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二日目の夜明けに、帝国軍が動いた。
いつもと違った。
シンは城壁の上から、その動きを見た瞬間に――気づいた。
(……変えてきたな。)
昨日までの攻撃は、正面からの圧力だった。
荷馬車の陣地を試し、パイク兵の壁を試し、弓の射程を確認する。
全て「探り」だった。
だが今朝の動きは――違う。
北西の城壁に向かって、歩兵の主力が動いている。
正面ではなく、斜めから。
(……北西だ。)
シンは、城壁の構造を頭の中で展開した。
ジェレズナーフラトの城壁は、基本的に堅固だ。
だが――北西の角に、一点だけ弱点がある。
城壁が川の屈曲に沿って建設されたため、その角だけ防御の死角が生まれている。
(……見抜かれた。)
シンが声を上げようとした瞬間、北西から轟音が響いた。
攻城槌だった。
ドワーフの石壁が、その一点に集中した衝撃を受けて――軋んだ。
「北西を補強しろ!アキン、荷馬車を北西へ回せ!」
「わかった!」
だが、遅かった。
二撃目の轟音。
三撃目。
石壁に、亀裂が走る。
「――破られる!」
アレシュの声が、城壁に響いた。
四撃目の衝撃が、来た。
石壁が、爆発するように砕けた。
粉塵が、朝の光の中に白く広がった。
その向こうから――帝国軍の精鋭が、波のように押し寄せてきた。
通常の帝国軍ではない。
装備が違う。
動きが違う。
全員が同じ訓練を受けた、一つの意志で動く集団だ。
(……ジッテンホルトの直属だ。)
「セリナ、ヒディ、アスラ――来い。市街地に入る。」
「アキンたちは?」
「荷馬車の陣地を維持させる。外の戦力を釘付けにする。中は――俺たちがやる。」
セリナが、弓を持ち直した。
小盾を左腕に固定する。
腰のレイピアを確認する。
ヒディが、両の短剣を抜いた。
その目が――いつもと違った。
丸い瞳の奥に、嵐の前の空気が満ちている。
「行こう。」
ヒディの声は、静かだった。
市街地に入った瞬間、地獄が広がっていた。
石畳の通りに、ドワーフの市民が逃げ惑っている。
老人が転ぶ。
子供が泣く。
帝国軍の精鋭が、その間を縫って進んでいく。
一人の帝国兵が、逃げるドワーフの老人に追いついた。
ヒディが、間に合った。
一刀が、帝国兵の剣腕を断つ。
もう一刀が、その喉を断つ。
着地。
振り返らない。
次の標的へ。
だが――老人の隣に、小さな影が倒れていた。
子供だった。
動かない。
ヒディの足が、一瞬だけ止まった。
その子供の顔を、見た。
見てしまった。
何かが――ヒディの中で、音を立てて壊れた。
それからのヒディは――別の存在になった。
二刀が、閃光のように走る。
「うわーっ!」
帝国兵の一人が、気づいた時には両腕を失っていた。
「ぎゃっ!」
二人目が、振り向く前に喉を断たれる。
三人目が剣を構える。
「ゴブリンに、やられるなんて……。うわっ!」
間に合わない。
速い。
ただただ、速い。
体が低い。
死角から来る。
躱せない。
止められない。
怒りで動いているのではない。
怒りはもう、言葉にならない場所まで落ちていた。
ただ、止めなければならない。
これ以上、誰かが倒れるのを——
「ヒディ!」
セリナの声。
ヒディは、止まらなかった。
「ヒディ、まって!深追いしちゃダメ!」
止まらない。
五人目。
六人目。
七人目。
シンは、その隣で――何も言わなかった。
ただ、ヒディを追う。
大剣が唸る。
ヒディの短剣が閃く。
二人が、市街地を縦横に駆ける。
セリナが、背後から弓で援護する。
アスラが、別の通りで暴れている。
シャムシールが、朝の光の中で銀と紅の弧を描く。
数多の帝国兵の鮮血を浴びながら、『紅月の閃光』が舞う。
市街地全体が、戦場になっていた。
通りの角で、シンは立ち止まった。
前方の一団の中心にいる男が――違った。
引き締まった体躯。
装飾を排した鎧。
その動きに、無駄がない。
男は、シンを見た。
シンも、男を見た。
一瞬だけ――時間が止まった。
近くで兵の剣が、交わった。
一合。
金属が噛み合う音が、市街地に響いた。
(……やはり、この男は、――別格だ。)
力ではない。
技ではない。
その剣の中に、戦場全体を俯瞰している何かがある。
男も――何かを理解した目をしていた。
確認するように、シンを見た。
次の瞬間、周囲の状況が動いた。
アスラのビースト隊が別の通りから突入してきた。
男は――シンから目を離した。
部下に命じながら、後退し始めた。
引き際を、知っている。
シンは、その背中を見た。
追わなかった。
(……また、会う。)
その確信だけが、静かに残った。
市街地の奥で、ヒディはまだ戦っていた。
十人目、十一人目、十二人目。
体が限界を超えている。
腕が痺れている。
足が震えている。
それでも――止まらない。
石畳の上に、また誰かが倒れた。
ドワーフの女だった。
若い。
工房で働いていたような、鍛えた手をしている。
その手が、石畳を掴もうとして――力を失った。
「……っ!」
ヒディの喉から、声にならない何かが出た。
十三人目の帝国兵が、ヒディに向かって突進してきた。
ヒディは躱さなかった。
正面から受けた。
盾で押し込まれる。
膝をつく。
「ヒディ!」
セリナが駆け寄った。
レイピアで帝国兵を処理する。
セリナは、ヒディの肩を掴んだ。
「あなたが死んだら、守れる人が減る。」
「……でも。」
「わかってる。」
セリナは、ヒディの額に手を当てた。
「でも、今は――私の隣にいて。」
ヒディは、目を閉じる。
それから――開く。
火は、まだある。
だが、方向が定まっていた。
「……わかった。」
ドワーフの市民たちは――逃げなかった。
屋根の上から、石を投げた。
窓から、熱湯を浴びせた。
路地の角から、工具を武器にして帝国兵に向かっていった。
職人の街だった。
自分たちが作ったものを、守る。
その意地が、市街地を戦場に変えていた。
南から、神聖騎士団が突入してきたのは昼前だった。
エシュトの声が、背後から飛んだ。
「南から神聖騎士団、五百。」
シンは、地図を頭の中で展開した。
北西からジッテンホルトの精鋭。
南から神聖騎士団。
挟まれる。
「ムパンギは。」
「着陣の知らせが――今、届きました。首都郊外に到着しました。」
シンは、目を閉じた。
一秒。
「エシュト。ムパンギに伝えろ。北から全力で突入。荷馬車の陣地と合流して、帝国北方軍を挟撃する。南門をわざと落とさせて、神聖騎士団を誘い込んでから奪還し包囲する。」
「……神聖騎士団を誘い込む?」
「城内に入れてから、出口を塞ぐ。おそらく総攻撃で有利に立っていると錯覚しているはずだ。奴らは必ず突入してくる。」
「わかった。」
エシュトが、石畳を蹴って駆けていった。
ムパンギの援軍が、北から現れた。
ゴブリンの軽装歩兵。
ビーストの後続部隊。
その数――千を超える。
長い間、追い込まれ続けてきた者たちの怒りが、その動きに凝縮していた。
戦意ではない。殺意だった。
「かかれ!一人残らず殺し尽くせ!」
ムパンギの咆哮が、平原に響いた。
アキンのパイク兵が前進する。
ムパンギのゴブリン軍が側面から殺到する。
フォルトフューラーの本軍が――崩れ始めた。
城内では、南門が開かれた。
神聖騎士団が市街地に入った瞬間、南門にドワーフ軍が殺到し、これを塞ぐ。
城壁の上から、弩の矢が一斉に降り注ぐ。
包囲だった。
完全な包囲。
神聖騎士団が、初めて――退路を失った。
アスラたちビースト軍が『獲物』に襲いかかる。
そしてヒディも、神聖騎士団の一団に突入した。
二刀が、白い外套の中を駆け抜ける。
一人、また一人、また一人。
止まらない。
人の形をしているが、その動きは――計算でも本能でもなく、止めなければならないという、一点の意志だけで動いていた。
セリナが、その周囲を守りながら弓を引いていた。
ヒディが深追いしすぎると、前に出て盾になる。
言葉はない。
だが――連携していた。
神聖騎士団の指揮官ルドルフ・ハーゲンは、包囲された状況を――冷静に見ていた。
表情は、変わらない。
紳士的な顔のまま、周囲が崩れていく。
「神よ……、これもあなたの思し召しであると……。」
その言葉が、終わらなかった。
ヒディの短剣が、その言葉を遮ったからだ。
ルドルフは、驚いた顔をした。
それが、最後の表情だった。
城壁の外では、ジッテンホルトが退却命令を出した。
「フォルトフューラー閣下。退きますぞ。」
「なぜだ!まだ戦えるではないか!」
「このまま戦えば、本軍が全滅します。」
「しかし、これではわしの面子が――!」
「フォルト!優先すべきは己の面子より、将兵の命だろうが!」
フォルトフューラーは、顔を真っ赤にした。それでも――
「……退け。」
絞り出すような声だった。
帝国軍が、退き始めた。
夕暮れが、ジェレズナーフラドを赤く染める。
平原の果てに、帝国軍の最後の旗が消えていった。
ジッテンホルトは、退却しながら――ただ一度だけ振り返った。
城壁の上に、黒髪の男が立っている。
遠い。
顔は見えない。
(……間違いない。……グレンツベルク辺境伯の息子。)
あの父の隣にいた、まだ十代の黒髪の少年が――今、亜人の軍を率いて帝国に刃を向けている。
(……報告すれば、神聖騎士団が動く。)
その思考を――ほんの一瞬だけ持った。
そして、捨てた。
(……まだ、確証がない。)
言い訳だと、自分でわかっていた。
だが――それでいい。
今は、それでいい。
平原の風が、冷たかった。
戦場に、静寂が戻った。
夕暮れの光が、石畳の上に斜めに差している。
その光の中に、死体が多数、散らばっていた。
帝国軍の死体。
神聖騎士団の死体。
そして――ドワーフの市民の死体も。
血の匂いが、夕暮れの空気に染み込んでいた。
シンは、その中に立っていた。
大剣を手に、動かなかった。
誰も近づかなかった。
ムパンギも。
アキンも。
アスラも。
全員が――何かを察して、距離を置いていた。
シンは、石畳を見ていた。
市街地で見た光景が、頭の中で繰り返されている。
倒れた子供。
力を失った女の手。
老人の背中。
数えることができなかった。
今日――初めて、数えることができなかった。
(……俺は。)
何かを、考えようとした。
現世の自我が、応じなかった。
前世の記憶も、応じなかった。
両方が――沈黙していた。
二つの声が同時に黙っている。
その静けさが、シンには――怖かった。
頭痛もない。
怒りもない。
悲しみもない。
ただ、何もなかった。
(……軽い。)
このままでいい、と――思った。
考えれば、壊れる。
だから――考えない。
……それで、よかった。
楽だった。
大剣が、手から離れた。
石畳に、重い音を立てて落ちた。
シンは、その場に膝をついた。
なぜそうしたのか、わからなかった。
膝が折れただけかもしれない。
石畳が、冷たかった。
夕暮れの光が、傾いていく。
(……俺は、何のために。)
答えがでてこなかった。
カイルは、もういない。
領地は、もうない。
家は、もうない。
家族も、幼馴染の友人たちも、気のいい領民たちも――
父が言っていた言葉が、浮かび上がる。
「強くなれ。でなければ、守れぬ。」
守れなかった。
今日も、守れなかった人たちがいた。
間に合わなかった命があった。
それでも戦い続けた。
これからも戦い続ける。
かつて敵だった者たちを守りながら、かつて仲間だった者たちを殺す。
だが――なぜか。
なぜ、戦い続けなければならないのか。
いつまで、どこまで、殺し続けねばならないのか。
答えが、でてこなかった。
石畳に、シンの手がついた。
体が、傾いていく。
それに気づかなかった。
その時。
温かさが来た。
背中から。
細い腕が、シンの背中に回された。
声はなかった。
言葉もなかった。
ただ、セリナの体温だけが、シンの背中に触れていた。
金色の髪が、シンの肩に落ちる。
その柔らかさが――石畳の冷たさと鮮烈に対照していた。
シンは動かない。
セリナも動かない。
夕暮れの光が、二人の上を、静かに流れてゆく。
どれくらいの時間が経ったのか、わからなかった。
シンの口から言葉が出た。
自分でも、気づかないうちに。
「……わからない。」
セリナは、答えなかった。
「俺が、何をしているのか。何のために動いているのか。」
答えない。
「……今日、守れなかった人がいた。」
答えない。
「数えることも、できなかった。名前も、知らない。」
答えない。
ただ、腕の力が――少しだけ、強くなった。
「……俺は、おかしいのか。」
セリナは、ゆっくりと離れ、シンの前に回った。
膝をついて、シンと同じ高さで、向き合った。
その目が――シンを見ていた。
揺るぎなかった。
怖れていない。
哀れんでいない。
ただ、見ていた。
「おかしくない。」
静かな声だった。
「おかしくない。ただ――」
セリナは、シンの頬に手を当てた。
その手が、冷たい石畳の温度を持っていた。
いや、シンの頬が熱すぎた。
「……疲れているだけ。」
「……疲れで、……わからなくなるもんなのか。」
「なる。」
即答だった。
「人って、そういうものよ。」
「俺は――」
「人よ。あなたは。」
その言葉が――シンの中の、何かに触れた。
人。
そうだ。
俺は、人間だ。
二つの自我と価値観を持つ、奇妙な人間だ。
だが――人間だ。
「……セリナ。」
「なに。」
「お前は、なぜ――」
言葉が、続かなかった。
なぜここにいる。
なぜ離れない。
――なぜ、こんな男の隣に。
全部、聞けなかった。
セリナは、その問いが言葉になる前に――シンの額に、自分の額を当てた。
静かな接触だった。
戦場の死臭の中で、二人の額が触れていた。
夕暮れの光が、さらに傾いた。
石畳の上の影が、長くなっていく。
「……シン。」
「ああ。」
「今は、もう――何もかも、全部忘れて。」
「……できない。」
「忘れても、明日には、いやでも思い出す。」
「……。」
「でも、今夜だけは――」
セリナの声が、少しだけ揺れた。
「私の――傍にいて。」
シンは、目を閉じた。
石畳の冷たさと、セリナの体温が、同時にあった。
しばらく、そうしていた。
それから――シンは、セリナの手を、握った。
戦場で何度も人を断ち切った手が、その細い指を、静かに包む。
セリナは、その手の感触を受け取った。
そして、――目を閉じる。
シンは、セリナの手を包んだまま、ゆっくりと顔を上げた。
夕暮れの光が、彼女の横顔を淡く縁取っている。
その静けさの中で、シンは――迷いなく、セリナの唇にそっと口づけた。
触れた瞬間、セリナの呼吸がわずかに揺れた。
逃げなかった。
ただ、受け止める。
長くはない。
だが、短くもなかった。
二人の間にあったものが、静かに形を持つまでの時間だけ、
シンはその口づけを続けた。
ゆっくりと離れる。
二人の視線が、夕暮れの影の中で重なる。
言葉はなかった。
言葉よりも確かな何かが、互いの目の奥にあった。
セリナが、そっとシンの頬に触れた。
その指先が、震えていなかった。
そして――彼女の方から、もう一度、静かに口づけた。
今度は、ためらいはなかった。
石畳の冷たさも、戦場の血の匂いも、
その瞬間だけは世界の外側にあった。
夜が来た。
戦場に残った松明の光が、石畳の上の影を揺らしていた。
二人がいるのは、廃墟の陰。
言葉は、もうなかった。
言葉が必要な段階は、とうに過ぎていた。
セリナの金色の髪が、松明の光を受けて揺れる。
その白い肌が、夜の闇の中で、光るように見えた。
シンは、その頬に触れた。
陶器のような滑らかさ。
だが、温かかった。
生きている温かさだった。
セリナは目を閉じなかった。
シンを正面から見ている。
その目には、静かな覚悟があった。
そして――もっと深い場所に決意がある。
この人の傍にいる。
どこへ向かうのかわからなくても。
どれだけ血に塗れようとも。
どれだけ、共に堕ちていこうとも。
何があろうと、――この人の、傍にいる。
それだけが、今の自分の答えだった。
「……セリナ。」
「なに。」
「……怖くは、……ないか。」
「怖い。」
即答だった。
「でも、――それでも、もう離れない。」
夜が、深くなった。
松明の光が揺れている。
石畳の上の二つの影が、溶けるように重なっていった。
それから――
世界は、静かになった。
夜明け前、空が白み始めた。
セリナは、目を覚ました。
シンが、隣で眠っている。
いつの間にか、その顔が――穏やかだった。
昨夜までの、張り詰めた硬さが、どこかへ行っていた。
ただの、――何も知らない顔だった。
セリナは、しばらくその顔を見ていた。
それから、指先で――シンの黒髪を、静かになでた。
一度。
また一度。
眠りを乱さないように、ゆっくりと。
シンは、目を覚まさなかった。
セリナは立ち上がった。
敷地の外へ出る。
朝の空気が、冷たかった。
戦場だった場所に、夜明けの光が差し始めていた。
石畳の上の血が、光の中で黒く乾いている。
セリナは、その光景を見た。
目を逸らさなかった。
昨夜、死んだ人たちがいた。
守れなかった人たちがいた。
今日も、明日も、そのような日になるかもしれない。
それでも――
空に、鳥が飛んでいた。
一羽。
また一羽。
朝の光の中を、自由に。
どこへでも行けるように。
セリナは、その鳥を、しばらく目で追っていた。
風が吹いた。
金色の髪が、朝の光の中に揺れた。
その横顔に――表情はなかった。
喜びでも、悲しみでも、不安でもない。
ただ、空を見ていた。
鳥が、遠くなっていく。
そして、光の中に溶けるように消えていった。
セリナは、それを最後まで目で追った。
それから――
静かに、廃墟の陰へ戻っていった。
シンが、眠っていた。
セリナは、その隣に静かに座った。
空が、明るくなっていく。
――新しい一日が、静かに始まる。
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