺境伯家が魔族との不浄なる交流を続けてきたこと。」
空気が凍てつく。
「よって――辺境伯並びにその領民全てを粛清対象とする。これは神の名のもとに下された正当なる裁きである。」
兵たちの顔から、希望が音もなく消えていく。
「……賊と、手を組んでか。」
「異端を滅するためなら、手段の卑賤は問題にならぬ。神は結果によって正しさを示される。……しかし『影の核(Schatten Im Nexus)』か。 その名は、貴様が背負う罪と魔性を、最初から示していたというわけだ。」
ハンスは眉一つ動かさない。
その確信の深さが、怒りより恐ろしかった。
この男は疑っていない。
一片も。
「もう、よかろう。放て。」
矢が放たれた。
賊に向けてではない。
シンたちの背中を、無慈悲に貫いた。
「ぎゃあああっ!」
「なぜだ! 我々は帝国のために――!」
「閣下! お逃げください! ここは我らが――」
「カイル!」
矢が、その喉を貫いた。
カイルの体が仰け反る。
赤い泡が唇から溢れる。
馬から崩れ落ちる。
泥の上に、静かに沈む。
シンは、その場に一瞬だけ、立ち尽くした。
生きて戻れ。
あの言葉が、静かに返ってきた。
答えはもう、ない。
――また守れなかった。
胸の奥で、何かがひび割れた。
辺境伯軍の陣が、完全に崩れた。
挟撃だった。
前からガザスの賊兵。
後ろから神聖騎士団。
斬る。
―斬る。
――斬る。
左肩に深手を負う。
右太ももが裂ける。
血が止まらない。
それでも大剣を振り回し、道を切り開く。
一人、また一人と斬り伏せるが、数が違う。
練度も違う。
――圧倒的に。
何より、味方だと思った旗に背を刺された動揺が大きすぎた。
視界の端で、グレンツベルクの兵たちが次々と沈んでいく。
叫び。
断末魔。
折れた槍。
踏み潰される手。
斬る。
――斬る。
それでも、減らない。
追い詰められた先は、切り立った断崖だった。
眼下には、雪解け水を集めた濁流が、牙を剥くような音を立てて渦巻いている。
後ろは死。
前も死。
ガザスが血塗れの剣を肩に担ぎ、静かに立っていた。
笑っていない。
ただ、見ている。
品定めを続けている。
「どうするよ、坊っちゃん。神様にも見放されちまったな。」
声には、嘲りがなかった。
ただの、問いだった。
ハンスはただ、見下ろしていた。
裁きが完遂されるのを確認する、審判の顔で。
シンは息を吐いた。
肺が焼けるように痛い。
全身から血が流れ、指先の感覚が薄い。
視界の端に、泥の上に転がった小さな手首が見えた。
まだそこにある。
まだそのままだ。
カイルの足音が、耳の奥で鳴った。
一歩だけ、後ろから。
いつもそうだった。
幼い頃から、――ずっと。
「……俺を殺すのは、貴様らじゃない。」
そう言った瞬間、自分の声が震えているのに気づいた。
恐怖ではない。
まだ終われない、終わってたまるかという、どうしようもない執念だった。
大剣を背中に戻した。
崖の縁を、蹴った。
一瞬だけ、空が近かった。
次いで、濁流が牙を剥いて迫る。
冷たい水面が体を叩く。
叩きつけるような衝撃。
骨が軋む。
息が消える。
水が喉へ流れ込む。
上下がわからなくなる。
暗い。
重い。
冷たい。
それでも、胸の奥で何かが燃えていた。
消えるな。
まだ終わっていない。
断崖の縁で、ガザスが眼下の濁流を覗き込んだ。
しばらく、黙って見ていた。
「……とりあえず、……追いかけますか?」
ハンスは汚れを払うように、首を振った。
「必要あるまい。」
感情のない声だった。
「この高さから落ち、あの濁流に呑まれて助かる人間はおらぬだろう。」
ハンスは馬を返しながら、付け加えた。
「それに――どうせあやつにはもう、帰る場所も、人として生きる資格もないのだからな。」
ガザスは答えなかった。
ただ、濁流を見下ろしたまま、低く呟いた。
「……帰る場所、ね。」
その言葉を、誰に向けて言ったのか。
ガザス自身にもわからなかった。
濁流は、ただ轟々と鳴り続けていた。
ほんのすこし昔の自分なら、こんな光景を前にして震えていたかもしれない。
だがもう、そんな感覚はとうに死んだ。
――あの日、泥の上で温もりを失った小さな手首と共に。
Ad