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第2話 泥濘からの再起

  水の中には、音がない。

  あるのは圧力だけだ。

  四方から押しつぶす冷たい質量。

  肺の中の空気が、悲鳴のように細くなっていく。

  上がどこか、下がどこか、もうわからない。

  濁流は方向を持たない暴力だった。

  地形でも気候でもなく、ただ「力」だけがある。

  シンは、それを理解していた。

  奇妙な話だ。

  死にかけているのに、頭の中は動いている。

  (……川幅、流速、水温。この水量は雪解け由来だ。本流に合流する前に浅瀬に出る可能性がある。左岸か、右岸か――。)

  岩が肩を打った。

  骨が軋む。

  視界が赤く染まる。

  それでも計算は止まらない。

  止めるという選択肢が、この男の中には存在しなかった。

  そして、唐突に――

  別の「何か」が、頭蓋の内側に流れ込んできた。

  映像だった。

  音だった。

  匂いだった。

  蛍光灯の白い光。

  チョークが黒板を引っ掻く音。

  紙とインクの、清潔で無機質な匂い。

  (……なんだ、これは。)

  知らない部屋。

  知らない光景。

  なのに、「知っている」という確信だけがある。

  薄いガラス窓の向こうに、灰色の空。

  遠くで電車の音。

  ――平和だ。

  その一言だけが、全身の細胞に染み込むように響いた。

  平和。

  そんなものが、どこかに存在していた。

  あるいは、存在している。

  あるいは、かつて――

  「国際政治の本質は、均衡の維持だ。力の空白を埋める作業とも言い換えられる。」

  誰かの声。

  教壇に立つ、痩せた男。

  その男の顔が――どこか自分に似ていた。

  (俺……か?)

  濁流が体を回転させる。

  岩が背中を殴る。

  それでも映像は止まらない。

  古い地図。

  赤い矢印。

  数字と数字の衝突。

  戦列歩兵の進軍路。

  補給線の脆弱点。

  包囲殲滅の定石。

  宗教戦争の構造。

  民族紛争の必然。

  冷戦の均衡原理。

  頭の中に、何かが降り積もっていく。

  だが同時に――

  カイルの喉を矢が貫く光景が重なる。

  泥の上に転がった小さな手首が重なる。

  神の名を掲げて整然と人を殺す白い騎馬隊が重なる。

  その「別の自分」の記憶の中には、そんな光景はなかった。

  そこでは暴力は、数字と歴史や資料の中にしかなかった。

  清潔な教室の中で、戦争は「学ぶもの」だった。

  もう一人の自分は「戦争」を教えていた。

  直接「体験した」ことも、「見た」ことすらないにもかかわらず。

  (……ふざけるな。)

  どちらへの怒りなのか、自分でもわからなかった。

  水面が見えた。

  光だった。

  シンは、本能だけで腕を伸ばした。

  岸は、泥だった。

  這い上がる、という動作を完遂したのか。

  それとも流れ着いただけなのか。

  もう判別できなかった。

  全身が鉛になっていた。

  左肩が動かない。

  右太ももからは、まだ何かが流れ続けている。

  シンは、仰向けのまま空を見た。

  木々の梢が揺れている。

  葉の隙間から、灰色の光が差している。

  帝国の空とは、色が違った。

  境界を越えたのだと、その差異だけが教えてくれた。

  (……『魔の森』、か。)

  帝国の辺境伯領と魔族の領域を隔てる、人間が足を踏み入れない禁域。

  ここで死ぬなら、誰も見つけない。

  誰も埋めない。

  ただ土に還るだけだ。

  それが、どこか――清潔に思えた。

  シンは目を閉じた。

  一秒だけ。

  そして、立ち上がった。

  膝が震えた。

  視界が揺れた。

  それを意志で黙らせて、木の幹に手をついて体を起こす。

  まず呼吸。

  次に止血。

  次に状況把握。

  手順だけが、体を動かしていた。

  帯を腿に縛る。

  傷口を圧迫する。

  左肩は脱臼ではない、深手だが腱は生きている。

  大剣は――失った。

  濁流の底だ。

  腰の剣だけが残っている。

  (装備喪失。重傷。単独。敵地。)

  条件を並べると、生存確率は話にならなかった。

  だから、並べるのをやめた。

  

  歩く。

  それだけだ。

  悲鳴が聞こえたのは、それから間もなくだった。

  風上から。

  三十メートルほど先の茂みの向こう。

  シンの体は、考えるより先に動いていた。

  思考が追いつく前に、足が方向を選んでいた。

  茂みを割って覗いた先に、地獄の縮小版があった。

  林の縁。

  粗末な短剣を持つ小柄な影が二つ、五人組の男たちに追い詰められている。

  薄緑色の肌。

  尖った耳。

  比較的小柄な体躯。

  ゴブリンだ。

  兄と思しき方が妹を背に庇い、兄妹そろって血の滲む腕で短剣を構えている。

  妹も泣いていない。ただ男たちを睨みつけながら短剣を構えて静かに震えていた。

  男たちは急いでいなかった。

  「金目の物は全部はぎとれ。てえしたもんは持ってないだろうがよ。」

  「この小汚い小鬼どもは、生かして持って帰ったら売れるかねえ。」

  「物好きがいれば。メスの方は……まあ。いけるか?」

  「先に遊ぶのも悪くねえ。少しくらいは楽しめるだろ。オスの方は殺すか?」

  笑いながら話し合っている。

  選別している。

  値踏みしている。まるで市場の品定めのように。

  シンの脳裏に、一瞬だけあの映像が重なった。

  教室の中の「別の自分」が、数字の羅列として処理してきたものの実体が、目の前にある。歴史書の中の「略奪・暴行」が、今、この瞬間に進行している。

  それは奇妙な感覚だった。

  怒りではなかった。

  義憤でもなかった。

  ただ――

  (また、これか。)

  という、乾いた疲弊。

  (……そう、これが、『俺たちの世界』の『現実』だったな。)

  シンは立ち上がった。

  足元が揺れた。

  それでも腰の剣を抜いて、構えた。

  「消えろ。」

  死人の声だった。

  男たちが振り向く。

  血まみれの、満身創痍の男がそこに立っていた。

  「……誰だ、お前。」

  その一瞬の隙。

  シンは正々堂々と間合いを詰めるのではない。

  最初から、背中を見せていた一人目の首を、背後から無音で断ち切っていた。

  「なっ――」

  二人目の顔面を切っ先で突く。

  右太ももの傷が弾け、激痛で視界が激しく明滅した。

  (――痛覚を殺せ。肉体をただ、動かせ。)

  三人目が悲鳴を上げる前に袈裟に入れ、四人目の剣を自分の左肩の肉で受け止めながら、強引にその腹を割いた。

  五人目が腰を抜かして命乞いの形に口を開いた。

  言葉が出るより早く、刃がその首を断ち切った。

  五つの死体が、順番に地面へ沈んでいった。

  シンの膝が、そこで折れた。

  大剣ではなく剣だった。

  失血のせいで力が入らなかった。

  それでも、なぜ動いたのか、自分でも答えが出なかった。

  世界が傾いた。

  木も、空も、血の匂いも、全部が黒い靄に溶けていく。

  遠くで、声がした。

  「……アキン、この人……。」

  「近寄るなヒディ!人間だぞ!起きたら俺たちが殺される。今のうちに――」

  「でも助けてくれたよ。恩人を見捨てるの?」

  「お前、何言って――」

  「それに、怪我だらけだって。このまんまじゃやばいよ。とりあえず連れて帰ろう。村に。」

  声が遠くなる。

  小さな手が、シンの肩に触れた。

  その温度だけが、暗闇に沈む前の最後の感覚だった。

  ――昏睡。

  暗闇の中に、「別の自分」がいた。

  シンは、それを認識していた。

  夢だとわかっていた。

  それでも抗えなかった。

  教室が広がっている。

  蛍光灯。

  黒板。

  チョークの粉が空気に漂っている。

  教壇に立つ男は、自分に似ていた。

  だが似ていない。

  眼鏡をかけている。

  肩が薄い。

  戦場の空気を一度も吸ったことがない体をしている。

  その男が、淡々と話している。

  「平和とは戦争の不在ではない。秩序による管理が成立した状態だ。抑止力の均衡が崩れた瞬間、人は暴力に還る。これは人間の本性ではなく、システムの問題だ。」

  学生たちがノートを取っている。

  シンには、その顔が見えない。

  (……呑気なものだ。)

  現世の自我が、呟いた。

  システムの問題。

  では、神の名を掲げて整然と人を殺す連中は、システムの失敗か。

  ならば、そのシステムを設計した神とは何だ。

  教室が揺れた。

  地図が広がった。

  古い羊皮紙ではなく、印刷されたカラフルで精密な知らない世界の地図。

  国境線が引かれ、色分けされ、数値が並んでいる。

  「勢力均衡論。覇権安定論。相互確証破壊。これらは全て、暴力を制御するための理論だ。もちろん完璧ではない。だが、無秩序よりはましなのだ。」

  (無秩序よりはましだ――。)

  その言葉が、体の中で反響した。

  ハンスの顔が重なった。

  秩序があった。

  あの男には確かに、完璧な秩序があった。

  神の名という絶対の根拠と、粛清という明快な手段と、揺るぎない確信。

  あれは「秩序」だった。

  だが。

  (あれが秩序ならば、俺は何を守ろうとしていた。)

  教室が揺れた。

  今度は経営学の教室になった。

  「組織の失敗は多くの場合、情報の非対称性と誘因の歪みに起因する。」

  地政学の講義に変わる。

  ずいぶんと色々担当していたらしい。

  「地形は政治を規定する。山脈は民族を隔て、河川は交易路を生む。これを無視した戦略は、必ず地形に復讐される。」

  戦史の資料が開いた。

  ナポレオンのロシア遠征。

  補給線の崩壊。

  世界大戦の塹壕戦。

  消耗の数学。

  冷戦の代理戦争。

  イデオロギーという名の代替暴力。

  数字が、数字が、数字が――――シンは、その濁流を全身で受けた。

  溺れるようだった。

  これだけの知識が、これだけの「別の経験」が、一度に流れ込んでくる。

  (……重い。)

  重かった。

  知識の重さではなく、その知識を持つ「別の自分」の価値観の重さが。

  対話と交渉。

  基本的人権と公共の福祉、適正手続の保障。

  法の支配、自由主義と民主主義。

  国際法と集団安全保障。

  それらは美しかった。

  シンは、美しいと思った。

  自我が、素直にそう思った。

  本来そうあるべき世界の姿だと、確かに思った。

  ――だが。

  (この世界では、通用しない。絵空事だ。)

  自我が、冷たく断じた。

  ハンスは法を持っていた。

  神の法を。

  ローガンは自由を持っていた。

  他人を虐げる快楽を得る自由を。

  狂気という燃料とともに。

  ガザスは目的を持っていた。

  乾いた合理を。

  そしてそのために、無関係の人々の生存が断ち切られていた。

  対話で止まる連中は、――そこには一人としていなかった。

  「人道主義は、力の均衡があって初めて機能してきたというのが人類の歴史だ。」

  「別の自分」が教壇でそう言っていた。

  (……そうだ。そういうことだ。)

  二つの自我が、初めて一点で交わった。

  力がなければ、理想は紙だ。

  だが力だけなら、ハンスになる。

  では。

  (俺が持つべきは――)

  暗闇が、深くなった。

  教室が溶けた。

  「別の自分」の顔が、霧の中に消えていった。

  残ったのは、知識だけではなかった。

  葛藤だった。

  現世の二十年が積み上げた「不条理な世界と感情を殺すことへの習熟」と、前世が積み上げた「人間の尊厳への信仰、そしてそのためのシステムに関する知識」が、同じ肉体の中で向き合っている。

  どちらも、本物だった。

  どちらも、「俺」だった。

  それが、最も重かった。

  ――覚醒。

  瞼が重い。

  最初に届いたのは、匂いだった。

  湿った土と、煮出した薬草と、遠い焚き火の煙。

  それから、遠くで子供の泣く声。

  かすかな金属音。

  そして、生活の気配。

  次に、光だった。

  粗末な天幕の布越しに差し込む、淡い橙色。

  シンは目を開けた。

  視界の中に、一人の少女がいた。

  透きとおるような白い肌。

  金色の髪が、天幕の隙間から差す光を静かに受けていた。

  尖った耳。

  大きな瞳が、不安と安堵の狭間で揺れている。

  濡らした布で、シンの額を拭いていた手が、止まった。

  「……気がついた?」

  声は静かだった。

  だが、その静けさの中に、ひどく用心深い距離感があった。

  癒しを提供しながら、同時に相手を測っている。

  そういう種類の静けさ。

  (エルフ……か。)

  シンは確認するように、その耳を見た。

  人間ではない。

  その事実を、シンは奇妙に静かに受け止めた。

  そして次の瞬間、「別の自分」の記憶が一瞬だけ浮かんだ。

  (亜人――か。……待て。「差別という概念」という発想自体が、すでに――)

  シンは、自分の思考の異質さに、内側で一瞬だけ立ち止まった。

  二十年間、エルフやゴブリンは「亜人・魔族」だった。

  人間の敵。

  そういう価値観のもとで育ってきた。

  父の方針で自領ではかなりましだったが。

  だが今、「差別」という言葉が、当然のように頭に浮かんだ。

  どちらが「俺」だ。

  「……まだ動いちゃだめ。ひどい熱だったから。」

  少女の声が、その混濁を断ち切った。

  喉が焼けつくように乾いている。

  声を出そうとしたが、掠れた息しか漏れない。

  少女は慌てたように器を差し出した。

  「少しだけ、水を飲める?」

  シンは微かに頷いた。

  水が、喉を流れていく。

  冷たかった。

  生きているという感覚が、そこから戻ってくるようだった。

  「……ここはどこだ。」

  「ゴブリンの難民集落。エトセニアの山裾にある。」

  (難民……集落。秩序がある。組織がある。)

  外から聞こえてくる音は、喚声でも咆哮でもない。

  道具を整える音、子供をあやす声、煮炊きの気配。

  「なぜ、エルフがここにいる。」

  「私はセリナ=トゥーリメッサ。エルフの国ハルティメッツァから来た使節だったの。」

  「使節?」

  「ええ、でも帝国軍に襲撃されて仲間を全員失ったんだけど、ムパンギたちに助けられて、ここに保護されている。」

  隠さなかった。

  その簡潔さに、シンは少し目を細めた。

  (……測っているな。俺が情報をどう扱うか、見ている。)

  「そうか。」

  短く返した。

  沈黙が落ちた。

  互いの輪郭を確認し合うような、硬い空気。

  そこへ、天幕の布が勢いよく跳ね上がった。

  「セリナ、どう?人間のお兄さんの様子っ……て、あ!起きたんだね!」

  飛び込んできたのは、薄緑の肌の少女だった。

  丸い目。

  少しだけ小柄な体躯。

  ゴブリンの少女――ヒディが、シンの枕元まで駆け寄って、深々と頭を下げた。

  「助けてくれて、ありがとう!私、ヒディ。」

  まっすぐな声だった。

  計算も、警戒も、何も混じっていない。

  シンは、その声の質に、一瞬だけ返答を失った。

  感謝される理由が、自分でも曖昧だった。

  あの瞬間、何が自分を動かしたのか。

  反射か、習慣か、それとも――「別の自分」の染み込んだ何かか。

  そこへ、もう一人が入ってきた。

  白髪を束ね、深い皺を刻んだ顔の老婆。

  人間だった。

  だが、その眼差しには確かな知性が宿っていた。

  「目が覚めたかい。私はマリさ。よろしくね。」

  「……シンだ。」

  「良い名だね。」

  マリは手慣れた動作でシンの傷を診ながら、他愛もない世間話のように続けた。

  「私は昔、奴隷だったんだよ。逃げた先で助けてくれたのがゴブリンの男でね。その彼と結婚して、そしたらいつのまにか、息子がこの部族の首領になってた。」

  「エッヘン。」

  ヒディが誇らしげに胸を張った。

  「あたし、おばあちゃんの孫だよ。」

  シンは、その光景を見ていた。

  人間の老婆と、ゴブリンの孫娘と、エルフの外交使節が、同じ天幕の中にいる。

  粗末な布の中に、確かな生活がある。

  (……人間の村と、何も変わらない。)

  いや――

  頭の中で「別の自分」の記憶が、かすかに反応した。

  民族、文化、共存。

  そういった言葉が、音もなく浮かんでは消えた。

  マリが、ふとシンの顔をじっと見た。

  「……優しい顔してるね。」

  唐突だった。

  シンはわずかに眉を動かす。

  「でもね。」

  マリはしばらく、シンの奥を測るように見ていた。

  「優しい選び方ができない男だね。」

  言葉の意味が、すぐには解けなかった。

  セリナが、そっと視線を落とした。

  「でもシンはいい人だよ。」

  ヒディが即座に言った。

  「だって、私たちを助けてくれたから。」

  シンは何も返せなかった。

  自分が「いい人」かどうかは、わからなかった。

  ただ、この老婆の言葉の裏側に、見透かされている何かがある気がした。

  セリナは、そのやり取りを横で見ながら、静かに考えていた。

  (……この人間は、何かがおかしい。)

  軍人だという。

  それは体が証明している。

  傷の受け方、筋肉の質、戦闘後の冷静さ。

  だが、その目が――時々、ひどく場違いな光を帯びる。

  今もそうだ。

  マリの言葉を聞いた瞬間、この男の瞳に何かが走った。

  計算ではなく、混乱に近い何かが。

  (……軍人がそんな顔をするものかしら。)

  翌日、ムパンギが戻ってきた。

  ゴブリンとしては異例の体躯。

  シンより一回り大きい。

  鋼のような筋肉と、戦場で生き残った者だけが持つ風格。

  彼はどっかとシンの枕元に腰を下ろし、値踏みするような目を向けた。

  「ようやく目を覚ましたか。ムパンギ=カラニだ。よろしくな、シン。」

  「……おかげさまで。」

  「いや、こちらこそ子供たちを助けてもらったそうだな。ありがとう。」

  「……いや、……成り行きだ。気にするな。」

  「そうか、では単刀直入に聞こう。お前は何者だ。」

  「……帝国の将校だ。」

  「なんで将校様が怪我だらけで魔の森にいる。」

  「……命を狙われた。」

  「誰に。」

  「……『人間』どもだ。」

  ムパンギの後ろに控えていたアキンが、露骨に眉をひそめた。

  「内輪揉めかよ。裏切り者の人間なんか信用できるか。」

  シンはアキンを一瞥したが、何も言わなかった。

  その沈黙が、かえって場の緊張を深める。

  ムパンギが手を上げてアキンを制し、静かに続けた。

  「ところで。グレンツベルク辺境伯領が今、どうなってるか知ってるか。」

  シンの心臓が、一拍だけ跳ねた。だが、表情は動かなかった。

  「……知らん。」

  「そうか。」

  ムパンギは低く呟いた。

  「先ほど入った情報だが――辺境伯領は『浄化』されたらしい。神聖騎士団によって、辺境伯家は徹底的に粛清された。城も、街も、跡形もなく。」

  シンの視界が、一瞬白く染まった。

  「……そうか。」

  「さらに、辺境伯の嫡子がパルナークにいたが、粛清されたという話も聞いた。――だが、その嫡子が、すさまじい戦いぶりで逃げ延びた、といううわさもあってな。」

  ムパンギは、わざとらしく肩をすくめた。

  「この話については、どう思うかい?――ヴィンツェンツ・フォン・グレンツベルク卿。」

  天幕の中の空気が、凍りついた。

  シンはゆっくりと目を閉じ、再び開いた。

  「……わかっていて鎌をかけたのか。性格が悪いな。」

  ムパンギは豪快に笑った。

  「はっはっは。誉め言葉として受け取っておくぜ。」

  (……こいつら、……かなり情報に通じている。)

  そして、表情を変えた。

  「グレンツベルク辺境伯は、いい人間だった。俺たち亜人の盾になってくれてた。……冥福を祈る。」

  「……ああ。」

  短い沈黙の後、ムパンギは立ち上がった。

  「少し休め、シン。復讐を考えるにしても、まずその体を戻さなきゃ話にならん。アキン、客人にスープを運んでやれ。泥水じゃ、戦士の喉は潤せない。」

  ムパンギは不敵に笑い、天幕を出ていった。

  残されたのは、静寂だった。

  シンは目を閉じた。

  胸の奥で、二つの声がまだぶつかり合っていた。

  現世の自我が言う――復讐だ。

  力を蓄えて、ハンスを、教会を、帝国を打倒する。

  前世の記憶が言う――それは感情だ。

  構造を変えなければ、同じことが繰り返される。

  力だけでは、次のハンスが、神聖騎士団が生まれる。

  (どちらが正しい。)

  答えは出なかった。

  だが――一つだけ、確かなことがあった。

  (ここからだ。)

  人間に裁かれた男が、魔物の集落で目を覚ました。

  それが何を意味するのか、まだわからない。

  だが、動くしかない。

  立ち止まれば死ぬ。

  それだけは、二つの自我が珍しく一致していた。

  セリナは、その横顔を静かに見ていた。

  (……この人は、何かと戦っている。敵とだけじゃなく。)

  言語化できなかった。だが、その確信だけは、鮮明だった。

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