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水の中には、音がない。
あるのは圧力だけだ。
四方から押しつぶす冷たい質量。
肺の中の空気が、悲鳴のように細くなっていく。
上がどこか、下がどこか、もうわからない。
濁流は方向を持たない暴力だった。
地形でも気候でもなく、ただ「力」だけがある。
シンは、それを理解していた。
奇妙な話だ。
死にかけているのに、頭の中は動いている。
(……川幅、流速、水温。この水量は雪解け由来だ。本流に合流する前に浅瀬に出る可能性がある。左岸か、右岸か――。)
岩が肩を打った。
骨が軋む。
視界が赤く染まる。
それでも計算は止まらない。
止めるという選択肢が、この男の中には存在しなかった。
そして、唐突に――
別の「何か」が、頭蓋の内側に流れ込んできた。
映像だった。
音だった。
匂いだった。
蛍光灯の白い光。
チョークが黒板を引っ掻く音。
紙とインクの、清潔で無機質な匂い。
(……なんだ、これは。)
知らない部屋。
知らない光景。
なのに、「知っている」という確信だけがある。
薄いガラス窓の向こうに、灰色の空。
遠くで電車の音。
――平和だ。
その一言だけが、全身の細胞に染み込むように響いた。
平和。
そんなものが、どこかに存在していた。
あるいは、存在している。
あるいは、かつて――
「国際政治の本質は、均衡の維持だ。力の空白を埋める作業とも言い換えられる。」
誰かの声。
教壇に立つ、痩せた男。
その男の顔が――どこか自分に似ていた。
(俺……か?)
濁流が体を回転させる。
岩が背中を殴る。
それでも映像は止まらない。
古い地図。
赤い矢印。
数字と数字の衝突。
戦列歩兵の進軍路。
補給線の脆弱点。
包囲殲滅の定石。
宗教戦争の構造。
民族紛争の必然。
冷戦の均衡原理。
頭の中に、何かが降り積もっていく。
だが同時に――
カイルの喉を矢が貫く光景が重なる。
泥の上に転がった小さな手首が重なる。
神の名を掲げて整然と人を殺す白い騎馬隊が重なる。
その「別の自分」の記憶の中には、そんな光景はなかった。
そこでは暴力は、数字と歴史や資料の中にしかなかった。
清潔な教室の中で、戦争は「学ぶもの」だった。
もう一人の自分は「戦争」を教えていた。
直接「体験した」ことも、「見た」ことすらないにもかかわらず。
(……ふざけるな。)
どちらへの怒りなのか、自分でもわからなかった。
水面が見えた。
光だった。
シンは、本能だけで腕を伸ばした。
岸は、泥だった。
這い上がる、という動作を完遂したのか。
それとも流れ着いただけなのか。
もう判別できなかった。
全身が鉛になっていた。
左肩が動かない。
右太ももからは、まだ何かが流れ続けている。
シンは、仰向けのまま空を見た。
木々の梢が揺れている。
葉の隙間から、灰色の光が差している。
帝国の空とは、色が違った。
境界を越えたのだと、その差異だけが教えてくれた。
(……『魔の森』、か。)
帝国の辺境伯領と魔族の領域を隔てる、人間が足を踏み入れない禁域。
ここで死ぬなら、誰も見つけない。
誰も埋めない。
ただ土に還るだけだ。
それが、どこか――清潔に思えた。
シンは目を閉じた。
一秒だけ。
そして、立ち上がった。
膝が震えた。
視界が揺れた。
それを意志で黙らせて、木の幹に手をついて体を起こす。
まず呼吸。
次に止血。
次に状況把握。
手順だけが、体を動かしていた。
帯を腿に縛る。
傷口を圧迫する。
左肩は脱臼ではない、深手だが腱は生きている。
大剣は――失った。
濁流の底だ。
腰の剣だけが残っている。
(装備喪失。重傷。単独。敵地。)
条件を並べると、生存確率は話にならなかった。
だから、並べるのをやめた。
歩く。
それだけだ。
悲鳴が聞こえたのは、それから間もなくだった。
風上から。
三十メートルほど先の茂みの向こう。
シンの体は、考えるより先に動いていた。
思考が追いつく前に、足が方向を選んでいた。
茂みを割って覗いた先に、地獄の縮小版があった。
林の縁。
粗末な短剣を持つ小柄な影が二つ、五人組の男たちに追い詰められている。
薄緑色の肌。
尖った耳。
比較的小柄な体躯。
ゴブリンだ。
兄と思しき方が妹を背に庇い、兄妹そろって血の滲む腕で短剣を構えている。
妹も泣いていない。ただ男たちを睨みつけながら短剣を構えて静かに震えていた。
男たちは急いでいなかった。
「金目の物は全部はぎとれ。てえしたもんは持ってないだろうがよ。」
「この小汚い小鬼どもは、生かして持って帰ったら売れるかねえ。」
「物好きがいれば。メスの方は……まあ。いけるか?」
「先に遊ぶのも悪くねえ。少しくらいは楽しめるだろ。オスの方は殺すか?」
笑いながら話し合っている。
選別している。
値踏みしている。まるで市場の品定めのように。
シンの脳裏に、一瞬だけあの映像が重なった。
教室の中の「別の自分」が、数字の羅列として処理してきたものの実体が、目の前にある。歴史書の中の「略奪・暴行」が、今、この瞬間に進行している。
それは奇妙な感覚だった。
怒りではなかった。
義憤でもなかった。
ただ――
(また、これか。)
という、乾いた疲弊。
(……そう、これが、『俺たちの世界』の『現実』だったな。)
シンは立ち上がった。
足元が揺れた。
それでも腰の剣を抜いて、構えた。
「消えろ。」
死人の声だった。
男たちが振り向く。
血まみれの、満身創痍の男がそこに立っていた。
「……誰だ、お前。」
その一瞬の隙。
シンは正々堂々と間合いを詰めるのではない。
最初から、背中を見せていた一人目の首を、背後から無音で断ち切っていた。
「なっ――」
二人目の顔面を切っ先で突く。
右太ももの傷が弾け、激痛で視界が激しく明滅した。
(――痛覚を殺せ。肉体をただ、動かせ。)
三人目が悲鳴を上げる前に袈裟に入れ、四人目の剣を自分の左肩の肉で受け止めながら、強引にその腹を割いた。
五人目が腰を抜かして命乞いの形に口を開いた。
言葉が出るより早く、刃がその首を断ち切った。
五つの死体が、順番に地面へ沈んでいった。
シンの膝が、そこで折れた。
大剣ではなく剣だった。
失血のせいで力が入らなかった。
それでも、なぜ動いたのか、自分でも答えが出なかった。
世界が傾いた。
木も、空も、血の匂いも、全部が黒い靄に溶けていく。
遠くで、声がした。
「……アキン、この人……。」
「近寄るなヒディ!人間だぞ!起きたら俺たちが殺される。今のうちに――」
「でも助けてくれたよ。恩人を見捨てるの?」
「お前、何言って――」
「それに、怪我だらけだって。このまんまじゃやばいよ。とりあえず連れて帰ろう。村に。」
声が遠くなる。
小さな手が、シンの肩に触れた。
その温度だけが、暗闇に沈む前の最後の感覚だった。
――昏睡。
暗闇の中に、「別の自分」がいた。
シンは、それを認識していた。
夢だとわかっていた。
それでも抗えなかった。
教室が広がっている。
蛍光灯。
黒板。
チョークの粉が空気に漂っている。
教壇に立つ男は、自分に似ていた。
だが似ていない。
眼鏡をかけている。
肩が薄い。
戦場の空気を一度も吸ったことがない体をしている。
その男が、淡々と話している。
「平和とは戦争の不在ではない。秩序による管理が成立した状態だ。抑止力の均衡が崩れた瞬間、人は暴力に還る。これは人間の本性ではなく、システムの問題だ。」
学生たちがノートを取っている。
シンには、その顔が見えない。
(……呑気なものだ。)
現世の自我が、呟いた。
システムの問題。
では、神の名を掲げて整然と人を殺す連中は、システムの失敗か。
ならば、そのシステムを設計した神とは何だ。
教室が揺れた。
地図が広がった。
古い羊皮紙ではなく、印刷されたカラフルで精密な知らない世界の地図。
国境線が引かれ、色分けされ、数値が並んでいる。
「勢力均衡論。覇権安定論。相互確証破壊。これらは全て、暴力を制御するための理論だ。もちろん完璧ではない。だが、無秩序よりはましなのだ。」
(無秩序よりはましだ――。)
その言葉が、体の中で反響した。
ハンスの顔が重なった。
秩序があった。
あの男には確かに、完璧な秩序があった。
神の名という絶対の根拠と、粛清という明快な手段と、揺るぎない確信。
あれは「秩序」だった。
だが。
(あれが秩序ならば、俺は何を守ろうとしていた。)
教室が揺れた。
今度は経営学の教室になった。
「組織の失敗は多くの場合、情報の非対称性と誘因の歪みに起因する。」
地政学の講義に変わる。
ずいぶんと色々担当していたらしい。
「地形は政治を規定する。山脈は民族を隔て、河川は交易路を生む。これを無視した戦略は、必ず地形に復讐される。」
戦史の資料が開いた。
ナポレオンのロシア遠征。
補給線の崩壊。
世界大戦の塹壕戦。
消耗の数学。
冷戦の代理戦争。
イデオロギーという名の代替暴力。
数字が、数字が、数字が――――シンは、その濁流を全身で受けた。
溺れるようだった。
これだけの知識が、これだけの「別の経験」が、一度に流れ込んでくる。
(……重い。)
重かった。
知識の重さではなく、その知識を持つ「別の自分」の価値観の重さが。
対話と交渉。
基本的人権と公共の福祉、適正手続の保障。
法の支配、自由主義と民主主義。
国際法と集団安全保障。
それらは美しかった。
シンは、美しいと思った。
自我が、素直にそう思った。
本来そうあるべき世界の姿だと、確かに思った。
――だが。
(この世界では、通用しない。絵空事だ。)
自我が、冷たく断じた。
ハンスは法を持っていた。
神の法を。
ローガンは自由を持っていた。
他人を虐げる快楽を得る自由を。
狂気という燃料とともに。
ガザスは目的を持っていた。
乾いた合理を。
そしてそのために、無関係の人々の生存が断ち切られていた。
対話で止まる連中は、――そこには一人としていなかった。
「人道主義は、力の均衡があって初めて機能してきたというのが人類の歴史だ。」
「別の自分」が教壇でそう言っていた。
(……そうだ。そういうことだ。)
二つの自我が、初めて一点で交わった。
力がなければ、理想は紙だ。
だが力だけなら、ハンスになる。
では。
(俺が持つべきは――)
暗闇が、深くなった。
教室が溶けた。
「別の自分」の顔が、霧の中に消えていった。
残ったのは、知識だけではなかった。
葛藤だった。
現世の二十年が積み上げた「不条理な世界と感情を殺すことへの習熟」と、前世が積み上げた「人間の尊厳への信仰、そしてそのためのシステムに関する知識」が、同じ肉体の中で向き合っている。
どちらも、本物だった。
どちらも、「俺」だった。
それが、最も重かった。
――覚醒。
瞼が重い。
最初に届いたのは、匂いだった。
湿った土と、煮出した薬草と、遠い焚き火の煙。
それから、遠くで子供の泣く声。
かすかな金属音。
そして、生活の気配。
次に、光だった。
粗末な天幕の布越しに差し込む、淡い橙色。
シンは目を開けた。
視界の中に、一人の少女がいた。
透きとおるような白い肌。
金色の髪が、天幕の隙間から差す光を静かに受けていた。
尖った耳。
大きな瞳が、不安と安堵の狭間で揺れている。
濡らした布で、シンの額を拭いていた手が、止まった。
「……気がついた?」
声は静かだった。
だが、その静けさの中に、ひどく用心深い距離感があった。
癒しを提供しながら、同時に相手を測っている。
そういう種類の静けさ。
(エルフ……か。)
シンは確認するように、その耳を見た。
人間ではない。
その事実を、シンは奇妙に静かに受け止めた。
そして次の瞬間、「別の自分」の記憶が一瞬だけ浮かんだ。
(亜人――か。……待て。「差別という概念」という発想自体が、すでに――)
シンは、自分の思考の異質さに、内側で一瞬だけ立ち止まった。
二十年間、エルフやゴブリンは「亜人・魔族」だった。
人間の敵。
そういう価値観のもとで育ってきた。
父の方針で自領ではかなりましだったが。
だが今、「差別」という言葉が、当然のように頭に浮かんだ。
どちらが「俺」だ。
「……まだ動いちゃだめ。ひどい熱だったから。」
少女の声が、その混濁を断ち切った。
喉が焼けつくように乾いている。
声を出そうとしたが、掠れた息しか漏れない。
少女は慌てたように器を差し出した。
「少しだけ、水を飲める?」
シンは微かに頷いた。
水が、喉を流れていく。
冷たかった。
生きているという感覚が、そこから戻ってくるようだった。
「……ここはどこだ。」
「ゴブリンの難民集落。エトセニアの山裾にある。」
(難民……集落。秩序がある。組織がある。)
外から聞こえてくる音は、喚声でも咆哮でもない。
道具を整える音、子供をあやす声、煮炊きの気配。
「なぜ、エルフがここにいる。」
「私はセリナ=トゥーリメッサ。エルフの国ハルティメッツァから来た使節だったの。」
「使節?」
「ええ、でも帝国軍に襲撃されて仲間を全員失ったんだけど、ムパンギたちに助けられて、ここに保護されている。」
隠さなかった。
その簡潔さに、シンは少し目を細めた。
(……測っているな。俺が情報をどう扱うか、見ている。)
「そうか。」
短く返した。
沈黙が落ちた。
互いの輪郭を確認し合うような、硬い空気。
そこへ、天幕の布が勢いよく跳ね上がった。
「セリナ、どう?人間のお兄さんの様子っ……て、あ!起きたんだね!」
飛び込んできたのは、薄緑の肌の少女だった。
丸い目。
少しだけ小柄な体躯。
ゴブリンの少女――ヒディが、シンの枕元まで駆け寄って、深々と頭を下げた。
「助けてくれて、ありがとう!私、ヒディ。」
まっすぐな声だった。
計算も、警戒も、何も混じっていない。
シンは、その声の質に、一瞬だけ返答を失った。
感謝される理由が、自分でも曖昧だった。
あの瞬間、何が自分を動かしたのか。
反射か、習慣か、それとも――「別の自分」の染み込んだ何かか。
そこへ、もう一人が入ってきた。
白髪を束ね、深い皺を刻んだ顔の老婆。
人間だった。
だが、その眼差しには確かな知性が宿っていた。
「目が覚めたかい。私はマリさ。よろしくね。」
「……シンだ。」
「良い名だね。」
マリは手慣れた動作でシンの傷を診ながら、他愛もない世間話のように続けた。
「私は昔、奴隷だったんだよ。逃げた先で助けてくれたのがゴブリンの男でね。その彼と結婚して、そしたらいつのまにか、息子がこの部族の首領になってた。」
「エッヘン。」
ヒディが誇らしげに胸を張った。
「あたし、おばあちゃんの孫だよ。」
シンは、その光景を見ていた。
人間の老婆と、ゴブリンの孫娘と、エルフの外交使節が、同じ天幕の中にいる。
粗末な布の中に、確かな生活がある。
(……人間の村と、何も変わらない。)
いや――
頭の中で「別の自分」の記憶が、かすかに反応した。
民族、文化、共存。
そういった言葉が、音もなく浮かんでは消えた。
マリが、ふとシンの顔をじっと見た。
「……優しい顔してるね。」
唐突だった。
シンはわずかに眉を動かす。
「でもね。」
マリはしばらく、シンの奥を測るように見ていた。
「優しい選び方ができない男だね。」
言葉の意味が、すぐには解けなかった。
セリナが、そっと視線を落とした。
「でもシンはいい人だよ。」
ヒディが即座に言った。
「だって、私たちを助けてくれたから。」
シンは何も返せなかった。
自分が「いい人」かどうかは、わからなかった。
ただ、この老婆の言葉の裏側に、見透かされている何かがある気がした。
セリナは、そのやり取りを横で見ながら、静かに考えていた。
(……この人間は、何かがおかしい。)
軍人だという。
それは体が証明している。
傷の受け方、筋肉の質、戦闘後の冷静さ。
だが、その目が――時々、ひどく場違いな光を帯びる。
今もそうだ。
マリの言葉を聞いた瞬間、この男の瞳に何かが走った。
計算ではなく、混乱に近い何かが。
(……軍人がそんな顔をするものかしら。)
翌日、ムパンギが戻ってきた。
ゴブリンとしては異例の体躯。
シンより一回り大きい。
鋼のような筋肉と、戦場で生き残った者だけが持つ風格。
彼はどっかとシンの枕元に腰を下ろし、値踏みするような目を向けた。
「ようやく目を覚ましたか。ムパンギ=カラニだ。よろしくな、シン。」
「……おかげさまで。」
「いや、こちらこそ子供たちを助けてもらったそうだな。ありがとう。」
「……いや、……成り行きだ。気にするな。」
「そうか、では単刀直入に聞こう。お前は何者だ。」
「……帝国の将校だ。」
「なんで将校様が怪我だらけで魔の森にいる。」
「……命を狙われた。」
「誰に。」
「……『人間』どもだ。」
ムパンギの後ろに控えていたアキンが、露骨に眉をひそめた。
「内輪揉めかよ。裏切り者の人間なんか信用できるか。」
シンはアキンを一瞥したが、何も言わなかった。
その沈黙が、かえって場の緊張を深める。
ムパンギが手を上げてアキンを制し、静かに続けた。
「ところで。グレンツベルク辺境伯領が今、どうなってるか知ってるか。」
シンの心臓が、一拍だけ跳ねた。だが、表情は動かなかった。
「……知らん。」
「そうか。」
ムパンギは低く呟いた。
「先ほど入った情報だが――辺境伯領は『浄化』されたらしい。神聖騎士団によって、辺境伯家は徹底的に粛清された。城も、街も、跡形もなく。」
シンの視界が、一瞬白く染まった。
「……そうか。」
「さらに、辺境伯の嫡子がパルナークにいたが、粛清されたという話も聞いた。――だが、その嫡子が、すさまじい戦いぶりで逃げ延びた、といううわさもあってな。」
ムパンギは、わざとらしく肩をすくめた。
「この話については、どう思うかい?――ヴィンツェンツ・フォン・グレンツベルク卿。」
天幕の中の空気が、凍りついた。
シンはゆっくりと目を閉じ、再び開いた。
「……わかっていて鎌をかけたのか。性格が悪いな。」
ムパンギは豪快に笑った。
「はっはっは。誉め言葉として受け取っておくぜ。」
(……こいつら、……かなり情報に通じている。)
そして、表情を変えた。
「グレンツベルク辺境伯は、いい人間だった。俺たち亜人の盾になってくれてた。……冥福を祈る。」
「……ああ。」
短い沈黙の後、ムパンギは立ち上がった。
「少し休め、シン。復讐を考えるにしても、まずその体を戻さなきゃ話にならん。アキン、客人にスープを運んでやれ。泥水じゃ、戦士の喉は潤せない。」
ムパンギは不敵に笑い、天幕を出ていった。
残されたのは、静寂だった。
シンは目を閉じた。
胸の奥で、二つの声がまだぶつかり合っていた。
現世の自我が言う――復讐だ。
力を蓄えて、ハンスを、教会を、帝国を打倒する。
前世の記憶が言う――それは感情だ。
構造を変えなければ、同じことが繰り返される。
力だけでは、次のハンスが、神聖騎士団が生まれる。
(どちらが正しい。)
答えは出なかった。
だが――一つだけ、確かなことがあった。
(ここからだ。)
人間に裁かれた男が、魔物の集落で目を覚ました。
それが何を意味するのか、まだわからない。
だが、動くしかない。
立ち止まれば死ぬ。
それだけは、二つの自我が珍しく一致していた。
セリナは、その横顔を静かに見ていた。
(……この人は、何かと戦っている。敵とだけじゃなく。)
言語化できなかった。だが、その確信だけは、鮮明だった。
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